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『ベッケンバウアー自伝 「皇帝」と呼ばれた男』

沼尻正之訳 中央公論新社 2006.5 A5判 362p 1900円+税

自身3冊目の自伝だそうで、邦訳としては『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』(講談社,1979)に続く2冊目。

現役時代に書かれた前作と異なり、サッカー・ビジネス(彼自身がサッカー選手が富豪化した第一世代、フリッツ・ヴァルターの世代では想像もつかなかった経済的成功を得た)、代表監督、“セレブ”としてのプライバシー、クラブ経営などに言及しています。

興味深いのは、彼について書かれた批判的記事を多数引用していることで、ドイツの大宅壮一文庫らしい“ムンツィンガー文書館”の参考図書目録を利用したと書かれています。このことにより、内容の客観性が保たれ、ところどころにある辛らつでユーモラスな記述が生きています。自身の“上昇志向”についても堂々と述べており、かえって好感がもてます。しょせん、ガスコインやマラドーナとは違う人種ということでしょう。

バイエルン州税務当局のやり口に嫌気がさした“皇帝”はミュンヘンに居住する気はさらさらなく、ドイツ大会組織委員長の現住所はオーストリアだそうです。

章の構成は、

FCバイエルンの偉大な時代 その栄光と挫折
サッカーの地位向上のために ビジネスとしてのサッカー
サッカーとお金をめぐる問題 税務署との闘い
私の愛した人たち 出会いと別れ
アメリカで過ごした日々 ニューヨーク・コスモスでの経験
身体的コンディションをめぐって ケガに泣かされた日々
選手時代の思い出 楽しかったこと、つらかったこと
代表チームとともに どん底からの出発
メディアとのつきあい方 私が学んだこと
選手たちの私生活 その隠された一面
監督として戦ったワールドカップ 一九九〇年イタリア大会
優れた知恵を身につけること 生と死をめぐる考察
今日のサッカーと私 変貌する現代サッカー
FCバイエルンの危機 これからのサッカーのために
未来に向って リベロとして生きる


http://www.chuko.co.jp/new/2006/05/003732.html

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『サッカー静岡事始め』

静岡新聞が昭和53(1978)年に連載した「サッカー王国静岡 その六十年の歩み」の草創期から終戦直後までを再構成したもの。

大正8(1919)年静岡師範に始まる静岡サッカーは、その僅か17年後のベルリン五輪代表15名中、松永行、笹野積次(志太中、現藤枝東)、佐野理平(静岡中、現静岡)、堀江忠男、加茂健、加茂正五(浜松一中、現浜松北)の6人(笹野を除く5人はスウェーデン戦先発メンバー)を送る“サッカー王国”になっています。

構成は、

第一章 静岡師範 県内初の蹴球部
第二章 志太中・藤枝東高 創立時からの校技
第三章 静岡中 戦前に二度の黄金期
第四章 浜松中・浜松一中・浜松北高 暴れん坊の勇名轟く
第五章 浜松師範、浜松高等工業、旧制静岡高
第六章 ベルリン五輪 静岡県出身者が六人も
第七章 戦後の新たな芽吹き

東京、広島両高師からまず師範学校に、そして大正時代に静岡、浜松、志太のようなエリート中学に普及という他県同様のパターンが見られます。地方新聞によくあるパターンの「人国記」ものなので夥しい人名が登場しますが、商業出版物なので協会史のようにウンザリすることはありません。

これだけでは静岡に王国の“素地”があったことはわかりますが、具体的な“形成過程”はわかりません。是非、次編(戦後編? 制覇編?)も刊行していただきたい。

静岡新聞社編集、出版。新書判、106p、830円

http://www.shizushin.com/bookguide/book_guruguru/20060425213402.htm

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ベスト8

ドイツvsアルゼンチン
’86、’90の決勝カード。ベッケンバウアー(監督 現在は大会組織委員長)vsマラドーナ(中心選手 現在は肩書きのないただのマラドーナ)の因縁の対決? 『ベッケンバウアー自伝 「皇帝」と呼ばれた男』(中央公論新社,2006)を読みましたが、マラドーナをペレほど評価してないようです。アルゼンチン健闘するもホームの利でドイツの勝ちか。

イングランドvsポルトガル
エクアドル戦でイングランドの攻撃はクラウチ依存症であることが明らかに。低調イングランドもデコ欠ポルトガルではイングランドの勝ちか。本来ならドリーム・マッチなのに、自分所管試合だけでなく次の試合まで壊す主審には困ったもの。

オシム
長嶋、でなかったら王の野球よりは100マシか?

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結局

アジア、アフリカ、オセアニアで残ったのは、ガーナとオーストラリアだけ。

トルコと韓国がベスト4にいるよりワールドカップらしくていいか・・

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自分を会員にするようなクラブには・・

“自分を会員にするようなクラブには入りたくない”

とはグルーチョ・マルクスのユダヤ式自虐ギャグ。ウディ・アレンが『アニー・ホール』で引用してました。

1次リーグは決勝トーナメントの質を上げるための「足切り」だとすれば、実にキチンと機能しているといえるでしょう(笑

チェコとコートジボアールは惜しかったですが、「ベスト16に残るべきでないチーム」は淘汰されて、おそらくベスト8以降は史上まれに見る好カード揃いの大会になるのではという期待が高まります。

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ワーテルローの勝利はイートンの運動場から

サッカーやラグビーが日本に普及し始めた頃、ワーテルローの英雄ウェリントン公爵が母校イートン(実は中退)を訪問した際に言った、

「ワーテルローの勝利はイートンの運動場から生まれた」(「ワーテルローの戦いはイートンの校庭で勝った」などかなりのバリエーションがあるようです)

という引用句がよく紹介されています。サッカーもラグビーもイートンの校庭で行われた競技を都合よく解釈しているわけですが、もちろんウェリントン公がイートンを訪問した当時サッカーもラグビーも未だ誕生していません。

ところで、この引用句の出拠はなにかということで、寺崎昌男編『教育名言辞典』(東京書籍,1999)を調べてみると、

“「ウォーターローの戦いはイートンの運動場で勝った」
<出典>イギリス、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington 一七六九-一八五二)が言ったと伝えられる言葉。
<解説>一八二五年頃、ウェリントン公が母校のイートン校でクリケットを観戦中に、「ウォーターローの戦いはここで勝った」と口にしたと言われる。発言内容は、口伝えに伝えられているうちに、「ここで」が「イートンの運動場で」となって流布した。しかし、第二次世界大戦後、第七代目のウェリントン公がこの言葉の出生を否認し、初代がこんなことを口にした証拠はないと述べ、誤伝だと言い切り、さらに、証拠があったら示して欲しいと述べたので、新たな話題となり、出典自体が問題になっている。・・
(中略)
 流布されていくうちに、重点は少しずつ変化し、表現も格言風に変わっていった。「クリケット」は、十一人ずつ二組になり、木の球をバットで打ち、三柱門の間を走り、得点を競う競技であるが、チーム対チームがグラウンドで飛び回る「サッカー」に変わったり、「ラグビー」になったりした。もちろんウェリントン公の語り口も、観戦中のつぶやきから、試合後の祝宴におけるスピーチに変わったりした。・・”(p.277-278)

とのこと。出典は明記されていません。ネット上ではどうかというと、Eigen's Political & Historical Quatationsという引用句DBでは、

“The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton.”

http://www.politicalquotes.org/Quotedisplay.aspx?DocID=37438

出典は相変わらず不明です。「イートン ワーテルロー」でググってみるとWikipedia「イートン・カレッジ」に、

“ナポレオンを破った著名な軍人ウェリントン公アーサー・ウェルズリーが「ワーテルローの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」と言った話は有名である。しかしこの格言に疑義を唱える者もいる。ウェルズリーはイートン・カレッジに入学したが、学費不足と不熱心さのため退学している。また、18世紀末、学校に運動場や組織だったスポーツはなかったと言う説もある。また、この格言自体がウェルズリーの死の3年後に初めて記録されているのである。しかしウェルズリーがイートン・カレッジで人気があったのは事実で、彼は晩年何度もイートンを訪れている。”

という記載があります。岡山中・高のHPには、

“ウェリントンが実際に「ウォータールーの戦いはイートン校の運動場で勝ち取られた」と言ったということは、ありそうもない話だからであります。1855年にフランスの歴史家でもあり政治家でもあるシャルル・モンタランベールが、「イギリスの政治的未来について」という論文の中で、ウェリントンに言及した時には、ウェリントンは3年前に死亡していたのであります。” → http://www.okayama-h.ed.jp/micheal_j.html

モンタランベールの『イギリスの政治的未来について』というのが出典のようです。ブリタニカのHPでは、Charles-forbes-rené, Count De Montalembert(1810-1870)の著作とは、『De L'Avenir politique de l'Angleterre』 (1856; “The Political Future of England”)が相当するようです。

http://www.britannica.com/eb/article-9053475

上記引用句はウェリントン将軍の著作ではなく、フランス人がフランス語で書いた本からの引用だったようです。ということで本書第6版『De L'Avenir politique de l'Angleterre. 6e ed.』(Paris, Didier, 1860)にあたってみると、

“C'est ici qu'a été gagnée la bataille de Waterloo.”(p.178)

という記述が見つかりました。『教育名言辞典』の「ウォーターローの戦いはここで勝った」という訳は妥当ですが、前後をみても「Eaton」、「Cricket」という言葉もこの「発言」の典拠も記載されていませんでした。英語版“The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton.” が流布しているとすれば、ウェリントン公の子孫が怒るのも無理はない・・

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日独サッカー交流事始め

第一次世界大戦で独軍捕虜を収容した広島県似島収容所のドイツ人たちから、広島のサッカーが大きな影響を受けたことは以前記しました。

http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2005/08/100_be7c.html
http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2005/07/post_cbf2.html

TV番組「ドイツからの贈りもの」によれば、帰国した捕虜のひとりが創設したクラブからブッフバルト氏が出たそうです。

『サッカー静岡事始め』によれば、サッカーが静岡に伝わったのは1919年静岡師範だそうです。日本最初の国際試合1917年極東大会に出場した、すなわち最初の“日本代表”北村(旧姓藤井)春吉がこの年師範に赴任しています。当時師範に在籍した小花不二夫氏について以下の記述があります。

“昭和五十一年一月、急性肺炎により七十三歳で亡くなったが、長男の公生氏は「父は多くを語らなかったが、とにかくサッカーの虫だった。師範時代は、学校の近くにドイツ人の捕虜が収容されていて、その人からサッカーを教えてもらったと話していた」という。”(p.10)

広島のみならず、静岡もドイツ人捕虜からサッカーを学んだようです。

静岡師範はまた、1929年清水港に寄港した英国東洋艦隊所属のクロンウォール号とも試合をしたとのこと。

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早稲田WMWと帝大LB

1928年第8回全日本選手権大会(天皇杯の前身)の覇者は早稲田WMW、1932年第11回大会の覇者は帝大LBです。両者とも現役、OBの混成チームで、WMWはWaseda Maroon & White、LBはLight Blueでチームカラーをあらわしています。漢字化すれば早稲田茶白、帝大淡青です。

本日誌6月15日付けに記したように、

1927年極東大会代表ユニ → 茶白縦縞
1930年極東大会代表ユニ → ブルー

という記録がありました。 → http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2006/06/samurai_blue.html

現在の早稲田大学ア式蹴球部ユニ → http://www.waseda-soccer.com/index.shtml 
縦縞の名残があります。

同東京大学運動界ア式蹴球部ユニ → http://www.todai-soccer.com/
Contents → Photo 現在もライトブルーのままのようです。

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引分上等

土曜出勤月曜代休ということで昨晩は3連荘。

4BKで宮本はキツイ。ガンバでも4BKのときははずされてるし。

ブラジルの1次リーグはロナウドのダイエットのためにある?

韓国が負けるところを見てやろうと頑張って起きてたのに。最後まで運動量が落ちないところが・・

オーストラリア、韓国と一緒で「2枠」だと2010年は大丈夫か?

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元祖! 4-3-3

4-3-3は4-2-4に替わって、1960年代から70年代にかけて主流となったフォーメーションです。オランダなんか現在でも4-3-3です。

4-3-3を発明したのはオランダ人でもドイツ人でもありません。実は1901年日本の不世出のサッカー戦術家高橋忠次郎が発案したものです。証拠文献はコレだ!!!(爆

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075601&VOL_NUM=00001&KOMA=68&ITYPE=0

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明治期改訂完了

国会図書館の近代デジタルライブラリーが収録資料を拡大したのにともない、原文献に全文アクセスできる明治期の収録資料を大幅に増やし、原文献にリンクを貼りました。

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/book1.htm

イラストが面白い資料があるので、「明治期サッカー本イラスト集」をテーマに電子展示会?でもやろうかなと思っています。

欧州、南米の強豪国が順当に勝ち上がりそうで、決勝トーナメントは面白くなりそう。決勝トーナメントになると時間が後ろにずれるので、カラダがもつか心配 ← アホ

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走れるチームを作るには

日本サッカーがプロ化した現在、

ティーンエイジで傑出したテクニシャン:Jクラブユースまたは高校サッカー名門校 → Jクラブ
ティーンエイジであまり目立たない選手:高校サッカー → 大学サッカー部

という棲み分けができつつあるようです。

大学サッカー部出身者の方が、クラブユースや高校サッカーで脚光を浴びたスター候補ほど上手くないのを自覚しているようで、いわゆる「汗かき」、「潰れ役」タイプが多いようです。巻なんかその典型でしょう。

日本のプロサッカーでは大学出がブルーカラー。走れるチームを作りたければ大学出を使いましょう。ジェフがあれだけ走れるのは大学出が多いから。代表チームにももっと大学出を・・(笑

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Samurai Blue?

先日機会があって、さる方のご好意により故・田辺治太郎氏(14代田辺五兵衛 元田辺製薬会長)の草稿『服色考』をチラっと拝見することができました。これには戦前の日本代表のユニフォームのデザインが記してありました。手元のメモによれば、

1927年第8回極東大会 茶白縦縞
1930年第9回極東大会 ブルー

となっています。

1927年極東大会は対フィリピン戦で日本代表が国際戦初勝利した大会で、代表の構成は早稲田主体。
1930年極東大会は日本が極東大会初優勝した大会で、代表の構成は東大主体。

早稲田の茶、東大の青と、代表の主力となった大学のユニ(スクールカラー)が代表ユニになったようです。なお、1936年ベルリン五輪のユニは秩父宮記念体育博物館にFW松永行氏着用のものが残っており、青であることを現物で確認できます。

1930年以降代表ユニが青になったのは、極東大会優勝のゲンを担いだのか? イングランド代表は本来白なのですが、1966年W杯で優勝したときたまたま赤だったので、“勝負”試合にはゲンを担いで赤を着たりします。

ところでsamurai blueっていったいどんな青なんでしょう・・ 1930年極東大会代表主将竹腰重丸氏は正真正銘の“侍”だったようですが。

http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2006/06/post_d833.html

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好著発見

静岡新聞社編

『サッカー静岡事始め』(静岡新聞社,2006.4)

が刊行されています。

http://www.shizushin.com/bookguide/book_guruguru/20060425213402.htm

(静新新書001)というシリーズ番号が“王国”らしい(笑)

内容については後日・・

『どうまい静岡うなぎ』 http://www.shizushin.com/bookguide/book_guruguru/20050712160132.htm
『こんやもカレーだら』 http://www.shizushin.com/bookguide/book_guruguru/20040802152647.htm

もどうぞ 

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SAMURAI

は試合を投げない

はスシも投げない

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大学進学率とサッカー

現W杯日本代表のうち大学サッカー部出身は坪井、巻くらいですが、1968年メキシコ五輪当時はほとんどが大学サッカー部出身者でした。W杯出場国のうち、大学サッカー出身者がいるのは日本と韓国(米国にもいるかもしれない)くらいでしょう。

かつては少数エリート型だったヨーロッパの高等教育システムも、最近は米国、日本なみに大衆化しているようです。OECDによる高等教育卒業率(標準的な卒業年齢人口に対する高等教育卒業率)のグラフ ↓
http://www.oecd.org/dataoecd/22/31/35282687.xls (Chart A3.1をご覧ください)

日本     34.2%
米国     32.9%

フランス   26.7%
ドイツ     19.5%
英国     38.2%
イタリア   26.7%
スペイン    32.1%

OECD平均 32.2%

これをみるかぎり、大学進学率とサッカーの強弱は関係ない、すなわち優秀なアスリートが大学に進学することによってプロサッカーが弱体化する、という事象は起こってないようです。 

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“エリートのスポーツ”としてのサッカー

「ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー」に記したように、戦前のサッカーは大学へは、

進学校のエリート中学(東京高師附中、神戸一中、広島一中など)→旧制高校→大学

という過程で普及しました。→ http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/colum5.htm

以前の日誌に記したように、大正期の中学サッカーの普及は、明治末の熱狂的な野球ブームを憂慮した教育者が、エリートにふさわしい競技として、二流国(当時)米国の国技で“巾着切の遊戯”野球よりも一流国英国の国技蹴球を推奨したことが大きな要因でした。

1920年代以降、JSL時代まで、代表チームは大学生およびそのOBが大部分をしめます。また、1920年代末大学OBが師範OBから協会運営の実権を奪います。現JFA大幹部(笑)の学歴をみれば、現在も大学(サッカー部)OBの協会支配が続いていることがわかります。

サッカーがかくも長期間カレッジ・スポーツすなわち“エリートのスポーツ”(ラグビーと同様の)として存在しつづけたのは、世界的にも珍しい例といえるでしょう。母国でとっくの昔に消滅した“エリートのスポーツ”としてのサッカーが、かなり後に極東の島国で受容され、つい最近まで存続していたのです。

このことは日本サッカー史に以下のように影響したと考えます。

1.純粋なアマチュアリズム(ラグビー同様の)
2.フェアプレーの尊重
3.代表チーム強化の優先
4.普及(底辺拡大)の軽視

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範多範三郎

トーマス・グラバーは自らを“徳川幕府最大の謀反人”と称していたそうですが、ハンター氏も西南戦争時西郷軍に軍需物資を供給して商会の基礎を固めたそうです。維新後長崎から神戸に本拠を移したグラバーとハンターは面識があったようです。破産したグラバーは三菱の顧問になって東京に移り、中禅寺湖鱒釣の開拓者になります。

グラバーの死後、中禅寺湖の別荘を買収し、東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部を創設し、日本におけるフライ・フィッシングの祖という存在になるのが、ハンター氏の次男範多範三郎、龍平氏の叔父にあたります。ロンドンのRoyal School of Minesに留学、鉱山・冶金学を修めるとともに、本場のカントリー・ジェントルマンの趣味を身につけます。倶楽部のメンバーは加藤高明首相を会長、副会長鍋島直映、岩崎小弥太、理事長が彼自身、会員は華族や在日外交官などです。

範三郎は商会の顧問弁護士森作太郎の娘と結婚します。作太郎の息子が田中義一内閣の外務政務次官(外相は首相が兼務したので事実上の外相といわれた)森恪で、義兄弟となります。森は政友会幹事長、犬養内閣の書記官長(現在の官房長官)も歴任しています。範多家は政界中枢とも繋がっていました。

範三郎は東京に進出して鉱山会社を経営しますが、彼が開発した鉱山のひとつが大分県の鯛生金山。所在地は2002年にカメルーンのキャンプ地として有名になった中津江村、ということでサッカーつながりに・・

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範多(ハンター)財閥

本日誌にもたびたび登場する範多龍平氏に関する資料が見つかりました。

・福田和美著『日光鱒釣紳士物語』(山と溪谷社,1999)
・「在りし日の範多農園を訪ねて」 → http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/hantanouen1.htm

Edward H. Hunter - 範多龍太郎 - 範多龍平
            - 範多範三郎
            - 範多英徳

という家系で、祖父のハンター氏については → http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/hantanouen7.htm
範多姓については → http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/hantanouen8.htm

ハンター氏はハンター(範多)商会、後に現在の日立造船となる大阪鉄工所を創立、

“社員約三七〇〇人の大阪鉄工所は、明治末期には三菱・川崎と共に三大造船所となった。”(同上書p.132)

大正6(1917)年に大阪鉄工所を手放して後も、

“範多商会は神戸本店のほか、大阪、東京、京都、横須賀、呉、小倉、台北、朝鮮、大連、ニューヨーク、ロンドンに支店や出張所を置き、さらに龍太郎は、大阪海上火災保険会社取締役社長、日本傷害保険、大阪商船その他の役職も兼ね、当時の資産総額は一八〇〇万円を越えていた。”(同上書p.133)

龍平氏は大正7(1918)年神戸一中卒で慶應に進学するのですが、現在国指定重要文化財になっているハンター邸に実際に住んでいたわけですね。彼は蹴球部主将でもあったのですが、3年後輩の主将は白洲次郎。白洲は中学生の分際で自家用車を乗りまわしていたそうです。

大正時代の神戸は、大正期最大のベストセラー賀川豊彦『死線を越えて』に登場する悲惨なスラム街がある一方、国立西洋美術館の根幹となった“個人コレクション”松方コレクションの松方幸次郎をはじめ、第一次世界大戦により「船成金」といわれた海運、造船業界で途方もない大金持を輩出した「究極の格差社会」でした。

普及期のサッカーはプロレタリアートのスポーツではなく、大金持のスポーツだったのです。


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侍ニッポン

竹腰重丸氏は極東大会に3度出場、日本の国際戦初勝利、初優勝を選手として体験し、ベルリン五輪ではコーチ、戦後2度にわたって日本代表監督を務めています。メルボルン五輪、W杯予選初出場したW杯スイス大会予選時の代表監督です。

文字どおり日本代表とともに歩んだ人生をおくった竹腰(たけのこし)氏のエピソードといえば“短刀”でした。岡野俊一郎「サッカーの英雄たち クラーマー・コーチの残心と竹腰さんの“短刀”について」(『文藝春秋』1966年11月号所収)では、

“当時は極東オリンピックが最大の国際試合であったが、ノコさんは早くから代表選手に選ばれ、少したつとコーチをも兼ねるようになった。極東オリンピックの選手合宿の時、ノコさんが常に白鞘の短刀を持っていたことは有名である。ノコさんに言わせれば、「当時は選手選考等で複雑な問題があったし、自分も若くして責任のある役を引受けていたので、もし自分のやったことが間違っていたら腹を切るつもりで短刀をもっていただけで、それでだらしのない選手をおどろかそうなどという考えはもっていなかったよ。しかし、短刀をもっているということが、誰からとなく選手に知れた後、確かに選手の気持が引き締まって来たのも事実だ。要は、人間が或ることを必ずやり抜こうと決意すれば、その仲間を一緒に引張って行くことは可能だということだ」ということだが、現在の若い選手には一寸理解しにくい、一種の神話になってしまっている。”

その短刀とは臼杵藩の家老の娘だったという彼の母親から譲られたもので、毎日新聞1967年4月2日~4月13日にかけて10回連載された「対談閑話」という竹腰インタビューでは、母親について、

“もうひとつは“負けずぎらい”でしょう。これは母親の影響です。母親は遠城寺という家老の娘できつい人でした。小学校のころ、けんかして泣いて帰ったりしたらたいへんでした。「そんなことでサムライの子か」と家へ入れてくれませんでした。だからけんかして泣かされても、川で顔を洗って帰るようになりました。そういうキツイ教育で“負けずぎらい”になったのでしょう。”

と述べています。明治39(1906)年生まれの竹腰の祖父の世代は腰に刀を二本差ししたホンモノの侍で、彼自身も“サムライの子”として躾けられて育っています。

竹腰よりも一回り上の世代、明治27(1894)年生まれの山田午郎氏(現在の天皇杯の前身、第1回日本選手権優勝メンバー)の父は二本松少年隊(二本松における会津白虎隊のような存在)の生き残り、文字どおり白刃の下をくぐった世代です。

竹腰、山田両氏とも昨年日本サッカー殿堂入りされています。

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中馬庚『野球』(明治30年)における投手の駆け引き

明治30(1897)年に刊行された中馬庚『野球』に投手の「打手に対する心得」があります。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40076077&VOL_NUM=00000&KOMA=65&ITYPE=0

“熱球一番彼ノ顔面ヲ狙ッテ心臓寒カラシムルモ亦一略ナリ”

ブラッシュボールを使うのも作戦のうち。

“同一ノ魔球ヲ反復セハ却ッテ敵ノ利スル所トナラン 故ニ魔球ト熱球トノ調和ハ常ニPノ技術ノ最要ナルモノニシテ敵ニヨッテ其調和ヲ変セサルベカラス”

同じ変化球を続けるのはよくない。変化球と直球の配球は投手の技術のうちで最も重要。

現在でも野球解説は投手の配球と打者の「ねらい球」のしぼり方が大半です。野球は明治30年の時点で投手の配球を「考える」レベルに到達していたのです。

一方『野球』の6年後、明治36(1903)年に刊行された『アッソシエーションフットボール』の「第八章 ゲーム中に於けるプレヤーの注意」には試合の駆け引きに関する記述は見当たりません。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40075427&VOL_NUM=00000&KOMA=44&ITYPE=0

明治時代における野球とサッカーの成熟度の差を感じざるを得ません。

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阪神グループの不思議(非蹴球)

阪神グループ

http://www.hanshin.co.jp/group/index_group.html

にザ・リッツ・カールトン大阪

http://www.ritz-carlton.co.jp/

があって完全に浮いてます。

リッツ・カールトンに泊まる人は阪神電車に乗らない
阪神電車に乗る人はリッツ・カールトンに用はない

相乗効果がまったく期待できない提携では

大阪ブルーノートもグループです。梅田駅のカレーショップは「ミンガス」。
グループ内の有力者にジャズ好きがいるようです。

私はインデアン(最近丸の内に進出してきた)より胸焼けするようなミンガスのカレーが
好みなので、M&Aを機会に有楽町あたりへの出店を期待したいものです。
ついでにイカ焼きもこれを機に東京進出を・・(笑)

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鉄道とスポーツ

大正2(1913)年庄内中学卒の独文学者相良守峯氏は在学中蹴球部にいたそうで、修学旅行を兼ねて当時東北地方でサッカーをやっていた2校のうちのもう1校、仙台一中と対戦したときの回想を「サッカーの旅」(『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会,1988)に記しています。

“・・・ところでその時代、東京以北でサッカー部を置いている中学校は他には1校もなかったので、我々は躍起になって仙台一中に試合を挑んで、先方からも喜んでそれに応戦することになり、こうして或る夕べ、健気な旅装を調えて、2、3人連れで旅路に昇った。

 というと、一体どんな旅路に昇ったのかと言いますと、当時はまだ田舎町であった鶴岡には汽車などいうものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流へ上流へと14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。夕方から翌朝まで熟睡したのち、翌る日は仙台一中の敵軍を迎えて大いに戦ったが、・・・”

明治39(1906)年鉄道国有法成立時の鉄道網の地図があります。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/nen/n09.pdf

羽越線が鶴岡まで開通するのは大正時代です。上記地図だと山陰、四国、南九州は“鉄道網”といえるものは未だ存在していません。旧国鉄の鉄道網は大正時代にほぼ完成しますが、大正時代にインターハイや中等野球の選手権のような“全国大会”開催が可能になったことと鉄道網の発達とは無関係なはずがないでしょう。

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部制(ディビジョン・システム)の不思議(2)

2004年11月11日の当日誌「部制(ディビジョン・システム)の不思議」で、1924年に始まったサッカーの東京コレッヂリーグが最初から1部2部・・のデビジョンシステムを採用していたのに対し、1925年に始まった野球の東京六大学リーグは入替戦なしの閉鎖的なリーグであり、それが現在まで続き、かつプロサッカー、プロ野球にも反映されていることを記しました。

http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2004/11/post_1.html

サッカーの方のモデルは、『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会で同中卒で慶應OBの範多龍平の発言により、イングランドのフットボール・リーグであることがわかりました。

“東京のリーグ戦はカチヌキ、システムは経費の関係や、グラウンドの関係がどうしてもうまく出来なかったから、かまわないから分けてしまえといふので、四校づつ第一部、第二部と云う風に分けてしまった。分けたのは英国の職業団が大会でやってゐるシステムを真似たのですが、「第一部、第二部、第三部に分けて私等が勝手に其の時の各学校の力量によって、一番強そうなやつを第一部に、次を第二部に入れる、それから第三部に・・・・。前以て或程度まで内部の諒解を得ておいたがそれでも非常に反対が出た。なぜ俺の所が第二部であれのところが第一部かと非常に反対が出たが兎に角それを押し切った」東京のリーグは今は五部か六部迄あるでせう。各部から最高点チームが一部上って、最低点チームが一部下る規則だとか皆英国通りに拵えて始めたのです。”

野球の方はアイヴィーリーグあたりがモデルではないかと思ったのですが(アイヴィーリーグに入替戦があるわけない)、Ivy League SportsのHPを見ると、ある新聞記者が“Ivy colleges”という言葉を初めて使ったのは1933年、実際にリーグが結成されてリーグ戦が始まったのは戦後の1956/57年度のようです。

http://www.ivyleaguesports.com/WhatIsIvy/history.asp

野球の年度別成績をみると、“Ivy”という言葉が使用される前の1930年に6校で始まっています。

http://www.ivyleaguesports.com/documents/bsbrb.asp

東京六大学リーグの方がアイヴィーリーグよりも古いのです。米国の場合、大学が広域に分散しているので、リーグ戦を行なうには交通網の制約が大きかったのではないかと思われます。

東京六大学野球のモデルも米国の職業野球すなわちメジャーリーグだったのではないでしょうか?

1920年代に狭い地域でリーグ戦ができるほど“大学”が密集している国は果たして他にあったのか、それだけで日本のスポーツ史の“ユニークさ”を強調できるのではないかと思います。

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戦前サッカーに関係していた映画関係者

今村昌平監督が亡くなりました。氏は東京文理大学(旧東京高等師範学校)附属中学校時代蹴球部のマネージャーをしていました。

他にサッカー関係者では、日本映画を代表する傑作『羅生門』や『浮雲』に主演した俳優森雅之がいます。森(本名:有島行光、有島武郎の長男)は成城小、中、高時代サッカーをしていました。旧制高校の全国大会(インターハイ)にも出場しています。おそらく日本最初の少年(小学生)サッカー大会であろう1922(大正11)年の第1回関東少年蹴球大会にも出場しています。この大会は東京蹴球団主催、東京朝日新聞後援で、10月15-16日に日比谷公園で開催されました。10月16日付け『東京朝日新聞』には、写真、メンバー表付きの記事が掲載されています。有島武郎も応援しに来たようで、写真のキャプションは、

“選手の父として

 成城学校の一選手として令息の行光君が後衛を承ったので有島武郎氏は朝早くから貴賓席の椅子をはなれず、『ャ、しっかり』などと思はず「父」らしい声を出して応援につとめた”

となっています。

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東京蹴球団と大日本蹴球協会

1921年の大日本蹴球協会創設に先立つこと4年、1917年創立の東京蹴球団は単なるクラブではなく、各種大会の開催や普及活動など、実質的な“協会”の役割を果たしていました。サッカーのルーツ校東京高等師範学校、青山師範、豊島師範のOBがチームの主体でした。

当然、大日本蹴球協会創設には東京蹴球団は大きな役割を果たしています。 初代理事は、近藤茂吉、内野台嶺、熊坂圭三、吉川準治郎、永井道明、武井群嗣、高橋禮本の7人ですが、内野、熊坂、吉川、永井の少なくとも4人が東京蹴球団関係者(永井は団長)です。

このように初期の協会は師範系人脈が中心だったのですが、1924年に関東・関西で大学リーグが始まり、日本サッカーのトップ・チームが大学になり、代表チームの構成も大学生とそのOBが占めるようになると、大学生(OB)は協会運営に不満をもつようになります。JFAの機関誌に掲載された、「日本のサッカー古代史(下)」(『サッカー』no.15 1962所収)という座談会で以下のように記されています。

“新田(純興):「このあと協会の改造がありますね。日本サッカーは高等師範や青山、豊島の師範系の人がリードして来たんだが、大学の関係者が理事に多数送りこまれるようになっている。」
鈴木(重義):「昭和四年の改選だね。今や日本のサッカーが国際蹴球連盟(FIFA)に加盟して世界的に伸びるためには、ぜひとも大学の連中が出なければいかん。大学系の人たちが基幹となって全国的にまとめていこうといううんでやったんですよ。」
野村(正二郎):「僕らはそのころのことしか知らないんだ。今までの古代史はどうもネ(笑い)」
鈴木:「それで各大学の主だった人々が私の家に集まって、どうも協会はこのままではいかん。大改造をするか、つぶしてしまうかという動きが出ましてネ。私が遅く家に帰ると私の家は各大学の主だった人がもういっぱいに集まっていて今度の(昭和四年)改選期にはぜひ何とかしたいと協議中だった。そのころ大学出で協会の役員をしていたのは野津さん、岸本武夫さん、慶応の千野正人さんと僕。それが並び大名的存在だった地方代表の理事にも呼びかけて、従来のような白紙委任や、前回通りという投票ではなく、新らたに堂々と投票してもらいたいという運動をやったんだ。理事会の席上での野津さんとのチームワークも成功して、われわれの提案が採用された。その結果われわれの申し合わせた人達は最下点ではあったが、とにかく理事に就任した。その顔振れは、中島道雄、井染道夫、峯岸春雄、竹腰重丸の四人だった。その時の最高点は山田の午郎さん。」
新田:「しかも一年ばかりすると、その午郎さんを、運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪いといって辞めてもらったりしている。他の理事が辞めた時に例をみない記念品贈呈なんかをやってるところをみると、よっぽど苦心したんだネ。(笑い)」”

発言者の新田は東大、鈴木、野村は早大OB、発言中に出てくる中島、竹越は東大、井染は明大、峯岸は農大OB,山田は青山師範OBで朝日新聞記者。この座談会の司会は牛木素吉郎氏。1929年の理事改選で大学勢が協会の主導権を握ります。また、『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の座談会で同中卒で慶應OBの範多龍平は以下のように発言しています。

“範多氏:日本の蹴球協会といふのは師範系統で牛耳られてゐた。師範出の連中が牛耳るが為めにサッカーの発達を阻害せられてゐるといふので、何とかしてブチ破らうじゃないかといふ考へか大分あった。そこで大学に片端からサッカーを拵えて行った。東京帝大なんか其の時に出来た。大村、佐伯なんかも居たので引掴んでお前とこもやれといふので大学にサッカーが出来た。初めそれ等が蹴球協会を牛耳ろうといふのでやって見たがどうしても師範出の奴は物が判らない・・・。東京に蹴球団といふものがあって、之が日本蹴球協会を左右して居た。それが不愉快でたまらない、それでとうとう別れるより仕方がない。別の物を拵えて、大学リーグを始めた。その方から蹴球協会の理事とか何かが這入って行って余程よくなったと思ひます。”

東京蹴球団の活動については、当サイトで原島好文「ソッカー十年の思ひ出」を掲載しています。↓
http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/harashima.htm

小学生の大会を開催したり、女性をチームに入れて試合に出したり、遠方に講習に出かけたり、と普及活動を盛んに行っています。

一方、代表チームを独占するようになった大学勢は、当然代表チームの強化を最重要課題として考えていたはずです。1927年極東大会初勝利、1929年FIFA加盟、1930年極東大会初優勝、の流れの中で、上記に引用した協会内の対立、そして1929年の協会理事選がありました。

私は、1920年代後半に協会内で師範OBvs.大学OB、普及vs.代表チーム強化という「路線論争」があったと思うのですが、それらしい資料は見つかっていません。

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『日本運動具新報』データベース

『東蹴六十年史草稿』(東京蹴球団,1977)に掲載された「山田午郎氏年譜・略歴」に、

“◇運動記者時代は蹴球戦評で一時代をひらき、一躍全国に名をはせ、サッカーを語る者で山田午郎の名を知らぬ者は無きに至った。晩年は業界紙「運道具新報」主宰、日本蹴球協会常務理事、関東蹴球協会副会長。”

とあります。日本のサッカー記者の草分け山田午郎は朝日新聞退職後運道具業界紙と関係していたようです。

「運道具新報」なる資料を探したことがあるのですが、未見でした。日本スポーツ産業学会が「日本運動具新報データベース」を作成し、ごく一部ですが新聞記事を閲覧できるようになっています。

http://www.spo-sun.gr.jp/html/relate/a_data.html

日本スポーツ産業学会の学会誌『スポーツ産業学研究』のバックナンバーをみると、サッカー関係では、

佐野毅彦「Jリーグ新人研修の現状と課題」vol.15 no.1
高橋義雄「日本人Jリーグ選手の国際移籍の要因に関する研究」vol.14 no.1
・2002年ワールドカップを振り返る vol.13 no.1
 村田忠男「大会総括と日韓共催の成果」
 平田竹男「ビジネスから見たワールドカップ」
 伊東武彦「ハードウエアから見たワールドカップ」
 加藤久「プレーから見たワールドカップ」

などです。執筆者は学会誌らしからぬ顔ぶれ(笑)。

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