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国立民族博物館の服装・身装文化(コスチューム)データベース

国立民族博物館HPに服装・身装文化(コスチューム)データベースがあります。DBには画像付きの「衣服・アクセサリーデータベース」と書誌データのみの「身装文献データベース」の2つがあります。

衣服・アクセサリーデータベースを「サッカー」で検索してみると2件ヒットし、1件はなぜか韓国代表のユニフォームです。以下のデータと画像があります。

標本番号 H214435
地域名 大韓民国 ソウル市 東大門区 東大門 平和市場
標本名 サッカー用ユニフォーム(上衣)
形態 C03:円筒衣
標準衣服名 A05:シャツ・ブラウス型
収蔵場所 0F-1C-13-05
布地特性 D30:ニット;ネット;1本のひも;糸によるあみもの
D38:やわらかい材料のアプリケ;reversed applique
構造技術 F47:袖がついている
備考 赤 衿と袖口青 胸にアプリケ 両脇に浅いスリット 袖と後身頃に青と白のパイピング
関連情報 標本資料目録データベース (1件)

身装文献データベースを「サッカー」で検索してみると74件がヒットし、最新のものは2007年5月刊行で、レコードは以下のとおり。

文献番号 01_M01-712m
書名・論文名 スポーツシューズブランドシェア動向
掲載誌名 ヤノニュース 1663 PP66-76
発行年月日 2007 (5)
OWC AB
地域・民族名 日本
時代区分 21世紀前半;2007年
キーワード スポーツシューズ;ランニングシューズ;サッカーシューズ;バスケットボールシューズ;テニスシューズ;フィットネスシューズ
身装概念 AW505:[布靴,ズック靴,スニーカー]
AU207.0:[体育,スポーツ(ウエア),運動会,アクティブウエア]
DP055:[ブランド,銘柄,ラベル,ブランドキャラクター]
CP01:[市場,市場展望,市場動向,市場構造]
服装専門分類 CW0:[経済・流通一般;装身具一般,宝飾品,身体に補助的につけるもの,かぶりもの,もちもの,履物]


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新コンテンツ

として「1904年2月6日YCACと対戦した東京高等師範学校のメンバー」を追加しました。

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東大が強かった理由

東大は関東大学リーグ(東京コレッジリーグ)が設立された1924年から1956年まで1部にとどまります。1926年~1931年に6連覇、1941年~1943年に3連覇、戦後の1948年にも優勝しています。

東大がかくも強かったのは、サッカーの普及のしかたと関係があります。

①明治から大正にかけて、野球熱の高まりを憂慮した名門中学校長が野球を抑圧し、かわりにサッカーを校技として奨励したので、進学率の高い名門中学でサッカーが盛んになり、それらの卒業生が東大に進学したためです。このパターンの中学に広島一中(現・国泰寺)、刈谷中、湘南中、東京府立五中(現・小石川)などがあります。

②サッカーは東京高等師範学校→師範学校→師範学校付属小学校と垂直的に普及していきました。中学進学率の高い師範学校付属小学校のOBが進学先の名門中学でサッカー部を作り、そこから東大に進学しました。このパターンの中学に神戸一中(←御影師範附属小)、浦和中(←埼玉師範附属小)があります。

サッカーがボトムアップで普及したので、大学リーグの初期には(旧制)高校の有力選手をピックアップできた東大(関西では京大)が有利で、それが6連覇の原因といえます。

しかし、大学予科(高校に相当)と大学が一体で、予科の選手を1部リーグで鍛えることのできた私学(早慶、関学)がレベルアップすると、優勝は困難になります。

戦時中、戦後の優勝は、理系の選手が多く、徴兵されなかった選手が多かった東大が比較優位にたったためとのことです。

高校選手権優勝校をみると、浦和高校の優勝は1956年が最後で、以降は浦和西、浦和市立、浦和南などにとってかわられています。浦和高の没落と東大の2部落ちは連動しているように思えます。

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1904年2月6日YCACと対戦した東京高等師範学校のメンバー

おそらく日本人が「正式のサッカー」をした最初の試合であろう1904(明治37)年2月6日の対Yokohama Contry & Athletic Club戦のメンバーが『東京教育大学サッカー部史』(恒文社, 1974)のp.48に掲載されています。

ゴールキーパー 塩津環
フルバック    粟野信一
フルバック    小島光二
ハーフバック   奥津
ハーフバック   江坂
ハーフバック   牧野
フォワード     上田芳郎
フォワード     平島貞廉
フォワード     桜井謙三
フォワード     瀬口
フォワード     渡辺 

姓しかない人もいるので、『東京高等師範学校一覧 大正4年度』の卒業生名簿で姓名、出身校、卒業年月、専攻を調べてみました。さらに大正4(1915)年時点での就職先を末尾に付しました。

GK 塩津環 岐阜中 M38.3 英語 千葉安房中教諭
FB 粟野信一 茨城師範 M39.3 博物 福井師範教諭
FB 小島光二 見当たらず
HB 奥津修平 神奈川一中 M39.3 数物化学 神奈川町立小田原高女嘱託
HB 江坂廣雄 福井中 M39.3 英語 福井中教諭
HB 牧野信壽 愛媛師範 M38.3 修身体操専修 広島高師助教授兼教諭
FW 上田芳郎 三重一中 M39.3 博物 広島尾道高女教諭
FW 平島貞廉 宮崎中 M38.3 修身体操専修 在米国加州  
FW 桜井謙三 岐阜師範 M39.3 英語 山口室積師(小?)校長
FW 瀬口真喜郎 大分師範 M39.3 国語漢文 福岡小倉高女教諭
FW 渡辺 特定できず 

英語専攻の人が3人いますが、1904(明治37)年~1906(明治39)年に在籍してサッカーを指導したウォルター・デ・ハビランド(Walter Augustus de Havilland)氏の影響でしょうか。後に東京府立五中(現・都立小石川高校)の初代校長になり、サッカーを校技に定めた伊藤長七は英語専攻、1905(明治38)年3月卒で、上述の人々と同年代に在籍しています。おそらく、「紳士のスポーツ」としてのサッカーを印象づけられたのでしょう。

中村覚之助著『アッソシエーションフットボール』の「凡例」で“学友橋本吾作君と上田芳郎君とは本書編纂に多大の助力を与へられたるを以て謹んで両君の労を謝す。”という謝辞に出てくる上田芳郎は女子校に就職してしまったようで、サッカー普及に貢献するのは困難だったようです。

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仙台サッカー事始

山形県鶴岡(荘内中学)のサッカーが全国的にみても中学サッカーとしては最も早いようなのですが、大正元年(1912年)に対戦した仙台一中のサッカーを校史『仙台一中、一高百年史』(宮城県仙台第一高等学校創立百周年記念事業実行委員会, 1993)で調べてみました。「第Ⅱ部 仙台一中・一高百年史 第一編 明治時代 第四章 茶畑初期 明治四十(1907)年~大正ニ(1913)年 第四節 学友会の活動」に「蹴球部」の項があり、以下の記述があります。

“やはり校内大会が盛んに行われた。明治四十年伊藤運治先生が着任され、部長として指導されてからそれまでの遊戯的な蹴球から本格的な活動に入った。しかし、当時においては今日の如く選手ばかりの運動部ではなく、運動部本来の精神に立脚して生徒全般の運動を目的としていた。勿論適当な相手を校外に求めることが出来なかった為もあった。この間の消息を明治四十一年発行の学友会雑誌は次のように伝えている。すなわち、「現に仙台市内の各学校で蹴球部の設備されているのはニ中と師範と吾が校の三校であるが、ニ中のも師範のも有志だけのもので微々たるものだ。勿論吾が部としても毎日正式の練習をしているわけではなく、ただ生徒全般の運動を目的としてやって来たものであるから、競技という点においては不完全であるが、毎日全校六百の健児をして遺憾なくこの勇壮なる運動の趣を解せしめ、奮闘力を養いつつある故に盛大という点においては目下仙台市の蹴球界では吾が部が独り覇を唱えているわけである。しかも吾が校の運動部の範囲は未だ何れの部においても全校生徒の希望を悉く充たさしむることを得ない時に、独り吾が部は全校の諸君を満足せめて居る。」 こういう趣旨のもとに校内大会は毎年春秋二回、盛大に行われて全校の血を湧かせた。校長を始め全職員、全生徒がこれに参加して技を競った。対外試合としてはじめて行われたのは、明治四十五年五月十一日、山形県庄内中学との蹴球戦である。

 この日曇天無風、敵は正午より来て我軍を待った。午後三時より試合開始、我軍良く攻めたけれども敵軍猛烈にゴールをうばわれた。我軍のメンバーは多くは初陣であるのに加えて、練習の機会がなかったために遂に敵をして名を成さしめた。”(p.94-95)

荘内中学と同様、全校参加の校内大会が主流で、最初の対外試合は1912年の対荘内中学戦だったようです。

また、明治40(1907)年着任したらしい伊藤運治の名も、荘内中学の磯部房治と同様、『東京高等師範学校一覧』の卒業生名簿に見当たりません。東京高等師範学校と別のサッカー伝播ルートがあったのかもしれません。

ともあれ、明治時代に全校参加のサッカー大会をやっていた中学校のあった山形県と宮城県にのみ東北地方のJチームがあるのは“歴史的必然”なのかも・・

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