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『広島一中国泰寺高百年史』より

p.231-233

“蹴球部

 日本でのサッカーの始まりは、一八七三(明治六)年ダグラス少佐ら英国軍人が東京築地海軍兵学寮でフットボールを紹介したことで、これは「押し合う、打ち合う、ける、なげる、猛烈なこと、野蛮なことはその比を見ないほど」というように、現在のサッカーとはイメージの異なった形で行われ、学校の中にも早くから取り扱われていたようである。

 日本の蹴球の元祖は、一八九六(明治二十七)年東京高師にフットボール部が誕生した時である。現在に近い形の蹴球の始まりは、一九〇三(明治三十六)年東京高師フットボール部による『アッソシエーションフットボール』の出版と、一九〇四年東京高師と東京築地外人学校の対外試合であった。この蹴球が全国に普及される形には、各地の中学校や師範学校に教員として赴任した東京高師出身者の手によるもの、高等学校や師範学校に外国語教師としてきた外人教師の手によるものの二つの形があった。

 広島地方の蹴球は広島高師、広島師範、本校の三つの系統で発達した。広島高師は一九〇六年に課外活動として蹴球をはじめ、翌年に同校幹事が東京高師で紅白試合を実際に見てきた。一九〇七年同校卒業生岩田久吉が神戸一中を本格的に指導し、一一年にはオックスフォードを出たプリングルが広島高師へ赴任して蹴球も指導したのを見て、広島付属中学校でも蹴球をやり始めた。広島師範は一三年に東京高師卒業の出射栄が赴任してから始めたと言われる。

 本校では、早くから郡友会を中心にフットボールをやっていた。ルールもなしにボールを蹴り、校庭でも数人が集まって輪になってボール蹴りをしていたので、サッカーの下地はすでにあったとみるべきである。また明治末年には東京高師出身の教員がサッカーやラグビーをルールを交えて教えていたようであるが、まだ本格的には実施されていなかった。本校では野球に生徒が夢中になり、上級学校の進学率が低下し、学校当局を悩ませていた。弘瀬校長は蹴球を校技として奨励したいという願望をもち、一一年日本サッカー誕生の地東京高師で蹴球部のマネージャー(役員)として活躍していた新進の教師松本寛次(数物科卒業)を懇望した。松本寛次は卒業を前にして校長との間に、本校に就職することを約束し、卒業後の四月に赴任した。この松本寛次の赴任によって蹴球部の道は開かれていくのである。

 蹴球部誕生のきっかけは松本寛次が蹴球の指導を命ぜられたことに始まる。松本は運動場を東西に二分し、東部を野球が、西部を蹴球が使用することとし、西部の北と南にゴールを建て、蹴球の場を確保することを手始めとした。次に普及、指導のため、毎日運動場に出て生徒とともにボールを蹴ることを始めた。「あまり職員が生徒と一緒に遊ぶことがなかった」当時、この行動によって大変生徒に親しまれ、蹴球部ができた後も続いた。こうして蹴球部誕生の基礎はできあがり、練習に参加する生徒も次第に増加して、翌一二年蹴球部は、校友会の中に予算を与えられて発足した。一九一三(大正三)年度「部勢を盛んにせねばならぬと考えて、新入生を講堂に集めて肩を怒らせて大いにぶった」結果、二百名の新入生中約百二十名の入部者があった。当時の予算は、五十円位のボールを買う余裕さえなかった。当時は対外試合の規則はきびしく、広高師主催蹴球大会で高師と対する以外に行われなかった。このような状態で満足できなかった蹴球部員が一九一五(大正四)年の冬休暇に学校に無断で神戸遠征を企てることになるのである。”

「弘瀬校長語録」(p.195)

“○ナポレオンをウォータールーの戦いで破った英国のウェリントン侯がイギリスに凱旋した時、母校イートン(英国の名門校)を訪れ、「ウォータールーの勝利の原因は実にこのイートンの運動場にある」(わが中学校に学ぶ者が次代の日本を背負うて立つ者だとの信念があったという)”

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