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硫黄島サッカー

守りに守り、耐えに耐えた硫黄島戦のような戦いを見せてくれました。バンザイ突撃の「攻撃サッカー」ではなく、リアリズムを伴った守備的サッカーができること、そしてそれが世界に通用することが証明されました。岡田監督が栗林中将に見えました。

アジア予選でバーレーンなどとやる場合のボール・ポゼッション率と本大会のボール・ポゼッション率が極端に異なるので、「攻撃サッカー」と「守備的サッカー」の是非をウンヌンするのはまったく無意味です。状況に応じた戦術と選手の選択こそ日本代表監督に求められる資質だと思います。

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大相撲賭博

相撲協会は大相撲賭博を公認ではなく、義務化すべきでしょう。ただし、賭けの対象は「自分の取組」で、賭金は横綱100万円、大関50万円、三役30万円、幕内20万円、十両10万円・・・とし、勝った方の総取りはどうでしょうか。力士の所属する部屋の親方、関取にも相応の賭金を「強制」します。

他の博打に金を賭けている場合ではなくなり、なによりガチンコ相撲が増えて、土俵が活性化します。「星を売ること」は部屋に迷惑をかけることになります。

力士や親方が相撲の取組ではなく、野球の試合に金を賭けていること自体、相撲の八百長疑惑を証明しているようなものでしょう。暴力団が大相撲賭博を資金源にしているというはなしも聞きません。星の貸し借り、売買がなかば公然化していて、ハンデ(オッズ)のつけようがないし、仮に開帳したとしても客が寄り付かないからでしょう。

もうサッカーに前例があるので、文科省は大相撲クジも販売すればよいでしょう。サッカーと違って引分はないし、幕内以上の全取組はNHKがTVとラジオの地上波で放送してるし・・・

今回の事件で警察と文科省は天下り先が増えそうな気配です。郵便局で大相撲クジを売ることにすれば総務省も大喜び!

大相撲健全化の指標は、大相撲賭博が暴力団の資金源化しているかどうか、なのですw

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アウェーに強い南米

南米のブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイがすべて1次リーグを突破しました。南米予選でボリビアやエクアドルのような「標高力国家」とアウェーで対戦しているので、1,500mくらいは高地のうちにはいらないんでしょうな。主力選手は日常的にヨーロッパでアウェー環境になじんでいます。自国リーグが空洞化せず、若いタレントがすぐに補充され、新旧交代もスムーズに進んでいるようです。

韓国はウルグアイ、日本はパラグアイと対戦しますが、仮に両方とも南米勢に負けたとしても、2勝している日本が1勝1分の韓国を史上初めて上回ることになります。16強に2国進出して「アジア枠」問題が片付いているとすれば、今晩は「韓国負けろ、韓国負けろ、韓国負けろ、・・・」という念を発しながら観戦することになりそうです。

波多野勝著『裕仁皇太子ヨーロッパ外遊記』(草思社,1998)を読書中ですが、昭和天皇は皇太子時代杉浦重剛に倫理を学んでいたそうです。

“倫理の科目は毎週二時間で、第一回目は「三種の神器」、以後「日章旗」、「国」、「兵」、「神社」、「米」、「刀」、「時計」、「水」、「富士山」、「相撲」、「鏡」を題材に講義がおこなわれた。”(p.19)

倫理の題材に相撲があるのが笑えます。

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歴史的勝利!

でしたな。立ち上がり、デンマークに速いテンポでワイドにパス回しされ、コレクティブな守備ができず、どうなるかと思いましたが、FKで得点してから流れが変わりました。デンマークは1対1の局面を作っても、思ったほどたいしたことなかった(日本DFが健闘した)印象を受けました。

日本サッカー界にあったある種の「閉塞感」を打開した勝利でしょう。

これで後藤健生氏の『日本サッカー史』の新版が出ればうれしいです。

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東京朝日新聞「野球と其害毒」における永井道明

「野球と其害毒」は『東京朝日新聞』1911(明治44)年8月29日~9月19日にわたって22回連載されたアンチ野球キャンペーンですが、永井道明東京高等師範学校教授が1911年9月4日の第7回に登場しています。永井は6年後に結成される東京蹴球団の初代団長、10年後に設立される大日本蹴球協会の初代理事に就任することになる、この連載唯一のサッカー関係者です。

▲運動の本旨を没却せる日本の野球
▽永井東京高等師範教授談

私は日本現在の野球に就て幾多の異議がある。総じて運動の目的は体力の養成にあらねばならぬ、即ち青年学生を疲労衰弱せしめてはならぬのだが、現在の状態では野球は面白いから学生が耽り易く、従って大切な時間を空費し、身体を疲労衰弱せしめる迄に至って居る。野球選手が学科の出来ぬのは此理由からである。

▲運動堕落の径路 精神上から云ふても昨今日本の野球は余りに勝負に重きを措き過ぎて居るから、種々の弊害がある。相手を怒らす様な拍手や弥次り方をしたり、悪口を云ったり、相手の行動を妨害する様な卑劣な行為が選手によって行はれて居る。由来選手とは沢山の運動者遊戯者中より試合の時に選ばれたるものと云ふ意味である。然るに次第に勝負に重きを置く結果、特殊家と称して或る特定の者のみが運動をし、他は見物人になると云ふ傾向を生じ、終には商売人が生じ、入場料を取って見せる様になる。特殊家及び商売人が生ずると云ふ事は、運動で青年学生の心身を鍛練すると云ふ運動本来の目的からは大なる堕落である。日本の相撲、米国の野球商売人が其好適例である。日本にも現時此悪傾向が見られて来た。

▲下劣大学の排斥 米国大学では野球選手が学生らしくあらん為に非常に苦心して居る。其為には先づ選手は七十点位以上取らなければ選手にはなれぬ。又少しでもチームが商売人らしい行動、例ば試合をして報酬を貰ふ様な事があるとか或は商売人と試合したとか云ふ事になれば、他の大学は其大学を堕落した者として試合を拒む。米国でも特に東部ななる程学生野球の風儀がよく、西部には堕落せる傾向が多い。慶應義塾が招いたり招かれたりしたウイスコンシン大学は商売人化して居るとて他の大学で試合を快諾しなかった事がある。斯の如く大学間で下劣大学を排斥した事は、私の滞米中に二三回あった。市俄高大学は中部に在る故にウイスコンシン大学よりは上品である。

▲生徒が憫然だ 日本の野球は私の実際に見た処、又は報告記事等を綜合して考へると如何にも米国西部の堕落したる野球に似て居る。日本人の直に熱狂すれば前後を忘却する欠点が日本の野球にもよく現れて居る。古来武士は堪忍を重んじて容易に刀を抜かぬ事を誇りとして居た位だが、今日の日本の野球界の状態はを見ると選手に堅忍持久の気なく、気が早く勝負に重きを置いてコセつき、弥次が下品である。東部米国大学及び英国のクリケット蹴球の競技は決して日本の如く不作法下品なるものでなくして堂々として実に礼儀正しい。負けても失望せぬ。勝っても泣いたり笑ったりせぬ。米国大学でも試合の時に入場料を取る。併し米国の法律は之を興行とは見て居らぬが、日本の法律では明かに興行であって、日本人として考へれば学生が入場料を取ることは大なる教育上の問題だ。野球を或利益の手段に利用する学校の如きに至って論外で、犠牲にさるる学生は只一言憫然だと云ひたい。”

このキャンペーンの第1回で一高校長新渡戸稲造が、

“野球と云ふ遊戯は悪く云へば巾着切の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。”

と述べて野球と蹴球を対比していますが→「新渡戸稲造談『野球と其害毒』」、永井も、

“今日の日本の野球界の状態はを見ると選手に堅忍持久の気なく、気が早く勝負に重きを置いてコセつき、弥次が下品である。東部米国大学及び英国のクリケット蹴球の競技は決して日本の如く不作法下品なるものでなくして堂々として実に礼儀正しい。負けても失望せぬ。勝っても泣いたり笑ったりせぬ。”

と野球に対する蹴球の優位を主張しています。

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1932年頃の各種中等蹴球大会

蹴球年鑑 1932年版』収載の各種中等蹴球大会は以下のとおり 右は優勝・準優勝チーム名。

第15回全国中等学校大会(全国中等学校蹴球選手権大会) 1933年1月 南甲子園 神戸一中 青山師範
関西大学主催第6回全国中等学校大会 1932年4-5月 関大 御影師範 甲陽中
富山薬専主催北陸近県中等学校大会 1932年5月 富山薬専 富山師範 富山中
池田師範主催関西中等学校大会 1932年5-6月 池田師範 御影師範 天王寺師範
高松高商主催第5回近県中学校大会 1932年6月 高松高商 関学中 甲陽中
六高主催第1回近県中等学校大会 1932年8月 六高 修道中 岡山二中
関学主催第8回中等学校大会 1932年8月 関学 御影師範 甲陽中
岐阜蹴球団主催第10回中等学校大会 1932年7月 岐阜中 岐阜師範 甲陽中
東京文理大主催第9回全国中等学校大会 1932年8月 神宮 第1部 東京高師附中 志太中
同                                     第2部  京都師範 埼玉師範
東北学院主催北日本中等学校大会 1932年8月 東北学院 仙台一中 仙台二中
和歌山高商主催第6回関西中等学校大会 1932年9月 和歌山高商 都島工 京都師範
水戸高校主催茨城近県中等学校大会 1932年9月 水戸高 埼玉師範 宇都宮中
桐生高工主催群馬近県中等学校大会 1932年9月 桐生高工 不動ヶ岡中 浦和中
広島学連主催第12回全国中等学校大会 1932年10月 広島高 広島一中 修道中
松本高校主催近県中等学校大会 1932年9月 松本高 韮山中 岐阜中 
松山高校主催関西中等学校大会 1932年1月 松山高 松山中 愛媛師範 
五高主催全国中等学校大会 1932年1月 五高 熊本師範 佐賀師範 
埼玉蹴球団主催第6回近県中等学校大会 1932年1月 埼玉師範 埼玉師範 栃木師範
関門日日新聞主催第3回近県中等学校大会 1932年12月 長府球場 豊国中 山口中
天王寺師範主催第8回近畿中等学校大会 1933年2月 天王寺師範 姫路師範 都島工
北九州体育指導者協会主催第3回中等学校大会 1932年12月 豊国中 嘉穂中
東京蹴球団主催第15回関東中等学校大会 1933年1月 神宮 青山師範 茨城師範 

「全国」という名を冠していても実際には「地域大会」にすぎないものもあります。当時の重要な大会は、

(1) 全国中等学校蹴球選手権大会:大阪毎日新聞主催 現在の高校選手権の前身 1月開催 中学校・師範学校の別なし
(2) 東京文理大主催全国中等学校大会:8月開催 中学校の部と師範学校の部を別開催
(3) 東京蹴球団主催関東中等学校大会:東京朝日新聞後援 1月(選手権の後)開催 中学校・師範学校の別なし

実質的な全国大会は(1)と(2)のみですが、(2)も東日本大会というべきで、参加校の最西が近畿、東海でした。(1)と(3)は上級学校受験を控えた1月開催で、かつ中学校・師範学校混合だったので、師範学校優勢でした。(2)は8月開催で、しかも中学校の部と師範学校の部に分かれていたので、中学校最上級生も参加しやすく、この大会を目標としていた東日本の中学校も多かったようです。

水戸高校、広島高校、松本高校、松山高校のように大正時代に新設された旧制高校主催大会がありますが、サッカーに限らず、旧制高校の増設がスポーツの地方への普及を促した点は無視できません。

1932(昭和7)年は、野球では商業的な招待試合の乱立が問題化し、野球統制令が発令された年でもあります。サッカーの各種大会の主催団体は大阪毎日新聞社と関門日日新聞社を除いて、すべて教育関係団体で、商業化とは無縁だったこともわかります。

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1932(昭和7)年度におけるサッカーと野球の中等教育への普及度

日本サッカー・ブック・ガイドに新規コンテンツ「1932(昭和7)年度におけるサッカーと野球の中等教育への普及度」を追加しました。

6月25日(金)の休暇も取得し、ルステンブルグの「歓喜 or 悲劇」を迎える準備が整いました。戦略(1次リーグを1勝1敗1分けで突破)と戦術(最少失点をめざす守備的百姓一揆=ハエ・サッカー)が一貫していて、チームにもまとまりが感じられ(一部交代選手を除く)、ワールドカップらしい死力を尽くしてのゲームを期待しております。

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「日本(NHK)と英国(BBC)のサッカー初放送」をアップしました

日本サッカー・ブック・ガイドに新コンテンツ「日本(NHK)と英国(BBC)のサッカー初放送」をアップしました。

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藤枝東高校の凄み

大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」を完成しました。旧制中学校へのサッカーの普及は、明治末から大正期にかけての野球の過熱化の反動によるものでした。大正時代に野球からサッカーに校技を転換した広島一中(現・国泰寺高校)、神戸一中(現・神戸高校)、大正時代の新設校で、野球部を禁止し、最初からサッカーを校技化した刈谷中(現・刈谷高校)、志太中(現・藤枝東高校)、湘南中(現・湘南高校)、東京府立五中(現・小石川高校)の6事例を紹介しています。

藤枝東高校(志太中)OBは、日本サッカー史のエポック・メーキングとなった代表に必ず含まれています。

1. 世界大会初参加で8強入りした1936年ベルリン・オリンピック:ベルリンの奇跡といわれた対スウェーデン戦で松永行(志太中→東京文理大)が決勝ゴール

2. 8強入りした1964年東京オリンピック:山口芳忠(藤枝東高→中央大-日立)、富沢清司(藤枝東高→八幡製鉄)が代表入り

3. 銅メダルを獲得した1968年メキシコ・オリンピック:山口芳忠(藤枝東高→中央大-日立)、富沢清司(藤枝東高→八幡製鉄)が代表入り

4. ワールドカップ初出場した1998年フランス大会:中山雅史がワールドカップ初ゴール

5. 16強入りした2002年ワールドカップ日韓大会:中山雅史が代表入り

6. 自国開催以外で初勝利した2010年ワールドカップ南アフリカ大会:長谷部誠が主将

他にも日本代表選手を多数輩出してます。スポーツの世界に栄枯盛衰はつきものですが、これだけ長期にわたってコンスタントに好選手を生んでいる学校は珍しいのではないでしょうか。

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ハエ・サッカー

できてましたね。できるだけ1対1の局面を作らせず、人数をかけて囲むのは、本番直前に「顔見世興行の岡田定食」を止めて、早稲田伝統の百姓一揆に回帰した?のが功を奏した感もなきにもあらずです。

スポンサー関係など、できるだけ外野の干渉を排除して、真の日本代表強化をサポートすることをJFAに望みたいものです。

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日本サッカー・ブック・ガイドにコンテンツを追加しました

日本サッカー・ブック・ガイドに新コンテンツ「大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」を追加しました。未完ですが。

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ご立派!

2002年のときは「韓国負けろ、韓国負けろ、韓国負けろ、韓国負けろ、・・・」と見ていた嫌韓派だったもしれないのですが、今日はなぜか韓国を応援してしまいました。

なんせ、日本がやるべきことを韓国が完璧に実践しているのをこう見せけられてはね。

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島田晋の日本サッカー史観

島田晋は慶應OB、著作に『アソシエーション・フットボール』(往来社,1931)があり、1931年創刊の大日本蹴球協会機関誌『蹴球』の編集長も務めています。

彼が『蹴球』第7号 1933年12月に寄稿した「前進せよ蹴球!」(p.34-37)にユニークな日本サッカー史観が述べられているので紹介します。サッカー史としての記述ではなく、1933年当時の日本サッカー界の現況を歴史的背景から分析したものです。

変則的な発展
 
 日本の蹴球はいはば変則的に発展して来た。

 野球やラグビーでは、そもそもの最初から現在迄ずっと大学ティームが指導的な位置に就いて来たのだが、蹴球では最初の間こそ東京高等師範学校が開拓者としての役目を果したが、その後一時主権は師範学校系統(例へば青山、豊島、御影等の)或はクラブティーム(東京のアストラ、広島の鯉城等の)に移り、大学ティームが戦線に加はり漸く全日本蹴球界の指導的勢力となったのは極く近年の事に過ぎない。つまり、蹴球が正式に行はれ出したのを明治三十年代とすれば、最初からの二三十年間の発展には大学ティームは殆ど何の参与もしてゐないと云ふ点で、蹴球の辿って来た道は変則的だったと云へると思ふ。

 そして此の大学ティームの進出が遅れたこと、即ち変則的な発展に、今日の蹴球のもつ不幸が胚胎してゐる。”

その結果の問題点として「量と質との不均衡」、「理論的研究の不足」、「礼儀の欠如」、「人材の不足」があげられています。「人材の不足」について以下のように述べています。

人材の不足

 もしも大学ティームが最初から日本の蹴球をリードして来てゐたとすれば、もう蹴球は四十年近くの発展年月を経て来てゐるのであるから、それらの大学を卒業して相当の年配に達し、相当の社会的地位と経験と社交的手腕を持ち而も新しいプレイを理解して行けるだけの頭脳を具へた多くの人々が協会の役員の席を占めてゐたであらう。所が事実は不幸にしてさうではない。

 大学ティームの戦線参加が遅れた結果、それらの大学の卒業生は未だ数も少ないし、又皆いづれも若い。これらの人々が全部協会の役員スタッフに動員されるとしても、尚将来の発展への正しい見透しをもって現在の蹴球界を指導して行くに足るだけの力量と経験と手腕をもった人々は極めて乏しいと云はざるを得ない。今、国内的にも国際的にも猛烈な勢ひで発展しやうとしてゐる蹴球界には、有能な協会役員が最も切望されるのだが、この需要は充分には満し切れてゐない。現在の役員が殆ど全部若い事は、覇気のあると云ふ点では幸福かもしれないが、但し経験と手腕に乏しいと云ふ点で不幸である。”

確かに野球では明治30年代に早慶が一高から覇権を奪い、1905年の早稲田のアメリカ遠征を皮切りに多くの大学チームが渡米しており橋戸信飛田穂洲腰本寿などの指導者を輩出しています。

サッカーの方は、東京高師から直接大学に普及せず、中学校蹴球部OBがボトムアップ式に大学へサッカーを普及させたので、大学でサッカーが始まったのは1920年代でした。中学校蹴球部の多くは東京高師蹴球部OBが指導したのですが、進学先の高校・大学予科、大学でサッカーを指導できる人材がいませんでした。そうした時代に忽然と現れたのがチョー・ディンで、彼から「直伝」を受けた早稲田の鈴木重義、東大の竹腰重丸がディンのショートパス戦術を継承・発展させました。

鈴木は1902年生まれで、1930年に28歳で優勝した極東大会の代表監督、1931年に29歳で協会の実務上のトップである主事になっています。竹腰は1906年生まれで1929年に23歳で協会理事になり、1934年の極東大会代表監督に28歳で就任しています。

1930年代には20台の協会理事や代表監督がいたのです。

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日本サッカー・ブック・ガイドのコンテンツに全文へのリンクを貼りました

日本サッカー・ブック・ガイドのコンテンツ、

・「大日本蹴球協会機関誌『蹴球』総目次(no.1-v.9 no.4 1931.10-1941.4)

・「日本蹴球協会機関誌『Soccer』総目次(no.1-v.14 no.4 1948.8-1951.8)

・「日本蹴球協会機関誌『蹴球(第2次)』総目次(v.10 no.1-1958.1 1953.1-1958.1)

・「明治・大正・昭和戦前期」の『How to play association football』と『蹴球年鑑 昭和7-8年度』

から日本サッカーミュージアムのヒストリカルアーカイブで公開されている全文にリンクを貼りました。

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菅直人氏の特許「特開昭50-25150 麻雀の点計算表示装置」の全文

コチラ

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ジュゼッペ・メアッツアのプレーを見た日本人

ジュゼッペ・メアッツアといってもミラノのスタジアムではありません。本人のプレーを、しかも1938年ワールドカップフランス大会決勝で見て、観戦記を残している日本人がいます。

野村正二郎「巴里の報告 中」 『蹴球』v.6 no.5 1938.12 p.1-5 です。決勝はイタリア対ハンガリー(4-2)。

“十七分、イ軍のコラウシイ(O・L)―フェラリー(IL)―ビオラと渡った球を、ビオラはマークされて居たので、直ちに再びI・Lに返した。フェラリーは少し遅れて居たのでシュートが出来なかった為めに、之をメアッツア(I・R)にパスした。このクロスパスを受けたメアッツアは絶好の位置に居たので、見事な得点を挙げて2-1とリードした。”(p.2)

“三十六分、メアッツアが自陣内で球を持った時、ハ軍のI・Lに追はれたので、之をコウラシイに送った。コウラシイ(O・L)はグラウンドの中央あたりからラザール(ハ軍RH)に追はれながらドリブルで進み、ハ軍のFBボルガールのタックルを避けて、ハンガリーのゴールへ強烈なシュートをを打ち付け、之で3-1となり、ハ軍は再び同点となる機会を失ひ、絶望らしく見えた。”(p.2-3)

文章だけで、イタリアのパス回しのうまさが伝わってきますね。

本来の目的は、ワールドカップ前に開催されたFIFA総会で1940年に開催が予定されていた幻の東京オリンピックの宣伝と、日独伊三国対抗競技大会の蹴球の打ち合わせだったのですが、どちらも中止になってしまいました。

野村正二郎氏のプロフィールについてはコチラ

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本文へリンクを貼りました

日本サッカー・ブック・ガイドのコンテンツにW杯関係邦文文献目録があります。

日本最初のワールドカップ紹介記事、第1回ウルグアイ大会
・千野正人「ワールドカップの話」『蹴球』no.1 1931.10 p.19-25

第2回イタリア大会
・W.ベンスマン「昨年のワールドカップ争奪戦と其の諸選手に就て-FIFA公報」矢島清次/訳 『蹴球』v.3 no.1 1935.2 p.2-6

第3回フランス大会の日本人初の観戦記
・野村正二郎「巴里の報告 上」『蹴球』v.6 no.3 1938.10 p.1-6
・野村正二郎「巴里の報告 中」『蹴球』v.6 no.5 1938.12 p.1-5
・野村正二郎「巴里の報告 下」 『蹴球』v.7 no.2 1939.2 p.1-6

からサッカー・ミュージアムで公開されている『蹴球』誌全文へリンクを貼りました。


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