サッカー協会の風通し
といっても昨今のことではありません。今から30年前の『サッカーマガジン』誌1976年10月25日号p.74掲載、牛木素吉郎氏のコラムのタイトルです。
モントリオール五輪取材で留守にしていたため、ひさしぶりに協会を訪れたところ、
“・・・事務室の中がすっかり明るく、風通しがよくなっているのに驚かされた。
<中略>
五年前までは、サッカー協会の事務室のレイアウトは図のようになっていた。(筆者注:「従来の協会事務局」と題する図あり。図を引用できないのが残念。机の数は幹部4、ヒラ14)
部屋はA、B二つの高い書類棚で区切られていて、窓側の陽の当たる場所は、理事長、専務理事など協会のお偉方の席、書類棚のかげの薄暗い場所は、常勤の事務局職員とコーチの席になっていた。毎日出勤して働く人たちの場所をわざわざ棚で、陽のさしこまないように区切ってあったのだから、ばかげている。<中略>
五年前に、三菱の会社の重役だった沖朗氏が、協会改革のために事務局長に就任し、沖さんの手で書類棚のうちAが取り除かれた。<中略>
今回はさらにBの書類棚も片づけられた。<中略>これは新しく長沼健さん(前日本代表チーム監督)が専務理事に就任して行った「小さな改革」の一つ、というわけである。
<中略>この協会事務室のレイアウトが、日本のサッカー全体を取り仕切る立ち場にある協会実力者の個人的な好みを反映しているところが興味深い。
最初に二つの仕切り戸棚で部屋を明暗二つに区切ったのは、当時の協会の実力者だった小野卓爾氏である。風通しの悪さに多くの人が、かげでブツブツいっていたのに、小野さんは、このレイアウトを、がんとして変えようとはしなかった。
反小野さん派のグループが、沖さんを“大物事務局長”として送り込んで、ようやく半分だけ明るくなったが、それだけだった。
さらに五年かかって、今年の三月に小野さんが退陣し、長沼専務理事ら若手が協会を動かすようになって、ようやく戸棚は二つとも取り除かれた。・・”
この後、「理事会も記者に公開」という小見出しに続けて、1)協会理事会を報道陣に公開したこと、2)協会役員と報道陣との懇談会が毎月1回定期的に開催されるようになったこと、3)長沼専務理事が各地をまわって地域のサッカー協会と話し合っていること、を評価する記事が続きます。
事務室の模様替えにことつけて、外部の人にはわかりにくい協会幹部人事とそれがもたらした「改革」の成果を実名入りで伝えています。当時、協会の動向記事は牛木氏の独壇場だった感がありました。現在牛木氏のHP中のアーカイブスで過去のコラムを復刻しているようですが、協会ウォッチング・シリーズも是非掲載してもらいたいです。記事のタイトルと小見出しだけなら、当サイトの牛木素吉郎氏の『サッカー・マガジン』コラムで辿る日本サッカー史で一覧できます。できたら、当時の歴史的背景も解説していただければ、なおよいと思います。理事長と専務理事のチカラ関係(規則によるものか属人的なものとか)、etc. 理事長や事務局長というポストは現在のJFAには存在しないので、その説明がないと何のことか皆目わからないわけで・・
牛木氏は協会理事会について、
“秘密会でこそこそやっていると、戸棚で大衆の目をさえぎっておいて、自分勝手に日本のサッカーを動かそうと企んでいるのではないか、と疑わしくなってくる。”
とまで書いています。
30年前、サッカーがマイナースポーツだったころでも、商業サッカー誌で協会をここまで突っ込んだ記事を読めたのです。