『静岡県教育史. 通史篇 下巻』(編集:静岡県立教育研修所 静岡県教育史刊行会 1973)の「第6章 大正デモクラシーと新教育運動」中の「新しい中学校教育を求めて」の項
“その他新設校の浜松二中は、若き紳士の育成をモットーとし、イギリスのパブリック・スクール、イートンを目標とした。三種の神器を象徴した徽章は知・仁・勇を示し、徳は自律自治の特性を養い、生徒の自習を尊重し、自敬心を喚起し実践躬行の良習を養い、知は堅実な知識技能に熟達して、その活用と応用を目指す研究的態度を重んじ、勇は節度を重んじ剛毅にして快活、活発な若人として、秩序・協同を尊ぶ精神を養うことを目的とした。”(p.99-100)
『広島一中国泰寺高百年史』(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編 母校創立百周年記念事業会 1977)の「第四章 県中時代前期 第三節 弘瀬校長と県中精神」中の「弘瀬校長語録」というコラム。
“ナポレオンをウォータールーの戦いで破った英国のウェリントン候がイギリスに凱旋した時、母校イートン(英国の名門校)を訪れ、「ウォータールーの勝利の原因は実にこのイートンの運動場にある」(わが中学校に学ぶ者が次代の日本を背負うて立つ者だとの信念があったという)”(p.195)
『愛知県立刈谷高等学校公式HPの「国際交流」』
“刈谷高校は大正8年(1919年)、愛知県における旧制中学の一つとして創立された男子校であった。東京大学で西洋史を専攻した初代校長羽生隆先生は、刈谷高校創設の際、イートン校をそのモデル校とし、当時この愛知県でとても盛んであった野球を禁止し、生徒にサッカーを奨励したと言う。また、当時としては他に例のないことだが学内に寮を建築した。その寮の跡を示す石碑が今も北門入って右側の自転車置き場の奥にある。「イ-トンに学べ、東海のイ-トンとなれ」という初代校長の創立の心を交流という形に具体化したのは、昭和63年(1988年)の刈谷高校創立70周年記念行事であった。イートン校サッカー部、柔道部を刈谷高校へ招待することから、創立当時の夢であったイートンと刈谷の交流が始まったのである。”
本ブログの「『トム・ブラウンの学校生活』の日本における受容」に記したように、明治・大正期にはトム・ブラウンは原書、和訳ともかなり読まれており、パブリック・スクール教育に対する理解もある程度普及していたと考えられます。
しかし上記3中学はラグビー校でなく(ハローでもウィンチェスターでもない)、イートン校をモデルにしています。広島一中の例に出てくる「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った(The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton)」が影響していたようです。当サイトの「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った」ではその引用句の原典を考察していますが、日本でこの引用句を決定的に普及させたのは誰(文献)なのか、未だわかっておりません。