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『広島一中国泰寺高百年史』より(2)

蹴球を奨励した広島一中校長弘瀬時治の略歴。

慶応年高知県生。明治16年高知中学校初等中学科、明治18年高知県師範学校、明治23年東京高師卒。
千葉県、岩手県、東京府師範学校教諭を経て明治35年広島師範校長。
明治39(1906)年広島一中校長、以後大正14(1925)年まで19年にわたって校長を務める。

1913年野球部は広島に遠征してきたハワイハイスクールチームと対戦、9-7で勝利(p.277)

“ハワイハイスクールチームは、ハワイ在留邦人・米人の混合チームで投手は米人ロペス、本場の野球をやって強く、横浜上陸以来連戦連勝であった。”(p.277)

野球部、1915(大正4)年朝日新聞社主催第1回全国優勝野球大会に出場。

1918(大正7)年弘瀬校長は野球部の新聞社関係の対外試合を禁止。その理由として、

1)野球関係で事故が続いた。打球が見物していた生徒に当って死亡、“山陽大会に連敗の直後、流感にかかった田辺選手が野球のウワゴトを言いながら他界”、・・
2)“十六年六月早々弘瀬校長は三年生以上の生徒に対して講堂で訓話をしている。そのメモからその一部を採録してみよう。「教育は生徒の人格を育成するにあって、プロ選手をつくるのではない。」という運動に対する弘瀬校長の所信が出ている。本校は野球に代えてサッカーを学校の中心競技にしたいとの意向もあったようである。”(p.283-284)
3)“また過熱な応援合戦も心配の種だった。本校と広島商(当時の所在地は竹屋町)は学校が近くにあったので、広島市内が二つに分れてのけんか応援は、風俗上よくないとの判断がなされた。”(p.284)

“かくして、山陽野球界に覇を競った本校は、これ以来沈滞していくのである。この対外試合は蹴球部にも及び、神戸高商主催の大会で優勝しながらも、毎日新聞社主催の全国中等学校蹴球大会に参加できず、二六年に初めて(弘瀬校長が大正十三年退職後)参加するのである。誕生したばかりの徒歩部も、織田、沖田の名選手を持ちながら朝日新聞社主催の全国中等学校陸上競技大会に出場できず、二二年九月神戸高商主催の全国大会に優勝するのである。生徒はこれを全国大会と称して、全国制覇成ると信じてやまなかったのである。”(p.285)

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