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日本のサッカー初実況は日本代表GK斎藤才三がアナウンス

日本のサッカー初実況は1930(昭和5)年12月28日に甲子園南運動場で行われた京大対東大の、東西大学1位対抗戦でした。さる方のご好意により、このときの経緯が『スポーツ毎日』紙1952年3月15日号に掲載されているとのご教示を受け、コピーもいただくことができました。岩崎愛二「スポーツ実況初放送物語 ⑧」が該当記事でした。

"<前略>・・・

 この時の思い出はなつかしいというのは、これまでしばしば出て来た通り、BKでは、アナウンサーによる実況放送は、当分出来そうもなかったのだが、小沢猛アナウンサーがサッカーをやった経験があり、是非やりたいと申し出てくれたので、BK当事者が喜んだのは大変なものであった。今度こそは嘱託放送でなく、自分の持駒が動かせるし、日本最初のサッカー放送がやれるという二重の興奮にわきたったのであった。

 それが好事魔多しのたとえにもれず、前日になって小沢君が局にやって来ない。それでおあかしいなと思っていると、筆者に使いをよこして「済まないがちょっと御来訪願いたい」という。取るものも取りあえず、甲東園の彼の自宅にかけつけてみると、彼は病床にいて発熱四十度を越している。「明日の放送に出られそうもない、誠に申訳けない」と涙を流している。彼の純真はよくわかるが、明日にせまった実況放送は、線路テストも終り、各局への中継手続きも完了しているしするので、これを飛ばしてしまうことは出来ない。

 この時ほど困ったことはない。お先真っ暗とはこのことである。そこで、考えに考えたのが、例の嘱託放送の手で、当時関西学院のサッカーの名手で、毎日新聞入りをしたばかりの斎藤才三君に白羽の矢を立てちゅうちょしゅんじゅんする斎藤君を拝むようにして、やってもらうことにした。

 当日の試合は、斎藤君の関係学校でなかったことも、与って力あって、大変にうまい放送をやってのけてくれた。今でもこの助け舟を嬉しく思っている。

 放送がすんだ翌日、斎藤君にBKまで来てもらって、放送礼金金二十円也(この金額は当時だと一夕の歓をつくすに十分なものであったし、大学教授でも誰でも講演料は二十円と決っていた)を渡して、ネクタイでも買って下さいと渡したが、大して嬉しい顔もせずにポケットにしまった。後で聞いてわかったのだが、彼は百万長者の当主で、倉には国宝がうなっているということで、二十円の謝金なんてなんのことでもなかったらしい。

・・・<後略>”

斎藤才三は1930年第9回極東大会で優勝した日本代表の正GK。桃山中学で田辺治太郎(14代五兵衛)の1年後輩で主将を継承、関学に進学の後、毎日新聞に就職し、サッカー関係の記事を書いています。渡英してハーバート・チャップマン指揮下のアーセナル戦を観戦し、当時の「戦術革命」だったWMシステムをいち早く日本に紹介した人物でもあります。→「戦前日本サッカーの情報収集力

なお、上記で紹介した『スポーツ毎日』の記事では、JOBK本職アナウンサーによるサッカー初中継については、

“その翌年二月十一日には、同じ甲子園南運動場で、関西学院対慶応の全国大学争覇戦が開かれたのだが、その時には小沢君が出陣しBK待望のアナウンサーによるアナウンスが実現したのだった。”

とありますが、1931年2月11日に行われたのは関学クラブ対慶應BRBの全日本選手権決勝(現在の天皇杯の前身)で、現在の天皇杯決勝がJOBK局アナによる初実況ということになります。

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1930年第9回極東選手権対中国戦の謎(続・続) 東京日日新聞では

先日本ブログで紹介した1930年第9回極東選手権対中国戦の謎の朝日と読売の記事を日本サッカー史研究会で紹介したところ、「朝日と読売の報道が全然違う。当時のもうひとつの有力紙である東京日日(現在の毎日新聞の前身)ではどうなっているのか」という、まことにごもっともな指摘をいただきました。そこで1930(昭和5)年5月30日付け『東京日日新聞』を調べると、11面(社会面)に以下の記事がありました。

日華の決勝戦結局行はず
中華側友情を提唱
大会当局の不用意が因

 なほ廿九日の日華蹴球戦が別項の如く引分けとなったので決勝戦は大いに期待されたが試合終了と同時に日本選手は再試合するものとみ(ママ)で直ちに退場したのに中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていたが、要するにかうした引分けの場合決戦するか、しないかにつきはっきり決めてゐなかったためかかる結果となったもので中華の李監督は突如「試合が余りエキサイトし双方大分怪我人も出来てゐるからこれ以上決戦を行ふ必要はない、われわれは試合などどうでもよいのであってフレンドシップを傷つけたくないから次回の大会まで決勝戦を保留することにしたい」と極東同胞の友情発露を主唱し出したのでわが大会役員も比軍のイラナン総監督の意見を求めることになったが決勝戦は結局行はれぬ模様である。”

読売同様、中国側が延長戦を求めたことが記されています。見出しにも「大会当局の不用意が因」とあって、名前こそ出していませんが、極東選手権大会Football CommitteeのChairmanである野津謙の不手際を批判しています。

朝日の記事が中国側の要求した延長戦に触れず、大部分が野津の談話になっていることについては、朝日のサッカー記者山田午郎は大日本蹴球協会理事(野津も同じく協会理事)でもあり、いわば「当局」と同ポジションにいたので、野津の広報のような当局ベッタリの報道になってしまったのではないか、というご意見もありました。

サッカー記事ひとつとっても「行間」を読みこまねばなりませぬ。

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BBCのサッカー初中継

BBCのサッカー初中継、ということはおそらく世界最初のサッカー中継であろう試合は、1927年1月22日(土)のアーセナル対シェフィールド・ユナイテッド戦(ハイベリー)だそうです。情報源は「THE FIRST LIVE SOCCER BROADCAST - SAT. 22nd JANUARY 1927」。最初のラグビー中継だったイングランド対ウェールズ戦の1週後とのこと。日本のサッカー初中継は英国に遅れること僅か3年でした。

リスナーにボールの位置の視覚的イメージを与えるために、フィールドを8分割して1~8の番号を振り、新聞のラジオ欄に掲載して、中継中にその番号をコールしてボールの位置を示したそうです。アナウンサーはH.B.T. WakelamとC.A. Lewisの2人で、Wakelamがプレーを、Lewisがボールの位置をアナウンスしたとのことです。リンク先に『Manchester Guardian』紙ラジオ欄に掲載されたフィールド図面があります。

1927年のFAカップ決勝のアーセナル対カーディフ戦ではBBCアナのDerek McCullochと後にアーセナル監督になるGeorge Allisonのコンビで放送したそうで、現在の日本におけるサッカー(スポーツ)放送で一般的な「アナウンサー+解説者」というパターンが早くも成立しています。

日英のサッカー初中継時のチームの指揮官は東大の竹腰重丸、アーセナルのハーバート・チャップマンと、ともに歴史に残る名将でした。

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戦前の大学王座決定戦のラジオ中継

戦前の大学王座決定戦、すなわち関東大学リーグと関西大学リーグの覇者の対決は1929(昭和4)年に始まり、戦中の1942(昭和17)年まで続いたようです。サッカーがカレッジ・スポーツだった当時、事実上の日本一決定戦でした。現在の天皇杯の前身にあたる明治神宮大会(の蹴球部門)もありましたが、この試合より格下とみなされていました(この大会では主として野球が中継されていたようです)。日本でサッカーが始めて中継されたのもこの第2回1930(昭和5)年のこの試合でした。下記でわかるように、毎年関東と関西で開催地を交替しているのが、この試合の重要性を表わしています。

第1回:1929(昭和4)年12月25日(明治神宮外苑競技場 東大3-2関学) 放送なし
第2回:1930(昭和5)年12月28日(南甲子園運動場 東大2-1京大) JOBK サッカー日本初中継
第3回:1931(昭和6)年12月13日(明治神宮外苑競技場 東大2-2.関学) JOAK第二放送(河西)
第4回:1932(昭和7)年12月12日(南甲子園運動場 慶應2-1京大) 放送なし
第5回:1933(昭和8)年12月10日(明治神宮外苑競技場 早稲田5-2京大) JOAK第二放送(河西)
第6回:1934(昭和9)年12月16日(南甲子園運動場 早稲田6-0京大) JOAK、JOBK第二放送(島浦)
第7回:1935(昭和10)年12月15日(明治神宮外苑競技場 早稲田12-2関学) JOAK第二放送(河西)
第8回:1936(昭和11)年12月13日(南甲子園運動場 早稲田3-2神商大) JOAK第二放送(島浦)
第9回:1937(昭和12)年12月12日(明治神宮外苑競技場 慶應3-0京大) JOAK第二放送(和田)
第10回:1938(昭和13)年12月4日(南甲子園運動場 関学3-2慶應) JOAK放送なし(ラグビー早明戦あり)
第11回:1939(昭和14)年12月10日(明治神宮外苑競技場 慶應4-2関学) 放送なし
第12回:1940(昭和15)年12月8日(南甲子園運動場 慶應4-2関学) 放送なし
第13回:1942(昭和16)年7月4日(明治神宮外苑競技場 東大8-1関学) 放送なし

JOAKでは河西三省アナが、JOBKでは島浦(名は不明)アナが主として担当していたようです。

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関東最初?のサッカー中継

日本最初のサッカー中継は1930(昭和5)年12月28日の第2回大学王座決定戦(南甲子園運動場 東大2vs.京大1)で、JOBK(大阪放送局)のみの放送でした。

関東最初のサッカー放送は、おそらく翌年1931(昭和6)年12月13日の第3回大学王座決定戦(明治神宮外苑競技場 東大vs.関学)ではないかと思います。同日の『読売新聞』「けふの番組:JOAK 東京波長 三四五」に、

第二放送番組 波長五〇八メートル

後ニ、ニ〇 運動競技「関東軍対関西軍蹴球試合状況」(明治神宮外苑競技場より中継)”

とあって、第二放送(現在同様教育放送番組が多かった)で放送されたようです。全国中継されたかどうかは不明ですが、第二放送が全国中継であれば、最初に全国放送されたサッカー試合ということになります。試合は2-2の引き分けでした。この試合の名称は『読売新聞』見出しでは「東西優勝校蹴球決戦」になっています。以後は、

第4回:1932(昭和7)年12月12日(南甲子園運動場 慶應2-1京大) JOAK、JOBKともなし
第5回:1933(昭和8)年12月10日(明治神宮外苑競技場 早稲田5-2京大)JOAK第二放送あり(河西)

以下は放送の有無未調査。

第6回:1934(昭和9)年12月16日(南甲子園運動場 早稲田6-0京大)
第7回:1935(昭和10)年12月15日(明治神宮外苑競技場 早稲田12-2関学)
第8回:1936(昭和11)年12月13日(南甲子園運動場 早稲田3-2神商大)
第9回:1937(昭和12)年12月12日(明治神宮外苑競技場 慶應3-0京大)
第10回:1938(昭和13)年12月4日(南甲子園運動場 関学3-2慶應)
第11回:1939(昭和14)年12月10日(明治神宮外苑競技場 慶應4-2関学)
第12回:1940(昭和15)年12月8日(南甲子園運動場 慶應4-2関学)
第13回:1942(昭和16)年7月4日(明治神宮外苑競技場 東大8-1関学)

1933年12月10日の『読売新聞』ラジオ欄には

“第二放送
後一、五〇 関東対関西サッカー戦(河西)神宮競技場中継”

とあります。河西は「前畑ガンバレ」で有名な河西三省アナウンサーでしょう。ということは、JOAK最初のサッカー中継も河西アナだったかもしれません。

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JR東日本の新切符

JR東日本からツーデーパスが発売されます。連続する2日間で5,000円なので日割りでは2,500円。青春18切符との違いは適用ゾーン、特急利用可(要特急券)、他社線(航路)利用可といったところでしょうか。利用期間はナイター・シーズンなので、日帰りの場合、帰路新幹線、在来線特急を使えるのは朗報では。

東京からだと鹿島、水戸、栃木(宇都宮)、草津(前橋)、甲府あたりは完全にモトが取れそうです。フクアリへ行くのに久里浜→東京湾フェリー→浜金谷→蘇我と東京湾一周コースもありですね。

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1930年第9回極東選手権対中国戦の謎(続)

昨日取り上げた件については、JFAによる正史、日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社, 1974)もかなりページを費やして取り上げています。

“●蹴球選手権保留の経過

 第9回極東選手権競技大会は無事終了。日本は8選手権の中、5種目に優勝して再び天皇賜杯を獲得した。このたびの大会において注目すべきところは、日本軍の異常なる進歩向上で、この勢いで進めば、少なくとも勝敗に関する興味の点からは、今後の極東選手権大会の価値は減弱せられるものと考えられる。

 日本の蹴球も予想どおり良好な成績を表わし、比を7:2にて破り、29日の華との決勝戦は、3:3の引き分け、かくて種々協議の結果、日・華1等、比3等として、蹴球選手権は次回まで保留することになった。今、その経過を簡単に述べてみたい。極東大会蹴球規則については、1921(大正10)年、上海における第5回極東大会の委員会において次のごとき決定がなされている。

 It was moved by Mr.Osias, recorded by Mr.Smart and passed that the referee's decisions of the International Board of Football be officially adopted by Association and incorporated in the rules.

 しかし、これ以上にその細則なく、その後も毎回3国の申し合わせによって漠然と、ただ国際規則によるものとせられてきた。ただし、ゲーム中2名の補欠を許すことに対してのみ、極東規則として許されている。The FAの『Referees' Chart』第4条によれば、

  Text of the laws.

A game shall be won by the team scoring the greater number of goals. If no goals have been scored, or the scores are equal at the end of the game, the game shall be drawn.

 すなわち、延長戦に対しては何等の規則もない。しかしながら、別に極東選手権規則として、各種目ともこれを決定するまで試合するという項目がある。ここに蹴球委員会において、29日の日華決戦は無勝負とし、なお大会は2日を余すゆえに、再試合によってこの選手権を決定せんとしたのである。

 その夜日華蹴球委員集合して、再試合期日等についていろいろ談合したる結果、華委員は再試合を希望せず、日本委員もこれに賛意を表したので、 蹴球委員会としては比蹴球委員の了解を得てさっそく総務委員会にこれを申し出で、総務委員会は次の書面を日華両蹴球委員会に送って、再試合を中止し、結局日・華を1等、比を3等として、蹴球選手権は次回まで保留ということになったのである。

                                   May 30th, 1930

Football Committee of China,
Football Committee of Japan,
Present

Gentleman,

 The Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games hereby announce that on account of lack of time the tie game of Football between China and Japan contested on the 29th, May shall be declared drawn and not be replayed.

Yours trustly,

Ryozo Hiranuma
Chairman, Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games.

Y. Nozu
Chairman, Football Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games.
(野津謙)”(p.90-91)

文末に「(野津謙)」とあるので、この部分は野津が自ら記したようです。ドローゲームを再試合しない「公式」の理由は「時間がないため(on account of lack of time)」とされています。

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1930年第9回極東選手権対中国戦の謎

10回あった極東選手権で日本サッカーの対中国戦は1分け6敗、その唯一の引き分け試合が地元東京開催の第9回大会でスコアは3-3でした。日中ともフィリピンには勝っているので、順位は同率で優勝(『読売新聞』によれば2位 その翌日の記事では同率1位と報道)ということになったようですが、その経緯について日中に見解の相違があるようです。後藤健生氏の『日本サッカー史 日本代表の90年』(双葉社, 2007)では以下のように記されています。

“さて、両チームとも、これで1勝1分の同率となったのだが、こういう場合にどうするかについて大会規則には明確な規定がなかった。ただ、極東選手権規則の中に「各種目とも優勝者が決定するまで試合をする」という項目があるだけだった。主催者側の蹴球委員会は再試合を行おうとした。しかし、試合当日の夜に日本の野津謙委員、中華民国の馬約翰監督らが参加して、明治神宮外苑競技場の隣にあった日本青年館で協議が開かれ、この席で「再試合は行わず、選手権は次回に保留」という結論になった。日本側は再試合を行うつもりだったが、中国側は「日程も迫っているし、負傷者も多い、そして大接戦の後なので試合がラフになるおそれがある」などの理由で再試合を行わないよう提案してきたという。野津は中華民国側が「極東大会にとっては国際親善の方が大切である」と言い、日本側が同意したのだと語っている。

 なお、このエピソードについて、従来から日本側の資料には「中国が再試合を拒否した」というニュアンスで書かれている場合が多い。だが、香港で発行されたサッカー史書『球国春秋』には「日本側が再試合をしようとせず、中国と日本の同位優勝となったことははなはだ遺憾なこと」とある。今となっては、詳しい経緯を明らかにすることは不可能だが、少なくとも日本側と中国側に見解の差があることは認識しておくべきことだろう。”(p.48-49)

この件に関しては、『東京朝日新聞』、『読売新聞』両紙にも記事があります。まずは、『東京朝日新聞』1930年5月30日付け記事。

蹴球決勝中止し選手権保留 日華の協議で決定

 二十九日日華蹴球戦は三対三で引分になり再試合を行ふや否やについて日本側の役員野津氏、中華側から総監督馬約翰氏コーチ李瀚淦氏体協理事立会ひの上二十九日夜日本青年館において協議を行った結果、その選手権を次回の大会まで保留する事より比島側委員の諒解を求めた。

国際親善の為に 日本代表野津氏談

蹴球部日本代表総務委員野津謙氏は語る。

 試合が同点でタイム・アップとなったので日本側は再試合を行ふつもりでそのまま試合を中止し、両軍委員コーチと共に再試合について議した所、中華のコーチは最早期日も迫り両軍負傷者も多くあの大接戦の後であるから若き選手をエキサイトさせて試合をラフにさせたくない。再試合を行ひ強ひて選手権を決定するにも及ぶまい。優劣を争ふよりも極東大会にとっては国際親善の方が大切な事である。日華お互に手をとって世界の舞台へ乗り出そうではないか。この選手権は次回の大会において争ふ事にして保留しようといはれたので日本側もこれに賛成して岸会長今村氏等に報告し選手権を保留する事になった。決して両軍の意見が折合はなかったのではなく意見の一致を見たのでこれは寧ろ非常な美談だと私は思ふ。しかし両国のみで勝手に決定すべき問題でないので一応比島側の代表イラナン氏の諒解を求める事になったのである。規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない。

勝敗は第二の問題 中華コーチ李氏談

中華蹴球チームコーチ李瀚淦氏は語る。

 試合はご承知の如く日華双方の規則の解釈が異なって居た為一寸議論が起りましたが、両国代表間に行はれた会見の結果、試合は中止に決定し、選手権は次回大会まで留保される事となりました。是で日本も中華も互角となり、互に恨む事なしになった訳です。もともと極東大会は相互の親善といふ事が主眼であって勝敗は第二、第三の問題です。” 

後藤氏の記述と野津談話はほぼ一致しています。あるいは、後藤氏著作の上記部分の情報源はこの記事だったのかもしれません。『読売新聞』1930年5月30日付け記事は朝日とニュアンスが異なります。

延長説と再試合説折合はず 共に第二位

 日華蹴球戦は共に同成績で廿九日の試合の結果により極東選手権が決る筈のところ、三対三で引分けとなったため、日本側は極東規則に従ひ再試合を行ふ事として試合を終了したが、中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し、異常なる興奮の中に其儘各宿舎に引き揚げ、中華側応援団は蹴球は中華唯一の選手権の目標であるため極度に憤慨して「極東大会を脱会せよ」と叫び、日本青年館前を去らず紛糾して来たので、日本側役員は午後六時野津役員、馬中華監督、李コーチの会合を求め、協議の結果改めて体育協会理事の判定を受ける事となり、再び協議会が開かれたが、両国の説折合はず、遂に選手権は次回大会迄保留することとなり、共に第二位(比島第三位)となった。”

『読売新聞』では「日本:再試合vs.中国:延長戦」が対立したことになっています。試合は3-2でリードしていた日本が79分に追いつかれ、終盤は中国が押し気味だったようです。試合後、主将でCHの竹腰重丸は立って歩くことができず、田辺五兵衛が宿舎の日本青年館まで背負って帰ったというエピソードがあるほど日本チームは疲弊していて、延長戦になれば中国優位の展開になったと考えられます。中国側からすれば、日本が延長戦に応じず、一方的に試合終了にしてしまったことに不満が残ったようです。当日の夜に会合をしても、その時点では延長戦はありえず、決着をつけるとすれば再試合しかありえないわけですが、日本が一方的に主導権を握ることに中国側が反発した結果が、再試合なしの同率優勝だったのではないでしょうか。

朝日の野津談話中の“日本側は再試合を行ふつもりでそのまま試合を中止し”と“両国のみで勝手に決定すべき問題でないので一応比島側の代表イラナン氏の諒解を求める事になったのである。”は論理的に矛盾しています。日本が一方的に再試合を前提に試合を終了したことに問題があったことを認めているようなものでしょう。

この試合は8日間の大会日程の第6日で、再試合をするとすれば最終日の第8日が有力になります。第8日の日程をみると、水泳、ボクシング、閉会式のみなので、神宮外苑競技場は使えないことはなかったようです。

後藤氏の著作にあるように、両国のサッカー史では、最終決着をつけることに対して、ともに「相手が逃げた」ことになっているようですが、日本が延長戦を避け、中国が再試合を避けたのが、真相に近いのではないかという気がします。

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新規コンテンツをアップ

新規コンテンツ「我が国最初の日本サッカー史記述 1908(明治41)年刊行の『フットボール』の「我が国のフットボール」」をアップしました。

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最初(1908年)の日本サッカー史記述

最初の日本サッカー史に関する記述は、1908(明治41)年に刊行された、日本2番目のサッカー専門書、東京高等師範学校々友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書, 1908)の第一編 第二節 フットボールの歴史 (三)我が国のフットボール(p.11-15)でしょう。日本最初のサッカー専門書『アッソシエーションフットボール』(1903)は日本人最初の正式のサッカー試合の前年に刊行されており、日本サッカー史に関する記述はありません。

明治十一二年頃に体操伝習所でサッカーが教えられたこと、我が国の“フットボール”として蹴鞠があることを記した後、以下の記述になります。

“さて明治十一二年頃に体操伝習所でやってゐたフットボールは、我が国各地方に弘まったやうであるけれども、その法式は種々様々である。思ふに伝へ伝へて行く内に、誤って伝へ、或は自分勝手に法式をたてたものもあらう。これまで各地で行はれて居るのを見ると、実に千態万状であるが、多くは只徒にボールばかりあって、使ひ途を知らず、一つのボール追うて、数百人が押し合ふやうな乱暴な事をしてゐる。

 数年前東京高等師範学校で、更に正式にフットボールを始め、屡横浜の外人とマッチを行ひ、慶應義塾でも亦ラグビー式フットボールを始めて、横浜外人とのマッチを試みた。何れもまだ大に発展の余地がある。一昨年頃から東京府師範学校でも亦フットボールを始め、昨年の十一月に高等師範学校とマッチをした。惟ふにこれは我が国に於ける日本人同士のフットボール・マッチの始めであらう。続いて高等師範と慈恵医院医学専門学校とのマッチがあった。東京に於てこのやうに一時に勃興しつつあるのみならず、各地方に於ても亦頻にフットボールの声が高くなって、愛知県、山形県、福島県、茨城県、埼玉県等の各師範学校では、已に盛にやって居る。その他中学等でやってゐる所もあるし、又始めようとしてゐる所も沢山あるやうである。遠からずして各地に勃興するであらう。殊に今年二月の高等師範と横浜外人とのマッチに、高等師範が外人を破ってより、急にフットボールの声が高くなり、大いに勃興する形勢を現はして来た。”(p.13-15)

東京高師が正式のサッカーを始める以前にも「フットボール」や「フートボール」が行なわれていましたが、“これまで各地で行はれて居るのを見ると、実に千態万状であるが、多くは只徒にボールばかりあって、使ひ途を知らず、一つのボール追うて、数百人が押し合ふやうな乱暴な事をしてゐる。”というのが実態だったようです。

1908(明治41)年時点で“愛知県、山形県、福島県、茨城県、埼玉県等の各師範学校では、已に盛にやって居る。”とのことですが、日本サッカーにおける東高西低はその起源からであったようです。

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最初の高師対YCAC戦の新聞記事

1904(明治37)年2月6日、横浜で行なわれた東京高等師範学校対YCAC戦、すなわち日本人最初の正式のサッカー試合について、いくつかの邦字紙(『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『時事新報』など)と英字紙(『Japan Times』)を調べてみましたが、記事は見当たりませんでした。4日後の2月10日には日露戦争が開戦するという緊迫した国際情勢で、ロシア、満州情勢に関する記事が圧倒的に多かったです。横浜で行なわれ、しかも1-9の大敗だったので、東京の新聞社にとってニュースバリューがあまりなかったのではないでしょうか。

『慶應義塾体育会蹴球部百年史』(慶應義塾大学出版会, 2000)によれば、1901(明治34)年12月7日に横浜で行なわれた慶應対YCAC戦、すなわち日本人最初の正式のラグビー試合については、当時横浜で刊行されていた英字紙『The Japan Gazette』に試合内容の詳細が掲載されたとのことです。

サッカーの試合も地元横浜刊行の英字紙なら掲載されている可能性があるかもしれません。しかし、国会図書館の目録では1904年は欠号横浜市立図書館神奈川県立図書館Webcat Plusには所蔵がないようです。横浜開港資料館はオンライン目録がないので、所蔵の有無をインターネットでは確認できませんが、所蔵していてもおかしくはないので、そのうちに観光がてら行ってみようと思います。

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JOBK史の本に最初のサッカー中継の記述はなし

NHK大阪放送局七十年史編集委員会企画・編集『こちらJOBK : NHK大阪放送局七十年』(日本放送協会大阪放送局, 1995)に1930(昭和5)年12月28日の最初のサッカー中継に関する記述はありませんでした。

最初の野球中継(最初のスポーツ中継でもある)も同局で、1927(昭和2)年8月13日午前9時5分「第13回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)」第1日とのことです。対戦校に関する記述はありませんが、新聞DBを調べたところ、札幌一中対青森師範の北国対決で、4-1で札幌一中が勝っています。担当アナウンサーの魚谷忠は第2回の同大会で準優勝した市岡中学の三塁手だったとのことです。

春団治のJOBK出演は「桂春団治ラジオ出演事件」(p.50-51)として取り上げられています。借金で首の回らなかった春団治に破格の条件を示して出演を承諾させた切れ者は奥屋熊郎という人で、JOAK(東京)文芸課長の久保田万太郎と東西で張り合っていたそうです。

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