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戦後の東西大学王座決定戦

関東、関西両学生リーグの覇者が対決する東西大学王座決定戦(正式名称ではない)は昭和40(1965)年まで続きました。また、1952年度に始まった大学選手権は1965年までオープン参加の大会でいわゆる「チャンピオンシップ」ではありませんでした。1966年から大学選手権は名実ともに大学No.1を決定するチャンピオンシップになります。

以下の出拠:大谷四郎 大学サッカー日本一! (サッカー、きのう、きょう、あす;52) 『イレブン』1979年1月号 p.168-169

東西大学王座決定戦                大学選手権

1946(昭和21)年 早稲田2-0神戸経済大
1947(昭和22)年 早稲田4-1関学
1948(昭和23)年 関学2-0東大
1949(昭和24)年 早稲田4-2関大
1950(昭和25)年 早稲田1-1関学
1951(昭和26)年 関学2-1早稲田
1952(昭和27)年 慶應3-2関学           東大2-1早稲田
1953(昭和28)年 関大3-0東教大          立教4-2中央
1954(昭和29)年 立教1-1関学           東教大2-1中央
1955(昭和30)年 関大3-1早稲田          早稲田10-1東北学院 
1956(昭和31)年 早稲田4-1大経大        東教大2-1早稲田
1957(昭和32)年 早稲田2-0関学          中央3-0明治 
1958(昭和33)年 早稲田4-2関学          明治1-0中央 
1959(昭和34)年 立教2-0関学           中央5-1法政
1960(昭和35)年 関学2-1早稲田          中央3-0法政  
1961(昭和36)年 関学1-0中央           慶應2-1早稲田
1962(昭和37)年 中央2-0関学           中央2-1立教
1963(昭和38)年 早稲田2-0関学          慶應3-2明治 
1964(昭和39)年 明治2-0関大           日大1-0中央
1965(昭和40)年 早稲田2-0関学          中央3-1立教 

1965年までの大学選手権について大谷氏は以下のように記しています。

“・・・実はその第1回は全国大学大会と呼んで発足し、仕組みは地域代表制でなく、自由参加制だったのだ。またこの大会を開催した趣旨は、互いの交流もなかった東西リーグ以外の地方勢に他地域のチーム、とくに中央のチームとの試合チャンスを作り刺激を与えて地方勢の向上を図ろうとするものだった。

 しかし開いてみると21校のエントリーで2校が棄権し、出場チーム中の地方勢は8校、関西からは二部リーグの1校だけ、あとは関東リーグでその一部校はすべて出場したが、大部分は翌年用の新メンバーだった。これで東大優勝の事情もわかろうと思うが、大会を盛り上げようとする日本協会はそのあと一年か二年で無理に大会名を全国大学選手権大会と改めた。

 しかし地方勢の関心をさらにひくためにも自由参加制はそのまま続けられた。そうして出場校は年年増加して40年度には50校に達したが、相変わらず関東リーグ一部校には出場しないものもあれば、出場しても翌年の新メンバーのチームが多かった。また関西リーグからはことに少なく、40年度までの自由参加制14回のうちに不出場6回、出場した年もせいぜい1~3校程度で、うち一部校は延べ3校にとどまった。

 つまりこうした状況では、大会は選手権大会と呼んでも制度的にも競技レベルでも内容は選手権大会といえるものでなかったのである。

 したがって、その優勝チームを日本一とはとうていいえるものではなかった。

<中略>

 なぜこんなことをいうのかのもう一つの理由は、すでに東西一位対抗の存在を知らないファンの方が多くなりかけているし、こうした事情を知ることができるまとまった公式の記録も日本協会にはないだろうから、ほうっておけば大学サッカーの歴史が誤って伝えられるからである。”

最近、中央大学学友会サッカー部OB会編『中央大学サッカー部80年史』(中央大学学友会サッカー部OB会, 2008)と『闘魂90年の軌跡 : 東京大学のサッカー : 東京大学ア式蹴球部90年記念誌』(東大LB会, 2008)を拝読する機会がありました。

上記のように、中大は1962(昭和37)年度の東西大学王座決定戦で関学を破って「大学日本一」になっているのですが、中大サッカー部史の「Ⅱ 戦績とエピソードで綴る80年」の「昭和37年度 1962 戦績」(p.133-134)には、

“戦績
1. 天皇杯 優勝/中大2-1古河電工
2. 中・教定期戦 中大1-0教大
3. 全日本大学選手権 優勝/中大2-1立教
4. 関東大学リーグ戦 優勝/明大と同勝点により、決定戦を行なった。”(p.133)

とあるだけで、東西大学王座決定戦の対関学戦は記録されておらず、大学選手権の方が記載されています。

一方、東大のサッカー部史では「座談会 第1回大学選手権を語る」(p.68-76)の小見出しに

「大学日本一」への足どり”(p.72)

があります。なお、座談会出席者(岡野俊一郎氏ほか13名)の発言中に「日本一」、「大学ナンバーワン」に類する発言はなく、小見出しの「日本一」がせめて「大会優勝」だったら、「さすが東大、ワキが固い!」というところなのですが・・。泉下の大谷氏(東大ア式蹴球部OB)のご感想をうかがいたいところです。

戦後の東西大学王座決定戦と大学選手権の位置づけが混乱しているため、大学サッカー部史に過去の戦績の過小・過大評価が見受けられます。大谷氏の“ほうっておけば大学サッカーの歴史が誤って伝えられるからである。”という懸念は現実化しつつあるようです。

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