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第7回極東大会の監督

後藤健生氏の『日本サッカー史 資料編』には1930年以後の日本代表監督のプロフィールが記載されています。それ以前も姓名が判別すれば(姓のみの場合もある)記載されています。第7回1925年度極東選手権大会(マニラ開催)の監督は空白になっています。

山田午郎氏は『ア式フットボール』(杉田日進堂,1925)の序文では、

“極東に於て、各種運動競技の選手権大会が開かれることにすでに七回、中でもア式蹴球は中華民国が実に六回連勝の栄誉を担ってゐる。今回マニラの地に開かれた第七回極東競技大会に於ても、フィッリピンを五対一で破り、わがティームを二対零で破って堂々と勝利を占めてゐる。これは単に体格ばかりに依るといふことは出来ない。彼は幼児からボールに接する機会が多い。つまり長い間の好める運動として練習の機会が多い。著者が今回の大回(ママ)にア式蹴球の監督としてマニラに往復する途中親しく上海、香港に於ける彼等の愛好するフットボールについて見たのに、五六歳の小児から十七八歳の元気あふれる青年迄一所になって盛んに蹴って居る、...”

と記しており、もう1冊の著書『蹴球のコーチと練習の秘訣』(目黒書店,1932)でも、「自序」で、

“大正十四年マニラに開かれた第七回極東選手権競技大会の砌不肖監督として代表チームに随行した当時とか其後蹴球協会理事をしてゐた時の方がこの様なものをまとめるに都合がよかったであらう。”(p.2)
(注:砌=みぎり)

と述べています。当時、山田氏はサッカー報道の第一人者、かつ大日本蹴球協会理事経験者としてサッカー界でその名を知らない人はいないくらいの人物だったので、まったくデタラメを書いたとは思えません。

①後藤氏の著作にないということは、公的記録に監督に関する記載がなかった。
②従って、自分が監督であったという事実を自著であえて強調する必要があった。

とも推測できますが、日本サッカー史のミステリーのひとつといえるでしょう。

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