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荘内中学からモンテディオ山形まで 鶴岡のサッカー

ここ数日明治から大正にかけての荘内中学のサッカーを紹介してきました。山形県では庄内地区がサッカーの先進地域で、1947年の山形県サッカー協会も鶴岡で発会式を行なっています。

今年からJ1に参戦するモンテディオ山形は、1985年鶴岡地区5部リーグから、NEC山形(現・NECセミコンダクターズ山形)サッカー同好会としてスタートしています。

最近刊行された『闘魂90年の軌跡 東京大学のサッカー』(東大LB会, 2008)の「東大サッカーの源流をさぐる」(牛木素吉郎)によれば、1918年に結成された帝大蹴球団は八高出身者が中心になっていたそうですが、その一人小関良平は荘内中学OBだったそうです。すなわち、荘内中学出身者が東大サッカーの源流のひとつといえます。

また、すでに「最初の日本代表の出身校」に記したように、1917年第3回極東大会に出場した“最初の日本代表”にも2名荘内中学OBがいます。

ことほどかように日本サッカー史において重要な位置をしめる鶴岡南高サッカー部なので、部史があればぜひ読みたいものです。

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『山形県立鶴岡南高等学校百年史』における荘内中学のサッカー

『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会, 1994)の「第一編 荘内中学校時代 各部の歴史 蹴球部」(p.151-158)に明治から大正にかけての同中のサッカーが記されています。

サッカーは明治38(1905)年秋に本校選手(通学生?)と寄宿舎選手の対校試合として始まります。翌年から春秋に学年対抗戦となり、大正6年までの記録があります。

他校との対戦は、相良守峯の自伝にも記された、大正1(1912)年の仙台一中が最初のようです。

“大正元年、蹴球部は漸く技が熟してきたとはいえ、未だかつて他校と試合するの機会がなく脾肉の嘆にたえなかった。折り柄今年の修学旅行は日光仙台方面であることを聞き好機至れりとして、仙台第一中学校に向って対校試合を申込んだ処、許諾の快報を得た。五月七日、放課後から夜通し新庄まで五寸の草鞋で踏破し、そこから汽車で八日の晩は福島泊り、翌日は松島遊覧、仙台に行き諸所見学、いよいよ十一日の午後試合の運びとなった。ニ、三の欠員はあったがとにかく一応の精鋭を集め得た。一行十一名は独特の素足あるいは足袋、数日来の疲れも何のものかはとグラウンドに立てば、相手は冬スボンに兵隊靴といういで立ち、この好コントラストは観覧者の興味を大いに呼んだらしかった。両軍準備成って戦闘の開始されたのは午後三時四十分。我が方風下にあったにも拘らず始終攻勢を維持、互に連絡を保ちニ十分で我は一点を先取した。位置交換によって我方風上になる。敵は必死の攻撃、是非とも東北の覇権を保持せんものと攻め寄せるのを、我後備は鉄脚をふるって踏み返す。大滝、相良、石原、相馬等の奮戦目ざましく、広瀬の一蹴見事にゴールに入り又一点を得た。彼是する中に規定の一時間にもなったので試合終了、時間もないこととて、なつかしき友と別れ校門を出た。我が軍の陣容は

GK 坂 省三
RF 相良 鉄太郎
LF 斎藤 親平
RH 門野 良介
CH 大滝 竜弥
LH 佐藤 国雄
ORF 水野 重己
IRF 鈴木 庄蔵
CF 相馬 恒祐
ILF 石原 重高(Cap)
OLF 広瀬 寅蔵

審判 阿部 耕次郎 高力 得雄”(p.155)

「RF 相良 鉄太郎」が相良守峯で、自伝『茫々わが歳月』(郁文堂, 1978)によれば、

“私の幼名は鈇(おの)太郎といったが、始終、鉄太郎とまちがえられるのでその煩に耐えず、大正六年十二月二十七日、郡長の許可を得て守峯(もりお)と改名したのである。”(p.7)

とあって校史でもしっかり誤記されていますw。ともあれ、宮城対山形の最初の東北ダービーは大正1(1912)年5月11日に行なわれ、2-0で山形荘内中学が宮城仙台一中を下したことになります。

『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会, 1988)によれば、大正4(1915)年5月8日に仙台で再戦し、このときは仙台が1-0で荘内に勝っています。山形県内での最初の対校試合は大正14(1925)年鶴岡で山形師範と対戦したのが最初のようです(勝敗不明)。

昭和5(1930)年には庄内蹴球協会が設立されています。山形県サッカー協会設立は戦後の昭和22(1947)年です。

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相良守峯自伝『茫々わが歳月』における荘内中学のサッカー

独語・独文学者相良守峯は大正2年荘内中学卒で、在学中は蹴球部員でした。自伝『茫々わが歳月』(郁文堂, 1978)にサッカー関係の記述があります。

“このように私はいわば文学少年であり、学校でも文科的学科には苦労しなかったが、苦手なのは数学であって、後年まで数学の試験に苦しんでいる夢をみたものである。それにもしかし一斑の理由はあった。私は中学時代に「鶴陵フット団」と称するフットボールのクラブに加入し、今でいうサッカーに熱中して、雨さえ降らなければ放課後には暗くなるまでサッカーをやっていた。それで勉強時間は夜だけとなるが、昼のスポーツに疲れて、数学のように時間のかかる勉強には手がつかない、ということになるのである。サッカーといっても、私たちはそのための靴などは買ってもらえないので、裸足か、せいぜい足袋を穿くぐらいのことで(母に足袋の繕いをしてもらうのは辛かった)、裸足で練習すれば、結構それなりにうまく蹴る方法を身につけるのである。中学五年生のときのこと、修学旅行で仙台・松島に出かけた機会に、仙台の第一中学とサッカーの試合をすることになった。当時、東京以北でサッカー部のある中学は、私たちの荘内中学と仙台一中だけだったのだ。この修学旅行の道程であるが、そのころ鶴岡から新庄までは汽車がなかったので、夕刻から徒歩で十四里の道を新庄まで歩き、翌朝ようやく汽車に乗ったが、仙台へ蔵王山を横断する汽車(後の仙山線)もまだなかったので、まず福島を回り、ここで乗り換えて仙台にゆくという苦労をしなければならなかった。そこで一泊して翌日サッカーの対校試合に臨んだのである。

 質実剛健なわれわれの裸足の扮装を見て、仙台の連中はびっくりし「野蛮人!」といって冷やかした。しかしサッカーを靴ばきでやる姿を異様に思った当方の応援団は、先方を「兵隊靴を穿いてやがる!」と応酬した。この試合は所要時間を一時間と決めて行なったのだが、結果は二対零でわれわれの勝ちとなった。私のポジションはフルバックであったが、どうして当時あんなにサッカーに熱中したのであろうか。思うに、文学書で養われたロマンチックな憧憬の念が、最もロマンチックなスポーツ(だと思った)サッカーに引かれたのでもあろうか。白雲浮かぶ青空に、ポーンと蹴とばす大きな球! 後年、昭和の初めごろ私は旧制一高の教授としてサッカー部とラグビー部、両方の部長に任じられた。そこで他校とサッカーの試合があると、私は都合のつくかぎり応援に出かけて選手を激励した。その甲斐があってか、当時東京の学校ではサッカーの最も強い六つのチームが第一部で、それ以下第四部まであったが、第一部は最強の東大を初めとして全部大学のチームである中に、一高だけが高校であるのに第一部にはいっていた。そしてこの一高の選手が大部分東大に進学するものだから、そのころの東大チームは他を引き離して無敵を誇っていた。東大から五点以上引き離されないチームは強いとされていた。今の東大の実力から見れば夢のような話である。なお後年の話を附記すれば、私の女婿大貫雅敏も成城高校および東大の学生時代にサッカーの選手として、後にはナショナル・チームのメンバーとして鳴らしていたので、その長男である私の孫陽一郎も、今はまだ小学校の二年生だが、いずれサッカーをやるのではないか、などと家内で笑い話にしている。”(p.14-16)

残念ながらサッカーの指導者(磯部房治?)には言及されていません。

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山形県にサッカーを伝えたという磯部房治氏の謎

『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会, 1988)の「サッカーのはじまり」に以下の記述があります。

“サッカーをわたしたちの県に伝えたのは、庄内(ママ)中学校(鶴岡南高校)に職を奉じた磯部房治先生で、1905年(明治38年)頃といわれている。

 はじめは、庄内中学校の正課の体操時間(現在の体育の時間)に指導されたが、旧庄内藩主酒井家の奨励もあって、ご家中でもよく行われるようになった。このように当時としては鶴岡市民のうちでも上流社会の人々の理解をえて、急激に普及していった。”(p.15)

磯部房治の名を『東京高等師範学校一覧 大正4年度』の「卒業生 五十音別姓名、原籍、出身学校、卒業年月及学科一覧」の「イの部」、(1)、(2)、(3)で調べましたが、見当たりません。

『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会, 1994)の「第一編 荘内中学校時代 各部の歴史 蹴球部」(p.151-158)には明治38年秋から校内対抗戦が始まったことが記されていますが、この部分に磯部房治の名は出てきません。「第三節 日露戦争と卒業生の戦死」に以下の記述があります。

“明治三十七年二月十日露国に向って宣戦の布告があった。
(中略)
 宣戦布告に先立って磯部房治先生召集令状に接し、二月八日学校挙げて送別会を開き、翌九日職員生徒一同郊外に見送り、その行を盛んにした。”(p.70-71)

磯部が明治37年に荘内中学に在籍していたこと、徴兵されたということは、おそらく20台の若い教師であったことがわかります。しかし、日露戦争に出征していたはずなので、『山形県サッカー協会四十年誌』の磯部が“1905年(明治38年)頃”に指導したととられる記述は疑問です。

日本人最初のサッカー試合、東京高等師範学校vsYokohama Country & Athletic Clubは磯部の送別会の2日前、明治37(1904)年2月6日横浜で行われています。日本最初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(鍾美堂, 1903)の著者、中村覚之助が東京高等師範学校を卒業したのは明治37年3月です。

磯部が荘内中学に赴任したのは明治36年以前のはずで、いつどこでサッカーを知ったのか、年代の平仄が合いません。

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元新撰組三番隊組長斎藤一はサッカーボールを見たか

『東京高等師範学校一覧 明治30-32年』のp.156に掲載されている「東京教育博物館看守 藤田五郎 福島」は元新撰組三番隊組長斎藤一とのこと。当時の校長は嘉納治五郎、普通体操教授は坪井玄道

藤田五郎はこの後の『東京高等師範学校一覧』には掲載されていないので、この頃退職したようです。正式のサッカーが始まるのはこの少し後(中村覚之助『アッソシエーションフットボール』の刊行は明治36年)ですが、坪井は明治20年代には附属小学校で球蹴遊びを指導していたらしいので、サッカーボールなら見たことがある可能性があります。

斎藤は一番隊組長沖田総司らと並ぶ新撰組きっての剣豪の一人。坂本龍馬暗殺の報復のため、海援隊士が紀州藩士三浦休太郎を襲撃した天満屋事件で三浦の護衛をしていたのですが、同事件で負傷した紀州藩士三宅精一の息子が東京高等師範学校の本邦歴史、西洋史教授の三宅米吉だそうです。三宅は嘉納の後の高師校長になります。

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