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高校選手権の首都圏移転経過

文部次官通達により、従前より高校スポーツの全国大会は国体以外は年1回だけとの規制があった。

1966(昭和41)年、高校総体(インターハイ:NHKが後援)にサッカーが加わる。高体連は全国大会として高校総体を選択。毎日新聞が主催から降り、選手権はJFA単独主催になり、出場チーム数の半減(32→16)、予選の非公式戦化(地域推薦の建前)、参加チームの推薦選抜(高校総体の1・2位、国体の4強)、大会回次の消滅、試合時間の80分化、などが実施される。

1970(昭和45)年、国体が都道府県選抜(代表)になり、上位4強の推薦枠なくなる。JFAが日本テレビと契約し、8試合放映。(注:ラグビーは最初から国体を都道府県選抜としており、花園を選手権として維持、毎日新聞主催も続いている)

1971(昭和46)年、高校総体上位校の推薦枠を廃止し、再度“選手権化”される。全国民報38社が予選段階から後援。出場チーム24に増加。

1973(昭和48)年、出場チーム28に増加。

1975(昭和50)年、出場チーム29に増加

1976(昭和51)年、首都圏移転。

・毎日新聞が降りたのは、非選手権化により“予選”がなくなった(非公式戦化した)ことが大きかったようです。

“森(貞男):・・・複数の会場で首都圏開催という話が出たとき、関西圏では既にその方法で行っていたのです。しかし結局、民放テレビ局の力関係で向こうへ行ってしまったようですね。

栗本(義雄):日本協会は、各府県に、準決勝と決勝を国立で行いたいと言った。そこで今のまま関西でよいか、東京へ持っていくかアンケートをとったと言ってましたが、そのようなアンケートは関西には来てなかったんです。高等学校サイドは、旅費が出る、国立で出来るかもしれないということで、多数決で東京を選んだ。

河北(頴数):栗本先生は高校の方で聞いておられると思うんですが、私が、関西協会で聞いていたいきさつとちょっと違うのですが。

森(健一):東京へ行ったいきさつは、結果的にはテレビの関係もありましたが、関西が反対したので初めの計画より1年遅れたんです。全国高体連の専門委員会の会議で委員長が首都圏開催を関西協会の知らないうちに発表して、既成事実を作ってしまったんです。

森(貞):全国高体連の専門委員長は東京から選出されるので、いいのか悪いのか委員長に持っていかれたようなもんです(笑)。

栗本:高校選手権大会を首都圏で開催するために国体を選抜にしたんです。

森(健):いよいよ切羽詰まってからの、一つの理由として、大会時に雪が降って、グランドが真っ白になった時のことを言ってきました。”(『関西サッカーのあゆみ』p.53)

全国高体連の専門委員長は東京から選出される”のがポイントだったようです。

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