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後楽園競輪場の付帯施設

日本最初のW杯予選が行われた後楽園競輪場は(株)後楽園スタヂアムが1949年に建設しています。『後楽園スタヂアム50年史』(後楽園スタヂアム, 1990)には、競輪場の付帯施設について以下の記述があります。

“また、競輪は開催時期が限られているので、開催機関外の遊休施設を多目的に活用する方法も講じた。25年5月には車券売場に31台を数える卓球場を開設、またこの年12月には夜間も楽しく練習できる200ヤード打ち放し20打席のゴルフ練習場を開場した。フィールドはアイアンの練習もできるように設備した。

 そのほか、アメリカン・フットボール、サッカー、ボクシング、レスリング、音楽会、自動車ショー、ダンス・パーティー、納涼大会、運動会など多方面の催物開催に利用された。アメリカン・フットボール、サッカー、ハンドボールなどの国際試合も競輪場で開催され、多くのファンを集めた。

 当社競輪場は25年に第1次の改造を行なったのをはじめ、29年からこのあとたびたび増改築を実施した。

 かくて、東洋一の設備と都心における優位な条件とで、ファンが激増、収入は増加し、当社躍進の基盤となった。”(p.66)

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後楽園スタヂアムの資本系列

『後楽園スタヂアム50年史』(後楽園スタヂアム, 1990)p.16に創立当時の株式会社後楽園スタヂアムの役員と主な株主が記載されています。1936(昭和11)年12月25日創立総会時。

取締役会長 田辺七六
取締役社長 早川芳太郎
専務取締役 田辺宗英

早川芳太郎 2,130株
水上金三郎 1,500株
手塚丈夫   1,380株
田辺宗英   1,300株
水上源太郎 1,100株
小田進平   1,090株
大橋松雄   1,050株
小林一三   1,000株
正力松太郎 1,000株
以下略

早川芳太郎は東京米国商品取引所理事長、最初は兜町系の人が中心でプラス東宝、野球人人脈といったところでした。球場の開業は1937(昭和12)年9月11日。

ところが経営は思わしくなく、株価は額面20円を1円か2円下回っており、小林一三が額面価格で過半数の株を取得したいと申し出て、1938(昭和13)年6月28日の株主総会で東宝系列になり、主要役員は以下に交代します。

取締役会長 渋沢秀雄
取締役社長 吉岡重三郎
専務取締役 秦豊吉

戦後、1947年にGHQによる財閥解体で東宝から独立ししました。しかし、戦時中から続いた秦豊吉会長、田辺宗英(小林一三の弟)社長の東宝系経営陣は戦後もそのまま継承されています。現在は株式会社東京ドームとなっています。

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大正期の新聞界

『後楽園スタヂアム50年史』(後楽園スタヂアム, 1990)に読売新聞社名誉会長務台光雄が「後楽園球場はどうして出来たか 読売新聞の発展と巨人軍の関係」を寄稿しています。その冒頭に関東大震災当時の新聞界について述べた「①関東大震災により東京紙全滅す」があります。

“私が、正力前社主の要請により、読売新聞社へ入ったのは、昭和4年の8月であります。ところで東京において発行された新聞は、大正12年の8月には、報知、時事、国民の三大紙が発行部数、30万部以上を出しておりましたが、朝日、毎日の両紙は20万部台で、3、4万部の夕刊紙を別にして万朝、やまと、中央、中外商業、都、読売、毎夕、ニ六など10万部台の新聞を合わせて13の新聞社が、それぞれ特徴のある新聞を発行し競合しておりました。それが大正12年9月1日に起こった関東大震災により、全部の新聞社が壊滅して、発行不能に陥ったのであります。

 この時、朝日、毎日の両社は、この時期を逸しては、と大阪本社と協力し、その援護のもとに資金にものをいわせて、あらゆる方法をもって東京の新聞社に大攻勢を加えたのであります。(大阪朝日は、明治12年の創刊、大阪毎日は、明治21年の創刊ですが、この時、両社は西日本全体に100万部以上の部数を確保し、多くの利益を挙げて磐石の地位を築いておりました。)これが、日本はもとより、世界においても例のない激烈な競争が行われた新聞戦国時代であります。その結果、東京の新聞社は、各社とも非常な経営難に陥り、経営者の交代が頻々として行われ、そのあと政財界の有力者が経営を引き受け、新たに資金を投入して、大勢を挽回しようと努力しましたが、何れも長く続かず、漸次凋落し、やがて、すべての新聞社が廃刊、合併の余儀なきに至り、日本の新聞界は、朝日、毎日の両社によって制覇されるに至ったのであります。”

この後は震災前発行部数11万だった読売が震災後5万以下に部数を減らし、大正13(1924)年経営を引き受けた正力松太郎が唯一の東京系全国紙として読売を再興した経緯となります。さすがに新聞販売の神様といわれた人だけあって、発行部数が具体的に記されています。

現在、“生き残った”朝日と読売が創刊に遡って紙面の電子化サービスを実行・企画中ですが、両紙とも東京の発行部数という点では、少なくとも関東大震災時点までは「日本を代表する新聞」ではなかった、ということに留意すべきでしょう。

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田辺宗英

昨日出席した会合で、読売クラブ(現東京ベルディ1969)を創立した当時の読売の総師、正力松太郎は戦前からプロ野球興行を通して交流のあった田辺宗英からサッカーの知識を得たのではないか、という推論が示されました。平凡社『大人名事典 第9巻』(1955)収載の「田辺宗英」の項は以下のとおり。

“財界人。後楽園スタヂアム社長。明治十四年山梨県に生まれた。早大卒。三引商事専務、帝国拳闘協会長等を経て、昭和十一年後楽園スタヂアムを創立、専務から社長になり、傍ら日本スケート、新東宝、江東楽天地の役員を兼ねている。盟友正力松太郎は「財界生き残りの侠客」と評し、二十七年の新東宝の経営権を巡っての堀久作、山本為三郎との闘争は有名。異母兄に小林一三がある。東京都品川区五反田六の一九一(大崎一六〇三)。”

上記リンク先の野球殿堂の略歴では立教中→早稲田であり、生年から考えて、山梨県出身ではありますが韮崎のサッカーの影響を受けたとは考えられません。韮崎中に蹴球部ができるのは昭和に入ってからです。

『イレブン』誌1979年11月号に掲載された「幻のプロサッカー秘話」によれば、正力は1949年にできた後楽園競輪場でのプロサッカーの開催・トトカルチョを企画していたようです。トトカルチョについては、1960年開催のローマ五輪が経費をトトカルチョで賄ったことで注目され、1959年に東京オリンピック準備委員会から『トトカルチョ』が刊行されています。

『トトカルチョ』刊行以前にプロサッカーとトトカルチョの組合せを思いついたのが田辺だとしたら、相当の「先覚者」だったことになります。

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