ストライカーを生む風土
日本人の意識構造を共同体の成り立ちから見事に説明した本があるので紹介します。
『米が金・銀を走らせる 江戸史講義』(朝日出版社,1985)は日本(江戸期)経済史の泰斗大石慎三郎と作家津本陽の対談、主として津本の質問に大石が答える形で進行しています。
“(大)...歴史の上では、生活を支えるための生産が非常に大きな意味を持つ。そういうような観点から見ました場合には、西洋は畑作農業ですね。そして日本は水田稲作農業です。生活の基盤を畑作農業の上に置いたか、または水田農業の上に置いたかということが西洋と東洋を分ける上で決定的に大きな問題になってきます。
(津)畑作農業と水田農業とでどう違ってくるんでしょうか。
(大)畑作農業というのはわりあい簡単な農業でして、木などを焼き払うとか、切り倒すとかして、そこに畑をつくるわけですね。そういうような労働はわりあい単純にできるわけですね。しかし、稲作農業の場合はそう単純にできないわけです。どうしてもまず用水をつくらないといけない。
(津)ああ、なるほどね。
(大)用水というのは個人ではできないので、どうしても一定以上の人間が力を合わせなくてはいけない。生活の基盤を得るための農業生産の上で、畑作農業をやった場合には、わいあい個々人が自由にやれるというような側面があるのに対して、水田稲作農業というのは絶対に個人じゃダメなんです。そうしますと農民の集団の結合状態が決定的に違ってきます。畑作の場合ですと、せいぜい山の中から猪やら鹿が走り出てくるのを、みんなで垣根でもつくって防ぐとかいうようなことぐらいが大きな問題で、日常的には共同生活をする必要というのはあまりないんです。
(津)なるほど。
(大)水田稲作農業をやっておりますと、まず村全体をまかなうような大規模な用排水路をつくらなければならないので、みんなが力を合わせてやらないと農業というのはできないわけなんですね。
(津)共同作業が必要になるわけですね。
(大)そうしてきますと、いわゆる村を組織する場合の組み立て方ですね、これを普通、学問的には共同体と言うんですが、共同体の組み立て方が全然違ってくるわけですね。といいますか、結合のかたさが違ってくるわけです。水田稲作農業の場合、非常にかたい共同体の組み立て方をしなくてはいけないわけですね。一人や二人、それに反逆するようなやつが出ると、これを何とか封じ込めなくてはいけない、村八分だとかいうような個々人の生活を規制する外的な規制が出てくるわけですね。
(津)そうですか。
(大)ですからある百姓が一人、非常に先進的な農業を実験しようとしても、水田というのは、田んぼが百ありますと、百の田んぼに一から百までの番号を打ったようにしか水は通らないんですね。そうすると、七十五番の田んぼを持ってる人が、六十五番の田んぼを持ってる人よりも先に、たとえば自分は裏作をやりたいからと言って水を引っ張ってきて田植えをするということはできないわけですね。ですからどうしても、そこを構成する人間を全体として規制するという力が強くなります。畑作農業の場合にはそういうものがないですから、とにかく個々人の創意工夫だとかいうものが非常に生かされる。いわゆる近代化への方向というのが非常に強く出てくるわけなんです。”
シュートを打たないストライカーや送りバントばかりしたがる野球選手は水田稲作農業の所産なんですね。
考えてみれば、日本の代表的ストライカー戦前の川本泰三は大阪、戦後の釜本邦茂は京都、と日本を代表する町人文化の土地出身。町人は他人と同じことしかできなければ、競争に負けてしまいます。商人によるモノの売買はすべて自己責任です。また、例えば西陣織のような京都の地場産業はデザインの独創性がすべてです。川本氏は自営業の跡取り息子だったので、おそらく「何事も自分で判断する」家庭環境で育ったのでしょう。
個人的感想ですが、武士の都江戸・東京は規範に対する順応性が高く、モラルが高い反面融通性に欠けるところがあるようです。例えば、整列乗車のような交通マナーは素晴らしく良い(試合終了後の浦和美園駅は関西だと明石の花火大会のような大惨事になるはず)が、クルマも通ってないのに赤信号で止まっている歩行者がいるのは関西人からみれば笑えます。ストライカーは赤信号でもクルマが来なければズンズン横断するような精神風土から生まれるような気がしますが・・(笑
Comments
「蹴球本日誌」は私のお気に入りのブログです。
このブログを通じて、「蹴球閑人」さんには新しい知見の多くを教えていただきました。
それだけに、今回このような「戯言」(と、あえて書く)を発表したことに、正直驚くとともに、違和感と遺憾を表明せざるを得ません。
この種の「戯言」を、昔からさんざん読んできました。要するに、日本人=農耕民族=集団主義、欧米人=狩猟民族=個人主義というサッカー版風土論・文化論の変形ではありませぬか。
さすがに、日本人は農耕民族で……とは、さすがにダサくて、少しやりにくくなってきました。最近のトレンドは、ノモンハン―大東亜戦争における日本軍失敗の本質、なのですがね(エルゴラ紙上で川淵解任デモの鼎談をやったブロガー3人がみんな嵌ってしまったw)。
言っちゃ何ですが、「日本で野球やバレーに人気があった理由の一つに、1対1の直接対決がなく、監督の支持に従えば良いという自己判断放棄……」とあった以前の書き込みとどう違うのでしょう? 同じだと思います。
何と言うか……。今になってW杯惨敗のショックがフラッシュバックしてきたのでしょうか?
かつてはこの種の「戯言」は、「ストライカーを“生まない”風土」どころか(余談ですが高原ハットトリックですね)、「サッカーを“愛せない”風土」として語られていました。
これが今でも死に絶えたわけではありません。ジーコが戦術を指示しないのは……という「戯言」と基本は同じです。こういう迷信がドイツでの惨敗を招来したのです。
どんな知的オーソリティだろうが、風土論・文化論の類は学問としても評論としてもまともなプロポジションではありません。与太話です。西洋と二元論的な図式をデッチ上げ、まして何かの現象と因果的に結び付いたかのように論じるのは愚の骨頂です。
故網野善彦氏が「壊れた蓄音機」と自嘲しながらも、日本=水田稲作一元論(米一元論)をしつこく批判し続けたのも、こうした現象が孕む問題の根が深いからだったのでしょう。もちろん西洋を畑作(狩猟?牧畜?)で一元的に語れるはずがありません。
>クルマも通ってないのに赤信号で止まっている歩行者がいるのは…
これを言い出したのは高名なサッカーライターの持ちネタでした。この人は今になって例のフランス人に責任をなすりつけています。
都内のある交差点で観察したことがあります。要は、急ぐ人は赤信号を無視します。周りの人はけして白眼視することはありません。みな「個人」として振舞っているからです(もちろんこんなことを本気で書いてませんw)
それから、関西の人は「型に嵌った関東人、型から自由な関西人」の図式で話をして自慢する人が多いようです。一時期の玉木正之がそうでしたし、関西人ではないが中尾亘孝もそうでした。
これはこれで、型に嵌った「水田稲作農業」的な思考だと思うのですが……。
長々と失礼しました。とにかく、ちょっと信じられないのです。
Posted by: さけのべ | December 05, 2006 12:19 AM
中世ヨーロッパの農地は、多くが「混在地制」であり、「個人」の農地が各地に分散し、農地の区切りもなく、「個人」では他人の農地を踏み荒らすことなしに農作業をすることができなかった。
だから、主な農作業は村中総出で(集団で!組織で!)やらなければならなかった。
……こうしたことは、たいていの西洋史辞典の「混在地制」に書いているそうです。
大石慎三郎氏は、「日本人=集団主義=水田農耕」というステレオタイプに引きずられてしまったのでしょう。
南ア大会の抽選結果が出て、4年前の反動から今度はかなり冷笑的な反応が多いようです。
来年の結果がどうなろうと、おかしな文化論に傾くべきではないでしょう。
またまた失礼しました。とにかく、ちょっと信じられないのです。
Posted by: さけのべ | December 09, 2009 11:44 PM
> クルマも通ってないのに赤信号で止まっている歩行者がいるのは関西人からみれば笑えます。
> ストライカーは赤信号でもクルマが来なければズンズン横断するような精神風土から生まれるような気がしますが・・(笑
この話を始めたのは、フランス人のフィリップ・トルシエではなく、日本のサッカージャーナリスト後藤健生氏なのですが、
とうとう後藤氏は「私がやりました」と白状した上に、過去のこうした言動について、自己批判を展開しました。
http://www.jsports.co.jp/press/article/N2012062721495802.html
後藤健生コラム 2012年06月27日21:49
「ポーランドサッカー弱体化は、赤信号で道路を横断しないから?」
日本人=単一民族説については小熊英二氏の詳細な研究がありますが、日本人=農耕民族説
(または日本人=水田稲作民族説)は、いつ、どこから、始まったのでしょうか?
そんな問い合わせに職場で出くわすことはありませんか?
こんな俗説がいまだに幅を利かせるようでは、歴史学者の故網野善彦氏は、死んでも死にきれないでしょう。
たぶん、地縛霊としてその辺を彷徨っているのではないでしょうか。
Posted by: さけのべ | July 20, 2012 12:19 AM