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佐々木等氏の履歴

後藤氏の新著で最初の日本代表監督は1921年第5回極東選手権大会(上海)時の佐々木等氏ということがわかりました。同氏は『学校体育』誌1953年1月~7月号に「私の歩んで来た道」という自伝を連載しています。

1891年福島県相馬地方の山村に“貧農の末子”として生まれ、小学校卒業後、東京に出て小僧奉公するも長続きせず、転々と奉公先を変え、結局帰郷。新設された准教員養成所に入りますが、正規の教員になるため師範学校に転じます。この間健康のため長距離走を始め、結局これが一生を決めることになります。師範学校卒業後小学校教員になるが、新設の東京高等師範体育科が募集定員に達しないので、応募してみないかと誘われ、就職後1ヵ月半で退職して高師に入学、体育科第1期生となります(1915年9月入学)。

専門は陸上競技であるが、サッカー部にも入り、1917年の第3回極東選手権大会(東京)には25マイルマラソン、10マイル短縮マラソン、サッカーの選手として出場。在学中、佐倉中学にサッカーの指導に行ったとのこと。

1919年卒業後、新設の東京府立五中(現小石川高校)に着任するも1年で東京高師附属小学校教員となります。五中はサッカーを校技とし、ベルリン五輪代表の竹内悌三氏らを輩出するのですが、佐々木氏が“種をまいた”のかもしれません。

“大正十年には、第五回極東大会が上海で行われるというので私は、日本のサッカーチームの監督という名義で約一ヶ月出張したことがある。”『学校体育』1953年3月号p.36

という一文があります。『体育と競技』誌創刊にも参加。東京高師附小におけるサッカーについては言及されてませんが、おそらくサッカーも教えていたのではないでしょうか。だとすれば、日本代表監督が小学生を指導ということになるのですが。

1924年新設の体育研究所技師、遊戯部長となり、同時に“陸上競技から足を洗って、球技の研究に転向”。高師体育科で球技の講師を兼務。1926年の学校体操教授要目改正に際して調査委員となり、“ボールゲームスを大幅に取入れることに努め”ています。

1928年アムステルダム五輪のとき、文部省留学生として欧米に留学。往路はシベリア鉄道で、ドイツ、オランダ、アムステルダム、チェコ、オーストリア、ハンガリー、ユーゴ、イタリア、スイス、フランス、イギリス、米国を経て太平洋航路で帰国。大西洋横断は“サザンプトンから四万五千噸のモリタニア号で大西洋を四日間西進してニューヨークにつき”と、大西洋航路の名花Mauretania号(かのタイタニックは打倒本船をめざして就航、姉妹船のLusitaniaは第一次大戦中Uボートに撃沈され、米国参戦のきっかけとなった)に乗船したそうです(ウラヤマシイ)。

1935年東京女子高等師範(現お茶の水女子大)に転じ、1938年同校体育課の創設に尽力、1943年中華民国国立南京中央大学教授に転任、1945年4月帰国して宇都宮師範転任、あやうく抑留をまぬがれています。同校の大学昇格に関わった後、福島大学から新設体育学科の“重もし”として招請されたところで終わっています。

佐々木氏は30を超える著作があり、サッカー専門書『フットボール』(1926年に8版が出ているおそらく戦前最も読まれたサッカー本)も著していますが、言及はありませんでした。『わが生立ちの記』という自伝もあるようですが、未読です。

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