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帝国海軍の軍艦にもサッカーチームがあった

戦前港町の学校、例えば神戸一中や函館師範などは寄港した軍艦チームと親善試合をしています。「川本泰三放談 2FBから3FBへの移行」『イレブン』v.2 no.6 1972.6収載で、インタビューアー大谷四郎は、

“私が初めて実物に出会ったのは、昭和九年、ベルリンの二年前に、神戸に入港したイタリアの軍艦クワルトと試合をしたときで、その守りがあとで3FBとわかった。全く浅い型の3FBだが、こちらは中学生で脚で負けるしスルーパスで走り込めないので二宮洋一(神戸一中、慶大)などもCFをしていて前へ出られない。すぐオフサイドだ。キーパーの津田幸男(神戸一中、慶大)が文句いうてるが、FWは面食らって “おかしいなあ”というとるうちに、1点とっただけで5、6点とられた”

と述べています。日本サッカーの正史では、3B(WM)システムと出会うのはベルリン五輪ということになっていますが、神戸一中は代表より一足先に外国軍艦との親善試合で体験していたそうです。

ところで創設当初の東京蹴球団を回想した、原島好文著「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』誌10巻4号(1929年4月)収載に以下の記述があります。

“翌年は明大と共に房州北條に合宿した。偶館山湾に金剛が入ったのを幸に、安房中学のグラウンドで一試合したが、ゴール・ポストがないので俄に大工に早変りして漸く間に合せた。”

軍艦金剛にはサッカーチームがあったようです。金剛は日本初のいわゆるドレードノット(ド)級戦艦。英国ヴィッカース社製(日露戦争時の連合艦隊旗艦三笠も同社製)。日本史上最大の汚職事件のひとつシーメンス事件(正確にはシーメンス・ヴィッカース事件)は同艦の発注をめぐって起こった「疑惑の軍艦」です。

シーメンス事件当時の首相山本権兵衛は兵学校2期(当時は兵学寮)、ダグラス少佐率いる英国教師団の教育を受けた最初の人物。日本で最初にサッカーをした“可能性”があります。衆議院で山本内閣追及の先頭に立った島田三郎の息子島田孝一は初代早稲田大学ア式蹴球部長で、1938年W杯フランス大会を観戦、大日本蹴球協会を代表してFIFA総会に出席。おそらく日本で最初にW杯を観戦した人物でしょう。同じく衆議院で山本内閣を攻撃した花井卓蔵の息子立原元夫はベルリンオリンピック日本代表選手、対スウェーデン戦にも出場しています。

大正時代当時帝国海軍のエースだった「金剛」の名は、海自の花形イージス艦の艦名「こんごう」に引き継がれています。

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『アッソシエ-ションフットボ-ル』のスローイン

本邦最初のサッカー専門書、東京高等師範学校フットボ-ル部編『アッソシエ-ションフットボ-ル』(大阪 鍾美堂,1903)では、スローインは

“出したる組の反対の組のものが”
“両手を以て頭上より「フィールド」内任意の場所に投入するものとす”

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075427&VOL_NUM=00000&KOMA=50&ITYPE=0

と現在と同じになっています。とすると、『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部,1983)中の「こんな時代もあった」という座談会で、日本フートボール大会(現在の高校選手権の前身)第1回大会(1918年)に明星商業選手として出場した神田清雄が、

“それにスローインは真っすぐ線に直角に投げんといかなかった。一種のラグビー式ですね。それにカカトをあげたら反則でした。”(p.33)

と述べていたのは、やはりラグビーと混同していたのかサッカーの古式ルールに拠っていたのか、ということになります。

当日誌5月24日分に貴重なコメントをいただきましたので、レスをつけました。

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私鉄・新聞とスポーツ

阪神電鉄は後発の阪急に実質的に吸収されそうな気配です。阪急の創業者小林一三は興行師的才能もあったようで、今日に残る宝塚歌劇や東宝(「東京宝塚」の意)も彼が創始した事業です。

大正2(1913)年には沿線の豊中に豊中グラウンドを作っています。現在まで続いている高校野球の選手権大会(夏の甲子園)は大正4(1915)年、高校サッカーの高校選手権と高校ラグビーの選手権(花園)は大正7(1918)年、この豊中グラウンドを発祥の地として始まりました。サッカーは首都圏に移転して特定私鉄とは無関係になりましたが、野球は現在でも阪神の甲子園球場、ラグビーは近鉄の花園ラグビー場で行なわれています。

高校野球は大阪朝日新聞が、サッカー・ラグビーは大阪毎日新聞主催で始まり、野球とラグビーは現在も同じ主催者です。

大正期におけるスポーツの興隆には、私鉄の沿線開発、新聞の拡販が絡んだ「スポーツの興行化」の側面も否定できません。裏返せば、スポーツの「集客力」が注目されたということにもなります。

サッカーの場合、広島一中(現・国泰寺)や東京府立五中(現・小石川)の校長は新聞社主催大会、すなわち選手権への参加を禁止していた時代があります。

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坪井玄道の留学同期生

坪井玄道は明治33(1900)年英独仏に留学するのですが、『元文部省外国留学生一覧』(文部省専門学務局,1909)によれば、同年度の留学生に夏目漱石、黒田清輝、滝廉太郎がいます(同ページに載ってます)。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40016927&VOL_NUM=00000&KOMA=17&ITYPE=0

明治8年の第1期には鳩山和夫、小村寿太郎がいます。初期には法学、工学、医学など“国家枢要”の学問分野ばかりですが、明治30年代になると文学、音楽などの周辺?分野に拡大しているようです。女性もいます。

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明治時代の小学校

明治18(1885)年から蹴鞠またはフートボールとしてサッカーが紹介されはじめますが、その背景として明治14(1881)年に小学校教則要領が制定され、それまで地方によってバラバラだった小学校の教育課程が全国的に統一され、かつ「体操」がその中に含まれていたことがあると思われます。明治18年に『戸外遊戯法』を著した坪井玄道こそわが国の体育教育のパイオニアです。教育課程は統一しましたが、標準的な教科書は編纂されなかったので、各地方で遊戯法、体育法のような書名で刊行されたようです。『実地体育法』(〔岡山〕:岡山県岡山学校,明19.7)などその典型的なものでしょう。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075608&VOL_NUM=00001&KOMA=4&ITYPE=0

従って、市場ターゲットは小学校教員だったようです。文部省編『学制百年史』の統計によれば、

               小学校数    教員数    児童数

明治6(1973)年   12,558   25,531    1,145,802

明治20(1887)年  25,530   56,836    2,713,391

明治40(1907)年  27,125  122,038    5,713,698

1校あたりの平均教員数は明治6年、明治20年は2人強、明治40年で4.5人です。明治20年ころまでは寺子屋色が濃かったことがうかがえます。1校あたりの平均生徒数は明治6年91人、明治20年106人、明治40年211人です。最初から団体球技ができるだけの人数はいたわけです(笑)。

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F. W. Strange『Outdoor games』のキックイン

F. W. Strange著『Outdoor games』(Z. P. Maruya, 1883)は国内刊行で最初にサッカーを紹介した本で、下村泰大編『西洋戸外遊戯法』(泰盛館,1885)はその抄訳です。タッチから出たボールをキックインで入れるというのが特徴で、原文は以下のとおり。

“When the ball is in touch, the first player who touches it shall kick it into the course again from where it went out, and at right angles with the touch line.”

ハロー校ルールでは、

“If the ball is kicked beyond the prescribed limits of the ground, it must be kicked straight in again and then must not be touched by the hands or arms below the elbow.”

で、一字一句違わなければ経歴不明といわれるStrange氏の経歴を推測する手がかりになったのですが。現在本サイトで明治期に「蹴鞠」としてフットボールを紹介している本を採録中(原文にリンクを張ってありますので、原文をご覧になれます)ですが、多くはキックイン式でStrange-下村本の影響の大きさをうかがわせます。坪井玄道の『戸外遊戯法』(金港堂,1885)は下村本とほとんど同時に出版され、FAルールのスローインを紹介しているのですが、明治20年前後の諸本をみるかぎり、あまり影響力がなかったようです。

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/book1.htm

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FAカップ参加チーム数

中村敏雄『スポーツ・ルール学への序章』(大修館書店,1995)p.116-117によれば、第1回(1871/72年度)FAカップの参加チーム数は15チーム、1883/84年度で100チームだそうです。FAのHPにも15チームがエントリーとあります。

http://www.thefa.com/TheFACup/TheFACup/History/Postings/2006/01/FACup_History.htm

以前、1874年に海軍兵学寮と工学寮で“フットボール”が行われた記述がある文献(沢鑑之丞著『海軍兵学寮』(興亜日本社,1942)、旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(虎之門会,1931))を紹介しましたが、1871/72年におけるイギリスのアソシエーション式の普及状況が以上のようなものとすれば、正式のアソシエーション式であった可能性はほとんどないといえるでしょう。

フットボールをドリブリング式とハンドリング式に分けるとすれば、前者に属していたとはいえるでしょうが。

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坪井玄道『戸外遊戯法』のスローイン

坪井玄道『戸外遊戯法』(金港堂,1885)のスローインに関する記述は以下のとおり。

“第五条 球ノ境線或ハ線外ニ蹴リ出サレタルトキハ最初ニ其球ニ触レタルモノハ球ノ出デタル線上ヨリ球ヲ境線ト直角ヲナス如クニ之ヲ投クベシ而シテ其球ノ一タビ地ニ達セザル間ハ球ニ触ルル可ラズ”

中村敏雄『スポーツ・ルール学への序章』(大修館書店,1995)p.109に1863年の最初のFAルールが紹介されています。スローインに関する部分は、

“5 ボールがタッチに出たばあいには、ボールに最初に触れたプレーヤーが、ボールがグラウンドを越えたバウンダリー・ライン上から、バウンダリー・ラインと直角にグラウンドに向ってボールを投げ入れる。投げ入れたボールが、グラウンドに触れるまでは、イン・プレーにならない。”

さすが東京高等師範学校教授、坪井玄道はFAルールを正確に紹介しています。「直角に投げ入れる」というのはFAルールだったんですね。『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部,1983)に「こんな時代もあった」という座談会が掲載されており、日本フートボール大会(現在の高校選手権の前身)第1回大会(1917年)に明星商業選手として出場した神田清雄が、

“それにスローインは真っすぐ線に直角に投げんといかなかった。一種のラグビー式ですね。それにカカトをあげたら反則でした。”(p.33)

と述べています。これもラグビーと混同したのではなく、本来のルールだったわけですね。

ところで坪井本とほとんど同時に出版された下村泰大『西洋戸外遊戯法』(泰盛館,1885)には、

“球若シ「タッチ」ニ至リタルトキハ最初球ニ触レシ者其球ノ来リタル方向ニ於テ「タッチ」ト直角ニ之ヲ蹴ルヘシ”

とありました。中村氏の本には「スローインの方法」という節もあり、p.134に各学校のフットボールのスローイン方法をまとめた「スローインの諸形態」という一覧表があります。それによると「キック」でかつ「まっすぐに蹴る」というのはハロー校ルールのようです。巻末付録にハロー校ルール(1858)(p.236-237)もあり、

“9 : If the ball is kicked beyond the prescribed limits of the ground, it must be kicked straight in again and then must not be touched by the hands or arms below the elbow.”

となっています。

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「考える」ことができなかった明治・大正期

竹腰重丸が“サッカーは考えることができるスポーツであることを知った”のは大正時代、ショート・パス戦術が日本に定着するのは昭和時代です。

野球がすでに明治期に専門誌が刊行され、新聞で反野球キャンペーンが打たれるほど普及したのに、サッカーが普及しなかったのは「考えることができる」競技レベルの問題があったのではないかと思われます。

野球は基本的には投手対打者の個人的対決です。比較的容易に投手は左右高低、緩急、直球変化球の配球を「考えることができる」ようになります。日本野球の祖平岡煕は日本で最初にカーブを投げた人でもあったそうです。打者は投手の配球を「読む」ことが重要になります。例えば、変化球で続けてストライクにならなければ、直球を待つように。併殺、中継、牽制、ヒットエンドランのような連携プレーもありますが、最も大きなウェイトを占めるのは投手と打者の個人的対決であり、個人の技能がある程度習熟すれば「考えることができる」すなわち「駆け引きが堪能できる」競技レベルに達することができます。野球が天下の秀才が集まる第一高等学校の「校技」になったのはこの理由によると思います。

ひるがえってサッカーの場合、パス戦術の基本である三角パスができるようになるためには、フィールドプレーヤーの技能を同等に習熟させる必要があります。FW、BK一体となった展開ラグビーも同様でしょう。もちろん1対1の場面もありますが、フットボール系スポーツの醍醐味は連携プレーの面白さにあるのではないでしょうか。単に前に蹴るだけのサッカーやFW周辺で押し競饅頭しているだけのラグビーはプレーヤーも観衆もまったく面白くないものだったと想像できます。

野球と同じくアメリカの国技ながらアメフトが日本ではほとんど普及していないのは、戦術が理解できないとまったく面白くない「究極の戦術スポーツ」であり、かつチームを戦術的レベルに引き上げるのは容易ではないからでしょう。

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考えることができるスポーツ

昨日記したように、大正時代に競技人口が急激に増加するのですが、この時期高等教育に普及したことにより、競技レベルも急激にアップします。従来はロングキックによるキック・アンド・ラッシュかドリブルで抜いていくという攻撃法しかなかったのが、ショート・パス戦術が導入され、1927年極東大会(国際戦)初勝利、1930年極東大会優勝、1936年ベルリン五輪でスウェーデンを破ってのベスト8と国際舞台でも大躍進します。

この面で大貢献したのがビルマ人留学生チョー・ディンで、彼の指導を受けた竹腰重丸はその著書『サッカー』(旺文社,1956)で以下のように述べています。

“大正十二年(一九二三年)一月に開始された第一回全国高校(旧制)大会に早稲田高等学院が優勝したが、同校の優勝によって、そのチームをコーチしたビルマの留学生チョー=ディン(Kyaw Din)氏の名が全国に伝わり、多数の者がその指導を受けた。いわゆるショート・パス戦法は、同氏の指導を受けた人たちによって普及され、拡充されたものであって、同氏がわが国サッカーの近代化に貢献したところは多大であった。

 同氏の教えたショート・パス理論は「むりにドリブルで抜かなくても、二人でパスを用いて一人の敵をたたけば、けっきょくゴール前で一人をあましてフリー・シュートできる」ということに要約されるもので、戦術理論としてはすこぶる単純なものであった。

 しかし、同氏にキックやヘッディング、ドリブリング、タックリングなどの正確な方法と、その理論を教示された結果、基礎技術が急激に進展したことは大きな収穫で、キック・アンド・ラッシュ式のやり方から、従来よりもはるかに確実にボールを保持して侵入する攻撃方法の技術的な裏づけができたわけである。

 大正十一年(一九二二年)の秋、山口高等学校で筆者もはじめて同氏の指導を受けたが、ペナルティー・エリア線付近からのキックで、十回中に六、七回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘッディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、「サッカーは考えることができるスポーツである」ことを知ったことであった。”

原文では「」はなく、「」内は太字です。それまで戦術と呼ぶべきレベルにないサッカーが、トライアングルを形成しながらパシングし、ボール・ポゼションを重視する「戦術的」レベルに発展するのです。キック・アンド・ラッシュとドリブルだけの児戯に等しいサッカーなら、大学生から見向きもされないし、国際戦での好成績もありえなかったでしょう。

ラグビーも同様で、従来のFW周辺でオシアイへシアイするレベルから、香山蕃によってエイトシステムで展開を重視する、「戦術的」レベルに発展します。

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大正期の中高等教育拡大とスポーツ

文部省編『学制百年史』(帝国地方行政学会,1972)によれば、

        大正6(1917)年    大正15(1926)年    増加率

中学校数       329            518        157%
中学生数   153,891        316,759        205%

高校数           8             31        387% 
高校生数     6,584         18,107        275% 

大学数           4              37        925%
大学生数     9,044          52,186        577%

第一次世界大戦後約10年間で中学進学者は倍増、大学進学者は約6倍近くになっています。大学数の増加は1918年の大学令により、私学、単科大学が大学として承認された(学士号が授与できるようになった)ことが大きいのですが、中学校数と高校数は新設すなわち純増です。当時スポーツをするのは学生だけだったので、学生数の増加はスポーツ人口の増加に直結しました。

スポーツブームが起こり、『運動界』(運動界社,1920年創刊)、『アサヒスポーツ』(朝日新聞社,1923年創刊)のような商業総合スポーツ誌、『アスレチックス』(大日本体育協会,1922年創刊)、『体育と競技』(大日本体育学会編 目黒書店,1922年創刊)のような非商業スポーツ総合誌が続々と創刊されています。なお、これらに先駆けて『ベースボール』(博文館発売,1908年創刊)とその後継誌『野球界』(野球界社,1911年創刊)が創刊されており、明治末の野球ブームを反映しています。『野球界』の創刊と『東京朝日新聞』の反野球キャンペーンが同じ明治44年なのは表裏の関係といえるでしょう。

サッカーでは、この時期にチーム数が増え各種トーナメント大会、リーグ戦が始まります。

1918年 中学校の「日本フートボール大会」(大阪毎日新聞主催 現在の高校選手権の前身)が大阪で、「関東蹴球大会」(東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)が東京で始まる
1921年 大日本蹴球協会結成 全日本選手権(現在の天皇杯の前身)始まる
1923年 (旧制)高校の全国高校選手権(インターハイ)始まる
1924年 関東、関西で大学リーグ戦始まる   

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野球を止してフットボールをやろう

いただいたメールによれば、昨日の“ボールを出した側?”は“ボールがタッチ外に出てから最初に触れた側”だそうです。明治期の他の「蹴鞠」を紹介した本にも同様の記述があります。Strangeおよび下村本の亜流かもしれませんが。

ところで、上記タイトルは慶應義塾蹴球部編『ラグビー式フットボール』(博文館,1909)の本文巻頭。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40076117&VOL_NUM=00000&KOMA=18&ITYPE=0

本邦最初のラグビー本もアンチ野球が意識されていて、野球の非紳士的なマナーが非難されています。

“・・・其審判者に対して彼れ此れ文句をつけるのみならず所謂野次迄之れに加はりて喧嘩するは今日野球界の状態なり(四十二年五月八日早稲田大学対第一高等学校野球試合は其好適例なり)。痛はしからずとせんや。互に給金の増進換言すれば直接生活問題に影響する国技館に於ける角力に於てすら、余りに勝敗に悶着を惹起せしむる力士は見苦るしきもの也。況や士道に生活する学生が彼等が自から選べる審判者に対して不平を並ぶるに至りては到底吾人フットボール、プレーヤーの耐ゆる能はざる所也。・・・”(p.3-4)

東京朝日新聞に明治44(1911)年8月29日~9月19日にかけて22回掲載された反野球キャンペーン『野球と其害毒』に見られるような、明治末から大正にかけて、

野球興隆→アンチ野球→蹴球奨励

という流れがあったようです。

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『西洋戸外遊戯法』

(泰盛館,明治18.3)を追加しました。日本で最初にサッカーを紹介した坪井玄道の『戸外遊戯法』(今まで遊“技”と誤綴してたのに気づいていませんでした。恥)が明治18年4月なので、瞬時の差ですがこちらの方が早いようです。「手を使うな」という趣旨のことが書かれているので、アソシエーション系のフットボールだと考えられます。

英国人ストレンジ氏が丸善から刊行した『Outdoor games』(1883)の抄訳。Frederick William Strange氏は学歴不明なのですが、彼の伝記サイトによれば、デボンシャー出身、故郷のボートクラブに属していたようで、「日本ボート界の祖」的人物、日本で亡くなり、青山墓地に埋葬されました。

ルールで興味深いのは、

“球若シ「タッチ」ニ至リタルトキハ最初球ニ触レシ者其球ノ来リタル方向ニ於テ「タッチ」ト直角ニ之ヲ蹴ルヘシ”

とあって、サッカーのスローイン、ラグビーのラインアウトとも異なります。タッチラインと直角にボールを入れるところはラインアウトと同じですが、ボールを出した側?がキックでボールを入れることになってます。

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「蹴球」の初出について

「蹴球」という用語の初出については、『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)p.22に「明治31年1月15日発行の『教育』によれば、蹴球部長坪井玄道教授の記事がある。」とあります。すなわち、明治31(1898)年が「蹴球」の初出ということになります。ところが、雑誌『教育』の書誌データをNACSIS-Webcatで確認すると、

教育<キョウイク>. -- (AN00318153)
1號 (明33.3.3)-94號 (明40.12.15) ; 299號 (明41.1.1)-831 (1959.7). --
東京 : 茗溪會事務所, 1900-1959
注記: 95号を299号と改称 ; 出版者変更: 茗溪會事務所 (-72號 (明39.2.15
))→茗溪會塲 (73號 (明39.3.15))→茗溪會場 (74號 (明39.4.15)-94號 (明
40.12.15))→茗溪會 (299號 (明41.1.1)-)
継続前誌: 東京茗渓會雜誌 / 東京茗渓會
継続後誌: 茗渓
著者標目: 茗渓会<メイケイカイ> ; 茗溪會事務所<メイケイカイ ジムショ>
; 茗溪會塲<メイケイ カイジョウ> ; 茗溪會場<メイケイ カイジョウ>

になっていて、創刊は明治33(1900)年になっており、明治31年は前誌名の『東京茗渓會雜誌』のはずです。
同誌の明治31年1月号の現物を確認しましたが、1月“20日”発行で「蹴球部長坪井玄道教授の記事」は見当たりませんでした。『教育』の方の現物も確認したいのですが、初期の『教育』の現物を揃って持っているのは筑波大学図書館(筑大 1-81,83-94;299-368,370-550,552-606,828-831<1900-1907;1908-1959>)のみです。

私見ですが、明治“31”年1月15日発行は明治“37”(1904)年の誤りではないでしょうか。事実、東京高等師範学校のフットボール部は1904年に蹴球部に改称しています。

だとすると、1903年に体育会蹴球部を名乗った慶應義塾のラグビーの方が、先に“フットボール”を“蹴球”と訳した可能性が高くなります。

なお、「蹴鞠」なら明治18(1885)年まで遡ることができます。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075865&VOL_NUM=00000&KOMA=17&ITYPE=0

コピペして「ファイル」→「開く」からお願いします。

ちなみに、ベースボールを野球と訳した典拠文献はコチラ

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40076077&VOL_NUM=00000&KOMA=11&ITYPE=0

“庭球ニ対シテ野球ト命名”とあり、野球という用語に先行して庭球があったことがわかります。

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