“紳士のスポーツ”としてのサッカー
サッカーが中学校に普及しだすのは1910年代、大正1年=1912年なので、大正時代以降といってよいでしょう。明治末には野球人気が過熱気味で、東京朝日新聞が「野球と其害毒」という反野球キャンペーンを張ったのは明治44(1911)年8月29日~9月19日です。第一高等学校校長新渡戸稲造の談話では“巾着切の遊戯”たる野球に対比して蹴球が “彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。”ととりあげられています。
↓
http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/yakyu.htm
こうした反野球の風潮のもとでサッカーが奨励されることになります。
広島一中の校長弘瀬時治、神戸一中の池田多助はいずれも高師の卒業生で、英国流のパブリック・スクール教育の信奉者、弘瀬が野球に代えてサッカーを校技としたがっていたことは校史に明記されています。広島一中や神戸一中では既存の野球部を廃止するまでにはいたりませんでしたが、大正時代の新設校、刈谷、志太、湘南、東京府立五中などでは最初からサッカーを校技にする方針で、野球部を作らせなかったようです。
中学校におけるサッカーは自然に普及したのではなく、過熱する野球人気に反感をもった教育者たち(おしなべて英国流のパブリック・スクール教育の賛美者)によって、“巾着切の遊戯”たる野球に染まらないように、紳士たるにふさわしい競技として上から奨励されて普及したのです。
サッカーが“巾着切の遊戯”に対する“紳士のスポーツ”として普及してしまったので、規律正しくフェアプレー重視ではあるが、アソビがなくて融通が利かないという、「日本サッカーの伝統」が形づくられたのではないでしょうか。また、“紳士のスポーツ”として自らを定義することにより、競技の“大衆化”という点でも限界をつくってしまったのかもしれません。
もっともこの伝統も最近はブラジル流マリーシアに侵食されてかなりアヤシクなっていますが、レフェリーだけは完全に伝統を墨守しているようです。
Comments
東部の名門大学(アイビーリーグ)から始った初期のアメリカンフットボールが、あまりにも危険なので、時の大統領から直々にルールを変更して安全性を高めるよう命じられていたはず。
「米人」だって「鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な」「蹴球」があることを、新渡戸稲造が知らなかったとは、思いにくいのですがね。
神戸一中の野球部が潰されかかったエピソードで思い出したのが、教育界の反野球ブームに対抗するべく選手たちが編み出したイデオロギーが、いわゆる武士道精神=日本野球の精神主義だったという話(坂上康博『にっぽん野球の系譜学』青弓社、興味深い論考でした)。一部のスポーツライターや俗流ジャパノロジストが唱えるように前近代からの伝統が「ベースボール」を「野球」にした(コノ言い回し好きになれませんが)のではないということです。
神戸一中は大正八年(1919)に中等野球大会(高校野球の前身)で優勝するが、神戸の選手たちは優勝後の場内一周を「見世物ではない」と断ったというエピソードを思い出し、早くも精神主義化が表れていると連想したのですが、そんなことより……。
中村俊輔のセルティック移籍に絡んで、例のダグラス少佐がスコットランド出身だとマスコミで喧伝されているのですが、私が読んだ中公新書の池田清『海軍と日本』では、ダグラス少佐はカナダ出身の水兵上がりだとあります。どれが正しいのでしょうか。「スコットランド」は別の人を混同しているような気がするのですが。
Posted by: さけのべ | August 17, 2005 01:10 AM
海軍兵学寮と工部大学校が混線しているようですね。
工部大学校がスコットランド人を招聘したのは、工部行政に絶大な影響力をもっていた山尾庸三が幕末期グラスゴーに留学していた関係によります。
山尾は高杉晋作を首謀者とする御殿山の英国公使館焼き打ちにも参加したバリバリの志士で、長州藩から伊藤博文、井上馨らとともに“密航”の形で英国留学しています。
↓
http://nagasaki.cool.ne.jp/kiemon/cl-yamao.html
http://page.freett.com/kiemon/8.1ryugaku.html
http://bakumatu.727.net/kyou/1/013163-gotenba-yakiuchi.htm
スコットランド人といえば長崎のグラバー邸にその名を残すトーマス・グラバー氏もアバディーン生まれのスコットランド人。同じネタにするなら、中村俊輔を“幕末の志士”にダブらせれば・・
Posted by: 蹴球閑人 | August 17, 2005 07:19 PM
ダグラス少佐カナダ出身説は、秋山陽一氏も著書に書いています。確か、カナダでもフランス文化の影響が強い地域(ケベックだったか?)産なので、海軍兵学校で指導したフットボールはラグビーかも、と推理していた筈です。サッカーと野球の普及度が違う理由は、単純ではないのでしょう。①上からの普及②平岡さんのような洋行帰りがチームを作らなかった(ブラジルも英国帰りのC.ミラーが広めた)③体力不足④間の文化⑤生類哀れみの令による蹴鞠文化の庶民からの遊離等、が複雑に絡むのではないでしょうか。日系ブラジル人とサッカーなら、セルジオ越後氏の生き様が大いに参考になると思います。自伝を書いて欲しいなあ。
Posted by: 藤大納言 | August 17, 2005 11:28 PM
サッカーが野球に対する“カウンター・スポーツ?”として位置付けられたのが、日本サッカーの性格を特徴づけたのかもしれません。こんな国ほかにあるんでしょうか?
教育的意義を強調しすぎた日本サッカーに、競技そのものがもつ楽しさを教えたのが、セルジオ越後氏ら日系ブラジル人。越後氏の自伝なら是非読みたいですが、サンパウロの日系社会、コリンチャンス、リベリーノ・・などなど注や解説がないと解りにくそうな予感・・
Posted by: 蹴球閑人 | August 18, 2005 06:45 PM
いずれにせよ、日本だけがサッカーを受け入れる素養が無かった、野球に出し抜かれた理由を「前近代の伝統」にも止めるのは首肯しがたいものがあります。
>サッカーが野球に対する“カウンター・スポーツ?”として位置付けられたのが、日本サッカーの性格を特徴づけたのかもしれません。こんな国ほかにあるんでしょうか?
サッカーが伝統的に「絶対多数」ではない、他競技と競合する立場にある国ということなら、日本に限らず、結構あります。
思いつくままあげると、
アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド、インド、韓国なんかもそうです。
アイスホッケーの盛んなチェコはどうなのでしょうか?(未読ですが『ホッケー69―チェコと政治とスポーツと』曽我部 司、TBSブリタニカ、という著作があります)
ニュージーランドではすでに競技人口でサッカーがラグビーを抜いてしまったそうです。
(後藤健生氏の報告。これを知ったラグビーファンはショックだったみたい。国会図書館のサイトで分かりますが、この人が本当に強いのはオセアニア)
知る人ぞ知る、近江達氏の薫陶を受けた宮沢浩氏(市原、平塚、広島、豪州リーグ)がニュージーランドで指導者になっているそうです。
イタリアは言わずもがなのサッカー王国ですが、バレー、バスケ、ラグビー、野球のプロリーグがある国でもあります。
現役時代を知らない人間にとって、少なくともここ数年のセルジオ氏は、サッカーをつまらなくする発言が多いと思います。
Posted by: さけのべ | August 21, 2005 09:55 PM