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1958年のブラジルと1970年のブラジル

『サッカーマガジン』1970年11月号 p.122-123

小見出しは「比較は可能か?」、「守備力は不完全」、「格段すぐれていた五八年のバックス陣」。

“メキシコ大会に参加した他のチーム全部のなかで、ただ西ドイツだけが今日のような条件のもとで、ブラジルに勝つことができたであろうと私は信じる。

 三人のウイングに加えて、六ゲームで10点を叩き込んだ主砲のゲルト・ミュラー、それに加えて、主将ウベ・ゼーラーの精神面での支え、もし彼らにブラジルと当る機会が与えられていたら、彼らは大胆にゴールをねらいにいったであろう。”

次のパラグラフでエリック・バッティ節が炸裂してます(笑

“私は信じる。イングランドなら失敗していただろう。なぜなら、ワールドクラスといわれながら水準以下のハーストとリーをストライカーとし、チームのなかに一人のウイング選手も持たぬイングランドは、勇敢さと個々の労働量は持ちながら、必要な人的材料を欠いているのである。” 

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手を入れました

牛木素吉郎氏の『サッカー・マガジン』コラムで辿る日本サッカー史のリンク切れ、本文未リンクのものにリンクを貼り直しました。

『サッカーマガジン』収録エリック・バッティ記事索引を企画してたりします。著作権上、本文の収載はできませんが。

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柴田勗氏のデ・ハビランド論文に無料アクセスできます

札幌大学名誉教授の柴田勗(つとむ)氏が「黎明期・北海道のフットボールの胎動-伝道師役を果たした2人のデ・ハビランドの謎-」 『比較文化論叢』 no.12 2003 p.1-24 という論文を書いたことは以前当ブログで紹介しました。

『比較文化論叢』 no.12 2003は電子ジャーナル化されていて、無料アクセスできます。全文アクセスは、論文タイトル末尾の「本文:CiNii」をクリックしてください。

デ・ハビランド氏の母方の家系図を見つけました。フランス王家の末裔で、欠地王ジョン(スリーライオンズの紋章を採用した獅子心王リチャード一世の弟)など、イングランド王家の血も引いているようです。


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Corinthians

WikipediaのCorinthiansの項によれば、アマチュアの同クラブは1882年創立、1880年代にはイングランド代表の主力となり、対スコットランド戦勝利は同クラブ選手たちの功績によるそうです。“most Corinthians players had another primary club affiliation - in many cases one of the university sides.”というように、同クラブは大学系選手のオールスター・チームというべきであり、FAは単独クラブと認定してなかったようです。同クラブにも在籍したCharles Wreford-Brown(オックスフォード大卒)は1898(明治31)年対スコットランド戦のイングランド代表主将です。

20世紀になってもまだ強く、1904(明治37)年にはマンチェスター・ユナイテッドに11-3で勝利しています(マンUの最大敗記録とのこと)。海外遠征でも強烈な印象を与えたらしく、レアル・マドリーの「白」のユニフォーム、ブラジル・サンパウロのサッカー・クラブ名は、同クラブにちなむそうです。

明治30年代後半に東京高等師範学校がデ・ハビランド氏(ハロースクール-ケンブリッジ大卒)に正式のサッカーを学んだ頃、母国でも「紳士のサッカー」チームがまだまだ健在だったのです。

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明治期の競技成熟度

『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)の明治37年「校友会誌第5号(7月発行)」中に、

“それに諸君も御承知の通りフットボールはベースボールの様に団体的の運動で、一度ゲームをするには少なくとも22名の人数が必要で、其の上に審判官1人、ラインズマンの3、4人も無いことには正式のゲームは出来ないのだが、悲しい哉6百余名の健児を有する我が校でありながら如何いう者か30名足らずの人すら募集する事が出来ないのだ。これには色々原因もあろう、寄宿舎の一つないことも其の一つだが、多くの人が、この遊戯はただぽんぽんと球を空中高く蹴あげるのみが能事だと思って、何んのあの様なつまらぬ事三十づらさげて為るべき事ではないというのが一大原因かもしれない。”(p.51-52)

という記述があります。中馬庚著『野球』(前川善兵衛,明治30年)が、投手と打者の駆け引きを具体的に記述しているのと対照的で、明治30年代のサッカーと野球は、競技の成熟度という点で大差があったことがわかります。野球がエリートの第一高等学校生を夢中にさせるほど知的に成熟していたのに対し、サッカーは、“何んのあの様なつまらぬ事三十づらさげて為るべき事ではない”と、東京高等師範学校内ですら何の駆け引きもないただの球蹴り遊びだと認識されていたようです。

野球がいちはやく知的に成熟した競技として発展し、認知されたことが、日本スポーツ史において、野球がナンバーワン・スポーツとして君臨してきた最大の理由ではないでしょうか。サッカーが知的(戦術的)競技になるのは、チョウ・ディンの教えを受けた大正時代以降になります。

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戦前サッカーを校技とした東京高師OB校長の卒業年次

広島一中(現・国泰寺高校) 弘瀬時治 在任:明治39年~大正14年 卒業年次:明治23年

志太中(現・藤枝東高校) 錦織兵三郎 在任:大正13年~昭和5年 卒業年次:明治42年

湘南中(現・湘南高校) 赤木愛太郎 在任:大正10年~昭和22年? 卒業年次:明治33年

東京府立五中(現・小石川高校) 伊藤長七 在任:大正8年~昭和5年 卒業年次:明治38年 

リンクは『東京高等師範学校一覧 明治44-45年』の卒業生名簿にかかっています。

昨日述べたように、錦織氏はデ・ハビランド氏と同時代に在籍しており、同氏から直接学んだ可能性すらあります。伊藤氏はデ・ハビランド氏とはすれ違いですが、明治36年には『アッソシエーション・フットボール』が刊行されており、横浜の外国人たちと試合していたフットボール部・蹴球部の活動を知っていた可能性は高いです。

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大正期にサッカーを校技とした新設中学校

大正時代の新設中学校でサッカーを校技とした中学校に刈谷中(現・刈谷高校 大正7年創立)、志太中(現・藤枝東高校 大正13年創立)、湘南中(現・湘南高校 大正10年創立)、東京府立五中(現・小石川高校 大正8年創立)があります。

これらのいずれも初代校長のトップダウンによりサッカーを校技とし、野球部を作らせなかったのですが、 4校中3校の校長(志太:錦織兵三郎、湘南:赤木愛太郎、東京府立五中:伊藤長七)は東京高師OB。これらの校長は野球を排し、英国のパブリック・スクールの校技である“フットボール”を「エリートにふさわしい校技」として採用したわけです。

これらの中学がサッカーを校技に採用した1920年代には、母国イギリスではサッカーは大衆のスポーツ化していて、いささかアナクロニズムな感がなきにしもあらずです。しかし、明治38年にデ・ハビランド氏(ハロー・スクール-ケンブリッジ大卒)からサッカーを学んだ高師のサッカーはいまだに“エリートのスポーツ”だったはずです。現・藤枝東高校の初代校長だった錦織の卒業年次は明治42年、蹴球部員ではないにせよ、デ・ハビランド氏と同時代に在籍しており、彼のサッカーのイメージは“パブリック・スクールのスポーツ”だったに違いありません。

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