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1930(昭和5)年第9回極東選手権大会対中華民国戦引分の経緯

☆ はじめに

 日本が参加した極東選手権大会合計計7回のうち、唯一優勝したのが1930(昭和5)年第9回極東選手権大会で、戦績は1勝1分、中華民国と同率優勝であった。対中華民国戦は通算1分6敗で、唯一黒星がつかなかった(引分)のも東京開催のこの大会であった。この大会の中華民国戦は1930年5月29日明治神宮外苑競技場で行われ、スコアは3-3だった。

 この試合が「引分、再試合なし」となった経緯について、後藤健生氏の『日本サッカー史 日本代表の90年』(双葉社, 2007)では以下のように記されている。

“さて、両チームとも、これで1勝1分の同率となったのだが、こういう場合にどうするかについて大会規則には明確な規定がなかった。ただ、極東選手権規則の中に「各種目とも優勝者が決定するまで試合をする」という項目があるだけだった。主催者側の蹴球委員会は再試合を行おうとした。しかし、試合当日の夜に日本の野津謙委員、中華民国の馬約翰監督らが参加して、明治神宮外苑競技場の隣にあった日本青年館で協議が開かれ、この席で「再試合は行わず、選手権は次回に保留」という結論になった。日本側は再試合を行うつもりだったが、中国側は「日程も迫っているし、負傷者も多い、そして大接戦の後なので試合がラフになるおそれがある」などの理由で再試合を行わないよう提案してきたという。野津は中華民国側が「極東大会にとっては国際親善の方が大切である」と言い、日本側が同意したのだと語っている。

 なお、このエピソードについて、従来から日本側の資料には「中国が再試合を拒否した」というニュアンスで書かれている場合が多い。だが、香港で発行されたサッカー史書『球国春秋』には「日本側が再試合をしようとせず、中国と日本の同位優勝となったことははなはだ遺憾なこと」とある。今となっては、詳しい経緯を明らかにすることは不可能だが、少なくとも日本側と中国側に見解の差があることは認識しておくべきことだろう。”(p.48-49)

 すなわち、引分に終わり、再試合を忌避したのは相手側であると、日中のサッカー史書で見解が異なっているとのことである。確かに、日本側の日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社, 1974)には、「はじめての極東の覇権」の項があり、この試合について以下のように記されている(太字は筆者による)。

“そして、1930(昭和5)年の明治神宮外苑競技場では、日本チームのすばらしい迫力に相手が再試合を辞退した結果の、同位優勝をかちとった。

<中略>

結局、3:3ではあったが、内容的には終始相手を圧倒した、勝った試合であった。中国チームが再試合に応じなかったのも、まさに日本代表の気合いにのまれた結果にほかならない。”(p.90)

 この試合が「引分、再試合なし」となった経緯について、『日本サッカーのあゆみ』の「蹴球選手権保留の経過」(極東選手権大会の公式記録を含む)、『東京朝日新聞』、『読売新聞』、『東京日日新聞』の記事があるので、全文を紹介する。また、新聞記事を日本サッカー史研究会で紹介したところ、新聞報道の内容の食い違いの原因について、貴重なご意見をいただいたので、それも紹介したい。


☆ 『日本サッカーのあゆみ』の「蹴球選手権保留の経過」

 以下は極東選手権大会蹴球委員会委員長だった野津謙が「引分、再試合なし」となった経緯について説明した文章であるが、最後の「May 30th, 1930」付けの英文が公式記録である。

“●蹴球選手権保留の経過

 第9回極東選手権競技大会は無事終了。日本は8選手権の中、5種目に優勝して再び天皇賜杯を獲得した。このたびの大会において注目すべきところは、日本軍の異常なる進歩向上で、この勢いで進めば、少なくとも勝敗に関する興味の点からは、今後の極東選手権大会の価値は減弱せられるものと考えられる。

 日本の蹴球も予想どおり良好な成績を表わし、比を7:2にて破り、29日の華との決勝戦は、3:3の引き分け、かくて種々協議の結果、日・華1等、比3等として、蹴球選手権は次回まで保留することになった。今、その経過を簡単に述べてみたい。極東大会蹴球規則については、1921(大正10)年、上海における第5回極東大会の委員会において次のごとき決定がなされている。

 It was moved by Mr.Osias, recorded by Mr.Smart and passed that the referee's decisions of the International Board of Football be officially adopted by Association and incorporated in the rules.

 しかし、これ以上にその細則なく、その後も毎回3国の申し合わせによって漠然と、ただ国際規則によるものとせられてきた。ただし、ゲーム中2名の補欠を許すことに対してのみ、極東規則として許されている。The FAの『Referees' Chart』第4条によれば、

  Text of the laws.

A game shall be won by the team scoring the greater number of goals. If no goals have been scored, or the scores are equal at the end of the game, the game shall be drawn.

 すなわち、延長戦に対しては何等の規則もない。しかしながら、別に極東選手権規則として、各種目ともこれを決定するまで試合するという項目がある。ここに蹴球委員会において、29日の日華決戦は無勝負とし、なお大会は2日を余すゆえに、再試合によってこの選手権を決定せんとしたのである。

 その夜日華蹴球委員集合して、再試合期日等についていろいろ談合したる結果、華委員は再試合を希望せず、日本委員もこれに賛意を表したので、 蹴球委員会としては比蹴球委員の了解を得てさっそく総務委員会にこれを申し出で、総務委員会は次の書面を日華両蹴球委員会に送って、再試合を中止し、結局日・華を1等、比を3等として、蹴球選手権は次回まで保留ということになったのである。

                                   May 30th, 1930

Football Committee of China,
Football Committee of Japan,
Present

Gentleman,

 The Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games hereby announce that on account of lack of time the tie game of Football between China and Japan contested on the 29th, May shall be declared drawn and not be replayed.

Yours trustly,

Ryozo Hiranuma
Chairman, Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games.

Y. Nozu
Chairman, Football Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games.
(野津謙)”(p.90-91)

 公式記録では、再試合を行わない理由は、「時間がないため(on account of lack of time)」とされている。この試合は、 1930年5月24日~31日の8日間の日程で開催された大会の第6日で、再試合をするとすれば最終日の第8日(5月31日)が有力であるが、この日の大会日程は、水泳(プール)、ボクシング(相撲場)、閉会式(日本青年館講堂)のみだったので、明治神宮外苑競技場は終日利用可能だったようである。


☆ 『東京朝日新聞』1930年5月30日付け記事

“蹴球決勝中止し選手権保留 日華の協議で決定

 二十九日日華蹴球戦は三対三で引分になり再試合を行ふや否やについて日本側の役員野津氏、中華側から総監督馬約翰氏コーチ李瀚淦氏体協理事立会ひの上二十九日夜日本青年館において協議を行った結果、その選手権を次回の大会まで保留する事より比島側委員の諒解を求めた。

国際親善の為に 日本代表野津氏談

蹴球部日本代表総務委員野津謙氏は語る。

 試合が同点でタイム・アップとなったので日本側は再試合を行ふつもりでそのまま試合を中止し、両軍委員コーチと共に再試合について議した所、中華のコーチは最早期日も迫り両軍負傷者も多くあの大接戦の後であるから若き選手をエキサイトさせて試合をラフにさせたくない。再試合を行ひ強ひて選手権を決定するにも及ぶまい。優劣を争ふよりも極東大会にとっては国際親善の方が大切な事である。日華お互に手をとって世界の舞台へ乗り出そうではないか。この選手権は次回の大会において争ふ事にして保留しようといはれたので日本側もこれに賛成して岸会長今村氏等に報告し選手権を保留する事になった。決して両軍の意見が折合はなかったのではなく意見の一致を見たのでこれは寧ろ非常な美談だと私は思ふ。しかし両国のみで勝手に決定すべき問題でないので一応比島側の代表イラナン氏の諒解を求める事になったのである。規則についていふと唯国際規則によるとのみしか記してなく、その国際規則には同点の時は引分とするとあるだけで勝敗決定についてそれ以上明文がない。

勝敗は第二の問題 中華コーチ李氏談

中華蹴球チームコーチ李瀚淦氏は語る。

 試合はご承知の如く日華双方の規則の解釈が異なって居た為一寸議論が起りましたが、両国代表間に行はれた会見の結果、試合は中止に決定し、選手権は次回大会まで留保される事となりました。是で日本も中華も互角となり、互に恨む事なしになった訳です。もともと極東大会は相互の親善といふ事が主眼であって勝敗は第二、第三の問題です。”

 記事の大部分は野津謙と李瀚淦の談話であり、野津談話は、当然のことながら、上記『日本サッカーのあゆみ』の「蹴球選手権保留の経過」と一致している。


☆ 『読売新聞』1930年5月30日付け記事

 『読売新聞』の記事は、『日本サッカーのあゆみ』の「蹴球選手権保留の経過」、『東京朝日新聞』とかなりニュアンスが異なっている。

“延長説と再試合説折合はず 共に第二位

 日華蹴球戦は共に同成績で廿九日の試合の結果により極東選手権が決る筈のところ、三対三で引分けとなったため、日本側は極東規則に従ひ再試合を行ふ事として試合を終了したが、中華側では延長戦に依って試合を決定せんと要求し、異常なる興奮の中に其儘各宿舎に引き揚げ、中華側応援団は蹴球は中華唯一の選手権の目標であるため極度に憤慨して「極東大会を脱会せよ」と叫び、日本青年館前を去らず紛糾して来たので、日本側役員は午後六時野津役員、馬中華監督、李コーチの会合を求め、協議の結果改めて体育協会理事の判定を受ける事となり、再び協議会が開かれたが、両国の説折合はず、遂に選手権は次回大会迄保留することとなり、共に第二位(比島第三位)となった。”

 中華民国側が(試合終了時点で)延長戦を要求したが、日本側はそれを容れず、宿舎に引き揚げてしまったので、中華民国側応援団が宿舎の日本青年館まで押し寄せて、抗議した。午後6時に始まった会合の時点では、延長戦はありえず、日本側が提案した再試合の可否のみが検討されたと考えられるが、今度は中華民国側 がこれを容れなかったようである。


☆ 『東京日日新聞』1930年5月30日付け記事

 中華民国側が延長戦を要求した件について、『日本サッカーのあゆみ』の「蹴球選手権保留の経過」、『東京朝日新聞』はまったく触れていない。この件について、当時のもうひとつの有力紙である『東京日日新聞』(現在の毎日新聞の前身)は以下のように記している。

“日華の決勝戦結局行はず 中華側友情を提唱 大会当局の不用意が因

 なほ廿九日の日華蹴球戦が別項の如く引分けとなったので決勝戦は大いに期待されたが試合終了と同時に日本選手は再試合するものとみ(ママ)で直ちに退場したのに中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていたが、要するにかうした引分けの場合決戦するか、しないかにつきはっきり決めてゐなかったためかかる結果となったもので中華の李監督は突如「試合が余りエキサイトし双方大分怪我人も出来てゐるからこれ以上決戦を行ふ必要はない、われわれは試合などどうでもよいのであってフレンドシップを傷つけたくないから次回の大会まで決勝戦を保留することにしたい」と極東同胞の友情発露を主唱し出したのでわが大会役員も比軍のイラナン総監督の意見を求めることになったが決勝戦は結局行はれぬ模様である。”

 “中華側は延長戦を主張してフヰールドに暫く留っていたが”とあり、『読売新聞』同様、中華民国側が延長戦を要求したことが明記されている。また、見出しに“大会当局の不用意が因”とあって、引分の場合の処置をあらかじめ規定しておかなかった大会当局(蹴球委員会委員長は野津謙)の不手際を批判している。


☆ なぜ『東京朝日新聞』記事は他紙と異なるのか

 上記『東京朝日新聞』、『読売新聞』両紙の記事を2009年6月22日の日本サッカー史研究会で紹介したところ、出席者から以下のご意見をいただいた。

 朝日のサッカー記者山田午郎は野津謙と同じく大日本蹴球協会理事であり、いわば「当局」と同ポジションにいたので、「当局」に不都合な中国側が延長戦を要求して紛糾した件に触れず、野津の談話を掲載することにより、「当局」の措置を正当化した。

 青山師範出身の山田は、大学系が師範系に対して「クーデター」を敢行した1929年の理事改選で残った唯一の師範系理事であった。座談会「日本のサッカー古代史(下)」『サッカー』no.15 1962所収 における新田純興の発言に、 “しかも一年ばかりすると、その午郎さんを、運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪いといって辞めてもらったりしている。他の理事が辞めた時に例をみない記念品贈呈なんかをやってるところをみると、よっぽど苦心したんだネ。(笑い)” とあるように、“運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪い”という認識は当時もあったようだ。

 サッカー・ジャーナリストが協会幹部を兼任することについては、報道の客観性、中立性という点で、本稿で紹介したような問題はあったが、山田午郎は、そのサッカー界への多大な貢献により、日本サッカー殿堂に掲額 されている人物である。当サイトにも「日本最初のサッカー・ジャーナリスト、山田午郎」をアップしているので、興味のある方はご覧いただきたい。


☆ むすびにかえて

 上記を総合すると、1930年第9回極東選手権大会対中華民国戦が「引分、再試合なし」になった経緯は以下のようにまとめられる。

1. 試合終了時点で中華民国側が延長戦を要求したが、日本側がそれを拒否した。
2. 試合終了後、午後6時に始まった日中の会合で日本側が再試合を提案したが、中華民国側がそれを拒否した。
3. 結果、「引分、再試合なし」となり、日中の同位優勝となった。
4. 極東選手権大会の公式記録では“The Contest Committee of the Ninth Far Eastern Championship Games hereby announce that on account of lack of time the tie game of Football between China and Japan contested on the 29th, May shall be declared drawn and not be replayed.”と、再試合しない理由は「時間がないため(on account of lack of time)」とされた。

 中華民国側が再試合を拒否した理由については、要求した延長戦を日本側に無視された流れから、日本側の要求のみを容れられないという立場、いわば面子の問題が最有力であると思われる。但し、フィリピン代表が大会最終日の5月31日に南甲子園運動場で、当時関西学生リーグ・チャンピオンだった京大と親善試合を行っているように(6-1でフィリピン代表が勝利)、中華民国代表チームも大会最終日まで東京に残らない日程であった可能性もあることを、付記しておきたい。

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