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山中伸弥教授のサッカー医学関係論文

iPS細胞の研究でノーベル賞の有力候補といわれている山中伸弥京大教授は、大阪市大医学部時代にサッカー医学関係の論文の共著者になっています。

論文タイトル:サッカ-選手のひ骨筋断裂による外側コンパ-トメント症候群の1例
著者:島田永和, 増田博 (島田病院), 大久保衛, 尾原善和 (国立大阪病院), 香月憲一, 上野憲司, 山中伸弥, 島津晃 (大阪市大), 市川宣恭 (大阪体育大)
雑誌名:日本整形外科スポーツ医学会雑誌
巻号・年月・ページ:11巻1号 1992年5月 p.267-270

論文タイトル:中学生のスポ-ツ活動による外傷・障害 来院した選手と学校でのアンケ-ト調査の対比
著者:島田永和 (永広会 島田病院), 大久保衛, 香月憲一, 上野憲司, 吉田玄, 山中伸弥 (大阪市大), 尾原善和 (国立大阪病院), 市川宣恭 (大阪体育大), 今村勝子 (羽曳野市高鷲中)
雑誌名:日本整形外科スポーツ医学会雑誌
巻号・年月・ページ:.9巻1号 1990年7月 p.103-106

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高円杯16R(西が丘)

あまりにヒマなので、観戦してきました。

第1試合 広島Y 7-1 C大阪U18

両チームの体格の違いにビックリ。広島は全寮制で栄養管理、フィジカル・トレーニングもバッチリという感じで、身長・体重とも試合前からフィジカルの差がアリアリと。1対1での当たり、運動量、スピード、戦術(両サイドのスペースの使い方)でC大阪を 圧倒。個人的には、右サイドにいた広島#10のスピード、クロスの正確さが良かったです。広島は好チームなので優勝してもらいたいです。

第2試合 FC東京U18 2-0 青森山田高

東京DFの堅さが際立った試合。個人的には、東京DF#5の強さが良かったです。青森の注目、柴崎はかつてのルーマニアのハジ(体型は違うが)のような「貫禄」のプレーぶり。フォアリベロのような後方(常にフリーの位置)だがDFには貢献せず、中途半端な感じで、運動量が増えないと前途多難では。

FC東京の監督人事って、JFA系の人物を横パス、バックパスで回してるだけのような・・・


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『学制百年史』の学校系統図

文部省編『学制百年史』(帝国地方行政学会 1972)は教育史関係の最も基本的な参考図書です。文科省は「本編」と「資料編」を全文Web上で公開しています。

最近このブログで取り上げている戦前の全国中等学校蹴球大会の年齢制限ですが、それを理解するのに必要な「学校系統図」が「資料編」に掲載されています。戦前のサッカー関係の初・中等教育学制は「第6図 大正8年」が該当します。

中学校(神戸一中など):尋常小学校6年+中学校5年 最上級生は17歳(進級・進学が順調であれば 以下同様)
師範学校(御影師範など):尋常小学校+高等小学校2年+師範学校5年(最上級生は19歳)
甲種実業学校(商業、工業学校など 広島商など):尋常小学校+高等小学校2年+実業学校3年(最上級生は17歳)

中学校と実業学校は同年齢であり、師範学校だけが2歳上です。サッカーはルーツ校東京高等師範学校から多くの師範学校に普及し、各地域のサッカー強豪校は師範学校が多く、「中等学校」というククリで開催された大会では師範学校が優位だったわけです。→「戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度

もちろん、高等小学校に進学すれば、中学校に進学できないわけではなく、高等小学校経由で中学校に進学した人も大勢いたようです(都会には滑り止めの私立中学校があったが田舎にはなかったので、田舎では中学浪人が比較的多かったらしい)。ミスター・タイガース藤村富美夫氏は呉港中(大正中から校名変更)2年から4年連続で夏の甲子園に出場していますが、14歳(現在の中2相当)で甲子園出場したわけでなく、高等小学校経由なので、初出場は16歳(現在の高1相当)でした。PL学園時代の清原、桑田のような存在だったのでしょう。

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戦前の全国中等学校蹴球大会の年齢制限に関する『蹴球』誌記事

戦前の全国中等学校蹴球大会の年齢制限については、本ブログの「全国中等学校蹴球大会の年齢制限」と「全全国中等学校蹴球大会の光と陰」に記しましたが、第2次年齢制限に関する具体的内容が大日本蹴球協会機関誌『蹴球』にありました。

第3号(1933年4月)収載「昭和八年度全国代議員会(1933年4月2日)」

“L、大毎主催全国中等学校大会出場選手年齢之件

従来は本大会出場選手年齢は二十一歳であったが、之を十九歳となされたき旨の提案に対し、本件は同大会の評議員会にて十分考究の上時期代議員会にて決定する事とす。”(p.29-30 16/19コマ目)

第6号(1933年10月)収載「全国中等学校評議員会(1933年9月10日)」の項

“一、九月十日 午後三時

一、於大阪毎日新聞社

一、出席者 鈴木重義、神田清雄、田辺治太郎、高田正夫、玉井操、前田紀一、岩野次郎、松田静

一、協議決定事項
本大会予選区域及代表数 前年通り
本大会規定 従前通り 但出場選手資格中年齢を「大正二年四月一日以降出生のものに限る」と訂正す。”(p.14 9/18コマ目)

従来21歳以下であった年齢制限が19歳以下に強化されています。師範学校生は「尋常小学校6年+高等小学校2年+師範学校5年」で、ストレートに進学、進級しないと年齢制限に引っ掛かります。この制限が適用された第17回大会(1935年8月)以降、中学校の出場が増え、優勝校は中学校優勢になりますが、この年齢制限の影響だと考えられます。中学生は「尋常小学校6年+中学校5年」だったので、ストレートだと17歳で最上級生(5年生)になります。17歳対21歳では師範学校優位は当然です。

現在サッカー界で定着しているU18などの年齢別化に尽力されたのは、日本サッカー殿堂に掲額されている故・大谷四郎氏ですが、大谷氏は第17回大会(1935年8月)で優勝した神戸一中の主将(1936年卒)でした。大谷氏の尽力が中学校時代の経験に根ざすもののか、ご存命なら聞いてみたいところです。

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日本体育学会

9月8日に日本体育学会体育史専門分科会のシンポジウム「サッカーの伝播・受容を考える」に非学会員であるにもかかわらずシンポジニストとしてお招きいただき、「大正期におけるサッカーの中学校への普及―大正期にサッカーを校技化した中学校の特徴―」という演題で発表させていただきました。内容は「大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響」を要約したものです。

海外の事例(ドイツ、ラテン・アメリカ)との比較ということだったので、イングランドのような階級による分化(アマチュアリズムすなわちbroken time paymentの否定による労働者階級の排除:上層→ラグビー、下層→サッカー)や南米における人種差別は日本ではなかったものの、中等教育における学校種(師範学校・中学校対実業学校)の差や戦後の社会人スポーツにおける職種(本社のホワイトカラー対工場のブルーカラー 例:サッカーの“丸の内御三家”=日立本社対女子バレーの日紡貝塚や日立武蔵)の差はあった、という方向に議論が向うのかと思っていたら、全然そういう方向には向かいませんでした。

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東京蹴球団主催東京朝日新聞後援関東蹴球大会

東京蹴球団主催東京朝日新聞後援関東蹴球大会は1918年、大阪毎日新聞主催日本フートボール大会と同年に始まった我が国最古の中等学校蹴球大会で、1933年の15回大会まで存続しました。オープン参加制、師範学校・中学校混合、学年度末に開催されたので、師範学校優位の大会でした。第12回大会に東京府立五中が優勝していますが、FBに種田がいます。第14回大会の準優勝メンバーにはGK不破がいて、ベルリン・オリンピック代表選手は中学時代から活躍していたことがわかります。

第1回 1918年2月 豊島師範A2-0豊島師範B
第2回 1919年2月 青山師範2-0佐倉中
第3回 1920年2月 豊島師範2-0佐倉中
第4回 1921年2月 豊島師範6-1埼玉師範
第5回 1922年2月 青山師範2-1豊島師範
第6回 1923年2月 青山師範2-0青山師範
第7回 1924年2月 豊島師範2-1青山師範
第8回 1925年2月 青山師範1-0豊島師範
第9回 1926年1-2月 青山師範2-0成城中
第10回 1928年2月 青山師範2-0東京府立五中
第11回 1929年1-2月 青山師範2-0茨城師範
第12回 1930年1-2月 東京府立五中4-1埼玉師範
第13回 1931年1-2月 埼玉師範6-1青山学院中
第14回 1932年1月 青山師範2-1東京府立五中
第15回 1933年1月 青山師範4-0茨城師範

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早稲田大学図書館が『戸外遊戯法』を全文公開しています

当サイトの「日本最初のサッカー紹介書」でも「第十七 フートボール(蹴鞠ノ一種)」全文を紹介している坪井玄道、田中盛業編『戸外遊戯法 一名戸外運動法』(金港堂 1985)の全文を早稲田大学図書館が公開しています。

「第十七 フートボール(蹴鞠ノ一種)」(1)、(2)、(3)、(4)

当サイトでは収録できなかった図も見られます。

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東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会はなぜ消滅したか

東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会は1924年~1932年に9回開催された全国規模の中等学校サッカー大会でした。「全国」といっても東日本の学校がほとんどですが、近畿や東海地区の学校も参加しています。大阪毎日新聞社主催全国中等学校全国中等学校蹴球大会に次ぐ規模の大会でした。特徴は、

1) 全国中等学校蹴球大会が地区大会を経た選手権であるのに対し、いわゆる「選手権」ではなく、オープン参加の大会である。

2) 全国中等学校蹴球大会が中学校・師範学校を区分しなかったのに対し、第1部:中学校、第2部:師範学校、と中学校と師範学校に区分していた。

優勝・準優勝校は以下の通りです。

第1回 1924年11月 1部 暁星中3-0豊山中 2部 豊島師範3-2青山師範
第2回 1925年9月 1部 東京高師附中3-1暁星中 2部 豊島師範0-0栃木師範(CK数で豊島師範勝ち)
第3回 1926年9月 1部 東京高師附中6-0成城中 2部 ?
第4回 1927年9月 1部 東京高師附中2-0東京府立五中 2部 青山師範6-2栃木師範
第5回 1928年9月 1部 東京高師附中3-2東京府立五中 2部 豊島師範3-2栃木師範
第6回 1929年9月 1部 東京高師附中2-0東京府立五中 2部 豊島師範3-2静岡師範
第7回 1930年9月 1部 東京高師附中3-1湘南中 2部 青山師範8-1鎌倉師範
第8回 1931年8月 1部 志太中2-1東京高師附中 2部 青山師範6-1鎌倉師範
第9回 1932年8月 1部 東京高師附中5-3志太中 2部 京都師範1-0埼玉師範

この大会の消滅は1932年の「野球統制令」と関係があると考えられます。

“二、野球試合は左記により開催せらるること。

イ、全国的優勝大会及び全国的選抜大会はそれぞれ年一回全国中等学校野球協会の公認の下に開催し得ること。但し明治神宮体育大会に関するものはこの回数に含まず。

ロ、地方大会(「府県対抗試合」又は参加学校が三府県以上にわたる試合をいふ)は関係府県の体育団体(第一項記載の事項参照)共同主催の下に同一地方に関し年一回に限り公認を受けて開催し得ること。” 

野球統制令は野球を対象とするものですが、当然他の競技にも準用されたと考えられます。東京高等師範学校(東京文理大学)主催全国中等学校蹴球大会は「全国的選抜大会」ではないので、「全国的優勝大会」だとすれば、大阪毎日新聞社主催全国中等学校全国中等学校蹴球大会と両立しえなくなります。

また、クラブチームである東京蹴球団主催東京朝日新聞後援関東蹴球大会(1918年~1933年 大毎大会と同じ年に始まった)も15回をもって終了し、関東蹴球協会主催東京朝日新聞後援関東中等学校蹴球選手権大会が1933年12月から始まります。この大会は関東1府6県+山梨県の地区大会を経た代表8校による「選手権大会」でした。

第1回 1933年12月 豊島師範2-0埼玉師範(出場校:豊島師範、千葉師範、埼玉師範、神奈川師範、茨城師範、栃木師範、藤岡中、山梨師範)
第2回 1934年12月 韮崎中4-1府立五中(出場校:府立五中、神奈川師範、千葉師範、埼玉師範、水戸中、栃木師範、藤岡中、韮崎中)
第3回 1935年12月 豊島師範4-2埼玉師範(出場校:湘南中、千葉師範、真岡中、豊島師範、韮崎中、水戸中、埼玉師範、藤岡中)
第4回 1936年12月 豊島師範2-1韮崎中(出場校:豊島師範、埼玉師範、千葉師範、茨城師範、湘南中、韮崎中、藤岡中、宇都宮中)
第5回 1937年12月 青山師範2-1埼玉師範(出場校:埼玉師範、千葉師範、藤岡中,湘南中、韮崎中、茨城師範、青山師範、烏山中)
第6回 1938年12月 青山師範4-2埼玉師範(出場校:青山師範、千葉師範、湘南中、埼玉師範、水戸中、藤岡中、韮崎中、宇都宮中)
第7回 1939年12月 豊島師範1-0湘南中(出場校:湘南中、水戸商、宇都宮中、浦和中、藤岡中、千葉師範、豊島師範、韮崎中)
第8回 1940年12月 湘南中2-1明倫中(出場校:豊島師範、湘南中、水戸商、烏山中、甲府商、藤岡中、明倫中、浦和中 藤岡中は出場辞退)
第9回 1941年12月 湘南中2-1青山師範(出場14校は推薦による 東京府立九中、安房中、茨城工、浦和中、暁星中、湘南中、埼玉中、東京高尋常科、宇都宮中、青山師範、韮崎中、千葉師範、豊島師範、小田原中)

ややこしいのは同じ関東蹴球協会主催関東中等学校蹴球大会が1934年8月から始まっていることです。オープン参加制です。

第1回 1934年8月 青山師範3-1韮崎中
第2回 1935年8月 韮崎中3-0埼玉師範

第3回以降新聞記事が見当たりませんが、大毎大会が1935年から8月開催になり、その予選とバッティングするので、中止になったのかもしれません。『附属中学サッカーのあゆみ』(東京高等師範学校附属中学蹴球部六十周年誌編纂委員会 1984)はこの大会を東京蹴球団主催の大会の続きと誤解していますが、主催者と開催時期が異なるだけで、関東地方のオープン大会という実質は同じなので、誤解も無理はありません。

新大会が両方とも関東蹴球協会主催になっているところも、野球統制令の影響ではないでしょうか。

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野球統制令の背景 乱立した「選抜大会」

1932年の野球統制令の内容は昨日記しましたが、その背景には乱立した「選抜大会」がありました。全国を対象とした「優勝(選手権)大会」は地区大会の規模、期間の関係で朝日に対抗するのは困難ですが、ちょっとした規模の「選抜大会」ならいくらでも開催可能でした。読売新聞記事DBヨミダス歴史館を1930年に限定して「中等AND野球AND大会」で検索したところ、以下の記事がありました。

・「シーズンに魁ける全国8中等の乱戦 藤井寺大会総まくり」(1930年2月25日)
主催者:大阪時事新報社
期間:1930年3月21日~3月24日
会場:藤井寺球場
参加校:早稲田実、海草中、和歌山商、高松商、阪出(ママ 坂出?)商、広陵中、中京商、鹿児島商

大毎の選抜大会(春の甲子園大会)は3月30日開始。 1月に京都でも選抜大会があったことが記されている。大毎の甲子園選抜大会で選出されなかった有力校が選ばれたことが記されている。

・「東都中等学校野球連盟で選抜野球大会 全国から10代表参加」(1930年8月19日)
主催者:東都中等学校野球連盟
期間:1930年8月21日~8月24日
会場:神宮球場
参加校:松本商、平安中、下関商、早稲田実、今治中、北海中、一宮中、八戸中、東北中

大朝の優勝大会(夏の甲子園大会は20日に決勝=終了)、その翌日から開催されている。参加校として記載されているのは9校しかなく、見出しと異なる。

春・夏の甲子園大会の直前・直後にこうした全国的「選抜大会」が開催されていることは、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞にとって許せないことであったはずでしょう。文部省の野球統制に関する委員会には橋戸信(東京日日新聞社員)、飛田穂洲(アサヒスポーツ編集同人)が入っています。毎日、朝日両紙にとって野球統制令は商売敵を駆逐する面があったことを否定できません

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