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なぜ第1回全日本選手権は秋に開催されたのか?

その回答は大日本蹴球協会『会報 大正十年度』にあります。p.12-18(9/35-12/35コマ目)が「東部予選会」参加20チームです。20チーム中高等教育機関系チームが東大、慶応、東京高師、水戸高、早高、東京商大の6チーム、中等教育機関系(中学校・師範学校)が9チーム、クラブチームが5チームで、主力は中等教育機関系チームです。

当時初等・中等教育は4月始業で現在と同じですが、高等教育は9月始業でした。英国皇太子訪日にあわせてイングランド式に4月末に決勝をもってくる(1922年FAカップ決勝は皇太子訪日中の4月29日(土)に開催された)となると、予選は3月から4月、本戦は4月になってしまい、年度が変わってしまいます。高等教育機関なら差し支えないかもしれませんが、進学をひかえた中学生や就職のある師範学校生に耐えられる日程ではありません。また、正月明けには関東・関西で中等学校の蹴球大会(関西のが現在の高校選手権の前身)がすでに開催されており、日程的にバッティングします。結局、サッカー・シーズン中に全日本選手権を開催するとすれば、秋シーズンしか残っていません。

一方、英国皇太子訪日後の1922年秋では、皇太子訪日歓迎を目的とする日英親善ムード盛り上げに役立たず、何のためのFA銀杯贈与だったのかというマヌケな話になってしまいます。

1921年9月の大日本蹴球協会創立、同年11月の第1回全日本選手権開催は、英国皇太子訪日のスケジュールから逆算すれば、結構ギリギリのタイミングであったことになります。

結局、この後も全日本選手権は春、冬でなく秋開催が定着(神宮外苑競技場設立後は明治神宮大会の蹴球部門となって10月下旬~11月上旬開催)します。

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英国皇太子の訪日と大日本蹴球協会創立

Googleを「"William Haig" japan」で検索した結果中に『Japan, Korea and the 2002 World Cup』 著者: John Horne, Wolfram Manzenreiterがあり、p.89に以下の記述があるようです。

“Haig had been a vice-consul at the British consulate in Yokohama. He had helped to establish the All-Japan Inter-Middle Scool Associaton Football Tournament and then encouraged the British Anbassador to request a gift from the English Football Association(FA) of a trophy that could be represented to the eqiuvalent organisation in Japan. It was subsequently reported(The Times, 3 January 1919) that Lord Kinnnard and Lord Lonsdale of the FA had responded positively to the request.”

『The Times』紙1919年1月3日付けで、William Haig氏が英国大使を通じてFAに対してカップ贈呈を要請し、FAがその要請に応えたことが報じられてたようです。これに対してBalfour外相が感謝の手紙をFA会長Kinnard卿に送ったことが同紙1月23日付けで報じられたことは、「日本最初のサッカー・リーグと日本へのFAカップ贈与をめぐって」に記しました。

なぜ英国大使館、英国外務省をあげて「公務」としてFAカップ贈呈を働きかけたのか、という疑問については、1921年の日本皇太子(後の昭和天皇)訪英とその返礼としての1922年の英国皇太子(後のエドワード8世)の訪日と関係しているのではないかと考えています。エドワード皇太子はスポーツ好きで知られ、訪日中に東京ゴルフ倶楽部(現在の駒沢公園)で昭和天皇、大谷光明(JFA初代会長候補だった)とラウンドし、大相撲も観戦、関西訪問中も西本願寺で大谷と、奈良女子高等師範では随員とテニスをしています。訪日中日本の陸上400mにプリンス・オブ・ウェールズ・カップを贈与しています。1924年のパリ五輪を描いた映画『炎のランナー』で、宗教上の安息日を厳守するため決勝を辞退するというエリック・リデルに「国のために走れ」と説得する皇太子がエドワードです。

エドワード皇太子は1922年4月から5月にかけて訪日するのですが、「英国の常識」ではこの時期はサッカー・シーズンの大詰め、FAカップ決勝のある時期です。英国大使館・英国外務省は「日本のFAカップ」決勝が皇太子訪日にあわせて日英皇太子の「台覧試合」として開催され、FAカップが英国大使あるいは皇太子自身から優勝チームに授与されることが日英両国で大々的に報道されることを期待していたのではないでしょうか。

年表化してみると、

1918年9月 英国大使銀杯リーグ開始
1919年1月 『The Times』紙でFA銀杯が日本に寄贈されることが報道される
1919年3月 『東京朝日新聞』紙でFA銀杯贈与と日本協会設立が報道される
1921年 日本皇太子訪英 9月3日帰国
1921年9月10日 大日本蹴球協会設立
1921年11月 第1回全日本選手権(現在の天皇杯)開催 FA銀杯は英国大使により優勝チーム東京蹴球団に授与される
1922年4月 英国皇太子来日
1923年4月28日 “王立”サッカー専用スタジアム、王立ウェンブレー競技場開場 開場試合のFAカップ決勝、いわゆるホワイト・ホース・ファイナルには20万人以上の観客が押し寄せた
1924年 パリ五輪(英国皇太子は選手団の役員格)

ウェンブレーとホワイト・ホース・ファイナルに象徴されるような英国本国におけるサッカー人気高揚の英国外交官による政治利用が、FA銀杯の贈与と大日本蹴球協会創設の背景にあるのではないでしょうか。こうした「背景」は当時のサッカー関係者にはまったく理解不能だったと考えられます。

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急ぎすぎる日本サッカー 金容植氏の日本サッカー観

ベルリン五輪主将竹内悌三の「欧州の蹴球(二) 英国蹴球断想」『蹴球 5巻1号』にチームメイトだった金容植と日本と朝鮮のサッカー・スタイルの違いについて論じた部分があります。

“今回のオリムピック遠征以前の日本のティーム殊に関東のティームのやり方をもっともっと激しく速くさせたのが英国のプロのやり方であろうと思います。この事に関連して、朝鮮の蹴球は変った行き方をしていてその対照が甚だ面白く、且つ興味深く思われます。今回のオリムピック遠征前伏見の合宿で、私は朝鮮から選ばれて練習に参加していた金君等と、現在内地でやっている蹴球と朝鮮の蹴球との、比較論やら色々と議論いたしました。その結論は金君の曰く「内地の蹴球は余裕が無い、キープが足りない、無茶苦茶に前進するのみだ。あいていないのにパスする。無理だ。朝鮮ではこう云うやり方をあわてていると云う。自分達には調子が合わず全くやりにくい云々」而して朝鮮の余りにも廻し過ぎるテンポの遅いやり方に対して全般的に肯定はしなかったが、当時は自分の蹴球が可成り余裕が無く駆引に乏しく策の無いものである事に対して、或る種の不満と懐疑をもっていたのでありますが、些かこの金君の言に共鳴いたしました。而して日本軍が愈独逸に渡り数度の戦を外人ティームと交えて、吾々が先づ感じた事は吾々はもっと気分的にも技術的にも余裕をもたなければならないと云う事でありました。あわててはいけない、ボールをキープして廻し相手を釣って崩さなければ行けない。従来先輩から教えられていた「一球一球に全精力を傾倒してやれと云う精神」が誤解されて余裕の無い単なる精力の散発に陥ることを警戒しました。今回の遠征軍の御土産の一つは、技術の上達熟練の急務と同時に余裕をもってボールを廻すと云う事であったと思われます。事実昨秋のリーグ戦にこの傾向が現れたと聞いています。”(p.12-13 7/23コマ目)

実際、金容植氏はボールをキープできるプレーヤーだったようで、賀川浩氏によるベルリン五輪CFの川本泰三氏インタビュー「宿命のライバル韓国の名プレーヤーたち」『イレブン』(1976年5月号 p.156-157)では、

“川本 うーん、たしかにベルリンのときの金さんの働きは大きかった。彼がタマをひっぱりだして、FWへつないだのだから・・・・・金さんの粘っこいドリブルがなかったら、前のわれわれのところへボールが出てこなかったろうネ。

賀川 金さんは、からだは大きい方じゃありませんね。あれで、タフだったのですか。

川本 よく動く、というより、特色はキープだった。だからベルリンでも、一人でタマを持てた。タテへ出るというのではなしに、敵をかわし、一人でドリブルして、われわれへ短いパスをつないだんだ。本人は、HBよりインナーをやりたかったらしい。しかしシュートは、大振りで、“ポンと蹴るシュート”ができなかったから、ボクは、やはりHBが適任だと思っていた。”

と評されています。金氏は中盤でキープし、いわゆるタメを作れるプレーヤーだったようです。試合のテンポという点からすると、ベルリン五輪の時点では、「内地」はイングランド系、朝鮮はラテン系のサッカー・スタイルだったようです。“今回の遠征軍の御土産の一つは、技術の上達熟練の急務と同時に余裕をもってボールを廻すと云う事であったと思われます。”という竹内の記述を読むと、金容植氏が代表入りしたことによって、日本(内地)と朝鮮のスタイルが融合し、なにがしかのAufhebenを生じたことが伺われます。


ピクシー代表監督の実現は意外に早い・・・トホホ

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1933年のサッカー・ジャーナリズム批判

蹴球 第2号』1933(昭和8)年2月刊の「編輯方針」(p.29 16/17コマ目)に、以下が記されています。

一、蹴球の今日の盛大さがジャーナリズムの宣伝力に負ふた所は決して少なくない。併しジャーナリズムは二つの点で蹴球の発展に悪い影響を及ぼさうとして居る。

 第一に、それは試合を真実に伝へない。大きな試合ならば、どんなにつまらない、だれた試合でも、それが如何にも良い試合であったかの如き印象を読者に与へやうとする。

 第二に、それはスタープレーヤーを製造する。ティームの中に一人乃至数人の花形をつくり上げ、彼等の働きのみによってそのティームが勝ったかの如き印象を読者に与へやうとする。


うーん、こんな昔からとは・・・

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『蹴球』誌ベスト記事

日本サッカーミュージアムHPで無料全文アクセスできるようなった大日本蹴球協会機関誌『蹴球』には多数の記事がありますが、ベスト記事をあげるなら、私は以下をとります。

竹腰重丸 「オリンピックの成果(一)」『蹴球 5巻1号』 「オリンピックの成果(ニ) 3バックス制に就いて」『蹴球 5巻2号

竹内悌三 「欧州の蹴球」『蹴球 4巻6号』 「欧州の蹴球(二) 英国蹴球断想」『蹴球 5巻1号』 

竹腰の記事は、後藤健生氏の『日本サッカー史』(双葉社, 2007)において、ベルリン五輪における日本の戦術を記述するのに援用されています。戦前の日本代表がモダン・フットボールにも通ずる戦術水準に達していたことを示す文献です。

竹内の記事は、氏の没後50年を経過していたので、不肖私が復刻してみましたが、オリジナルの方を是非読んでいただきたいです。欧州各国のサッカー・スタイルを比較・検討し、日本と対比した初の文献といっていいでしょう。日本初のセリエA観戦記があります。イングランドの「蹴り合い」サッカーに批判的で、大陸(イタリア)のサッカーをより高く評価しているところは、後年のエリック・バッティの30年先を行っています(笑)。

欧州サッカーの最新情報を吸収したこの2人は、1940年「幻の東京オリンピック」が開催されていたなら、おそらく竹腰監督、竹内アシスタント・コーチとして日本代表を指揮していたはずです。それだけに、ベルリン(ベスト8)以上すなわちメダル圏内の成績を期すための真摯な問題意識が文中随所に感じられ、日本サッカーの強化とその課題についての深い洞察に満ちています。

上記文献は日本サッカー史の第一級史料といって差し支えないものです。未読の方は是非お読みくださることをオススメいたします。
       

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戦前日本人のハイベリー(アーセナル)詣で

昨日の日誌で斎藤才三が1931年にハイベリーでアーセナル戦を観戦したこと、アーセナルの新戦術、WM(3バック)システムはベルリン五輪以前に日本でも知られていたことを記しました。ベルリン五輪に参加した人たちも、こぞってロンドンに渡ってアーセナル戦を観戦しています。現在わかっている日本人のアーセナル戦観戦記録を以下に記します。

斎藤才三 1931年9月29日 ハイベリー 対ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦

竹腰重丸・田辺五兵衛 1936年8月29日 ハイベリー 対エバートン戦

竹腰重丸 1936年9月3日 ブレントフォード 対ブレントフォード戦

竹内悌三 1936年10月24日 ハイベリー 対グリムズビー・タウン戦

竹腰・田辺が観戦したエバートンのCFは、1927-28年度にシーズン60得点(39試合)という不滅の最多得点を記録したDixie Dean。空中戦に滅法強いこの人のようなCF対策のために、CHをバックラインに下げてCFのストッパーにするWMシステムが誕生しました。リンク先中ほどに「Dixie Dean being closely marked by Herbie Roberts of Arsenal」という、Deanを密着マークしているアーセナルの長身CH、Robertsの写真があります。おそらく、両人は単なる3バックシステムだけでなく、「ディーン対ロバーツの一騎打ち」という当時イングランド・リーグ最大の見ものを観戦するために、エバートン戦をわざわざ選んだのだと思います。竹腰はアウェー戦までアーセナルを追っかけてます。 

1968年にアーセナルが初のイングランド・プロチームとして来日したとき、牛木素吉郎氏が『サッカーマガジン』誌のコラム「すばらしかったアーセナル」(1968年7月号)中で、

“3年ほど前に、サッカー協会のお偉方がアーセナルを日本に呼ぼうとしていたとき、ぼくはこういってクギをさしたことがある。
 「お年寄りの郷愁で招待チームを決めてもらっては困りますよ。高いギャラを払うのなら同じイギリスでもマンチェスター・ユナイテッドぐらいのチームがいい」
 日本のサッカーがはじめてヨーロッパにいったベルリン・オリンピックのころ、イギリスではアーセナルの黄金時代で、現在協会の常務理事をしておられる年代の方々は “アーセナル” の名前をきくと、心臓のあたりが、じーんとしてくるらしいのだ。”

と述べられているのには、こういう背景があったわけです。当時アーセナルは「体を張った堅い守り」が身上の地味なチームで、マンUは対照的にジョージ・ベストやボビー・チャールトンのようなスーパースターがいた華やかなチームでした。

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戦前日本サッカーの情報収集力

1936年ベルリン・オリンピックの直前に、ベルリンのクラブチームとの練習試合でWM(3バック)システムに初めて遭遇した日本代表が、本大会までの短期間に新戦術を吸収し、それが対スウェーデン戦勝利につながったのは著名なエピソードです。

しかし、新戦術にナマで接することはなかったものの、知識としては既知であったことを示す証拠文献がサッカーミュージアムHPにアップされた『蹴球評論』、『蹴球』中にあります。

斎藤才三 「英国だより」 『蹴球評論 第2号』(1931年12月刊)に1931年9月29日ハイベリーでのアーセナル対ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦の観戦記がありますが、p.37(28/45コマ目)のフォーメーションの図には

 LB←CH→RB

と3バックが明記され、“center halfは完全にfull backの位置に居る様だった。”と記されています。斎藤才三は桃山中学(田辺五兵衛の1年後輩で主将を引き継いだ)、関学OBで1930年極東大会優勝メンバー(ポジションはGK)。卒業後毎日新聞のサッカー記者。ハーバート・チャップマン監督(WMシステムの考案者、ファーガソンやベンゲルのようなイングランド式全権掌握型監督の祖。1934年没)時代のアーセナル戦を観戦した唯一の日本人ではないでしょうか。

また、竹腰重丸 「オリンピックの成果(一)」  『蹴球 5巻1号』(1937年5月刊)はオリンピック後に書かれた対スウェーデン戦・イタリア戦の戦訓ですが、p.4(3/23コマ目)に

“また戦法としてのスリーバック制は周知の様に英国アーセナルで数年前に創案せられたもので、すべて英国の技術、戦法に追随する彼等は逸早くそれをとり入れてマスターして居たのであって、我々がDavid Jackの “Soccer”なる本で朧ろ気に概念的に掴むに過ぎず伯林到着後始めて実戦に使ったのに較ぶれば習熟の度合に於て雲泥の差と云はなければならなかった。”(注:「彼等」とはスウェーデン代表)

という記述があります。Jackの著書は『Soccer : experiences of the game with practical instruction on training and on play in each position』(Putnam, 1934)。Jackはイングランド代表主将も務めたアーセナルのインナー(現在の攻撃的MF)。竹腰はオリンピック以前にWMシステムを解説したJackの著書を読んでいたので、概念的には新戦術を理解していたわけです。また、“スリーバック制は周知の様に英国アーセナルで数年前に創案せられたもので”という記述は、竹腰のみならず多くのサッカー関係者がアーセナルの新戦術を認識していたことを示しています。本書は残念ながら国内の所蔵を確認できませんが、British Libraryが以下の書誌事項で所蔵しています。

 System number: 001833282
 Author - personal:JACK, David R., Writer on Football.
 Title:Soccer, etc. [With plates, including a portrait.]
 Publisher/year:pp. viii. 336. Putnam: London, 1934.
 Physical descr.:8º.
 Holdings (All):Details
 Shelfmark:7916.e.30. Request


知識として入ってきながら、ベルリン・オリンピック後まで国内で戦術として採用されなかったのは、おそらく、日本にはポスト・プレーをこなす長身のCFが不在で、CHをCFのマン・マークにつけなくても、2FBで対応できたからでしょう。

しかし、こうした情報収集力があればこそ、新戦術にうろたえることなく適応し、「ベルリンの奇跡」を起こすことができたのに違いありません。

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快挙

日本サッカーミュージアムにヒストリカルアーカイブができています。大日本蹴球協会機関誌『蹴球』、日本蹴球協会機関誌『SOCCER』の全バックナンバーに無料全文アクセスできます。当サイトに『蹴球』総目次『Soccer』総目次がありますので、ご活用ください。

代表歴代ユニフォームの画像、ベルリン五輪対スウェーデン戦の動画、蹴球行進曲の音声(作詞者の原島好文氏の「ソッカー十年の思ひ出」全文を当サイトでみられます)もあります。フルテキスト、静止画像、動画、音声、とディジタル・アーカイブでできること総動員ですね。

JFA機関誌の無料全文アクセスがこんなに早く実現するとは思ってもみませんでした。これらは地味ですが、実現には大変な労力と資金を要するものです。こうした仕事に手を抜かない、日本サッカーミュージアムに拍手をおくりたいです。特に、部史、協会史、地域サッカー史(東京から遠い地域の)の編纂への貢献度ははかりしれないものがあるでしょう。

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次期代表監督

今日のゲームがシーズン通してできたら、岡田氏の次はストイコビッチで決まりかな。前線からの体を張ったチェックがすごかったですね。接触プレーの後、ボールを持っているのは名古屋の選手ばかり。オフェンスはオシム時代の千葉が乗り移ったような。一度ナマで見たい、と思わせるものがありました。

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<ネ申>あのランディ・バース様はオクラホマ州上院議員<ネ申>

をやっているそうです。→Senator Randy Bass - District 32

選挙区はコマンチ郡。草深そうなところです。孫が4人いるんですね。

☆“Randy is a baseball legend in Japan.”☆ わかってますねえ。

民主党所属。オバマ氏も4年前まではイリノイ州上院議員。

目指せ!ホワイトハウス

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サッカー特許あれこれ

特許名をクリックすれば、特許原文にアクセスできます(要PDFソフト)。

・「スポーツ・シューズ、特にサッカー用
 アドルフ・ダスラー(アディダス)のサッカー・シューズ基本特許か?

・「サッカー シミュレーションマシン

・「サッカー 試合のデータベース化の方法

・「サッカー ゲーム盤

・「競輪場とサッカー 球技場との転換装置

・「サッカー のフリーキック練習用人形

・「サッカー スタジアムの観覧施設
 “【目的】観覧施設の収容人数を変更することができるようにし、サッカー の公式戦や国際試合などを開催する際にはより多くの観客を収容できるようにする。”・・・だって。
チケット高なって、ギューギュー詰めかいッ。
こら、清水建設、いらんもん発明すな!

これ面白いので、しばらく続けます。  

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