« 田辺宗英 | Main | 後楽園スタヂアムの資本系列 »

大正期の新聞界

『後楽園スタヂアム50年史』(後楽園スタヂアム, 1990)に読売新聞社名誉会長務台光雄が「後楽園球場はどうして出来たか 読売新聞の発展と巨人軍の関係」を寄稿しています。その冒頭に関東大震災当時の新聞界について述べた「①関東大震災により東京紙全滅す」があります。

“私が、正力前社主の要請により、読売新聞社へ入ったのは、昭和4年の8月であります。ところで東京において発行された新聞は、大正12年の8月には、報知、時事、国民の三大紙が発行部数、30万部以上を出しておりましたが、朝日、毎日の両紙は20万部台で、3、4万部の夕刊紙を別にして万朝、やまと、中央、中外商業、都、読売、毎夕、ニ六など10万部台の新聞を合わせて13の新聞社が、それぞれ特徴のある新聞を発行し競合しておりました。それが大正12年9月1日に起こった関東大震災により、全部の新聞社が壊滅して、発行不能に陥ったのであります。

 この時、朝日、毎日の両社は、この時期を逸しては、と大阪本社と協力し、その援護のもとに資金にものをいわせて、あらゆる方法をもって東京の新聞社に大攻勢を加えたのであります。(大阪朝日は、明治12年の創刊、大阪毎日は、明治21年の創刊ですが、この時、両社は西日本全体に100万部以上の部数を確保し、多くの利益を挙げて磐石の地位を築いておりました。)これが、日本はもとより、世界においても例のない激烈な競争が行われた新聞戦国時代であります。その結果、東京の新聞社は、各社とも非常な経営難に陥り、経営者の交代が頻々として行われ、そのあと政財界の有力者が経営を引き受け、新たに資金を投入して、大勢を挽回しようと努力しましたが、何れも長く続かず、漸次凋落し、やがて、すべての新聞社が廃刊、合併の余儀なきに至り、日本の新聞界は、朝日、毎日の両社によって制覇されるに至ったのであります。”

この後は震災前発行部数11万だった読売が震災後5万以下に部数を減らし、大正13(1924)年経営を引き受けた正力松太郎が唯一の東京系全国紙として読売を再興した経緯となります。さすがに新聞販売の神様といわれた人だけあって、発行部数が具体的に記されています。

現在、“生き残った”朝日と読売が創刊に遡って紙面の電子化サービスを実行・企画中ですが、両紙とも東京の発行部数という点では、少なくとも関東大震災時点までは「日本を代表する新聞」ではなかった、ということに留意すべきでしょう。

|

« 田辺宗英 | Main | 後楽園スタヂアムの資本系列 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference 大正期の新聞界:

« 田辺宗英 | Main | 後楽園スタヂアムの資本系列 »