広島一中の校史
『広島一中国泰寺高百年史』(母校創立百周年記念事業会,1977)p.293-294 に以下の記述があります。
“一八年頃で、蹴球と縁のあるのは、似島にいた外国兵士捕虜との交流である。この捕虜とのことについて、「日本サッカーのあゆみ」から
引用する。
第一次大戦のとき、似島にあったドイツ兵捕虜収容所のチームが、剣付鉄砲の護衛つきで、広島高師のグラ ンドへ来て、高師、一中、 師範などと試合をしている。捕虜となったドイツ人はみな青島守備隊にいた人たち で、収容所では唯一の楽しみ・訓練として、 フットボールが許されていたのである。スコアは0-5、0-8、0- 6などと相当な開きが記録されているが、護衛下の親睦気分で なかったら、スコアはもっともっと大きく開いた だろうといわれている。パスはよく通り、タッチラインから外へは出さず、見ていて も大いに役に立てたものと思 われる。 (大正8年ごろ)
このドイツ捕虜のすばらしい蹴球を見て、ちょうど、「蟷螂(カマキリ)の斧で戦争に向かうがごとし」と驚いた広島高師の主将田中敬孝(大5卒)は、毎日曜日似島に渡り、捕虜から本場のプレーを習っては部員に伝え、夏休みには神戸一中、姫路一中、御影師範、八幡商業などへコーチに行った。似島ではドイツ式のサッカーを、とくに一軍のキャプテンのグランサーから習得した。捕虜チームはカイゼルヒゲをつけた海軍の精鋭で、ユニフォームもツートンカラー、広島高師は白い体操着に近いいでたちで、どっちが捕虜か、わかりにくかった。似島のドイツ式サッカー術は西日本一円にひろがったのである。「今日はだれでも知っているヒールキックも、捕虜がはじめて見せてくれた技術で、みんな、たまげたものです。ヒールキープ、サイドキックもそうでした。似島の収容所は、バラックにかいこだなのベッドだったが、羽目板にゴールデンバットの空き箱を壁紙のようにはりつめていたのを覚えています。」(朝日新聞昭和50年6月25日、新風土記、広島県「少年の島」<サッカー>)
田中敬孝は本校でも蹴球をやっていたが、広島高師に進み、本校で部監の岡部教師が転任したので、その後任として高師卒業後、本校の教諭兼部監となり、やがて全国優勝へ導いたのである。そして男子ばかり五人の子供もみなサッカー選手というサッカー一家の親でもある。・・”
田中敬孝は第4代JFA会長野津謙(一高、東大)と広島一中で同期です。“キャプテン会長”(単なる名誉職ではない会長という意味。現川淵氏も多分野津氏を意識しているのでは)とよばれた野津の最大の功績は西ドイツからクラマー氏を招聘したことです。ドイツ人捕虜と交流したのは野津の卒業後ですが、不思議な因縁を感じます。
広島一中でサッカーが始まったのは弘瀬時治校長時代ですが、この人は東京高師OB、やはりイートンの賛美者で、当時の野球過熱に反感をもっていたそうです。