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関東中等学校蹴球大会優勝校

1918(大正7)年、東京蹴球団主催で開催された東日本最古のサッカー大会(東京朝日新聞後援)。出拠は山田午郎『蹴球のコーチと練習の秘訣』(目黒書店,1932)p.60-61

第1回(1918年)  豊島師範A(注:豊島師範はA,B2チーム出場)
第2回(1919年)  青山師範
第3回(1920年)  豊島師範
第4回(1921年)  豊島師範
第5回(1922年)  青山師範
第6回(1923年)  青山師範
第7回(1924年)  豊島師範
第8回(1925年)  青山師範
第9回(1926年)  青山師範
第10回(1928年) 青山師範
第11回(1929年) 青山師範
第12回(1930年) 東京府五中
第13回(1931年) 埼玉師範
第14回(1932年) 青山師範

師範学校が圧倒的に強い。関東ではもうひとつ東京高等師範学校主催の中学校蹴球大会が1924(大正13)年から開催され、2大中学大会となるが、高師主催のものは師範学校の部と中学校の部に分けて行われた。

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プラティニ新UEFA会長誕生の意味

プラティニ新UEFA会長の公約は、CLのサッカー大国の枠を削って、中小国にまわすというものだそうです。

日本人の欧州進出のありかたが、表街道の4大リーグから、スコットランド、トルコ、スイス、オーストリアのような裏街道からCLをめざす、というパターンに変わりつつあるので、公約が実行されれば、ますますこの傾向が加速するのではないでしょうか。

ザルツブルグvsミラン、バルサetc.というカードはCL自体としては魅力がなくても、CLの極東市場価値が増すので、中小国チームの日本人獲得モチベーションが高まるのではないでしょうか。日本国内の報道ぶりでは、各国リーグ間格差は問題にされていないので(CMタレントとしての商品価値はイタリアだろうがスコットランドだろうが変わらない)、レギュラーとして試合に出て、あわよくばCLの桧舞台を・・という“身の丈にあった”戦略が賢明のようです。

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家元制度

フットボール、昔と今」(渡辺 融)によれば、蹴鞠の大衆化を阻んだ元凶は家元制度だったそうです。

“蹴鞠道設立の主導者だった鞠好きの後鳥羽院(1180~1239)は、ある鞠会で鞠数二千余という大記録を作り、喜びのあまり使用した鞠に五位の位を与えたという話さえ残っている(『道家公鞠日記』前田育徳会尊経閣文庫所蔵)。”

蹴鞠好きの歴史上の有名人は、後鳥羽院や今川氏真(超隔世遺伝により、静岡にサッカーの種を蒔いたヒト?)など、悲劇的な人生を送った人が多いようですね。

家元制度がなければ、マラドーナやロナウジーニョが輩出したかも・・

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地上波TVへの露出

J1の試合日程が発表されています。

昨年の実績を知らないのですが、新潟のホームゲームはNHK新潟がかなり放映していたのではないでしょうか。上記を見る限り、スカパーの独占が目立ちます。

野球の阪神タイガースが今日の人気を獲得したのは、地元UHFのサンテレビに露出し続けたからだとかつて本日誌に書いたことがありますが、スカパーのみの放映だといずれ人気に翳りがでるかもしれません。

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佐々木等氏の履歴

後藤氏の新著で最初の日本代表監督は1921年第5回極東選手権大会(上海)時の佐々木等氏ということがわかりました。同氏は『学校体育』誌1953年1月~7月号に「私の歩んで来た道」という自伝を連載しています。

1891年福島県相馬地方の山村に“貧農の末子”として生まれ、小学校卒業後、東京に出て小僧奉公するも長続きせず、転々と奉公先を変え、結局帰郷。新設された准教員養成所に入りますが、正規の教員になるため師範学校に転じます。この間健康のため長距離走を始め、結局これが一生を決めることになります。師範学校卒業後小学校教員になるが、新設の東京高等師範体育科が募集定員に達しないので、応募してみないかと誘われ、就職後1ヵ月半で退職して高師に入学、体育科第1期生となります(1915年9月入学)。

専門は陸上競技であるが、サッカー部にも入り、1917年の第3回極東選手権大会(東京)には25マイルマラソン、10マイル短縮マラソン、サッカーの選手として出場。在学中、佐倉中学にサッカーの指導に行ったとのこと。

1919年卒業後、新設の東京府立五中(現小石川高校)に着任するも1年で東京高師附属小学校教員となります。五中はサッカーを校技とし、ベルリン五輪代表の竹内悌三氏らを輩出するのですが、佐々木氏が“種をまいた”のかもしれません。

“大正十年には、第五回極東大会が上海で行われるというので私は、日本のサッカーチームの監督という名義で約一ヶ月出張したことがある。”『学校体育』1953年3月号p.36

という一文があります。『体育と競技』誌創刊にも参加。東京高師附小におけるサッカーについては言及されてませんが、おそらくサッカーも教えていたのではないでしょうか。だとすれば、日本代表監督が小学生を指導ということになるのですが。

1924年新設の体育研究所技師、遊戯部長となり、同時に“陸上競技から足を洗って、球技の研究に転向”。高師体育科で球技の講師を兼務。1926年の学校体操教授要目改正に際して調査委員となり、“ボールゲームスを大幅に取入れることに努め”ています。

1928年アムステルダム五輪のとき、文部省留学生として欧米に留学。往路はシベリア鉄道で、ドイツ、オランダ、アムステルダム、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ユーゴ、イタリア、スイス、フランス、イギリス、米国を経て太平洋航路で帰国。大西洋横断は“サザンプトンから四万五千噸のモリタニア号で大西洋を四日間西進してニューヨークにつき”と、大西洋航路の名花Mauretania号(かのタイタニックは打倒本船をめざして就航、姉妹船のLusitaniaは第一次大戦中Uボートに撃沈され、米国参戦のきっかけとなった)に乗船したそうです(ウラヤマシイ)。

1935年東京女子高等師範(現お茶の水女子大)に転じ、1938年同校体育課の創設に尽力、1943年中華民国国立南京中央大学教授に転任、1945年4月帰国して宇都宮師範転任、あやうく抑留をまぬがれています。同校の大学昇格に関わった後、福島大学から新設体育学科の“重もし”として招請されたところで終わっています。

佐々木氏は30を超える著作があり、サッカー専門書『フットボール』(1926年に8版が出ているおそらく戦前最も読まれたサッカー本)も著していますが、言及はありませんでした。『わが生立ちの記』という自伝もあるようですが、未読です。

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プロ球技起源の類型-欧州型と米国型

文献的根拠を知らないで書いているのですが・・

欧州型
 ①本業の休業補償(遠征や怪我)から発展(TV時代まではさほど高額ではない)
 ②“球団”は町のスポーツクラブがプロ契約選手を雇用することによりプロ化
 ③興行主(球団オーナー)の権益は保障されていない(入替戦あり サラリーキャップ制などなし)

米国型
 ①最初から興行の給与として支給(1920年代のベーブルースのように超高給のケースあり)
 ②“球団”は興行ビジネスを前提として成立、選手は全員プロ
 ③興行主(球団オーナー)の権益を保障(入替戦なしのフランチャイズ制 場合によってはサラリーキャップ制、ドラフト入団、贅沢税あり)

日本におけるサッカーのプロ化への動きは1960年代後半から始まるようですが、当時プロ球技というと大半の人は米国型をイメージしていたのではないでしょうか。

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後藤健生著『日本サッカー史 日本代表の90年』②

「資料編」のAマッチ部分も手が入っているようです。

戦前の極東選手権大会時代の代表監督

         前版        新版

1917年度  無記入   → 無記入

1921年度  佐々木守 → 佐々木

1923年度  西田    → 西田満寿次郎

1925年度  無記入   → 無記入

1927年度  土橋    → 土橋

1930年度  鈴木重義 → 鈴木重義

1934年度  竹腰重丸 → 竹腰重丸

1921年度が佐々木等氏に訂正されています。日本の“初代代表監督”佐々木等氏の自伝「私の歩んで来た道」が『学校体育』1953年1-7月号に掲載されています。

1923年度は前版が姓のみだったのがフルネームに訂正されています。

1925年度は無記入ですが、山田午郎著『ア式フットボール』(杉田日進堂,1925)の序文に、

“極東に於て、各種運動競技の選手権大会が開かれることにすでに七回、中でもア式蹴球は中華民国が実に六回連勝の栄誉を担ってゐる。今回マニラの地に開かれた第七回極東競技大会に於ても、フィッリピンを五対一で破り、わがティームを二対零で破って堂々と勝利を占めてゐる。これは単に体格ばかりに依るといふことは出来ない。彼は幼児からボールに接する機会が多い。つまり長い間の好める運動として練習の機会が多い。著者が今回の大回(ママ)にア式蹴球の監督としてマニラに往復する途中親しく上海、香港に於ける彼等の愛好するフットボールについて見たのに、五六歳の小児から十七八歳の元気あふれる青年迄一所になって盛んに蹴って居る、...”

とあり、山田氏が監督であった可能性があります。

1927年度は日本が国際戦初勝利した重要な大会なのですが、未だ土橋という姓しか判明していないのは残念です。チームの構成からみて早稲田関係者である可能性は高そうですが、『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』(早稲田大学WMWクラブ,1977)に土橋姓のそれらしい人は掲載されてないのでしょうか。

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後藤健生著『日本サッカー史 日本代表の90年』①

正月は風邪、仕事始め直後にはノロウイルスの連打を食らい、やっと回復しました。5kg痩せましたが、リバウンドが怖いです(笑

さて、この4年間の日本代表の変化(発展といえないのがツライ)を反映した後藤健生氏の『日本サッカー史』の改版が出ました。前版も充実していた「日本代表国際Aマッチ全試合記録」が、B、Cマッチの可能な限りの詳細記録と日本代表以外の国内外主要記録も付加されて、「資料編」として独立分冊化されたのが最も目立ちます。著者本人が「あとがき」で“多分、売れないだろな”と書いていますが、個人向けより図書館用レファレンス・ブックとして需要があるはずです。公共図書館の選書に影響力があるという朝日新聞の読書欄にとりあげられることを期待したいです(前版がとりあげられなかったのは不可解でした)。

本編はジーコ監督時代を付加しただけでなく、前版の記述もかなり改訂しているようです。例えば、前版では日本“サッカー”の起源について日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)以来の海軍兵学寮、ダグラス少佐説を一応踏襲するものでしたが、本書では「日本における最初のフットボール」、「日本人が初めてフットボールをプレーしたのは?」という節を新たにたて、明治初期の“フットボール”をアソシエーション式とラグビー式に無理に分類することの無意味さを詳しく説明しています。

また、初優勝した1930年極東選手権大会の記述中に、前版になかった記述として、以下があります。

 “この時の、日本代表は、薄い青のシャツを着用した。冒頭に述べたように、1917(大正6)年の極東選手権に出場したチームは海老茶のユニフォームだった。これは、東京高等師範のユニフォームだ。その後の国際試合でも、1921年の極東選手権は白黒縦縞、1923年は白黒横縞といったように、出場権を獲得した各チームのユニフォームをそのまま使用していた。1930年の全日本選抜がなぜ青のユニフォームを使用したのかは定かではないが、12人の選手を送り込んだ東京帝国大学のユニフォームにならったものと言われている。

 そして、これ以後も全日本選抜(=日本代表)は青のユニフォームを使い続けることになる。”(p.46)

当ブログの本体は2001年に始まった日本サッカー・ブック・ガイドなのですが、2002年頃代表ユニがいつ何故青になったのかという質問がたくさん寄せられました。おそらく著者のもとにも同様の質問が多数あり、今改訂に反映されたのではないでしょうか。

本日購入したばかりで、戦前部分しか読んでませんので、それ以外の感想はまた別に。前版の書評はコチラ

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