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サッカー史関係の新刊書

歴史ポケットスポーツ新聞  サッカー 』近藤泰秀著 大空出版 2007.10 ISBN978-4-903175-12-6

近代スポーツの実像』中村敏雄著 創文企画 2007.10 IISBN978-4-921164-60-7

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大谷一二氏逝去

大谷一二氏が逝去されました。

朝日及びその他の新聞の訃報には情報がないようですが、1934年極東選手権大会のサッカー日本代表で、戦前を代表するウイングでした。

1936年のベルリン・オリンピック代表(候補)選考において、大谷氏が選考されなかったことがきっかけで、関西蹴球協会が大日本蹴球協会に抗議声明を出す騒ぎになりました。この間の経過については当サイトの『ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏』に記してあります。

『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)所収の「昭和初期の兵庫のサッカー」という座談会ではご本人が堀江忠男氏を以下のように評しています。

“大谷:ウイングにも色々あったが、早稲田に堀江がおったでしょう。前へ突っ込んでばかりおる。一度足の上に乗ったらんとあかん<乗ってやらないといけない>と思って足を踏んでシャーと前へ行ったことあるけど、そのうちやり損ねてカーンと膝いかれた<やられた>ことがあるわ。
吉江:彼はボール放っといて体で行く方やったから。
大谷:だいたいあれを「すかす」のが面白うて・・・。
吉江:まるで猪みたいなもんやったからね。
大谷:一度足から来ると思ったら頭から滑り込んできてね。こいつだけハアーッと思ったね。頭を蹴っていく訳に行かんしね。”

うまいプレーヤーにありがちな、相手をオチョクルようなプレーをする人で、その点を生真面目な関東の選手、コーチたちに嫌われたのかもしれません。

「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』1976年1月号で、川本泰三氏は

“選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点からみてもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合にこまる。大谷をつれていってほしいとノコさんにも、いったんだが...。スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。”

と述べて、ウイングとしての大谷氏を評価しています。

しかし、“大谷をつれていってほしいとノコさんにも、いったんだが...。”とありますが、ノコさんこと竹腰(たけのこし)重丸氏は代表コーチで30歳くらい、当の川本氏は早稲田の現役選手でいまでいえばU23、大谷氏よりも年下のはずです。戦前のサッカー界はよほど風通しがよかったのか、それとも川本氏が規格外の人物だったのか・・たぶん後者なんでしょうね。

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埼玉サッカー100周年

1908年東京高等師範学校を卒業した細木志朗が埼玉師範学校に赴任し、サッカーを埼玉に伝えました。2008年は埼玉サッカー100周年にあたります。埼玉県サッカー協会は75周年の1983年に『輝く埼玉サッカー75年の歩み』を刊行しています。同協会HPで見出し直下にある「埼玉県サッカー協会の本年度の事業計画など」をクリックすると、最下部に「100周年記念誌発刊」があります。

記念誌編集者はマンガみたいなクライマックスができて、さぞお喜びのことでしょう。でも、原稿がもう揃っていたり、版組みができていたりしたら差し替えが大変、少なくともトヨタカップが終わるまで最終稿を待たないといけません。

細木志朗は兵庫県人、浦和レッズのルーツは三菱重工神戸であることも記念誌に記録しておいていただきたい・・

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魔球の時代

1960年代の少年野球漫画のテーマの中心は「魔球」でした。タイトルに「魔球」をつけた『ちかいの魔球』や同じ原作者の『黒い秘密兵器』があり、『巨人の星』の大リーグボールで頂点に達したようです(いずれも『少年マガジン』連載)。

たぶん『マガジン』だったと思いますが、漫画の巻頭に実在の投手の魔球が特集されたことがあり、村山(阪神タイガース)のフォークボール、秋山(大洋ホエールズ)のシュート、金田(国鉄スワローズ)のカーブ、そして稲尾(西鉄ライオンズ)のスライダーが当時の代表的な「魔球」としてとりあげられ、球の握りなどが解説されていたことが記憶にあります。

ウィキペディアの見解によれば、野球漫画の魔球は忍術の延長線上にあったそうですが、もしこの時代にサッカー漫画があれば、分身の術を使って数的有利をつくるDFや、土遁の術を使って文字通り“消える”FWなんかが登場したんでしょうか。

ところで魔球という語ですが、日本最初の野球専門書といわれる中馬庚著『野球』(前川善兵衛,1897)中ですでに使用されているのです。中馬は「野球の名付け親」でもあるので、「魔球」という語も中馬の命名によるのかもしれません。中馬が使用した「魔球」の実体は、「速度ニ関スル者」すなわち剛速球と「方向ニ関スル者」すなわち変化球の2種類です。この時代すでに変化球でカーブとドロップを使い分けているのが興味深いところです。

1960年代には高校野球でカーブ以外の変化球を投げる投手はほとんどいませんでした。しかし、最近ではマー君こと楽天の田中やハンカチ王子こと早稲田の斉藤のようにスライダーなど当たり前のように放ります。フォークやツーシーム、果てはナックルまで使う投手もめずらしくありません。

こうした変化の背景には、硬球を使うリトルリーグ、シニアリーグ、ボーイズリーグの発展があるのは間違いないでしょう。野球も、高校生になるまでの段階では、サッカー並みに脱学校化しているように思えるのですが。

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日本代表も採用していたボルト・システム

世界のサッカーシステムの変遷(Variety Football)にまとめられているように、サッカーのフォーメーションはピラミッド(2・3・5)からWM(3・2・2・3)に移り、そこから「ヴェロウ(ボルト)」(マン・ツー・マンの4・2・4)などが派生します。

『イレブン』1972年6月号「川本泰三放談 2FBから3FBへの移行 センターバックといってもよいストッパー」によると、日本代表も1956年のメルボリン・オリンピック予選対韓国戦でこのフォーメーションを採用したとのことです。

“川本 3FBがいまでは掃除人つき4FBになっているが、その間にもう一つの段階が
ある。ダブル・ストッパーないしはボルトというやつだ。日本ではほとんどないといっても
いいほどに短い期間だったが、メルボルン・オリンピック予選の対韓国戦に実はその
ダブル・ストッパーをやったのだ。コーチをしていたが、大村和市郎(立教出、田辺製薬、
大阪クラブ)をHBからさげてCFの崔貞敏にくっつけたのだ。

大谷 本来のストッパーは小沢通宏(東教大出、東洋工業)ですな。

川本 その小沢をややひき気味にして、大村と二人で崔貞敏をはさませたのだ。つまり
崔貞敏シフトだ。それがダブル・ストッパーになった。それでインナーが一人後退した。
しいて型でいえば4・2・4かな。というよりもいまのスイーパーがストッパーより
前方に位置した形かな。こんなのは日本代表では最初にして最後だろう。

大谷 左右からはさんだのですか。

川本 要するに大村は崔貞敏が後退してボールを取ったところへも行く。小沢はついて
ゆかないで真ん中にいる。だからダブル・ストッパーの型にならなくても、考えとしては
ダブル・ストッパーなのだ。

賀川 崔貞敏を守るのが根本の考えだったからね。”

対韓国戦は6月3日と6月10日の2試合あって、2-0、0-2だったのですが、勝った第1戦は後藤健生氏の『日本サッカー史 日本代表の90年』(双葉社,2007)では以下のように記述されています。

“6月3日の第1戦は後楽園競輪場に皇太子明仁を迎えて行われた。雨はほとんど上がっていたが、グラウンドは重く、日本に不利と見られていた。日本はCFとして起用された岩淵功が滑るグラウンドに苦しんでいたが、岩淵に代えて15分頃、LWだった八重樫茂生をCFにポジション・チェンジしたのが功を奏して、そこから日本ペースとなった。後半に入った54分、鴇田正憲が右サイドでキープし、八重樫が動いてDFの鄭亨湜(チョン・ヒショシク)を引き付けてスペースを作り、ここに若手の内野正雄が飛び込んで鴇田からのパスをヘディングで決めた。さらに77分にも同じように鴇田がキープし、八重樫が動き、今度は鴇田が八重樫へのパス。そして八重樫からのボールを若手の岩淵が飛び込み、こぼれたところを岩淵が右足を振りぬいて追加点を決めた。軟弱なグラウンドを考慮して起用された若手FWが2点を決めたのだ。

 こうして、劣勢を予想された日本が2-0で快勝。これが、韓国代表に対する日本代表の初勝利ということになる。日本はしっかり守って、アウトサイドからボールを大きく動かすか、鴇田のドリブルで攻めるというシンプルな作戦で、それが成功したわけだ。韓国はボール支配率では勝っていたが、崔貞敏(チェ・ジョンミン)が左足を故障していたのが痛かった。”(p.103)

得点経過を主として記述されており、これは第2戦も同様です。おそらく、情報ソースがそうなっていたからなのでしょう。ディフェンス戦術については記述がないので、『イレブン』掲載の川本泰三放談は価値ある記録といえると思います。なお、この試合の監督は竹腰重丸氏ですが、実際の指揮はコーチである川本氏自身がとっていたそうです。

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川本泰三の竹内悌三、堀江忠男・評

いまは亡き『イレブン』1972年5月号の「川本泰三放談 ゾーン・ディフェンスのすすめ 一対一に強くなってこそ可能なカバーリング」にベルリン五輪のFBだった二人を評した部分があります。ひとしきりゾーン・ディフェンス論を展開した後、

“賀川 さて以上のディフェンス論から印象に残る選手はどうですか。

川本 われわれの時代は2FBから3FBへの切換えの時代だったが、そのころでいうと
竹内悌三、堀江忠男の二人がやはり最強のフルバック・ペアだったろうね。ベルリン大会の
フルバックだ。竹内さんは主将、東大OBで、のちにシベリアで戦病死された。一方の
堀江君は早大、いま教授でサッカー部長だ。この二人は全く逆のタイプだが、二人を
合わせるとディフェンスというものの姿が浮かんでくるね。

 竹内さんは非常に理詰めなのや。彼の場合はね、前のサイド・ハーフがインナーとか
ウイングをまずチェックするでしょう。すると、そのときに出てくるボールのコースを
よーく読んで、たとえばインナーからウイングへパスが出たら、ウイングへ渡る瞬間を
パッとタックルする。そのタイミングというか間合いというか、それが極端にうまかったな。
だから竹内さんの場合は、前の味方に攻撃の方向を規制させて、そのあとを締めくくろう
という守りなのだ。少し身体が弱くて、脚は速かったが、余り無理はせず、理詰めの読みは
すばらしかった。もう一つの特色はキックのいいことだった。左のFBで右のウイングへ
サイドキックでスパッとパスしたからね。斜めのクロスだから70メートル近いだろう。
それに正確だ。まさにバックが攻撃の第一歩を作るという感じだったな。

大谷 すべてサイドキックだという話は聞いていましたね。

川本 堀江の場合は、全く対照的でね。彼は卒業のときの学業成績は全優だった。早大
サッカー部ではまさに空前絶後やないだろうか。ところが、これほど理詰めでないサッカーは
なかったね。体は柔らかいし、理論は持っておるがやることはむちゃくちゃというか、
頭からタックルに飛込んでみたり、相手がこわがることばかりや。その守り方というのは、
竹内さんとは逆に、自分がまず飛込んで、仮りに抜かれても相手の方向を規制する。
自分はやられてもそれをカバーしている次の味方が取ることになる。

大谷 片方は捨石を使ってその効果をうまく拾う人、堀江さんの方はむしろ捨石そのものの
方のタイプですな。

川本 タイプとしてはね。しかし堀江自身はやられてばかりじゃない。これも試合向きで、
どっかにひっかかるんだよ。スライディング・タックルが専門でね。このタックルのポイントは
いかに素早く起上がるかにあるのだが、実にそれが速くてね。一度抜いても少しテンポを
ゆるめるとまたやられるんだよ。体を張るプレーといってもいいな。このように、一方は
カバーリングと他方は相手の攻撃方向の規制、この二つの守りのポイントのどちらかを
主力としている全く違ったタイプで、たまたまそうなったのだが、どちらもそれだけの
効果をあげていたね。”

竹内氏はいまなら宮本タイプ。サイドキックのベッケンバウアー?
堀江氏といえばなんといっても“ヘッドスライディング”、写真をどこかで見た記憶はあるのですが、残念ながら何に載っていたのか覚えていません。写真があれば引き伸ばしてパネル化し、サッカーミュージアムの展示物にすればよいのではないでしょうか。

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