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日本における小学校へのサッカーの普及

明治時代の小学校教師向け体育指導書には、かなり早くから「蹴鞠」、「フートボール」などの名称の競技が紹介されています。1894(明治27)年生まれの山田午郎「球史のひとこま 上」『蹴球』1956年4月号 p.40-41(21/21コマ目)では、福島県二本松の小学校での“今日の蹴球の原始的なワク”が回想されています。他の明治時代の小学校蹴球も似たような状況だったのではないでしょうか。

しかし、東京高師で正式なサッカーが始まった後の師範学校附属小学校では、「正式」に近いサッカーが普及していた可能性があります。

後藤健生著『日本サッカー史 : 日本代表の90年 : 1917-2006. 資料編』(双葉社 2007)には各年代の日本代表監督の簡単なプロフィールが掲載されていますが、1930年第9回極東選手権大会と1936年ベルリン・オリンピックの代表監督だった鈴木重義は以下のとおり。

“1902年生まれ。豊島師範付属小学校でサッカーを始め、東京高等師範学校付属中学を経て、早稲田高等学院・同大卒。早稲田ではア式蹴球部を創設。東京コレッジ・リーグ創設にも尽力。27年の極東選手権(上海)には選手(主将)として出場。DFながらフィリピン戦で同点PKを決めて日本代表の国際試合初勝利に貢献。・・・”(p.20)

1902年生まれの鈴木が小学校を卒業するのは1914年頃のはずです。豊島師範にサッカーを伝えたのは東京高師1909年卒の内野台嶺なので、その附属小学校にサッカーが伝わったのは1909(明治42)~1911(明治44)年あたりになるはずです。大日本蹴球協会の設立(1921年)の約10年ほど前になります。

1922年10月15-16日には、おそらく日本最初の小学生サッカー大会である、東京蹴球団主催、東京朝日新聞後援の第1回関東少年蹴球大会が開催されます。1925(大正14)年には日本最初の少年サッカー指導専門書、山田午郎著『ア式フットボール』(杉田日進堂 1925)が刊行されています。その「緒言」には、

“殊に関東地方に於ては我が東京蹴球団が小学校の蹴球大会を開催するようになってから、豊島サッカークラブ、埼玉蹴球団の大会も開かるるようになって少年の間の蹴球熱は勃然として興隆の機運に向って来た”(p.1-2)

とあり、1925年時点で東京蹴球団、豊島サッカークラブ(豊島師範OB)、埼玉蹴球団(埼玉師範OB)が主催する、3少年大会が存在しています。

日本最初期の小学生サッカーから日本代表初勝利時の主将、鈴木が生まれたように、大正末の少年サッカーOBから「ベルリンの奇跡」を生んだ日本代表が生まれます。

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大正元年(1912年)5月11日の東北ダービー

日本サッカー・ブック・ガイドに新規コンテンツ「大正元年(1912年)5月11日の東北ダービー」を追加しました。

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追加しました

大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」の「日本サッカーへの影響 2. サッカーのカレッジ・スポーツ化と日本代表、JFA」
にある、

野津謙     4代 広島一中→一高→東大
長沼健     8代 広大附高→関学大→中大
岡野俊一郎  9代 小石川高→東大
川淵三郎   10代 三国丘高→早大
犬飼基昭   11代 県浦和高→慶大

小倉純二   12代 都立西高→早大

を追加いました。

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1911年東京高師卒の1921年就職先を調べてみました

→「東京高等師範学校1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先

中等学校に在職しているもののうち、95%は師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校で、実業学校は5%にすぎませんでした。

卒業生総数181名のうち、中等学校在職116名(64.1%)で、さらにその内訳は以下のとおりでした。

師範学校:28名(24.1%)
女子師範学校:8名(6.9%)
中学校:46名(39.7%)
高等女学校 :28名(24.1%)
実業学校:6名(5.2%)
合計:116名(100.0%)

これに対応して、「大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」の最後、「むすびにかえて」を改訂しました。
 

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初期のFAカップと天皇杯(全日本選手権)優勝チーム

FAカップ

1871/72 Wanderers 1 - 0 Royal Engineers
1872/73 Wanderers 2 - 0 Oxford University
1873/74 Oxford University 2 - 0 Royal Engineers
1874/75 Royal Engineers 1 - 1 Old Etonians Royal Engineers 2 - 0 Old Etonians
1875/76 Wanderers 1 - 1 Old Etonians Wanderers 3 - 0 Old Etonians
1876/77 Wanderers 2 - 1 Oxford University
1877/78 Wanderers 3 - 1 Royal Engineers
1878/79 Old Etonians 1 - 0 Clapham Rovers
1879/80 Clapham Rovers 1 - 0 Oxford University
1880/81 Old Carthusians 3 - 0 Old Etonians
1881/82 Old Etonians 1 - 0 Blackburn Rovers

Wanderersはハロー校(Harrow School)のOBクラブ、Old Etoniansはその名のとおりイートン校(Eton College) のOBクラブで、パブリック・スクール(中等教育)のOBクラブがオックスフォード大学などより優勢です。


全日本選手権

1. 1921 東京蹴球団 1-0 御影蹴球団
2. 1922 名古屋蹴球団 1-0 広島高師
3. 1923 アストラクラブ 2-1 名古屋蹴球団
4. 1924 鯉城クラブ 1-0 全御影師範クラブ
5. 1925 鯉城蹴球団 3-0 東京帝大学
6. 1926   中止    
7. 1927 神戸一中クラブ 2-0 鯉城クラブ
8. 1928 早大WMW 6-1 京都帝大学
9. 1929 関学クラブ 3-0 法政大学
10. 1930 関学クラブ 3-0 慶応BRB
11. 1931 東大LB 5-1 興文中学

アストラクラブ(暁星中のOBクラブ)、鯉城クラブ・鯉城蹴球団(広島一中のOBクラブ)、神戸一中クラブ(神戸一中のOBクラブ)のような中等学校のOBクラブが大学よりも優勢です。

英国と日本における初期カップ戦の中等教育OBクラブの優勢は、ともにサッカーが中等教育から高等教育に普及していったことと関係するのでしょう。

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東京高等師範学校卒業生の就職先

大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」と「戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度」において、サッカーは野球よりも中学校・師範学校に普及し、実業学校にはそれほど普及しなかったことを指摘しました。

最初の日本代表の出身校」は1917年第3回極東大会出場選手の出身校と1921(大正10)年時点での就職先を示したものです。当時の東京高師蹴球部員で実業学校に就職した人は1人もいません。就職先をクリックすればその周囲の東京高師OBの就職先を一覧できますが、実業学校に就職した人はめったにおらず、師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校に就職している人がほとんどです。「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書」には1904年の対YCAC初戦と1908年の対YCAC初勝利時の東京高師イレブンの1915年時点での就職先を記してありますが、やはり実業学校に就職している人は1人もいません。

東京高師卒業生は実業学校に就職しなかったので、サッカーが実業学校に普及しなかった、ということもありえます。中等教員のキャリア形成として、師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校が望ましかったのか、あるいは待遇に差があったのかもしれません。

当時の県レベルの職員録を見ると、県立中等学校の序列は、師範学校>女子師範学校>中学校>高等女学校>実業学校、であることがわかります。

例:『愛知県職員録 大正10年3月31日現在』の目次1目次2

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コンテンツの追加

日本サッカー・ガイド・ブック」に「世界大会・同予選における日本代表登録選手中の大学生・大学(サッカー部)OB比率」を追加しました。

1936年ベルリン・オリンピック 15/16=93.8%
1956年メルボリン・オリンピック 16/17=94.1%
1964年東京オリンピック 16/19=84.2%
1968年メキシコ・オリンピック 16/18=88.9%
1972年ミュンヘン・オリンピック予選 13/22=59.1%
1974年ワールドカップ西ドイツ大会予選 14/23=60.9%
1980年モスクワ・オリンピック予選 12/20=60.0%
1982年ワールドカップ・スペイン大会予選 13/19=68.4%
1984年ロサンゼルス・オリンピック予選 17/22=77.3%
1986年ワールドカップ・メキシコ大会予選 13/20=65.0%
1988年ソウル・オリンピック予選 13/19=68.4%
1990年ワールドカップ・イタリア大会予選 19/23=82.6%
1994年ワールドカップ・アメリカ大会予選 11/22=50.0%
1998年ワールドカップ・フランス大会 9/22=40.9%
2002年ワールドカップ日韓大会 2/23=8.7%
2006年ワールドカップ・ドイツ大会 2/23=8.7%
2010年ワールドカップ南アフリカ大会 3/23=13.0%

サッカーではJリーグの発足が大学サッカーの比重を劇的に低めた構造改革であったのに対し、ラグビーではトップリーグ発足後も日本代表中の日本人選手は100%大学生・大学OBで、大学依存の構造はまったく変化していません。ともに南アフリカで行われたワールドカップの成績の差はこのあたりに・・・
 

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プロ野球監督の学歴

原辰徳 東海大
真弓明信 柳川商
落合博満 秋田工
小川淳司 中央大
野村謙二郎 駒沢大
尾花高夫 PL学園

渡辺久信 前橋工
秋山幸二 八代高
西村徳文 福島高(宮崎県)
梨田昌孝 浜田高
岡田彰布 早大

Jリーグとは対照的に大卒は少数派です。現在楽天は外人監督ですが、前監督の野村克也氏(峰山高)も高卒でした。プロ化してからの歴史の長い野球では、川上哲治氏(熊本工)や野村氏のような非大卒の名監督が実績を残しており、監督の人選に学歴が反映されることがあまりないのでしょう。

サッカーの場合、S級ライセンスの取得(カリキュラム)が大卒に有利になっており、高卒で指導力のある人が野球ほど才能を発揮できない仕組みになっているのではないか、という疑問の余地が残ります。

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1930年以降の日本人日本代表監督の最終学歴

鈴木重義 早大
竹腰重丸 東大
二宮洋一 慶大
高橋英辰 早大
川本泰三 早大
長沼健 関学大・中大
岡野俊一郎 東大
二宮寛 慶大
下村幸男 修道高
渡辺正 立教大
川淵三郎 早大
森孝慈 早大
石井義信 葦陽高
横山謙三 立教大
加茂周 関学大
岡田武史 早大

計16名中、早大6名、東大2名、慶大2名、立教大2名、関学大2名、中大1名、高卒2名でした。1930年極東大会日本代表20名の内訳は東大12名、早大3名、関学大3名、京大1名、慶大1名であり、1930年時点のサッカー有力校、東・早・慶・関学の4校がその後80年間にわたって日本サッカーの中枢に位置していたことがわかります。筑波大(東京教育大、東京文理大、東京高師)OBがいないのが意外です。特定大学に集中しているのは、ワールドカップ優勝国みたいな。

J1の日本人監督も14名中3名が早大OBです。休養中?の関塚氏も含めてJで実績を残している日本人監督も大卒(特に早大)が圧倒的に多いので、次の代表監督が日本人から選ばれるとすれば、またしても早大OBになるのでは・・

②清水 長谷川健太 筑波大
④川崎 高畠勉 大体大
⑧G大阪 西野朗 早大
⑨横浜M 木村和司 明大
⑩新潟 黒崎久志 宇都宮学園高
⑪山形 小林伸二 大商大
⑫磐田 柳下正明 東京農大
⑬FC東京 城福浩 早大
⑭仙台 手倉森誠 五戸高
⑮神戸 三浦俊也 駒沢大
⑯湘南 反町康治 慶大 
⑰大宮 鈴木淳 筑波大
⑱京都 加藤久 早大  

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世界大会出場日本代表登録選手中の大学生・大学OB比率

1936年ベルリン五輪  15/16=93.8%
1956年メルボルン五輪  16/17=94.1%
1964年東京五輪  16/19=84.2%
1968年メキシコ五輪  16/18=88.9%
1998年ワールドカップ・フランス大会  9/22=40.9%
2002年ワールドカップ日韓大会  2/23=8.7%
2006年ワールドカップ・ドイツ大会  2/23=8.7%
2010年ワールドカップ・南アフリカ大会  3/23=13.0%

上記を表にして「大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」に追加しました。

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日本代表の大卒(大学サッカー部OB、現役含む)含有率

1984年ロサンゼルス五輪予選 17/22=77.3%
1986年ワールドカップ・メキシコ大会予選 13/20=65.0%
1988年ソウル五輪予選 13/19=68.4%
1990年ワールドカップ・イタリア大会予選 19/23=82.6%
1994年ワールドカップ・アメリカ大会予選 11/22=50.0%
1998年ワールドカップ・フランス大会本大会 9/22=40.9%
2002年ワールドカップ日韓大会本大会 2/23=8.7%
2006年ワールドカップ・ドイツ大会本大会 2/23=8.7%
2010年ワールドカップ・南アフリカ大会本大会 3/23=13.0%

大卒含有率が50%を切るとワールドカップ本大会に出場できるようですw。ドーハの悲劇の時点では50%、それ以前で最も近づいた86メキシコ大会予選で65%と、大卒含有率が少ないほど予選でも好成績を残しています。Jリーグの発足(プロ化)が日本代表の構成に劇的な影響を与えたことが一目瞭然です。

アジア予選1次リーグで敗退という、過去30年で最低の成績だった90イタリア大会予選では、その前後と比較して異様に高い、83%だったんですね。それ以前の80年代のワールドカップ・五輪予選で大卒含有率を低めていたのは読売クラブ・ユース出身者です。

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コンテンツに「野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦」を追加しました

日本サッカー・ブック・ガイド」のコンテンツに「野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦」を追加しました。

明治時代に刊行された各競技の専門書、中馬庚著『野球』(前川善兵衛 1897)、東京高等師範学校々友会蹴球部編『フットボール』(大日本図書 1908)、慶応義塾蹴球部編『ラグビー式フットボール』(博文館 1909)は、各競技の対YC&AC戦初勝利(野球:1896年、サッカー:1908年、ラグビー:1908年)の直後に刊行されています。
それだけ対YC&AC戦勝利は各競技史上、大きなインパクトがあったわけです。

各書に日本の競技史に関する記述がありますが、すべて対YC&AC戦初勝利を記載しています。

・『野球』→「本邦ニ於ケル略史
・『フットボール』→「我が国のフットボール
・『ラグビー式フットボール』→「初めて大勝す

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『[Collection of publications of the Yokohama Cricket and Athletic Club]』

『[Collection of publications of the Yokohama Cricket and Athletic Club]』という資料を、なぜかオーストラリア国立図書館が所蔵しているようです。注記に

“Collection consists of the Athletic sports programme for 30th May 1903 and 28th May 1904, the programme for the spring athletic meeting, 20th May 1905, and 4 annual reports of the club for the years 1902-1905.”

とあり、1903年5月30日から1904年5月28日までのYC&ACのスポーツ・プログラムと1902-1905年の年報だそうです。Subjectsは

“Yokohama Cricket and Athletic Club. | Athletic clubs - Japan - Yokohama-shi. | Track and field - Competitions - Japan - Yokohama-shi. | Cricket - Japan - Yokohama-shi - Clubs.”

となっていて、Footballはありませんが、日本人最初のサッカー試合、1904年2月6日のYC&AC対東京高等師範学校戦はこの期間内なので、この試合に関する資料があるのかどうか、知りたいところです。→「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書

ファイナルは徐々にイタリア化しつつあるオランダと、かつてのオランダ・サッカーの完成型のようなスペインの対決となりました。ドイツが勝ちそうと予想してましたが、中盤を制圧したスペインが強かったです。両CBとボランチがクローゼとエジルを抑え、両サイドともドイツのサイドに仕事をさせませんでした。ドイツの水族館のタコに完敗です。12日は休暇をとったので、やっと南アフリカ時間から解放されます。

タコ予想は須磨水族館や海遊館あたりがマネしそう。タコは蛸壺漁で獲るため活けで捕獲されるので、、明石の魚の棚では鮮タコ?は活け(水槽ではなくトロ箱に乗せて)で売られてます。生簀料理屋もタコ予想ショーをやって、はずれたタコはあわれ・・・

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スアレスのハンド

ラグビーだったら確実に認定トライ。BBCのPaul Fletcher's BLOG「Luis Suarez - hero or villain?」に1,400件のコメントがついてます。さすがに熱いですなあ。やはりイギリスでは否定的な意見が多いようです。ランパードには決してできないプレーでしょうなあ。

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ハプスブルグ大会

ウルグアイ、オランダ、ドイツ、スペインはすべて旧ハプスブルグ帝国領です。サッカーとはなんの関係もありませんが。

1対1の個でも強いドイツに「人もボールも動くサッカー」されたら、イングランド、アルゼンチンが大敗するのもしかたないところでしょうか。ヘルベルガーが確立したイングランドの頑健さとダニューブ・スタイルのパス・サッカーを融合させたドイツ・スタイルを蘇らせたレーヴ監督の手腕は大変なもの。

決勝は74年の再戦でしょうか。

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戦前の野球とサッカーの中学校への普及率考

現時点でオランダ対パラグアイという「夢のファイナル?」が実現する可能性が、単純な確率として12.5%あるわけですな。

新渡戸稲造談『野球と其害毒』に記したように、1911(明治44)年8~9月にかけて『東京朝日新聞』が掲載したアンチ野球キャンペーン「野球と其害毒」の最終回(1911年9月19日)はそのまとめでした。

「全国中学校及同程度以上の学校長諸氏」に対するアンケート調査が行われ、144通の回答を得、

・“学校の方針にて野球部の設置なきもの”38校
・“野球部あるも創立日尚浅くして未だ其利益の程度を知る能はざるもの”9校
・計47校

を除く98校の回答を分類すると、

・利害共に在り其比較程度不明(利害はともにあるが比較はできない) 11
・害ありて利なし(害があって、利はない) 9
・弊害利より更に大なり(害のほうが利より大きい) 64
・利ある者(利がある) 7
・利害を認めず(利害ともに認めない) 3

内訳の合算が総数と合いません。文部省編『学制百年史 資料編』(帝国地方行政学会 1972)によれば、1911(明治44)年の中学校数は290校(p.489)でした。中学校のみを対象にしていたとすれば、回答率は50%?だったことになります。

戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度で、『蹴球年鑑 1932年版』収載「昭和七年度加盟チーム調一覧」における中等学校数と朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)における第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校数を調査しました。『学制百年史 資料編』によれば、1932(昭和7)年の中学校数は558校、甲類実業学校数(中学校と同等の学校が「甲」、同等以下の学校が「乙」)は839校(女子校を含む)、師範学校数は103校(但し女子師範を含む)でした。実業学校と師範学校には女子校が含まれているので、男子校のみの校数は不明です。

サッカーの1932年協会登録中学校数 115校 115/558=20.6%
野球の1932年全国大会予選出場中学校数 384校 384/558=69.3% 

1932年の野球の中学校への普及率が約70%であったのに対し、サッカーは約20%だったことになります。

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「大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」を改訂しました

大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」と「戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度」を改訂しました。

朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)p.131の「全国大会出場校と優勝校」に予選の全参加校数があります。

第1回 1915年 71校
第2回 1916年 115校
第3回 1917年 118校
第4回 1918年 137校(米騒動のため本大会は中止)
第5回 1919年 134校
第6回 1920年 157校
第7回 1921年 207校
第8回 1922年 229校
第9回 1923年 243校
第10回 1924年 263校
第11回 1925年 302校
第12回 1926年 337校
第13回 1927年 389校
第14回 1928年 410校
第15回 1929年 465校
第16回 1930年 541校
第17回 1931年 634校
第18回 1932年 660校
第19回 1933年 671校
第20回 1934年 675校
第21回 1935年 666校
第22回 1936年 665校
第23回 1937年 654校
第24回 1938年 633校
第25回 1939年 608校
第26回 1940年 617校

第28回 1946年 745校
第29回 1947年 1125校
第30回 1948年 1256校
第31回 1949年 1365校
第32回 1950年 1536校
第33回 1951年 1633校
第34回 1952年 1653校
第35回 1953年 1701校
第36回 1954年 1705校
第37回 1955年 1721校
第38回 1956年 1739校
第39回 1957年 1769校
第40回 1958年 1807校

第18回 1932年が660校になっていますが、「戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度」で実数を数えたところ、663校でした。エントリーはしたものの、予選出場を辞退した学校もあるので、予選参加校数の「数え方」が異なっているのかもしれません。

全国高等学校体育連盟サッカー部編『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983)には、残念ながら予選参加校やその数の記載がなく、サッカーと野球の全国大会予選参加校数を比較できませんでした。


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大正期におけるスポーツの普及と農村の普選運動

伊藤之雄『日本の歴史. 22 政党政治と天皇』(講談社 2010 講談社学術文庫)に普選賛成派の斎藤隆夫代議士(昭和時代の粛軍演説で有名)の政治基盤を記述した部分があります。1920年の総選挙で斎藤が落選したことに憤慨した兵庫県出石町の青年グループが出石郡立憲青年党を結成し、急速に勢力を拡大します。

“このように、青年党の勢力が伸びたのは、第一次大戦後の戦後不況と経済の低成長への不安や不満に加え、ジャーナリズムによる普選キャンペーンなどで、一九二〇年代前半には農村部までデモクラシー潮流が広まっていたことが影響している。これには、スポーツの普及も関連している。スポーツは元来、大学・専門学校・中等学校などに進学できた中産階級以上の子弟が、学校で行うものであった。しかし二〇年代になると、尋常小学校・高等小学校や青年団など、庶民の青少年も巻き込んでスポーツ熱が高まり、郡内の各学校や青年団対抗の試合もさかんに行われた。こうして、庶民の青年の人的交流が飛躍的に進んだ。”(p.244)

本書では出石郡高橋村の元高橋村青年団理事の道下昌吉(1897生、高等小学校卒)の事例を紹介しています。

“・・・出石郡の青年団対抗のスポーツ大会で知り合った出石町の正木に誘われると、出石郡立憲青年党の結党式に出席した。帰村した道下は、大槻医師の支持を得てただちに青年党の同志を募り、選挙終了までに百数十人が入党をしたという。”(p.245)

本書の参考文献に上記に関する論文・図書はあげられていません。村の旦那衆によって政治的権利が独占されていた制限選挙時代に、政治から疎外されていた低所得の青年層の「横のつながり」を促したのが青年団のスポーツ大会であった、というのはスポーツ史の観点からも研究されるべきではないでしょうか。

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