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引用句DB

ThinkExist.comという約30万件からなる引用句DBも調べましたが、クラマー氏の言葉はみつかりませんでした。

サン・テグジュペリの『星の王子さま』に

"But the eyes are blind. One must look with the heart..."

というくだりがあるそうですが、ゴールポスト(野球ならファウルチップか)というところでしょうか。

よほど無名な人なのか・・

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世界最初のサッカー映画

Peter J. Seddon編『A football comendium. 2nd ed.』(British Library, 1999)によれば、『Harry the footballer』(Hepworth, 1911)とのこと。監督はLewin Fitzhamon。11分の無声映画。ライバルチームに誘拐されたハリーがガールフレンドに救出されて試合に出場し、決勝ゴールするという“typical melodrama of the Edwardian era"だそうです。

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クラマー氏のモットーは誰の言葉なのか?

第4代JFA会長野津謙を顕彰した『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画,1979)の表紙に、デトマール・クラマー氏のモットーである、

“Das Auge an sich ist blind, das Ohr an sich ist taub. Es ist der Geist, der sielt, es ist der Geist der hoert.”

という引用句が記されています。賀川浩氏によれば、ギリシャの哲学者の言葉とのことですが、『ギリシヤ・ラテン引用語辞典 増補版』(岩波書店,1952)には見当たりませんでした。

いったい、誰の言葉なんでしょうね?

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改姓

日本が初勝利した1927年の第8回極東大会の代表に杉村正二郎、杉村正三郎兄弟がいます。この2人の父は杉村倉庫の創業者、杉村正太郎氏。3人兄弟で長男は正一郎というわかりやすい命名でした。正二郎氏は野村男爵家の養子となり、野村正二郎と改姓します。野村男爵家の初代、野村維章は旧・海援隊士、正二郎氏の父にあたる2代目も養子で五代友厚の子息とのこと。『杉村倉庫創業七十五年史』(杉村倉庫,1972)によれば、杉村家は江戸時代から続く船場の両替商(屋号は錫屋)だったのが、正太郎氏が大阪財界の指導者五代友厚に触発されて新興の倉庫業に進出したそうで、五代家と杉村家は親交がありました。おそらく、その縁で正二郎氏が野村男爵家を継ぐことになったものと思われます。野村正二郎氏は1938年第3回ワールドカップフランス大会を観戦しており、日本人最初のワールドカップ観戦記「巴里の報告」の著者でもあります。

草創期のサッカー=金持ちのスポーツ、の傍証がまたひとつ・・

同大会の出場者に横村三男氏がいますが、同氏も改姓して轡田三男になっています。朝日新聞記者で、JFA機関誌『サッカー』編集にも係わっています。同氏の子息が轡田隆史氏とのこと。

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弁証法的(笑)サッカー史観

弁証法的歴史観という考え方があります。歴史とは対立・闘争そしてその統合的発展(Aufheben:通常は“止揚”というわかりにくい訳語が使用される)の連続であるという考え方です。サッカーの戦術的発展にあてはめるとわかりやすいでしょう。

例:
・南米の個人技とヨーロッパの組織プレーがaufhebenしてバルサができた。
・日本のサッカー戦術の対立軸はキック・アンド・ラッシュ(ロングキック)対ショートパス(古くは師範学校対中学校、最近では国見・鹿実対野洲)であり、その統合的発展こそ日本のサッカー戦術の基本である。

弁証法的世界観は「対立なくして発展なし」ということで、対立軸を重視します。たしかに、対立軸を明確化することによって、時間的、空間的にローカルな問題が、普遍的な問題であることが浮かび上がることがあります。

例:
①1930年代ベルリン五輪代表選考時に、②関東と関西が、③単独チーム主体かピックアップかをめぐって争い、④関東が勝って早稲田(関東)中心の代表となった → ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏(関西を朝鮮に、関東を内地に置き換えてもよい)

代表選考に地域的利害が絡んで紛糾するのはいついかなる時代、世界中どこにでもあることなので、恥ずべきことでもなんでもなく、むしろ無いほうが異常と考えるべきではないでしょうか。

なにが言いたいのかというと、サッカー史の本(特に、協会や地域協会、地域サッカー史)を記述する際、“対立があったこと”を隠さないようにしてほしい、ということです。寄稿に期待するのは無理があるので、できたら座談会形式でざっくばらんに本音を語ってもらう、というのも優れた方法だと思います。協会の正史(地方協会も含む)やサッカー部史にこのような対立がまともに記述されことは少ないですが、座談会などでボロッと話されている場合があって油断がなりません。

協会の運営にせよ、代表の選考にせよ、戦術の発展にせよ、対立軸を明確化しなければ歴史のダイナミズムは見えてこず、“歴史”は退屈な列挙にすぎなくなるのではないでしょうか。場所、年代が限定された一見派閥闘争のようなものでも、対立軸を明確にすることによって、時空を超えた普遍性があることを見出すこともありうるのです。

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高校選手権の首都圏移転経過

文部次官通達により、従前より高校スポーツの全国大会は国体以外は年1回だけとの規制があった。

1966(昭和41)年、高校総体(インターハイ:NHKが後援)にサッカーが加わる。高体連は全国大会として高校総体を選択。毎日新聞が主催から降り、選手権はJFA単独主催になり、出場チーム数の半減(32→16)、予選の非公式戦化(地域推薦の建前)、参加チームの推薦選抜(高校総体の1・2位、国体の4強)、大会回次の消滅、試合時間の80分化、などが実施される。

1970(昭和45)年、国体が都道府県選抜(代表)になり、上位4強の推薦枠なくなる。JFAが日本テレビと契約し、8試合放映。(注:ラグビーは最初から国体を都道府県選抜としており、花園を選手権として維持、毎日新聞主催も続いている)

1971(昭和46)年、高校総体上位校の推薦枠を廃止し、再度“選手権化”される。全国民報38社が予選段階から後援。出場チーム24に増加。

1973(昭和48)年、出場チーム28に増加。

1975(昭和50)年、出場チーム29に増加

1976(昭和51)年、首都圏移転。

・毎日新聞が降りたのは、非選手権化により“予選”がなくなった(非公式戦化した)ことが大きかったようです。

“森(貞男):・・・複数の会場で首都圏開催という話が出たとき、関西圏では既にその方法で行っていたのです。しかし結局、民放テレビ局の力関係で向こうへ行ってしまったようですね。

栗本(義雄):日本協会は、各府県に、準決勝と決勝を国立で行いたいと言った。そこで今のまま関西でよいか、東京へ持っていくかアンケートをとったと言ってましたが、そのようなアンケートは関西には来てなかったんです。高等学校サイドは、旅費が出る、国立で出来るかもしれないということで、多数決で東京を選んだ。

河北(頴数):栗本先生は高校の方で聞いておられると思うんですが、私が、関西協会で聞いていたいきさつとちょっと違うのですが。

森(健一):東京へ行ったいきさつは、結果的にはテレビの関係もありましたが、関西が反対したので初めの計画より1年遅れたんです。全国高体連の専門委員会の会議で委員長が首都圏開催を関西協会の知らないうちに発表して、既成事実を作ってしまったんです。

森(貞):全国高体連の専門委員長は東京から選出されるので、いいのか悪いのか委員長に持っていかれたようなもんです(笑)。

栗本:高校選手権大会を首都圏で開催するために国体を選抜にしたんです。

森(健):いよいよ切羽詰まってからの、一つの理由として、大会時に雪が降って、グランドが真っ白になった時のことを言ってきました。”(『関西サッカーのあゆみ』p.53)

全国高体連の専門委員長は東京から選出される”のがポイントだったようです。

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『関西サッカーのあゆみ』

という本が出てました。関西サッカーのあゆみ編集委員会編、関西サッカー協会発行、2006.6。JFAの『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)にあわせたような書名ですが、中身は関西サッカー協会史です。関西サッカー協会は、最初は実質的には関西大会だった日本フートボール大会(現在の高校選手権の前身)の運営のために設立されたようです。

目次:

ごあいさつ
巻頭言
祝辞
第1節 ルーツを求めて 
 人間と鞠(夢物語) 阪口光治
 関西蹴球協会の誕生までの略史 阪口光治
第2節 エピソード
 座談会① 関西蹴球協会創立から戦後まで
 治太はんのサッカー人生
 高校サッカーの原点 第1回日本フートボール大会
第3節 キックオフ
 座談会② 高校サッカーの変遷
 関西サッカー協会と私 蜷川信雄 森貞男 森健一 小林久幸 栗本義雄 臼田彬作
第4節 未来へのシュート
 座談会③ 関西サッカーの未来へ向けて
第5節 栄光のイレブン
 釜本邦茂 井原正巳 宮本恒靖 西村昭宏 大仁邦彌 加地亮 柳本啓成 平木隆三 明神智和 長谷川治久 古川好男 佐々木康治
第6節 委員会からの提言
 総務委員会 規律・フェアプレー委員会 競技委員会 審判委員会 技術委員会 第1種委員会(社会人) 第1種委員会(大学) 第2種委員会(高校生年齢) 第3種委員会(中学生年齢) 第4種委員会(小学生年齢) クラブユース委員会 女子委員会 シニア委員会 フットサル委員会
第7節 栄光の記録
 主催大会 共催大会 後援大会 その他の試合
第8節 資料
 年表 歴代役員一覧 関西サッカー協会規約
編集後記 

これ以外にもコラムが多数掲載されています。ざっと読んだ感じでは、「座談会② 高校サッカーの変遷」で高校選手権の首都圏移転の内幕が関西側から語られていて、最も興味深かったです。

関西サッカーの2大痛恨事は、

①ベルリン五輪代表選考
②高校選手権の首都圏移転

でしょうが、①については「治太はんのサッカー人生」でさらっと触れられている程度でした。 

具体的内容については後日。  

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野球をやってアメリカに行こう

後藤鎭平著『布哇邦人野球史』にあるように、1924(大正13)年以降毎年のように日本の主として六大学野球チームが渡米しています。これは、当時の野球少年にとって、野球をやって六大学に進学すれば“本場”に渡って対戦できる(アメリカに行ける)ことを意味していたのではないでしょうか。

釜本邦茂氏の自伝によれば、野球少年だった釜本氏はサッカーをやれば外国に行けるということでサッカーに転向したとのことですが、昭和戦前期では野球をやっていたほうが外国(しかも野球の“母国”)に行ける可能性は大きかったはずです。

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ラグビーのカナダ遠征

ラグビーも1930年にカナダ遠征しています。“本場”とはいえませんが。

やはり野球のパターンと同じで、横浜から大阪商船の布哇丸でバンクーバーに向かっています。詳細は現時点で不明ですが、初代日本代表PRとFBは、記者兼任によれば

“『加奈陀新聞』『大陸日報』といった地元の邦字新聞の記事まで書いたりした。”

とあるように、日系コミュニティとは無関係ということはなかったはずです。

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船会社

『布哇邦人野球史』の「布哇に来征せる母邦チーム略史」には一部船名まで付記してあります。

1929年 法政 春洋丸
      広陵中 さいべりや丸
1931年 明治 往:大洋丸 復:秩父丸
1932年 早稲田 龍田丸
1933年 関西大 秩父丸
1934年 明治 秩父丸
1935年 大日本東京野球倶楽部 大洋丸
1936年 関西大 秩父丸
1938年 早稲田 秩父丸
1940年 慶應 往:龍田丸 復:鎌倉丸

日本人船員がいて、日本食が食べられ、日本人であることに引け目を感じることのない日本船(日本郵船)ばかり。もちろん到着すれば日系コミュニティが面倒をみてくれ、往復、現地とも気楽に過ごせたので、これだけ毎年のように米国遠征できたのでしょう。

日系以上に大きくて強固な華僑コミュニティがあり、野球チームがあっても、自国に船会社がない中国人には、故国との頻繁な野球交流は困難だったのではないでしょうか。

日本郵船は自社の日米野球交流への貢献を誇らしげに記しています。

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後藤鎭平著『布哇邦人野球史』

後藤鎭平著『布哇邦人野球史 野球壹百年祭記念』(文生書院,2004 初期在北米日本人の記録. 布哇編 第9冊 布哇邦人野球史出版會昭和15年刊の複製)という資料を見つけました。

ハワイへの野球普及は意外に早く、近代野球の父といわれるアレキサンダー・カートライト氏本人が独立王国時代の1849年にホノルルに移住しているとのことです。アメリカ野球殿堂の情報ではホノルルで消防署長をしてたのこと。

日本人が初めて野球選手として名を残したのは1904年ヒロ市選抜チームに選ばれた望戸万次郎とのこと。最初の邦人チームは日進軍で1905年結成。

野球史とサッカー史における日系移民の役割に記した1913年のハワイハイスクールチームの日本遠征についても触れており、

“・・三ヶ月の見学中諸所にて各中学と十回の試合をなし、横浜商業及広島中学校等に惜しくも敗けしも、中学野球界の雄者たる慶應普通部及早稲田中学等に勝ちて、布哇中学生の気焔を思ふ儘上げた。母邦試合に於ける成績は五勝五敗である。”

と記されています。1915年には全日本人軍が遠征し、14戦8勝6敗。最初の来日大学チームも1907年のセントルイス大学(ミズーリではなくハワイ在)でしたが、日系人はいなかったようです。

「布哇に来征せる母邦チーム略史」によれば、

1905年 早稲田 試合せず練習のみ(本土遠征)
1908年 慶應 7勝7敗1分け
1910年 早稲田 11勝14敗
1912年 慶應 7勝4敗(本土にも遠征)
1914年 慶應 3勝6敗(本土にも遠征)
1915年 明治 6勝11敗
1916年 早稲田 4勝5敗(本土にも遠征)
1921年 早稲田 3勝5敗(本土にも遠征)
1924年 明治 3勝3敗(本土にも遠征)
1925年 大阪毎日野球団 5勝6敗1分け(本土にも遠征)
1927年 早稲田 5勝1敗 (本土にも遠征)
1928年 慶應 9勝3敗(本土にも遠征)
1929年 法政 4勝5敗1分け(ホノルルのみの成績)
      広陵中 10勝7敗3分け
1931年 明治 11勝5敗
      広島商業 3勝1分け
1932年 立教 6勝3敗
      早稲田 9勝2敗
1933年 関西大 7勝4敗
1934年 明治 8勝4敗
1935年 大日本東京野球倶楽部(後の巨人) 2勝3敗(本土にも遠征) 
1936年 関西大 22勝2敗
1938年 早稲田 8勝1敗
1940年 慶應 10勝2敗

ハイスクールチームが日本遠征しただけでなく、中学校まで米国遠征しており、1936年のベルリン五輪が初の“本場”体験だったサッカーと大違いです。戦前の野球はサッカーよりもずっと“本場”との距離が近かったことがわかります。

明治から太平洋戦争直前までほとんど毎年のように“本場”に遠征しています。東大以外の5大学はすべて遠征しています。特に早慶明の3大学は遠征が恒例化していたようです。戦前の有力選手は六大学出身者が多いのですが、ほとんどの人が渡米経験を有しているようです。大学出でない沢村栄治やスタルヒンも大日本東京野球倶楽部の一員として渡米しています。成績は最初のうちこそ負け越していますが、後年は完全に勝ち越しており、日本野球のレベル向上を示しています。

広陵と広島商業は中学校にもかかわらず本場と交流しています。広島県は有数の移民輩出県であることと関係しているのでしょう。広島は有数の野球県でもありますが、本場との交流がレベルを高めたことは確実です。

ハワイには“支那人”チームもあってこれがなかなか強かったようですが、なぜ中国に普及しなかったのか不思議です。 

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時間意識とスポーツ

サッカーは45分ハーフで前後半通算90分行うスポーツであり、計時のため時計が不可欠です。明治時代時計がどの程度普及していたのかを具体的に推計した興味深い文献があるので紹介します。

内田星美「明治時代における時計の普及」『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』(三元社,2001)所収にクロック(置・柱時計)とウォッチ(懐中・腕時計)に分けて、普及率(クロックは所帯単位、ウォッチは人単位)が推計されています。

         クロック     ウォッチ
明治10年    3.2%      0.2%
明治20年    8.0%      0.8%
明治30年   31.5%      4.2%
明治40年   72.3%     10.0%

サッカー(ラグビー)に必要なのはもちろんウォッチの方ですが、これは国産化が困難で昭和期まで輸入(アメリカ・スイス)主体でした。草試合は別として、野球は時計なしでもできるのに対し、フットボールの正式試合では時計が必要なことが普及が遅れた原因のひとつかもしれません。アメフトなんか専用の25秒計が必要なので現在でも普及に困難がつきまといます。

同じく同書所収の橋本穀彦「蒲鉾から羊羹へ 科学的管理法導入と日本人の時間規律」によれば、大衆レベルで「時間厳守」が啓蒙されるのは、1920年東京教育博物館(現国立科学博物館)が開催した「時」博覧会がきっかけで、生活改善同盟会が同年6月10日を「時の記念日」を制定したの始まりのようです。時間規律を労働者に守らせようにも、明治末まで各所帯に時計が普及していなかったのだから、大正時代に時間厳守運動が始まったのも当然といえます。時間厳守運動があったということはそれだけ時間にルーズな人が多かったことを示してします。明治5(1973)年の太政官布告第三三七条で太陽暦に改暦されるまで不定時法(1日を昼夜に2分し、さらに6分する 日の出を明六ツとするので季節により定時法の時刻とずれる)で暮らしており、太陰暦や尺貫法同様多くの人々は定時法でなくても不便を感じてなかったのでしょう。

日本人が最初にフットボールをしたのは海軍兵学寮、工学寮(鉄道と関係が深い)と、最も定時法的時間規律が必要な機関であったのは興味深い事実です。学生だった人の追想では体力涵養が目的であったことになっていますが、案外教員側は時間規律も教えようとしていたのかもしれません。日本社会に帝国海軍の枠を超えて普及している「定刻5分前(集合)ルール」(中・高生時代サンザンいわれた)を日本に導入したのは、多くの本で日本にサッカーを紹介したことになっている海軍兵学寮教官ダグラス氏その人なのです。   

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98年目

明日の埼玉新聞は大増刷か(笑

細木志朗が東京高等師範学校を1908年に卒業して埼玉師範学校に赴任したのが埼玉サッカーの始まりです。埼玉県サッカー協会は埼玉サッカー紀元75年目の1983年に『輝く埼玉サッカー75年の歩み 埼玉サッカー創始75年記念誌』(埼玉県サッカー協会,1983)を刊行しています。これでレッズ本がたくさん出るんでしょうが、100周年目はどうなってることやら。レッズのエンブレムの最上部にあるのは旧埼玉師範学校校舎(現さいたま市立博物館)で、地域の歴史に敬意を表してるのですが、チーム自体のルーツは三菱重工神戸造船所だったんですけどね。そういえばレッズ・三菱重工がトップリーグで最後に優勝したのは1982年のJSL1部、今年はファイターズ、レッズと久しぶりの優勝で外国人監督の当り年だったようです。

入れ替え戦は阪神ダービー(見たいよな見たくないよな)かと思っていたら、サンガ、セレッソが自動降格で福岡vs神戸になり、最悪の場合関西のJ1はガンバだけ(泣 神奈川だけで3チームもあるのにィ

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ストライカーを生む風土

日本人の意識構造を共同体の成り立ちから見事に説明した本があるので紹介します。

『米が金・銀を走らせる 江戸史講義』(朝日出版社,1985)は日本(江戸期)経済史の泰斗大石慎三郎と作家津本陽の対談、主として津本の質問に大石が答える形で進行しています。

“(大)...歴史の上では、生活を支えるための生産が非常に大きな意味を持つ。そういうような観点から見ました場合には、西洋は畑作農業ですね。そして日本は水田稲作農業です。生活の基盤を畑作農業の上に置いたか、または水田農業の上に置いたかということが西洋と東洋を分ける上で決定的に大きな問題になってきます。

(津)畑作農業と水田農業とでどう違ってくるんでしょうか。

(大)畑作農業というのはわりあい簡単な農業でして、木などを焼き払うとか、切り倒すとかして、そこに畑をつくるわけですね。そういうような労働はわりあい単純にできるわけですね。しかし、稲作農業の場合はそう単純にできないわけです。どうしてもまず用水をつくらないといけない。

(津)ああ、なるほどね。

(大)用水というのは個人ではできないので、どうしても一定以上の人間が力を合わせなくてはいけない。生活の基盤を得るための農業生産の上で、畑作農業をやった場合には、わいあい個々人が自由にやれるというような側面があるのに対して、水田稲作農業というのは絶対に個人じゃダメなんです。そうしますと農民の集団の結合状態が決定的に違ってきます。畑作の場合ですと、せいぜい山の中から猪やら鹿が走り出てくるのを、みんなで垣根でもつくって防ぐとかいうようなことぐらいが大きな問題で、日常的には共同生活をする必要というのはあまりないんです。

(津)なるほど。

(大)水田稲作農業をやっておりますと、まず村全体をまかなうような大規模な用排水路をつくらなければならないので、みんなが力を合わせてやらないと農業というのはできないわけなんですね。

(津)共同作業が必要になるわけですね。

(大)そうしてきますと、いわゆる村を組織する場合の組み立て方ですね、これを普通、学問的には共同体と言うんですが、共同体の組み立て方が全然違ってくるわけですね。といいますか、結合のかたさが違ってくるわけです。水田稲作農業の場合、非常にかたい共同体の組み立て方をしなくてはいけないわけですね。一人や二人、それに反逆するようなやつが出ると、これを何とか封じ込めなくてはいけない、村八分だとかいうような個々人の生活を規制する外的な規制が出てくるわけですね。

(津)そうですか。

(大)ですからある百姓が一人、非常に先進的な農業を実験しようとしても、水田というのは、田んぼが百ありますと、百の田んぼに一から百までの番号を打ったようにしか水は通らないんですね。そうすると、七十五番の田んぼを持ってる人が、六十五番の田んぼを持ってる人よりも先に、たとえば自分は裏作をやりたいからと言って水を引っ張ってきて田植えをするということはできないわけですね。ですからどうしても、そこを構成する人間を全体として規制するという力が強くなります。畑作農業の場合にはそういうものがないですから、とにかく個々人の創意工夫だとかいうものが非常に生かされる。いわゆる近代化への方向というのが非常に強く出てくるわけなんです。”

シュートを打たないストライカーや送りバントばかりしたがる野球選手は水田稲作農業の所産なんですね。

考えてみれば、日本の代表的ストライカー戦前の川本泰三は大阪、戦後の釜本邦茂は京都、と日本を代表する町人文化の土地出身。町人は他人と同じことしかできなければ、競争に負けてしまいます。商人によるモノの売買はすべて自己責任です。また、例えば西陣織のような京都の地場産業はデザインの独創性がすべてです。川本氏は自営業の跡取り息子だったので、おそらく「何事も自分で判断する」家庭環境で育ったのでしょう。

個人的感想ですが、武士の都江戸・東京は規範に対する順応性が高く、モラルが高い反面融通性に欠けるところがあるようです。例えば、整列乗車のような交通マナーは素晴らしく良い(試合終了後の浦和美園駅は関西だと明石の花火大会のような大惨事になるはず)が、クルマも通ってないのに赤信号で止まっている歩行者がいるのは関西人からみれば笑えます。ストライカーは赤信号でもクルマが来なければズンズン横断するような精神風土から生まれるような気がしますが・・(笑

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