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国会図書館所蔵1980年以降のサッカー本を検索する

 我が国最大の図書館である国会図書館のサッカー本を検索してみましょう。

 同館の蔵書目録DBであるNDL-OPACに入ります。「一般資料の検索/申込み」ボタンを押してください。

 次に分類記号検索ボックスに、

783.47

と入力し、「検索」ボタンを押してください(上記をクリックすれば最新の検索結果になります)。 1,500件以上のレコードがヒットしますが、最大200件までしか表示されません。

 2006年刊のサッカー本を見たければ、右上の「絞り込み/再検索」ボタンを押して、出版年の左側検索ボックスに、

2006

と入力し(「2006」年以降の形にして)、「検索」ボタンを押してください。

 全件見たい場合は、200件以内になるように絞り込む必要があります。右上の「絞り込み/再検索」ボタンを押して、出版年等で 200件以内になるように絞り込んで、刻んでいってください(2002年以外は年間200件以内です)。

 この機能を使って各年のレコード数を調べることができます。

出版年:「2002」年以降「2002」年まで

として検索すれば、国会図書館が所蔵している2002年発行のサッカー本が255件であることがわかります。

 なお、児童書には783.47という分類記号が付与されていないようなので、上記には含まれていません。また、同館が我が国で発行されたすべてのサッカー本を収集しているというわけでもないようです。

 サッカー本に783.47という分類記号が付与されるようになったのは1980年以降のようです。それ以前は783.4で、ラグビーやアメフトと同記号だったので、分類記号でサッカー本のみを抽出することはできません(一発検索はできません)。

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ワールドカップの商標

特許電子図書館→初心者向け検索へ-商標の検索をクリック→「ワールドカップ」と入力して検索実行 するとワールドカップ関係の商標を一覧できます。

【商標登録番号】 第330531号
【登録日】 昭和15年(1940)5月8日
【出願番号】 商標出願昭12-16048
【出願日】 昭和12年(1937)7月8日
【先願権発生日】 昭和12年(1937)7月8日
【更新申請日】 平成12年(2000)3月22日
【更新登録日】 平成12年(2000)4月4日
【存続期間満了日】 平成22年(2010)5月8日
【分納満了日】
【拒絶査定発送日】
【最終処分日】
【最終処分種別】  
【出願種別】

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【商標(検索用)】 World’s Cup\ワ-ルド カップ
【標準文字商標】
【称呼】 ワールドカップ
【ウィーン図形分類】

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【権利者】
【氏名又は名称】 フェデレイション インターナショナル デ フットボール アソシエーション
【住所又は居所】 スイス国 8032 チューリッヒ ヒットツイグベェグ 11

FIFAが1937年に出願、1940年登録されています。「World Cup」じゃなくて「World's Cup」なのがご愛嬌。Wikipediaによれば和歌山の蔵元が1969年に清酒名「ワールドカップ」を出願し、後にFIFAが取り消しを求めるも、1969年当時はワールドカップは知名度なしということで、認められなかったとのこと。【商標登録番号】 第1883642号 のがそれでしょうね。→Wikipedia「ワールドカップ」

それにしても戦前に商標化されてたとは FIFAはガッチリしてますなあ
1936年のベルリン五輪後、1940年幻の東京五輪を控えて布石を打ったというところか・・

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岡田監督辞任

・・て、野球じゃないのか  残念!

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野球殿堂の掲額者

野球殿堂の掲額者(名選手系)で大学野球関係者でない人を年次順に見ると、
(→ http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/list/year.html)

沢村栄治、ヴィクトル・スタルヒン、川上哲治、藤村富美男、西沢道夫、吉原正喜、別所毅彦、小鶴誠、千葉茂、飯田徳治、白石勝巳、金田正一、野村克也、真田重藏、張本勲、稲尾和久、王貞治、与那嶺要、呉昌征、衣笠祥雄、大杉勝男、中西太、広瀬叔功、米田哲也、小山正明、長谷川良平、山内一弘、鈴木啓示、福本豊、仰木彬、村田兆治、門田博光、高木守道、山田久志、豊田泰光

の各氏になります。

1)沢村、スタルヒンの例にみられるように、競技のプロ化が大学関係者以外の“歴史的大選手”を生んでいる。殿堂入りした高卒(戦前は中卒)の大選手は全員プロ野球選手。
2)殿堂入りするような実績を作るには長い年月が必要なので、比較的近年殿堂入りしている人たちは高卒が多い。

ということが読み取れます。プロ化が遅れていたら、すなわちアマチュア時代がもっと長く続いていたら、サッカー同様殿堂入りする名選手は大学出ばかりになっていたでしょう。

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新代表メンバー

坪井、中村(直)、山岸に加えて、巻、羽生が入って大学出が増えました(笑 
坂本も入るかと思ったんだけど・・

http://fukuju3.cocolog-nifty.com/footbook/2006/06/post_24ba.html

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サッカー殿堂掲額者

が10日発表されました。

横山謙三、森孝慈、宮本輝紀、渡辺正、小城得達、坪井玄道、内野台嶺の7氏です。

これまでの掲額者 → http://www.11plus.jp/dendou/

掲額者のうちで高等教育を受けていないのは宮本輝紀、坪井玄道、山田午郎の3氏だけ(外国人のクラマー氏は除く)。江戸時代生まれで英学塾で教育を受けた坪井、卒業した青山師範は現東京学芸大学である山田の両氏とも選手としての実績で殿堂入りしたわけではありません。

いわゆる名選手として殿堂入りした人のうちで大学卒でないのは宮本輝紀氏のみなのです。サッカーがいかに長い間カレッジ・スポーツであったかが、殿堂入りした人の経歴からもわかります。それだけ限られた層にしか普及していなかったともいえます。日本代表の学歴別構成をみれば、日本サッカーがどう変化してきたかが一目瞭然になるでしょう。

メキシコ五輪代表で大学卒でなかったのは宮本氏と片山洋氏だけだったと思います。宮本・片山両氏とも、オシム氏が2ゴールした1964年10月20日長居での日本vsユーゴ戦に出場しています。

コメントに指摘されてますように、もう一人は片山氏ではなく、富沢氏でした(8/13訂正)

殿堂といえば、片山洋氏の父、片山豊氏はAutomotive Hall of Fame(自動車の殿堂)入りしています。

http://www.automotivehalloffame.org/honors/index.php?cmd=view&id=79&type=inductees

日本人としては、本田宗一郎(1989年)、豊田英二(1994年)、田口玄一(1997年)の3氏に続く4人目で、1998年に殿堂入りされています。品質管理の田口氏のほかは世界のHONDAとTOYOTAのトップで、片山氏がアメリカ人も一目置いた破天荒なクルマ屋であることがうかがわれます。

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因縁のはじまり

Japan - Yugoslavia 1-6 (0-4) Osaka Tournament, Semi Final
(Osaka - Nagai Stadium - 20.10.1964 - 14:00)

Japan (White-Blue-White):
Kenzo Yokoyama (GK), Hiroshi Katayama, Yoshitada Yamaguchi, Aritatsu Ogi, Ryozo Suzuki, Mitsuo Kamata, →“Saburo Kawabuchi”, Teruki Miyamoto, Shigeo Yaegashi, Kunishige Kamamoto, Ryuichi Sugiyama. Coach: Ken Naganuma

Yugoslavia (Blue-White-Red):
Ivan Curkovic (GK), Mirsad Fazlagic, Svetozar Vujovic, Rudolf Belin, Milan Cop, Jovan Miladinovic,
Silvester Takac, Slaven Zambata, Lazar Radovic, →“Ivica Osim”, Dragan Dzajic. Coach: Vladimir Lovric

Scorers: 0-1 3' Zambata, 0-2 5' Zambata, 0-3 28' Osim, 0-4 43' Zambata, 0-5 60' Osim, 1-5 61' Kamamoto,
1-6 63' Zambata
Cautions:
Referee: Hussein Imam (UAR)
Attendance: 20,000
Note: This match was a part of Olympic Games 1964. It was considered as match for 5/8 place.

本来は都市単位で開催されるオリンピックですが、せっかくの機会なので関西でも東京オリンピック準々決勝敗退組で大阪トーナメントを実施しました。当時日本はサッカー三流国で、一流国とナショナル・マッチを組むのは困難でした。「東京だけに国際戦を独占させたくない」という“関西の意地”が生んだこの試合のメンバーが42年後に・・

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1938W杯フランス大会決勝の動画

イタリアvsハンガリーもありました。

http://www.youtube.com/watch?v=CZvpPKEncqY

この試合は早稲田大学教授島田孝一と大日本蹴球協会理事の野村正二郎が観戦しており、野村が『蹴球』1938年12月号に「巴里の報告 中」という観戦記を投稿しています。

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/wc38.htm

“イタリアCFピオラは右ウイングのビアバッチにパス、そのまま右サイドをえぐってビオラに返し、ゴール前10mからシュートして試合を決めた”シーンが観られます。

イタリアはゴール前でも細かくつないでいたりして、ダニューブ・スタイル同士の決勝だったんでしょうか。

Paris (Stade de Colombes) – Sunday, 19 June 1938 – h. 15,00

ITALIA - HUNGARY 4-2 (3-1) III Rimet Cup (Final)

ITALIA: A. Olivieri (Lucchese) 12, Foni (Juventus) 9, Rava (Juventus) 15,
Serantoni (Roma) 14, Andreolo (Bologna) 15,
Locatelli (Ambrosiana – Inter) 11, Biavati (Bologna) 3,
Meazza (Ambrosiana – Inter) 47 (cap.), Piola (Lazio) 18,
Giovanni Ferrari (Ambrosiana – Inter) 42, Colaussi (Triestina) 16.
Coach: V. Pozzo.

HUNGARY: Szabo, Polgar, Biro, Szalay, G. Szücs, Lazar, Sas, Vincze,
Sarosi I (cap.), Zsengeller, Titkos. Coach: K. Dietz.

Referee: Capdeville (France).

Scorers: 5’ Colaussi, 7’ Titkos (H), 16’ Piola, 35’ Colaussi, 70’ Sarosi I (H),
82’ Piola

Attendance: 60,000

Locatelliはベルリン五輪日本戦にも出場しています。Meazzaは競技場名になった人でしょうか。

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1950ワールドカップブラジル大会決勝

の画像がYouTubeにありました。

http://www.youtube.com/watch?v=4rP16vXPhPU

ウルグアイ人は死ぬほど観てるんでしょうが(笑

ブラジルGKは“戦犯”として一生過ごすことに

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今村次吉

大日本蹴球協会初代会長(1921-1933)

『昭和人名辞典』(日本図書センター,1987 『大衆人事録』第14版(帝国秘密探偵社昭和17~18年刊)の改題複製)によれば、

“従四勲四 大日本レスリング協会 大日本蹴球協会名誉会長 大日本体育協会顧問 本郷区駒込曙町一〇ノ四 電大塚一九六 [閲歴]医博今村新吉の弟 明治十四年三月生れ 先代田亀の養子となる 同三七年東大法科卒業大蔵書記官露国駐在財務官市財務局長歴職 曩に亜細亜林業社長日露実業常務たり [家庭]妻喜久子(明一八)本府加地吉彦妹 長男進一(明四〇)経済学士三菱銀行勤 同妻登代子(明四四)京都府片岡安二女 二女孝子(明四四)御茶水高女卒雙葉高女教師 二男誠次(大三)帝大経済学部卒 三男省三(大六)慶大卒 四女亀代子(大九) 五女富亀子(昭二) 長女貞子(明四一)雙葉高女卒は司税官坂口芳久に三女亀美子は福島順三に各嫁す [参照]今村新吉”

大日本体育協会理事だった関係で引っ張り出されたようです。3団体が鼎立していたレスリングでも、“中立”ということで会長に担がれており、“すわりのいい”タイプだったのではないでしょうか。中学校は東京高等師範附属中学ということで、サッカー人脈とはまったく無関係ということはなかったはずです。

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亀田興毅=サッカー日本代表

ホームタウン・デシジョン

マスコミの煽り

過剰な商業主義(広告入りトランクス)

世界に通用する基礎ができてない(ジャブが出ない)

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山田午郎氏の父

山田午郎氏(1894-1958)の父の略歴が『二本松市史 第9巻』(二本松市,1989)にありました。福島県本宮町長だったようです。

“山田光尚 少年隊・町長 没年月日・享年:昭和6年1月19日 77歳 出生地:二本松 死亡地:福島市 墓所:大隣寺 幼名・通称・字・諱・雅号など:左馬吉 伝記:戊辰戦争に際し14歳で出陣。維新後、郡吏員となり、のち本宮町長に挙げられた。晩年は福島市に住し、囲碁・魚釣に余生を送った。”(p.110)

ロッキード事件などで知られる政界の黒幕、児玉誉士夫(1911-1984)も二本松出身、しかも山田姓の家系だったとのこと。自伝『悪政・銃声・乱世』(廣済堂出版,1974)によれば、

“わたしの先祖は、代々が二本松藩で槍術の指南役をつとめて、累代、山田兵蔵を名乗ったが、祖父のときに兵太夫と改名した。わたしの父は酉四郎といい、わかい時分におなじ二本松藩の御典医、児玉家から望まれて養子となり、児玉姓を名乗ることになった。”(p.16)

『二本松市史 第9巻』には山田兵太夫も記載されています。

“山田兵太夫 藩士 伝記:明治2年の貨幣贋造事件で、羽瀬兵衛・大関市右衛門・大鐘具・大島成度らと共に捕われ、東京に護送されて伝馬町に投獄。のち釈放された。”(p.110)

祖父の代からアブナイ仕事とは縁が・・ 二本松児玉家の祖らしき人物も記載されています。

“児玉益庵 藩医 幼名・通称・字・諱・雅号など:道古 伝記:毛利家家臣児玉吉兵衛の子。寛永11年、2代藩主丹羽長重に医業を以って召し抱えられ、400石を給される。”(p.63)


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