“士道の後継者”としての学生
慶応義塾蹴球部編『ラグビ-式フットボ-ル』(1909)になにげなく書かれている士道に生活する学生という語句を教育史的に考察してみましょう。
国立教育研究所編『日本近代教育百年史 4 学校教育 2(1886年-1917年)』(国立教育研究所,1974)p.657に掲載された「高等教育機関卒業者の族籍別(%)」(以下は抜粋)によれば、士族の占める比率は以下のとおり。
1890 1895 1900
帝国大学 63.3 59.0 50.8
高等学校 61.6 59.3 47.7
私立専門学校(文理) 59.8 44.1 35.3
減少傾向にはあるものの、全人口における士族人口比は5~6%にもかかわらず、19世紀中を通して高等教育の中心であった帝国大学と高等学校卒業者の過半は士族出身者で占められていたのです。同書によれば、専門分野によってシェアの差があり、
“かれらがめざしたのはかっての支配階級としての職業的伝統にもっとも近く、またその階級的威信を傷つけることのない学校や専門分野、具体的にいえばなによりも官僚養成を目的とした官立諸学校だったのである。旧幕期にすでに、平民層に開かれたほとんど唯一の知的職業として確立をみていた医療の分野や、農業・商業などの分野に士族層の比重が小さく、また官学にくらべて平民層が多い私学のうちでも、中等教員の養成機能をはたす文学・理学の分野に士族層が多いことは、教育機会の享受に、そうした価値的な選択が強く働いていたことを示唆している。”(p.652)
とのことです。「官立専門学校」に教育の項がなく、高等師範学校の士族シェアは不明ですが、中等教員の養成機関であった同校もおそらく帝国大学や高等学校とさほど変わらない数値だったろうと推測できます。
学生の出身族籍別構成比だけでなく、旧制第七高等学校造士館や、現存する修猶館、時習館などのように中・高等教育機関名が旧藩校名を継承した事実からも、学生が士道の後継者たることを期待されたことがうかがえます。
おそらく、1909年には士族出身者比率はさらに減少していたはずですが、1900年に新渡戸稲造の『Bushido : the soul of Japan』が刊行されベストセラーになったことが示すように、当時日本社会の倫理的基盤としての武士道が国内外で再評価される機運にありました。「侍の子」として家庭教育を受けた士族出身者だけでなく、農民出身者が多かった新撰組がかえって強く士道に拘ったように、平民出身の学生も自らを士道の後継者として自覚していたのではないでしょうか。