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啓蒙番組?

BS特集 証言ドキュメント 日本サッカーの50年

5月2日(日)午後9:00~、3日(月)~5日(水)午後10:00~
5月2日(日)午後9:00~9:50「第1回 世界との出会い」
5月3日(月)午後10:00~10:50「第2回 迷走の22年」
5月4日(火)午後10:00~10:50「第3回 新世代の台頭」
5月5日(水)午後10:00~10:50「第4回 立ちはだかる真の世界基準」

ワールドカップ出場は当たり前という世代に「WCのことは夢のまた夢」という時代があったこと、「出られるだけでも幸せ」ということを啓蒙する番組のような・・・

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大正期中学校のパブリック・スクール志向

『静岡県教育史. 通史篇 下巻』(編集:静岡県立教育研修所 静岡県教育史刊行会 1973)の「第6章 大正デモクラシーと新教育運動」中の「新しい中学校教育を求めて」の項

“その他新設校の浜松二中は、若き紳士の育成をモットーとし、イギリスのパブリック・スクール、イートンを目標とした。三種の神器を象徴した徽章は知・仁・勇を示し、徳は自律自治の特性を養い、生徒の自習を尊重し、自敬心を喚起し実践躬行の良習を養い、知は堅実な知識技能に熟達して、その活用と応用を目指す研究的態度を重んじ、勇は節度を重んじ剛毅にして快活、活発な若人として、秩序・協同を尊ぶ精神を養うことを目的とした。”(p.99-100)

『広島一中国泰寺高百年史』(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編 母校創立百周年記念事業会 1977)の「第四章 県中時代前期 第三節 弘瀬校長と県中精神」中の「弘瀬校長語録」というコラム。

“ナポレオンをウォータールーの戦いで破った英国のウェリントン候がイギリスに凱旋した時、母校イートン(英国の名門校)を訪れ、「ウォータールーの勝利の原因は実にこのイートンの運動場にある」(わが中学校に学ぶ者が次代の日本を背負うて立つ者だとの信念があったという)”(p.195)

『愛知県立刈谷高等学校公式HPの「国際交流」』

“刈谷高校は大正8年(1919年)、愛知県における旧制中学の一つとして創立された男子校であった。東京大学で西洋史を専攻した初代校長羽生隆先生は、刈谷高校創設の際、イートン校をそのモデル校とし、当時この愛知県でとても盛んであった野球を禁止し、生徒にサッカーを奨励したと言う。また、当時としては他に例のないことだが学内に寮を建築した。その寮の跡を示す石碑が今も北門入って右側の自転車置き場の奥にある。「イ-トンに学べ、東海のイ-トンとなれ」という初代校長の創立の心を交流という形に具体化したのは、昭和63年(1988年)の刈谷高校創立70周年記念行事であった。イートン校サッカー部、柔道部を刈谷高校へ招待することから、創立当時の夢であったイートンと刈谷の交流が始まったのである。”

本ブログの「『トム・ブラウンの学校生活』の日本における受容」に記したように、明治・大正期にはトム・ブラウンは原書、和訳ともかなり読まれており、パブリック・スクール教育に対する理解もある程度普及していたと考えられます。

しかし上記3中学はラグビー校でなく(ハローでもウィンチェスターでもない)、イートン校をモデルにしています。広島一中の例に出てくる「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った(The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton)」が影響していたようです。当サイトの「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った」ではその引用句の原典を考察していますが、日本でこの引用句を決定的に普及させたのは誰(文献)なのか、未だわかっておりません。

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『静岡県教育史』における志太中学(現・藤枝東高校)

『静岡県教育史. 通史篇 下巻』(編集:静岡県立教育研修所 静岡県教育史刊行会 1973)の「第6章 大正デモクラシーと新教育運動」中の「新しい中学校教育を求めて」の項に以下の記述がありました。

“志太中学は大正十三年創立されると、まもなく蹴球を校技とした。校長錦織兵三郎は「運動競技の目的は体育の振興と精神作興の二方面である。時間浪費が少なく比較的短時間にその目的を達成するものが望ましいので、当時行われていた競技・庭球・野球の長短を厳に考慮したうえ、特に精神作興をバックとしながら運動量・男性的進取の気性・連帯共同性および未発達競技の将来性への期待からサッカーを校技として奨励した」と述べている。通学時にも全校生徒に蹴球靴をはかせ一〇のチームを作って盛んに練習をおこなわせたといわれる。また当時野球熱がすざまじく町議員の野球部創設働きかけをしりぞけたため校長は転勤されたといわれている。大正時代この学校の一卒業生の回顧によれば、草刈・整地・植樹・プール造り等、毎日鎌・鍬をもっての登校であったという。”(p.99)

テニス、野球に対して、サッカーの「定時制」そして“精神作興をバックとしながら運動量・男性的進取の気性・連帯共同性および未発達競技の将来性への期待”が校技化への決め手になったようです。

錦織兵三郎は東京高師1909(明治42)年卒、日本サッカー殿堂入りしている内野台嶺、御影師範にサッカーを伝えた玉井幸助、滋賀県サッカーの祖落合秀保と同期で、1908(明治41)年の対YCAC戦初勝利時に在校していました。自身は蹴球部員ではありませんでしたが、在校時にサッカーを知ったはずです。そのことが静岡県サッカー史のみならず日本サッカー史にも多大な影響を与えたのです。→「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書

当時野球熱がすざまじく町議員の野球部創設働きかけをしりぞけたため校長は転勤されたといわれている。”とは、「野球ファンの地方議員に錦織校長が逆らったので飛ばされた」という意味でしょう。大正時代の新設校で、サッカーを校技化した刈谷、志太、湘南、東京府立五中は、野球部を作らせなかった点でも共通してるのですが、人気のある野球部を作ると学外の人物が学校に干渉してくる(現在でも珍しいことではない)のを嫌ったのも一因でしょう。

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旧制大学・高校の4月始業化

大正9(1920)年まで、帝国大学・高等学校は9月始業でした。例えば、『第一高等学校一覧 自大正9年至10年』の「学年、学期及休業」の第一条は

学年ハ九月一日ニ始マリ翌年八月三十一日ニ終ル(今学年ニ限リ三月三十一日ニ終ル)”

となっていて、大正9(1920)年度は変則的に9月始業、翌年3月終業と半年短縮されています。翌年度の『第一高等学校一覧 自大正10年至11年』の「学年、学期及休業」の第一条は、

学年ハ四月一日ニ始マリ翌年三月三十一日ニ終ル

となっていて、今日と同様になっています。明治から大正にかけて、高等教育が欧米同様9月始業であったのは、日本の高等教育の開始に際してお雇い外国人に依存していたので、欧米人との雇用契約の関係で秋始業が採用されたのではないかと推察されます。

しかし、初等・中等教育は明治時代から4月始業でした。高等教育機関でも文部省直轄学校は4月始業で、例えば、『東京高等師範学校一覧 明治30-32年』の「学暦」では、

四月十六日 本校第一学期始マル

となっています。1918年の大学令により、私立大学や単科大学にも大学昇格の道が開け、高等教育の始業・終業時期を統一する必要にも迫られたのでしょう。東京高等師範学校は1929年に東京文理大学に昇格しています。

サッカーの秋春制について、学暦との整合性も問題にされますが、皮肉にも大日本蹴球協会が設立された1921年の前年までは、高等教育に限れば学暦は“グローバル・スタンダード”だったのです。

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