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アストラ倶楽部

『アストラクラブ 輝かしき80年の歴史』(アストラ倶楽部,1998)のp.101に「暁星学園サッカー部部員名簿(平成9年11月現在)」があり、<高等学校サッカー部>の1年に前田遼一の名があります。前田もディンの系譜に繋がる一人といえないこともない・・ そういえばジュビロのショート・パス・サッカーこそ、ディンや竹腰が目指したサッカーの完成形といえるかもしれません。

アストラ倶楽部は東京蹴球団と一緒に「東京都社会人サッカー連盟 2部2ブロック」でリーグ戦を戦っています。
→ http://homepage3.nifty.com/tsl/ (ココログってどやってリンク張るのかな?)
9月26日現在、12チーム中、東京蹴球団4位、アストラ倶楽部8位です。

第1回と第3回の全日本選手権(現在の天皇杯)を制した古豪同士が年内に対決するはずです。

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ショート・パス戦法とポゼッション・サッカー

「チョウ・ディン関係資料集」に竹腰重丸『サッカー』(旺文社,1956)から「ショート・パス戦法」を加えました。ディンのコーチングがいかに斬新だったかを、コーチを受けた側からの視点から、以下の文章で余すところなく伝えています。

 “大正十一年(一九二二年)の秋、山口高等学校で筆者もはじめて同氏の指導を受けたが、ペナルティー・エリア線付近からのキックで、十回中に六、七回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘッディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、 サッカーは考えることができるスポーツであることを知ったことであった。

 それまでのサッカー練習では円陣を作って蹴り、ドリブルをし、ゴール・シュートの練習をしてのち、練習試合をするといった、単に前から行われていた練習方法をまねるに過ぎないもので、バーを越すシュートをすれば「下げて、下げて」と主将なり先輩にどなられるだけであり、なぜバーを越したかまたどうすれば上がらないですんだかを反省し、くふうすることははなはだまれであったといっても過言ではなかった。それが同氏の指導を機として「精神力と慣れ」のサッカーから、フォームやタイミングなどと照らし合わせて原因・結果を追求する科学性を加えた練習方が進歩したので、種々の技術が飛躍的に向上していったわけである。”

竹腰はまた、次のように指摘しています。

 “ショート・パス戦法は、その名の示すように短いパスが多く用いられたのであるが、それは表面に現れた形からみたところで、その内面にある基本的な作戦-意図-は、冒険的に突進するよりも確実にボールを保持して進み、一定線に達してのち、鋭く最後の突込みを行うという考え方であった。「中盤(ミッド・フィールド)作戦」と最後の「寄せ」ということばが、サッカー用語として現れたのも、このショート・パス戦法(英国でいうクローズ・パッシング・ゲーム Close passing game に相当)時代にはいってからである。”

 “正確なパスを交えて、確実にボールを保持するというこの戦法の基本的な考え方を成功させるためには、試合の運び方や戦術的な動き、あるいはそれを可能にする基礎技術に幾多の改良を要する点があったので、この戦法に移ってのちは急速にゲームの分析が進んだ。”

ディンから伝授されたショート・パス“戦法”を、“確実にボールを保持するというこの戦法の基本的な考え方”すなわちボール・ポゼッション(ボール支配)という“戦略”に昇華させることができた、という点が日本サッカー史を考える上で極めて重要なことではないでしょうか。

『サッカー批評』24号に掲載された後藤健生氏の「この国のサッカーのかたち」がこの点にはっきりと言及してなかったのに、チョット不満がのこりました。


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「左様なら 親しいフットボラーに」

チョウ・ディンの帰国挨拶文「「左様なら 親しいフットボラーに」『運動界』5巻5号(1924年5月)p.88-89  をアップしました。どうということはない文章ですが、

1.ディンは、帰国の挨拶文がスポーツ総合誌『運動界』にわざわ掲載される存在だった。
2.“遥か離れたビルマから早高、アストラ、御影はじめ日本蹴球ティームの成功を祈ります。”とあり、多くのチームをコーチしたが、とりわけこの3チームに思い入れがあったようだ。

ことがわかります。

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チョウ・ディンの歴史的役割

ディンの「勝敗を断ずる三原則 優勝者アストラは斯の特長を有して居た」『運動界』5巻3号(1924年3月)をアップしました。

明治期に東京高等師範学校で始まったサッカーは、まずその卒業生の赴任先である師範学校、中学校に普及します。本格的に普及したのは学校の絶対数が増えた大正時代(第一次世界大戦後)の1910年代末から1920年代にかけてです。それらの中学校卒業生が(旧制)高校、さらに大学(高校も大学もこの時代に大幅増設された)に進学した1920年代に高校、大学でサッカーが始まります。このあたりの詳細は本サイト「ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー」をご覧ください。

従って、サッカーの大会、リーグ戦は中学校、高校、大学の順に始まります。
1918年 中学校の「日本フートボール大会」(大阪毎日新聞主催 現在の高校選手権の前身)が大阪で、「関東蹴球大会」(東京蹴球団主催)が東京で始まる
1921年 大日本蹴球協会結成 全日本選手権(現在の天皇杯の前身)始まる
1923年 (旧制)高校の全国高校選手権(インターハイ)始まる
1924年 関東、関西で大学リーグ戦始まる

ディンは早稲田高等学院(早稲田大学の予科、すなわち高校相当課程)コーチとして1923年、24年のインターハイを連覇、アストラ倶楽部(暁星中学のOBチーム)コーチとして1924年全日本選手権を制覇しています。大毎と東京蹴球団主催の中学大会は当時は関西、関東の地方大会で、東西大学1位対抗戦が未だ行われていなかった当時、サッカーの2大全国大会を異なるチームで僅かの間に制覇しています。

ディンが活躍した1920年代前半は、上級学校に進学した中学校卒業生が、東京高師OBの教える従来のサッカーよりもう一段上の戦術やそれに必要な基礎技術を求めていた時代だったといえます。ディンにコーチング法やその内容については、竹腰重丸がその著書に具体的に記述していますので、「チョウ・ディン資料集」にそれも採録しようと思っています。

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チョウ・ディン関係資料集

全文紹介コーナーに「チョウ・ディン関係資料集」をアップしました。

第1弾は、豊島梢著「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」『運動界』誌4巻9号(1923年9月)p.127-129、です。今後、『運動界』に掲載されたチョウ・ディン著「勝敗を断ずる三原則 優勝者アストラは斯の特長を有して居た」(1924年3月号)、「左様なら 親しいフットボラーに」(1924年5月号)の掲載を予定しています。

「勝敗を断ずる・・・」の著者肩書きはアストラ、クラブコーチア。ディンはアストラのコーチもしていて、第3回全日本選手権(1924年度 現在の天皇杯)で優勝を飾っています。『アストラクラブ 輝かしき80年の歴史』(アストラ倶楽部,1998)中の「第1回座談会<戦前編・大正から昭和20年まで>」で渡辺良吉氏(1929年卒)が、

“私が中学のころ、チョーデインという外人、ビルマ人でしたがアストラでサッカーを教えてもらいました。30歳ぐらいでしたが、はだしでボールを蹴り、インサイドステップのシュートはものすごかった。
 それから帝国大学に竹腰さんという方がいて、この2人が全国を回って教えていた。アストラと帝国大学と試合をしたけれど、竹腰さんはとにかく上手でした。”(p.79-80)

という発言をなさっています。これが唯一ディンに言及している部分で、 ディンの写真などはありませんでした。

「怖い蹴球・・・」によれば、ディンは第一次大戦従軍経験者(エジプト・メソポタミヤ戦線なので、アラビアのロレンスと同じ戦場)で、“ビルマの強いのはどうしたら強い英国ティームを破る事が出来るかと本当に其ればかり研究して居るからで「蹴球の柔術」といったものは本当に進んで居ます。英人とビルマ人は身体に差があるから斯うしたものを考へたのです。”と述べています。ショートパス戦術でなく、“柔術”なんですね(笑)

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『湘南サッカー半世紀を経て 岩淵二郎追悼記念』

『湘南サッカー半世紀を経て 岩淵二郎追悼記念』(湘南サッカー部OB会,1981)の全文HP http://www.shonan-soccer.com/shonan_obkai/pages/kinensi/mokuji.html があることを知らせてくれた方がいらっしゃいましたので、解題書誌ファイルからリンクを張っておきました。原本は藤沢市立図書館が所蔵していることはわかっているのですが。現都知事氏もたしかOBのはずですが、投稿はないようです。

湘南中(現湘南高)も志太中(現藤枝東)、刈谷中(現刈谷高)、東京府立五中(現小石川高)、大連中などと同様第一次大戦後の新設校(1921年創立)、東京高師OB後藤基胤が部長として指導。

初代校長は野球を禁止し、蹴球を校技にしたそうですが、夏の甲子園で優勝旗の“箱根越え”を果したのは湘南高校だったはず。そういえば、今年の高校野球は駒大苫小牧が優勝して一気に津軽海峡越え、典型的なサマースポーツの野球も地域格差がなくなりつつあるようです。

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