東京高師のデ・ハビランド氏
日本のサッカーのルーツ校、東京高等師範学校に正式のサッカーを伝えたというデ・ハビランド氏がオスカー女優姉妹の父親だった、というメールをいただきました。
札幌大学名誉教授、柴田勗(つとむ)著 黎明期・北海道のフットボールの胎動-伝道師役を果たした2人のデ・ハビランドの謎- 『比較文化論叢』 no.12 2003 p.1-24
に記されています。明治時代には姓しか記述しないことが多かったので、デ・ハビランド氏の事跡が混乱していたのですが、実は2人いてしかも兄弟だったことを明らかにしたものです。柴田氏は『ブラジルサッカー総覧 : ブラジルサッカーの歴史から用語まで 』(河出書房新社,2001)の著者でもあります。
サッカーに関係したのは弟の方で、フルネームはWalter Augustus de Havilland、1872年8月31日生、1968年5月20日没。メキシコ五輪の年まで生存されていたようです。東京高師に在籍していたのは1904(明治37)年~1906(明治39)年です。当サイトで全文を紹介した内野台嶺著『蹴球思ひ出話』『体育と競技』誌11巻12号(1932年12月)p.128-131 には氏のことが全然出てこないです。内野は明治38年に入学しているのですが。
氏をフルネームでググルと、氏の伝記情報を含む以下のサイトがありました。
http://www3.telus.net/public/swright2/who.html
http://pages.infinit.net/steven/abcofgo.htm
デ・ハビランドというフランス人的な姓はノルマン・コンクェストでウィリアム征服王に従って渡英した家系でチャンネル諸島の名家のようです。10人兄弟の末、名門パブリック・スクールのハローからケンブリッジに進学しています。ウィンストン・チャーチルは2歳下のはずですが、ハローでチャーチルとサッカーしたかどうかはさだかではありません(笑)。イギリスの軍用機メーカーにデ・ハビランド社(第2次大戦の名機モスキートで著名)というのがありますが、創業者は親戚にあたるそうです。
上記2番目のサイトでは、彼の娘ジョーン・フォンテーンはその自伝で"My father placed the index finger of his left hand on the mouth of the Thames, his right index finger at the same latitude on the opposite side of the globe. He found that he was pointing to Hokkaido, a remote island in the Sea of Japan..." と父親が言っていたように書かれてますが、兄が先に函館にいたのでそれを頼ったようです。函館は東経180度ではないし・・。聖職者として辛気臭い一生を送るのが嫌でイギリスを飛び出したようです。
早稲田でも教鞭をとったようです、同僚の妹と最初の結婚をして、オリビア・デ・ハビランド(『女相続人』と『遥かなる我が子』でアカデミー主演女優賞受賞、『風と共に去りぬ』のメラニー役)、ジョーン・フォンテーン(『断崖』でアカデミー主演女優賞受賞)姉妹が生まれます。上記サイトによれば、彼の伝記情報はもっぱらジョーン・フォンテーンの自伝『No bed of roses』(William Morrow, 1978 邦訳なし? 日本ゆかりの人だから邦訳が出ててもおかしくないが)に負うところが大きいようです。
国会図書館の蔵書に、
『Short stories for composition and conversation』(Sanseido, 1905)
『Laws and rules relating to copy-right, patents, designs, and trade-marks』(1908)
『The ABC of Go; : the national war-game of Japan』(Kelly & Walsh, 1910)
の3著作があります。日本における知財権のパイオニア、囲碁を世界に紹介した人物でもあるようです。
日本人のハウスキーパーと再婚し(娘たちには嫌われた)、晩年はバンクーバーで過ごしたようです。


Comments
1873年のダグラス少佐によるサッカー伝授説は神話で、彼の経歴を振り返ると、その時のフットボールはラグビーだったとの説があります。その点、翌年にライメル・ジョ-ンズが学生にサッカーを教えたのは確かなので、こちらが本邦初のサッカーかもしれません。
しかし、JFAは英国海軍神話に取り付かれてジョーンズ氏を無視していますが、彼に関する記事はないのですかね。
Posted by: 藤大納言 | July 03, 2005 at 05:27 PM
北政巳 工部大学都検ヘンリー・ダイヤー 『ザ・ヤトイ : お雇い外国人の総合的研究』
(思文閣出版,1987)p.292-313に以下の記述があります。
“当初、工部大学校の予科で数学を教え、のち本科の機械・測量学インストラクターに
移籍したジョーンズ(R.O.R. Jones)はケルヴィン卿の知己の土木技師の息子であった。”(p.303)
p.299には以下の記述もあります。
“またダイアーは全人的教育を訴え、「本校ノ目的タルヤ徒ニ読書ヲスル学生ヲ養成スルニ
在ズ」とし、スポーツを奨励した。彼自身が日本人に初めてフットボールを教えた先駆者である
ことも有名であるが、明治11年の学則には体操科目に競走・競漕・水泳など12種目、余暇
科目にゴルフ、ラグビー、フットボールなど14種目をとり入れた。そのような全人的教育を
通じて、ダイアーは工部大学生に「エンジニアは真の革命家であり、有益な市民となり、同胞の
物質的・精神的福祉を向上させる人となる」ことを求めた。”
Henry Dyer(1848-1918)はグラスゴー生まれ、働きながらアンダーソン・カレッジの夜学に
学び、グラスゴー大学に進学し、大学における工学教育を受けた最初の世代となります。
工部大学校都検(英語ではprincipalだから校長)になったのは24歳。従って、ジョーンズも
同じくらいの年齢だったのではないでしょうか。Dyerは工学教育史の重要人物なので、
ググッてみれば日英のサイトをみつけることができますが、ジョーンズがどんな人だったのか
よくわかりません。『御雇外国人一覧』(中外堂,1872)に測量技術教官助役として
掲載されている人物と思われます。
↓
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=84002481&VOL_NUM=00000&KOMA=30&ITYPE=0
工部大学校の教授陣はDyerを中心とするスコットランド人で、Jonesもその一人です。1842年
生まれで14歳でイギリス海軍に入ったDouglasがアソシエーション・ルールが生まれた時期には
海上勤務していたのですが、1863年当時Dyerは工場で徒弟をしていた15歳です。
いずれにせよ、アソシエーション・ルール成立に関わったパブリック・スクール出身者とはかなり
距離があります。
海軍兵学寮にせよ工部大学校にせよ、時期的、人脈的にみて、厳密なアソシエーション・ルールで
フットボールをしていたかは疑問に感じます。1860年代から70年代にかけてスコットランド
のサッカー普及状況(スコットランド協会の成立は1873年)も調べてみる必要があるのでは
ないかと思います。
Posted by: 蹴球閑人 | July 04, 2005 at 05:52 PM
ご無沙汰しております。武藤でございまず。
大変僭越ながら、トラックバックを飛ばさせていただきました。このエントリには本当に感動しました。デ・ハビランド氏、メラニー、そして柴田先生。
うまい日本語にならないのですが、何か歴史と言うものの凄みを感じました。
Posted by: 武藤 | July 07, 2005 at 02:01 AM