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広島一中の校史

『広島一中国泰寺高百年史』(母校創立百周年記念事業会,1977)p.293-294 に以下の記述があります。

“一八年頃で、蹴球と縁のあるのは、似島にいた外国兵士捕虜との交流である。この捕虜とのことについて、「日本サッカーのあゆみ」から
引用する。

  第一次大戦のとき、似島にあったドイツ兵捕虜収容所のチームが、剣付鉄砲の護衛つきで、広島高師のグラ  ンドへ来て、高師、一中、 師範などと試合をしている。捕虜となったドイツ人はみな青島守備隊にいた人たち  で、収容所では唯一の楽しみ・訓練として、 フットボールが許されていたのである。スコアは0-5、0-8、0- 6などと相当な開きが記録されているが、護衛下の親睦気分で なかったら、スコアはもっともっと大きく開いた  だろうといわれている。パスはよく通り、タッチラインから外へは出さず、見ていて も大いに役に立てたものと思 われる。     (大正8年ごろ)

 このドイツ捕虜のすばらしい蹴球を見て、ちょうど、「蟷螂(カマキリ)の斧で戦争に向かうがごとし」と驚いた広島高師の主将田中敬孝(大5卒)は、毎日曜日似島に渡り、捕虜から本場のプレーを習っては部員に伝え、夏休みには神戸一中、姫路一中、御影師範、八幡商業などへコーチに行った。似島ではドイツ式のサッカーを、とくに一軍のキャプテンのグランサーから習得した。捕虜チームはカイゼルヒゲをつけた海軍の精鋭で、ユニフォームもツートンカラー、広島高師は白い体操着に近いいでたちで、どっちが捕虜か、わかりにくかった。似島のドイツ式サッカー術は西日本一円にひろがったのである。「今日はだれでも知っているヒールキックも、捕虜がはじめて見せてくれた技術で、みんな、たまげたものです。ヒールキープ、サイドキックもそうでした。似島の収容所は、バラックにかいこだなのベッドだったが、羽目板にゴールデンバットの空き箱を壁紙のようにはりつめていたのを覚えています。」(朝日新聞昭和50年6月25日、新風土記、広島県「少年の島」<サッカー>)

 田中敬孝は本校でも蹴球をやっていたが、広島高師に進み、本校で部監の岡部教師が転任したので、その後任として高師卒業後、本校の教諭兼部監となり、やがて全国優勝へ導いたのである。そして男子ばかり五人の子供もみなサッカー選手というサッカー一家の親でもある。・・”

田中敬孝は第4代JFA会長野津謙(一高、東大)と広島一中で同期です。“キャプテン会長”(単なる名誉職ではない会長という意味。現川淵氏も多分野津氏を意識しているのでは)とよばれた野津の最大の功績は西ドイツからクラマー氏を招聘したことです。ドイツ人捕虜と交流したのは野津の卒業後ですが、不思議な因縁を感じます。

広島一中でサッカーが始まったのは弘瀬時治校長時代ですが、この人は東京高師OB、やはりイートンの賛美者で、当時の野球過熱に反感をもっていたそうです。

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新田純興氏が『サッカー』誌に寄稿した記事

新田純興「日本のサッカーに貢献した在日外国人の紹介(一)」『サッカー』no.56 1966.3 p.12-16 における工部大学校と海軍兵学寮に関する記述は以下のとおり。

“1 ライメル・ジョンズ

 明治七年、赤坂の工学寮の教師として来任したイギリス人で、この人が日本に初めてフットボール(当時はフートボールという方が多かった)を紹介し、導入したと、いろいろのものに書かれてきた。

 工学寮というのは今の東京大学工学部の前身であるから、技術系の学者であったことには間違いあるまいが、土木であったのか、電気であったのか、専門とした科目は判らないし、フットボールも、どの程度指導したのか、今のところ、全く判っていない。

 ところが、東京オリンピック大会が近づいたころになると、報道関係者が、盛んに外国スポーツの日本に伝わった年代や経路を調べて、新聞、ラジオなどを通してPRされた。その一つに

2 ダグラス海軍少佐(準艦長)

 なる人が、ライメル・ジョンズよりも一年前の明治六年に、浜離宮付近から木挽町へかけて設置された海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)の教師として来任、訓練の余暇のレクリエーションとして、三十三人の部下とともにフットボールを教えたことが明らかになった。ダグラス少佐は翌年には帰英したが、その帰国に先だって我が国ではじめての運動会をやらせた。また、その競技種目の名称が、とても面白いものであったと賑かに報道された。

 これについては、日本体育協会の五十年史編集に当られた記録の権威者広瀬謙三氏が、間違いない史実だと
いっておられるので、当協会の正史も、ダグラス少佐が明治六年に、築地でフットボールを行なったのが最初であると、訂正しなければならない。

 兵学寮では、海軍一般の教養を身につけさせたのであるから、航海術、大砲取扱方、甲板活動、陸戦動作など一連の必須科目の中に、体操もあったろうし、三十三人の部下が居たとすれば、フットボールの試合をまずイギリス人だけで、実際にやってみせることもできたに違いない。その練習ぶりや、ゲームをみた日本人の指導者階級では、何の抵抗もなく「フットボールというものはイギリス人のやる蹴鞠(けまり)だ」と受け取った。

 中大兄皇子と鎌足の話に始まって、日本の歴史のなかには蹴鞠というものが脉々といきていた。しかも、大衆の側からは、いつも強いあこがれの的であったということが、幕末から明治にかけて活動していた人々の頭にも、ハッキリ残っていたから、すぐに蹴鞠だとして受け取られたのであって、漢字を使っている国々、たとえば支那(中国)越南(ベトナム)などでは、フットボールという文字からこれを「足球」と翻訳したのとは、事情を異にしているものだと思う。日本には久しきにわたる深い伝統、文化的伝統があったため、文字からの翻訳でなく、みた眼からこれを「蹴鞠」と受取ったのである。

 それが後に(明治三十七年以降か)鞠の字を球にかえて「蹴球」となって昭和に及んだが、大戦後に強化された漢字制限の関係から、蹴という字は読めない、書けないといったクレームがついて、学生間の俗語として発生し、今では愛称ともいうべき「サッカー」の方が知れわたって来たという言葉の変遷史も、ダグラス少佐等の事績から判ってきたのであった。ダグラス少佐から指導を受けた人たちは、艦上生活に進んでいったし、少佐の滞日期間も、一年余という短い期間であった関係から、この門弟の手で、フットボールがあとあとへ尾を引かなかったのは、残念であった。”(p.12-13)

広瀬謙三は大正時代からのスポーツ記者でサッカー関係の記事も書いていますが、「スコアラーの神様」として野球の殿堂入りしています。たぶん、東京五輪時に日本における西洋スポーツの起源が話題になり、兵学寮関係の文献記録がクローズアップされたものと思われます。「3」がデ・ハビランドで、ここから後は新田氏が新帯国太郎氏から直接きいた話や関係文献が明示されているので、どうも新田氏は工部大学校と兵学寮におけるフットボールの文献的根拠を把握しないでこれを書いたようです。

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秋山陽一「フットボールの憂鬱」を読んで

先週来、海軍兵学寮と工部大学校における日本“フットボール”の起源に関する文献を紹介してきましたが、実は秋山陽一「フットボールの憂鬱」『ラグビー・サバイバー』(双葉社,2003)p.203-238 は未読で、昨日初めて読みました。従って、先週来当日誌に書いたものは秋山氏の書いたものをふまえたものではありません。

秋山氏は実に詳しく文献調査をしています。海軍兵学寮と工部大学校に関する公刊史料は限られていることもあって、沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)や『旧工部大学校史料・同附録』(青史社,1978)』など私と同じ文献から引用されています。

同じ文献から異なる見解が引き出されているわけですが、具体的にどこが異なるのか述べておきましょう。

1.引用箇所

秋山氏の著作p.212に“澤鑑之丞の別の著書「海軍兵学寮」でも、午後に毎日砲術訓練が取り入れられた当初、生徒たちは身体が大いに疲労を感じたが、後には次第に活気を増し愉快に外業を学ぶようになったと述べている。”とあり、澤(沢)の『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)を読んだことが記されています。

この本の明治7年の部分に“また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。”という一行があり(p.248-250のうちのどこか)、1874年当時の在籍者が“フットボール(蹴球)”をしていたとの「証言」があるのですが、不思議なことに(笑)秋山氏はこの部分に言及していません。

秋山氏は、

“日本では、明治から大正時代にかけてア式とラ式といういい方で2つのフットボールを区別してきたが、昭和に入ると、ア式は蹴球を名乗り、一方は単にラグビーとなった。”(p.206)

とも述べています。1942(昭和17)年に出版された『海軍兵学寮』に“「フットボール」(蹴球)”と記されていて、“「フットボール」(ラグビー)”でないのは、秋山氏の説に従えば、海軍兵学寮はサッカーをしていたことになってしまいます。これは秋山氏のオウン・ゴール・・(笑)。

2.兵学寮の在籍者構成と競技の性格

秋山氏はまた、“武士階級の出身者で占められた生徒たちはフィジカル面でかなり劣っていた。”(p.212)とも記しています。この一文は1873年に来日した教師団がその年にいきなりフットボールをやらせたのではなく、運動場を整備した1874年以降のことであろう、という文脈の中にあります。

しかし、どちらのフットボールを生徒にやらせたかを考察する上で、生徒の“フィジカル面”は重要なポイントになると思われます。

7/13付け当日誌に記したように、

a) 生徒に幼年のものがかなりいた。加藤友三郎(日露戦争時の連合艦隊参謀長、後海相、首相)は1861年生まれ、1873年12歳で入寮している。
b) イギリス人教師団が来日するまでは座学が中心で病弱なものが多くいた。
c) しかも、生徒全員球技は初心者である。

という点で、生徒にはラグビーよりサッカーのほうがふさわしいと私は考えるのですが、西村氏の視点にはこの点からの考察が欠けているように思われます。

 また、西村氏のあげている文献的根拠では、兵学寮がラグビーをやっていたとするにはちょっと無理があるとも思いました。

 

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日本で初めてサッカーをした「可能性」のある人々-工部大学校篇

帝国海軍最大の栄光、日露戦争時に海軍の要職をしめた兵学寮OBに較べて、工部大学校OBがいささか地味目なのはしかたのないところ。

『工部省沿革報告』(大蔵省,1889)のp.975-978に工部大学校第1回~7回卒業生の「卒業生徒姓名及学科等級表」が掲載されています。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40020744&VOL_NUM=00000&KOMA=509&ITYPE=0

第1回に東京駅を設計した辰野金吾、東宮御所や迎賓館(赤坂離宮)を設計した片山東熊、慶応義塾図書館を設計した曽根達蔵(造家科)、タカジアスターゼの高峰譲吉(化学科)、第3回に「電気の父」佐藤市助(電信科)、第5回に琵琶湖疎水の田辺朔郎(土木科)などの名がみえます。こうしてみると「作品」が後世に残った建築、土木出身の人は得かもしれません。

海軍兵学寮にせよ工部大学校にせよ著名人を輩出しているので、それらの人々の伝記や回想録などをあたることができれば、またなにか別の“証拠”を見つけることができるかもしれません。

新コラム「日本におけるサッカーの伝来に関する一考察」に着手しました。

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/colum8.htm

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日本で初めてサッカーをした「可能性」のある人々-海軍篇

ここ数日当日誌で紹介してきたように、日本で最初にサッカーをしたのは海軍兵学寮か工部大学校に所属していた人たち、ということになります。

ダグラス在籍時の海軍兵学寮に在籍していた著名人としては、山本権兵衛(2期 日露戦争時の海相 後首相(2回))、斎藤実(6期 日露戦争時の海軍次官 後海相 首相)、加藤友三郎(7期 日露戦争時の連合艦隊参謀長 後海相 首相)の総理大臣経験者3人、さらに日高壮之丞(2期)、片岡七郎(3期)、上村彦之丞(4期 日露戦争時の海軍軍務局長)、出羽重遠(5期)、伊集院五郎(5期 日露戦争時軍令部次長)、三須宗太郎(5期 日露戦争時の海軍人事局長)、島村速雄(7期)などの海軍大将たちがいます。日露戦争時の省部、軍令部、連合艦隊の要職をしめ、政治家としても日本のトップに登りつめた人たちです。

→ http://homepage2.nifty.com/nishidah/p_xcx01.htm

山本権兵衛は1852年生まれ、1870年兵学寮入寮、加藤友三郎は1861年生まれ、1873年入寮。
加藤は12歳で兵学寮に入ってます。随分歳の違う人が学んでいたわけですね。

いないのは東郷平八郎と秋山真之だけ(笑)。 

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アーロン収容所

海軍兵学寮や工部大学校に招聘された御雇外国人(英国人)たちがスポーツを奨励したという文献を読んでいて、会田雄次著『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』(中央公論社,1962)を思い出しました。京大で西洋史を専攻した会田はビルマ戦線に兵卒として出征、英国軍の捕虜となり、捕虜というユニークな視点から英国社会を観察しています。サブタイトルのとおり、“西欧ヒューマニズム”は人種、階級の枠内のものに過ぎないことを、数々の“実例”をあげて指摘しています。

英国社会の階級差に関して、英国軍の軍装に大きな階級差はなかったにもかかわらず、遠くからでも一瞥できたと述べています。その理由は、「青白きインテリはいない」の節で以下のように述べられています。

“しかし私たちが一見して士官と兵とを区別できたというのはそのことからでない。それは、体格、とくに身長である。五尺七寸余(一・七五メートル)の私より背の高いのは下士官や兵ではすくない。五尺四寸くらいのものがすくなくないのである。しかし士官は、大部分が六尺以上もあると思われる大男で、私より低いものはほとんどいなかったのである。

 体格も下士官や兵には見事なものは多くない。かえって貧弱だなあと思うような男もすくなくなかった。しかし士官は老人以外はほとんどが堂々たる体躯で私たちを圧倒した。・・・”(p.104)

“士官と兵隊が一対一で争うとする。たちまちにして兵は打倒されてしまうだろう。剣やピストルをとっても同じことと思われる。士官たちは学校で激しいスポーツの訓練をうけている。フェンシング、ボクシング、レスリング、ラグビー、ボート、乗馬、それらのいくつか、あるいは一つに熟達していない士官はむしろ例外であろう。そして下士官、兵でそれらに熟達しているものはむしろ例外であろう。士官の行動ははるかに敏捷できびきびしているのである。

 考えてみれば当然である。かれらは市民革命を遂行した市民[ブルジョア]の後裔である。この市民たちは自ら武器をとり、武士階級と戦ってその権力をうばったのだ。共同して戦ったプロレタリアは圧倒的な数を持っていたが、そのあとかれらが反抗するようになると市民たちは力で粉砕し、それを抑えてきたのである。私たちはこの市民の支配を組織や欺瞞教育などによると考えて、この肉体的な力のあったことを知らなかった。

「なるほど、プロレタリアは団結しなければ勝てないはずだ」

 これは労働運動をやっていた一戦友のもらした冗談でもあり、本音でもあった。”(p.106-107)

海軍士官は水兵に対して、エンジニアは職工に対して、知識教養、物腰、言葉遣いだけでなく、イイモノ食って体鍛えて体格や“腕っ節”においても絶対優位に立たなければならない、というのが英国流エリート教育に隠された意図なのです。

大正時代にサッカーを奨励した教育者は知育、徳育、体育の調和した英国のパブリック・スクールを範と考えていたようですが、その背後にある“陰険なる意図”を理解できなくて当然でしょう。現在でもある種の“誤解”があるのでは・・

http://www.toyota-shokki.co.jp/news/release/2004/eton/

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日本におけるサッカーの伝来

先日来の当日誌で紹介したとおり、海軍兵学寮説は沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)に、
工部大学校説は旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(虎之門会,1931)に記載があります。
工部大学校の方は、公式資料である『工部大学校学課並諸規則』(明治18年4月改正)にも「フートボール」に
関する記述がありました。ともに1874(明治7)年に行われたようです。

『旧工部大学校史料』を復刻した『旧工部大学校史料・同附録』(青史社,1978)の「附録」の部分に
同校OBの回想があり、アソシエーション式であったという“証言”があります。

では、海軍兵学寮はどうだったんでしょうか?

私は海軍兵学寮もラグビーではなく、アソシエーション式すなわちサッカーだったのではないかと思います。その理由は、

1.最初にやる球技としては、ルールの複雑なラグビーより単純なサッカーがふさわしい。
2.1874年3月21日に同校が開催した「競闘遊戯」の種目をみると、

第一 十五歳以下ノ生徒三百「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事
第二 十五歳以上ノ生徒六百「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事
第三 十二歳以下ノ生徒百五十「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事

などとなっています。15歳が基準になっていて12歳以下の生徒すらいたようです。生徒の年齢から考えても、ラグビーよりサッカーがふさわしいでしょう。
3.同校も工部大学校も病休の者が多く、そのため両校とも英人教師がスポーツを奨励したようです。病上がりの生徒が多かったわけで、やはりいきなり激しいラグビーをやらせるより、ダンゴになってボールを追っかけるサッカーの方がふさわしいと思われます。
4.沢鑑之丞『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)に“「フットボール」(蹴球)”と記されていますが、1942年当時「蹴球」はサッカーを意味していたはずです。

以上はあくまで当て推量であり、海軍兵学寮もアソシエーション式のフットボール(サッカー)だったという文献は、
今のところ発見できていません。

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競闘遊戯の種目にフットボールはナシ

1874年3月21日に開催された海軍兵学寮の「競闘遊戯」18種目にフットボールはありません。

どのような種目だったかは以下の文献を参照してください。

木村吉次「海軍兵学寮の競闘遊戯会に関する一考察」『教育学研究』v.6 no.32 1996 p.129-138
木村吉次「海軍兵学寮の競闘遊戯会英文プログラムの発見」『中京大学体育研究所紀要』no.10 1996 p.95-100
吉見俊哉〔ほか〕『運動会と日本近代』(青弓社,1999)p.88-98 p.130-132

木村氏によれば、英文プログラムは国立公文書館所蔵とのこと。

『海軍兵学校沿革』(原書房,1968 海軍兵学校(大正8年)刊の複製)のp.167-169に「遊戯番附」として記録されています。

第一 十五歳以下ノ生徒三百「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事
第二 十五歳以上ノ生徒六百「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事
第三 十二歳以下ノ生徒百五十「ヤード」ノ距離ヲ平駆スル事
第四 長飛
第五 高飛
第六 球投ケ
第七 二人連三脚駆
第八 十五歳以上ノ生徒十歳以上ノ生徒ヲ荷フテ二百「ヤード」ノ距離ヲ平駆スルコト
第九 竿飛
第十 整列歩行
第十一 五十「ヤード」ノ距離ヲ目隠シニテ駆ケル事
第十二 飛倚
第十三 三百「ヤード」ノ距離ヲ限リテ見物人ニ競走セシムルコト(但兵学寮管轄ノモノニ限ルヘシ)
第十四 豚ノ走ルトキ其尾ヲ握ルコト、但豚ヲ放ツハ一度ニシテ其尾ヲ握ルニモ時間ヲ限ル
第十五 三飛毎ニ立ツ事
第十六 頭上ニ水桶ヲ戴キテ平駆スル事
第十七 雛卵二十個ヲ一「ヤード」毎ニ置キ平駆シテ之ヲ拾ハシムル事、但シ二百「ヤード」ノ距離内ニテ二十番ノ雛卵ヨリ標柱ニ
至ル間ヲ四十「ヤード」トス
第十八 先ニ豚ヲ放ツトキ誰モ其ノ尾ヲ握ル者アラサレハ今又之ヲ放チテ遊戯ノ大切リトス

陸上競技系と余興系が混じっていて、今の運動会とそれほどかわりませんね。「大切リ」は豚追い競争ですが、これは英国の祭日に行われていたものをそのまま踏襲したそうです。

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海軍兵学寮におけるフットボール

海軍教育本部編『帝国海軍教育史. 第1巻』(原書房,1983 史料調査会蔵(明治44年刊)の複製)中の
「海軍兵学校ノ教育(明治七年)」に以下の記述がります。

“英教師招聘以前ニ在テハ生徒ノ授業ハ専ラ座学ノミナリシカ其ノ招聘以後ニ於テハ午前二時間ハ座学午後二時間ハ外業ニ充ツルコトトナセリ而シテ此ノ月球戯場ヲ設置セリ是レ生徒ニ慰楽ノ途ヲ与ヘ以テ犯則若クハ不善ノ遊戯ニ溺ルル等ノモノ無カラシメンカ為ナリ次テ運動会ヲ催フシ大ニ体育ヲ奨励セリ”(p.202)

“此ノ月”は前後の文脈からみて明治(1874)年1月と考えられます。冬季の“球戯”といえばフットボールということになるのでしょう。

沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)のやはり明治七年の項に以下の記述があります。

“前にも述べましたが、イギリス教師が来着後、間もなく生徒の体育上の欠点について、種々の進言をしました。さうして、現在実施してゐる馬術、剣道の修業等何れも結構であるが、もっと慰安、娯楽的のもの、例へばビリヤード(玉突き)フットボール(蹴球)クリケット等が適当であると注意いたしました。兵学寮幹部に於ても大いに賛成の上、直にビリヤード二台を用意致しまして、北寮食堂に据付け、生徒に練習をさせたのであります。そこでビリヤード心得と称するパンフレットを作成、ちゃうど英国留学より帰朝致しました、服部(潜蔵)海軍大尉が指南役となりまして、生徒に対し種々懇切に教へられました。イギリス教師からも時々突き方について注意を受けたものです。

 また、「フットボール」(蹴球)もイギリス教師より教を受けて、寮内馬場に於て、甲乙両部にわかれ仕合を致しました。

 「クリケット」は、教師館より時々用具を借受け、イギリス教師の指導を受けましたが生徒間には余り興味を得なかったので、自然に
やらなくなりました。

 このほか体育上に関する運動方法は、その後大いに進み、その為に生徒の健康状態が非常に良好となりました。

 イギリス教師司令官から、イギリス海軍兵学校に於ては、時々生徒にAthletic Sportsと云ふ運動を実施させる事があると云ふので、その次第や方法の説明がありました。兵学頭以下幹部は大いに賛成せられ、それぞれの手続を経て実行する事になりました。けれどもわが国に於ては前代未聞の事ですから、その題目を如何に命名したものかと、英学、皇漢学の先生方が協議せられましたが、適当の訳名を得ることが出来ず、苦心の末競闘遊戯と撰名しまして、同年三月廿十一日から実行せられました。

(本科についての詳細なる記事はこれを略す)

 この遊戯は今日の運動会であり、わが国に於てはこれが嚆矢でありませう。

 この遊戯に出場しました生徒中現存者を記しますと、
  山田彦八(八十七歳)。細谷資氏(八十五歳)。酒井忠利(八十五歳)。岩崎達人(八十三歳)。
  兵藤兵吉(八十二歳)の五氏並に老生(八十二歳)
でありました。(昭和十六年六月末日調)”(p.248-250)

1874年に兵学寮でフットボール(蹴球)が行われていたことが記されています。上述のように著者は兵学寮教育を体験した82歳。鬼畜米英の時代に“アーチーホールド・ルシアス・ドーグラスは堂々たる威貌の裡に一団の和気を薀蓄したところの偉丈夫であり、その他のイギリス諸員も又皆選良の軍人でありました。”(p.219)という文章はFIFAフェアプレー賞モノ。序文は「海軍省軍務局第四課長 海軍大佐 平出英夫」と「大本営海軍報道部 海軍中佐 古橋才次郎」。著者が帝国海軍最長老のOBで、序文を海軍広報担当が書いたので問題にならなかったんでしょうね。奥付によればこの本の発行は昭和17年5月7日、“無敵”帝国海軍の絶頂時代です。ミッドウェイ海戦は同年6月5日、ちょうど一ヶ月後・・

ダグラスの教え子から、山本権兵衛、加藤友三郎、斎藤実と海相、首相として位人臣を極めた3人が出ています。


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『旧工部大学校史料』におけるサッカー

東京帝国大学五十年記念行事のひとつとして旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(虎之門会,1931)が刊行されています。『旧工部大学校史料・同附録』(青史社,1978)として復刻もされています。工部大学校は現在の霞ヶ関ビルのあたりにあったようです。

「運動」という項目は、一、歩兵操練 二、フート・ボール 三、遊泳術 四、シンチー 五、テニス 六、クリッケット 七、ベースボール 八、ボートレース からなり、「二、フート・ボール」は以下のように記述されています。

“フート・ボールハ明治七年大和屋敷ノ頃ヨリノ唯一ノ運動トシテライメル・ジョンス氏之ヲ指導シ虎ノ門ヘ移転後モ引続キバー氏ヤマーシャル氏ガ更ニ指導者トナリ。明治十五年頃ニ於テモ運動中最モ盛ナルモノナリシ、規程モ至極簡単ニテ二班ニ分レ蹴ルノヲ主トシテ行ハレタリ。”(p.184-185)

これがライメル・ジョーンズ氏-工部大学校1874年起源説の“証拠文献”だと考えられます。

復刻本の「附録」は在校生の回想文で、曽根達蔵(国指定重要文化財・慶應義塾図書館旧館の設計者 工部大学校でジョサイア・コンドルに学ぶ)の「工部大学の思ひ出話」によれば、

“工部大学校の測量学の教師はライマー・ジョンスと云ふ英人であって特に工部大学校設立の為めに英国より聘せられたるにあらずして以前より工部省測量司の御雇測量士であった。従て他の教師と違ひ資格と学力も下位だったのである。”(p.77-78)

とあります。ジョーンズは測量技師で、Dyerのように伝記情報が残るような存在ではなかったようです。ライマーと記されているので、Rymer Jonesなのかもしれません。

古川阪次郎「工部大学に於ける運動其他」には、

“・・それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。”(p.137)

とあり、GKを置いた「サッカー」だったことがわかります。弱冠20代で琵琶湖疎水を完成させるという偉業をなしとげた田辺朔郎もサッカーをしていたようです。

門野重九郎「工部大学に於けるスポーツ」には、

“四、フートボール
 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーションの前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営、中堅、後営などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。”(p.142)

とあり、「サッカー」だったことを“証言”しています。

この本が出た1931年といえば、東大が東京コレッヂ・リーグを竹腰重丸を中心として6連覇中、赤門スポーツとして唯一気を吐いていました。OBの中にはサッカーに関心があった人もいたかもしれません。『日本サッカーのあゆみ』編纂の中心人物、新田純興氏も東大工学部(冶金科)OBなので、工部大学校OBと接触があっても不思議はないのですが。


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高峰譲吉、辰野金吾はサッカーをしたか?

工部大学校(現東京大学工学部)の史料に『工部大学校学課並諸規則』(明治18年4月改正)が
あります(明治18年=1885年)。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40041275&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0

第六章が「体操」で第三節に

“「フートボール」「クリッケット」「ラオンドルス」「ベースボール」等ノ遊戯モ亦タ之ヲ為ス”

と記されています。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40041275&VOL_NUM=00000&KOMA=16&ITYPE=0

GIFファイルでは見にくいので、以下に第六章をメモしておきます。

第六章 体操

第一節

学校所属の遊歩地ヲ以テ体操運動ノ場所トス。場内体操術ニ
要スル装置ヲ設ク。

第二節

第一年乃至第四年生徒ハ晴天ノ日ニ於テ午後四時ヨリ五時
ニ至ルノ間此場内ニ出テ体操教員ノ指揮ニ従ヒ体操運動ヲ
為スヲ要ス。

第三節

「フートボール」「クリッケット」「ラオンドルス」「ベースボール」等ノ遊戯モ亦タ之ヲ為ス。

第四節

体操ニ於テ優等ノモノハ賞典ヲ与フ。

第五節

体操運動ヲ怠リ出席三分ノ二ニ満タザルモノハ正課中ノ賞
典ニ於テ失フ所アルベシ。

第五節で「体操」は必修科目だったことがわかります。
「ラオンドルス」って何でしょうね?

『工部省沿革報告』(大蔵省,1889)によれば工部大学校の第1回卒業生に
高峰譲吉、辰野金吾の名が見えます。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40020744&VOL_NUM=00000&KOMA=509&ITYPE=0

「ジョンス」の名もあります。

http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40020744&VOL_NUM=00000&KOMA=511&ITYPE=0

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