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新規コンテンツ

新規コンテンツ「明治時代のサッカーのイメージ 服装編」をアップしました。

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日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった

FC JapanのKagawa Soccer Libraryに「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」 がアップされました。当サイトの「ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏」のモトネタのひとつです。これが掲載されたのは1976年1月号の『イレブン』で、当然、高校選手権の首都圏移転と「連動」しています。

ベルリン五輪代表を単独チーム(早大)中心で固めた反動が戦後にあったと述べられている点に注目すべきでしょう。

“川本 戦後にも、尾を引いていて、第1回のアジア大会(昭和26年)のときに、ボクが監督になるかも知れない、という話があった。この噂をきいて、早速、関西の某OBが、川本は早大だから、彼を監督にすると、関西の選手を連れて行かないようにするかも知れない、だから、川本を監督にしないようにしよう……と画策したとか。

――そらまた、疑心暗鬼(ぎしんあんき)もいいところですね。

川本 それくらいベルリンの選考は、あとに残ったわけだ。いずれにしても、関東、関西の対立が、日本サッカーの底流をなしてきた。
 対立で競い合って、両方が成長したこともあった。いい意味でも、悪い意味でも、対立して今日に至っている。”

このアジア大会の監督は二宮洋一(神戸一中-慶応OB)で、選手も神戸一中OBが全選手の2/3(他に灘中OBが1名)を占めています。この頃が日本代表史における神戸サッカーの全盛時代なのですが、ベルリンの反動が代表監督人事や選手選考に影響したのかどうか・・・

二宮の後の代表監督は、1956年メルボルン五輪まで東大OB竹腰重丸(五輪予選・本戦はコーチの川本が実質的に指揮を取っており、新聞談話も川本が行っている)、1957年から早大OB高橋英辰、川本泰三(1958年の東京アジア大会は予選リーグで惨敗)、1959年から1960年ローマ五輪予選まで竹腰(2次)、1961~1962年高橋(2次)と慶東早OBのたらい回しで実績が出ず、クラマー氏招聘、長沼・岡野・平木氏ら戦後世代抜擢となります。

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ヤンマー社史中のサッカー部

古河電工のサッカー部史が刊行されたので、ヤンマーも部史を出していないかと探してみましたが、見つかりませんでした。社史のほうは、『燃料報国 : ヤンマー70年のあゆみ』(ヤンマー70年史編纂委員会編 ヤンマーディーゼル,1983)があります。サッカー部関係の記述は「福利厚生」の節に「文体活動とサッカー部の活躍」という項があり、以下の記述があります。

 “従業員の文化・体育活動は、本社の33クラブをはじめ、支店・工場で多彩に展開している。

 これが発展し、当社の代表的な競技となったものにサッカーがある。サッカー部は、昭和40年6月に日本サッカーリーグが結成されるとともに関西地区の代表チームに選ばれ、一部リーグに加盟、リーグ優勝4回、全日本選手権(天皇杯)獲得3回という成績を収めた。

 また、サッカー選手は、社業とトレーニングの余暇を利用して、各種団体・学校等の要請に応え、サッカースクール指導員として指導に当たり、サッカーを通じて地域社会に貢献している。”(p.176-177)

459pある大著でサッカー部にふれているのは以上のみです。

創業者の山岡孫吉は、明治45年山岡発動機工作所を設立する以前に、範多家が経営していた大阪鉄工所(現・日立造船)に在籍(明治37・38年ころ)していたことがあるそうです。(p.315) ヤンマーサッカー部とは全然関係ありませんが。

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古河電工のサッカー部史

川淵氏の「私の履歴書」が日経に連載中ですが、『古河電工サッカー部史』が刊行されています。読んだらあらためて報告します。

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兵庫県サッカー史ウェブサイト

兵庫県サッカー史ウェブサイトというのが昨年暮れにできたようです。内容をみると、賀川浩氏が関与されているような・・・

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