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織田幹雄著『わが陸上人生』

(新日本出版社, 1977)によれば、織田は1905(明治38)年広島県海田市町生まれ。鈴木重義は3歳上、竹腰重丸は1歳下になります。1918(大正7)年広島一中入学、最初は蹴球部に入ります。

“当時の広島一中は、サッカーが全国で一、二位をきそうほど強かったので、私は一も二もなくサッカー部に入った。背は低かったが、小学生のころ、陸上の郡大会の二〇〇メートルで優勝したこともあって、足には自信があった。そこでウイングやフルバックのポジションにつかされて練習していたが、ようやく来年から選手になれるという三年生のときであった。私の一生を左右する運命が訪れたのである。”(p.30)

1920年のアントワープ五輪に十種競技で出場した野口源三郎が広島師範で行なう講習会に、一中から選ばれて参加したことがきっかけとなり、4年生の新学期から新設された徒歩部(陸上部)に入部し、サッカーから陸上に転向します。

その後もサッカー関係者とは不思議に縁があり、最初のサッカー日本代表の一人、佐々木等から同中で走り高跳びの指導を受けています。

“そんなときであった。サッカーの極東大会に出場したチームが広島にやってきたのだが、そのなかに陸上選手でもあった佐々木等さんという人がいた。そのことを知って、私たちは彼に指導をたのみ、練習をみてもらうことになった。

 私は張りきり、この練習で走り高跳びでこれまでの自己最高で日本記録を上回る1m70を跳んだ。佐々木さんは「ほう、こんなに強い選手がいたのか」とおどろき、あとで私のことを当時のスポーツ雑誌「運動界」に紹介した。”(p.36)

織田はパリ(1924年)、アムステルダム(1928年)の両五輪に出場し、アムステルダムでは日本最初の金メダルを獲得しますが、この両五輪の陸上競技監督は、やはり、最初のサッカー日本代表の一人、竹内広三郎でした。

p.124に「オリンピック優勝記念のトロフィづくり(戦争中に行方不明)」というキャプションのある写真が掲載されていますが(本文中にこの写真への言及なし)、織田をモデルに制作中の人物は日名子実三であると思われます。

織田は中学進学も躊躇するほど家庭が豊かではなかったので、学費のいらない広島師範臨時教員養成所に進学します。しかし競技会続きでほとんど出席できなかったので、奨学金をだしてくれる早稲田に編入します。「回り道」したせいで、アムステルダムで世界の頂点を極めたのは大学在学中(1年)でした。

極東大会レベルで低迷していたサッカーを始めとするオリンピック競技に携わっていた大学生たちにとって、日本人でも世界を極めることが可能なことを実証した「織田ショック」(スプートニク・ショックのような)が大きな衝撃であったことは想像に難くありません。アムステルダム五輪の翌年1929年の大日本蹴球協会理事改選で、大学系が師範系を駆逐した「クーデター」の契機となったのはこの「織田ショック」ではないでしょうか。

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