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悪夢再現!

この手を使うなら、11月21日の開催地は札幌以外にあるまい。

平山は日本のクローゼに!・・・ならないか。

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元祖「人もボールも動くサッカー」

先日、日本サッカー殿堂にチョー・ディン氏が掲額されることが発表されました。

ショートパスを繋いでポゼッションを重視する日本スタイルのサッカーの祖というべき人物で、その影響は現在の日本代表、Jリーグの主要チーム(例:ガンバ、ジュビロ、etc.)にも及んでいます。関係文献を収録した「チョウ・ディン関係資料集」を作成してありますので、興味のある方はご覧ください。

JFAの経歴紹介では触れられていませんが、第3回1924年全日本選手権(現在の天皇杯)優勝チーム、アストラクラブ(暁星中学のOBチーム)の指導者でもありました。関東大震災で蔵前にあった東京高等工業学校(現・東京工業大学)が被災(これをきっかけとして現在の大岡山に移転)し、授業を受けられなくなって暇だったので、日本各地をコーチして廻ったそうです。短期間でピンポイントを的確かつ合理的に指導したようで、戦前の中学蹴球界に覇を唱えた神戸一中も、彼の指導を半日受けただけでお家芸となったショートパス戦法をマスターしたようです。北川貞義「第一回黄金時代はどうして生れたか」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)には、

“それまでのわれわれは先輩達の掛声に追い廻されるように、我武者羅に走り蹴り滑っていたのだが、チョーディン氏のコーチによっていろいろな基礎プレーの型を教わった。インステップ・キック、サイド・キックなどキックの基本、正面タックル、スライディング・タックルなどタックルの基本、ショートパス、スルーパスなどパスの基本、等々を理路整然と教わったのであった。僅か半日のコーチではあったが、以後われわれは懸命にこの基本の型を身につけたのである。持前の器用さに熱心な研究と修練は、折角チョーディン氏を招いた肝心の御影師範以上にその基礎プレーをマスターし、やがてはこの「ミカゲ」を見事打倒したのである。後年サッカー界で恐れられた「神戸一中のショートパス戦法」はかくして生れたのである。”

と記されています。同じく彼の指導を受けた日本のミスター・サッカー竹腰重丸は、その著書『サッカー』(旺文社,1956)で、ディンの理路整然とした指導ぶりを以下のように描写しています。

“大正十一年(一九二二年)の秋、山口高等学校で筆者もはじめて同氏の指導を受けたが、ペナルティー・エリア線付近からのキックで、十回中に六、七回ぐらいは確実にバーにあてる美技や、ヘッディングの正確さには目を見はったものであるが、それにもまして大きな収穫であったのは、キックやヘッディングのフォームやタイミングについて、簡単な物理を適用して考えることを教えられ、 サッカーは考えることができるスポーツであることを知ったことであった。

 それまでのサッカー練習では円陣を作って蹴り、ドリブルをし、ゴール・シュートの練習をしてのち、練習試合をするといった、単に前から行われていた練習方法をまねるに過ぎないもので、バーを越すシュートをすれば「下げて、下げて」と主将なり先輩にどなられるだけであり、なぜバーを越したかまたどうすれば上がらないですんだかを反省し、くふうすることははなはだまれであったといっても過言ではなかった。それが同氏の指導を機として「精神力と慣れ」のサッカーから、フォームやタイミングなどと照らし合わせて原因・結果を追求する科学性を加えた練習方が進歩したので、種々の技術が飛躍的に向上していったわけである。”(太字は原文のまま)

「考えて走り、蹴るサッカー」の元祖でもありました。彼が旧制インターハイで優勝した早稲田高等学院(早稲田大学の予科)の指導者であったことが示すように、高等教育レベルでサッカーが普及し始め、従来よりも高度なサッカー理論をコーチングできる人材が求められるようになった、まさにそのタイミングでディンが登場したことは、日本サッカー史上の僥倖といえるでしょう。

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大正サッカーはクラブスポーツの夢を見たか

日本最初のサッカーリーグで紹介したように、1918年9月に東京フットボールクラブ(英国大使館チーム)、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の7チーム(朝鮮青年団は後から参加した可能性もある)によるリーグ戦が開始されました。

顔ぶれをみると、7チームのうち、東京フットボールクラブ(英国大使館チーム)、東京蹴球団、中華留日学生団、朝鮮青年団の4チームがクラブチーム、高等師範、青山師範、豊島師の3チームが学校チームでした。また、東京フットボールクラブ(英国大使館チーム)、中華留日学生団、朝鮮青年団の3チームは海外系でコスモポリタンな顔ぶれでもありました。原島好文の「ソッカー十年の思ひ出」には、

“東京フットボール・クラブ(英大使館員)は芝浦にグラウンドを持ってゐて、私どもを呼んだ時は必ず試合後ビールを出して呉れたので、乾いた咽喉を潤すまではよいが酔った顔の始末に困りながら寄宿舎に帰った。”

とあり、東京フットボールクラブは専用グラウンドを持つ本格的な英国式クラブに近い存在だったようです。このリーグに、やはり専用グラウンドやクラブハウスを持つYokohama Country & Athletic Clubが加入していれば、さらにコスモポリタンなクラブチームのリーグとして発展したかもしれません。また、1920年代に成立する後発の東大、早慶のような大学チームもこのリーグに加入していたなら、日本サッカー史の展開はまったく異なったものとなっていたでしょう。

しかしながら、日英友好親善のため、FAが英国外務省、英国大使館を通して大日本体育会にカップを寄贈したことによって、かえってコスモポリタンなクラブスポーツとしての発展の道は閉ざされ、学校チーム(OBを含む)を主体とする日本チームのみによるドメスチックな全日本選手権(現在の天皇杯に続く)が開催されることになったことは、歴史の皮肉といえるのではないでしょうか。

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外交ルートで届いたFA杯

大正8(1919)年3月12日付け『東京朝日新聞』に、

“英国蹴球協会は同国外務省の手を経て我英国大使館へ蹴球優勝銀盃を贈って来た。”

とあるように、FA→英国外務省→駐日英国大使館、というルートでカップが贈与されています。ということは、FAに日本でサッカーが行なわれているという情報が届いたのも、この逆ルートである可能性があるのではないでしょうか。同一記事中に

“昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチの優勝者に[やが]て授与される訳になる。”

とあるように、1918(大正7)年9月に始まった正式名称不明のリーグ(仮称をつけるとすれば英国大使杯リーグか)の覇者に授与される予定とのことでした。このリーグは、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」に、

“その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。”

とあるように、英国大使館書記官のウイリアム・ヘーグ氏が中心となって始められたものです。FAに伝わった日本のサッカー情報は、

1) 1918年に始まった日本フートボール大会(現在の選手権)や関東蹴球大会でなくて、同年に始まった英国大使杯リーグというべきリーグ戦ではないか?
2) 情報伝達ルートは『日本サッカーのあゆみ』の通信社“外人特派員の錯覚”ではなく、英国大使館ではないか?

という疑問が浮上してきます。FAによるカップ贈呈が日英親善に貢献したとするバルフォア外相による謝意を記した手紙をFA会長キンナード卿に贈ったという記事が『Times』紙に掲載されており、英国では外相レベルでカップ贈呈を把握していたことがわかります。『Japan correspondence』というタイトルで英国外務省の日本関係文書がマイクロフィルム化され、日本でもいくつかの図書館が所蔵しているのですが、1918-19年分を所蔵している図書館はないようです。『日本外交文書』の1918-19年分の総索引に蹴球関係文書は見当たりませんでした。

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『日本サッカーのあゆみ』におけるFA杯の記述

日本蹴球協会編『日本さっかーのあゆみ』(講談社,1974)では、FAからのカップ寄贈と協会設立のいきさつが以下のように記述されています。

“瓢箪から駒 FA杯寄贈のいきさつ

外人特派員の錯覚とFA杯

 1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行なわれたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行なわれたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。

 ロンドンにあるフットボールの総本家“The Football Association””は非常に喜んで、日本の蹴球がいよいよ盛んになってほしいとの願いをこめ、優勝チームのためにと大銀杯を贈ってくれたのだった。1919(大正8)年3月のことである。

<中略>

 The FAが日本へシルバー・カップを贈ったということは、ロンドンの新聞では1919(大正8)年の1月にタイムズ紙で報ぜられていたが、日本では3月12日の東京朝日新聞紙上に写真入りで報道されるまではだれも知らなかった。

 やがて嘉納治五郎から内野台嶺に呼び出しがかった。

‘イギリス大使を通じイギリスの蹴球協会からわが国の蹴球協会へ銀杯が来ている。それには、「全日本蹴球協会の成立を聞き、はるかに祝意を表してこの銀杯を寄贈する。願わくば、駐日イギリス大使と徳川家達公爵とが毎年交互に全国競技大会で優勝したチームに授与するよう取り計らわれたい」という手紙もついているそうだ。けれども、日本にはそのような協会はまだないのだから、とりあえず蹴球協会ができるまでの条件つきで、大日本体育協会の会長嘉納治五郎としてイギリス大使館へ行って受け取ることにするが、蹴球協会はさっそくにこれをつくりなさい。’

という命令だったという。内野も嘉納校長のお供をして大使館に行った。大銀杯を受け取ったのは3月28日のことだった。

協会結成への努力

 内野は、前年の関東蹴球大会で来場されたイギリス大使のグリーンに会っている。また、大使館員ウィリアム・ヘーグとは、親善試合でたびたびおつきあいしている間柄だった。内野としては、「わが国に此のゲームを本当に発展普及させるために、ナショナル・アソシエーションはぜひ必要な組織なのだから、困難な事業ではあるけれども、大使館関係の人にも力になってもらい、同志とともに設立への努力に着手する」決意をした。

 ヘーグ書記官を通じ、イギリスの協会の事情や、シルバー・カップ試合の規約などについて教えを受け、一方、貴族院議長の要職にある徳川家達公爵に名誉会長をお引き受け願い、1年おきにカップ授与をしていただく承諾も取り付けてもらったが、困難はほかにもいろいろあって、協会発足までにはまだ1年を必要とした。”(p.46-47)

“外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行なわれたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行なわれたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。”とありますが、文献的根拠が示されていないので、この文章を書いた新田純興氏の憶測によるものか、客観的事実なのか判別がつきません。本ブログで全文を紹介した『Times』と『東京朝日新聞』の記事については時期を明示して紹介しているのに、“誤った報道”が何に掲載されたのか書かれていないところをみると、新田氏の憶測かもしれません。

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日本最初のサッカーリーグ

大正8(1919)年3月12日付け『東京朝日新聞』記事中に、

“英国蹴球協会が此銀盃を贈って来た意味は日本に於ける学校チームの発達を促進、奨励する目的であって、昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチの優勝者に[やが]て授与される訳になる。併し本年は大使館員や支那人などが交ってゐるから本年から大使館員などはリーグ戦に参加せず純然たる日本学校チームのリーグ戦とした上優勝者に与へる筈であるといふ。”

とあるリーグマッチについては、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』誌10巻4号(1929年4月)p.36-45、中で以下のように言及されています。

“その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。加盟ティームは、東京フットボールクラブ、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の七つで、規約は今のカレッヂリーグのそれと異なるところがない。

 其処で東京フットボールクラブと東京蹴球団と英訳して同じになるので困るとかいふので一方には日本と冠し他方には英吉利と冠するやうに何時の間にかなって了ったのだ、私どもも大日本蹴球団と自らも呼ぶやうになった。誰かが何時だったか、大日本蹴球団は芦原将軍が名附け親かと云ったが、その由来は如斯である。

 そのシーズンはイギリスを冠する方の優勝となった。”

東京朝日新聞記事とあわせると、

1) リーグ戦は大正7(1918)年に始まった。
2) 参加チームは東京フットボールクラブ(英国大使館チーム)、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の7チーム。
3) 優勝チームには英国大使杯が授与された。
4) 初年度の優勝チームは東京フットボールクラブ(英国大使館チーム)。
5) FAから日本に贈られたカップが英国大使館チームや中国人留学生チームに渡っては日英親善にならないので、新たに「日本人のみのサッカー戦」が創設されることになった。

このリーグ戦については、『読売新聞』大正7(1918)年10月9日朝刊5面に以下の記事があります。

銀杯争奪蹴球

 東京蹴球界に於ては今秋より英国大使寄贈の銀杯優勝戦を催すことになり、東京フットボールクラブ(英人)、支那人、東京蹴球団、豊島師範、青山師範、高等師範の六チーム参加し、既に九月二十一日より試合を開始し、青山対高師は一対一、豊島対高師はニ対零にて高師勝ち、東蹴対豊島はニ対零にて豊島の勝ちとなれるが此の優勝戦は明年二月迄続行されるべしと。”

1918年9月21日から始まり、翌年2月までと、秋から春まで年を越えたリーグ戦だったようです。現在のJリーグより“グローバル・スタンダード”に近い日程です。原島の記事では7チームだったのが6チームになっています。東京朝日新聞の記事では、FAからの銀杯はこのリーグの優勝チームに与えられることが想定されていたようです。

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FAのカップ贈与に関する朝日新聞記事

FAのカップ贈与に関する大正8(1919)年3月12日付け『東京朝日新聞』の見出しと記事は以下のとおり。

日本の蹴球戦奨励の為英国から銀盃を 来年から純然たる日本学校チームを作り最優勝者に授与する

英国蹴球協会は同国外務省の手を経て我英国大使館へ蹴球優勝銀盃を贈って来た。それは今から二週間許り前の事であるが銀盃の高さは十六吋、口径は七吋で其表面には『英国蹴球協会より日本へ贈る』と英語で彫られてある黒塗の台を付れば十九吋半の高さになる。英国蹴球協会が此銀盃を贈って来た意味は日本に於ける学校チームの発達を促進、奨励する目的であって、昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチの優勝者に[やが]て授与される訳になる。併し本年は大使館員や支那人などが交ってゐるから本年から大使館員などはリーグ戦に参加せず純然たる日本学校チームのリーグ戦とした上優勝者に与へる筈であるといふ。従って本年度迄英国大使館員が中心とも見られてゐたリーグは新しく設立せらる徳川家達公及び英国大使を名誉総裁とする日本蹴球協会の管下に属する事となり将来は東京のみでなく日本全国に大会を開いて最優勝者に名誉総裁から此優勝盃を与へる事になるであらう。斯くしてこそ英国蹴球協会の厚意を初めて満足せしめる訳になるが日本蹴球協会は嘉納高師校長が本年の十月頃迄に委員を選んだ上委員会を開いて総ての具体的草案を拵へる予定である。因に右の銀盃は近日の中三越呉服店に陳列して一般の観覧に供する筈であると云ふ。”

“昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチ”については後日・・

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The FA's gift to Japan

という記事が『Times』紙1919年1月23日付けにありました。見出しと全文は以下のとおりです。

“SPORT AND INTERNATIONAL
       FRIENDSHIP
       ---------
   THE FA'S GIFT TO JAPAN

  Some weeks ago it was announced that the Football
Association had presented a challenge cup to Japan
and the president of the F.A., Lord Kinnaird, has
receved the following letter from the Foreign Office--

  I am directed by Mr. Secretary Balfour to state
that he has been informed that the Football Associa-
tion has been so good as to provide a challenge cup
for competition among Japanese football teams,
and that the cup has now been forwarded to H.M.
Ambassador at Tokyo for presentation.

 I am to request you to express Mr. Balfour's thanks
to the Football Association for their generous action,
as he is sure that the encouragement of the sport by
such a means will contribute to the cordiality of
unofficial Anglo-Japanese relations.”

1918年に始まった関東蹴球大会(東京蹴球団主催)か日本フートボール大会(大阪毎日新聞主催)の情報が何らかの形でイギリスに伝わり、未だ設立されていなかった日本のサッカー協会にFAがチャレンジカップを贈呈したことがきっかけとなって1921年大日本蹴球協会(現日本サッカー協会)が創設され、同年日本選手権(現在の天皇杯)も開催され、FAのカップが優勝チームに授与されています。

上記『Times』の記事は、FAのカップ贈呈をイギリス外務省が日英関係への貢献として評価しているという内容で、「日本でカップ戦が行われている」というカップ贈呈のきっかけとなった情報ではありません。カップ贈呈のきっかけとなった情報も『Times』紙に掲載されていれば面白いのですが・・

参照:それは銀杯から始まった(中倉一志) (ブリティッシュ・カウンシルHP)

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