新田純興氏が『サッカー』誌に寄稿した記事
新田純興「日本のサッカーに貢献した在日外国人の紹介(一)」『サッカー』no.56 1966.3 p.12-16 における工部大学校と海軍兵学寮に関する記述は以下のとおり。
“1 ライメル・ジョンズ
明治七年、赤坂の工学寮の教師として来任したイギリス人で、この人が日本に初めてフットボール(当時はフートボールという方が多かった)を紹介し、導入したと、いろいろのものに書かれてきた。
工学寮というのは今の東京大学工学部の前身であるから、技術系の学者であったことには間違いあるまいが、土木であったのか、電気であったのか、専門とした科目は判らないし、フットボールも、どの程度指導したのか、今のところ、全く判っていない。
ところが、東京オリンピック大会が近づいたころになると、報道関係者が、盛んに外国スポーツの日本に伝わった年代や経路を調べて、新聞、ラジオなどを通してPRされた。その一つに
2 ダグラス海軍少佐(準艦長)
なる人が、ライメル・ジョンズよりも一年前の明治六年に、浜離宮付近から木挽町へかけて設置された海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)の教師として来任、訓練の余暇のレクリエーションとして、三十三人の部下とともにフットボールを教えたことが明らかになった。ダグラス少佐は翌年には帰英したが、その帰国に先だって我が国ではじめての運動会をやらせた。また、その競技種目の名称が、とても面白いものであったと賑かに報道された。
これについては、日本体育協会の五十年史編集に当られた記録の権威者広瀬謙三氏が、間違いない史実だと
いっておられるので、当協会の正史も、ダグラス少佐が明治六年に、築地でフットボールを行なったのが最初であると、訂正しなければならない。
兵学寮では、海軍一般の教養を身につけさせたのであるから、航海術、大砲取扱方、甲板活動、陸戦動作など一連の必須科目の中に、体操もあったろうし、三十三人の部下が居たとすれば、フットボールの試合をまずイギリス人だけで、実際にやってみせることもできたに違いない。その練習ぶりや、ゲームをみた日本人の指導者階級では、何の抵抗もなく「フットボールというものはイギリス人のやる蹴鞠(けまり)だ」と受け取った。
中大兄皇子と鎌足の話に始まって、日本の歴史のなかには蹴鞠というものが脉々といきていた。しかも、大衆の側からは、いつも強いあこがれの的であったということが、幕末から明治にかけて活動していた人々の頭にも、ハッキリ残っていたから、すぐに蹴鞠だとして受け取られたのであって、漢字を使っている国々、たとえば支那(中国)越南(ベトナム)などでは、フットボールという文字からこれを「足球」と翻訳したのとは、事情を異にしているものだと思う。日本には久しきにわたる深い伝統、文化的伝統があったため、文字からの翻訳でなく、みた眼からこれを「蹴鞠」と受取ったのである。
それが後に(明治三十七年以降か)鞠の字を球にかえて「蹴球」となって昭和に及んだが、大戦後に強化された漢字制限の関係から、蹴という字は読めない、書けないといったクレームがついて、学生間の俗語として発生し、今では愛称ともいうべき「サッカー」の方が知れわたって来たという言葉の変遷史も、ダグラス少佐等の事績から判ってきたのであった。ダグラス少佐から指導を受けた人たちは、艦上生活に進んでいったし、少佐の滞日期間も、一年余という短い期間であった関係から、この門弟の手で、フットボールがあとあとへ尾を引かなかったのは、残念であった。”(p.12-13)
広瀬謙三は大正時代からのスポーツ記者でサッカー関係の記事も書いていますが、「スコアラーの神様」として野球の殿堂入りしています。たぶん、東京五輪時に日本における西洋スポーツの起源が話題になり、兵学寮関係の文献記録がクローズアップされたものと思われます。「3」がデ・ハビランドで、ここから後は新田氏が新帯国太郎氏から直接きいた話や関係文献が明示されているので、どうも新田氏は工部大学校と兵学寮におけるフットボールの文献的根拠を把握しないでこれを書いたようです。
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