『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会, 1994)の「第一編 荘内中学校時代 各部の歴史 蹴球部」(p.151-158)に明治から大正にかけての同中のサッカーが記されています。
サッカーは明治38(1905)年秋に本校選手(通学生?)と寄宿舎選手の対校試合として始まります。翌年から春秋に学年対抗戦となり、大正6年までの記録があります。
他校との対戦は、相良守峯の自伝にも記された、大正1(1912)年の仙台一中が最初のようです。
“大正元年、蹴球部は漸く技が熟してきたとはいえ、未だかつて他校と試合するの機会がなく脾肉の嘆にたえなかった。折り柄今年の修学旅行は日光仙台方面であることを聞き好機至れりとして、仙台第一中学校に向って対校試合を申込んだ処、許諾の快報を得た。五月七日、放課後から夜通し新庄まで五寸の草鞋で踏破し、そこから汽車で八日の晩は福島泊り、翌日は松島遊覧、仙台に行き諸所見学、いよいよ十一日の午後試合の運びとなった。ニ、三の欠員はあったがとにかく一応の精鋭を集め得た。一行十一名は独特の素足あるいは足袋、数日来の疲れも何のものかはとグラウンドに立てば、相手は冬スボンに兵隊靴といういで立ち、この好コントラストは観覧者の興味を大いに呼んだらしかった。両軍準備成って戦闘の開始されたのは午後三時四十分。我が方風下にあったにも拘らず始終攻勢を維持、互に連絡を保ちニ十分で我は一点を先取した。位置交換によって我方風上になる。敵は必死の攻撃、是非とも東北の覇権を保持せんものと攻め寄せるのを、我後備は鉄脚をふるって踏み返す。大滝、相良、石原、相馬等の奮戦目ざましく、広瀬の一蹴見事にゴールに入り又一点を得た。彼是する中に規定の一時間にもなったので試合終了、時間もないこととて、なつかしき友と別れ校門を出た。我が軍の陣容は
GK 坂 省三
RF 相良 鉄太郎
LF 斎藤 親平
RH 門野 良介
CH 大滝 竜弥
LH 佐藤 国雄
ORF 水野 重己
IRF 鈴木 庄蔵
CF 相馬 恒祐
ILF 石原 重高(Cap)
OLF 広瀬 寅蔵
審判 阿部 耕次郎 高力 得雄”(p.155)
「RF 相良 鉄太郎」が相良守峯で、自伝『茫々わが歳月』(郁文堂, 1978)によれば、
“私の幼名は鈇(おの)太郎といったが、始終、鉄太郎とまちがえられるのでその煩に耐えず、大正六年十二月二十七日、郡長の許可を得て守峯(もりお)と改名したのである。”(p.7)
とあって校史でもしっかり誤記されていますw。ともあれ、宮城対山形の最初の東北ダービーは大正1(1912)年5月11日に行なわれ、2-0で山形荘内中学が宮城仙台一中を下したことになります。
『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会, 1988)によれば、大正4(1915)年5月8日に仙台で再戦し、このときは仙台が1-0で荘内に勝っています。山形県内での最初の対校試合は大正14(1925)年鶴岡で山形師範と対戦したのが最初のようです(勝敗不明)。
昭和5(1930)年には庄内蹴球協会が設立されています。山形県サッカー協会設立は戦後の昭和22(1947)年です。