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The Times Archive無料公開中

The Times Archive(1785-1985)が期間限定で無料公開中です。

B組の方がずっと大変そう。思わせぶりな結果です。

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日本の目指していたもの

がロシアにあった!

トルコといい、ロシアといい、欧州サッカーの中心は東斬しているのか。前回はギリシャだったし。

ユーロ準々決勝の法則

ドイツ>ポルトガル
トルコ>クロアチア
ロシア>オランダ

①1次リーグ1位対2位は2位の勝ち
②東西対決は東の勝ち

イタリア>スペイン ということになりますかどうか・・

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常用漢字に「蹴」採用か

読売新聞記事「常用漢字追加案、「串」「丼」「尻」「枕」など計188字」の中に「蹴」が含まれています(上から2段目左から2つ目)。

戦前の競技名「蹴球」が戦後サッカーになったのは、米軍占領下の1946年に施行された当用漢字に「蹴」が含まれていなかったため、新聞等マスコミで「蹴球」が使えず、サッカーが普及したことによります。毎日新聞主催の正式名全国高等学校蹴球選手権大会も同紙紙面では「全国高等学校サッカー選手権大会」になっています。

当時の「蹴球人」が占領下の漢字政策に反感をもっていたことは、占領時代『SOCCER』だった協会機関誌名が講和後の初号で『蹴球』に改題し、巻次も戦前の大日本蹴球協会機関誌『蹴球』を継承していることからも伺えます。

1958年度学習指導要領よりサッカーが学校でカリキュラム化されるのですが、当然、競技名は漢字制限に引っかかる「蹴球」ではなく、「サッカー」が使用されています。

法人格のなかった任意団体日本蹴球協会が1974年財団法人化(文部省の監督下になる)したとき、名称を日本サッカー協会に変更し、「蹴球競技規則」だったルールブックも「サッカー競技規則」に改題しています。

競技名を蹴球に、協会名を日本蹴球協会に戻せば、泉下の竹腰重丸、川本泰三氏らはさぞお喜びでしょう。

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五輪効果

本日2008年6月15日日本経済新聞朝刊の泉宣道氏(論説副委員長)による中外時評「大地震は中国を変えるか 災い転じて報道の自由を」に以下の一節がありました。

“過去の五輪を振り返ると、三六年のベルリン五輪の九年後にナチス・ドイツ崩壊、八〇年のモスクワ五輪の十一年後には旧ソ連解体・・・・・。報道を統制し、民主化が遅れていた国で開催された五輪の後は大きな変動が待っていた。”

ベルリン五輪がナチス崩壊のきっかけ・・・ 大丈夫か、日経

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『フットボール』(1908)の編著者たちの出身校

『フットボール』の本サイトの情報は以下のとおり。

“フットボール 東京高等師範学校校友会蹴球部/編
東京:大日本図書,明治41.6
193p;19cm

表紙の書名は「Foot Ball」。序文を蹴球部長坪井玄道、「鍛練」という題字を校長嘉納治五郎が書いている。編者は蹴球部主事新帯国太郎、落合秀保。 『アッソシエーション・フットボール』が競技の紹介にとどまったのに対して、「その不備の点を十分に補ひたい覚悟で、数年間毎年一二回づつ外人等と競技を重ね、少いながら実際上から 其の真髄と興味を味わひ得たと信じ、茲に前著を全然改訂する必要を生じた。」と自序で述べているように、実戦を通して得た経験を「附録 著者の経験」に紹介している。
第1編 第1節:緒論 第2節:フットボールの歴史
第2編 第1節:フィールド 第2節:競技者の人数と位置 第3節:競技者の任務 第4節:レフェリーとラインス・マン 第5節:ゲームに用ふる言葉の意味 第6節:用具
第3編 第1節:ゲームの規定
第4編 第1節:ゲームの例 第2節:ゲーム以外の練習 第3節:服装に就いて
附録 著者の経験 第1節 小引 第2節:ゴール・キーパーに就いて(新帯国太郎) 第3節:フルバックに就いて(重藤省一) 第4節:ハーフ・バックに就いて(落合秀保) 第5節:フォーアワードに就いて 甲 アウトサイド・フォ-アワード(細木志朗) 乙 センター・フォーアワード(落合秀保) 丙 インナー・フォーアワード
第2編第5節「ゲームに用ふる言葉の意味」にあげられている用語は、ドリブリング、パッシング、ヘッディング、フリー・キック、ペナルティ・キック、ゴール・キック、コーナー・キック、オフ・サイド、アウト・オブ・プレー、ゴール。写真や図が多用されており、説明が具体的。 ”

新帯国太郎(編者、GK担当):愛知第一師範
重藤省一(FB担当):山口中
落合秀保(編者、HB、IF担当、滋賀県サッカーの祖):豊浦中
細木志朗(OF担当、埼玉県サッカーの祖):柏原中

この年代の人々は内野台嶺『蹴球思ひ出話』にも登場します。上記以外の人物の出身校は、

内野台嶺(豊島師範にサッカーを伝えた、サッカー殿堂入り):郁文館中
玉井幸助(御影師範にサッカーを伝えた):新潟師範
藤井重二:山口師範
桜井賢三:岐阜師範
前田恒治:御影師範
瀬口真喜郎:大分師範
粟野信一:茨城師範
堀桑吉(愛知県サッカーの祖、東海地方のサッカー普及に貢献):岐阜師範
渡邊英太郎:前橋中
石川文平:城北中
小島鉄蔵:三重三中
柳川石次郎:富山師範
唐土齋治:竜野中

地域的に際立った特色はありませんが、師範学校出身者が多く、『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)の明治37年「校友会誌第5号(7月発行)」中に、

“それに諸君も御承知の通りフットボールはベースボールの様に団体的の運動で、一度ゲームをするには少なくとも22名の人数が必要で、其の上に審判官1人、ラインズマンの3、4人も無いことには正式のゲームは出来ないのだが、悲しい哉6百余名の健児を有する我が校でありながら如何いう者か30名足らずの人すら募集する事が出来ないのだ。これには色々原因もあろう、寄宿舎の一つないことも其の一つだが、多くの人が、この遊戯はただぽんぽんと球を空中高く蹴あげるのみが能事だと思って、何んのあの様なつまらぬ事三十づらさげて為るべき事ではないというのが一大原因かもしれない。”(p.51-52)

とあったように、20代後半から30歳近い年齢の人が多かったようです。

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ジーコ・ジャパンがなつかしい

ジーコ時代、灼熱下での試合では両サイド(三都主、加地)は無理に上がらず、サイドで三角形を作ってボール・ポゼッションに徹し、時折左右に振って相手を消耗させる作戦で、無難?に勝ち上がってました。

両サイドが上がっては不正確なセンタリングをカットされてカウンターを食らうのを見ていると、「Come back Kaji!」と叫びたくなる気分。

どうも日本代表は「ノウハウの蓄積・継承」ができてないんじゃないかと・・・

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最初の「日本代表」の出身校

日本代表最初の国際試合1917年第3回極東大会対中華民国戦の出場メンバーは全員東京高等師範学校蹴球部員で、出身校は以下のとおりです。

富田玄弥 荘内中
芳賀剛吉 荘内中
武井群嗣 群馬師範
吉木幸三郎 滋賀師範
竹内広三郎 滋賀師範
上山熊之助 滋賀師範
渡辺敏綱 相馬中
佐々木等 福島師範
大久保準一 姫路師範
大杉謹一 豊島師範
藤井春吉 滋賀師範

主将の竹内広三郎を始めとして滋賀師範OBが4名、荘内中OBが2名、師範学校OB8名に対して中学校OB3名です。滋賀師範には1909年(明治42年)東京高等師範学校を卒業して滋賀師範に赴任した落合秀保(『フットボール』の編者)がサッカーを伝え、同書の共著者の一人新帯国太郎も1912年(明治45年)同校に赴任しています。来年は滋賀サッカー100周年にあたります。大正初期に「裸足」で鳴らした荘内中学からも「日本代表」が出ています。

この時代は滋賀県や山形県がサッカー先進県だったんですね。

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泉井純一著『夢のまた夢』

泉井純一著『夢のまた夢 ナニワのタニマチ』(講談社, 2008)によれば、著者は天王寺高校-早稲田大学と現代表監督と同じ学歴でサッカー部の大先輩。早稲田のサッカー部に入部したときのキャプテンは八重樫茂生氏で合宿では同室、川淵三郎、宮本征勝両氏は1年後輩にあたるそうです。

早稲田のサッカー部というのはいろんな人が出てるんですなあ。

本の売れないこのご時勢に、4月14日発行でもう在庫切れって、増刷は・・・w

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