« ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った | Main | 最初の日本代表の出身校 »

日本最初のサッカー・リーグ、日本へのFAカップ寄贈、大日本蹴球協会の創立

☆ はじめに

 1921年9月10日の大日本蹴球協会(現・JFA)の創立については、日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)でその経緯が説明されているが、その中で言及されている『The Times』、『東京朝日新聞』記事原文を読むと、『日本サッカーのあゆみ』の記述と齟齬があることが判明した。そもそも、なぜFAがカップを寄贈してきたかという理由も、『The Times』記事と当時の日英外交関係から説明できる。

 また、1919年3月に英国FAからのカップを大日本体育協会会長嘉納治五郎が受領してから、1921年9月に大日本蹴球協会が創立されるまで、2年半もかかっているが、会長の人選難によるものと説明されてきた従来の説と異なり、サッカー界の問題より、大日本体育協会(体協)と嘉納治五郎個人の問題が大きく影響しているようである。

 以下、日本サッカー史上の重要問題であるJFA創立の経緯を再検討してみた。


☆ FAによるカップ贈与と大日本蹴球協会の創立-これまでの説

 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)はFA(Football Association)による日本へのカップ贈与と大日本蹴球協会創立に関して以下のように記述している。

“瓢箪から駒 FA杯寄贈のいきさつ

●外人特派員の錯覚とFA杯

 1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行なわれたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行なわれたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。

 ロンドンにあるフットボールの総本家“The Football Association””は非常に喜んで、日本の蹴球がいよいよ盛んになってほしいとの願いをこめ、優勝チームのためにと大銀杯を贈ってくれたのだった。 1919(大正8)年3月のことである。

<中略>

 The FAが日本へシルバー・カップを贈ったということは、ロンドンの新聞では1919(大正8)年の1月にタイムズ紙で報ぜられていたが、日本では3月12日の東京朝日新聞紙上に写真入りで報道されるまではだれも知らなかった。

 やがて嘉納治五郎から内野台嶺に呼び出しがかった。

‘イギリス大使を通じイギリスの蹴球協会からわが国の蹴球協会へ銀杯が来ている。それには、「全日本蹴球協会の成立を聞き、はるかに祝意を表してこの銀杯を寄贈する。願わくば、駐日イギリス大使と徳川家達公爵とが毎年交互に全国競技大会で優勝したチームに授与するよう取り計らわれたい」という手紙もついているそうだ。けれども、日本にはそのような協会はまだないのだから、とりあえず蹴球協会ができるまでの条件つきで、大日本体育協会の会長嘉納治五郎としてイギリス大使館へ行って受け取ることにするが、蹴球協会はさっそくにこれをつくりなさい。’

という命令だったという。内野も嘉納校長のお供をして大使館に行った。大銀杯を受け取ったのは3月28日のことだった。

●協会結成への努力

 内野は、前年の関東蹴球大会で来場されたイギリス大使のグリーンに会っている。また、大使館員ウィリアム・ヘーグとは、親善試合でたびたびおつきあいしている間柄だった。内野としては、「わが国に此のゲームを本当に発展普及させるために、ナショナル・アソシエーションはぜひ必要な組織なのだから、困難な事業ではあるけれども、大使館関係の人にも力になってもらい、同志とともに設立への努力に着手する」決意をした。

 ヘーグ書記官を通じ、イギリスの協会の事情や、シルバー・カップ試合の規約などについて教えを受け、一方、貴族院議長の要職にある徳川家達公爵に名誉会長をお引き受け願い、1年おきにカップ授与をしていただく承諾も取り付けてもらったが、困難はほかにもいろいろあって、協会発足までにはまだ 1年を必要とした。”(p.46-47)


☆ 『The Times』と『東京朝日新聞』の記事

 上記文中に“The FAが日本へシルバー・カップを贈ったということは、ロンドンの新聞では1919(大正8)年の1月にタイムズ紙で報ぜられていたが、日本では3月12日の東京朝日新聞紙上に写真入りで報道されるまではだれも知らなかった。”とあるが、その記事の全文を確認することができる。

 『The Times』紙の記事は1919年1月3日と1月23日付けで2件あり、以下のとおり。

・1919年1月3日付け

“   FOOTBALL CUP FOR JAPAN

The Football Association are sending to-day to
Japan a handsome silver cup as a perpetual trophy,
to be played for by clubs in that country on lines as
closely following the conditions of the national com-
petitions in this country as circumstances will permit.

 The request that the cup should be given by the
Football Association came through the British
Foreign Office, and it was complied with immediately.”

2段落目に“FAに対するカップ贈与の要請は英国外務省を通してもたらされた(The request that the cup should be given by the Football Association came through the British Foreign Office)”ことが明記されていることに注意。『日本サッカーのあゆみ』にあるような“外人特派員の錯覚”を受けて英国FAが自発的にカップを寄贈したのではなく、英国外務省の要請により、FAはカップ寄贈を行ったのである。

・1919年1月23日付け

“   SPORT AND INTERNATIONAL
        FRIENDSHIP
        ---------
      THE FA'S GIFT TO JAPAN

 Some weeks ago it was announced that the Football
Association had presented a challenge cup to Japan
and the president of the F.A., Lord Kinnaird, has
receved the following letter from the Foreign Office--

 I am directed by Mr. Secretary Balfour to state
that he has been informed that the Football Associa-
tion has been so good as to provide a challenge cup
for competition among Japanese football teams,
and that the cup has now been forwarded to H.M.
Ambassador at Tokyo for presentation.

 I am to request you to express Mr. Balfour's thanks
to the Football Association for their generous action,
as he is sure that the encouragement of the sport by
such a means will contribute to the cordiality of
unofficial Anglo-Japanese relations.”

Balfour外相がFAが日本にカップを贈与したことを知り、日英親善に貢献したことについて感謝の意を表した英国外務省からの手紙をFA会長Kinnaird卿が受け取ったことが記されている。英国外務省の要請にFAが応えたからこそ、 Balfour外相がFAに感謝状を送ったのである。

 また、FAの歴史を記した『The history of the Football Association』(London : for the Football Association by The Naldrett Press, [1953])p.488には、

“1919 - Communications from the Foreign Office were considered by the F.A. Emergency Committee. The Committee authorized the purchase of a Silver Cup and invited its acceptance through His Britannic Majesty's Embassy in Japan, as a perpetual Challenge Cup for Competition in that country.”

とあって、FA側の記録からもカップ寄贈要請は英国外務省からであったことを確認できる。

 一方、『東京朝日新聞』大正8(1919)年3月12日付けの記事は以下のとおり。

“日本の蹴球戦奨励の為英国から銀盃を 来年から純然たる日本学校チームを作り最優勝者に授与する

英国蹴球協会は同国外務省の手を経て我英国大使館へ蹴球優勝銀盃を贈って来た。それは今から二週間許り前の事であるが銀盃の高さは十六吋、口径は七吋で其表面には『英国蹴球協会より日本へ贈る』と英語で彫られてある黒塗の台を付れば十九吋半の高さになる。英国蹴球協会が此銀盃を贈って来た意味は日本に於ける学校チームの発達を促進、奨励する目的であって、昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチの優勝者に[やが]て授与される訳になる。併し本年は大使館員や支那人などが交ってゐるから本年から大使館員などはリーグ戦に参加せず純然たる日本学校チームのリーグ戦とした上優勝者に与へる筈であるといふ。従って本年度迄英国大使館員が中心とも見られてゐたリーグは新しく設立せらる徳川家達公及び英国大使を名誉総裁とする日本蹴球協会の管下に属する事となり将来は東京のみでなく日本全国に大会を開いて最優勝者に名誉総裁から此優勝盃を与へる事になるであらう。斯くしてこそ英国蹴球協会の厚意を初めて満足せしめる訳になるが日本蹴球協会は嘉納高師校長が本年の十月頃迄に委員を選んだ上委員会を開いて総ての具体的草案を拵へる予定である。因に右の銀盃は近日の中三越呉服店に陳列して一般の観覧に供する筈であると云ふ。”

冒頭で紹介した『日本サッカーのあゆみ』が1918(大正7)年に始まった関東・中京・関西の3地域の中学校のトーナメント大会が当時存在しなかった「日本選手権」予選と“誤報” されたという記述と異なっていることに注意。

 『東京朝日新聞』記事ではカップは“昨秋から英国大使館員が中心となって現在行はれてゐる高師を初め各学校のリーグマッチ”の優勝者に授与されることが想定されており、このリーグは日本協会設立後はその管理下に吸収されることになろう、と記されている。このリーグについては、『日本サッカーのあゆみ』を含むこれまでの日本サッカー史文献でまったく触れられていないようである。


☆ 日本最初のサッカー・リーグ

 本サイトで全文を紹介した元東京蹴球団員、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」『運動界』誌10巻4号(1929年4月)p.36-45 に以下の文章がある。

“その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。加盟ティームは、東京フットボールクラブ、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の七つで、規約は今のカレッヂリーグのそれと異なるところがない。

 其処で東京フットボールクラブと東京蹴球団と英訳して同じになるので困るとかいふので一方には日本と冠し他方には英吉利と冠するやうに何時の間にかなって了ったのだ、私どもも大日本蹴球団と自らも呼ぶやうになった。誰かが何時だったか、大日本蹴球団は芦原将軍が名附け親かと云ったが、その由来は如斯である。

 そのシーズンはイギリスを冠する方の優勝となった。”

 このリーグについては、『読売新聞』1918(大正7)年10月9日付け記事もある。

“銀杯争奪蹴球  東京蹴球界に於ては今秋より英国大使寄贈の銀杯優勝戦を催すことになり、東京フットボールクラブ(英人)、支那人、東京蹴球団、豊島師範、青山師範、高等師範の六チーム参加し、既に九月二十一日より試合を開始し、青山対高師は一対一、豊島対高師はニ対零にて高師勝ち、東蹴対豊島はニ対零にて豊島の勝ちとなれるが此の優勝戦は明年二月迄続行されるべしと。”

その翌日の『東京朝日新聞』1918(大正7)10月10日付け記事にも同様の内容が記載されている。

“▲英大使銀盃蹴球戦

近時学生及び一般競技として蹴球流行熱漸く旺となりし[際?]今回英国大使グリトン[ママ]氏は銀盃を寄贈し優勝戦を挙行する事となり既に去月廿一日より開始し居り。参加チームは東京英人団、支那人団、東京蹴球団、高等師範、豊島師範、青山師範にして従来東京横浜等の外人間には銀盃試合ありしも日英支の国際蹴球競技として斯かる催しあるは是を以て嚆矢とすべし。尚今日迄の試合は青山一、高師一、高師二、豊師零、豊島二、蹴球団零にて今後場所及日時の確定せる番組左の如し。
東京蹴球団対英人(十月十二日豊島)▲高師対英人(十九日高師)▲豊島対英人(廿六日豊島)▲支那人対英人(十一月九日高師)▲高師対蹴球団(十日高師) ▲豊島対支那人(十六日豊島)▲青山対蹴球団(十七日青山)▲支那人対蹴球団(廿四日高師)▲蹴球団対英人(三十日青山)等にして本試合は明春二日[ママ] [?][?]挙行さるべしと。”

原島の記事の7チームから朝鮮青年団が抜けて6チームになっている。朝鮮青年団はこの後加盟したのかもしれない。

 上記『東京朝日新聞』記事、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」、『読売新聞』記事を総合すると、このリーグ戦は、

1) 東京フットボールクラブ(英国大使館)、東京蹴球団、東京高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団で構成された。東京蹴球団は東京高等師範、青山師範、豊島師範のOBによるクラブチーム(現存する最古のクラブチームでもある)。

2) 1918(大正7)年9月21日に始まり、翌年2月までのスケジュールであった(現在のJリーグより“本場”に近い)。

3) 優勝チームには英国大使シルバーカップが授与された。

4) 初年度の優勝チームは東京フットボールクラブ(英国大使館)。

 留意すべきなのは東京高等師範と東京蹴球団は当時の国内トップチームであることである。東京高等師範はいうまでもなく我が国サッカーのルーツ校であり、1917年日本代表最初の国際試合である第3回極東選手権大会に単独チームで参戦した、1918年当時国際公式戦を経験した唯一のチームであった。東京蹴球団も大日本蹴球協会創立後最初の国内公式戦となる第1回全日本選手権(現在の天皇杯に続く)の優勝チームであり、実際にFAカップを授与された最初のチームとなった。日本代表最初のアウェー戦となった第5回1921年極東選手権大会(上海)にはこの東京蹴球団から7人、東京高師から6人が選抜されおり、この代表チームは実質的にこの両チームの連合チームであった(残り1人は東大の野津謙)。

 この“日本最強”両チームが参加したリーグ戦で東京フットボールクラブ(英国大使館)が優勝しており、このリーグ戦の優勝チームにそのままFAカップを授与するとなると、FAカップは東京フットボールクラブ(英国大使館) または中華留日学生団の手に渡る可能性が多分にあったのである。『東京朝日新聞』記事に “併し本年は大使館員や支那人などが交ってゐるから本年から大使館員などはリーグ戦に参加せず純然たる日本学校チームのリーグ戦とした上優勝者に与へる筈であるといふ。”とあるのは、外国チームを排除しないと、せっかくのFAによるカップ贈与が日英親善の意味をなさなくなってしまうから純国内チームによるサッカー戦を新たに創設するという意味なのであろう。


☆ 『日本サッカーのあゆみ』説への疑義

 『日本サッカーのあゆみ』の

“●外人特派員の錯覚とFA杯

 1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行なわれたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行なわれたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。”

という部分には文献的裏づけがなく、「忖度」で書かれた可能性が高いのではないだろうか。

1) FAに伝わった日本のサッカー情報は“関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われた” のではなく、1918年9月に始まった「英国大使杯」ともいうべきリーグ戦ではないか。『東京朝日新聞』記事はその文献的裏づけとなろう。

2) 情報伝達ルートも“外人特派員の錯覚”ではなく、英国大使館→英国外務省であろう。『The Times』1919年 1月3日付け記事に明記されているように、FAに対してカップ寄贈を要請したのは英国外務省である。『東京朝日新聞』記事に“英国蹴球協会は同国外務省の手を経て我英国大使館へ蹴球優勝銀盃を贈って来た。”とあるが、英国大使館→英国外務省→FAという経路で要請が行われ、カップはFA→英国外務省→英国大使館という経路で日本に寄贈されてきたのである。


☆ 英国皇太子の来日とFAカップ寄贈

 ではなぜ英国大使館が本国外務省を動かしてまでFAに対するカップ寄贈要請を行ったのであろうか。英国大使館書記官のヘーグ(William Haig)氏が大使館チームを作り、英国大使カップ争奪リーグ戦を行うほどのサッカー好きだったから、というのでは「公務」としてカップ寄贈要請が行われ、本国外相がFA会長に感謝状を送る理由とはなりがたいであろう。

 当時の日英関係を考察すると、目立つ事件としては1921~1922年の両国皇位継承者(皇太子)による相互訪問があげられる。 1921年3月3日~同年9月3日に日本皇太子(後の昭和天皇)が訪欧(訪英)し、1922年4月12日~同年5月9日に英国皇太子(後のエドワード8世)が訪日している。

 エドワード皇太子はスポーツ好きで知られ、訪日中に陸上400mにプリンス・オブ・ウェールズ・カップを寄贈し、日本皇太子と東京ゴルフ倶楽部(現・駒沢オリンピック公園)でラウンド、大相撲を観戦し、関西訪問中には大谷光明と西本願寺で、随員と奈良高等女子師範学校(現・奈良女子大学)でテニスをしている。オリンピック選手団にも役員格で参加しており、1924年のパリ・オリンピックにおける英国陸上代表チームを描いた映画『炎のランナー』で、宗教上の安息日を守るためレース出場を辞退するというエリック・リデルに「国のために走れ」と説得する皇太子がエドワードである。

 訪日シーズンは英国ではサッカー・シーズンの大詰めであり(1922年のFAカップ決勝は4月29日土曜日にスタンフォード・ブリッジで行われ、ハダーズフィールドがプレストン・ノース・エンドを1-0で破っている)、英国大使館・英国外務省は「日本のFAカップ」が皇太子訪日中に日英皇太子の台覧試合として行なわれることが本国で大々的に報道されることを期待していた可能性がある。英国王(ジョージ5世)は1914年のFAカップ決勝を初めて観戦、優勝チーム・バーンリーの主将にFAカップを手渡している。この時点でFAカップは王室と関連づけられることになる。皇太子訪日の1年後1923年4月28日には“サッカーの聖地”ウェンブリー・スタジアムが開場する。英国本国で大衆的人気のあるサッカーに英国王室が「接近」していたタイミングでエドワード皇太子は訪日しているのである。本国大衆にアピールする王室イベントとしての「日本のFAカップ」用カップ寄贈であれば、英国外務省本省までが動いたとしても不思議ではなかろう。


☆ 大日本体育協会の極東大会不参加問題

 皇太子訪日の約半年前の1921年9月に大日本蹴球協会が創立され、同年11月に第1回全日本選手権大会(現・天皇杯)が開催され、優勝チーム東京蹴球団に英国大使からFAカップが授与された。当時はまだ高等教育レベルでサッカーはそれほど普及しておらず、参加チームの主力は師範学校・中学校であり、春(4月)実施は無理だったからであろう。この後も全日本選手権大会は秋開催が定着する。

 どうにか皇太子訪日前に協会を創立し、FAカップ争奪戦を開催して英国大使館に対する面子をたてることができたのだが、なぜカップ受領から協会創立まで2年半もかかったのだろうか。それには「上部団体」である大日本体育協会(以下、体協と略す)の動向を考察する必要がある。

 体協創立のきっかけとなったのは、1909年クーベルタン男爵じきじきの依頼で日本からも国際オリンピック委員会(IOC)委員を選出することになり、フランス大使が日本外務省と協議の上、嘉納治五郎が“東洋初”のIOC委員として選出されたことである。1912年ストックホルム・オリンピックに日本が参加するために1911年体協が創立され、嘉納が初代会長に就任する。ストックホルムの次回オリンピックは第一次世界大戦のため1920年アントワープまで間があくことになる。

 一方、極東大会は1913年マニラで第1回、1915年上海で第2回大会が開催されたものの、創立の経緯からしてオリンピック志向の嘉納主導の体協は正式参加せず、日本からは一部有志が参加したのみであった。極東大会の中心人物は米国YMCAからフィリピンに派遣されたエルウッド・S・ブラウンという米国人で、運営はマニラでは米国人、上海では租界の外国人が仕切っており、日本が植民地・半植民地と同列に扱われることを嘉納は嫌ったようである。ブラウンから第3回は日本で開催してほしいという依頼があり、フィリピン、中国が開催できるものを日本が開催できないというのは国辱であるという意見もあって、1917年日本初の国際競技大会、第3回極東大会が東京で開催され、サッカー同様、多くの競技の発展のきっかけになった。

 問題は次の第4回1919年のマニラ極東大会に体協として参加するかどうかだった。体協としては、開催月の5月は学生主体の日本にはふさわしくないので、8月にしてほしいと要求し、拒否されたことを表向きの理由に1919年3月17日理事会で不参加を決定する。裏の理由は嘉納の反対と1920年開催のアントワープ五輪参加優先を前提とする財政問題だった。創立の経緯からオリンピック優先を前提とする嘉納に対して、第3回東京極東大会で自らの実力を知り、次回極東大会を目標として練習していた現役選手は猛反発する。『読売新聞』の見出しを拾ってみると、

1919年4月21日  大日本体育協会 改善の声 極東大会不参加は専制的なり
1919年5月2日   運動団実行委員、嘉納校長を訪問して意見を述ぶ
1919年5月17日  十一校選手連名して体育協会と絶つ 極東大会脱退からの紛憂

などがあり、4月21日付け記事には「大日本体育協会に対する要求」として以下が掲載されている。

“体育協会は一般運動界の与論を尊重すべく一二少数者の独断を以て濫りに事を決せざる事、右の目的を貫徹せしむる為広く社会各方面より[]に運動に理解ある識者並に常に運動家と接触を保てる士を選任して委員中に加入せしめ委員会の決議によりて事を行ふこと(慶、明、日歯、早、帝、駒場、一高、農大、高師聯合運動部委員)”

「一二少数者の独断」が嘉納をさすのはいうまでもない。嘉納が校長をしている高師学生も連名に加わっている。結局、大阪朝日、大阪毎日の両紙、および大阪財界(住友・阪神・阪急)の支援をうけて結成された大阪の日本青年運動倶楽部(発起人総代:武田千代三郎)が体協に代って第4回マニラ大会に参加する。同倶楽部は大会後も解散せず、次の第5回1921年上海極東大会に日本を代表する体育団体として、極東大会側から認知されるに至る。

 この間、1919年12月東京高等師範学校の大学昇格問題が顕在化し、学生、教員、同窓会(茗渓会)の突き上げに嫌気がさしたのか、嘉納は1920年1月11日校長を辞任し、1920年6月8日~1921年2月10日にかけて「外遊」する。会長不在となった体協では、岸清一が中心になって日本青年運動倶楽部と交渉し、1923年日本開催の第6回極東大会を大阪で開催することで、体協と日本青年運動倶楽部は1921年1月30日合意(1921年は両団体合同参加。1923年以降は体協が日本を代表)する。両団体が合同で設置した全日本競技委員会の委員長には体協(東京)側の岸清一が就任することになり、体協が主導権を奪回することになる。1921年3月8日、カヤの外に置かれて完全に立場のなくなった嘉納は体協会長を辞任(表向きの理由は講道館に専念)、名誉会長となり、新会長に岸清一が就任する。

 以上のように、FAカップを受領した1919年3月から嘉納が体協会長を辞任する1921年3月にかけて、体協は極東大会不参加問題をめぐって、日本を代表する体育団体の地位を大阪の日本青年運動倶楽部に奪われかねない「存亡の危機」にあり、その最中に外遊(逃避)していた嘉納は蹴球協会の会長を人選するどころか、帰国後まもなく自身が体協会長を辞任しなければならなくなる。蹴球協会会長の人選は岸体協新会長下の新体制発足後の約半年間に行われたと考えられる。

FAからのカップ寄贈から大日本蹴球協会創立までの時系列的整理

☆ 大日本蹴球協会が早期に設立されたことの意義

 上述のように、大日本蹴球協会は英国大使館員ヘーグ氏と英国大使館、英国外務省の働きかけによって英国サッカー協会(FA)から寄贈されたシルバー・カップがきっかけとなって1921(大正10)年9月に設立された。これは日本の競技別全国的団体としてはきわめて早い例であったことは注目に値する。1924年パリ・オリンピックの陸上競技代表選考への不満を契機として、それまで会長とその側近の維持会員らで恣意的に運営されていた大日本体育協会(体協)が各競技別団体の代表によって運営され、国際競技の日本代表も各競技団体が選出するよう1925年4月に組織改革された時点で、体協に加盟していた以下の7団体に大日本蹴球協会は含まれていた。体協加盟団体中、日本漕艇協会に次いで2番目に早く、仮に1919年3月のFAシルバー・カップ寄贈時点で結成されていれば、体協加盟団体中最も古い競技団体になった可能性もあったのである。陸上競技や水上競技は体協が「直轄(体協が日本選手権を主催し、国際陸連・国際水連に加入)」していたので、サッカーよりも競技団体の設立が遅れた。

1) 日本漕艇協会 1920(大正9)年6月1日設立
2) 日本サッカー協会 1921(大正10)年9月10日設立
3) 日本テニス協会 1922(大正11)年3月31日設立
4) 日本ホッケー協会 1923(大正12)年11月18日設立
5) 日本水泳連盟 1924(大正13)年1月31日設立
6) 日本陸上競技連盟 1925(大正14)年2月7日設立
7) 全日本スキー連盟 1925(大正14)年2月15日設立

 この結果、1925年に大日本蹴球協会を代表して野津謙が体協理事となる。野津は1928年アムステルダム・オリンピックに、サッカー日本代表がオリンピックに参加していないにもかかわらず、体協役員として派遣される。当時FIFAはアムステルダムにあり、野津は日本のFIFA加盟の下交渉を行ったことを「欧州のア式蹴球界」『大日本蹴球協会会報(昭和3年度)』所収において以下のように記している。

“殊に今回のオリンピック挙行地のアムステルダムは実にア式蹴球フェデレイションの本部である所。然も名誉秘書ヒルシュマン氏は大会の役員であった関係上、岸会長にもよろしくたのみ、余は幸に数度面会する折を得て、我国蹴球の歴史並びに現状次回オリンピック大会には出場の意志ある事等、細々と物語り、最後に、数年前より問題になってゐたフェデレイション加入の事にも及んだのである。ヒルシュマン氏は頗る喜ばれ、加入問題も来春五月マドリッドの会議に提出すれば、満場一致、可決は疑ひなしと語られた。”(p.16-17)

 日本のFIFA加盟は1929年、1932年ロサンゼルス・オリンピックではサッカーはオリンピック競技として認められなかったので、日本サッカーのオリンピック初参加は1936年ベルリン・オリンピックとなった。仮に、大日本蹴球協会の設立が1920年代後半であったなら、サッカーを代表する体協理事がアムステルダム・オリンピックに派遣されることもなく、FIFA加盟が遅れ、サッカーが戦前のオリンピックに参加することもなかったかもしれない。

|

« ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った | Main | 最初の日本代表の出身校 »