日本のサッカー初実況は日本代表GK斎藤才三がアナウンス
日本のサッカー初実況は1930(昭和5)年12月28日に甲子園南運動場で行われた京大対東大の、東西大学1位対抗戦でした。さる方のご好意により、このときの経緯が『スポーツ毎日』紙1952年3月15日号に掲載されているとのご教示を受け、コピーもいただくことができました。岩崎愛二「スポーツ実況初放送物語 ⑧」が該当記事でした。
"<前略>・・・
この時の思い出はなつかしいというのは、これまでしばしば出て来た通り、BKでは、アナウンサーによる実況放送は、当分出来そうもなかったのだが、小沢猛アナウンサーがサッカーをやった経験があり、是非やりたいと申し出てくれたので、BK当事者が喜んだのは大変なものであった。今度こそは嘱託放送でなく、自分の持駒が動かせるし、日本最初のサッカー放送がやれるという二重の興奮にわきたったのであった。
それが好事魔多しのたとえにもれず、前日になって小沢君が局にやって来ない。それでおあかしいなと思っていると、筆者に使いをよこして「済まないがちょっと御来訪願いたい」という。取るものも取りあえず、甲東園の彼の自宅にかけつけてみると、彼は病床にいて発熱四十度を越している。「明日の放送に出られそうもない、誠に申訳けない」と涙を流している。彼の純真はよくわかるが、明日にせまった実況放送は、線路テストも終り、各局への中継手続きも完了しているしするので、これを飛ばしてしまうことは出来ない。
この時ほど困ったことはない。お先真っ暗とはこのことである。そこで、考えに考えたのが、例の嘱託放送の手で、当時関西学院のサッカーの名手で、毎日新聞入りをしたばかりの斎藤才三君に白羽の矢を立てちゅうちょしゅんじゅんする斎藤君を拝むようにして、やってもらうことにした。
当日の試合は、斎藤君の関係学校でなかったことも、与って力あって、大変にうまい放送をやってのけてくれた。今でもこの助け舟を嬉しく思っている。
放送がすんだ翌日、斎藤君にBKまで来てもらって、放送礼金金二十円也(この金額は当時だと一夕の歓をつくすに十分なものであったし、大学教授でも誰でも講演料は二十円と決っていた)を渡して、ネクタイでも買って下さいと渡したが、大して嬉しい顔もせずにポケットにしまった。後で聞いてわかったのだが、彼は百万長者の当主で、倉には国宝がうなっているということで、二十円の謝金なんてなんのことでもなかったらしい。
・・・<後略>”
斎藤才三は1930年第9回極東大会で優勝した日本代表の正GK。桃山中学で田辺治太郎(14代五兵衛)の1年後輩で主将を継承、関学に進学の後、毎日新聞に就職し、サッカー関係の記事を書いています。渡英してハーバート・チャップマン指揮下のアーセナル戦を観戦し、当時の「戦術革命」だったWMシステムをいち早く日本に紹介した人物でもあります。→「戦前日本サッカーの情報収集力」
なお、上記で紹介した『スポーツ毎日』の記事では、JOBK本職アナウンサーによるサッカー初中継については、
“その翌年二月十一日には、同じ甲子園南運動場で、関西学院対慶応の全国大学争覇戦が開かれたのだが、その時には小沢君が出陣しBK待望のアナウンサーによるアナウンスが実現したのだった。”
とありますが、1931年2月11日に行われたのは関学クラブ対慶應BRBの全日本選手権決勝(現在の天皇杯の前身)で、現在の天皇杯決勝がJOBK局アナによる初実況ということになります。