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FAカップ

CL決勝はマンU対チェルシー・リバプールの勝者とFAカップみたいなイングランド対決に。

FAカップの方の決勝はカーディフ・シティ対ポーツマスという地味マッチ。

CL4強にプレミア3チームが残ったのに対し、FAカップ4強にプレミア4強のどのチームも入っていないんですなあ。

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チョー・ディン本にも「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った」

日本サッカーミュージアムHPにチョー・ディン著『How to play association football』(平井武,1923)の全文がアップされています。「総論」中に以下の文章があります。

“英国に於ての諺にもウォータールーの戦の勝利の原因はイートン大学の校庭に養はれたり、とあるが如し。此の意味はイートン大学のフットボーラーズがウォータルー戦に士官として戦場に臨み、フットボールフヰールドに於て養はれたる規律が戦場に於ても行はれ、其の結果、英国は此の大戦に勝利を得、今日に至る迄、諺として語り伝へらるるなり。”(p.4-5 9/59コマ目)

というわけで、「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った」を改訂しました。これを日本で広めたのは福沢諭吉のような明治の啓蒙家だと思うのですが、具体的な著作がわかりません。

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コンテンツの一部を改訂しました

日本最初のサッカー・リーグ、日本へのFAカップ寄贈、大日本蹴球協会の創立」を改訂しました。

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中村覚之助

日本サッカーミュージアムのヒストリカルアーカイブの新メニューに日本初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(東京高等師範学校フットボール部編 大阪 鐘美堂 1906)がアップされています。

7/81コマ目に「明治三十六年初秋 小石川に於て 中村覚之助」とあり、本書の著者が中村覚之助であることがわかります。

本書を国会図書館も所蔵しており、全文アクセスできるのですが、上記7/81コマ目に相当するページでは「明治三十六年初秋 小石川に於て 中村覚之助」が欠落しています。

中村の名は上記部分以外(奥付など)に出てこないので、この部分の有無は本書の内容を記述する際の決定的な相違点になります。

なぜサッカーミュージアム所蔵本に「明治三十六年初秋 小石川に於て 中村覚之助」があって、国会図書館所蔵本にないのか、両本は異版なのか、ミステリーです。中村覚之助氏本人も生誕地が八咫烏と因縁深いところで、サッカー協会のシンボルマークとの関係がミステリアスなのですが。

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1929年競技名を「蹴球」に正式決定

日本サッカーミュージアムHPにアップされている『会報 臨時号 昭和4年10月』の「理事会報告」(p.82-83 43/45コマ目)に1929年7月17日付けの理事会決定として、

“(4) 従来蹴球ヲア式蹴球、サッカー、ソッカート略称シ居ルヲ爾今「蹴球」ト呼ブ事ニ決定ス”

が報告されています。大日本蹴球協会が競技名を「蹴球」に正式決定し、「ア式蹴球」、「サッカー」、「ソッカー」は使わないことにしています。特に理由は記されていませんが、協会名に「蹴球」を採用している以上、当然のことといえます。

同年10月4日付けで、協会の英文表記を現在と同じ「Japan Football Association」、その略称を「J.F.A.」 と決定しています。おそらく同年のFIFA加入と連動しているのでしょう。

ところで、『蹴球 第1号 1931年10月』の「理事会議事録」(p.65-66 37/41-38/41コマ目)では、1931年2月8日付けとして、

“八、サッカーなる名称に関する件
 本協会は理事会の協議に依り蹴球なる名称を以て統一する所なるも関西地方はサッカーなる名称の一般に使用され居る事並に全国中等学校大会の実例もありサッカーなる用語を当分使用差支へなしの程度に於て承認あるたき希望あり、可決す”

とあり、関西では「サッカー」が普及しているので、「サッカー」を使用してもかまわない旨、決定しています。この理事会が開催されたのは大阪毎日新聞会議室、「全国中等学校大会」(正式名は全国中等学校蹴球選手権大会)の主催者です。戦後の漢字制限(当用漢字)を待たずに、関西では「サッカー」が普及していたことがわかります。

“全国中等学校大会の実例”とあるので、戦前の『大阪毎日新聞』では「全国中等サッカー選手権大会」という名称が使用されていたのかもしれません。戦後、全国高等学校蹴球選手権大会となったこの大会でも、毎日新聞縮刷版で1952年まで遡って調べてみましたが、新聞記事では「全国高校サッカー選手権大会」が使用されています(この時代は非当用漢字「蹴」を使えなかったので、当然といえば当然ですが)。

いずれにせよ、上記2文献は、サッカーの競技名変遷に関する重要文献といえます。

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嘉納治五郎の蹉跌

1919年から1921年にかけて、嘉納治五郎は大日本体育協会会長として極東大会不参加問題を抱えていただけでなく、東京高等師範学校校長としても大学昇格問題を抱えていました。讀賣新聞DBを年代:1919-1921年、キーワード:「嘉納」OR「体育協会」で検索した結果から主要関連見出しを並べてみると、

1919年4月21日  大日本体育協会 改善の声 極東大会不参加は専制的なり
1919年5月2日   運動団実行委員、嘉納校長を訪問して意見を述ぶ
1919年5月17日  十一校選手連名して体育協会と絶つ 極東大会脱退からの紛憂

4月21日付けには「大日本体育協会に対する要求」として以下が掲載されています。

“体育協会は一般運動界の与論を尊重すべく一二少数者の独断を以て濫りに事を決せざる事、右の目的を貫徹せしむる為広く社会各方面より[]に運動に理解ある識者並に常に運動家と接触を保てる士を選任して委員中に加入せしめ委員会の決議によりて事を行ふこと(慶、明、日歯、早、帝、駒場、一高、農大、高師聯合運動部委員)”

一二少数者の独断が嘉納をさすのはいうまでもありません。高師の学生まで不満を訴えています。

12月になると高師の大学昇格問題が顕在化します。

1919年12月5日  遂に堪えられず高師も昇格運動を開始す 全校六百名の学生大会
1919年12月7日  緊張せる学生大会 高師昇格問題沸騰 恥辱は精神の死と絶叫 (このとき学生たちは「桐の葉」を合唱したそうです。歌詞の意味は「大学昇格か、しからずんば廃校か」。)  

1920年1月11日  嘉納高師校長 突如辞表を提出 昨日学校で悲痛な別辞

昇格問題にメドがついたこと(実はついていなかった→後述)、糖尿病を理由に辞職し、外遊することを表明。

1920年6月8日   今日ベルギーに向け出発の嘉納治五郎氏と夫人 (アントワープ五輪と外遊に出発)
1920年10月3日  オリンピックで世界に曝した恥 何しても打棄てて置けぬ (五輪惨敗)

1921年2月10日  嘉納氏の帰朝を駅頭に学生大挙して迎ふ 同氏を拉して大会場に入り徐に昇格の実行方法を講ずる 文相の言責を握る者は同氏

“・・・尚昨年の昇格問題勃発の当時当間の責任者で当局の言質をも取って居る前校長嘉納治五郎氏が大会当日午前十時横浜入港のコレア丸で欧米漫遊の旅から帰朝するので、学校及び茗渓会の主な人々は横浜埠頭に出迎へ別々に高師全校八百の在学生は当日校内に勢揃ひし隊伍を整へ東京駅に練り込みそこで嘉納前校長の帰京を迎へる事となったが之は昇格問題に関し当局に対する一大示威運動を意味したもので全学生は非常な意気込である。高師の此の運動は十一日の大会を機会に上院の形勢に応じて白熱化すべく期待されて居る。”

帰国を歓迎したのではなく、昇格問題をあいまいにしたまま海外に“逃亡”した嘉納を横浜港で捕まえようとするドタバタです。結局東京文理大学として昇格するのは1929年です。 

もう一度まとめると、

1919年3月  体協極東大会不参加を決定
         FAからのカップを嘉納が受け取り、内野台嶺に蹴球協会設立を命ずる

1920年1月  嘉納、高師校長を辞職
1920年6月  嘉納外遊に出発

1921年2月  嘉納帰国
1921年3月  嘉納、体協会長を辞職

高師教員として嘉納の部下でもあった内野は、高師校長としても体協会長としても嘉納の進退に疑問をもっていたのではないでしょうか。それを吐露するわけにもいかず・・・

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なぜ大日本蹴球協会設立が遅れたのか?

1919年3月、FAから寄贈された銀杯を大日本体育協会会長、嘉納治五郎が受け取り、内野台嶺に蹴球協会設立を命じていながら、実際に協会が設立されたのは2年後の1921年9月です。その遅延の理由はサッカー側でなく、上部団体の大日本体育協会(以下、体協と略します)の極東大会参加をめぐるトラブルにあったようです。

体協は1911年、翌年のストックホルム五輪参加を目的として設立されます。嘉納は1909年に東洋初のIOC委員になっており、初代会長となります。一方極東大会は1913年マニラで第1回、1915年上海で第2回大会が開催されたものの、オリンピック志向の体協(嘉納)は正式参加せず、日本からは一部有志が参加したのみでした。極東大会の中心人物は米国YMCAからフィリピンに派遣されたエルウッド・S・ブラウンという米国人で、運営はマニラでは米国人、上海では租界の外国人が仕切っており、日本が植民地・半植民地と同列に扱われることを嘉納は嫌ったようです(嘉納が生きていたらカタールのアジア大会をどう思ったことか)。

ブラウンから第3回は日本で開催してほしいという依頼があり、フィリピン、中国が開催できるものを日本が開催できないというのは国辱的であるという意見もあって、1917年日本初の国際競技大会、第3回極東大会が東京で開催され、サッカーも初参加して大敗したことは御承知のとおりです。

問題は次の第4回1919年のマニラ極東大会に体協として参加するかどうかでした。

体協としては、開催月の5月は学生主体の日本にはふさわしくないので、8月にしてほしいと要求し、拒否されたことを表向きの理由に1919年3月17日理事会で不参加を決定します。裏の理由は嘉納の反対と1920年開催のアントワープ五輪参加優先を前提とする財政問題でした。

しかし、欧州開催の五輪に派遣できる人数は少数にすぎないので、現役選手の大多数は体協の決定に不満であり、大阪朝日、大阪毎日の両紙、および大阪財界(住友)の支援をうけて結成された大阪の日本青年運動倶楽部(発起人総代:武田千代三郎)が体協に代って第4回マニラ大会に参加します。同倶楽部は大会後も解散せず、次の第5回1921年上海極東大会に日本を代表する体育団体として、極東大会側から認知されるに至ります。また、1920年アントワープ五輪も不振に終わったことで、体協内でも極東大会を再評価する気運となり、嘉納は体協内で孤立します。

結局、1923年日本開催の第6回極東大会を大阪で開催することで、体協と日本青年運動倶楽部は1921年1月30日「手打ち」(1921年は両団体合同。1923年以降は体協が日本を代表)します。両団体が合同で設置した全日本競技委員会の委員長には体協(東京)側の岸清一が就任することになります。1921年3月8日、カヤの外に置かれて完全に立場のなくなった嘉納は体協会長を辞任(表向きの理由は講道館に専念)、名誉会長となり、新会長に岸清一が就任します。

上記のように、FA銀杯を受け取った1919年3月から体協会長を辞任する1921年3月にかけて、体協は日本を代表するスポーツ団体の地位を日本青年運動倶楽部に取ってかわられかねない、存亡の危機にありました。その責任はKYな嘉納にあり、その危機を収拾したネゴシエーションのプロ岸清一(本職は弁護士)への会長交代は当然といえます。この時期嘉納は火だるま炎上状態で、蹴球協会会長を選任するどころか、自身が体協会長の地位を去らなければなくなります。嘉納のパシリにすぎなかった内野は、この間何もできなかったに違いありません。蹴球協会会長の人選は、岸新会長就任後の1921年3月以降にずれ込んだと考えられます。

内野が「協会設立の顛末」で、

“体育協会からは其の設立を催促される。何とかせねばならない土壇場となった。とうとう体育協会の援助を仰ぎ、今の会長の御就任を得て、ここに大正十年九月十日、目出度其の設立を見るに至ったのである。”

と述べている背景はかくのごとしで、嘉納の弟子筋にあたる内野にとって愉快な思い出であるはずがありません。

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『The Times』1919年1月3日付け記事

本日誌3月29日の「英国皇太子の訪日と大日本蹴球協会創立」で言及した『The Times』1919年1月3日付け記事を確認しました。第10面にあり、全文は以下のとおりです。

      FOOTBALL CUP FOR JAPAN

 The Football Association are sending to-day to
Japan a handsome silver cup as a perpetual trophy,
to be played for by clubs in that country on lines as
closely following the conditions of the national com-
petitions in this country as circumstances will permit.

 The request that the cup should be given by the
Football Association came through the British
Foreign Office, and it was complied with immediately.

第2段落に“FAに対するカップ贈与の要請は英国外務省を通してもたらされた(The request that the cup should be given by the Football Association came through the British Foreign Office)”ことが明記されています。「日本最初のサッカー・リーグと日本へのFAカップ贈与をめぐって」に記したように、

“1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行なわれたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行なわれたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。”

という『日本サッカーのあゆみ』の記述を否定する根拠となります。日本サッカーミュージアムHPにある内野台嶺「協会設立の顛末」『会報 大正十年度』p.3-5には、嘉納治五郎から

“「此の度英国大使を通して、英国の蹴球協会から我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈して来たが、日本には未だそうやうな協会が無いから、是非此の際それを設立せよ。」”(p.3)

と指示されたことが記されています。しかし、英国大使館→英国外務省→FAというルートでカップ寄贈依頼がなされたとすれば、日本に「蹴球協会」がないことは先刻承知だったはずで、“英国の蹴球協会から我が蹴球協会へシルバーカップを寄贈して来た”のは日本側(嘉納)の誤解だったことになります。1919年1月3日、同年同月23日付け『The Times』紙両記事にも日本のfootball associationに贈るとは記されていません。カップ寄贈を国内で報じた同年3月12日付けの『東京朝日新聞』記事にも、

“新しく設立せらる徳川家達公及び英国大使を名誉総裁とする日本蹴球協会”

とあって、カップが(すでに存在しているはずの)日本協会に寄贈されたとは書かれていません。

内野の記事からは、カップ寄贈と協会設立が英国外交戦略の一環であることが全然理解されていなかったことが読み取れます(あるいは、「事実」はあまり外聞のいいことではないので、知っていてあえて書かなかった可能性もあります)。

“その中に大正十年となってしまった。大阪に於ける極東大会は一年後に迫って来た。体育協会からは其の設立を催促される。何とかせねばならない土壇場となった。とうとう体育協会の援助を仰ぎ、今の会長の御就任を得て、ここに大正十年九月十日、目出度其の設立を見るに至ったのである。”(p.4-5)

とありますが、“大阪に於ける極東大会は一年後に迫って来た”は事実誤認で、極東大会が大阪で開催されたのは大正12(1923)年、『会報 大正十年度』の奥付の発行日は「大正十一年七月十七日」なので、おそらく本稿執筆時点の「一年後」と誤認したのでしょう。協会設立のタイムリミットは「大阪に於ける極東大会」ではなく、英国皇太子訪日の1年前だったに違いありません。

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