« 野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦 | Main | ワールドカップ関係邦文文献目録 »

明治45年(1912年)5月11日の東北(みちのく)ダービー

☆ はじめに

 日本におけるサッカーの普及は、1902年頃東京高等師範学校で始まり、1904年の対YC&AC初戦から毎年のようにYC&ACに挑み、1908年には対YC&AC戦初勝利をあげる。このころから東京高師蹴球部のOBが、その任地である各地の師範学校、中学校でサッカーを普及させていく。

 東京高等師範学校蹴球部OBが任地で普及させた最初の地域は東京、埼玉、愛知、岐阜、滋賀、兵庫、広島などの関東、東海、近畿、山陽地域であり、埼玉、静岡、広島のような「サッカー王国」はこの地域に位置している。旧制中学でサッカー強豪校として知られた東京高師附中、東京府立五中、湘南中、志太中、刈谷中、神戸一中、広島一中も同様である。

 しかし、私の知る限りでは、日本最初の中学校同士の対校戦は1912年5月11日に仙台で行われた仙台第一中学対荘内中学である。東京高師OBで最も早く中学校にサッカーを伝えたのは、1911年4月に広島一中に赴任した松本寛次であったので、この2校のサッカーは東京高師経由ではなさそうなのである。

 以下、両校の校史その他の資料により、草創期の両校サッカー史および試合を辿ってみたい。

☆ 仙台一中(現・宮城県立仙台第一高等学校)

 仙台一中・一高百年史編纂委員会編『仙台一中、一高百年史』(宮城県仙台第一高等学校創立百周年記念事業実行委員会 1993)の「第Ⅱ部 仙台一中・一高百年史 第一編 明治時代 第四章 茶畑初期 明治四十(一九〇七)年~大正二(一九一三)年 第四節 学友会の活動」の「蹴球部」の項に以下の記述がある。

“蹴球部 やはり校内大会が盛んに行われた。明治四十年伊藤運治先生が着任され、部長として指導されてからそれまでの遊戯的な蹴球から本格的な活動に入った。しかし、当時においては今日の如く選手ばかりの運動部ではなく、運動部本来の精神に立脚して生徒全般の運動を目的としていた。勿論適当な相手を校外に求めることが出来なかった為もあった。この間の消息を明治四十一年発行の学友会雑誌は次のように伝えている。すなわち、「現に仙台市内の各学校で蹴球部の設備されているのはニ中と師範と吾が校の三校であるが、ニ中のも師範のも有志だけのもので微々たるものだ。勿論吾が部としても毎日正式の練習をしているわけではなく、ただ生徒全般の運動を目的としてやって来たものであるから、競技という点においては不完全であるが、毎日全校六百の健児をして遺憾なくこの勇壮なる運動の趣を解せしめ、奮闘力を養いつつある故に盛大という点においては目下仙台市の蹴球界では吾が部が独り覇を唱えているわけである。しかも吾が校の運動部の範囲は未だ何れの部においても全校生徒の希望を悉く充たさしむることを得ない時に、独り吾が部は全校の諸君を満足せめて居る。」 こういう趣旨のもとに校内大会は毎年春秋二回、盛大に行われて全校の血を湧かせた。校長を始め全職員、全生徒がこれに参加して技を競った。対外試合としてはじめて行われたのは、明治四十五年五月十一日、山形県庄内中学(ママ)との蹴球戦である。

 この日曇天無風、敵は正午より来て我軍を待った。午後三時より試合開始、我軍良く攻めたけれども敵軍猛烈にゴールをうばわれた。我軍のメンバーは多くは初陣であるのに加えて、練習の機会がなかったために遂に敵をして名を成さしめた。”(p.94-95)

 1907(明治40)年に着任した伊藤運治が正式のサッカーを指導したとあるが、『東京高等師範学校一覧』の明治40年以前の卒業生に伊藤運治は見当たらない。 1907年は東京高師が初めてYC&ACと対戦した1904年の3年後、対YC&AC戦初勝利した1908年の1年前になる。日本最初の国内対校試合、東京高師対青山師範が行われたのが1907年である。仙台近隣でサッカーをしている学校がないので、全生徒が参加する校内大会が行われた。仙台一中にとっての最初の対校試合が 1912年5月11日の対荘内中戦であった。

 『仙台一中、一高百年史』の「第Ⅱ部 仙台一中・一高百年史 第二編 大正時代 第一章 大正前期(大正三(一九一四)年~八(一九一九)年) 第四節 学友会の発展」の「蹴球部」の項は以下のとおりである。

“蹴球部 校内活動が主なもので、対抗試合や大会はあまり行われなかった。校内大会は毎年春秋二回、十数組が参加し、これを第一軍から第十何軍というようにわけて優勝くみには伊藤運治部長から賞牌を授与した。この時期の対抗試合としては、大正三・四年の庄内中学(ママ)出身チームとの蹴球戦が記録に残っている。大正三年秋、庄内中学(ママ)出身チームが来仙し、本校グランドで対戦したが、本校は惜敗した。復讐の意気に燃えた本校は翌四年庄内中学(ママ)に挑戦し、五月八日再び本校グランドで対戦し、一対〇でこれを降して前年の恨みを晴らした。(p.111)

 大正前記段階でも、明治末期と同様で、県内に相手がおらず、校内大会と荘内中学との対校戦のみであった。大正後期になると状況が大きく変わる。「第Ⅱ部 仙台一中・一高百年史 第二編 大正時代 第二章 大正後期(大正九(一九二〇)年~十五(一九二六)年) 第四節 学友会」の「蹴球部」の項は以下のとおりである。

“蹴球部 毎年春秋二回の校内大会はこの期においても相変わらず全校生徒の血を沸かせたが、大正十三年画期的な大改革が行われた。その導火線となったのが倉沢先生の本校着任である。大正十三年の部報に、「四月栄ある国際オリンピック本邦蹴球選手として推されし広島高等師範蹴球部主将倉沢先生、本校に教職を掌れり。吾等欣喜雀躍して迎う。先生本校古来の特性たる素足争闘は蕃風にして時代錯誤たり、捕手蹴球亦規則に反するを説かれて改革の曙光を認めり。新調のユニホーム、ストッキングに靴を穿き、明星を戴き勇猛の気に躍る士集まりて一丸となりしは、これ吾が部本年度の産声なりき」と記されている。この頃二高・高工・東北学院・二中・師範等にいずれも蹴球部が組織され、仙台の球界も漸く活気を呈してきた。大正十四年には北海道の覇者札幌二中及び北海中学を迎えて技をたたかわし、前者には三対〇で大勝(六月六日)、後者とは一対一で引き分けとなった(六月十二日)。

 大正十五年十一月二十一日、宮城県体育協会主催第一回県下中等学校蹴球大会が開催された。会場は師範学校、参加校は一中・二中・学院・古川中・石巻中・師範の六校である。本校は第一回戦に古中を四対〇、二回戦に師範を一対〇で破り、優勝戦は二中との間に行われた。二中には前年苦杯をなめさせられているので、その復讐戦でもあり、選手一同まなじりを決して起ち立った。試合経過は次の通り、一対〇で二中を破り初優勝を飾った。

 前半戦我が軍のキックオフで開始、一進一退の後、二十三分我がRWの持っていった球をCF遠藤がシュートすればゴールの中央を貫いて見事ゴールインし、一点を先取した。後半敵は必死に食い下がったが、ついに我に振り切られ、一対〇で本校は初優勝したのである。

(メンバー表省略)”(p.129-130)

 1924年に広島高師蹴球部主将倉澤修之を迎え、高等師範系の指導者を得ることになる。それまでは裸足でユニホームもなかったようである。 “国際オリンピック本邦蹴球選手として推されし”とあるが、1923年第6回極東選手権大会日本代表 には「倉沢」は見当たらない。この大会には広島の鯉城クラブからも代表が選ばれているので、「代表候補として推された」のかもしれない。『サッカー六十年史』(宮城県サッカー協会 1986)の「宮城県サッカー協会の歩み」には、

“大正15年春、大日本蹴球協会東北支部が発足し、その記念大会として第1回東北蹴球大会を開いた。”(p.9)

とあり、東北帝大、二高、高工、福島高商、東北学院専門部、同普通部、一中、二中の8チームで行われたこの大会にも仙台一中は参加している(優勝は東北帝大)。

☆ 荘内中(現・山形県立鶴岡南高等学校)

 『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会, 1994)の「第一編 荘内中学校時代 各部の歴史 蹴球部」(p.151-158)に 1905(明治38)年にはじまる同校サッカーが記載されている。

“明治三十八年の春、志藤哲次、高橋柳太郎の二氏を委員に任命してからフットボールがようやく盛んになり、この秋には本校選手と寄宿舎選手の試合を試みた。これが本校の蹴球試合の最初であった。

本校選手
C梅津庸蔵 (以下省略 計15名)
寄宿舎選手
C伊藤五百尋 (以下省略 計15名)

 この試合は二対一で本校選手が勝を得た。これが大きな刺激となり、俄かに生徒間にその競技が行われるようになり、一躍戸外運動の魁の観を呈するようになった。

 翌三十九年には優勝旗を新調して、春秋二季に各級の試合を挙行することになった。

 この年六月十六日まず二年対三年の試合あり、二対〇で三年勝、次に四年対五年の試合は二対一で四年勝、決勝戦三年対四年は〇対一で四年の勝に帰し、優勝旗を得た。”(p.151)

 各級戦のメンバー表も記載されており、「K」1名、「後軍」2~3名、「中軍」2名、「前軍」8~9名、「Cap」1名であり、選手数は正式のサッカーではないようである。大正時代になると対校試合もおこなわれるようになる。

“大正元年、蹴球部は漸く技が熟してきたとはいえ、未だかつて他校と試合するの機会がなく脾肉の嘆にたえなかった。折り柄今年の修学旅行は日光仙台方面であることを聞き好機至れりとして、仙台第一中学校に向って対校試合を申込んだ処、許諾の快報を得た。五月七日、放課後から夜通し新庄まで五寸の草鞋で踏破し、そこから汽車で八日の晩は福島泊り、翌日は松島遊覧、仙台に行き諸所見学、いよいよ十一日の午後試合の運びとなった。ニ、三の欠員はあったがとにかく一応の精鋭を集め得た。一行十一名は独特の素足あるいは足袋、数日来の疲れも何のものかはとグラウンドに立てば、相手は冬スボンに兵隊靴といういで立ち、この好コントラストは観覧者の興味を大いに呼んだらしかった。両軍準備成って戦闘の開始されたのは午後三時四十分。我が方風下にあったにも拘らず始終攻勢を維持、互に連絡を保ちニ十分で我は一点を先取した。位置交換によって我方風上になる。敵は必死の攻撃、是非とも東北の覇権を保持せんものと攻め寄せるのを、我後備は鉄脚をふるって踏み返す。大滝、相良、石原、相馬等の奮戦目ざましく、広瀬の一蹴見事にゴールに入り又一点を得た。彼是する中に規定の一時間にもなったので試合終了、時間もないこととて、なつかしき友と別れ校門を出た。我が軍の陣容は

GK 坂 省三
RF 相良 鉄太郎
LF 斎藤 親平
RH 門野 良介
CH 大滝 竜弥
LH 佐藤 国雄
ORF 水野 重己
IRF 鈴木 庄蔵
CF 相馬 恒祐
ILF 石原 重高(Cap)
OLF 広瀬 寅蔵

審判 阿部 耕次郎 高力 得雄”(p.155)

 荘内中にとっても、1912(大正1)年5月11日の対仙台一中戦がやはり最初の対抗試合であり、アウェー、「素足あるいは足袋」のハンデをものともせず、2-0で勝利している。なお、「RF 相良 鉄太郎」とあるのは独語・独文学者で文化勲章受章者の 相良守峯で、その自伝『茫々わが歳月』(郁文堂, 1978)には以下の記述がある。

“このように私はいわば文学少年であり、学校でも文科的学科には苦労しなかったが、苦手なのは数学であって、後年まで数学の試験に苦しんでいる夢をみたものである。それにもしかし一斑の理由はあった。私は中学時代に「鶴陵フット団」と称するフットボールのクラブに加入し、今でいうサッカーに熱中して、雨さえ降らなければ放課後には暗くなるまでサッカーをやっていた。それで勉強時間は夜だけとなるが、昼のスポーツに疲れて、数学のように時間のかかる勉強には手がつかない、ということになるのである。サッカーといっても、私たちはそのための靴などは買ってもらえないので、裸足か、せいぜい足袋を穿くぐらいのことで(母に足袋の繕いをしてもらうのは辛かった)、裸足で練習すれば、結構それなりにうまく蹴る方法を身につけるのである。中学五年生のときのこと、修学旅行で仙台・松島に出かけた機会に、仙台の第一中学とサッカーの試合をすることになった。当時、東京以北でサッカー部のある中学は、私たちの荘内中学と仙台一中だけだったのだ。この修学旅行の道程であるが、そのころ鶴岡から新庄までは汽車がなかったので、夕刻から徒歩で十四里の道を新庄まで歩き、翌朝ようやく汽車に乗ったが、仙台へ蔵王山を横断する汽車(後の仙山線)もまだなかったので、まず福島を回り、ここで乗り換えて仙台にゆくという苦労をしなければならなかった。そこで一泊して翌日サッカーの対校試合に臨んだのである。

 質実剛健なわれわれの裸足の扮装を見て、仙台の連中はびっくりし「野蛮人!」といって冷やかした。しかしサッカーを靴ばきでやる姿を異様に思った当方の応援団は、先方を「兵隊靴を穿いてやがる!」と応酬した。この試合は所要時間を一時間と決めて行なったのだが、結果は二対零でわれわれの勝ちとなった。私のポジションはフルバックであったが、どうして当時あんなにサッカーに熱中したのであろうか。思うに、文学書で養われたロマンチックな憧憬の念が、最もロマンチックなスポーツ(だと思った)サッカーに引かれたのでもあろうか。白雲浮かぶ青空に、ポーンと蹴とばす大きな球! 後年、昭和の初めごろ私は旧制一高の教授としてサッカー部とラグビー部、両方の部長に任じられた。そこで他校とサッカーの試合があると、私は都合のつくかぎり応援に出かけて選手を激励した。その甲斐があってか、当時東京の学校ではサッカーの最も強い六つのチームが第一部で、それ以下第四部まであったが、第一部は最強の東大を初めとして全部大学のチームである中に、一高だけが高校であるのに第一部にはいっていた。そしてこの一高の選手が大部分東大に進学するものだから、そのころの東大チームは他を引き離して無敵を誇っていた。東大から五点以上引き離されないチームは強いとされていた。今の東大の実力から見れば夢のような話である。なお後年の話を附記すれば、私の女婿大貫雅敏も成城高校および東大の学生時代にサッカーの選手として、後にはナショナル・チームのメンバーとして鳴らしていたので、その長男である私の孫陽一郎も、今はまだ小学校の二年生だが、いずれサッカーをやるのではないか、などと家内で笑い話にしている。”(p.14-16)

1912年当時、鶴岡に鉄道が通じていなかったので、仙台まで行くのに、鶴岡から新庄まで徹夜で歩き、新庄から福島までバックして1泊し、3日目にようやく仙台に到着している。『国有十年 本邦鉄道国有後の施設並成績』(鉄道省 1920)掲載の「鉄道国有後建設改良線路図」によれば、新庄から余目・酒田に至る現在の陸羽西線は国有化後開通したばかりで、鶴岡を通る現在の羽越線はこの時点でも工事中であったことを確認できる。この遠征はよほど印象的だったのか、相良守峯「サッカーの旅」『山形県サッカー協会四十年誌』(山形県サッカー協会記念誌編集委員会編 山形県サッカー協会 1988)所収、でも以下のように述べている。

“小生の場合、当時の中学1、2年に入ったころには、幾つかの学科には殆ど興味がなかったし、ナギナタや撃剣や、弓道、柔道など、正規の科目同様に取扱われていたものにはあまり興味を持たず、若い命の引きつけられたものといえばサッカーのみであり、中学3年以後にはひたすら蹴球を蹴飛ばしてばかりいた。小生の守備していた場所はフルバック、即ち最後備であって、大体強襲をもって攻め返す役目であり、うまくいけば反対に敵軍を攻め落そうという、攻守両用の戦法でした。小生の属するサッカー軍は3年生としては割合に強いという評判だっただけに、競技には熱心で、教員の先生たちも競技の選手には励ましの声をかける様子でありました。

 さてこの学校のサッカーの関してばかり綿々と語っていては一方に偏するようだから、そのころ小生が経験した1回の他校試合について変った話をしたい。小生が経験したこの試合は5年生の折のことであるが、丁度学校で修学旅行を催して、学生に仙台と松島を見学させようとするものであった。ところで、仙台の一中には折しも私たちと同級の5年生が一人在学していて、たまたま当方一人の選手とも友人であるということが分かったので、これは絶好の機会であるとして、先方にサッカーの試合を申し込んでやった。ところでその時代、東京以北でサッカー部を置いている中学校は他には1校もなかったので、我々は躍起になって仙台一中に試合を挑んで、先方からも喜んでそれに応戦することになり、こうして或る夕べ、健気な旅装を調えて、2、3人連れで旅路に昇った。

 というと、一体どんな旅路に昇ったのかと言いますと、当時はまだ田舎町であった鶴岡には汽車などいうものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流へ上流へと14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。夕方から翌朝まで熟睡したのち、翌る日は仙台一中の敵軍を迎えて大いに戦ったが、ここに読者諸君に一言申したいことは、敵軍は一人ずつ勇ましい運動靴であったのに、わが庄内軍の脚がまえは全くの裸足であったことである。素裸足と、逞ましい兵隊靴とどちらが強いかは一目で判明していることであり、両軍の応援隊も敵軍は当方に対して「やあい素裸足!」と唱えるし、庄内軍は敵に対して「兵隊靴、やあい!」と弥次っていたのに、素裸足の方が強かったのは面白い結果であった。当方が3対1で勝ったからである。”(p.10-11)

相良によれば、スコアは2-0でなく、3-1になっているが、いずれにせよ裸足の荘内中が靴の仙台一中に勝利したことはまちがいないようである。

 『山形県立鶴岡南高等学校百年史』には荘内中のサッカー指導者は記載されていないが、『山形県サッカー協会四十年誌』によれば以下のとおりである。

“サッカーをわたしたちの県に伝えたのは、庄内(ママ)中学校(鶴岡南高校)に職を奉じた磯部房治先生で、1905年(明治38年)頃といわれている。

 はじめは、庄内中学校の正課の体操時間(現在の体育の時間)に指導されたが、旧庄内藩主酒井家の奨励もあって、ご家中でもよく行われるようになった。このように当時としては鶴岡市民のうちでも上流社会の人々の理解をえて、急激に普及していった。”(p.15)

『山形県立鶴岡南高等学校百年史』には磯部房治に関して以下の記述がある。

“明治三十七年二月十日露国に向って宣戦の布告があった。

(中略)

 宣戦布告に先立って磯部房治先生召集令状に接し、二月八日学校挙げて送別会を開き、翌九日職員生徒一同郊外に見送り、その行を盛んにした。”(p.70-71)

日露戦争開戦直前に徴兵されているので、比較的若い(20代?)の教師であったようである。仙台一中の伊藤運治と同様、磯部房治も『東京高等師範学校一覧』の卒業生名簿に見当たらない。荘内中学出身者は進学先でもサッカーを続けていたようで、日本が参加した最初の国際大会、1917年第3回極東選手権日本代表、すなわち最初の日本代表に同校OBの富田玄弥と芳賀剛吉がいる。

 同校のサッカーが高等師範系の指導者により、靴やユニホームを揃えて「正式化」するのも、仙台一中同様大正時代後半で、『山形県立鶴岡南高等学校百年史』の「第二編 鶴岡中学時代 各部の歴史 蹴球部」には以下の記述がある。

“大正十四年はわが蹴球部にとって記録すべき年であった。ルールは申すまでもなく、服装、ゴールネット、靴等が全部整って初めて他校チームとの試合が行われた。経験ある伊師先生の指導を受け練習を重ねたが、七月には特に東京高師蹴球部のゴールキーパー井戸正次選手を招き、オフサイドの取り方、蹴り方、パス、タックル、ヘッディング等の指導をうけた。しかし県外遠征は許されず、幸にして山形師範の来征を迎え、最初の試合を行なって見事これに勝つことが出来た。”(p.338)

 県内最初の対抗試合は1925年の対山形師範戦で、その後は1929年10月に「県大会」、同11月に「本県並びに山高主催第一回全東北大会」に出場している。

☆ 明治時代の東北の中学校におけるサッカー普及の謎

 上述の資料によれば、仙台一中にサッカーを伝えたのは1907(明治40)年伊藤運治、荘内中にサッカーを伝えたのは1905(明治38)年磯部房治ということになっているが、 両名とも日本サッカーのルーツ校東京高師OBではないようである。あるいはミッション・スクールなど、他のルートで伝わったのかもしれない。結局、高師系指導者の指導を受け、オフサイドなどを含む厳密に「正式なサッカー」をすることになるのは、他府県と同様、大正時代後半である。

|

« 野球、サッカー、ラグビーの対YC&AC戦 | Main | ワールドカップ関係邦文文献目録 »