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日本最初の蹴球文学 大和田建樹「フートボール」

現在のところ私の知るかぎりでは、鉄道唱歌の作詞者大和田建樹の「フートボール」で、『雪月花 散文韻文』(博文館,1897)所収。

“うらうらと霞みわたれる空は。
暮れんとしてまだ暮れず。
ものより帰るさに見れば。
近きあたりの書生なるべし。
五六人ひろやかなる芝生にあつまりて。
フートボール蹴あそぶ処あり。
高くあがりては黄昏月の如くしづかに落ちきたるを。
人々あらそひおしたふしつつ。
我さきにと両手にうけ。
或は蹴そこなひて横に飛ばすを。
かたへの童が馳せゆきて奪ひとるなど。
いとにぎわしき見物なりけり。
彼らがためにここちよげなる春の風は。
時々に来りて熱き顔の汗を吹く。”

5,6人でラグビーのハイパントのようにボールを蹴り上げて手で受けるだけの他愛のない遊びも“フートボール”とみなされていたことがわかります。“人々あらそひおしたふしつつ。我さきにと両手にうけ。”という部分はラグビーに近い感じがします。“黄昏月”とは三日月のような細長い月のことだそうですが、“しづかに落ちきたる”ボールの落ちるさまの形容なのか、はたまたボールの形状なのか?(笑 

1897(明治30)年は東京高師でサッカーが、慶應義塾でラグビーが始まる直前の時点です。大和田は東京高師教授でもあったのですが、1891年に辞職しており、サッカーとの接点はないようです。

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バレーボール

バレーボールにはほとんど興味がありませんが、日本代表の構成をみていてあることに気づきました。

男子はほとんど大卒(サントリーの2名を除く)。これはラグビーやアマチュア時代のサッカーと同様、ダメスポーツの典型的パターンです。サッカーにしろ野球にしろ一応世界に通用している競技は大卒依存を脱却しています。

逆に女子は2名を除いて全員高卒。思えばオリンピックで金をとった日紡貝塚や日立武蔵(どちらも実質単独チーム)は全員高卒だったはず。大卒が混じりだしてから弱くなったのか(笑

バレーボールは性差のある競技で、男子はカレッジスポーツ、女子は労働者スポーツといえるのではないでしょうか。男子バレーと女子バレーは社会学的?には別種のスポーツだと考えたほうがいいようです。

川島雄三監督の戦時中の監督デビュー作『還って来た男』(1944)に女子工員がバレーボールをしているシーンがありました。戦前すでに女子工員が休息時間に行うスポーツとしてのイメージが定着していたようです。戦前から戦後のある時期まで、日本工業の主産業は繊維工業(日紡貝塚=大日本紡績貝塚工場)で、労働者のほとんどは野球もサッカーもするはずのない女子工員。女性が“する球技”=バレーボールであったことが、日本におけるバレーボール人気の基盤だと思います。

1958(昭和33)年の学習指導要領(この年度から学習指導要領は強制力をもつようになった)に、義務教育レベルにおける球技として、野球(ソフトボール)、サッカー、バレーボール、バスケットボールの4種が採用されました。バスケット以外の3種は国民的スポーツ化しています。サッカーとバレーは1960年代にブームが起きていますが、当然義務教育課程化と関係があると考えるべきでしょう。


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代表戦

代表戦は来年3月までないんですね。

ユーロ予選も12月~2月はお休み。

せっかくの上昇気運が・・ 代表戦は1ヶ月毎にあってもいいような気もしますが。

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讀賣新聞記事の「蹴球」初出

『明治の読売新聞』DBによれば、「蹴球」の初出は明治35(1902)年4月9日付で、見出しは「グラスゴーの椿事」。

“グラスゴー市に催せる英蘇聯合蹴球会に於て観覧人山を成し為に・・”

文字がつぶれていて全文を紹介できないのですが、死者20名(下記HPによれば25名)、負傷者数百名を出した、ヒルズボロの悲劇のグラスゴー版だったようです。『Scotsman』紙のHPにIbrox Park and the greatest loss of all として写真入りで記載されています。

7万人収容なのに木造のスタジアムだったんですね。ウェンブレーやヤンキースタジアム、さらに甲子園球場などは1920年代に建設されています。鉄筋コンクリート構造がスタジアム建築に使用されるのが1920年代くらいからなのでしょうか。国会図書館DBで「鉄筋コンクリート」を書名に含む最初の図書は井上秀二著『鉄筋コンクリート』(丸善,1906)、19世紀末に普及した旨が記されています

関連サイト
『Gurdian』紙のThe football disaster
Robert S. Shiels「THE FATALITIES AT THE IBROX DISASTER OF 1902
賀川浩「危険なスタジアム」(スタジアム事故の最古の例だそうです)

これが現在私の知る限りの蹴球の初出です。1903年の慶應義塾体育会蹴球部、1904年のと東京高等師範学校蹴球部より前の文献がありました。これだと初出はサッカーということになるのですが、ロクな例じゃないですね。

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ベースボールを野球と訳したのは中馬庚なのか?

定説では、ベースボールを野球と訳したのは中馬庚ということになっており、「ベースボールを『野球』と訳した球人」として野球殿堂入りしています。典拠文献は彼の著書『野球』(前川善兵衛,1897)に、

“・・我ニアッテハ明治二十六年四月以来第一高等中学校ニ於テ其野外ノ遊戯ナルヲ以テ庭球ニ対シテ野球ト命名セル・・”

とあることです(明治26年=1893年)。不思議なことに野球殿堂では“明治27年ベースボールを「野球」と最初に訳した人”になっていますが。

ところで、『慶応義塾五十年史』(慶應義塾,1907)の「野球部」の項には、

体育会の成るに及びて、三田ベースボール倶楽部は、慶應義塾体育会野球部と成り

とあります。その慶應義塾体育会が設立されるのは、

遂に明治二十五年五月を以て、慶應義塾体育会を組織し

とあるように明治25(1892)年5月なのです。

ベースボールを野球と翻訳したのは中馬庚という定説に疑義を呈せざるをえません。

慶應義塾大学体育研究所という機関があるようですが、野球体育博物館にクレームをつけなくていいんでしょうか(笑)

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慶應の流儀

慶應義塾体育会小史をみると、同会は1892年創設。1903年に蹴球部が加入するまでに、剣術、柔術、野球、端艇、弓術、操練、徒歩、庭球、水泳、自転車の各部がありました。あることに気づきませんか。

すべて部名が漢字名です。1888年三田ベースボール倶楽部として創設された野球も体育会結成時に野球部になったようです。初めてカタカナ名の部が加入するのは1919年のホッケー部です。体育会結成当初は部名を漢字名にする内規でもあったのでしょうか。もしそうだとすると、体育会加盟(加盟すると学校から少なくない部費が支出された)のために「蹴球」という語を案出した可能性があります(慶應のラグビーは1899年にフットボール部として創部、1903年体育会加盟時に蹴球部となる)。

1911年刊の『慶応義塾総覧 明治44年版』には「体育会規則」が掲載されていますが、部名に関する規定は見当たりません。

興味深いのは、1903年刊の『慶応義塾便覧』の「体育会各部」に“端艇部、野球部、庭球部”とあってそれぞれに「ボート」、「ベースボール」、「ローンテニス」とルビがふってあることです。“フートボール及びクリケット部等新設の計画あり”とありますが、加入していれば、蹴球に「フットボール」または「フートボール」とルビがふられていたはずです。

蹴球と漢字表記して、フットボールを呼称とするのが慶應の流儀だったのでしょうか?

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師範学校から見た日本サッカー史

清水における堀田哲爾氏(旧静岡師範の後身である静岡大学教育学部卒)のように、地方におけるサッカーのキー・パーソンは旧師範学校系の教員養成系大学(学部)であることが多いようです。

日本代表からは1920年代後半には師範学校出身者は姿を消してしまうのですが、中等教育レベルでは相変わらず強豪で、選手権では1937年に埼玉師範が優勝しています。戦後もJSL2部には京都紫光クラブ(現パープルサンガ)、埼玉教員といった旧師範学校系OBクラブが存在したくらいです。今年の天皇杯でもヴェルディに勝ってエスパルスに惜敗?した栃木SCのような教員クラブがあるのも、旧師範学校サッカーの底力といえるでしょう。

埼玉師範が優勝した1937年に御影師範は姫路師範と統合されて兵庫師範となり、サッカー部がなくなってしまいます(理由がイマイチわかっていない)。埼玉師範のサッカーが埼玉大学教育学部になっても継続し、戦後埼玉がサッカー王国化したのに対し、戦前のサッカー王国兵庫県は没落の一途をたどります。埼玉・静岡と兵庫の地方サッカー史をみれば、底辺がいかに大事か一目瞭然です。

日本サッカー史というと代表中心になりがちですが、代表という頂点を底辺で支えた文字通りの裾野が旧師範学校関係者です。旧師範学校の視点で書かれた日本サッカー史があれば是非読みたいものです。

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福井半治氏と清水サッカー

清水のサッカーといえば、1955(昭和30)年江尻小学校に赴任し、後に清水FCを作ることになる堀田哲爾氏の事跡が中心ということになるでしょう。

清水サッカー史の好著に「地域社会のスポーツの発展~清水市の事例」(卒業論文の一部とのこと→論文全体サイト全体著者プロフィール)がありますが、やはり上記の例にもれません。

ところで、静岡県立清水東高等学校サッカー部編『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会,1986)中の勝沢要「清水東高サッカー部小史」によれば、

“清水東高サッカー部創設当時、本高生徒を可能な限り「教員養成学校に進学させて指導者を増やす以外に強化の近道はなし」と達観された福井先生の影響を受けて、現在小学校に小花公生氏を筆頭に7名、中学校に浄見元紹氏を筆頭に4名、高校は名高連部長としてその重責を果たすこと11年の福本利幸氏を筆頭に15名を数え、指導者の数としては県下屈指である。”

と、1951(昭和26)年清水東高サッカー部を再興した福井半治氏が、清水東サッカー部OBを教員養成系大学に進学させて地元にサッカー指導者のストックを図る遠大な意図を、堀田氏の清水着任以前に実行していたことが記されています。

清水のサッカーの特徴は、サッカー少年団への小学校開放など、サッカーが教育行政と密着していることですが、これは教育委員会内にサッカー部OBがストックされていたことと無関係とは思えません。

福井門下生と堀田氏(静岡高→静岡大学教育学部なので福井門下生ではない)の活動が具体的にどう絡んだのかを紹介するような文献はないのでしょうか?

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私鉄vsマスコミ

阪急神戸線は御影駅近くで不自然にカーブしています。大阪からの阪急電車は住吉川鉄橋を超え、下りで最高速度に達するのですが、このカーブで減速を余儀なくされます。香雪美術館が邪魔してるようです。実は香雪美術館は朝日新聞社主の旧・村山龍平邸。村山は阪急による買収に頑として応じなかったそうです。さしもの小林一三もマスコミを敵に回すと、値上げや事故のときが怖いので、あきらめたそうです。

プロ野球が2リーグ分裂したとき、阪神から毎日に若林、別当、土井垣、など投打の主力を引き抜かれたのですが、やはりマスコミを敵に回すと本業の電鉄経営に差し障りがあるので、何もできなかったとのこと。まあ、阪神のことだから高給でうるさ型の選手がいなくなって喜んだのかもしれませんが。

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嘉納治五郎と坪井玄道の出自

先日ある会合で嘉納治五郎と坪井玄道は体育における遊戯性を重視した比較的リベラル?な考えの持ち主だったことが話題にあがりました。

嘉納治五郎は菊正宗、白鶴、白鷹という灘の生一本のナショナル・ブランドを醸する嘉納一族の出身です。江戸時代から続く嘉納家は酒造だけでなく、樽回船といわれた海運業、倉庫業、金融業などを営む財閥でした。体協の歴史の本には、裕福に育った治五郎は三井に「これ以上寄付は請いません」と一札とられたりして嫌気がさしたことも、体協会長を辞する理由のひとつだったと書いてあった記憶があります。今どうなっているか知りませんが、1970年代には阪急御影駅から白鶴美術館(美術館のパンフレットには治五郎は白鶴の嘉納家の系譜だとかいてあった)にいく道筋には門から玄関が見えないような豪邸が立ち並び、表札には「嘉納」とありました。

坪井玄道は農民出身で、窮屈な兵式体操には反対の立場だったようです。

何でも出自に還元してしまうのもどうかと思いますが、日本スポーツの黎明期に町人出身の嘉納が東京師範学校校長で、農民出身の坪井が体育教授だったことは歴史の偶然であり、幸運だったのでしょうか。

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