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『君に書かずにはいられない』

未読ですが、中丸美繪著『君に書かずにはいられない ひとりの女性に届いた四〇〇通の恋文』(白水社)という新刊書が出たようです。

http://www.hakusuisha.co.jp/osusume/kimini.html

篠島秀雄氏は1930年の極東大会優勝メンバー。戦後JFA副会長を務めています。東京学生リーグを東大が6連覇したときのFWで、3-3で引き分けた極東大会対中国戦(ベルリン五輪対スウェーデン戦と並ぶ戦前の日本代表の歴史に残る名試合)ではゴールもあげています。

三菱化成社長でもあり、ロンドンを訪問したおり、三菱商事駐在員であった諸橋晋六氏(後三菱商事会長)がBBCの“Match of the day”を日本でも放映するよう篠島氏に進言したのが、『三菱ダイヤモンドサッカー』誕生のきっかけだったそうです。『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会,1984)で諸橋は次のように述べています。

“又多少なりとも日本のサッカーの為に お役に立った事と云えば、現在テレビ東京が連続放映している「ダイヤモンドサッカー」は私が第一回目のロンドン勤務の1967年か68年頃 当時サッカー協会の新理事長、篠島さんが来倫された時、当時BBCの人気番組“Match of the day”を日本サッカー技術向上の為、是非導入されてはと申し上げ、 篠島さんよりそれなら君がやってみろと云われ、自らBBCと掛け合いの結果、日本に初登場したものである。”

『篠島秀雄君を偲ぶ』(篠島秀雄君追想録刊行会編 学生社,1976)という追悼録も刊行されているようです。

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「ドイツからの贈りもの」

本日4時フジテレビで放映された、第一次大戦時広島県似島のドイツ人捕虜とのサッカー交流をテーマにした「ドイツからの贈りもの」の制作関係者からも昨年夏資料に関する問い合わせがあり、『広島一中国泰寺高百年史』、『広島スポーツ100年』を紹介したのですが、制作を見るとテレビ新広島だったので、多分あまり役立たなかったのでは・・

そのときのメモが当日誌2005年7月30日と8月5日にあります。

捕虜の一人が帰国してから創設したクラブからブッフバルトが出た、というのは奇縁としかいいようがないですねぇ~ 妙なコメンテーターが出てこなかった分NHKよりもテレビ新広島が上か(笑

昨年の日誌にも書いたんですが、捕虜に学んだドイツサッカーを関西にまで教えに行った田中敬孝と広島一中同期だったのが第4代JFA会長野津謙。似島のドイツ人捕虜→野津→クラマー氏となっていればもう一つの“奇縁”だったのですが、残念ながら捕虜と交流したのは野津の一中卒業後。でも野津が広島の関係者からドイツサッカーのことを聞いていなかったはずがない、とも思うのですが。

静岡にも捕虜収容所があったらしいですが、ひょっとして・・  近々映画になるらしい徳島の収容所があったのは鳴門で、2002年のドイツキャンプ候補地でもあったんですが、残念ながら実現しませんでした。

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埼玉サッカーの「紀元」

『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)には草創期の東京高師OBたちが各地にサッカーを伝えた記述がります。

“明治39年3月博物学部を卒業した堀桑吉は、名古屋の愛知第一師範学校に赴任し、三浦校長の同意のもとに同校に蹴球部を設置しこれを発展せしめた。同時に、市内の明倫中学や陸軍幼年学校、あるいは岡崎や岐阜の師範学校をも指導し、中部サッカー界発展の基礎を拓いた。

 明治41年3月博物学部卒業の細木志朗は、埼玉師範に赴任し、優秀なチームを育てた。

 明治42年3月国語漢文部卒業の落合秀保は、滋賀師範に赴任し、蹴球部を育てた。その部員の中から大正6年の芝浦の極東大会の代表が生れている。

 明治42年3月国語漢文部卒業の内野台嶺は、豊島師範に赴任し、優秀なチームを育てた。

 明治42年3月国語漢文部卒業の玉井幸助は、御影師範に赴任し、初代蹴球部長として優秀なチームを育てた。

 明治44年3月数物化学部を卒業した松本寛次は、広島一中に赴任し、今日のサッカー王国広島の基礎を築いた。”(p.24)

1908年(明治41年)が埼玉サッカーの始まりで、『輝く埼玉サッカー75年の歩み 埼玉サッカー創始75年記念誌』(埼玉県サッカー協会,1983)は1908年から75年目に刊行されています。普通地方サッカー協会史は「協会創立○十周年記念」という形で刊行されることが多いのですが、埼玉県は細木志朗の埼玉師範赴任を「紀元」としています。多分当時大宮市に在住されていた故・新田純興氏の影響だと思います。

内野台嶺は細木志朗について以下のように回想しています。

“次にフォアワードとしえ最も傑出した人に、現に家政学院の教授をして居られる細木志朗氏がある。この人も博物科の人であったが、体はきはめてほっそりとして居って、一見いかにも弱々しく見えたにかかはらず、一度球を持たせると、その球さばきの巧妙なことは実に驚くばかりで、一度この人に球を奪はれると、何人居ってもぬかれてしまって、結局一人でゴールにはこびこむ様なうまさを持ってゐたのであった。又何処にそんな力があるのかと不思議に思はれる程キックの強い且つ正確な人であった。この人は大抵フォアワードのセンター若くはウイングとして活躍されたのであるが、この人も亦特に目についたものと見え、横濱の外人達も之を賞賛しておかなかった。”

細木志朗は外国人にも一目置かれた名ドリブラーだったようです。細木志朗に始まって田中達也まで、埼玉には名ドリブラーが育つ伝統があるようです。というのはコジツケ・・

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滋賀県サッカーの起源

野洲高校が滋賀県初の高校チャンピオンになりましたが、滋賀県のサッカーの歴史は日本でも最も古い方に属していることをご存知の方は少ないでしょう。

滋賀県にサッカーを伝えたのは、1909年(明治42年)東京高等師範学校を卒業して滋賀師範に赴任した落合秀保です。落合は日本で2番目に古いサッカー専門書『フットボール』(大日本図書,1908)の共著者の一人。同書の本サイトの解題は、

“フットボール 東京高等師範学校校友会蹴球部/編
東京:大日本図書,明治41.6
193p;19cm

表紙の書名は「Foot Ball」。序文を蹴球部長坪井玄道、「鍛練」という題字を校長嘉納治五郎が書いている。編者は蹴球部主事新帯国太郎、落合秀保。 『アッソシエーション・フットボール』が競技の紹介にとどまったのに対して、「その不備の点を十分に補ひたい覚悟で、数年間毎年一二回づつ外人等と競技を重ね、少いながら実際上から 其の真髄と興味を味わひ得たと信じ、茲に前著を全然改訂する必要を生じた。」と自序で述べているように、実戦を通して得た経験を「附録 著者の経験」に紹介している。
第1編 第1節:緒論 第2節:フットボールの歴史
第2編 第1節:フィールド 第2節:競技者の人数と位置 第3節:競技者の任務 第4節:レフェリーとラインス・マン 第5節:ゲームに用ふる言葉の意味 第6節:用具
第3編 第1節:ゲームの規定
第4編 第1節:ゲームの例 第2節:ゲーム以外の練習 第3節:服装に就いて
附録 著者の経験 第1節 小引 第2節:ゴール・キーパーに就いて(新帯国太郎) 第3節:フルバックに就いて(重藤省一) 第4節:ハーフ・バックに就いて(落合秀保) 第5節:フォーアワードに就いて 甲 アウトサイド・フォ-アワード(細木志朗) 乙 センター・フォーアワード(落合秀保) 丙 インナー・フォーアワード
第2編第5節「ゲームに用ふる言葉の意味」にあげられている用語は、ドリブリング、パッシング、ヘッディング、フリー・キック、ペナルティ・キック、ゴール・キック、コーナー・キック、オフ・サイド、アウト・オブ・プレー、ゴール。写真や図が多用されており、説明が具体的。”

です。落合はCFだったようです。GK新帯国太郎も1912年(明治45年)同校に赴任しています。『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)によれば、

“明治42年3月国語漢文部卒業の落合秀保は、滋賀師範に赴任し、蹴球部を育てた。その部員の中から大正6年の芝浦の極東大会の代表が生れている。”(p.24)

とのことで、名前はわかりませんが、1917年の“最初の日本代表”中に滋賀師範OBがいたようです。同校は1938年(昭和13年)現在の高校選手権に準優勝(優勝は神戸一中)しています。『愛蹴 滋賀大学サッカー部創設70周年記念誌』(的場久城,1985)という部誌も刊行されていますが、滋賀師範でサッカーが始まったのは1909年だと考えられます。京都師範(京都教育大)の紫光クラブはJクラブのパープルサンガに発展したのですが、滋賀師範(滋賀大学)の愛蹴会はJクラブになりそうにないですね。

落合と同期の内野台嶺の「蹴球思ひ出話」という東京高師時代の回顧文(『体育と競技』誌11巻12号(1932年12月)p.128-131)( http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/uchino.htm )によれば、

“一に名ゴールキーパーとして評判を博したものに、現在満鉄の調査所で活躍してゐられる新帯国太郎氏がある。新帯氏は博物科の人であったが、偉大なる体格の持主で、フォアワード乃至ハーフバック等ではあまり活躍されなかったが、ゴールキーパーとしては、当時横濱の外人でさへも舌を捲いた位なものであった。ランニング等は余り早い方でなかったが、ボールの動きに対して気を視る事が非常に早い人で、この人がゴールに居りさへすれば、球は大丈夫入りはしないといふ確信を、選手全体に抱かさせた程の名手であった。”

“その他フォアワードの名手としては現に釜山の高等女学校長をしてゐる落合秀保氏があり、”

とのことです。新帯は日本最初の名GKだったようです。


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マタイ効果

「マタイ効果」ってご存知ですか?

アメリカの社会学者Robert K. Mertonが提唱した科学社会学の概念で、『新社会学辞典』によれば以下のとおりです。

“マタイ効果(Matthew effect)
 科学の報償体系に働く承認と報償に関する不平等な自己強化的累積現象を表す、マートンの概念。マートンは論文「科学におけるマタイ効果」(1968)で新約聖書のなかの文言「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイ福音書第13章12節)から借用して「マタイ効果」と命名した。著名科学者による科学的文献には水増しする形で承認が与えられ、無名科学者には与えられない。たとえば、ノーベル賞受賞者は歯止め効果によって生涯ノーベル賞受賞者であるが、この受賞者は可視性が高く学界で有利な地位が付与されるから、科学資源の配分、共同研究、後継者の養成においてますます大きな役割を果たす。マタイ効果は科学のコミュニケーション網において迅速にかつ広範に知名度の高い科学者の貢献が組み込まれる点で、科学の発展を促進する。他方、科学の権威の偶像化を招くとき、科学の「普遍主義」のエートスを侵犯し、科学の発展を阻害する。 
文献:Merton, R. K. “The Matthew Effect in Science” Science, 157, 1968”

「金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になる」という“マタイ効果”は、サラリーギャップ制もウェーバー方式によるドラフト制もないプロ・サッカーの世界にこそあてはまるのではないでしょうか。

イタリア、スペイン、イングランドなどの“サッカー先進国”ではごく少数の金持ちチームが覇権と優秀選手を独占しており、どこぞの国の所得分布のように金持ちと貧乏人にチームが2極化し、その状態は固定化しています。

歴史の浅いJリーグでもジュビロ、アントラース、マリノスあたりが覇権を独占し、ガンバ、レッズあたりが加わろうという気配です。現在の移籍市場をみても、上位チームが毟り、下位チームが毟られるという“マタイ効果”が見られます。

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