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皇孫殿下の御遊戯

ヨミダス歴史館で明治のサッカー記事を探していたら、「フットボール」で引っかかってきました。『読売新聞』1907(明治40)年2月4日付け。

皇孫殿下の御遊戯

 皇孫迪宮、淳宮、光宮の御遊戯に供さるる玩具の事に就ては度々記したるが近頃動物の如き玩具などを好ませられず却って活たるものを愛させらるるやに伝へらるるが殊に野外球技を好ませられフットボールやテニスを行はせらるるより此程御養育画掛清水重子女史は本郷五丁目の運動機械販売店へ御用品としてフットボール、ミット、エキサーサイザー、輪投他数品の遊戯具を注文されたりと云ふ。”

迪宮(みちのみや)は昭和天皇(1901年生)、淳宮(あつのみや)は秩父宮雍仁(1902年生)、光宮(てるのみや)は高松宮宣仁(1905年生)です。フットボールで一番遊んだのはやはり秩父宮でしょうか。

“本郷五丁目の運動機械販売店”とはどこなのか、気になります。

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ラグビー(慶應義塾)の対YCAC戦

慶應義塾体育会蹴球部黒黄会編『慶應義塾体育会蹴球部百年史』(慶應義塾大学出版会, 2000)によれば、対YCAC戦の結果は以下のとおり。

1901(明治34)年12月7日 横浜 5-41
1903(明治36)年12月5日 横浜 0-44
1904(明治37)年2月10日 横浜 スコア不明(YCACが大勝)
1904(明治37)年12月8日 横浜 0-17
1905(明治38)年12月8日 横浜 0-14
1906(明治39)年2月17日 東京(日比谷公園) 0-9
1906(明治39)年11月24日 東京(綱町) 4-6
1907(明治40)年1月26日 横浜 0-9
1907(明治40)年11月30日 東京(綱町) 3-8
1908(明治41)年11月14日 東京(綱町) 12-0

慶應ラグビーの対YCAC戦初勝利は、奇しくもサッカーの対YCAC戦初勝利と同年の1908年です。サッカーとラグビーの初勝利の両試合のYCACメンバーにda Costaがありますが、同一人物でしょうか。

慶應に続いて本邦2番目のラグビー部が京都の三高で誕生したのは1910(明治43)年。ラグビー最初の国内対校戦は1911(明治44)年4月8日に綱町の慶應グラウンドで行なわれ、39-0で慶應が勝利しています。

野球、サッカー、ラグビーの対YCAC初対戦は、

 野球:一高 1896(明治29)年5月23日 29-4の大勝
 サッカー:高師 1907(明治37)年2月6日 1-9の大敗
 ラグビー:慶應 1901(明治34)年12月7日 5-41の大敗

野球は初対戦で勝利、サッカーは初勝利まで4年、ラグビーは初勝利まで7年かかっています。

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高師の国内対校試合

東京教育大学サッカー部編『東京教育大学サッカー部史』(恒文社, 1974)によれば、国内対校試合の最初は、
1907(明治40)年11月16日の対青山師範戦で高師で行なわれ、8-1で高師が勝利しています。

“青山師範対本校マッチ

 11月3日に行なう筈なりしも、降雨の為め延期となり、16日午後2時より本校フィールドに於て行ないたり。思うに日本に於ける我が国人の対抗フットボールマッチの嚆矢なり。”(p.76)

とあってこれが日本人同士の最初のサッカー試合のようです。内容については同書p.76-77に記されています。試合当日の11月16日付け『読売新聞』に以下の記事があります。出場メンバーを「予告」しているところをみると、高師側から新聞社に“ブリーフィング”していたようです。

高等師範対東京師範フートボール試合

 本日午後二時より高等師範のグラウンドに於て開催する筈。其双方のチーム左の如し。

(青山方)△フォーアワード 吉沼、大内、菅野、増田、海老澤 △ハーフバック 菊池、武石、高野 △フルバック 会澤、桜井 △ゴールキーパー 根本
(師範方)△フォーアワード 梅本、柳川、落合、児島、目黒 △ハーフバック 細木、重藤、内野 △フルバック 服部、横山 △ゴールキーパー 新帯”

同年同月の11月24日には慈恵医院との試合がやはり高師で行なわれ、1-0で高師が勝っています。本試合については、同書p.77-78に記載がありますが、11月25日付け『読売新聞』にも記事があります。

“▲慈恵院対高等師範フートボール試合

 昨日午後二時半より高師方グラウンドに開れしが両軍よく戦ひハーフタイム前には得点なくハーフタイム後師範方奮戦し漸く一点を獲して勝利を得たり。而して当日の慈恵院の奮闘は非常に目醒しくして流石の師範方も持て余したりと。序に記す慈恵院のフートボール部は直接外人の示導を受け大に進歩発展し居れり。”

慈恵医院には外国人コーチがいたようです。こうした国内対校試合の経験の蓄積が、翌1908(明治41)年2月9日の対YCAC戦初勝利につながったのでしょう。

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野球とサッカーの対YCAC戦の違い

君島一郎著『日本野球創世記 : 創始時代と一高時代』(ベースボール・マガジン社, 1972)に、

“全国的な野球の勃興はそれは何といっても明治二十九年、一高が横浜アマチュア・クラブに大勝したことがキッカケであった。”(p.44)

とあり、東京高等師範学校々友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書, 1908)にも、

“殊に今年二月の高等師範と横浜外人とのマッチに、高等師範が外人を破ってより、急にフットボールの声が高くなり、大いに勃興する形勢を現はして来た。”

とあるように、ともに対YCAC戦勝利が競技普及のきっかけになっています。

一高が1896年の初対戦でYCACに大勝しているのに対し、「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書」に記したように、東京高師は1904年の初対戦後1908年の初勝利まで連戦連敗でした。両者の違いは競技普及状況によるものです。野球は明治20年代には東京ではかなり普及しており、一高(当時は第一高等中学)は1890(明治23)年には一橋の商業学校(現・一橋大学)や明治学院と対校試合をしています。明治学院の教師インブリー氏が一高での試合を観戦するために門からではなく垣を越えて入場したことに激高した一高生が同氏に暴行した、いわゆるインブリー事件は1890年のことです。他にも駒場の農学校(現・東大農学部)、青山学院、慶應義塾などとも対校試合をしていて、対YCAC戦の時点で豊富な試合経験を持っていました。

一方、東京高師はYCACと対戦した時点で唯一の日本人サッカーチームで、対YCAC戦が初の対外試合でした。1906(明治39)年12月29日、0-6で敗退した試合の記事が12月31日付けの『読売新聞』にありますが、

“毎度記した様に我国ではフットボールと云ふ運動は慶應義塾に唯一つ(ラグビー式)蹴球部を有するのと此高師の(アソシエーション式)のが在る計りである。所がラグビー式とアソシエーション式は其競技のルールに大差があって自然ラ式とア式の両競技は行はれぬ所から両校は同じフットボール部を有しながら対抗マッチなどを開始して互に競技の呼吸などを練磨する事が出来ぬ。吾人は慶應方と在留外人とのフットボールマッチを見る度に常に此感を抱いて残念に思って居たが此度の高師のマッチを見て一層此感を深くしたと云ふのは高師方が練習の時の競技振りとマッチの時の態度では丸で別物の様に見ゆる其連絡の取り方、パスの仕方、或は咄嗟の間の働き振りが何うも思はしくない。吾人の素人目を以てしても技術は決して外人に劣って居る様には見えぬ(只足の短き為めキックは彼に及ばぬ)。只々敗因は対抗マッチに多くの経験を持たぬ為めであると思ふ。夫れは一昨日の勝負の時高師方が数度奮闘して敵のペナルチーアリアの辺まで押し寄せて今一息と云ふ好機は幾度もあったにも係らず一度も成功せず敵のゴールキーパーたるジェウエットに何時も大勢を挽回せられたのに徴しても分る。兎に角慶應にしても高師にしても外人とのマッチを開く毎に彼等に一籌を輸するのは此対抗マッチに就ての微妙なる掛引きの不足が其有力なる敗因を為して居る様に思はるる。此点は如何に慶應其物、高師其物を攻むるも益のない事で其都度云ふ様に各学校で早く蹴球部を設立して彼の野球や庭球の様に対校マッチを行って練習の功を積むより外に仕方がない。

と野球やテニスのようにサッカー、ラグビーも高師、慶應以外の学校に普及させて対校試合をすることが、競技水準向上の唯一の方法であることが指摘されています。

ともあれ、対YCAC初対戦は、

 野球:一高 1896(明治29)年5月23日 29-4の大勝
 サッカー:高師 1907(明治37)年2月6日 1-9の大敗

何やらワールドベースボールクラッシックとワールドカップにおける日本代表の成績の差みたいな・・・

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一高野球の対YCAC戦

君島一郎著『日本野球創世記 : 創始時代と一高時代』(ベースボール・マガジン社, 1972)によれば、第一高等学校が初めてYCACと対戦したのは1896(明治29)年5月23日、横浜においてで、29-4と野球らしからぬスコアで一高が大勝しています。同年6月5日に横浜で再戦し、この試合も一高が32-9で大勝しています。さらに米軍艦デトロイト号からも試合の申し込みがあり、6月27日に一高で対戦し、この試合も22-6で一高が勝利しています。3連敗した米国側は軍艦オリンピア号を中心としたチームで7月4日(独立記念日)に横浜で対戦し、12-14で一高の敗戦になっています。

ヨミダス歴史館による読売新聞記事は、5月23日の試合は5月25日付けで、

第一高等学校学生闘技に外人に勝つ

府下第一高等学校の学生はベース、ボールの遊戯に於て天下に敵なきより闘技を横浜の外人に挑み遂に一昨日午後三時より横浜公園に於てヨコハマ倶楽部及びアマーチワー倶楽部の聯合と闘技し八番の勝負の末四に対する二十九の大多数の入場を以て高等学校の生徒の大勝利に帰せり。”

6月5日の試合は前日の6月4日にも記事が出ていて、関心の高さをうかがわせます。

高等学校学生再び外人と戦はんとす

第一高等学校学生等が横浜の外人とベースボールの仕合を為し大勝を得たることは過日の本紙に掲載したりしが彼らは己が国技の敗を取りたることとて大に之れを無念に思ひ亦々明五日(金曜日)午後三時より横浜公園に於て仕合を為さんと申込み来れるより同校学生等は学年試験の差掛り居るにも係らず直ちに之に応じたりとぞ。外人等は此度こそ一挙して前敗の恥辱を雪がんと意気込み居れば定めて其鋭を尽して来ることなる可くさ[ ]れば今回の仕合こそ随分目醒ましき活劇もあるならんとのことなり。風説には此度の敵手はアマチュア倶楽部のみにあらずして米国東洋艦隊旗艦オリンピヤ号の撰手も之に加勢し居るべしとのことなるが高等学校の撰手は青井鉞男・藤野修吉・井原外助・宮口竹雄・井上匡四郎・村田素一郎・富永敏麿・森脇幾茂・上村行栄・市岡準助の十氏なりとぞ。”

6月5日の試合結果は6月6日付けで、

高等学校学生再び競技に勝つ

第一高等学校の学生等は予記の如く昨日午後三時より横浜公園に於て再び外人とベースボールの競技をなしたるが昨日は外人も前回の恥辱を雪がんとてヨコハマ倶楽部アマチュアー倶楽部員のみならず同港碇泊中の米国軍艦エドロフ号乗組の米人四人加入して競技したるに結局九に対する三十二の大多数にて又々高等学校学生の勝利に帰したり。当日は内外人の見物者非常に多く高等学校の勝利に帰したるを見て拍手喝采破るる許りなりしと。”

君島によれば、“試合が終ると「柵の内外一万の同胞の狂呼、拍手と相和し、万雷の一時に発せるが如く、絶えて前回の静粛に似ず。甚だしきは聞苦しき悪口雑言を吐く者あり」と当時の記事にある”とのことで、日本の観客のマナーの悪さが横浜、神戸、長崎の外字紙に報道されたとのことです。不平等条約下における外国人に対するフラストレーションの捌け口になったのでしょうか。

この試合に対する関心はよほど高かったのか、読売は翌6月7日付けでも詳報を掲載しています。

“○ベースボール競技の詳況(第一高等学校学生の大勝利)

 第一高等学校の学生が一咋五日横浜公園に於て同港在留の外人を第二回のベースボール競技に於て又々九点に対する三十二点即ち二十三点の大勝利を博したる由は不取敢前号に記したるが今其の詳況を聞き得たれば左に記す。

 此度敵は米国東洋艦隊中当時横浜に碇泊せるチャーレストン・デトロイト・ボストン・クレメントの四艦中撰りに撰りたる六選手及び横浜アマチュア倶楽部の三選手より成れる大連合軍のことなれば高等学校学生に取りても由々しき大敵なれど此敵に打負けては我校の名折れと学生は非常の意気込みを以て出陣し外人も亦今回こそは前回の恥辱を雪がんとの意気込みなれば山の如き内外の見物人定刻前よりツメカケツメカケ手に汗握りて開会を待ち受けたり。

 欧米の選手は身の丈何れも六尺に余り燦々たる其鬚髷炯炯たる其碧眼鬼をも拉がんずる面魂。之に引き替へ学生の選手は揃ひも揃て小兵の若武者のみなれば一見したる所にては勝利は愚か取り付く可くも見えざりけり。

 やがて試合ひ初まりぬ。敵は腕力を恃みて無ニ無三と打ち立てんと焦れども此方の投手青井氏と取手藤野氏と共に秘術を尽して戦ひけるに敵も漸く辟易して立往生となすもの引きも切らず、勝に乗ったる味方の殿原鍛へに鍛へし打棒の冴えに息をも継がせず打ち巻くれば敵は愈々狼狽し自由のきかぬ体にて飛び来る球を止めんと右往左往に走り廻りけるも唯々慌て騒ぐのみにて些の効能もなし。

 斯くて学生方は第一線に三点を得たるを手始めとし毎回数点を奪ひつつ第四線迄に於て巳に十点を占めたりけるに憐れや敵は未だ一点だも得る能はざりしが第五線にて漸く三点を取り返へしたり。

 されど第六線以後は学生方一瀉千里の勢にて毎回必ず数点を占め特に第六線第九線は各七点宛を得て終に総計三十二点の多数を得たりしかば拍手喝采一時は鳴りも止まざりし。

 尚ほ当日は非常の激戦なりしゆゑ相方共負傷者三名を生じたりといふ。”

記事の調子が講談調ですね。“此方の投手青井氏”とは野球殿堂入りしている青井鉞男です。

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最初のサッカー放送(続)

NHK放送博物館の展示(12/28)と『東京大学のサッカー 闘魂の90年の軌跡』(12/25)で最初のサッカー放送試合の日付が異なっていたので、ヨミダス歴史館で確認したところ、12月29日付に記事があり、12月28日、すなわちNHK放送博物館が正しいことを確認しました。同日午後2時半試合開始になっています。東大の2ゴールは野沢と篠島、京大の1ゴールは河野になっていました。

ついでに12月28日付けの「ラヂオ版」も見てみましたが、JOAK(東京)は0:40~3:40「女流浪花節大会」で、JOCK(名古屋)、JOFK(広島)、JOGK(熊本)、JOHK(仙台)、JOIK(札幌)、JOJK(金沢)もサッカー放送はなく、JOBK(大阪)のみ

“▲ニ、二〇 第二回東西対抗学生蹴球リーグ決勝戦実況(甲子園南運動場より)”

となっていました。日本最初のサッカー放送は全国放送ではなく、関西地区限定だったようです。

3週前の12月7日には初代桂春団治JOBK出演事件がおきています。吉本興業は寄席に来る客が減ることを心配して所属芸人のラジオ出演を厳禁していましたが、禁を破って春団治がラジオ出演したところ、逆に寄席に客が殺到したので、以後積極的に放送出演させるようになりました。「興行と電波露出」関係史の重要事件です。JOBKは吉本の横槍を恐れて、大阪ではなく京都のスタジオから放送したそうですが、当時のJOBKにはなかなかのやり手がいたようです。

吉本のメディア戦略は功を奏して、現在では大阪のみならず、東京でもお笑い番組は吉本の寡占状態です。なぜか地上波TVのサッカー番組の司会まで、TBS系列テレ朝系列も吉本のお笑い芸人ですが、その発端は最初のサッカー放送があった21日前の春団治JOBK出演にあったのです。


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最初のサッカー放送

さけのべさんにご教示いただいたNHK放送博物館企画展示「スポーツ放送ことはじめ」を見にいってきました。サッカーの初放送は野球(夏の甲子園)の3年後、1930(昭和5)年12月28日の大学の東西王座戦ということになっていました。手元にある『東京大学のサッカー 闘魂の90年の軌跡』によると、日付は12月25日、開催地は南甲子園運動場、相手は京大で、2-1で東大が勝利しています。同書に記載された東大出場メンバーには竹内悌三篠島秀雄手島志郎と、3人の殿堂掲額者がいます。

新規コンテンツ「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書」をアップしました。

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1908(明治41)年2月9日東京高師対YCAC戦初勝利の新聞記事

1908(明治41)年2月10日付け読売新聞記事

運動界

▲外人三度び敗る

今春既に二回、横浜在留外人と戦って共に大勝し、連戦悉く敗れたる屈辱を一蹴して意気頓に昴れる高等師範のフットボール部は昨日午後一時、更にスポーティング倶楽部の獰猛チームを自校のクラウントに迎へ戦へり、蓋しスポーティング倶楽部選手は我高師の健児が再度までの大勝を憤慨して今回特に挑戦し来りたるなり。されば昨日の彼等の攻撃の烈しさは勝に乗って意気天を衝かんとする師範方の奮戦と相待って火の如き競技を現出し、外人方の選手がタイムの前後に三人まで脚部に烈しき痙攣を起して戦ひを中止したる如き、以て其奮戦の跡を卜すべし、而して外人はハーフタイム前、既に一点を勝ち得たれば其タイム後一層獰猛に師範の激襲を物ともせず奮ひ戦ひしが師範も此所を先途と力戦克く努め遂にタイム後荒れ狂ふ外人を圧迫して二点を獲得し一対二の折迫戦は勝利を得たるは近来の快競技なりき。奮へ師範のフットボール部よ。今当日の参加者を連名すれば

 ▲ゴールキーパー コレア(外)新帯(師)
 ▲フルバック タツコスタ、ワット(外)柳川、唐土(師)
 ▲ハーフバック メーカー、リバイシコ、ガモス(外)川崎、重藤、内野(師)
 ▲フォアワード デンヂン、カゾール、サー、タイノ、アプカー、ジエー、ダツコスタ(外)梅木、細木、落合、児島、目黒(師)”

YCACはハーフタイム前後に脚を痙攣して離脱した選手が3人おり、高師は後半2点入れて逆転勝ちしているところをみると、高師はスタミナ切れしたYCACに走り勝ちしたことがみてとれます。


1908(明治41)年2月10日付け東京朝日新聞記事

“●高等師範横浜外人蹴球競技

二度外人を取って意気大に昴れる高師蹴球部は更に横浜スポーチングクラブの挑戦に応じて昨日午後一時半より同校校庭に於て競技を催せり。此日風なく日暖かに且前チームより優勢なるスポーチングクラブとの仕合なれば好奇心を以て集まるもの引きもきらず。[ ]て定刻に至りボーイス氏の号笛により高軍先づ攻めしに初め頗る振はず先づ一点を占められしがハーフタイム後に至り急に其勢を挽回し忽ち一点を得て両軍同点となるや何れも茲を先途と火花を散らして奮戦し外人方背黒段だら染のユニホームと高軍白の運動服と入り乱れて東西に馳駆する。状中々に目覚しく外人方三度傷くも屈せず新手を代へて益々勇を鼓して力戦せしも高軍の梅本落合が奇襲に悩まされ遂に再び一点を得られ午後三時半二対一高師の勝にて競技を終れり。両軍のメンバー左の如し。

               (高師方)                  (外人方)
△ゴールキーパー    新帯                     コーリス
△フルバック       柳川 唐土                 コスタ ワット
△ハーフバック      川崎 重藤 内野             ミーア リベイロ ラアモス
△フォアワード      梅本 重藤 落合 児島 目黒     デンチシ カロール ラアダイン アピーア コスタ


“好奇心を以て集まるもの引きもきらず”とあるようにかなりの観衆を集めたようです。実は、東京朝日には試合前日、予告先発メンバー付き試合予告記事も掲載されています。試合は東京高師の勝利に終わるわけですが、試合前から「次は必ず勝つ」という自信があったことがうかがわれます。

1908(明治41)年2月8日付け東京朝日新聞記事

“●運動界 

▲高師蹴球部は横浜外人スポーチングクラブの挑戦に応じ明九日午後一時より同校校庭にてフートボール競技を催す筈なるが高師方選手は左の如し。

 ゴールキーパー 新帯
 フルバック 柳川、唐土
 ハーフバック 川崎、重藤、内野
 ファーンード(ママ) 梅本、重藤、落合、児島、目黒

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コンテンツを改訂しました。

日本サッカー協会のエンブレムと日名子実三を改訂しました。

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