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「Kariya High School」『親善交流 イ-トン校刈谷高校 1990・1994』

愛知県立刈谷高等学校HPの「国際交流」のページ「イ-トン校との国際交流」を記録した冊子『親善交流 イ-トン校刈谷高校 1990・1994』が刈谷市立図書館にありました。英文で刈谷高を紹介した「Kariya High School」の冒頭は以下のとおり。

“kariya High School(KHS) was founded as one of the secondary schools in Aichi Prefecture in 1918. It was aschool for boys aged 12 to 17. (There were not more 30 secondary schools in Aichi at that time, though today there are neary 200.) Mr. Takashi Hanyu, the first headmaster, who had majored in English history at the University of Tokyo, regarded Eton College as an ideal model in laying the foundation of KHS. He prohibited his students from playing baseball, which was very popular especially here in Aichi Prefecture, and encouraged them to play soccer. He also built a domitory in the school campus, which was quite unique in those days. Under the school motto "Shitsujitsu Gouken" (Be simple and sincere in the way of living. Be sound and strong in mind and in body), he encouraged his students to improve not only in scholarship but also in sports. Every day in spring and autumn both teachers and students made it a rule to run four miles after daily course of lessons.

7 or 8 years after its foundation, hearing of the excellent education of KHS, a high government official sent his son as far as Kariya to have him educated in KHS. This made KHS win reputation even in Tokyo. As for the groundwork at the very early period of KHS, we owe a great deal to Mr. Eiji Takahashi (4th headmaster), who followed the teaching profession since its foundation for the total period of 12 years as master, deputy-headmaster and headmaster. ”

東大で英国史を専攻した初代校長羽生隆はイートン校をモデルとし、野球を禁止し、サッカーを奨励したことが記されています。羽生の校長在任は1919年1月17日~1920年6月29日と1年半弱で、愛知一中(現・旭丘高)に「栄転」してしまいます。2代目、3代目校長も短期間で転任したので、学校運営の中心となったのは、創立期からの教員で、教頭、第4代校長を務めた高橋英治でした。蹴球部創部時からの実質的な指導者も高橋だったそうです。高橋は東京高等師範学校1914年卒、原籍地は群馬県で、出身校は千葉師範。ご子息に日本代表選手、監督、またJSL時代に「走る日立」の監督として一世を風靡され、サッカー殿堂入りされている高橋英辰氏がいます。サッカーの指導者が校長になるという、国見高みたいなパターンでサッカーが校技化されたようです。

イートン校生を招へいしたり、刈谷高生をイギリスに派遣したりするのに多額の費用が必要なはずですが、『親善交流 イ-トン校刈谷高校 1990・1994』の広告をみると、豊田自動織機やデンソーなどの刈谷市に縁の深いトヨタグループ企業が負担したようです。おそらく刈谷高OBにトヨタグループ幹部が多数いて、協力したのではないでしょうか。カンバン方式(トヨタ生産方式)の生みの親故・大野耐一トヨタ自工副社長も刈谷高OBとのことです。

Jリーグの母体となったJSLは丸の内御三家をはじめとして大部分が興業とは無関係のメーカー系大企業ですが、大学から実業団への普及に際して、刈谷→トヨタや広島御三家(国泰寺、広大附、修道)→マツダ(東洋工業)のように、サッカーを校技とする地元進学校人脈が大きな役割を果たしたのかもしれません。

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石川二郎「錦織先生とサッカー」『藤枝東高五十年史』

先週末刈谷と藤枝に行ってきました。藤枝東の校史に以下の文献がありました。

「錦織先生とサッカー」(志太中5回 石川二郎) 『藤枝東高五十年史』(静岡県立藤枝東高等学校/編 藤枝東高等学校創立50周年記念事業実行委員会 1974) p.109

“志太中の思い出は、やはり錦織先生と蹴球から始まる。"新興の意気""精力集中"を説かれたお顔や、一緒に作業をされたお姿がなつかしく思い出される。全校生徒の毎週の反省禄に眼を通され感想を記入されたことは、大変な御努力ではなかったかと思う。

 先生は私たちが3年生の9月に伊豆の中学に突然御転任になったが、その理由が蹴球だけやって野球をしなかったことに対する地元有力者の反対によるものだということで、僕らは憤慨した。次の石井校長の野球のすすめはおだやかだったが、全生徒によって拒まれた。

 5年生の時のサッカーの主将は松永行君で、全国大会では決勝までいって惜敗した。担任の稲葉先生が教室で「松永がかわいそうだ」と言われてハンカチで涙を抑えられた光景は、今も記憶に鮮やかである。松永君は東京高師に進学、昭和11年のベルリンオリンピックに出場し貴重な得点をあげ名選手の誉を高めたが、惜しくも大東亜戦争の花と散った。
(日本学校給食会常務理事)”

先生は私たちが3年生の9月に伊豆の中学に突然御転任になったが、その理由が蹴球だけやって野球をしなかったことに対する地元有力者の反対によるものだということで、僕らは憤慨した。”というのは、『静岡県教育史』の“また当時野球熱がすざまじく町議員の野球部創設働きかけをしりぞけたため校長は転勤されたといわれている。”という記述を裏付けています。

新校長の野球のすすめを全生徒が拒否するほど、サッカーが校技として浸透していた、という記述も面白いですね。さすが藤枝東!

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新発見! Ancestry.comにおけるチョー・ディンの履歴

日本サッカー殿堂にも掲額されているチョ―・ディンの履歴については、当サイト「チョウ・ディン関係資料集」収録の「豊島梢著「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」『運動界』4巻9号(1923年9月)p.127-129」に、

“「私は蹴球に就いては十五ボールのポケット付の玉突よりランニングハイジャムプよりも経験が多いだけに自信がある」と小学校時代の思ひ出話から戦争中エジプト、メソポタミヤ等で英国の聯合ティームを破った得意の話を随分長い間聞かされました。”

とあって、第一次世界大戦中に英国軍兵士として中東戦線で従軍したことは間違いないようです。

Ancestry.comで、First & Middle Name(s):Din、Last Name:Kyaw、と入力して、「Search」ボタンをクリックすると、

British Army WWI Medal Rolls Index Cards, 1914-1920
Military
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がヒットします。第一次世界大戦時の英国陸軍の軍功?名簿に記載があるようです。原文にアクセスしてませんが、学歴はともかく軍歴(所属部隊等)情報は得られるのではないでしょうか。「14日間無料トライアル」とありますが、画面を進めていくと、「契約したら14日分無料」らしくて、カード情報のところで止めました。

First & Middle Name(s):Walter、Last Name:de Havilland、だと、船客名簿に混じって、ケンブリッジ大学の卒業生名簿やチャンネル諸島のセンサス等があります。

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