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本年のJ2地上波放送

J's GOALの日程・結果によれば以下のとおり。
J1はコチラ

3月6日(土) 徳島 1-0 草津 鳴門大塚 NHK徳島
3月7日(日) 岐阜 2-1 富山 長良川 岐阜放送(録)
3月7日(日) 鳥栖 1-1 札幌 ベアスタ NHK佐賀
3月7日(日) 熊本 1-1 千葉 熊本 NHK熊本
3月7日(日) 愛媛 0-1 岡山 ニンスタ NHK松山/NHK岡山

3月13日(土) 草津 0-1 愛媛 正田スタ 群馬テレビ
3月13日(土) 札幌 0-3 福岡 札幌ド NHK札幌/NHK福岡
3月13日(土) 甲府 1-1 水戸 小瀬 NHK甲府/NHK水戸
3月13日(土) 岡山 0-1 横浜FC カンスタ NHK岡山
3月14日(日) 栃木 0-0 柏 栃木グ とちぎテレビ(録)
3月14日(日) 北九州 1-3 徳島 本城 NHK北九州/NHK福岡
3月14日(日) 大分 3-1 岐阜 大銀ド NHK大分

3月21日(日) 栃木 0-1 札幌 栃木グ とちぎテレビ(録)

4月4日(日) 甲府 0-2 鳥栖 小瀬 テレビ山梨
4月4日(日) 岐阜 3-0 札幌 長良川 NHK岐阜
4月4日(日) 北九州 0-3 千葉 本城 NHK北九州

4月10日(土) 愛媛 1-0 東京V ニンスタ あいテレビ
4月11日(日) 札幌 1-1 柏 札幌ド 北海道文化放送
4月11日(日) 栃木 0-0 草津 栃木グ とちぎテレビ(録)

4月17日(土) 徳島 0-0 愛媛 鳴門大塚 NHK徳島/NHK松山
4月18日(日) 岡山 2-1 千葉 カンスタ 山陽放送

4月24日(土) 愛媛 2-0 横浜FC ニンスタ NHK松山
4月25日(日) 札幌 1-2 水戸 札幌ド 札幌テレビ
4月25日(日) 福岡 0-1 鳥栖 レベスタ NHK福岡/NHK佐賀
4月25日(日) 大分 0-0 北九州 大銀ド NHK大分/NHK北九州

4月29日(木) 栃木 2-2 千葉 栃木グ とちぎテレビ
4月29日(木) 甲府 4-1 札幌 小瀬 山梨放送
4月29日(木) 草津 2-1 富山 正田スタ 群馬テレビ

5月2日(日) 栃木 2-0 徳島 栃木グ とちぎテレビ

5月5日(水) 草津 1-1 北九州 正田スタ 群馬テレビ
5月5日(水) 札幌 0-0 東京V 札幌ド NHK札幌
5月5日(水) 甲府 1-1 柏 小瀬 NHK甲府
5月5日(水) 福岡 6-1 熊本 レベスタ NHK福岡/NHK熊本

5月16日(日) 岡山 0-1 東京V カンスタ 岡山放送
5月16日(日) 福岡 2-1 横浜FC レベスタ テレビ西日本(録)
5月16日(日) 栃木 1-0 富山 栃木グ とちぎテレビ(録)

5月22日(土) 富山 1-2 柏 富山 NHK富山
5月22日(土) 徳島 0-0 札幌 鳴門大塚 NHK徳島
5月22日(土) 北九州 0-1 福岡 本城 NHK北九州/NHK福岡

5月29日(土) 水戸 1-0 千葉 Ksスタ NHK水戸
5月29日(土) 熊本 0-0 大分 水前寺 熊本放送
5月30日(日) 栃木 2-0 岐阜 栃木グ とちぎテレビ(録)

6月5日(土) 草津 1-1 札幌 正田スタ 群馬テレビ(録)
6月6日(日) 栃木 1-2 福岡 栃木グ とちぎテレビ(録)

7月17日(土) 草津 2-1 福岡 正田スタ 群馬テレビ
7月18日(日) 栃木 0-1 東京V 栃木グ とちぎテレビ

7月25日(日) 柏 2-2 千葉 柏 千葉テレビ18:15(試合途中)より生中継

7月31日(土) 栃木 2-1 横浜FC 栃木グ とちぎテレビ

8月8日(日) 草津 2-1 栃木 正田スタ 群馬テレビ
8月14日(土) 栃木 2-0 大分 栃木グ とちぎテレビ

8月28日(土) 栃木 1-2 熊本 栃木グ とちぎテレビ
8月29日(日) 草津 1-4 徳島 正田スタ 群馬テレビ

9月19日(日) 千葉 2-3 柏 フクアリ 千葉テレビ
9月19日(日) 愛媛 1-0 徳島 ニンスタ テレビ愛媛(録)

9月23日(木) 岐阜 2-0 大分 長良川球 NHK岐阜/NHK大分
9月23日(木) 鳥栖 0-1 福岡 ベアスタ NHK佐賀
9月23日(木) 栃木 1-0 愛媛 栃木グ とちぎテレビ
9月23日(木) 熊本 0-2 横浜FC 熊本 テレビ熊本

9月26日(日) 大分 1-1 水戸 大銀ド NHK大分
9月26日(日) 草津 0-2 鳥栖 正田スタ 群馬テレビ

10月2日(土) 北九州 1-1 大分 本城 NHK北九州/NHK大分

10月17日(日) 栃木 2-0 北九州 栃木グ とちぎテレビ(録)

10月24日(日) 甲府 1-1 愛媛 小瀬 テレビ山梨
10月24日(日) 草津 0-0 水戸 正田スタ 群馬テレビ
10月24日(日) 福岡 2-0 北九州 レベスタ NHK福岡(録)/NHK北九州(録)

10月31日(日) 水戸 13:00 柏 Ksスタ NHK水戸
10月31日(日) 栃木 13:00 岡山 栃木グ とちぎテレビ(録)

11月7日(日) 岡山 13:00 大分 カンスタ NHK岡山
11月7日(日) 甲府 14:00 北九州 小瀬 山梨放送

11月14日(日) 水戸 17:00 札幌 Ksスタ NHK水戸
11月14日(日) 栃木 17:00 甲府 栃木グ とちぎテレビ(録)
11月14日(日) 草津 19:30 岡山 正田スタ 群馬テレビ

11月20日(土) 甲府 14:30 草津 小瀬 NHK甲府

11月23日(火) 栃木 12:00 水戸 栃木グ とちぎテレビ
11月23日(火) 大分 14:30 熊本 大銀ド NHK大分/NHK熊本

11月28日(日) 熊本 13:00 北九州 熊本 NHK熊本

12月4日(土) 栃木 12:30 鳥栖 栃木グ とちぎテレビ(録)
12月4日(土) 草津 12:30 柏 正田スタ 群馬テレビ(録)
12月4日(土) 甲府 12:30 岐阜 小瀬 NHK甲府

草津‐群馬テレビ、栃木‐とちぎテレビの提携関係が目立ちます。この両チームの地上波露出量はJ1チームを凌いでいます。

J1とJ2の年間放送試合数は以下のとおり。

J1:83試合
J2:77試合

でほとんど差がありません。

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本年のJ1地上波放送

かつて「阪神タイガースとサンテレビ」に書いたように、プロ球団にとって地上波への露出は決定的に重要です。

J's GOALの日程・結果でJ1の地上波への露出状況を調べてみました。

3月6日(土) 磐田 0-1 仙台 ヤマハ 静岡放送
3月6日(土) F東京 1-0 横浜FM 味スタ TBS(単)/TOKYO MX(録)
3月6日(土) 広島 1-1 清水 広島ビ NHK広島/NHK静岡
3月6日(土) 鹿島 2-0 浦和 カシマ NHK総合
3月7日(日) 大宮 3-0 C大阪 NACK テレ玉(録)

3月13日(土) 新潟 1-1 磐田 東北電ス 新潟総合テレビ
3月13日(土) 清水 3-0 山形 アウスタ テレビ静岡
3月13日(土) 仙台 3-1 大宮 ユアスタ NHK仙台(東北ブロック)
3月13日(土) 名古屋 2-3 川崎F 豊田ス NHK総合
3月14日(日) 浦和 1-0 F東京 埼玉 TBS(単)

3月20日(土) 清水 1-0 神戸 アウスタ 静岡放送
3月20日(土) 京都 2-1 仙台 西京極 KBS京都(録)
3月20日(土) F東京 0-0 C大阪 味スタ TOKYO MX(録)
3月21日(日) 名古屋 2-0 磐田 瑞穂陸 名古屋テレビ(録)

4月3日(土) 新潟 0-0 大宮 東北電ス テレビ新潟
4月3日(土) 名古屋 2-0 神戸 豊田ス NHK名古屋
4月3日(土) 浦和 2-1 湘南 埼玉 テレ玉
4月4日(日) 磐田 4-3 G大阪 ヤマハ 静岡放送

4月10日(土) 京都 0-2 名古屋 西京極 KBS京都(録)
4月10日(土) 広島 0-3 川崎F 広島ビ NHK広島
4月10日(土) F東京 1-1 鹿島 味スタ TOKYO MX
4月11日(日) 神戸 0-2 山形 ホームズ NHK神戸

4月17日(土) 仙台 0-1 神戸 仙台放送
4月17日(土) 山形 0-1 横浜FM NDスタ NHK山形
4月17日(土) G大阪 1-1 清水 万博 NHK総合
4月17日(土) F東京 1-1 京都 味スタ TOKYO MX
4月18日(日) 鹿島 0-0 広島 カシマ NHK水戸

4月24日(土) 清水 2-1 大宮 アウスタ テレビ静岡
4月24日(土) 京都 1-2 山形 西京極 KBS京都(録)

5月1日(土) 名古屋 2-1 山形 瑞穂陸 東海テレビ(録)
5月1日(土) 仙台 1-1 C大阪 ユアスタ NHK仙台

5月5日(水) 京都 2-4 清水 西京極 KBS京都(録)/NHK京都
5月5日(水) 浦和 2-1 名古屋 埼玉 NHK総合/テレ玉(録)
5月5日(水) F東京 0-0 仙台 味スタ TOKYO MX
5月5日(水) C大阪 2-1 鹿島 長居 NHK大阪

5月8日(土) 浦和 2-3 横浜FM 埼玉 TBS(単)/テレ玉(録)
5月8日(土) 清水 0-2 新潟 アウスタ 静岡放送

5月15日(土) F東京 2-2 清水 味スタ NHK総合
5月15日(土) 新潟 3-1 山形 東北電ス NHK新潟/NHK山形
5月16日(日) 磐田 3-1 川崎F ヤマハ NHK静岡

7月17日(土) 大宮 0-1 名古屋 テレ玉
7月17日(土) F東京 2-2 神戸 味スタ TOKYO MX
7月18日(日) 京都 0-1 湘南 西京極 KBS京都
7月18日(日) G大阪 3-2 浦和 万博 毎日放送(録)

8月7日(土) 大宮 3-0 湘南 熊谷陸 テレ玉
8月7日(土) 京都 0-2 新潟 西京極 KBS京都

8月15日(日) 京都 0-1 C大阪 西京極 KBS京都

8月21日(土) 京都 1-2 横浜FM 西京極 KBS京都

9月11日(土) 磐田 3-2 湘南 ヤマハ 静岡放送
9月11日(土) 京都 3-0 神戸 西京極 KBS京都

9月18日(土) 磐田 2-1 F東京 ヤマハ 静岡放送
9月18日(土) 名古屋 1-1 横浜FM 瑞穂陸 TBS(単)/中部日本放送(録)
9月18日(土) 鹿島 3-0 大宮 カシマ NHK水戸
9月19日(日) 仙台 2-0 山形 宮城ス NHK仙台/NHK山形

9月25日(土) 清水 1-5 名古屋 アウスタ テレビ静岡
9月25日(土) 広島 1-1 鹿島 広島ビ NHK広島
9月25日(土) 京都 0-1 磐田 西京極 KBS京都

10月2日(土) 京都 0-3 広島 西京極 KBS京都(録)
10月3日(日) 磐田 0-0 横浜FM ヤマハ 静岡放送

10月16日(土) 浦和 2-0 C大阪 埼玉 テレ玉(録)
10月16日(土) 広島 1-1 磐田 広島ビ 中国放送

10月23日(土) 磐田 14:00 浦和 エコパ 静岡放送
10月23日(土) 山形 15:00 清水 NDスタ NHK山形
10月23日(土) F東京 15:00 新潟 味スタ TOKYO MX
10月24日(日) 京都 13:00 G大阪 西京極 NHK京都/KBS京都(録)/NHK大阪

10月30日(土) 仙台 13:00 京都 東日本放送
10月30日(土) 清水 13:00 F東京 アウスタ テレビ静岡
10月30日(土) 浦和 15:00 山形 埼玉 テレ玉(録)

11月6日(土) 神戸 14:00 仙台 ホームズNHK神戸/NHK仙台
11月6日(土) F東京 15:00 G大阪 味スタ TOKYO MX
11月6日(土) 磐田 15:30 新潟 ヤマハ 静岡放送
11月6日(土) 京都 17:00 川崎F 西京極 KBS京都(録)

11月14日(日) 浦和 14:00 京都 埼玉 テレ玉
11月14日(日) 名古屋 14:00 大宮 瑞穂陸 名古屋テレビ(録)

11月20日(土) F東京 14:00 川崎F 味スタ TOKYO MX
11月20日(土) 京都 19:30 大宮 西京極 KBS京都

11月23日(火) 清水 14:00 広島 アウスタ NHK静岡/NHK広島
11月23日(火) 名古屋 14:00 F東京 豊田ス NHK名古屋
11月23日(火) 大宮 17:00 神戸 NACK テレ玉

11月27日(土) 大宮 17:30 新潟 NACK テレ玉
11月27日(土) F東京 17:30 山形 味スタ TOKYO MX

12月4日(土) 浦和 15:30 神戸 埼玉 テレ玉
12月4日(土) 新潟 15:30 湘南 東北電ス NHK新潟
12月4日(土) 清水 15:30 G大阪 アウスタ 静岡放送
12月4日(土) 京都 15:30 F東京 西京極 KBS京都(録)

地上波TVへの露出と実力とはあまり関係なさそうです。地元ローカル民放(主としてU局)との結びつきが強ようそうなのが(スポンサーは想像がつきますが)、京都(KBS)、東京(MX)、浦和(テレビ埼玉)および磐田、清水の静岡勢。神奈川はJ1に3チームもいるのに、TVKに無視されていますね。高校野球の地区予選がある7月後半は、中継車やアナウンサーのやりくりの問題なのか、中継が激減します。

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このたびの船旅 「はくつる」、「きたかみ」、「らいらっく」

高速値下げでフェリー業界が危機に陥っているらしい。船旅は私の趣味のひとつだったが、これまで記録を残していなかった。これまで乗船してきた船会社や航路自体がなくなってしまったケースも多いので、今後は記録に残しておこう。

旅程:東京→仙台→松島→(はくつる)→塩釜→仙台港→(きたかみ)→苫小牧→登別温泉(泊)→札幌→小樽(泊)→(らいらっく)→新潟→東京

1日目:JRで松島海岸まで。無料ゾーンを徘徊した後、無料ゾーンを徘徊した後、観光船で塩釜まで。

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塩釜「すし哲」で夕食の後、中野栄駅からバスで仙台港フェリーターミナルへ。

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今宵の宿は太平洋フェリー「きたかみ」特等。夜食は仙台で買ってきた「かき徳」の牡蠣佃煮。

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3日目:宿の送迎バスで札幌へ。さらにJRで小樽へ。以前泊まったこともある小樽郊外祝津の青塚食堂で昼食。隣に中国人の団体がいた。この時節にと思ったが、本土ではなく、香港からだった。小樽駅前のビジホに宿泊。
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                                                                                                                                 4日目:小樽駅からバスで小樽港フェリーターミナルへ。「ライラック」特等Aに乗船。プライベート・デッキ付き。
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                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      昨日訪れた祝津を海上から。
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見所の時刻表。
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洋上から見た積丹半島の積丹岬、神威岬。
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洋上の昼食は野菜ポークカレー(700円)。
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洋上から見た茂津多岬。
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洋上の夕食。昼はカレー、夜は肉じゃがと、帝国海軍定番の洋上料理にしてみました。
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5日目:早朝の新潟港。
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バスで万代シティバスターミナルへ。高速バスで池袋へ。

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日韓戦やるべし

2006年に日韓定期戦をというのおを書きましたが、その存念がますます深まりましたw。

長谷部や本田の成長ぶりに感嘆しないひとはいないでしょう。ショーもない東アジア選手権なんかやめてAマッチデーに年2回日韓戦をやってほしいです。

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雨の高円宮杯準決勝

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サンフレッチェ広島ユース4-2静岡学園

フィジカルの広島がテクニックの静学を圧倒。ピッチコンディションもあって、DF裏へのロングボールやDFのコボレ球を狙う作戦が的中。広島#10砂川のスピードが生き、ハットトリック。静学#10大島は攻守にわたる献身的なプレー、ボールキーピングが傑出。

東京FCユース3-1三菱養和ユース

東京FCのDFラインの球際の強さが傑出。オフェンスも悪コンディションにもかかわらずスペースを上手に活用。

優勝は東京FCユースとみた。

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一皮むけた日本サッカー

本文なしw よかった

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代表TIMELINEが凄い

SAMURAI BLUEにある代表TIMELINEに注目。

日本代表最初の試合である1917年5月9日極東選手権対中華民国戦からすべての代表戦の登録メンバー(出場メンバーだけでない)が記載されています。 残念ながら古い記録には対戦相手のメンバーが記載されていません。

後藤健生氏の『日本サッカー史 日本代表の90年 資料編』(双葉社 2007)は対戦相手のメンバーも記載されていますが、日本代表も試合出場メンバーだけです。

この2つを併用すれば、代表の試合記録がより完璧になるでしょう。

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HPを移転しました

楽天が無料HPサービスを10月いっぱいでやめるとのことなので「日本サッカー・ブック・ガイド」を

http://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/ 

から
 
http://fukuju3.sports.coocan.jp/

に移転しました。コンテンツもHTMLで書いてFTPでアップロードするのは制約が多いので、ブログで管理することにしました。表がこわれたコンテンツがあります。

→「日本サッカー・ブック・ガイド

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大正期におけるサッカーの中学校への普及とその日本サッカーへの影響

【目次】
はじめに
背景 大正期における中・高等教育の拡大とスポーツ
野球の過熱と問題化
伝統校における校技の転換
新設校におけるサッカーの校技化と野球部の禁止
なぜ野球に代わってサッカーが選択されたのか? パブリック・スクールへの関心
サッカーをトップダウンで校技化した校長の出身校
日本サッカーへの影響 1. 進学校のスポーツとしてのサッカー
日本サッカーへの影響 2. サッカーのカレッジ・スポーツ化と日本代表、JFA
むすびにかえて

☆ はじめに

 日本におけるサッカーは、ルーツ校東京高等師範学校において1902年頃に始まり、同校蹴球部OBによって明治時代から各地の師範学校に普及していった。 →「草創期の東京高等師範学校のサッカー 対YCAC戦と2冊の専門書」 大正時代には中学校にも普及していくのであるが、野球熱の興隆が教育問題となり、野球に代替する教育的スポーツとしてサッカーが導入されるという、おそらく諸外国にも例がないであろう大変ユニークな普及パターンであった。また、このことは日本サッカーの構造と歴史に大きな影響を与えたので、以下それについて論考したい。

☆ 背景 大正期における中・高等教育の拡大とスポーツ

 大正時代には中・高等教育進学希望者が増大し、進学競争の激化、進学浪人の増大が社会問題化した。1917(大正6)年に臨時教育会議が設置され、その答申に基づいて中・高等学校が大幅に増設されることになった。また、1918(大正7)年に帝国大学令に代わって大学令が公布され、従来の官立帝国大学以外に私立大学、単科大学の設置が公認された。

 1917(大正6)年から1926(大正15)年にかけての中学校、高等学校、大学の学校数、生徒・学生数の増加は以下のとおりである。

1917年学校数 1926年学校数 増加率 1917年生徒・学生数 1926年生徒・学生数 増加率
中学校 329 518 +57.4% 153,891 316,759 +105.8%
高等学校 8 31 +287.5% 6,584 18,107 +175.0%
大学 4 37 +825.0% 9,044 52,816 +484.0%
(出拠:文部省編『学制百年史 資料編』 帝国地方行政学会 1972)

 こうした中・高等教育人口の拡大、さらに全国的鉄道網の完成、都市交通の充実はスポーツ発展のインフラストラクチャーとなった。この時期に東京六大学野球連盟のリーグ戦、サッカーの東京コレッヂリーグ(現・関東大学サッカーリーグ)、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)、日本フートボール大会(現・全国高等学校サッカー選手権大会および全国高等学校ラグビーフットボール大会)が開始され、現在に続いている。ナショナル・スタジアムというべき明治神宮外苑競技場、明治神宮野球場、甲子園球場もこの時期に建設されている。実質的なわが国最初の商業スポーツ総合誌『運動界』(1920年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)が創刊されており、「読む」スポーツ人口も増加していたことがわかる。

 サッカーでは上記以外に、1922年から東京蹴球団主催の関東少年蹴球大会(小学生)、1923年から全国高等学校蹴球大会(インターハイ)が始まっており、この時期に小学校から大学まですべての教育レベルでの各種大会、リーグ戦が揃うことになる。1921(大正10)年には大日本蹴球協会が設立されている。

☆ 野球の過熱と問題化

 1911(明治44)年は野球専門誌『野球界』の創刊年であることが示すように野球が興隆した年であるが、同時に野球史上に名高い野球バッシング、『東京朝日新聞』のアンチ野球キャンペーン『野球と其害毒』が掲載され、野球熱の高まりをめぐって論議がかわされた年でもあった。『野球と其害毒』は1911年8月29日~9月19日にかけて22回連載されたが、その第1回は第一高等学校校長新渡戸稲造によるものであった。全文→「新渡戸稲造談『野球と其害毒』

 一部を抜粋すると、

“野球と云ふ遊戯は悪く云へば巾着切の遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗まうなどと眼を四方八面に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが英人や独逸人には決して出来ない。彼の英国の国技たる蹴球の様に鼻が曲っても顎骨が歪むでも球に齧付いて居る様な勇剛な遊びは米人には出来ぬ。”

有名な「野球巾着切の遊戯」論であるが、直後に「英国の国技たる蹴球」が「勇剛な遊び」として評価されているのが注目される。

“此処に最も憂ふべきことは私立は勿論の事官公立の学校と雖も選手の試験に手加減することがあり得る ことである。若し一選手が落第でもしさうになると他の選手が教師の処に来て、先生実は彼の人は能く出来る人でありますけれども、試合前でしたから私等が無理に運動場へ引出しましたから出来なかったんです。先生も御承知の通り彼の人は平生出来るんですから今度の学期には勉強させますから、と懇願されると、生徒の平常を知って居る教師はつい手加減をするに至るのである。”

 『野球と其害毒』シリーズ22回には、新渡戸を先頭にのべ30人が登場するが、内訳は国内高等教育関係者7名、中学校校長(事務取扱含む)8名、中学校教員2名、文部省・体育会関係者4名、医学関係者5名、その他4名であった。アンチ野球の人物の大半は教育関係者であり、「野球問題」すなわち「教育問題」であったことを示している。要は野球に熱中するあまり、勉学を顧みなくなるということであるが、この問題は進学の心配のない高等教育機関や実業諸学校(商業学校や工業学校など)よりも、進学成績が学校評価の対象となる中学校においてより深刻であった。第1回に全国中学生の憧れの的であった第一高等学校の校長が登場しているのも、アンチ野球キャンペーンの標的を示唆しているといえよう。もっとも、このキャンペーンは大失敗に終わり、4年後の1915年には大阪朝日新聞主催の全国中等学校優勝野球大会が始まり、朝日新聞社が中学校の野球熱を大いに煽ることになるのであるが。

 明治末には校技を野球からサッカーに転換しようと試み、それに成功した中学校が実際にあった。また、大正時代に新設された中学校の中にはサッカーを校技として導入し、野球部を禁止した例も複数存在する。以下においてそれらの事例を紹介する。

☆ 伝統校における校技の転換

1. 広島一中(現・国泰寺高校)

 同校は1877(明治10)年広島県中学校として開校した広島県のみならず中国地方屈指の名門中学校である。同校野球部は1901(明治34)年松山に遠征して松山中、高松中と対戦しており、 1907(明治40)年には岡山の六高が主催した近県連合野球大会で優勝している。1915(大正4)年に始まった大阪朝日新聞主催の第1回全国中等学校優勝野球大会の予選、山陽大会では修道中、広島商を破って優勝し、山陽代表として出場している。

 ところが、1918(大正7)年校長の命により野球部の新聞社関係の対外試合を禁止され、野球部は存続するものの、その活動は沈滞していく。『広島一中国泰寺高百年史』(広島県立広島国泰寺高等学校百年史編集委員会編 母校創立百周年記念事業会 1977)はその理由として以下をあげている(p.283-285)。

a) 事故:野球部の練習を見物していた一年生に打球が当たり、死亡した。また“一九一七(大正六)年、朝日新聞山陽大会に連敗の直後、流感にかかった田辺選手が野球のウワゴトを言いながら他界したり、無理なスライディングで傷ついた森選手が一年間休学したりするなど不幸な事故が起こって”いた。

b) “「教育は生徒の人格を育成するにあって、プロ選手をつくるのではない。」という運動に対する弘瀬校長の所信”

c) 過熱した応援合戦:“本校と広島商(当時の所在地は竹屋町)は学校が近くにあったので、広島市内が二つに分かれてのけんか応援は、風俗上よくないとの判断がなされた。”

 当時の校長は1906(明治39)年~1925(大正14)年に第9代校長として在任した弘瀬時治(高知師範、東京高師卒)であった。『広島一中国泰寺高百年史』は弘瀬校長が野球に代えてサッカーを校技化した経緯を以下のように記述している。

“本校では野球に生徒が夢中になり、上級学校の進学率が低下し、学校当局を悩ませていた。弘瀬校長は蹴球を校技として奨励したいという願望をもち、一一年日本サッカーの誕生の地東京高師で蹴球部のマネージャー(役員)として活躍していた新進の教師松本寛次(数物科卒業)を懇望した。松本寛次は卒業を前にして校長との間に、本校に就職することを約束し、卒業後の四月に赴任した。この松本寛次の赴任によって蹴球部の道は開かれていくのである。”(p.232)

 松本寛次が赴任したのは1911年4月だが、同年8月29日に『東京朝日新聞』のアンチ野球キャンペーン『野球と其害毒』が始まる。『野球と其害毒』は決して事実無根ではなく、おそらく広島一中以外でも多くの中学校長が「野球問題」に苦慮していたのであろう。

 松本寛次の指導により始まった同校蹴球部は全国屈指のサッカー強豪校となる。戦前の全国中等学校蹴球大会では2回優勝しているが、同大会で優勝した内地の中学校は同校と神戸一中のみである(他は師範学校か朝鮮の中学校)。また、進学校である同校は上級学校におけるサッカーの普及に貢献し、第4代JFA会長野津謙を始めとして多くのサッカー指導者を輩出した。

2. 神戸一中(現・神戸高校)

 同校も1896(明治29)年に神戸尋常中学校として開校した兵庫県屈指の名門中学校である。同校野球部も全国的強豪で、1919(大正8)年の第5回全国中等学校優勝野球大会には兵庫県代表として出場し、優勝している。従って野球部でレギュラーになると猛練習があり、進級・進学に差し支えた。広島一中では校長が「上から」野球に代えてサッカーを導入したが、神戸一中では生徒が「下から」自主的にサッカーを選択した。 『神戸一中蹴球史』(神中蹴球倶楽部,1937)の「座談会」で同校蹴球部OBで1917(大正6)年度主将の範多龍平は次のように述べている。

“範多氏:選手はフットボールの好きな者が寄り集ることに依ってチームが作製された。従って野球もやればフットボールもやるといふ者が多く、中には野球の選手として是非共出場せねばならぬ程の者もあった(久保田等は其の一人である)。部員の中には当時の野球部は実に旺盛で練習が辛く、勉強も出来ない程なので、堪へ兼ねてフリーな蹴球をやらうと云ふ者が多かった。従て部の気分は爽かでよく気が合ひ、互に文句など起らず非常に愉快な部であった。”(p.162)

 同校蹴球部は1913(大正2)年創立。野球部から枝分かれして誕生した。初期の部員は御影師範附属小学校OBがほとんどをしめていた。小学校でサッカーの競技経験があったので、野球に代えてサッカーを選択することができたのである。同好会気分で「フリーな蹴球」を始めたので、当初は当時サッカーの全国的強豪であった御影師範には歯がたたなかった。 1923(大正12)年にビルマ人留学生チョ―・ディンの指導を受けてショートパス戦術とそれに必要な技術を会得し、1924(大正13)年の日本フートボール大会(この年までは実質的には近畿大会)に優勝している。その後中だるみがあったが、1932(昭和7)年に東京高等師範学校蹴球部OBの河本春男を指導者として招へいし、全国的強豪として中等サッカー界に君臨することになる。戦前の全国中等学校蹴球大会では4回優勝しているが、同大会で優勝した内地の中学校は同校と広島一中のみである(他は師範学校か朝鮮の中学校)。→参照:「ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー

 この時期の同校校長は1924(大正13)年~1945(昭和20)年に第2代校長として在任した池田多助(神戸一中、広島高師、京大文卒)であった。池田は草創期の同校野球部OBであったが、校長としては野球よりもサッカーに肩入れし、蹴球部再建のために河本春男を体育教師として採用する人事を行っている。

☆ 新設校におけるサッカーの校技化と野球部の禁止

 前項で示したように、広島一中第9代校長弘瀬時治は在任19年、神戸一中校長第2代校長池田多助は在任21年で、東京高師蹴球部OBの松本寛次と河本春男をサッカーの指導者として採用している。戦前の中学校長は、在任期間が長く、自校の教師の人事権など強力な権限を持ち、「校風」をトップダウンで自分色に染めることができたようである。大正時代には国策として多くの中学校が新設されたが、新設校の初代校長は自身の信念を存分に実行することができた。新設校の中には伝統校で問題化していた野球部を禁止し、サッカーを校技として採用したものがある。以下、その事例を紹介する。

1. 刈谷中(現・刈谷高校)

 刈谷中は1919(大正8)年愛知県立第八中学校として創立、初代校長は東大文学部で西洋史(英国史)を専攻した羽生隆であった。 同校公式HPの「イ-トン校との国際交流」には以下の記述がある。

“刈谷高校は大正8年(1919年)、愛知県における旧制中学の一つとして創立された男子校であった。東京大学で西洋史を専攻した初代校長羽生隆先生は、刈谷高校創設の際、イートン校をそのモデル校とし、当時この愛知県でとても盛んであった野球を禁止し、生徒にサッカーを奨励したと言う。また、当時としては他に例のないことだが学内に寮を建築した。その寮の跡を示す石碑が今も北門入って右側の自転車置き場の奥にある。「イ-トンに学べ、東海のイ-トンとなれ」という初代校長の創立の心を交流という形に具体化したのは、昭和63年(1988年)の刈谷高校創立70周年記念行事であった。イートン校サッカー部、柔道部を刈谷高校へ招待することから、創立当時の夢であったイートンと刈谷の交流が始まったのである。”

 羽生校長は同校のモデルを英国のパブリック・スクール、イートン校とし、パブリック・スクール由来のサッカーを校技として導入し、野球部を禁止した。蹴球部の実質的 指導者は同校第4代校長となる高橋英治(東京高師1914年卒、子息に日本代表選手、監督で同中OBの高橋英辰がいる)であった。同中蹴球部の創部は1922(大正11)年、選手権の優勝こそないものの、全国大会で好成績を残し、ユニークなユニフォーム、「刈谷の赤ダスキ」として全国にその名を知らしめた。

2. 志太中(現・藤枝東高校)

 志太中は1924(大正13)年創立、初代校長は東京高師1909年卒の錦織兵三郎だった。『静岡県教育史. 通史篇 下巻』(編集:静岡県立教育研修所 静岡県教育史刊行会 1973)に以下の記述がある。

“志太中学は大正十三年創立されると、まもなく蹴球を校技とした。校長錦織兵三郎は「運動競技の目的は体育の振興と精神作興の二方面である。時間浪費が少なく比較的短時間にその目的を達成するものが望ましいので、当時行われていた競技・庭球・野球の長短を厳に考慮したうえ、特に精神作興をバックとしながら運動量・男性的進取の気性・連帯共同性および未発達競技の将来性への期待からサッカーを校技として奨励した」と述べている。通学時にも全校生徒に蹴球靴をはかせ一〇のチームを作って盛んに練習をおこなわせたといわれる。また当時野球熱がすざまじく町議員の野球部創設働きかけをしりぞけたため校長は転勤されたといわれている。大正時代この学校の一卒業生の回顧によれば、草刈・整地・植樹・プール造り等、毎日鎌・鍬をもっての登校であったという。”(p.99)

蹴球部の創立は1926(大正15)年、錦織校長は蹴球部の指導者として浜松師範蹴球部の指導者だった山口秀三郎を招へいしている。“また当時野球熱がすざまじく町議員の野球部創設働きかけをしりぞけたため校長は転勤されたといわれている。”とあるが、その件については、同中5回生の石川二郎が「錦織先生とサッカー」 『藤枝東高五十年史』(静岡県立藤枝東高等学校/編 藤枝東高等学校創立50周年記念事業実行委員会 1974)所収、で以下のように述べている。

“志太中の思い出は、やはり錦織先生と蹴球から始まる。"新興の意気""精力集中"を説かれたお顔や、一緒に作業をされたお姿がなつかしく思い出される。全校生徒の毎週の反省禄に眼を通され感想を記入されたことは、大変な御努力ではなかったかと思う。
 先生は私たちが3年生の9月に伊豆の中学に突然御転任になったが、その理由が蹴球だけやって野球をしなかったことに対する地元有力者の反対によるものだということで、僕らは憤慨した。次の石井校長の野球のすすめはおだやかだったが、全生徒によって拒まれた。
 5年生の時のサッカーの主将は松永行君で、全国大会では決勝までいって惜敗した。担任の稲葉先生が教室で「松永がかわいそうだ」と言われてハンカチで涙を抑えられた光景は、今も記憶に鮮やかである。松永君は東京高師に進学、昭和11年のベルリンオリンピックに出場し貴重な得点をあげ名選手の誉を高めたが、惜しくも大東亜戦争の花と散った。(日本学校給食会常務理事)”(p.109)

 当時人気のあった野球部を禁止することは容易ではなかったようであるが、生徒も不承不承サッカーをしていたのではなく、次の校長の野球のすすめを断っている。野球部があると学外者が学内に介入してくるのも、野球部を禁止した理由のひとつかもしれない。

 同校の創部10年後のベルリン・オリンピックには同校OBが2名代表入りしており、ベルリンの奇跡といわれた対スウェーデン戦では同校OBの松永行が決勝ゴールを決めている。同校のサッカーは藤枝市を「サッカーの町」とし、サッカー王国静岡、さらに日本サッカーを牽引して今日に至っている。日本が世界大会に初出場した 1936年ベルリン・オリンピック、銅メダルを獲得した1968年メキシコ・オリンピック、ワールドカップ初出場した 1998年ワールドカップフランス大会(ワールドカップ初ゴールも)、16強に進出した2002年ワールドカップ日韓大会、そして2010年ワールドカップ南アフリカ大会の各代表に同校OBがいることは、日本サッカー界における同校の傑出した地位を示しているといえよう。

3. 湘南中(現・湘南高校)

 湘南中の創立は1921(大正10)年、初代校長は東京高師1900年卒の赤木愛太郎。『湘南サッカー半世紀を経て 岩淵二郎追悼記念』(湘南サッカー部OB会編 湘南サッカー部OB会 1981)所収の「小史」 に以下の記述がある。

“湘南中学校は大正10年(1921年)の創立であって、当初から校友会には蹴球部を置くことに定められておった。初代校長赤木愛太郎氏の方針は、野球を禁止し、サッカーを校技とするということであった。校庭にゴールポストが立ったのは大正12年秋。翌13年には、当時東京カレッヂリーグの覇者高等師範の主将、後藤基胤氏が赴任され部長として指導を受けることができ倖せなスタートであった。氏の先見性ある気風はその後長く跡を引いた。
 全校チームが結成されたのは大正14年、・・・”

 蹴球部は1925年創部、指導者の後藤基胤は東京高師OBで、日本代表初のアウェー戦、1921年第5回極東大会の日本代表であった。

4. 東京府立五中(現・小石川高校)

 東京府立五中は1919(大正8)年創立、初代校長は東京高師1905年卒の伊藤長七。伊藤校長は『東京朝日新聞』における新聞連載をまとめた教育評論『現代教育観』(同文館 1912)という著作のある、大正自由教育を公立中学校で実践した教育界の著名人であった。伊藤自身は英語専攻であったが、実験室の設置など理数教育に重点を置いた。公立中学であるが、背広にネクタイという異色の制服を定めている。野球部を禁止(現在でも小石川高校には硬式野球部は存在しない)し、蹴球部は1924(大正13)年創部で、指導者は東京高師OBの吉木利光であった。

 同校蹴球部からは、1936年のベルリン・オリンピック代表には主将の竹内悌三をはじめ3名を送り、戦後もJFA第9代会長の岡野俊一郎など多くのサッカー指導者を輩出している。

☆ なぜ野球に代わってサッカーが選択されたのか? パブリック・スクールへの関心

 野球に代えてサッカーを校技に転換した伝統校と最初から野球部を禁止し、サッカーを校技にした新設校の事例を示したが、なぜ野球に代わる競技としてサッカーが選択されたのかという点を考察してみたい。

 明治から大正にかけて日英は同盟関係にあり、当時の覇権国家英国はさまざまの点で日本のモデルであった。中等教育もその例にもれず、学齢と進学校であるという点で共通点のある中学校関係者のパブリック・スクールへの関心は高かったようである。刈谷中の羽生隆校長のように、イートン校をモデルに学校を創立した例もある。神戸一中の池田多助校長は、1925(大正14)年校長在任のままパブリック・スクール研究を目的として英国留学し、実際にパブリック・スクールに起居してパブリック・スクール教育を学んでいる。『広島一中国泰寺高百年史』には「弘瀬校長語録」というコラム中に以下の記述があり、弘瀬校長がイートン校を意識していたことがわかる。

“ナポレオンをウォータールーの戦いで破った英国のウェリントン候がイギリスに凱旋した時、母校イートン(英国の名門校)を訪れ、「ウォータールーの勝利の原因は実にこのイートンの運動場にある」(わが中学校に学ぶ者が次代の日本を背負うて立つ者だとの信念があったという)”(p.195)

東京府立五中OBで文芸春秋社の名編集者・同社社長であった池島信平は「伊藤長七(折り折りの人<7>)」(『朝日新聞』1967年10月24日夕刊収載)で、制服を背広とネクタイに定めた伊藤校長を以下のように回想している。

“校長の口ぐせは「かの英国のイートン校においては・・・・」
 このイートン校が時どき、ハーロウ校になったり、ラグビー校になるが、要するに英国の名門校の校風にならって、服装からまず「紳士」としての自覚と誇りを持てというわけである。
 「諸君は若年といえどもジェントルマンである。故にわが府立五中は紳士の学園である・・・・・」”

 トーマス・ヒューズ(Thomas Hughes)のラグビー校における自伝的学園小説『トム・ブラウンの学校生活(Tom Brown's school days)』の日本における戦前の出版は以下のとおりである。

1) 『Tom Brown's school days at Rugby. : Adapted to Japanese students』 Kobunsha, 1899.
2) 『英国学校生活 : 一名・英国学生気質』岡本鶴松(九皐),村山具政訳 九皐社 1903-4.
3) 『トムブラウンラグビー在校記』橘永生訳 北文館 1912.
4) 『英国の青年』橘永生訳 敬文堂書店 1913.
5) 『Tom Brown's school days at Rugby』 Kobunsha, 1922. (The Kobunsha series for higher schools ; shelf 2, no. 4)
6) 『英國青年物語』橘永生訳述 早稲田図書出版協会, 1922.
7) 『トム・ブラウンの学校時代』時野谷貞訳 文教書院 1925.

原書の方は日本の大学図書館の総合目録Webcat Plusにはさまざまの版が収録されているが、最も所蔵館数が多いのは 1906年刊のJ.M. Dent & Sons, E.P. Dutton版で、62館が所蔵している。日本でサッカーが始まったころから、中学校にサッカーが普及しだした大正時代にかけて、『トム・ブラウンの学校生活』がさかんに読まれたであろうことが推測できる。

 しかし、『トム・ブラウンの学校生活』の影響でパブリック・スクールがモデル化されたとすれば、モデル校はラグビー校でなければならないはずである。刈谷中のようにイートン校をモデルとした学校があったのは、広島一中の「弘瀬校長語録」にもあるような“ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った(The Battle of Waterloo was won on the playing fields of Eton.)”というウェリントン公爵が述べたことになっている引用句の影響かもしれない。 →参照:「ウォータールーの戦いはイートンの運動場で勝った

 イートン校は1870年代にはイングランド有数のサッカーの強豪で、The FA Cup Archive によれば、FAカップが始まってから最初の11年間、1871-72年度~1881-82年度に、同校のOBクラブOld Etoniansは優勝2回、準優勝3回している。

☆ サッカーをトップダウンで校技化した校長の出身校

 上記6校の事例のうち、御影師範附属小学校OBが自発的に野球に代えてサッカーを選択した神戸一中を除いて、5校は校長がトップダウンでサッカーを校技化している。サッカーを校技化するには、サッカーという競技を理解しているだけでなく、誰がサッカーを指導できるかを知り、その者を自校のサッカー指導者として教員に採用しなければならない。5校のうち、4校の校長は東京高師OBであるが、日本サッカーのルーツ校であり、中等教員の養成機関であった東京高師OBが多数をしめたのは当然といえよう。以下は校長のトップダウンでサッカーを校技化した5校の校長とサッカー指導者の出身校一覧である。

学校名 校長 校長の出身校 東京高師の卒業年次 サッカー指導者 サッカー指導者の出身校
広島一中 弘瀬時治    東京高師 1890年 松本寛次 東京高師
刈谷中 羽生隆 東大    高橋英治 東京高師
志太中 錦織兵三郎 東京高師 1909年 山口秀三郎 ?
湘南中 赤木愛太郎 東京高師    1900年 後藤基胤 東京高師
東京府立五中 伊藤長七 東京高師 1905年 吉木利光 東京高師
 

 東京高師OBの4名の校長のうち、広島一中の弘瀬と湘南中の赤木は東京高師でサッカーが始まる前に卒業している。東京府立五中の伊藤は1905年卒、東京高師でサッカー(アソシエーション・フットボール)を始めた中村覚之助の1年後輩にあたり、日本人最初のサッカー試合、1904年の東京高師対YCAC戦時に在学していた。伊藤は英語専攻であり、1904~1906年に英語教師として勤務し、サッカーを指導したWalter Augustus de Havillandとも交流があったと考えられる。De Havilland はケンブリッジ大修士の学位をもつ英国紳士であり、伊藤は在学中に「紳士のスポーツとしてのサッカー」を印象づけられたのかもしれない。志太中の錦織は 1909年卒で、1908年の対YCAC戦初勝利(於東京高師グラウンド)時に在学していた。豊島師範にサッカーを伝え、1921年の大日本蹴球協会の設立に貢献した内野台嶺、御影師範にサッカーを伝えた玉井幸助、滋賀師範にサッカーを伝えた落合秀保は同期であり、錦織も在学中にサッカーを知ったはずである。大正期にサッカーを校技化した校長たちの一部は、日本サッカーの黎明期に東京高師に在学していたのである。

 東京高師が、師範学校・中学校のサッカー指導者だけでなく、サッカーを校技化した校長たちも輩出した事実は、日本サッカー史において特記されてよいであろう。

☆ 日本サッカーへの影響 1. 進学校のスポーツとしてのサッカー

 戦前の中等教育レベルでは、東京高師蹴球部OBが普及させた師範学校、野球熱の興隆が進学成績に悪影響を及ぼすことを懸念し、パブリック・スクールと親和性のあった一部の中学校(進学校)にのみ普及し、実業系学校にはそれほど普及しなかった。野球が商業学校(松山商、広島商、中京商など)、ラグビーが工業学校(秋田工など)に普及し、全国的名門校として知られてきたのと対照的であった。すでに述べたように、戦前の全国中等学校蹴球大会で優勝した内地の中学校は神戸一中(4回)と広島一中(2回)のみで、他は師範学校か朝鮮の中学校であった。

 『蹴球年鑑 1932年版』収載「昭和七年度加盟チーム調一覧」における中等学校と朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)における第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校(p.273-284)で1932年度に蹴球部、野球部があった中等教育レベルの学校を調べることができる。また、 サッカーが地域予選を行う「全国選手権」化してから戦争のために中断するまでの、第9回~第22回全国中等学校蹴球大会(1926.1~1940.8)出場校とそれに対応する第11回~第25回全国中等学校優勝野球大会(1925.8~1939.8)出場校、上位校の校種別分布は以下のとおりである。単純に計算すれば、1932年時点における中等教育レベルでは、野球はサッカーの3.6倍普及していたことになる。

1932(昭和7)年の大日本蹴球協会登録中等学校と第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校の校種別分布
登録・予選参加中等学校数 中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 183 147 80.3% 36 19.7%
野球 663 419 63.2% 244 36.8%


全国大会全出場校の校種別分布
出場校数 中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 165 148 89.7% 17 10.3%
野球 329 168 51.1% 161 48.9%


全国大会ベスト8の校種別分布
中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 103 92.0% 9 8.0%
野球 59 49.2% 61 50.8%


全国大会ベスト4の校種別分布
中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 50 89.3% 6 10.7%
野球 26 43.3% 34 56.7%


全国大会決勝出場校の校種別分布
中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 27 96.4% 1 3.6%
野球 9 30.0% 21 70.0%


 全国大会優勝校の校種別分布
中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 14 100% 0 0%
野球 4 26.7% 11 73.3%


サッカーでは、協会登録校レベルでも全国大会出場校レベルでも、中学校・師範学校が実業系学校を圧倒しているのに対し、野球では、全国大会予選出場校レベルでもサッカーよりも実業系学校に普及し、全国大会、特にその上位校レベルでは実業系学校(商業学校)が中学校を圧倒していたといえる。また、全国大会出場中学校をさらに詳細に分析すれば、野球における全国大会上位進出中学校には広陵中や平安中などの非進学校系私立中学が含まれており、神戸一中や広島一中のような進学校を頂点とするサッカーとはかなり異なる。 →参照:「戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度

 戦後、師範学校が大学昇格し、朝鮮が独立すると、「進学校のスポーツとしてのサッカー」はより純化することになる。1948年から始まる全国高等学校蹴球選手権大会の10年間の優勝校、準優勝校は以下のとおりである。

年 優勝校 準優勝校
1948年 鯉城(国泰寺) 上野北
1949年 府池田 宇都宮   
1950年 宇都宮 小田原
1951年 県浦和 三国丘   
1952年 修道 韮崎
1953年 東千田(広大附)・岸和田    (両校優勝)
1954年 県浦和 刈谷   
1955年 県浦和 秋田商
1956年 浦和西 日立一   
1957年 秋田商 刈谷
 

 のべ20校のうち、実業系高校は秋田商のみであり、他は普通科進学校である。大正期に始まった「進学校のスポーツとしてのサッカー」は、戦後サッカーが普及して非進学校の普通科高や実業高が台頭するまで、長期にわたって続くことになる。

☆ 日本サッカーへの影響 2. サッカーのカレッジ・スポーツ化と日本代表、JFA

 進学校でサッカーを始めた中学生は進学先の高校・大学予科、さらに大学でもサッカーを続ける。明治30年代に一高、早慶が覇を競った野球と異なり、サッカーは1920年代に中学校蹴球部OBによって大学に普及した。→参照:「ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカー」 日本代表の構成も1920年代前半と後半では変化する。1920年代前半の極東大会日本代表には、青山師範、豊島師範、御影師範OBが含まれているが、極東大会初勝利した1927年第8回極東大会の日本代表は全員中学校OBの大学生(高校生、大学予科生含む)かそのOBとなっている。卒業後、小学校教員として就職しなければならなかった師範学校OBはサッカー選手としての成長に限界があり、進学先でよりハイレベルなサッカーを経験できた中学校OBの敵ではなくなる。

 1927年以降、ベルリン・オリンピックまで、戦前の日本代表は大学生とそのOBの独占状態となる。ちなみに、1936年ベルリン・オリンピック日本代表16名の学校別内訳は、早大10名、東大3名、慶大1名、東京文理大(旧・東京高師)1名で、他は朝鮮から選抜された金容植だった。この構造は戦後も長く続く。1968年メキシコ・オリンピック日本代表18名のうち、16名は大学卒であり、高卒は宮本輝紀(山陽高→八幡製鉄)と富沢清司(藤枝東高→八幡製鉄)の2名のみであった。1960年代以降、日本サッカーの中心は大学から実業団に移行していわゆる企業アマ化し、1965年には日本サッカーリーグ(JSL)が始まるが、JSLの選手も大学OBが主力をしめた。 JSLを構成したのは丸の内御三家といわれた古河電工、三菱重工、日立製作所や、マツダ(東洋工業)やトヨタのような日本を代表するメーカー系大企業であった。サッカーの強豪高校は進学校が多かったので、もともと進学志向が強かった上に、現役引退後の処遇を考慮した選手は、高卒でJSL入りするよりも、まず大学卒の学歴を入手することを優先したのである。企業側にとっても、てっとり早くサッカー部を強化するには、高卒の選手を育成するより、即戦力の大学卒をスカウトする方が都合がよかったのであろう。しかし、ユース代表クラスの有望選手が、選手として伸び盛りの20歳前後の4年間をトップ・リーグのJSLではなく、二流化した大学リーグで時間を「空費」する問題は、1970年代から1980年代にかけて日本代表が低迷した構造的要因のひとつであった。

世界大会出場日本代表登録選手中の大学生・大学OB比率

大会名 比率
1936年ベルリン五輪 15/16=93.8%
1956年メルボルン五輪 16/17=94.1%
1964年東京五輪 16/19=84.2%
1968年メキシコ五輪 16/18=88.9%
1998年ワールドカップ・フランス大会 9/22=40.9%
2002年ワールドカップ日韓大会 2/23=8.7%
2006年ワールドカップ・ドイツ大会 2/23=8.7%
2010年ワールドカップ・南アフリカ大会 3/23=13.0%


 こうした傾向はアマチュア時代を通して続くが、Jリーグが発足し、プロ化すると日本代表の構成は激的に変化する。ユース代表に選抜されるようなタレントは、大学を経由せず、クラブユースや高校から直接プロ入りするようになる。プロ化して10年目の2002年ワールドカップ日韓大会の日本代表23名中、大学卒(大学サッカー部OB)は秋田豊(愛知高→愛知学院大)と中山雅史(藤枝東高→筑波大)の2名のみになる。 Jリーグの発足による実業団のクラブ化は、上記日本サッカーの構造的問題点を解決し、1990年代以降の日本サッカーの飛躍を導いた「構造改革」であったといえよう。 →参照:「世界大会・同予選における日本代表登録選手中の大学生・大学(サッカー部)OB比率

一方、大日本蹴球協会で師範系OBに代わって大学OBが主導権を握るのは1929年の理事改選であり、同年にはFIFAに加入している。1931年には、早稲田大学ア式蹴球部の創設者であり、 1929年の理事改選を主導した鈴木重義(東京高師附中→早大)が協会の事務方トップ(当時会長は名誉職)の主事に就任している。 1902年生の鈴木は29歳で協会の事実上のトップになっている。鈴木はまた、28歳で1930年極東大会日本代表監督、34歳で 1936年ベルリン・オリンピック日本代表監督も務めている。大学への普及が遅かったサッカーでは、野球における早稲田の飛田穂洲(1886年生)や慶應の腰本寿(1884年生)のような大学OBの指導者がストックされていなかったので、大学OB第一世代が若くしてサッカー界の指導者となった。

 以後、進学校、大学OBによる協会主導はアマチュア時代を通して変わることなく、プロ化後の現在にいたるまで続いている。サッカー・プロパー(名誉職でない)のJFA会長の学歴は以下のとおりである。

会長 代数 学歴
野津謙 4代 広島一中→一高→東大
長沼健    8代 広大附高→関学大→中大
岡野俊一郎 9代 小石川高→東大
川淵三郎    10代 三国丘高→早大
犬飼基昭 11代 県浦和高→慶大
小倉純二 12代 都立西高→早大


☆ むすびにかえて

 上記においてサッカーは野球と比較して実業学校に普及しなかったことを指摘し、その理由として進学校が問題化した野球に代わる競技としてサッカーを積極的に導入した事例を紹介した。もうひとつの理由として、当時中等学校でサッカーを指導できたのは高等師範学校卒業生であったが、東京高等師範学校卒業生は実業学校にほとんど就職していないことによるとも考えられる。「東京高等師範学校1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先」で調査したところ、東京高等師範学校卒業後10年で、中等学校に在職しているもののうち、約95%は師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校に在職しており、実業学校に在職しているものは 5%にすぎなかった。 東京高等師範学校卒業生は何らかの理由で実業学校への就職を忌避していたようであり、そのことがサッカーが実業学校に普及しなかった理由のひとつでありえよう。

 昭和期には社会人(実業団)にもサッカーが普及していくが、ここでも進学校OBが大きな役割を果たしている。東洋工業にサッカー部(現・サンフレッチェ広島)を創部したのは、後にマツダ社長となる山崎芳樹(広島一中→広島高等工業)、三菱重工にサッカー部(現・浦和レッドダイヤモンズ)を創部したのは後に三菱自工会長となる 岡野良定(広島一中→広島高校→京大)であった。 1965年に発足する日本サッカーリーグには日本を代表するようなメーカー系大企業が顔を揃えているが、工場労働者が主体となったわけではない。俗に「丸の内御三家」といわれるように、社会人(実業団)にサッカーが普及したといっても、その主体となったのは本社勤務のホワイトカラーであった。

 1968年メキシコ・オリンピック代表がFIFAフェアプレー賞を受賞しているように、かつてフェアプレーは日本サッカーの美点のひとつであった。 サッカーが「巾着切の遊戯」に代わる、エリートにふさわしい教育的競技として中学校に導入され、大学に普及したという歴史的背景も、フェアプレーの伝統を形成した要因であろう。日本サッカーの欠点として「マリーシアの欠如」があげられるようになったことは、サッカーがエリートのスポーツから大衆のスポーツとなったことを象徴しているのかもしれない。

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関東少年蹴球大会(東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)の記録

☆ はじめに

 東京蹴球団主催、東京朝日新聞後援の関東少年蹴球大会は1922年に始まった、おそらく日本最初の少年(小学生)サッカー大会であろう。 2部制で、第1部が尋常小学校、第2部が高等小学校である。データは試合当日または翌日の『東京朝日新聞』記事による。

回数 日付    場所 参加チーム数    優勝・準優勝チーム 判明している参加チーム    備考

第1回 1922(大正11)年10月15~16日    日比谷公園 14チーム    第1部:豊島師範附小1-0目黒小 第2部:豊島師範附小1-0目黒小 第1部:大崎第二日野小、青山師範小、成城小、目黒小、豊島師範附小、大塚小、有馬小、泰明小 第2部:豊島師範附小(高)、四谷小(高)、青山師範附小(高)、滝野川小(高)、大崎第二日野小(高)、目黒小(高)   

第2回 1924(大正13)年3月1~2日    青山師範 14チーム    第1部:青山師範附小1-0成城小 第2部:目黒小1-0青山師範附小 青山師範附小(尋・高)、滝野川小(尋・高)、第二日野小(尋・高)、桃野小(尋・高)、豊島師範附小(尋・高)、成城小、目黒小(高)、牛込小(高)、桃園小(高)    関東大震災のため延期

第3回 1924(大正13)年9月21~23日    青山師範 25チーム    第1部:青山師範附小1-0成城小 第2部:目黒小1-0青山師範附小 目黒小(尋・高)、埼玉師範附小(尋・高)、成城小、青山小、桃野小、有馬小、桃園小(尋・高)、本田小(尋・高)、十恩小、大崎小、板橋小、青山師範附小(尋・高)、豊島師範附小(尋・高)、金曾木小、牛込小(高)、武蔵野小(高)、日野小(高)、大正小(高)
  
第4回 1925(大正14)年9月19、20、23日    青山師範 22チーム    第1部:豊島師範附小1-0成城小 第2部:浦和小1-0中目黒小 赤土小、十恩小、油面小、児玉小(尋・高)、埼玉師範附小(尋・高)、青山小、成城小、本田小(尋・高)、静岡師範附小、管刈小、中目黒小(尋・高)、入新井第二小、豊島師範附小(高)、青山師範附小(高)、浦和小(高)、桃野小(高)、日本橋小(高)、第二日野小
  
第5回 1926(大正15)年9月24~26日    羽田蹴球場 13チーム    第1部:埼玉師範附小2-1青山師範附小 第2部:浦和小2-1豊島師範附小 赤土小、埼玉師範附小、成城小、入新井第二小(A、B)、管刈小(A、B)、豊島師範附小(尋・高)、青山小、油面小、浦和小(高)、日本橋小(高)  
 
第6回 1927(昭和2)年9月24~25日    青山師範 13チーム    第1部:埼玉師範附小1-0豊島師範附小 第2部:浦和小1-0埼玉師範附小 赤土小、入新井第二小、青山師範附小(尋A、B・高)、油面小、成城小、埼玉師範附小(尋・高)、豊島師範附小(尋・高)、浦和小(高)、尾久小(高)
  
第7回 1928(昭和3)年9月22~23日    青山師範 11チーム    第1部:埼玉師範附小1-0青山師範附小 第2部:埼玉師範附小2-1児玉小 成城小、赤土小(A、B)、埼玉師範附小(尋・高)、油面小(A、B)、青山師範附小、谷戸小、児玉小(高)  
 
第8回 1929(昭和4)年9月22~23日    青山師範 8チーム    第1部:青山師範附小1-0浦和小 第2部:埼玉師範附小1-0浦和小 青山師範附小、赤土小、油面小、谷戸小、埼玉師範附小(尋・高)、浦和小(尋・高)  
 
第9回 1930(昭和5)年9月20~21日    青山師範 9チーム    豊島師範附小1-0青山師範附小 豊島師範(A、B)、油面小(A、B)、浦和小、赤松小、青山師範附小、京陽小、成城小    尋常小学校のみ?

第10回 1931(昭和6)年9月19~20日    青山師範 11チーム    第1部:豊島師範附小1-0埼玉師範附小 第2部:油面小1-0豊島師範附小 油面小、赤松小、浦和小、京陽小、豊島師範附小、第一日野小、埼玉師範附小、青山師範附小    この年から第1部:尋常4、5年 第2部:尋常6年に変更か?

第11回 1932(昭和7)年9月24~25日?    未確認 未確認    未確認 未確認
  
第12回 1933(昭和8)年9月10日    青山師範 4チーム    第1部:豊島師範附小3-0油面小 第2部:油面小3-0豊島師範附小 油面小、豊島師範小    第1部:尋常4、5年 第2部:尋常6年

第13回 1934(昭和9)年9月30日    青山師範 6チーム    第1部:豊島師範附小1-0児玉小 第2部:油面小5年2-0豊島師範附小5年 豊島師範附小、油面小、児玉小
  
第14回 1935(昭和10)年9月29日    青山師範 3校    第1部:油面小1-0児玉小 第2部:浦和第二小3-0油面小 油面小、浦和第二小、児玉小
  
第15回 1936(昭和11)年10月17日    青山師範 3校    浦和第二小1-0油面小 浦和第二小、油面小、児玉小
  
第16回 1937(昭和12)年11月14日    青山師範 2校    浦和第二小4-0児玉小 浦和第二小、児玉小
  
第17回 1938(昭和13)年11月27日    明治神宮競技場 4校    第1部:浦和第二小3-0児玉小 第2部:浦和第二小3-0油面小 浦和第二小、児玉小、宮前小、油面小
  
第18回 1939(昭和14)年11月12日    青山師範 8校    第1部:浦和第二小5-0梅島第一小 第2部:浦和第二小7-0梅島第一小 浦和第二小、梅島第一小、児玉小、淵江小、馬込小、大泉附小、千寿第一小、千寿第六小   
  
第19回 1940(昭和15)年11月23日    青山師範 5校    第1部:児玉小0-0浦和第二小 第2部:浦和第二小2-0大泉附小 児玉小、浦和第二小、大泉附小、梅島第一小、上板橋第三小

→「豊島サッカー倶楽部主催全国少年蹴球大会に関する新聞記事

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東京高等師範学校1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先

☆ はじめに

 東京高等師範学校の卒業生で教職として就職している中等学校は、師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校がほとんどで、実業学校に就職しているものはほとんどいないために、サッカーが実業学校に普及しなかった可能性がある。そこで、『東京高等師範学校一覧 大正10年度』掲載の10年前の卒業生、すなわち1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先を調査してみた。

☆ 東京高等師範学校1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先

研究科(二箇年)  卒業生7名:高等教育機関1名、中学校2名、小学校1名、官僚1名、外国留学1名、未記載1名

研究科  卒業生17名:高等教育機関2名、師範学校1名、中学校1名、高等女学校5名、官僚1名、死亡3名、未記載4名

本科国語漢文部  卒業生15名:師範学校5名、女子師範学校2名、中学校3名、高等女学校3名、高師在学1名、未記載1名

本科英語部  卒業生25名:高等教育機関2名、師範学校1名、女子師範学校2名、中学校10名、高等女学校1名、帝大学生2名、小学校1名、官僚1名、民間4名、未記載1名

本科地理歴史部  卒業生15名:高等教育機関1名、師範学校3名、女子師範学校1名、中学校1名、高等女学校4名、実業女学校1名、官僚1名、民間1名、死亡1名、未記載1名

本科数物化学部  卒業生34名:師範学校5名、女子師範学校2名、中学校14名、高等女学校5名、実業学校1名、官僚1名、民間2名(理研含む)、死亡4名

本科博物学部  卒業生12名:師範学校1名、中学校3名、高等女学校3名、小学校1名、官僚1名、民間1名、外国留学1名、死亡1名

文科兼修体操専修科  卒業生16名:高等教育機関1名、師範学校3名、中学校(高等普通学校含む)4名、高等女学校2名、実業学校2名、小学校1名、外国留学1名、死亡1名、未記載1名

数学専修科  卒業生19名:高等教育機関3名、師範学校5名、中学校6名、高等女学校1名、実業学校1名、外国留学1名、死亡1名、未記載1名

図画手工専修科  卒業生21名:師範学校4名、女子師範学校1名、中学校(高等普通学校含む)2名、高等女学校(女子学習院教授、東京女高師教諭含む)4名、実業学校(高等実業補習学校)1名、小学校2名、官僚2名、民間2名、死亡1名、未記載2名

☆ 東京高等師範学校1911(明治44)年卒業生の1921(大正10)年現在の就職先中の中等学校校種比

 卒業生合計181名。高等教育機関在職10名、小学校在職6名、高等教育機関学生3名、外国留学中4名、官僚(視学官)8名、民間10名、死亡12名、未記載12名を除く、中等学校在職数は116名であった。その内訳は以下のとおり。

校種 人数 比率   
師範学校 28名 24.1%
女子師範学校 8名 6.9%
中学校 46名 39.7%
高等女学校 28名 24.1%
実業学校 6名 5.2%
合計 116名 100.0%
 

 東京高等師範学校卒業後10年で、中等学校に在職しているもののうち、約95%は師範学校、女子師範学校、中学校、高等女学校に在職しており、実業学校に在職しているものは 5%にすぎなかった。東京高等師範学校卒業生は何らかの理由で実業学校への就職を忌避していたようであり、そのことがサッカーが実業学校に普及しなかった理由のひとつでありえよう。

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世界大会・同予選における日本代表登録選手中の大学生・大学(サッカー部)OB比率

1936年ベルリン・オリンピック代表登録選手

佐野理平 早稲田大
不破整 早稲田大
竹内悌三 東京大
鈴木保男 早稲田大
堀江忠男 早稲田大
金容植 京城普成専門学校
立原元夫 早稲田大
笹野積次 早稲田大
種田孝一 東京大
西邑昌一 関西学院大・早稲田大
右近徳太郎 慶応大
川本泰三 早稲田大
松永行 東京文理大
加茂健 早稲田大
高橋豊二 東京大
加茂正五 早稲田大

15/16=93.8%


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1956年メルボリン・オリンピック代表登録選手

下村幸男 修道高
古川好男 関西大
平木隆三 関西学院大
高森泰男 立教大
高林隆 立教大
三村恪一 中央大
佐藤弘明 関西学院大
大村和市郎 立教大
小沢通宏 東京教育大
鴇田正憲 関西学院大
小林忠生 慶応大
長沼健 関西学院大・中央大
八重樫茂生 早稲田大
内野正雄 中央大
北口晃 関西学院大
岩淵功 慶応大
川本泰三 早稲田大

16/17=94.1%


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1964年東京オリンピック代表登録選手

保坂司 明治大
横山謙三 立教大
平木隆三 関西学院大
鎌田光夫 中央大
宮本征勝 早稲田大
鈴木良三 立教大
片山洋 慶応大
上久雄 山陽高
小城得達 中央大
森孝慈 早稲田大
富沢清司 藤枝東高
山口芳忠 中央大
八重樫茂生 早稲田大
渡辺正 立教大
川淵三郎 早稲田大
継谷昌三 関西学院大
宮本輝紀 山陽高
杉山隆一 明治大
釜本邦茂 早稲田大

16/19=84.2%


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1968年メキシコ・オリンピック代表登録選手

横山謙三 立教大
浜崎昌弘 明治大
鎌田光夫 中央大
宮本征勝 早稲田大
鈴木良三 立教大
片山洋 慶応大
富沢清司 藤枝東高
山口芳忠 中央大
八重樫茂生 早稲田大
宮本輝紀 山陽高
小城得達 中央大
森孝慈 早稲田大
湯口栄蔵 関西大
渡辺正 立教大
杉山隆一 明治大
松本育夫 早稲田大
桑原楽之 中央大
釜本邦茂 早稲田大

16/18=88.9%


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1970年ワールドカップメキシコ大会予選登録選手

出拠:「全日本代表チーム」『サッカーマガジン』1969年11月号 p.51

横山謙三 立教大
船本幸路 広島大学附属高
西片信次郎 中央大
片山洋 慶応大
宮本征勝 早稲田大
山口芳忠 中央大
菊川凱夫 明治大
鎌田光夫 中央大
川野淳次 東京教育大
大西忠生 京都教育大
森孝慈 早稲田大
湯口栄蔵 関西大
小城得達 中央大
国枝強 山陽高
吉水法生 慶応大
落合弘 市立浦和高
宮本輝紀 山陽高
渡辺正 立教大
木村武夫 川口高
桑原楽之 中央大
杉山隆一 明治大
松本育夫 早稲田大

17/22=77.3%


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1972年ミュンヘン・オリンピック予選登録選手

出拠:「メキシコ・オリンピックのあと全日本はどう変ったか」『サッカーマガジン』1971年12月号 p.78-79

横山謙三 立教大
船本幸路 広島大学附属高
宮本征勝 早稲田大
山口芳忠 中央大
片山洋 慶応大
大野毅 早稲田大
荒井公三 広島工業高
藤島信雄 由利工業高
古田篤良 早稲田大
井沢千秋 明治大
森孝慈 早稲田大
富沢清司 藤枝東高
宮本輝紀 山陽高
ネルソン吉村
杉山隆一 明治大
小城得達 中央大
釜本邦茂 早稲田大
木村武夫 川口高
上田忠彦 法政大
日高憲敬 立教大
足利道夫 秋田商業高
永井良和 浦和南高

13/22=59.1%


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1974年ワールドカップ西ドイツ大会予選登録選手

出拠:「ソウル予選日本代表選手団」『サッカーマガジン』1973年6月号 p.81

横山謙三 立教大
船本幸路 広島大学附属高
瀬田龍彦 盛岡商業高
山口芳忠 中央大
大仁邦彌 慶応大
小城得達 中央大
川上信夫 立教大
古田篤良 早稲田大
江野口武士 広島市立商業高
森孝慈 早稲田大
荒井公三 広島工業高
吉村大志郎
平沢周策 秋田商業高
藤島信雄 由利工業高
足利道夫 秋田商業高
松村雄志 日本大
釜本邦茂 早稲田大
松永章 早稲田大
藤口光紀 慶応大
高田一美 日本大
永井良和 浦和南高
小畑穣 明治大
日高憲敬 立教大

14/23=60.9%


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1976年モントリオール・オリンピック予選登録選手


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1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会予選登録選手


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1980年モスクワ・オリンピック予選登録選手

出拠:「日本代表第3次強化合宿メンバー」『サッカーマガジン』1980年3月25日号 上記から保田、小柴、吉田、大友が落選した残り。

瀬田龍彦 盛岡商業高
田口光久 秋田商業高
落合弘 市立浦和高
今井敬三 同志社大
清雲栄純 法政大
岸奥祐二 室蘭大谷高
須藤茂光 中央大
菅又哲男 法政大
石井茂巳 中央大
小見幸隆 読売ク
前田秀樹 法政大
高原郁夫 上田東高
金田喜稔 中央大
川勝良一 法政大
田中真二 中央大
永井良和 浦和南高
碓井博行 早稲田大
横山正文 島原工業高
長谷川治久 大阪商業大
木村和司 明治大

12/20=60.0%


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1982年ワールドカップ・スペイン大会予選登録選手

出拠:「若き全日本、第一の試練に突入」『サッカーマガジン』1981年1月25日号 グラビア

坂下博之 筑波大鈴木康仁 摂津高
原博実 早稲田大
長谷川治久 大阪商業大
加藤久 早稲田大
越田剛史 筑波大
山本昌邦 国士館大
岡田武史 早稲田大
田中真二 中央大
都並敏史 読売ク
戸塚哲也 読売ク
菅又哲男 法政大
木村和司 明治大
佐々木博和 枚方FC
前田秀樹 法政大
横山正文 島原工業高
須藤茂光 中央大
金田喜稔 中央大
副島博志 佐賀商業高

13/19=68.4%


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1984年ロサンゼルス・オリンピック予選登録選手

出拠:「ロス五輪を目指す日本代表」『サッカーマガジン』1984年5月号 グラビア

田口光久 秋田商業高
坪田和美 法政大
斉藤和夫 法政大
加藤久 早稲田大
越田剛史 筑波大
都並敏史 読売クY
岡田武史 早稲田大
菅又哲男 法政大
池内豊 愛知高
田中真二 中央大
前田秀樹 法政大
木村和司 明治大
田中孝司 明治大
風間八宏 筑波大
松木安太郎 読売クY
金田喜稔 中央大
碓井博行 早稲田大
柱谷幸一 国士館大
原博実 早稲田大
横山正文 島原工業高
松浦敏夫 早稲田大
水沼貴史 法政大

17/22=77.3%


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1986年ワールドカップ・メキシコ大会予選登録選手

出拠:「対韓国第1戦日本代表」『サッカーマガジン』1985年12月号 p.72

森下申一 東京農大
松井清隆 大阪体育大
加藤久 早稲田大
松木安太郎 読売ク
都並敏史 読売ク
岡田武史 早稲田大
石神良訓 静岡工業高
勝矢寿延 大阪商業大
池内豊 愛知高
越田剛史 筑波大
与那城ジョージ
木村和司 明治大
西村昭宏 大阪体育大
宮内聡 帝京高
手塚聡 中央大
原博実 早稲田大
水沼貴史 法政大
柱谷幸一 国士館大
戸塚哲也 読売ク
平川弘 順天堂大

13/20=65.0%


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1988年ソウル・オリンピック予選登録選手

出拠:「石井全日本選手起用一覧」『サッカーマガジン』1987年12月号 p.111

森下申一 東京農大
松井清隆 大阪体育大
加藤久 早稲田大
金子久 帝京高
堀池巧 順天堂大
勝矢寿延 大阪商業大
  倉田安治 筑波大
中本邦治 中央大
西村昭宏 大阪体育大
都並敏史 読売ク
宮内聡 帝京高
奥寺康彦 相模工業大学附属高
松山吉之 早稲田大
越後和男 四日市中央工業高
水沼貴史 法政大
手塚聡 中央大
原博実 早稲田大
松浦敏夫 早稲田大
武田修宏 清水東高

13/19=68.4%


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1990年ワールドカップ・イタリア大会予選登録選手

出拠:「イタリア90・ワールドカップ・アジア予選メンバー」『サッカーマガジン』1989年7月号 p.119

森下申一 東京農大
松永成立 愛知学院大
信藤克義 中央大
梶野智幸 東京農大
  佐野達 法政大
堀池巧 順天堂大
堀直人 早稲田大
井原正巳 筑波大
柱谷哲二 国士館大
水沼貴史 法政大
森正明 福岡大
佐々木雅尚 国士館大
名取篤 帝京高
望月聡 大阪商業大
池ノ上俊一 大阪商業大
大榎克己 早稲田大
平川弘 順天堂大
長谷川健太 筑波大
草木克洋 洛南高
吉田光範 刈谷工業高
前田治 東海大
浅岡朝泰 筑波大
黒崎久志 宇都宮学園高

19/23=82.6%


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1994年ワールドカップ・アメリカ大会予選登録選手

松永成立 愛知学院大
前川和也 平戸高
大嶽直人 順天堂大
勝矢寿延 大阪商業大
堀池巧 順天堂大
柱谷哲二 国士館大
都並敏史 読売ク
井原正巳 筑波大
三浦泰年 静岡学園高
大野俊三 習志野高
福田正博 中央大
ラモス瑠偉
北澤豪 修徳高
吉田光範 刈谷工業高
森保一 長崎日大高
澤登正朗 東海大
武田修宏 清水東高
三浦知良 静岡学園高中退
長谷川健太 筑波大黒崎比差支 宇都宮学園高
中山雅史 筑波大
高木琢也 大阪商業大

11/22=50.0%


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1998年ワールドカップ・フランス大会出場登録選手

小島伸幸 同志社大
名良橋晃 千葉英和高
相馬直樹 早稲田大
井原正巳 筑波大
小村徳男 順天堂大
山口素弘 東海大
伊東輝悦 東海大一高
中田英寿 韮崎高
中山雅史 筑波大
名波浩 順天堂大
小野伸二 清水商
呂比須ワグナー
服部年宏 米子東高(東海大中退)
岡野雅行 松江日大高(日大中退)
森島寛晃 東海大一高
斉藤俊秀 早稲田大
秋田豊 愛知学院大
城彰二 鹿児島実業高
中西永輔 四日市中央高
川口能活 清水商
楢崎正剛 奈良育英高
平野孝 清水商

9/22=40.9%


--------------------------------------------------------------------------------
2002年ワールドカップ日韓大会出場登録選手

川口能活 清水商業高
秋田豊 愛知学院大
松田直樹 前橋育英高
森岡隆三 桐蔭学園高
稲本潤一  ガンバY
服部年宏 東海大一高
中田英寿 韮崎高
森島寛晃 東海大一高
西澤明訓 清水東高
中山雅史 筑波大
鈴木隆行 日立工業高
楢崎正剛 奈良育英高
柳沢敦 富山第一高
アレックス 明徳義塾高
福西崇史 新居浜工業高
中田浩二 帝京高
宮本恒靖 ガンバY
小野伸二 清水商業高
小笠原満男 大船渡高
明神智和 レイソルY
戸田和幸 桐蔭学園高
市川大祐 エスパルスY
曽ヶ端準 アントラーズY

2/23=8.7%


--------------------------------------------------------------------------------
2006年ワールドカップ・ドイツ大会出場登録選手

楢崎正剛 奈良育英高
茂庭照幸 ベルマーレY
駒野友一 サンフレッチェY
遠藤保仁 鹿児島実業高
宮本恒靖 ガンバY
中田浩二 帝京高
中田英寿 韮崎高
小笠原満男 大船渡高
高原直泰 清水東高
中村俊輔  桐光学園高
巻誠一郎 駒沢大
土肥洋一  大津高
柳沢敦 富山第一高
アレックス(三都主アレサンドロ)
福西崇史 明徳義塾高
大黒将志 ガンバY
稲本潤一 ガンバY
小野伸二 清水商
坪井慶介 福岡大
玉田圭司 習志野高
加地亮 滝川第二高
中澤佑二 三郷工業技術高
川口能活 清水商

2/23=8.7%


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2006年ワールドカップ・ドイツ大会出場登録選手

楢崎正剛 奈良育英高
茂庭照幸 ベルマーレY
駒野友一 サンフレッチェY
遠藤保仁 鹿児島実業高
宮本恒靖 ガンバY
中田浩二 帝京高
中田英寿 韮崎高
小笠原満男 大船渡高
高原直泰 清水東高
中村俊輔  桐光学園高
巻誠一郎 駒沢大
土肥洋一  大津高
柳沢敦 富山第一高
アレックス(三都主アレサンドロ)
福西崇史 明徳義塾高
大黒将志 ガンバY
稲本潤一 ガンバY
小野伸二 清水商
坪井慶介 福岡大
玉田圭司 習志野高
加地亮 滝川第二高
中澤佑二 三郷工業技術高
川口能活 清水商

2/23=8.7%


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2010年ワールドカップ南アフリカ大会出場登録選手

楢崎正剛 奈良育英高
川島永嗣 浦和東高
川口能活 清水商
中澤佑二 三郷工業技術高
田中マルクス闘莉王 渋谷幕張高
今野泰幸 東北高
岩政大樹 東京学芸大
駒野友一 サンフレッチェY
長友佑都 明治大
内田篤人 清水東高
中村俊輔 桐光学園高
遠藤保仁 鹿児島実業高
中村憲剛 中央大
稲本潤一 ガンバY
阿部勇樹 ジェフY
長谷部誠 藤枝東高
本田圭佑 星陵高
松井大輔 鹿児島実業高
岡崎慎司 滝川第二高
玉田圭司 習志野高
大久保嘉人 国見高
矢野貴章 浜名高
森本貴幸 ヴェルディY

3/23=13.0%

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戦前におけるサッカーと野球の中等教育への普及度

【目次】
はじめに
『蹴球年鑑 1932年版』収載「昭和七年度加盟チーム調一覧」における中等学校
朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)における第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校(p.273-284)
総数におけるサッカーと野球の普及度
第9回~第22回全国中等学校蹴球大会(1926.1~1940.8)出場校
第11回~第25回全国中等学校優勝野球大会(1925.8~1939.8)出場校
まとめ


☆ はじめに

 以下の資料で1932(昭和7)年度におけるサッカーと野球の中等教育への普及を調査することができる。

1. 『蹴球年鑑 1932年版』収載「昭和七年度加盟チーム調一覧」
1932年度に大日本蹴球協会に加盟(登録)した中等学校。

2. 朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)
第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校。

上記で蹴球部、野球部のあるのある中等学校を調査できるが、それらにおける校種(中学校、師範学校、商業学校、工業学校など)と全国大会出場校における校種の構成は大きく異なるので、第9回~第22回全国中等学校蹴球大会(1926.1~1940.8)出場校と第11回~第25回全国中等学校優勝野球大会(1925.8~1939.8)出場校における校種の構成も比較した。


☆ 『蹴球年鑑 1932年版』収載「昭和七年度加盟チーム調一覧」における中等学校

 中等教育レベル加盟チームは地域別で以下のとおり。分母は全数、分子は中学校数、(+ )は師範学校数。

【北海道】4(+1)/8:札幌一中、札幌ニ中、北海中、小樽商、函館師範、函館商、函館工、函館中

【東北】4(+2)/6:岩手師範、盛岡中、仙台ニ中、東北学院中、宮城師範、仙台一中

【関東】37(+9)/54:青山学院中、青山師範、府立園芸、暁星中、慶応中、成城高中、府立一商、府立五中、府立ニ中、府立八中、帝都商、東亜商、東京高中、豊島師範、独協中、日大二中、東京高師附中、本郷中、明治学院中、目白中、立正中、早稲田実、浅野総合中、小田原中、神奈川工、神奈川師範、川崎中、鎌倉中、関東学院中、湘南中、横浜二中、横浜三中、聖ジョセフ中、浦和中、粕壁中、川越中、熊谷中、埼玉師範、埼玉商、不動ヶ岡中、千葉師範、佐倉中、茨城師範、水海道中、水戸中、今市中、栃木師範、真岡中、群馬師範、藤岡中、甲府中、韮崎中、山梨師範、甲府商

【北陸】1(+0)/2:富山商、金沢一中

【東海】11(+4)/23:熱田中、刈谷中、愛知県工、小牧中、愛知県商、愛知県第一師範、津島中、豊橋中、明倫中、東海商、東邦商、豊橋市商、名古屋市商、大垣商、岐阜中、岐阜師範、岐阜一工、恵那中、志太中、静岡師範、静岡中、浜松師範、浜松一中

【関西】31(+6)/49:上宮中、市岡中、豊中中、今宮中、生野中、堺中、住吉中、八尾中、岸和田中、高津中、桃山中、天王寺師範、池田師範、明星商、京阪商、北陽商、泉尾工、都島工、鳳中、和歌山中、海草中、粉河中、海南中、新宮中、奈良師範、滋賀師範、八日市中、八幡商、京都ニ商、福知山中、姫路中、神戸一中、神戸ニ中、神戸三中、洲本中、小野中、三田中、甲陽中、灘中、関西学院中、神港中、兵庫県工、神戸一商、第一神港商、第二神港商、第三神港商、御影師範、姫路師範、滝川中

【中国四国】17(+4)/23:岡山師範、津山中、岡山二中、広島一中、広島高師附中、広島師範、修道中、広陵中、興文中、忠海中、広島二中、尾道中、広島商船、三次中、浜田中、大社中、山口師範、山口中、徳山中、下関商、愛媛師範、松山中、大洲中

【九州】10(+6)/18:長崎師範、島原中、熊本中、玉江中、済々中、熊本師範、宇土中、大分師範、大分中、中津中、大分商、鹿児島第一師範、鹿児島第二師範、鹿児島一中、鹿児島二中、鹿児島商船、佐賀師範、筑紫中

総数183校、うち中学校数115校、中学校比:115/183=62.8%、師範学校数32校、師範学校比:32/183=17.5%、中学校+師範学校比:(115+32)/183=80.3%。


☆ 朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)における第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校(p.273-284)

【北海道】:13(+2)/26 帯広中、根室商、網走中、釧路中、野付牛中、苫小牧工、空知農、旭川中、名寄中、札幌商、札幌二中、旭川師、函館師、札幌一中、札幌工、函館中、留萌中、室蘭中、十勝農、函館商、小樽商、永山農、北海商、北海中、旭川商、小樽中

【青森県】:5(+1)/10 青森商、東奥義塾、青森師、八戸水産、青森中、弘前中、木造中、五所川原農、弘前工、八戸中

【秋田県】:7(+1)/13 角館中、能代中、横手中、能代工、秋田師、大館中、大曲農、土岐商、鷹巣農、本荘中、将軍野中、秋田中、秋田商

【山形県】:5(+0)/12 山形中、酒田商、鶴岡工、庄内農、鶴岡中、米沢工、酒田中、新庄中、米沢商、山形商、米沢中、山形工

【岩手県】:4(+0)/5 福岡中 一関中、遠野中、盛岡商、盛岡中

【宮城県】:10(+1)/16 石巻商、宮城水産、仙台一中、育英中、仙台工、梅檀中、東北学院中、佐沼中、県宮城工、気仙沼中、仙台商、築館中、仙台二中、古川中、宮城師、東北中

【福島県】:11(+1)/15 平商、双葉中、会津中、相馬中、福島中、白河中、若松商、安積中、磐城中、安達中、福島商、福島師、喜多方中、田村中、保原中

【埼玉県】:8(+1)/14 不動岡中、粕壁中、埼玉商、川越商、本庄中、浦和商、浦和中、豊岡実、川越中、松山中、所沢実、埼玉師、熊谷中、浦和中

【群馬県】:7(+0)/12 館林中、伊勢崎工、伊勢崎商、太田中、勢多農林、沼田中、藤岡中、前橋工、高崎商、前橋中、桐生中、高崎中

【栃木県】:8(+1)/16 栃木中、佐野中、宇都宮工、宇都宮実、栃木商、足利工、鹿沼農商、大田原中、栃木師、宇都宮農、下野中、烏山中、宇都宮商、石橋中、宇都宮中、真岡中

【茨城県】:6(+1)/15 湊商、水戸農、太田中、下妻中、水戸中、取手農、水海道中、江戸崎農、茨城工、水戸商、土浦中、茨城師、竜ヶ崎中、真壁農、下館商

【千葉県】:9(+1)/12 成東中、成田中、千葉中、佐原中、佐倉中、銚子商、関東中、[?]瑳中、千葉商、長生中、東葛飾中、千葉師

【東京府】:24(+0)/38 攻玉社中、中央商、保善商、京王商、立正中、郁文館中、学習院中、東洋商、明治学院中、目白商、成立商、南足立商、青山学院中、麻布中、関東商、日大二中、早稲田実、高師附中、明治中、京北実、立教中、専修商、暁星中、名教中、慶応普通、高輪商、早稲田中、日大三中、中野中、豊島師、慶応商工、高輪中、東京中、目白中、大成中、京北中、日大一中、成城中

【山梨県】:5(+1)/11 山梨師、甲府商、谷村工商、峡北農、都留中、甲府工芸、甲府中、身延中、韮崎中、日川中、山梨農林

【神奈川県】:12(+1)/18 横浜三中、鎌倉中、神奈川商工、横浜商、関東学院中、神奈川工、浅野中、横浜一中、横須賀商、横須賀中、鎌倉師、日大四中、本牧中、厚木中、日大四商、逗子開成中、横浜三中、小田原中

【静岡県】:7(+1)/15 島田商、韮山中、静岡中、浜松工、浜松一中、掛川中、庵原中、清水商、榛原中、浜松商、浜松師、三島商、静岡商、沼津商、沼津中

【新潟県】:6(+0)/10 新潟中、高田中、柏崎中、新発田中、長岡工、高田商工、長岡商、村松中、新潟商、長岡中

【長野県】:7(+0)/14 長野商、松本中、松本商、諏訪蚕糸、岩村田中、小諸商、丸子農、野沢中、飯田中、伊北農商、飯田商、飯山中、上田中、大町中

【富山県】:5(+1)/10 神通中、福野農、富山商、射水中、高岡中、滑川商、高岡商、富山師、富山中、砺波中

【石川県】:8(+0)/14 羽咋中、金沢工、石川師、金沢商、七尾中、七尾商、金沢一中、小松中、石川工、大聖寺中、金沢二中、小松商、金沢中、輪島中

【福井県】:5(+1)/8 福井商、大野中、敦賀商、武生中、小浜中、福井師、北陸中、三国中

【三重県】:7(+1)/12 山田中、三重師、松阪商、励精中、勧学院中、四日市商、富田中、桑名中、津中、上野中、松阪工、山田商

【岐阜県】:7(+1)/12 岐阜師、本巣中、岐阜二工、斐太中、大垣中、海津中、中津商、武義中、大垣商、岐阜中、大垣中、岐阜商

【愛知県】:13(+1)/27 東邦商、愛知工、一宮中、半田中、成章中、岡崎中、熱田中、西尾蚕糸、名古屋二商、愛知窯、豊橋中、西尾中、享栄商、惟信中、明倫中、愛知中、豊橋商、東海中、愛知商、尾張中、岡崎師、名古屋三商、愛知一中、愛知一師、名古屋商、津島中、中京商

【滋賀県】:6(+1)/12 膳所中、比叡山中、長浜商、彦根商、大津商、八幡商、彦根中、神崎商、滋賀師、八日市中、水口中、虎姫中

【京都府】:13(+1)/22 京都商実、東山中、京都二商、同志社中、福知山商、京都中、京都一商、福知山中、舞鶴中、桃山中、京都商、伏見商、立命館商、宮津中、大谷中、平安中、立命館中、京都一中、京都一工、京都二中、京都三中、京都師

【奈良県】:4(+0)/4 宇陀中、五条中、郡山中、畝傍中

【和歌山県】:10(+1)/16 高野山中、粉河中、和歌山中、和歌山工、新宮中、日高中、耐久中、和歌山師、海南中、紀南農、和歌山商、箕島商、伊都中、紀北農、海草中、田辺中

【大阪府】:18(+2)/35 岸和田中、鳳中、富田林中、天王寺師、高津中、天王寺商、桃山中、豊中中、関西工商、京阪商、茨木中、大阪中、扇町商、西野田職工、八尾中、生野中、明星商、池田師、日新商、今宮職工、天王寺中、北野中、四条畷中、東商、福島商、城東商、今宮中、市岡中、此花商、堺中、浪速中、興国商、住吉中、浪華商、北陽商

【兵庫県】:18(+2)/32 村野工、第二神港商、洲本中、豊岡中、姫路商、第三神港商、甲南中、洲本商、明石中、神戸一商、第一神港商、姫路商、姫路師、伊丹中、関学中、赤穂中、御影師、育英商、神戸二中、県兵庫農、神戸一中、滝川中、灘中、尼崎中、中外商、小野中、加古川中、三田中、甲陽中、神戸三中、北神商、加古川中

【鳥取県】:4(+0)/5 鳥取一中、鳥取商、米子中、鳥取二中、倉吉中

【島根県】:3(+0)/5 浜田中、島根工、松江中、大社中、島根商

【山口県】:8(+0)/12 防府中、宇部中、豊浦中、柳井中、防府商、下松工、徳山商、徳山中、鴻城中、多々良中、下関商、岩国中

【広島県】:8(+0)/12 広島一中、三次中、呉二中、新庄中、松本商、盈進商、大正中、尾道商、広陵中、広島商、尾道中、誠之館中

【岡山県】:4(+0)/6 岡山二中、岡山一中、関西中、津山中、笠岡商、岡山一商

【香川県】:5(+1)/11 志度商、高松一中、高松商、香川師、高松中、小豆島中、丸亀中、丸亀商、坂出商、三豊中、観音寺商

【高知県】:2(+0)/4 高知商、高知工、城東中、城東商

【徳島県】:5(+1)/7 徳島師、阿波中、徳島中、麻植中、徳島商、富岡中、撫養中

【愛媛県】:7(+1)/11 越智中、八幡浜商、西条中、宇和島中、愛媛師、宇和島商、北予中、松山商、松山中、大洲中、今治中

【福岡県】:17(+0)/22 小倉中、東筑中、小倉工、南筑中、豊津中、三池中、鞍手中、門司中、筑紫中、福岡工、豊国中、福岡商、明善中、八女中、伝修館中、久留米商、八幡中、福岡中、築上中、飯塚商、嘉穂中、若松中

【佐賀県】:3(+1)/6 唐津中、有田工、佐賀師、佐賀商、佐賀中、鹿島中

【長崎県】:5(+1)/7 長崎商、佐世保中、長崎師、海星中、瓊浦中、長崎中、鎮西学院中

【大分県】:3(+1)/6 大分中、大分工、大分師、佐伯中、中津中、大分商

【熊本県】:3(+1)/6 熊本工、八代中、熊本師、宇土中、熊本商、済済黌中

【鹿児島県】:5(+0)/7 鹿児島商、鹿児島一中、鹿児島二中、鹿児島実、鹿児島中、加治木中、川内中

【宮崎県】:2(+0)/6 宮崎商、延岡商、宮崎中、延岡中、宮崎師、都城商

【沖縄県】:2(+1)/5 県一中、県二中、県水産、那覇商、沖縄師

【台湾】:6(+1)/11 嘉義農林、台南一中、高雄中、台南二中、嘉義中、台北工、台中商、台北一中、台北商、台北二師、台北二中

【朝鮮】:21(+1)/34 元山中、羅南中、京城商、春川高普、仁川南商、善隣商、京城中、竜山中、京城師、京城工、鉄道学、全州高普、光州高普、大田中、光州中、[?]里農林、清州高普、木浦商、高敞高普、群山中、釜山二商、大邱中、大邱高普、釜山中、東[?]高普、普州高普、釜山一商、大邱商、平壌中、鎮南浦商工、新義州中、平壌高普、海州高普、新義州商

【満州】:3(+0)/4 大連商、青島中、安東中、奉天中

総数663校、うち中学校数384校、中学校比:384/663=56.2%、師範学校数35校、師範学校比:35/663=5.3%、中学校+師範学校比:(384+35)/663=63.2%。


☆ 総数におけるサッカーと野球の普及度

 サッカーの登録チーム総数は183校、野球の予選出場校総数は663校で、野球の方が3.6倍普及していた。校種別ではサッカーにおける中学校比は62.8%、中学校+師範学校比は80.3%であるのに対し、野球における中学校比は56.2%、中学校+師範学校比は63.2%であった。サッカーの方が野球の30%弱しか普及していないにもかかわらず、中学校+師範学校比が8割をしめている。全体としても野球の方が実業系諸学校により普及していたことがわかる。校種の構成比は全国大会出場校では大きく異なるので、以下それを紹介する。


☆ 第9回~第22回全国中等学校蹴球大会(1926.1~1940.8)出場校

出拠:全国高等学校体育連盟サッカー部編『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部 1983)

第9回(1926.1) 8校
【関東】暁星中 【北陸】神通中 【東海】愛知一師 【京滋奈】京都師 【阪和】桃山中 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【朝鮮】培材高普
ベスト8 同上
ベスト4 御影師 暁星中 広島一中 京都師
優勝 御影師 準優勝 広島一中

第10回(1928.1) 8校
【関東】東京高師附中 【北陸】富山師 【東海】岐阜中 【京滋奈】京都師 【阪和】都島工 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【朝鮮】平壌崇実
ベスト8 同上
ベスト4 都島工 広島一中 東京高師附中 平壌崇実
優勝 平壌崇実 準優勝 広島一中

第11回(1929.1) 8校
【関東】青山師 【北陸】富山師 【東海】愛知一師 【京滋奈】滋賀師 【阪和】明星商 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【朝鮮】平壌高普
ベスト8 同上
ベスト4 明星商 平壌高普 青山師 御影師
優勝 御影師 準優勝 平壌高普

第12回(1930.1) 9校
【北海道】函館商 【関東】東京高師附中 【北陸】富山師 【東海】愛知一師 【京滋奈】京都師 【阪和】市岡中 【兵庫】神戸一中 【中国】広島師 【九州】熊本二師
 ベスト8 函館商 東京高師附中 富山師 愛知一師 京都師 市岡中 神戸一中 広島師
ベスト4 東京高師附中 広島師 市岡中 神戸一中
優勝 神戸一中 準優勝 広島師

第13回(1931.1) 9校
【北海道】函館商 【関東】青山師 【北陸】富山師 【東海】愛知一師 【京滋奈】京都師 【阪和】堺中 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【九州】熊本二師
ベスト8 函館師 堺中 京都師 広島一中 熊本二師 青山師 愛知一師 御影師
ベスト4 堺中 広島一中 青山師 御影師
優勝 御影師 準優勝 広島一中

第14回(1932.1) 12校
【北海道】函館中 【東北】宮城師 【北関東】埼玉師 【東京】青山師 【南関東】関東学院中 【北陸】富山師 【東海】愛知一師 【京滋奈】京都師 【阪和】堺中 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【九州】長崎師
ベスト8 青山師 愛知一師 函館中 広島一中 堺中 京都師 長崎師 御影師
ベスト4 愛知一師 広島一中 京都師 御影師
優勝 御影師 準優勝 愛知一師

第15回(1933.1) 12校
【北海道】函館師 【東北】宮城師 【北関東】埼玉師 【東京】青山師 【北陸】富山師 【東海】愛知一師 【京滋奈】京都師 【阪和】天王寺師 【兵庫】神戸一中 【中国】修道中 【四国】松山中 【九州】熊本一師
ベスト8 宮城師 京都師 修道中 青山師 熊本一師 愛知一師 天王寺師 神戸一中
ベスト4 京都師 青山師 愛知一師 神戸一中
優勝 神戸一中 準優勝 青山師

第16回(1934.1) 12校
【北海道】函館師 【東北】宮城師 【北関東】埼玉師 【東京】青山師 【北陸】富山師 【東海】岐阜師 【京滋奈】京都師 【阪和】明星商 【兵庫】御影師 【中国】広島一中 【四国】徳島商 【九州】長崎師
ベスト8 青山師 京都師 長崎師 明星商 埼玉師 御影師 広島一中 岐阜師
ベスト4 京都師 明星商 御影師 岐阜師
優勝 岐阜師 準優勝 明星商

第17回(1935.8) 12校
【北海道】函館師 【東北】宮城師 【関東】韮崎中 【東京】東京高師附中 【北陸】富山師 【東海】刈谷中 【京滋奈】滋賀師 【阪和】天王寺師 【兵庫】神戸一中 【中国】広島一中 【四国】香川師 【九州】長崎師
ベスト8 宮城師 富山師 東京高師附中 天王寺師 韮崎中 刈谷中 広島一中 神戸一中
ベスト4 富山師 天王寺師 刈谷中 神戸一中
優勝 神戸一中 天王寺師

第18回(1936.8) 14校
【北海道】函館師 【東北】仙台二中 【関東】埼玉師 【東千】東京八中 【山神静】韮崎中 【北陸】富山師 【東海】岐阜師 【京滋奈】京都師 【阪和】堺中 【兵庫】関学中 【中国】広島一中 【四国】高松中 【北九州】海星中 【南九州】熊本師
ベスト8 岐阜師 埼玉師 京都師 韮崎中 高松中 海星中 函館師 広島一中
ベスト4 埼玉師 韮崎中 海星中 広島一中
優勝 広島一中 準優勝 韮崎中

第19回(1937.8) 13校
【北海道】函館師 【東北】盛岡中 【関東】埼玉師 【東千】豊島師 【山神静】湘南中 【北陸】富山師 【東海】愛知一中 【京滋奈】京都師 【阪和】明星商 【兵庫】神戸一中 【中国】広島一中 【四国】高松商 【九州】嘉穂中
ベスト8 函館師 神戸一中 広島一中 豊島師 嘉穂中 明星商 富山師 埼玉師
ベスト4 神戸一中 豊島師 明星商 埼玉師
優勝 埼玉師 準優勝 神戸一中

第20回(1938.8) 16校
【北海道】函館師 【東北】東北学院中 【関東】埼玉師 【東京】豊島師 【山神静】韮崎中 【北陸】富山師 【東海】愛知商 【近畿】滋賀師 【阪和】明星商 【兵庫】神戸一中 【中国】広島一中 【四国】高知商 【北九州】海星中 【南九州】熊本師 【台湾】台北一中 【朝鮮】崇仁商
ベスト8 神戸一中 海星中 崇仁商 埼玉師 明星商 広島一中 滋賀師 愛知商
ベスト4 神戸一中 崇仁商 広島一中 滋賀師
優勝 神戸一中 準優勝 滋賀師

第21回(1939.8) 16校
【北海道】札幌師 【東北】東北学院中 【関東】埼玉師 【東京】青山師 【山神静】湘南中 【北陸】富山師 【東海】愛知商 【近畿】聖峰中 【阪和】明星商 【兵庫】神戸一中 【中国】広島一中 【四国】高松中 【北九州】瓊浦中 【南九州】熊本商 【台湾】台北一中 【朝鮮】培材中
ベスト8 埼玉師 聖峰中 湘南中 青山師 神戸一中 札幌師 台北一中 広島一中
ベスト4 聖峰中 湘南中 札幌師 広島一中
優勝 広島一中 準優勝 聖峰中

第22回(1940.8) 16校
    【北海道】函館師 【東北】仙台二中 【関東】浦和中 【東京】青山師 【山神静】湘南中 【北陸】富山師 【東海】刈谷中 【近畿】滋賀師 【阪和】明星商 【兵庫】神戸三中 【中国】修道中 【四国】愛媛師 【北九州】長崎師 【南九州】鹿児島商 【台湾】長栄中 【朝鮮】普成中
ベスト8 明星商 修道中 函館師 普成中 青山師 神戸三中 滋賀師 仙台二中
ベスト4 明星商 普成中 神戸三中 滋賀師
優勝 普成中 準優勝 神戸三中
中学校数・比率 師範学校数・比率 商業学校数・比率 工業学校数・比率    計
全出場校レベル 66(40.0%) 82(49.7%) 16(9.7%) 1(0.6%)    165(100.0%)
ベスト8レベル 46(41.1%) 57(50.9%) 8(7.1%) 1(0.9%)    112(100.0%)
ベスト4レベル 26(46.4%) 24(42.9%) 5(8.9%) 1(1.8%)    56(100.0%)
  決勝レベル 16(57.1%) 11(39.3%) 1(3.6%) 0(0%)    28(100.0%)
優勝レベル 8(57.1%) 6(42.9%) 0(0%) 0(0%)    14(100.0%)


中学校数・比率 師範学校数・比率 中学校+師範学校数・比率 実業系学校数・比率    計
全出場校レベル 66(40.0%) 82(49.7%) 148(89.7%) 17(10.3%)    165(100.0%)
ベスト8レベル 46(41.1%) 57(50.9%) 103(92.0%) 9(8.0%)    112(100.0%)
ベスト4レベル 26(46.4%) 24(42.9%) 50(89.3%) 6(10.7%)    56(100.0%)
  決勝レベル 16(57.1%) 11(39.3%) 27(96.4%) 1(3.6%)    28(100.0%)
優勝レベル 8(57.1%) 6(42.9%) 14(100.0%) 0(0%)    14(100.0%)


☆ 第11回~第25回全国中等学校優勝野球大会(1925.8~1939.8)出場校

出拠:朝日新聞社編『全国高等学校野球選手権大会史』(朝日新聞社 1958)

第11回(1925.8) 21校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田商 【東北】仙台二中 【関東】前橋中 【甲信越】長野商 【東京】早稲田実 【神静】静岡中 【東海】愛知一中 【北陸】敦賀商 【京津】東山中 【大阪】市岡中 【紀和】和歌山中 【兵庫】神港商 【山陽】柳井中 【山陰】米子中 【四国】高松商 【北九州】長崎商 【南九州】熊本商 【朝鮮】釜山中 【台湾】台北工 【満州】大連商
ベスト8 高松商 静岡中 長崎商 大連商 柳井中 神港商 早稲田実 敦賀商
ベスト4 高松商 大連商 神港商 早稲田実
優勝 高松商 準優勝 早稲田実

第12回(1926.8) 22校
【北海道】旭川商 【奥羽】八戸中 【東北】盛岡中 【北関東】前橋中 【南関東】水戸中 【甲信越】新潟商 【東京】早稲田実 【神静】静岡中 【東海】愛知商 【北陸】敦賀商 【京津】東山中 【大阪】浪華商 【紀和】和歌山中 【兵庫】神港商 【山陽】柳井中 【山陰】鳥取一中 【四国】高松中 【北九州】長崎商 【南九州】熊本商 【朝鮮】京城中 【台湾】台北一中 【満州】大連商
ベスト8 新潟商 高松中 前橋中 静岡中 京城中 大連商 和歌山中 鳥取一中
ベスト4 高松中 静岡中 大連商 和歌山中
優勝 静岡中 準優勝 大連商

第13回(1927.8) 22校
【北海道】札幌一中 【奥羽】青森師 【東北】福岡中 【北関東】桐生中 【南関東】茨城商 【甲信越】松本商 【東京】早稲田実 【神静】静岡中 【東海】愛知商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】北野中 【紀和】和歌山中 【兵庫】第一神港商 【山陽】広陵中 【山陰】鳥取一中 【四国】高松商 【北九州】佐賀中 【南九州】鹿児島商 【朝鮮】京城中 【台湾】台北商 【満州】大連商
ベスト8 松本商 平安中 鹿児島商 広陵中 福岡中 高松商 早稲田実 愛知商
ベスト4 松本商 広陵中 高松商 愛知商
優勝 高松商 準優勝 広陵中

第14回(1928.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】八戸中 【東北】福岡中 【北関東】前橋中 【南関東】関東中 【甲信越】松本商 【東京】早稲田実 【神静】神奈川商工 【東海】愛知商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】豊中中 【紀和】和歌山中 【兵庫】甲陽中 【山陽】広陵中 【山陰】鳥取一中 【四国】高松中 【北九州】佐賀中 【南九州】鹿児島商 【朝鮮】京城中 【台湾】台北工 【満州】大連商
ベスト8 高松中 和歌山中 愛知商 松本商 北海中 台北工 甲陽中 平安中
ベスト4 高松中 松本商 北海中 平安中
優勝 松本商 準優勝 平安中

  第15回(1929.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田師 【東北】福岡中 【北関東】前橋商 【南関東】水戸中 【甲信越】諏訪蚕糸 【東京】慶応商工 【神静】静岡中 【東海】愛知一中 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】市岡中 【紀和】海草中 【兵庫】関西学院中 【山陽】広島商 【山陰】鳥取一中 【四国】高松商 【北九州】佐賀中 【南九州】鹿児島商 【朝鮮】平壌中 【台湾】台北一中 【満州】青島中
ベスト8 広島商 静岡中 市岡中 鳥取一中 台北一中 平安中 海草中 高松商
ベスト4 広島商 鳥取一中 台北一中 海草中
優勝 広島商 準優勝 海草中

第16回(1930.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】八戸中 【東北】東北中 【北関東】桐生中 【南関東】水戸中 【甲信越】諏訪蚕糸 【東京】慶応普通 【神静】静岡中 【東海】愛知商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】浪華商 【紀和】和歌山中 【兵庫】甲陽中 【山陽】広島商 【山陰】米子中 【四国】松山商 【北九州】小倉工 【南九州】鹿児島二中 【朝鮮】大邱商 【台湾】台北一中 【満州】大連商
ベスト8 広島商 大連商 和歌山中 静岡中 松山商 諏訪蚕糸 東北中 平安中
 ベスト4 広島商 和歌山中 諏訪蚕糸 平安中
優勝 広島商 準優勝 諏訪蚕糸

第17回(1931.8) 22校
【北海道】札幌商 【奥羽】秋田中 【東北】福岡中 【北関東】桐生中 【南関東】千葉中 【甲神静】神奈川商工 【東京】早稲田実 【信越】長野商 【東海】中京商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】八尾中 【紀和】和歌山商 【兵庫】第一神港商 【山陽】広陵中 【山陰】大社中 【四国】松山商 【北九州】小倉工 【南九州】大分商 【朝鮮】京城商 【台湾】嘉義農林 【満州】大連商
ベスト8 大社中 小倉工 札幌商 嘉義農林 松山商 桐生中 広陵中 中京商
  ベスト4 小倉工 嘉義農林 松山商 中京商
優勝 中京商 準優勝 嘉義農林

第18回(1932.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田中 【東北】遠野中 【北関東】高崎商 【南関東】千葉中 【甲神静】静岡中 【東京】早稲田実 【信越】長野商 【東海】中京商 【北陸】石川師 【京津】京都師 【大阪】八尾中 【紀和】和歌山中 【兵庫】明石中 【山陽】大正中 【山陰】米子中 【四国】松山商 【北九州】小倉工 【南九州】熊本工 【朝鮮】平壌中 【台湾】台北工 【満州】大連商
ベスト8 早稲田実 松山商 八尾中 明石中 熊本工 石川師 中京商 長野商
  ベスト4 松山商 明石中 熊本工 中京商
優勝 中京商 準優勝 松山商

第19回(1933.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田中 【東北】盛岡中 【北関東】栃木中 【南関東】水戸商 【甲神静】横浜商 【東京】慶応商工 【信越】松本商 【東海】中京商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】浪華商 【紀和】郡山中 【兵庫】明石中 【山陽】大正中 【山陰】鳥取一中 【四国】松山中 【北九州】佐賀師 【南九州】大分商 【朝鮮】善隣商 【台湾】嘉義農林 【満州】大連商
ベスト8 郡山中 平安中 栃木中 松山中 横浜商 明石中 中京商 大正中
  ベスト4 平安中 松山中 明石中 中京商
優勝 中京商 準優勝 平安中

第20回(1934.8) 22校
【北海道】札幌商 【奥羽】秋田中 【東北】福島師 【北関東】桐生中 【南関東】関東中 【甲神静】島田商 【東京】早稲田実 【信越】長野商 【東海】享栄商 【北陸】敦賀商 【京津】京都商 【大阪】市岡中 【紀和】海南中 【兵庫】神戸一中 【山陽】呉港中 【山陰】鳥取一中 【四国】高松中 【北九州】小倉工 【南九州】熊本工 【朝鮮】京城商 【台湾】台北商 【満州】大連商
ベスト8 京城商 市岡中 熊本工 高松中 秋田中 敦賀商 海南中 呉港中
  ベスト4 市岡中 熊本工 秋田中 呉港中
優勝 呉港中 準優勝 熊本工

  第21回(1935.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田商 【東北】福島師 【北関東】桐生中 【南関東】千葉中 【甲神静】甲府中 【東京】早稲田実 【信越】飯田商 【東海】愛知商 【北陸】石川工 【京津】平安中 【大阪】日新商 【紀和】海草中 【兵庫】育英商 【山陽】呉港中 【山陰】米子中 【四国】松山商 【北九州】佐賀商 【南九州】大分商 【朝鮮】新義州商 【台湾】嘉義農林 【満州】青島中
ベスト8 松山商 嘉義農林 秋田商 愛知商 早稲田実 呉港中 大分商 育英商
  ベスト4 松山商 愛知商 早稲田実 育英商
優勝 松山商 準優勝 育英商

第22回(1936.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】盛岡商 【東北】山形中 【北関東】桐生中 【南関東】千葉中 【山静】静岡商 【東京】早稲田実 【信越】長野商 【東海】岐阜商 【北陸】福井商 【京津】平安中 【大阪】京阪商 【紀和】和歌山商 【兵庫】育英商 【山陽】呉港中 【山陰】鳥取一中 【四国】松山商 【北九州】小倉工 【南九州】鹿児島商 【朝鮮】仁川商 【台湾】嘉義農林 【満州】青島中
ベスト8 和歌山商 岐阜商 北海中 育英商 千葉中 平安中 京阪商 桐生中
  ベスト4 岐阜商 育英商 平安中 桐生中
優勝 岐阜商 準優勝 平安中

第23回(1937.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】秋田中 【東北】山形中 【北関東】高崎商 【南関東】浅野中 【山静】島田商 【東京】慶応商工 【信越】長野商 【東海】中京商 【北陸】高岡商 【京津】平安中 【大阪】浪華商 【紀和】海草中 【兵庫】滝川中 【山陽】呉港中 【山陰】大田中 【四国】徳島商 【北九州】福岡工 【南九州】熊本工 【朝鮮】竜山中 【台湾】嘉義中 【満州】青島中
ベスト8 呉港中 熊本工 嘉義中 滝川中 北海中 海草中 長野商 中京商
 ベスト4 熊本工 滝川中 海草中 中京商
優勝 中京商 準優勝 熊本工

第24回(1938.8) 22校
【北海道】北海中 【奥羽】青森師 【東北】山形中 【北関東】高崎商 【南関東】浅野中 【山静】掛川中 【東京】日大三中 【信越】松本商 【東海】岐阜商 【北陸】敦賀商 【京津】平安中 【大阪】京阪商 【紀和】海草中 【兵庫】甲陽中 【山陽】下関商 【山陰】鳥取一中 【四国】坂出商 【北九州】福岡工 【南九州】大分商 【朝鮮】仁川商 【台湾】台北一中 【満州】天津商
ベスト8 鳥取一中 甲陽中 岐阜商 下関商 京阪商 高崎商 浅野中 平安中
 ベスト4 甲陽中 岐阜商 高崎商 平安中
優勝 平安中 準優勝 岐阜商

第25回(1939.8) 22校
【北海道】札幌一中 【奥羽】青森中 【東北】山形中 【北関東】桐生中 【南関東】千葉商 【山静】島田商 【東京】早稲田実 【信越】長野商 【東海】東邦商 【北陸】高岡商 【京津】京都商 【大阪】京阪商 【紀和】海草中 【兵庫】関西学院中 【山陽】下関商 【山陰】米子中 【四国】高松商 【北九州】小倉工 【南九州】熊本工 【朝鮮】仁川商 【台湾】嘉義中 【満州】天津商
ベスト8 島田商 高松商 米子中 海草中 早稲田実 長野商 福岡工 下関商
 ベスト4 島田商 海草中 長野商 下関商
優勝 海草中 準優勝 下関商

中学校数・比率 師範学校数・比率 商業学校数・比率 工業学校数・比率    その他の実業系校数・比率    計
全出場校レベル 160(48.6%) 8(2.4%) 124(37.7%) 16(4.9%)    21(6.4%)    329(100.0%)
ベスト8レベル 58(48.3%) 1(0.8%) 47(39.2%) 6(5.0%)    8(6.7%)    120(100.0%)
ベスト4レベル 26(43.3%) 0(0%) 26(43.3%) 4(6.7%)    4(6.7%)    60(100.0%)
  決勝レベル 9(30.0%) 0(0%) 16(53.3%) 2(6.7%)    3(10.0%)    30(100.0%)
優勝レベル 4(26.7%) 0(0%) 11(73.3%) 0(0%)    0(0%)    15(100.0%)


中学校数・比率 師範学校数・比率 中学校+師範学校数・比率 実業系学校数・比率    計
全出場校レベル 160(48.6%) 8(2.4%) 168(51.1%) 161(48.9%)    329(100.0%)
ベスト8レベル 58(48.3%) 1(0.8%) 59(49.2%) 61(50.8%)    120(100.0%)
ベスト4レベル 26(43.3%) 0(0%) 26(43.3%) 34(56.7%)    60(100.0%)
  決勝レベル 9(30.0%) 0(0%) 9(30.0%) 21(70.0%)    30(100.0%)
優勝レベル 4(26.7%) 0(0%) 4(26.7%) 11(73.3%)    15(100.0%)


☆ まとめ

 1932(昭和7)年の大日本蹴球協会登録中等学校と第18回全国中等学校野球優勝大会(1932年)予選出場校の校種別分布は以下のとおりである。

登録・予選参加中等学校数 中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 183 147 80.3% 36 19.7%
野球 663 419 63.2% 244 36.8%


 全国大会全出場校の校種別分布は以下のとおりである。

出場校数 中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 165 148 89.7% 17 10.3%
野球 329 168 51.1% 161 48.9%


 同ベスト8の校種別分布は以下のとおりである。

中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 103 92.0% 9 8.0%
野球 59 49.2% 61 50.8%


 同ベスト4の校種別分布は以下のとおりである。

中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 50 89.3% 6 10.7%
野球 26 43.3% 34 56.7%


 同決勝出場の校種別分布は以下のとおりである。

中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 27 96.4% 1 3.6%
野球 9 30.0% 21 70.0%


 同優勝校の校種別分布は以下のとおりである。

中学校+師範学校数 比率 実業系学校数 比率
サッカー 14 100% 0 0%
野球 4 26.7% 11 73.3%


 校種別分布では、サッカーは全体でも全国大会出場レベルでも師範学校と一部進学校に普及していたのに対し、野球は全体としてサッカーよりも実業系学校に普及し、全国大会上位校レベルでは実業系学校が師範学校と中学校を圧倒していたといえる。

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2004年2月17日~2004年7月20日

(04/7/20)
初代ドイツ代表監督
オットー・ネルツがベルリン・オリンピックで日本代表関係者と歓談したり、一緒に観戦したりしてる写真があるそうです。彼自身もドイツ代表監督で日本代表がイタリアに負けた同じ 8月7日ノルウェーに0-2でまさかの敗戦を喫し、代表監督を更迭されたようなので、おそらくそれ以前のことと思われます。戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書 に記したように、ネルツの著書“Fussball”は戦前の慶應が翻訳し、聖典視されていました。オリンピック以前にも本人と直接文通していたのかもしれません。上記DFB(ドイツサッカー協会)のNerzの項にあるように、細かい規律を厳守させる「管理サッカー」信奉者で、選手には嫌われていたようです。

 日独サッカー交流というと、第一次世界大戦後広島県似島捕虜収容所から広島高師、広島一中などへの地方的交流は別として、戦後のクラマー氏来日に始まるように考えられがちですが、ベルリン以前すでにドイツ・サッカーの「本流」と交流があったことは、日本サッカー史上きわめて重要な事実かもしれません。ネルツの次の代表監督が“ブンデス・ゼップ”こと ゼップ・ヘルベルガー で、クラマー氏はヘルベルガーのアシスタント・コーチだったので、ネルツ・サッカーとクラマー・サッカーに何らかの共通点があったとしても不思議ではありません。

 ドイツ赤十字 によれば、ネルツはナチ党員だったためソ連に逮捕され、1949年4月19日収容所で亡くなったことになってます。享年52歳。

 ドイツ国立図書館の目録によれば、ネルツには"Fussball"(1926)以外に以下の著作があります。(ウムラウトは母音の後にeを置く形で変換)

"Der Torwaechter ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 48 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 11)
"Der Verteidiger ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 47 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 14)
"Taktik ." - Berlin : Weidmann, 1926. - 43 S : graph. Darst (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 9)
"Der Stuermer ." - Berlin : Weidmann, 1928. - 50 S : graph. Darst., Ill (Taschenbuch der Leibesuebungen ; 17)
"Der Kampf um den Ball : Das Buch vom Fussball "/ [Otto Nerz ; Carl Koppehel]. - 2. Aufl.. - Berlin : Prismen-Verl., 1933. - 176 S. : Mit 136 Abb. ; gr. 8
"Unfallspaetschaeden des Kniegelenks unter Belastung durch Sport und Arbeit" / Otto Nerz. - Berlin : Weidmann, 1936. - 121 S. ; 4 (Leibesuebungen und koerperliche Erziehung in Theorie und Praxis ; Bd. 2)
"Fussball der Jugend : Grundschule d. Fussballspiels in d. Leibeserziehg in Jungenschulen" / Otto Nerz. - Berlin : Weidmann, 1939. - 112 S. : mit Abb. ; 8

 また、ネルツとヘルベルガーの卒業論文(Diplomarbeit)を復刻したと思しき文献が昨年刊行されています。

"Sepp Herberger und Otto Nerz : die Chefdenker und ihre Theorien ; ihre Diplomarbeiten" / Carl-und-Liselott-Diem-Archiv der Deutschen Sporthochschule Koeln. Eingeleitet, kommentiert und hrsg. von Juergen Buschmann .... - 1. Aufl.. - Kassel : Agon-Sportverl., 2003. - 164 S. : Ill. ; 30 cm
Teilw. zugl.: Berlin, Dt. Hochsch. fuer Leibesuebungen, Diplomarbeit, 1929 u.d.T.: Nerz, Otto: Fussball-Wintertraining. - Teilw. zugl.: Berlin, Dt. Hochsch. fuer Leibesuebungen, Diplomarbeit, 1930 u.d.T.: Herberger, Josef: Weg zur Hoechstleistung im Fussballsport ISBN 3-89784-195-9 kart. : EUR 24.80

 Agon-Sportverlagはなかなか硬派らしく、"Der DFB im Dritten Reich : einer Legende auf der Spur / Karl-Heinz Schwarz-Pich."(第三帝国下のドイツサッカー協会)なんて本も出しているようです。ヘルベルガーやネルツの復刻とは、オリンポスの彼方に去ってしまったゲルマン魂の源流を求めて・・(笑)


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(04/7/12)
日本最初のサッカー専門書
東京高等師範学校フットボール部編 『アッソシエーションフットボール』 (鍾美堂,明治36年)が全文アクセス可能になっています。第1章 緒論(p.1-18 6-15コマ)は必読です。GIFで読みづらければ、国会図書館の近代デジタルライブラリーからビューアーをダウンロードして、資料を検索し、高圧縮形式を選択してご覧ください。
 佐々木等の自伝「私の歩んで来た道」が『学校体育』28巻1-7号 1953年1-7月に掲載されているのを発見しました。


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(04/7/8)
日本サッカーミュージアムに望む
 W杯の収支が大幅黒字だったので急遽“出来てしまった”日本サッカーミュージアムですが、一度だけ行った印象では、「健闘してるけど、リピーターになるのは?」という感じでした。

 サッカーに先行する野球体育博物館には立派(?)な図書室があり、『野球界』(1911~)他のような資料を閲覧できます。私の限られた知見では、 秩父宮記念スポーツ図書館でも、JFA機関誌の完全なバックナンバーは揃っていません。戦前の『蹴球』誌から続くJFA機関誌コレクションを秩父宮より完全に揃えているののは、神戸FCの田辺文庫と故・新田純興氏旧蔵コレクションでした。

 せめてJFA機関誌のバックナンバーが完全に揃ったライブラリーがミュージアムに付設されていたらな、と思います。現在世界の図書館サービスをリードするBritish Libraryも 大英博物館の付設図書館だったんです。

 調べものに使えるライブラリーを作れば、いやがうえでもリピーターが増えるのでは?

 もちろん、活字資料だけでなく、JFA主催試合その他のAV記録、殿堂(ってどうなったんでしょうね)入りするような人とのインタビューとその寄付品なども蓄積いただければ、いずれは凄いコレクションになるのでは、と思いますが・・


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(04/6/13)
追加しました
『赤ダスキの歩み 刈谷高校サッカー部70年史』(愛知県立刈谷高等学校サッカー部OB会,1989)を追加しました。昔は色違いのユニフォームを揃えることが難しかったので、タスキをかけて試合をしてました。刈谷高校はペルー代表ユニのように、 タスキがけがユニにデザイン化 されているらしいです。


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(04/5/25)
満州国の国技は“蹴球”-読売新聞記事より
をアップしました。代表ユニの色の由来を教えてくれた方からの情報によります。大連一中卒の竹腰重丸は満州国との交流に重要な役割を果たしていたようです。

 また、戦後長くJFA専務理事を務めた小野卓爾は戦前「昭和10年4月 日独同志会主事」、「昭和16年6月 大日本産業報国会中央本部保険副部長」という経歴があるとのことですが、第4代JFA会長野津謙は日独同志会世話人で、「昭和16年 大政翼賛会国民生活指導副部長、大日本産業報国会厚生部長」になっており、戦後JFAを牛耳った野津-小野の会長-専務理事コンビは大日本産業報国会と日独同志会の時代から極めて太い絆で結ばれていたことになります。日独同志会というのは4文字で表せば反英親独、日独伊三国同盟推進の民間団体でした。同会設立の趣旨の日付は昭和11年11月25日、日独防共協定締結の日になっています。野津-小野コンビの最大の功績はクラマー氏の招聘ですが、「親独」は戦前以来の筋金入りだったということです。竹内悌三の『欧州の蹴球』にスウェーデン大使だった白鳥敏夫の名が出てきて唐突な感がしましたが、当時の蹴球協会幹部と親独派外交官は親密な関係にあったようです。ワイマール以前や戦後の親独には何の問題もないのですが、この時期の親独=親ナチ・・・

 何はともあれ、戦前の蹴球協会幹部は「国策」に深くコミットしていたことがわかりました。こうなってくると、昭和4(1929)年の理事改選で師範派に対して大学派が“クーデター” を起こした(当日誌02/1/24参照)のも違った文脈で解釈する必要があるのかもしれません。


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(04/5/22)
神戸サッカーのDNA
 TASAKIペルーレFCは国体優勝(2003)、女子サッカーLリーグ優勝(2003)、全日本選手権優勝(2004)の三冠を達成、代表チームに5名を送る、女子サッカーきっての強豪です。母体は1976年設立の神戸フットボールクラブ女子部門。神戸FCは1970年創立、日本最初の法人化されたサッカー団体(JFAが法人化されるのは1974年)で、その起源は1965年創設の神戸少年サッカースクール、1963年設立の兵庫サッカー友の会まで遡ることができます。これらの活動の中心人物は戦前の神戸サッカー黄金時代を知る御影師範OBの大橋真平、神戸一中OBの加藤正信、岩谷俊夫、大谷四郎らの諸氏でした。加藤正信氏の事跡については賀川浩氏が Kagawa Soccer Libraryに詳述されています。神戸FCには大正時代にビルマ人留学生チョウ・ディンの“直伝”を受けた玉井操氏や北川貞義氏も役員として関与されています。

 このように、戦前の御影師範附属小-神戸一中という“サッカー日本代表養成コース”を喪失して地盤沈下した神戸サッカーの復興を目的として神戸FCは設立されたのですが、残念ながら男子の方は日本代表を続々輩出というわけにはいってないようです。しかし、女子の方は日本屈指のサッカー王国だった神戸の名を辱しめない活躍をしています。大谷未央や川上直子はチョウ・ディン以来の日本サッカーの“正系”の延長線上に位置しているわけです。


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(04/5/19)
日本代表「青」の由来
についてメールをいただきました。その方によれば、戦前の大学サッカー関係者の話では、当時協会を仕切っていた東の東大、西の京大のチームカラーが青だったので、日本代表も青になったのでは、とのこと。1920年代に始まった関東、関西の大学リーグは当初東大、京大が強く、特に東大は1926~31年にかけて6連覇の偉業をなしとげ、1930年第9回極東大会優勝の主力となっています。ベルリン五輪代表ユニは東大そっくりのライトブルー(笑)。

 東大の淡青(light blue)は ケンブリッジの、京大の濃青(dark blue)→応援歌へは オックスフォードの、それぞれチームカラーに由来しています。“本家”の対抗戦(the Varsity Match) は剣牛戦(剣は“ケン”ブリッジ、牛は“オックス”フォード)という日本語になっていたくらい新聞雑誌で大きく紹介され、明治以来隅田川のボートレースなど日本でも剣牛戦を模した様々のスポーツ・イベントが行われてきました。

 ところで、いわゆる剣牛戦の出場者はケンブリッジ、オックスフォードともそのユニのカラーから“ブルー” と呼ばれていることをご存知の方も多いでしょう。同志社-神戸製鋼で活躍した日本代表ロックの 林敏之もオックスフォードでラグビーの対抗戦に出場し、ブルーの称号を得ています。

 青=選ばれしもの(ポルトガル語でいうセレソンですな)という認識→代表ユニ化、という仮説が成り立たたないでしょうか。 


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(04/5/13)
NHKの『その時歴史が動いた』
 実は本年2月にNHK(大阪)のディレクター氏からメールがあって、本サイト収載の資料をどこで閲覧したのか、サッカーの歴史に詳しい人は誰か、を聞かれたので、『蹴球』誌は秩父宮記念スポーツ図書館、田辺文庫(神戸フットボールクラブ)、人は後藤健生氏と賀川浩氏をあげておきました。玉木某氏ではなく、後藤氏か賀川氏がコメンテーターだったらよかったのに・・ 不満面については 武藤さん(04/5/12)のおっしゃるとおり。でも、試合の“動画”と「ヤパン! ヤパン! ヤパン!」を連呼するスウェーデンのラジオ局の録音はさすが天下のNHKと感心しました。川本泰三氏の遺稿集『わだち』(本サイト未収載)まで調べたのもご立派。堀江家に残るCharles Buchanの著書については本サイト中の 戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書をご参照ください。工藤孝一氏(コーチ)と堀江忠男氏(選手)は通算数十年にわたって早稲田の監督を務められたので、川淵氏を頂点として、岡田、釜本、森などの各氏から加藤、大榎氏あたりまで、華麗なる早稲田人脈(笑)は皆ベルリン世代の直接の教え子、というふうに締めくくるのかと思いましたが・・ それにしても来週はジンギスカンですか(笑)


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(04/5/12)
秩父宮記念スポーツ図書館
のオンライン目録が近日中に公開されるらしいです。 博物館のページに出ています。


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(04/4/17)
大和田建樹「フートボール」
『雪月花 散文韻文』(博文館,明治30)所収の全文は以下のとおり。

うらうらと霞みわたれる空は。暮れんとしてまだ暮れず。ものより帰るさに見れば。近きあたりの書生なるべし。五六人ひろやかなる芝生にあつまりて。フートボール蹴あそぶ処あり。高くあがりては黄昏月の如くしづかに落ちきたるを。人々あらそひおしたふしつつ。我さきにと両手にうけ。或は蹴そこなひて横に飛ばすを。かたへの童が馳せゆきて奪ひとるなど。いとにぎわしき見物なりけり。彼らがためにここちよげなる春の風は。時々に来りて熱き顔の汗を吹く。

大和田建樹はサッカーのルーツ校東京高師教授でもあったので、「フートボール」を詠んでいても不思議ではありません。「人々あらそひおしたふしつつ。我さきにと両手にうけ。」とあるのでサッカーではなく、ラグビーのハイ・パントのような遊びをしていたのでしょう。


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(04/4/15)
明治時代に部分的にサッカーに言及した著作
『実験動作遊戯』児童体育研究会編(松華堂,明治42)
『学校遊戯ボール遊ビ』東京児童体育研究会編(博報堂,明治41)
同上
『競技運動体育読本』晴光館編輯部編(晴光館,明治36)
『新撰遊戯法』日本体育会編(育英舎,明治36)
『実験普通遊戯法』高橋忠次郎著(榊原文盛堂,明治34-35)

鉄道唱歌の作詞者大和田建樹がフートボールを詠んだ詞を発見!!!
『雪月花 散文韻文』大和田建樹著(博文館,明治30)

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(04/4/9)
サッカー史のトリビア-シーメンス事件
シーメンス事件で追及の先頭に立った島田三郎の息子、島田孝一は初代早稲田大学ア式蹴球部長で、1938年W杯フランス大会を観戦、大日本蹴球協会を代表してFIFA総会に出席。同じく追及の先頭に立った花井卓蔵の息子立原元夫は早稲田大学在学中ベルリンオリンピック日本代表選手。追及の矢面に立たされた首相山本権兵衛は、日本にサッカーを伝えたといわれるダグラス少佐の最初の教え子。へぇ~


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(04/3/25)
追加しました
『部誌 第3号』(京都府立医科大学蹴球部,1958)、『10年のあゆみ 新宮サッカースポーツ少年団結成10周年記念』(新宮サッカースポーツ少年団,1987)、『年報 1987-1988』(函館サッカー協会,1988-1989)を追加しました。


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(04/3/23)
新コラム
失われたスタジアムを求めてに着手しました。


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(04/3/18)
先物買い本
『サッカー批評』最新号で、やたら「未完の大器」を煽りたがるスポーツ・ジャーナリズムに警鐘を鳴らす記事が載ったとたん、森本が出現(笑)。釜本引退以後“スター”が欠乏していたサッカー本の世界では、10歳で渡伯した17歳の水島武蔵の草鹿宏著『ムサシ、世界へ翔ぶ』(集英社,1981)、サントス在籍中の三浦知良の大貫哲義著『三浦知良のサッカー留学物語 日本人で初のブラジル・プロになった男』(講談社,1987)、東海大一高で高校選手権に優勝したばかりのアデミール・サントスの写真集『Beleza! 僕にはゴールが見える サッカーの天才少年アデミール・サントスのすべて』(小学館,1987)、JSLの新人王武田修宏の大貫哲義著『武田修宏物語 サッカーにかける青春』(講談社,1988)なんかが先物買い本として出ています。こうして並べると結構大手の版元が刊行してますね。三浦や武田はともかく、水島武蔵を覚えている人はどれだけいるでしょうか。水島武蔵本としてははもう1冊水島虚雪著『野性児教育』(三笠書房,1975)があります。水島虚雪は武蔵の父、子育て論の本なので本サイトには収録しませんでした。


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(04/3/12)
追加しました
菊地久著『2002ワールドカップに燃える桑原勝義』(フューチャー,1987)を追加しました。


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(04/3/9)
小学校の御禁令
堀田哲爾氏のことを書いた「清水市をサッカー王国に導いたある青年教師の情熱」『イレブン』1983年6月号p.136-140に、

 “清水市に小学生サッカーが芽生えたのは昭和三十一年。当時は文部省が、サッカーの激しい運動量から子どもには危険すぎるとして、小学生のサッカーは禁止していた。そんな中、静岡大学を卒業、小学校へ赴任したばかりの青年教師が、若さにまかせて好きなサッカーに情熱を燃やし続けたのがきっかけだった。その教師こそ、いま、静岡県サッカー協会理事長として、日夜、サッカーの普及と世界に通じる選手の育成-という大きなのぞみを抱いて活躍している堀田哲爾氏(現在、清水市教委体育保険課長)だ。
 当時、二十一歳の若さだった。はじめて、教職についたのは、清水市立江尻小学校。「危ないから小学生はボールをけってはいけない」と県の教育委員会も、文部省と同じようにサッカーを小学校で教えることを禁止していた。そんな中、校庭に出てはボールを蹴る堀田教諭に周囲の目は冷たく、聞こえよがしに非難する声さえとびだす始末だった。”

とあります。サッカーが義務教育課程化するのは昭和33年度の学習指導要領(小学校指導要領第8節体育 参照)から。それまでは逆に、文部省や教育委員会がサッカーを“禁止”していたのでしょうか? もしそれが事実だとすれば戦後サッカーの低迷は教育行政の責任ということになりますね。

 『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引と 『イレブン』掲載賀川浩著「うちそとサッカー40年」索引の欠になっている部分を埋めました。

 秩父宮記念スポーツ図書館のオンライン目録が4月から公開予定だそうです。


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(04/3/4)
幻のストライカー
 『サカマガ』今週号(04年3月16日号)の賀川浩氏のコラムに、名前は出していませんが高校選手権に2年連続して優勝したチームにいた大器と期待されたストライカーの話が出ていました。

 “日本のストライカーの系譜の中に、本来は釜本の前に入るべき逸材がいた。彼は高校選手権2年連続優勝チームのセンターフォワードで、押さえの利いたシュートとドリブル突破は、同世代で群を抜いていた。高校生でメルボルン五輪の代表合宿に入り、紅白戦では八重樫茂生や長沼健、小林忠生たちよりも多くゴールを奪っていた。
 結局はメルボリン代表には入らず、大学でも伸びずに終ったこの逸材を、いまでも愛惜をもって思い出す。”

“いまでも愛惜をもって思い出す。”が賀川氏らしい。その人物とは志賀宏(浦和高)。本サイト『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引 中の『イレブン』1976年3月号収載「高校大会にコツ然と現われ消えた幻のストライカー」で川本、賀川両氏が彼について語りあっています。

“賀川:大物といえば、戦後では、昭和37年の大会で山城高校2年の釜本が登場しています。
川本:釜本の前に志賀が出たのは、昭和30年ごろだったか。
賀川:浦和高校の志賀宏は昭和30年の第33回大会、このとき二年生で、つぎの31年にも出場し、連続優勝したんです。
川本:彼は全くすばらしい選手だった。
賀川:そうですネ。30年の決勝の相手は刈谷で、刈谷にはたしか熊田という当時の高校生としてはなかなかのセンターハーフがいた。志賀に対してどのていどやれるか、とみていたが、結局、歯がたたなかった。決勝のあとで、“ついに待望のセンターフォワードがあらわれた” と興奮しながら西宮球技場で記事を書いたのをおぼえています。
川本:そうだろう。大きなからだのくせに回転半径は小さい。ボールを扱ったら、前へ正対して小さいフェイントで持って出る。すべてのレベルが低かった当時、全く、コツ然とあらわれた選手だった。ちょうどマニラの第二回アジア大会(昭和29年)のあとで、鴇田(ときた)岩谷だけ残して君の兄貴たち古いメンバーを切って日本代表の若がえりを期したときだ。そんなときだけにボクは志賀をみて、天の授けと、高校生のときに日本代表候補にした。
賀川:シュートなども押さえがきいて、すごかった。身長は1メートル74、78キロぐらいだったか、体格の面でも日本代表に負けなかったでしょう。
川本:代表候補の合宿での練習試合でも先輩連中がよう止めない。彼がいちばんたくさん点をとるんだ。
賀川:当然メルボルン・オリンピックへもつれてゆこうと考えたでしょう。
川本:そのつもりだった。
賀川:それが、なぜ途中で消えたのですか。
川本:彼は浦和高校を出て慶応の新人の年だった。たしか最終選考の合宿のときに、試験と重なって、その試験を受けなければ一年遅れる。しかし、もし選手でゆけるなら(ゆけることがはっきりしてるなら)試験を受けずに一年棒にふってもよい、といってきた。志賀の本心かどうか、おそらく彼の周囲の連中の意見だったと思うのだが、ともかく、そんなことをいってきた。これには合宿にきている連中がおこった。なかには、代表選手としてメルボルンへゆけないことはわかっていて、代表をもりたてるために、勤務を休んで練習にきているものもいる。そんな連中からみれば、若いのに、何を生いきなことをいうか、ということだろう。
賀川:それで結局・・・
川本:ボクはつれてゆきたかったんだが、皆がコジれてしまってネ。
賀川:たださえ、弱い代表チームの気持ちが一致しなくてはいかんのでしょうが、それにしても惜しいことをしましたネ。彼がその時に代表になっておれば、チームも違っていたろうし、彼自身もそのあとの道もかわっていたでしょうに、ああいうすぐれた素質をもったのがいれば、鴇田や八重樫も、もっといい試合をやれたんじゃないですか・・・。
川本:志賀は結局、慶応でもあまりやらずにサッカーの第一線から消えたが、あのとき、もしメルボルンへいっていたら、日本のストライカーとしてある時代を画しただろう。日本代表チームも、あるいは、変わったものになっていたかもしれない。
賀川:8年、年少の釜本の前の時代に、もう一人、いいストライカーがいたことになりますネ。
川本:ことしも浦和南高校の田嶋など、いい選手はいた。しかし志賀はケタ違いという感じがしたネ。ずっとやっていたら、おそらく釜本につなぐまでやっていたろう。戦後の大物を一人なくしてしまったんだ。
賀川:川本さんは50年近く、わたしは40年この大会をみてきたわけですが、高校のときに、非常によいと思った選手が、そのまま、トップにまで、どんどん順調に伸びてゆく、ということは、まことにむずかしいことですネ。ことしの高校大会のように、いいサッカーをみせてくれた若い素材が自分の能力を開いてゆき、いいチャンスをつかんでくれることを期待したいものです。”

 賀川氏は平山を見て釜本より志賀がオーヴァーラップしたようです。“わたしは40年この大会をみてきたわけですが” からさらに30年たってます(笑)。大学なんかさっさとやめてしまえ!平山(大失笑)


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(04/3/2)
図書館所蔵率
東京都立図書館のHPに東京都の図書館横断検索というページがあります。東京都内の36館の公共図書館のオンライン目録を横断検索できます。 From backstandの2003ベスト・ブック、ティム・パークス著『狂熱のシーズン ヴェローナFCを追いかけて』(白水社,2003)は13館が所蔵、同2002後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』(双葉社,2002)は22館が所蔵していました。両方を所蔵しているのは11館で、中央、練馬、豊島、渋谷、目黒区立、立川、八王子、調布、武蔵野、府中市立、東京都立の各図書館でした。どちらか一方だけを所蔵しているのが13館、両方とも所蔵してないのが12館。図書館といってもあるところにはあるし、ないところにはない・・


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(04/2/26)
西宮球技場
ここならJSLや高校選手権を観戦したことがある・・ Yahooの8千分の1地図 の中心点のあたりです。1970年の決勝、浦和南対初芝を観戦。浦和のCFは『赤き血のイレブン』の主人公玉井真吾のモデル、永井良和でした。  


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(04/2/25)
南甲子園運動場
 戦前全国中等学校蹴球選手権(現在の高校選手権)や現在の花園ラグビー大会が開催された南甲子園運動場とはどんな競技場だったのだろうか。

 まず、所在地については『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道,1985)p.213の「甲子園運動施設・阪神パーク配置図」によれば、浜甲子園バス停(国道電車が走っていたころの終点駅)の東側(大阪寄り)、 Yahooの8千分の1地図 だと枝川町1丁目、団地第七となっているあたりで、道路寄り(西側)がメインスタンドだったようです。その北側から甲子園九番町にかけてテニスコートもありました。

1924年完成の甲子園球場に続いて1929年完成。前田純一(阪神電鉄株式会社監査役)「短命に泣く南甲子園運動場」(『高校サッカー60年史』(全国高等学校体育連盟サッカー部,1983)p.47)によれば、

“・・・全国唯一の近代競技場は大正13年に出来た神宮外苑競技場だが御承知の通り一集400米のトラックの中へ投擲場や跳躍場やラグビーやサッカーを無理矢理押込んだような形で、その上スタンド、グラウンドが行け行けで整理がつかず色々欠点の目立つ競技場であった。あれやこれや考えた揚げ句結局の案は、まずトラックは一周500米、コーナーを半円形とせず三心円としてカーブをゆるくし球技場を収まり易くする。サッカーグラウンドとして75米X119米、ラグビーグラウンドとして75ヤードX110ヤード、跳躍の砂場はトラックとスタンドの中間に設ける。すなわちフイルド外に出るから球技の邪魔にならない。スタンドの前面は地上2米の高さとし、かつ大きな弓形をして砂場を抱へ込む。これでいずれの競技も相互に妨げられることなくグラウンド全体が非常に見易くなり、場内整理も非常に便利がよかった。鉄筋コンクリートの観覧席は定員2万人、当時の阪神パークや水族館のすぐ北で海岸に近く、バックストレッチは松林を越して鳴尾の競馬場が眺められた。スタンド内には貴賓室、集会所等の外、宿泊の設備もあった。昭和4年2月16日起工、5月22日に竣工した。昭和4年5月26日秩父宮殿下と妃殿下を迎え開場式を行った。”

このまま残っていれば、甲子園は野球だけでなく、サッカーやラグビーの聖地になってたかも。西宮はJの本拠地になり、W杯開催地に・・ しかも、全国唯一の“民営”スタジアム!

 大谷四郎「南甲子園の想い出」(同上p.52)によれば、

“・・・ここの陸上競技用トラックは珍しく500メートルだったから、なかのフィールドもやたらに広い感じだった。ウィングの強いチームには都合がよかった。タッチラインとトラックの距離も十分に取れたので、脚の速いウィングなどには全く快適の舞台、LWをやっていたら恐しく走りがいがあった。その代り、平素小さなグラウンドを使っていた中学チームには御しかねる広さだったかもしれぬ。

 神戸には東遊園地という外人クラブのグラウンドがあってその芝生はとくによかったが、南甲子園の芝生もよく手入れしてあったと思う。ことに夏場は緑鮮やかに深々と茂って、ボールが少し浮いたように芝生に乗るので、実にキックしやすかった。とにかく芝のグラウンドでは正しくければ正しく飛ぶから気持がよかった。

<中略>

 ここの欠点といえば風だったろう。スタンドが西側だけで南北が空き、海岸にも近いので大体浜風が吹いていた。それに乗ってアシカの鳴き声が大きく響いてくることもあった。冬は六甲おろしの北風が吹き、とにかく南甲子園はいつも風があるとみてよく、それが時には向きを変えたり、夏は急になぐこともあるので、トスに勝てば先に風上に陣する方が得策だった。”

 結局この競技場は戦時中の昭和18年4月海軍に接収されました。前田によれば、

 “海軍省の薄暗い廊下で1人の主計少佐は立ったまま阪神パーク、動物園、水族館、南運動場の敷地諸施設一切合財を三百数十万円で買収しますと内訳も言わず、全くの丼勘定で当時事業部長であった私に言い渡すとスタスタと消えて行った。私は涙も出なかった。”  


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(04/2/20)
庭球・野球・蹴球
城井睦夫著『“野球”の名付け親 中馬庚伝』(ベースボール・マガジン社,1988)p.100-101 によれば、中馬の著書『野球』(前川善兵衛,1897)中に、野球は「明治二十六年四月以来第一高等中学に於て、其野外の遊戯なるを以て庭球に対して野球と命名せるより原名と併用せらるるに至れり」とあるとのことで、野球に先行して庭球という訳語があったようです。なお、『野球』は国会図書館の近代デジタルライブラリー に収録されており、全文にアクセスできます。上記の箇所はp.8(11コマ目)です。

『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)p.22に「明治31年1月15日発行の『教育』によれば、蹴球部長坪井玄道教授の記事がある。」とありました。明治31年は1898年、19世紀末の1890年代頃に庭球、野球、蹴球という訳語が誕生したようです。というわけで “サッカー”という用語考をまたまた訂正。

中国語ではテニスは網球、野球は棒球、サッカーは足球、3つとも日本語訳に比べて即物的な感じです。誰かはわかりませんが、フットボールを蹴球と訳した人に拍手を!


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(04/2/18)
本日埼スタで観戦

???


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(04/2/17)
翻訳
私は『サカマガ』をジャック・ティベール氏のコラムから読むのを常としています。本日発売の『サカマガ』(2004.3.2号)の同氏のコラム(訳/中村一夫)に

“われわれは偽善の、ポルトガルを処罰せず、フランスが不当にも重い罰を受ける二重偽善の領域に入る。”[p.125](このページにページ付けがないが引用されるのが怖いのか?)

とありますが、どなたでもいいですからこれを“日本語”に翻訳していただけませんか。
素朴な疑問だが中村一夫って本名なの? 高名な某氏(多分故人)を騙ってるんじゃあ・・

本日の『日刊スポーツ』オンライン版に川淵大尉殿の談話として「サッカーの殿堂」を作る話が出てました。私としては、政財界人やバラエティ芸人が幅をきかせていた日本サッカーミュージアムの陳列品が悲しかったので、山田午郎や新田純興の両氏(この2人がいなければ、日本サッカー史は闇だった!)のような人々を顕彰していただければ、JFAを最高に評価できるのですが・・


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2003年3月10日~2004年2月12日

(04/2/12)
日比谷公園大運動場
第1回全日本選手権(現在の天皇杯)決勝は1921(大正10)年11月27日日比谷公園大運動場で行われています。大運動場というのは日比谷公園のどのあたりにあったかというと、直江宏「樹木逍遥 日比谷公園の樹々」『日比谷公園学講座 平成5年度』(東京都公園協会,1994)によれば 公会堂の北側から小音楽堂のあたりまで、芝生や円形の大噴水があるあたりが大運動場で馬蹄形になっています。小坂祐弘著『松本楼の歩み』(日比谷松本楼,1973)p.45には松本楼の屋上から大運動場を撮った写真があります。大きな広場だったので伊藤博文、山縣有朋、大山巌、山本五十六の国葬はここで行われたとのこと。


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(04/2/6)
学校側の事情
国見高校のU18代表平山は筑波大、兵藤は早稲田大に進学するそうです。私はJリーグができて、ユース代表クラスの高校生が大学に迂回せずプロ入りするようになった(これこそ“構造改革”)ことが日本代表強化に繋がったと信じて疑わない人間なので大変残念です。しかし、長崎県もご多分に漏れず高校の統廃合 問題があるようです。「今春、二万人近くの中学卒業生があったが、二〇一一年には一万五千人を切る。八年間で四分の一も減ってしまう」とのことで、教育長は今後も小規模校の統廃合を推進すると言明しているそうです。 国見高校は1967年に島原高校の分校が独立して開校した比較的歴史の新しい高校でしかも小規模校、OBが政財界に根を張る伝統校よりも統廃合の対象になりやすい学校といえるでしょう。平成14年度の進路状況は卒業生206名、進学113名(内4年制大学は27名)、就職84名(主な就職先のトップが京都サンガというのは・・)。進学状況を見れば筑波大や早大に進学できる生徒は貴重な存在です。中学生をリクルーティングする上でも、筑波や早稲田への進学実績は重要なはず。PLの桑田が早稲田を蹴って巨人入りしたため、早稲田との関係が切れたPLに優秀な中学生が来なくなってしばらく低迷したことがありました。全盛時代のPL学園といえども全員がプロ入りするわけでなく、進学先を確保するということがチームのレベルを維持する上で最優先事項なのです。国見の場合、総監督は校長先生、サッカー部だけでなく、学校の存続も考えて進路指導されてるのではないでしょうか。もちろん、本人たちも“筑波や早稲田を出て朝日新聞あたりに入社すれば生涯収入は平均的Jリーガーよりずっと上”と考えてたりしてるのかも・・


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(04/2/3)
サッカーの“特許”
サッカーとは関係ありませんが、中村修二氏の“200億円”特許が世間をにぎわしてます。問題の特許番号2628404は 特許庁特許電子図書館で、「特許・実用検索」→「特許・実用新案公報DB」 →「文献種別をB、文献番号を2628404」とすれば全文が見られます。ところで「公報テキスト検索」を選択して公開特許公報を発明の名称キーワード「サッカー」で検索すると87件検索結果がありました。多いのはゲーム関係ですが、「特開平8-131600 サッカー 練習用ボール打出装置」や「特開平8-57096 サッカー のフリーキック練習用人形装置」のような発明もあります。前者の出願人は有限会社長島機工、後者は有限会社橋本製作所。所在地は前者が清水、後者が浦和、さすが・・


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(04/1/31)
森雅之と少年サッカー
東京蹴球団が1922(大正11)年10月15~16日日比谷公園で開催した関東少年蹴球大会を報じた『東京朝日新聞』1922(大正11)年10月16日付記事の写真のキャプション。“選手の父として 成城学校の一選手として令息の行光君が後衛を承ったので有島武郎氏は朝早くから貴賓席の椅子をはなれず、『ャ、しっかり』などと思はず「父」らしい声を出して応援につとめた”とあります。この大会に成城小学校のLFとして出場した作家有島武郎の長男有島行光は後に黒澤明監督『羅生門』や成瀬巳喜男監督『浮雲』などに主演した名優、森雅之。彼は旧制成城高校時代もサッカーの高校選手権(インターハイ)に小学生時代とは対角線上のポジションRWで出場しています。

1936年ベルリン・オリンピック代表の平均年齢は23歳、1913年前後に生まれて少年蹴球大会が始まったころは小学校高学年。戦前日本サッカーの急成長のカギがこのあたりにありそうなことは ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカーに記しました。


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(04/1/26)
カテ1が当った
早い者勝ちでない初の「登録抽籤方式」オマーン戦、ようわからんので第1志望カテ1、第2志望同2、第3志望同3にしといたら、あっさりカテ1が当たりました。本日さっそく換券。しかし、灼熱の国オマーン相手に2月18日、場所は埼玉(新潟でも宮城でもいいが雪と観客動員で・・ということで多分関東最内陸のここに?)。JFAも香ばしいことやってくれるなと・・


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(04/1/25)
女人禁制
本日誌04/1/22で述べたように、関東蹴球大会を報じた東京朝日新聞の記事中に “女高師の学生数十名が列をなして附属中学前に陣取り熱心に見物してゐたのは他の競技には見られぬ光景” とありましたが、“競技”ではないものの秦郁彦著『旧制高校物語』(文藝春秋,2003)中に当時の風潮を記した部分がありました。一高の紀年祭(学園祭)に女性の入場を許すかどうか、毎年喧々諤々してたそうで、一高生だった大仏次郎が野尻草雄名で学園生活を綴った『一高ロマンス』(1917年刊)には、

“毎年二月議事に上される紀年祭当日婦女子入場禁止案は、数多の議案中でも最も人気のあるものでこれに就いて硬軟(?)両派の激論は真に目覚しい”

とあるそうです。


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(04/1/23)
コラムを改訂しました
コラム『“サッカー”という用語考』を改訂しました。


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(04/1/22)
日本最初の女性サッカー・ファン
『東京朝日新聞』1918(大正7)年2月11日付の第1回関東蹴球大会記事を報じた記事の見出しは「蹴球大会(第二日) 雨を冒して健児の奮闘 女高師生の見物は一色彩」、記事中に“・・・正午頃から女高師の学生数十名が列をなして附属中学前に陣取り熱心に見物してゐたのは他の競技には見られぬ光景であった。・・・”とありました。東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)は女性サッカー・ファンの先駆だったようです。


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(04/1/20)
本日発売『サカマガ』
「ああ言えば、こう蹴る」で大住良之氏が高校選手権について、“この大会の開催が、日本サッカー協会の設立に結びついたという歴史をを持つ日本最古の大会であるだけでなく・・・”と述べていますが、“日本サッカー協会の設立に結びついた”とはどういうことなのでしょうか? 『日本サッカー史 代表篇』の著者後藤健生氏の反論を期待したいです。1918(大正7)年関西で“日本フートボール大会”(大阪毎日新聞主催 現高校選手権の前身)、関東で”関東蹴球大会” (東京蹴球団主催 東京朝日新聞後援)が同年に始まりましたが、関東の方の主催者東京蹴球団の中核メンバー(内野台嶺等)が1921年の大日本蹴球協会創立に際して理事になったりしてますけれども・・


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(04/1/17)
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介
の脚注に着手しました。


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(04/1/13)
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介
の本文をアップしました。解説にとりかかりました。

 昨日高校サッカー決勝を観戦しました。スポーツ紙情報では平山が胸トラップした時にヘディングにいって足を上げさせてファウルを誘うはずとのことでしたが、そんなシーンは全然ナシ。釜本2世はいろいろ見たが(小松から知ってます)、妙に“甲子園化”されて“ふぃふぁふぇあぷれーしょう”モンの高校選手権からは大器は育たん、と思ったのは私だけでしょうか?実は筑陽の応援団の近くで見てたんですが、応援団が“全国放送”を意識してるらしくて、マナーよろしく(失笑)九州大会の“ドッグ・ファイト”を見られる人がうらやましかったりして・・(笑)。平山筑波大進学って、昨年の徳永といいO久保君が散々叩かれてるからかも。しっかし、私は平山は第二の船越になりそな気が・・


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(03/12/31)
ひさしぶりの新メニュー
原島好文著『ソッカー十年の思ひ出』全文紹介を一部アップしました。いずれ解説や脚注もつけたいと考えています。 


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(03/11/12)
日本サッカーミュージアム
がいよいよ開館するようです。大晦日も正月も“営業”、気合入ってますなあ。入場料500円。 


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(03/10/2)
学習指導要領における“サッカー”
 国立教育政策研究所が過去の学習指導要領を学習指導要領データベース として全文アクセス可能にしています。昭和22年度の 学校体育指導要綱では“フットボール”、 “しゅう球”、“サッカー”が混在しています。サッカーが正式にカリキュラム化されたのは昭和33年度からです。昭和33年度小学校指導要領第8節体育では簡易“サッカー”に、 中学校指導要領第7節保健体育では“サッカー”に用語が統一されています。“サッカー”という用語考で述べたように、米軍による占領統治下の検閲、当用漢字の制定(“蹴”の字が除外された)、サッカーの義務教育課程化が“サッカー”という用語を普及させたと考えていますが、最も決定的な要因が最後の義務教育課程化でしょう。これは日本サッカー史としてもエポック・メーキングな出来事(6年後の東京オリンピックとそれに続く第1次サッカーブームの土台になった)だと思われるので、機会があればもっと突っ込んで調べてみたいと考えています。


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(03/9/18)
ラグビーのトップリーグはJSLの二の舞か?
 日本サッカーリーグ(JSL)は1965年、プロ野球以外のスポーツで初の全国リーグとして発足、Jリーグの誕生にともなって1992年発展的に解消した。この間、メキシコ五輪銅メダル獲得はあったものの、これは1964年東京五輪のため集中強化した結果というべきでJSL効果とはいえず、それは何よりその後の代表の成績が証明しているようにW杯、五輪予選とも敗北の連続だった。 ボトム・アップでレベル・アップした戦前の日本サッカーでも指摘したように、JSLが日本サッカーの“トップリーグ”となったにもかかわらず、有望高校生が2流化した大学サッカーに迂回してしまい、大器と期待された人材が伸び悩んでしまう傾向があった。Jリーグ発足後はユース代表クラスはほとんど例外なくプロ入りしてワールド・クラスの選手に揉まれ、代表の成績も急成長したのはご存知のとおり。昨年のユース代表で唯一大学に進学した徳永(早大)もFC東京で指定強化選手としてトップリーグを体験している。こうした制度が存在すること自体、いかにサッカー界が長期にわたって上記のジレンマに苦しんだかを示しているといえよう。アマチュア時代のピークと考えられる1968年メキシコ五輪代表で大卒でなかったのは宮本輝紀(山陽高→八幡製鉄 当時私はこの人が一番知的なプレーヤーだと思っていた)のみなのに対し、セネガル戦のメンバーで大学出身者は坪井(福岡大)、黒部(福岡大)、山田(卓)(駒大)の3人だけ、サッカー日本代表は人材供給を大学に依存しなくなってから急速に強化された。

  ひるがえってラグビーのW杯最終登録メンバーをみると、日本人26人のうち高卒はPR山本のみで他は全員大学OBか大学生、人材供給を完全に大学に依存していることがわかる。有望高校生は18~22歳を “トップリーグ”ではなく、ヌル~イ大学ラグビー(トップリーグの発足により社会人-大学格差はさらに開く)で過ごすことになる。“関東大学ラグビー”がリーグ戦Gと対抗戦Gに分かれていて関東大学レベルで“トップリーグ” を形成できていないんだから、トップリーグに対抗できるはずもない。

 結論 ラグビーのトップリーグは人材供給を大学に依存しているかぎり、現状と同じに終わり代表強化と直結しない。


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(03/9/14)
『サッカー批評』最新号
はJFA特集。このテーマならSARS渦でヤナギサワ(怒)してしまった前号ポルトガル特集の轍を踏むことはない。
 後藤健生氏の『長沼健元会長に聞く「76年の改革」昨日のJFA』p.50-57は本HP 編纂日誌(02/1/23)『 JFAの“クーデター”(1)』の真相に迫るもの。長沼氏(のインタビューが記事の中核)は「クーデターではなかった」とのことですが、「当時、野津や小野が実際どのような気持ちで辞任したのか。野津も小野もすでに亡くなっているのでそれを確かめる術はない。たしかに、評議員会の席では長沼の言う通り辞任を渋るようなことはなかったのかもしれない。だが、野津会長、小野専務理事が知らないうちに後任人事が決まっていたとすれば、これはやはり「政変」と言っていいだろう。最後の評議員会での静かな交代劇は、いわば「無血クーデター」の最後の儀式のようなものだったかもしれない。」と述べられています。
 全体として、「JFAのことはJFAに聞くしかない」っていうことなんでしょうね。まあ、シカタないんでしょうけど。
 せっかくのチャンスなんだから、経産省の石油マフィアがイランをはじめ中東のサッカー界にどう食い込んでいるのか、とか突っ込んで欲しかったな。   


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(03/8/18)
『奥寺康彦の楽しいサッカー』
(小峰書店,1989)の解題を追加しました。  


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(03/8/13)
『素晴らしきサッカー集団 サッカーOBインターハイ5年の歩み』
(サッカーOBインターハイ実行委員会,1980)の解題を追加しました。  


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(03/7/6)
『サッカーでのけがと安全 86万人の記録から』
(スポーツ安全協会,1986)の解題を追加しました。  


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(03/7/5)
『サッカー・トレーニング・マニュアル』
(ロク企画,1989)の解題を追加しました。  


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(03/7/3)
『サッカー必勝大作戦 50ポイントレッスン』
(草土文化社,1986)の解題を追加しました。  


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(03/7/2)
岡野俊一郎著『サッカー』
(旺文社、1971)を追加しました。  


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(03/7/1)
表紙ページ
にサイト内検索のウインドウ(Google)を設置しました。  


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(03/6/30)
『サッカーの戦術と技術 1 イングランドサッカー協会コーチングブック』
チャールス・ヒューズ著(日刊スポーツ出版社,1984)を追加しました。  


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(03/6/22)
『キックオフの笛が鳴る サッカーの歩みと魅力』
轡田隆史著(さきたま出版会,1993)によれば、著者の父轡田(旧姓横村)三男は日本が国際戦初勝利した1927年極東大会代表。この大会で活躍した高師康は著者の埼玉師範学校附属小の先輩にあたり、同小学童サッカーの1期生にあたるそうです。1927年の代表チームにすでに学童サッカー出身者がいたという事実は、サッカーの垂直方向への普及がいかにめざましかったかという証左でしょう。同じフットボールでもラグビーやアメフトだとこうはいきません。
 また、秩父宮記念スポーツ図書館に蔵書を多数寄贈したと思しき大谷東洋なる人物もやはり著者の同小の先輩にあたるそうです。  


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(03/6/15)
コラム“サッカー”という用語考
を改訂しました。 


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(03/6/8)
『少年倶楽部』
 03/5/27に記した「山田午郎が人気投票で1等になった講談社の雑誌」を探してみようと土曜日に立川にある東京都立多摩図書館に行ってきました。『少年倶楽部』の大正時代は欠号が多く、大正4年1,3,6,12月、同11年1月、同13年4月、同14年5月の各号しか所蔵しておらず、次は昭和7年8月号まで飛んでいます。
 残念ながら山田が1等になった人気投票は見つかりませんでしたが、大正11年1月号に「偉人投票」という記事があって、
1位ナポレオン 38,649点 2位乃木希典 32,904点 3位豊臣秀吉 32,863点 4位楠正成 26,968点 5位西郷隆盛 13,265点・・・で賞品は1等銀製メダル、2等銅製メダルでした。大正14年5月号には「二月号で一番面白かった読み物は?」というコンテストの結果が掲載されており、答えは「佐川春風先生の怪盗? 名探偵?」でした。同号には白井桃村作「野球小説 悲憤の熱球」も掲載されています。昭和期も含めて、野球小説はかなり掲載されてますが、他のスポーツはオリンピックを除いて影が薄いようです。
 但し、昭和7年10月号(ロサンゼルス五輪があり「熱血運動号」)のクイズの賞品の4等は野球のグローブ・ミット・ボール、顕微鏡と並んでフットボールになってます。
 時間の関係で『少年倶楽部』昭和7年までと『幼年倶楽部』(大正15=1926年創刊 大正15年10月号のみ所蔵)しか調べてないので、欠号分や未調査分の両誌に山田の記事があるのかもしれません。


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(03/5/28)
明治神宮大会の位置づけ-『天皇杯65年史』から
 同じく『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、987)中の「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会から、

(前略)
鈴木:第4回大会は明治神宮大会という総合競技会と兼ねて行われたのですか。
新田:そう、大正13年のこの大会からだ。これ以後、戦前の東京での全日本選手権決勝は第16回大会(昭和11年6月)の陸軍戸山学校グラウンドを除き、すべて明治時宮競技場(現在の国立競技場)で開催された。内務省の主催する大会で、明治神宮に奉納するものだったのです。だから当時は大変熱の入った大会で“FA杯”より明治神宮大会の意識の方が強かった。
(中略)
鈴木:大正15年(1926年)の第6回大会は天皇がお亡くなりになったので中止されましたね。その前に全日本は、神宮大会と切り離すべきだ、との声が出ていたと聞いています。学生の参加という問題もあったようですが・・・。
新田:内務省主催の明治神宮大会では学生の参加が許されないことになった。一方、全日本は協会に登録しているチームならかまわない。これまでうまくいっていたのがダメになった。神宮大会は天皇がお亡くなりになる前に行われたが、協会はこれとは別に翌年の1、2月に独立して全日本を開催することにしていた。それが大正天皇の崩御で中止になったわけです。
鈴木:ところが次の第7回大会(昭和2年=1927年)はまた神宮大会を兼ねていますね。
新田:内務省と文部省が妥協した結果だよ。神宮大会は最高のものでなくてはいけないということで、再び全日本は神宮大会を兼ねることになった。学生も出場してね。
(中略)
鈴木:東京帝大LBが初優勝した昭和6年10月の第11回大会は神宮大会とともに第1回全国地方大会を兼ねていますね。この地方対抗というのは?
小野:大会をなんとかにぎやかなものにしようというところから、そのタイトルをつけたんだと思うよ。北海道の函館蹴球団なども参加した。
鈴木:早大WMW,慶応BRBなどはOB現役の混成チームですが、東大LBもそうだったのですか。
新田:コーチのノコさん(竹腰重丸氏)があんまりやかましいので、のんびりやれるチームを作った(笑い)。学生リーグに出ているレギュラーでない連中が、全日本に出て勝ったんだよ。
鈴木:ということは、学生の意識は全日本より大学リーグの方が重要、ということだったんですね。
新田:そうです。LBの方は文句を言われないでやりたい、という連中の集まりだったんだ。
(後略)

 ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏でも言及したように、オリンピック代表候補選考参考試合だった神宮大会に対して学生チームがモチベーションをもたなかったことが、ベルリン・オリンピック代表選考結果が朝鮮側に不満をもたらした要因のひとつでした。


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(03/5/27)
東京蹴球団と山田午郎-『天皇杯65年史』から
 『天皇杯65年史』(日本サッカー協会、987)に「草創期から「ベルリン」後まで」と題する座談会があり、新田純興、小長谷亮策、小野卓爾、宮本能冬、鈴木武士(司会)が出席しています。

(前略)
鈴木:山口高校の棄権で、第1回大会の試合数はわずか2試合。そして東京蹴球団が最初のチャンピオンとなった。
小野:東京蹴球団は強かった。ほかのチームは問題にならなかった。
鈴木:東京蹴球団というのは、どんなチームでしたか。
宮本:大正6年(1917年)東京・芝浦で行われた第3回極東選手権のサッカー競技で日本はメタ負けした。(中華民国に0-8、フィリピンに2-15)。これじゃいけないというので東京高等師範の内野台嶺先生が高師、豊島、青山両師範の関係者を集めて「みんなで力を合わせ、日本サッカーの向上を図ろう」と呼び掛けた。この時、集まったのが山田午郎、露木松雄(いずれも第1回大会優勝チームメンバー)などです。こうしてできた東京蹴球団は日本サッカーの底上げ、普及、技術向上を使命としていた。日本協会がやらなければいけないことを肩代わりしていたともいえるね。普及のために、北海道をはじめ東日本のサッカーをやっているほとんどの地方へ行った。
小野:最初に全日本の優勝杯、FAカップを大会名誉会長エリオット駐日英国大使から授与された山田午郎主将は、講談社の少年雑誌の人気投票で1等になったことがあるんです。
鈴木:少年たちのヒーローだったわけですね。それはサッカーの、ですか。
小野:そう、サッカーの選手で1等をとった。その午郎さんたちが自費で北海道などを回ったんですよ。
(後略)

 「山田午郎主将は、講談社の少年雑誌の人気投票で1等になったことがあるんです。」とはどんな人気投票だったんでしょうか。「講談社の少年雑誌」とは『少年倶楽部』(大正3=1914年創刊)だろうと思います。大正期?における少年サッカーの普及の傍証として調べてみたらおもしろいと思いますが、この時期の『少年倶楽部』にアクセスするのはナカナカ大変・・・


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(03/5/25)
解題を追加しました
『図解サッカー』(日東書院,1979)の解題を追加しました。


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(03/5/24)
解題を追加しました
『天皇杯65年史 全日本サッカー選手権全記録』(日本サッカー協会,1987)、『サッカー入門 キミも、名プレーヤーをめざせ!』(ナツメ社,1982)の解題を追加しました。


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(03/5/19)
解題を追加しました
『蹴球年鑑 昭和7-8年度』(大日本蹴球協会,1933)、『サッカー』(柴田書店,1959)、『小学校サッカー』(不昧堂書店,1962)の解題を追加し、一部書誌事項を訂正しました。


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(03/5/6)
ダグラス少佐
 篠原宏著『日本海軍お雇い外人』(中央公論,1988,中公新書)が、日本にサッカーを伝えたというダグラス“少佐”に触れているのでメモしておきます。 Archibald Lucius Douglasは1842年カナダのケベック生まれ、14歳でイギリス海軍に入り1873年“中佐”に任官(従って本書では中佐になっている)、1895年少将、1901年中将、1905年ポーツマス司令官、1907年大将で退役、1913年死去。
 在日は1873年~1875年と僅かだが、この間に海軍教育を徹底的にイギリス化し、帝国海軍の基礎を築いたお雇い外国人中の超大物だったようです。彼の謦咳に接したのは兵学校(当時は兵学寮)2期~6期で、2期には山本権兵衛、日高壮之助、入学から卒業まで完全なイギリス式教育を受けた最初の世代となった6期から山内万寿治(日露戦争時呉鎮艦政部長)、坂本俊篤(同海大校長)、斎藤実(同海軍次官)など、日露戦争時海軍の中枢となった人材を輩出しています。日露戦争後の1906年勲一等旭日章を受勲、僅かの在日期間にもかかわらず、教え子たちが高評価していたことがわかります。
 大変規律(discipline)を重視した教育方針だったようで、以下の記述があります。

 “最も興味が持たれるのは後に海軍の規則の中で最もやかましくいわれるようになった「五分前」の規則である。この兵学寮内則の第九十条には「凡ソ食事ノ鐘声ヲ聞ケハ鐘声未タ終ラサル前ニ各室外ニ整列シ・・・」とあって、オランダ海軍規則なので五分前の文言は入っていないが、明治六年十月英教師ドグラスの建言によって決められたイギリス式兵学寮規則の時になって初めて「・・・生徒ハ授業ノ始マル時刻ヨリ五分時間前ニ講堂或ハ船具操練場或ハ大砲操練場ニ集ルヘシ」(第四条)となって明示されることになる。”

 また、スポーツも重視しており、1874年3月1日日本最初の運動会といわれる「競闘遊戯(Athletic Sports)」を開催しています。全部で18種目あったそうですが、フットボールがふくまれていたかどうかは記載されていません。 


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(03/4/21)
追加しました
『30周年記念誌』(千葉県サッカー協会,1976)、『第28回国民体育大会秋季大会蹴球』([日本体育協会],[1973])を追加しました。


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(03/4/21)
追加しました
『栄光の足跡 高専サッカー20年史』(全国高等専門学校サッカー連盟,1989)を追加しました。


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(03/4/19)
追加しました
『第1回日韓高専親善サッカー訪韓試合報告書』(日本サッカー協会高専部会,1977)を追加しました。


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(03/4/18)
追加しました
『サッカー』(日東書院,1973)、『札幌大学サッカー部20年史』(札幌大学サッカー部OB会,1986)、『銀蹴 旧制新潟高等学校蹴球部六十年のあゆみ』(新潟高等学校蹴球部編集員会,1987)を追加しました。


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(03/4/1)
堀江忠男氏のヘッド・スライディング
 ベルリン・オリンピック代表で早稲田大学ア式蹴球部監督だった堀江忠男氏が亡くなりました。氏は選手、指導者として業績を残しただけでなく、戦後最初の高水準の技術書『サッカー 理論と技術』(朝日新聞社,1949)の共著者であり、選手、監督としての自伝『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)の著者でもあります。現在も『昭和経済』という雑誌に「わが回想より」というエッセイを連載中でした。
 自伝にもありますが、浜松一中時代からアーセナルの名選手Charles Buchanの『Football aids』(Daily News, 1929)を愛読していて、1934年3月~1936年3月にかけて『体育と競技』誌に翻訳を連載しています。同誌には堀江の父で浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授堀江耕造もBuchanの著作『Association football』(Hutchinson, 1928)の翻訳を連載しています。堀江はオリンピック当時大日本蹴球協会機関誌『蹴球』編纂委員でもあり、オリンピック前後の同誌にほとんど毎号記事を書いています。川本泰三氏によれば、サッカーをやりながら早稲田の政経を全優というア式蹴球部“空前絶後”の成績で卒業したとのこと。
 堀江は上記『わが青春のサッカー』(岩波ジュニア新書なので児童書扱いしている図書館が多いが、内容的には児童書ではない)以外に雑誌『知識』1988年1~12月号に「都の西北 わが早稲田の青春」と題する回想を連載しています。堀江の兄正規は大月書店から全集が刊行されているバリバリのマルキスト、同誌1988年2月号によれば、

 “当時、兄正規と私は市谷に借家して自炊をしていた。この家はコップ(日本プロレタリア文化連盟)のアジトに使用され、蔵原惟人、宮本顕治、中条(のち宮本)百合子などが出入りしていた。そのうちコップの首脳部が一斉検挙され、アジトが危なくなったので、借家をたたんで、池袋に住んでいた伯父近藤圭(私に経済学をやれとすすめてくれた)の家に居候をしていた。間もなくそこまで検挙の手が伸びて、戸塚暑に拘留された。”

とのこと。政経学部の優等生、サッカー日本代表の右FB、そして左翼(というよりもリベラルという立場のようですが)が同一人物の中に同居していました。
 父、兄そして本人(朝日新聞を経て早大政経学部教授)が大学教授という学者一家に育ち、中学校時代から原書でサッカーの技術・戦術を勉強していたわりには、プレー・スタイルは泥臭く、とりわけ有名なのが“ヘッド・スライディング”でした。どうしても止められないボールに頭から突っ込むと思わず相手は引いてしまうのだそうです。どの雑誌か忘れましたが、実際にヘッド・スライディングしている写真を見たことがあります。『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)所収の「昭和初期の兵庫のサッカー」という座談会では、

“大谷:ウイングにも色々あったが、早稲田に堀江がおったでしょう。前へ突っ込んでばかりおる。一度足の上に乗ったらんとあかん<乗ってやらないといけない>と思って足を踏んでシャーと前へ行ったことあるけど、そのうちやり損ねてカーンと膝いかれた<やられた>ことがあるわ。
吉江:彼はボール放っといて体で行く方やったから。
大谷:だいたいあれを「すかす」のが面白うて・・・。
吉江:まるで猪みたいなもんやったからね。
大谷:一度足から来ると思ったら頭から滑り込んできてね。こいつだけハアーッと思ったね。頭を蹴っていく訳に行かんしね。”

とあります。大谷一二は神戸一中、神戸高商、神戸商大OB、東洋紡会長、吉江経雄は静岡一中、神戸商大OB。堀江の猪武者ぶりが伝わってきます。大谷の相手をオチョクルようなプレー・スタイルが生真面目な関東の選手・コーチに嫌われてベルリン・オリンピック代表候補に落選したのかもしれません。
 指導者としてもインテリにありがちな理論だおれになることはなく、早稲田の「百姓一揆」といわれる泥臭いリアリズム・サッカーを貫かれたようです。

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(03/3/26)
JFA機関誌『サッカー』総目次
を完成しました。最後は130号ですが、29・30号が合併号で117号が未発行なので合計128号刊行されたことになります。 これで1931年創刊の『蹴球』、戦後の『Soccer』、『蹴球』、『サッカー』と1974年までJFA機関誌の総目次を揃えました。機会があれば欠号で目次未入力の号も埋めていきたいと考えています。


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(03/3/19)
御影師範廃部の謎
 御影師範は現在の高校選手権の前身、日本フートボール大会に第1回~7回(1918年~1924年)連続優勝、この大会が全国中等学校蹴球大会(日本フートボール大会はオープン参加の実質的には近畿大会、1926年から始まるこの大会から名実ともに全国大会になる)に変わってからも第9回(1926年)、11回(1929年)、13回(1931年)、14回(1932年)と4回優勝しています。ライバル神戸一中は最後のフートボール大会第8回(1925年)、12回(1930年)、15回(1933年)、17回(1935年)、20回(1938年)と全国大会化してから同じく4回優勝しています。この両校以外で優勝したのは第10回(1927年)の平壌崇実、16回(1934年)の岐阜師範、18回(1936年)、21回(1939年)の広島一中、19回(1937年)の埼玉師範、22回(1940年、戦前最後の大会)の(京城)普成中のみです。全国大会になってからの14回のうち、8回の優勝を両校が分け合っています。
 戦前図抜けた強豪だった御影師範ですが、姫路師範と合併して兵庫師範となった1936年に「運動部選手制度」が廃止され、その栄光に終止符が打たれることになります。田辺文庫で見た『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(御影蹴球団,1967)、神戸市立中央図書館蔵の『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』(兵庫県サッカー協会,1997)の両書とも、なぜ廃部になったかという記述がなかったと記憶しています(田辺文庫では書誌データの採集に忙しく、じっくり読む暇がなかった)。
 ライバル神戸一中が強かったのは、御影師範附属小をはじめとして御影師範OBが神戸近隣の小学校で学童サッカーを普及させていたからで、兵庫師範が廃部した結果学童サッカー指導者の供給源がなくなってしまい、戦前のサッカー王国兵庫県が埼玉県や静岡県に戦後とってかわられることになります。兵庫県サッカー史の明暗を分けた最も重要な事件のはずで、『兵庫サッカーの歩み 兵庫県サッカー協会70年史』が このことにまったく言及していないのは???です。せっかく神戸まで行ったのに。


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(03/3/13)
コラム 日本代表のエンブレム
をアップしました。『サッカー』総目次は1970年末まで入力。


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(03/3/10)
春山泰雄のプレスコード違反事件(続)
江藤淳『閉された言語空間 占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋,1989)、松浦総三『占領下の言論弾圧 増補決定版』(現代ジャーナリズム出版会,1974)には日刊スポーツのプレスコード違反事件は出てませんでした。さて、「米国の裸体ショウ トムスン氏大都劇場で紹介」という見出しの問題の記事とは、

 “エロだ、芸術だと裸体レビューに対する批判がやかましく論じられている折柄アメリカにおける裸体ショウの本当の姿が米人レビュー演出家によって日本の大衆に紹介されることになった。
総司令部情報部演劇課長ウイラード・トムスン氏はアメリカでも一流のレビュー演出家として知られているが、この程同氏が浅草の各レビュー劇場を視察した際に大都劇場のショウに着目。アメリカにおける裸体ショウを紹介して日本レビュー界の芸術的水準を高めたいとの希望で自ら好意的に同劇場の裸体ショウの台本執筆、並に演出を買って出ることになった。
 劇場側でも同氏の好意に感激して諸般の準備を進めていたが台本完成間際にトムスン氏が病気になったため六月一日から上演の予定を十五日と変更したが、戦後初めてのアメリカ人の台本、演出による裸体ショウとして早くも各方面の話題となっている。”

『日刊スポーツ五十年史』によれば、

“この原稿は、外部の寄稿家橋本与志夫(現演劇評論家)が取材、執筆し、小笠原俊郎がチェックのうえ掲載した。占領軍批判など微塵もない内容だが、念には念を入れて大都劇場に確認を取り、トムスンにも連絡をしたが病気で休息中とあって当人の確認は取れなかった。もちろん、事前検閲もパスしていた。”

とのこと。この記事で重労働1年、発行停止6ヵ月という軍事裁判の判決は「暴政」というほかないでしょうね。

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2002年11月9日~2003年3月7日

(03/3/7)
JFA機関誌総目次
は、『サッカー』100号、1969年末まで入力しました。1931年創刊の『蹴球』から目次を一覧すれば大雑把な日本サッカー史を辿ることができます。’69年頃は轡田三雄、牛木素吉郎の両氏が朝読同舟で編集していたようです。


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(03/3/5)
春山泰雄のプレスコード違反事件
春山泰雄(1906~1987)は東京高師附中、旧制水戸高校、東大経済学部卒、1927年上海の極東大会対フィリピン戦で日本の歴史的な国際試合初勝利をあげたイレブンの一人、1930年東京の極東大会では唯一の優勝を体験している人物。中学時代はチョー・ディンの指導を受け、ディンの著作執筆に協力し、謝辞に名を連ねています。
1931年旧報知新聞社に入社、1938年上海の大陸新報に移籍、戦後1946年に日刊スポーツ入社し、1948年5月に2代目編集長になります。当時は占領下で1945年9月に出されたプレスコードにより、新聞はGHQの民間検閲部の事前検閲を受けていました。1948年5月27日の記事「米国の裸体ショウ トムスン氏大都劇場で紹介」が事前検閲はパスしたのに、GHQから事実無根というクレームがつき、編集長だった春山がプレスコード違反で検挙され、丸の内暑の6日間勾留されます。軍事裁判では一審で「日刊スポーツに対し発行停止6ヵ月、罰金15万円、春山に対し重労働1ヵ年」、二審は「発行停止6ヵ月、罰金7万5千円、重労働1ヵ年(占領期間中執行猶予)」の判決だったが、軍事裁判の最高責任者第一騎兵旅団長ウィリアム・チェス少将が審査・承認に際してさらに発行停止を解除。結局罰金だけを払って刊行は継続し、春山も収監されずに済みました。この裁判はプレスコード違反第1号だったので、同じ立場の一般紙もこぞって報道したとのこと。『日刊スポーツ五十年史』(日刊スポーツ新聞社,1996)は、

 “ところで、この裁判は、「事前検閲は通っているし、記事内容にも特に落ち度はない」本社にとって、誠に理不尽なものであった。後日談の形でいくつかの理由らしきものが出てきた。当時の婦人運動のリーダー神近市子だか市川房江だかが「米軍は日本に裸ショーの奨励に来たのか」とGHQにねじ込んだという説。米国人の婦人団体がクレームをつけたという説。米ソ冷戦が激化していた折、以前、本紙がソ連の体育祭を大きく取り上げたことから“赤狩り”のスケープゴートとして狙われたという説。GHQ内部の演劇課と新聞課のけんか説から、大都劇場のライバルの常盤座関係者が米軍の知人を扇動して事を大きくしたといううわさまで飛び出した。”

と、同社が槍玉にあがった理由を推測しています。問題の記事の全文も写真で掲載されています。事前検閲は書籍が1947年10月、雑誌が同年12月、新聞が1948年7月まで続き、以後事後検閲になります。事前検閲廃止後も、上記のような思想的でない記事ですら“引っ張られた”こともあって、マスコミ各社は戦々恐々で「自主規制」していたようです。春山は思いもかけないところで言論弾圧史に名を残すことになりました。
戦前『蹴球』だった協会機関誌が『Soccer』という誌名で1948年8月に復刊していますが、誌名ひとつとっても占領軍に配慮していたことがうかがえます。協会機関誌は占領が終了すると『蹴球』に戻ります。


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(03/3/4)
追加しました
『日本サッカー狂会20年の歩み』(1983)の解題を追加しました。


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(03/2/24)
追加しました
藤枝東の部史『サッカー六十年のあゆみ 創立60周年記念』(1982)、堀田哲爾著『この道20年キックオフ人生 心のサッカー108話』(1986)、『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(1986)の解題を追加しました。


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(03/2/23)
清水の長期計画
昭和26(1951)年清水東高校のサッカー部を復活したのは、広島高師主将だった福井半治。彼は清水サッカー振興のため遠大なプランをたてます。彼の教え子で清水東黄金時代を築いた勝沢要の「清水東高サッカー部小史」(『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(静岡県立清水東高等学校サッカー部後援会、1986)所収)によれば、

 “清水東高サッカー部創設当時、本高生徒を可能な限り「教員養成学校に進学させて指導者を増やす以外に強化の近道はなし」と達観された福井先生の影響を受けて、現在小学校に小花公生氏を筆頭に7名、中学校に浄見元紹氏を筆頭に4名、高校は名高連部長としてその重責を果たすこと11年の福本利幸氏を筆頭に15名を数え、指導者の数としては県下屈指である。”

とのこと。清水といえば、堀田哲爾氏の清水FCから中学、東高、清商への一貫指導が著名(Jリーグ発足以降はさらにプロがその受け皿になった)ですが、それ以前に福井半治氏の“深謀遠慮”があったということです。公立学校運動場の開放やサッカー選手の進路指導など清水独自の選手育成のノウハウはこうした“長期計画”の産物だったようです。恐るべし! 清水。


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(03/2/21)
東西大学リーグ1位対抗戦と大学選手権
『サッカー』総目次は1966年まで入力しました。no.60(1966.7)ワールド杯イングランド大会特集号です。編集後記によればこの前号no.59もW杯特集号だったそうですが、秩父宮スポーツ図書館は欠号でした。この2号は牛木素吉郎氏が編集したとのこと。

ところで、1960年代の同誌目次をよくみると、試合記録に東西大学リーグ1位対抗戦と大学選手権の両方があります。1位対抗戦の方が歴史が古く、1929年に始まり、1965年まで続きました。大学選手権は1952年に始まったのですが、選手権という名称はついているものの、実態は地方交流や地方大学へのサッカー普及を目的としたもので、オープン参加制、関西の大学は参加に熱心でなく、関東リーグの1部校も新人戦扱いしていました。1位対抗戦が終った翌年の1966年から大学選手権は地域代表制になり、名実ともに大学チャンピオンを決定する大会になります。従って、「大学チャンピオン」は1965年までは東西大学リーグ1位対抗戦の勝者であり、大学選手権の優勝チームではない、ということに注意すべきです。


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(03/2/20)
日本代表盛衰史
コラム『ボトム・アップで普及した日本サッカー』に着手しました。後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』はいわば「日本代表盛衰史」(といっても「盛」より「衰」の時代の方がずっと長い)ともいえるのですが、「盛」と「衰」の構造的因果関係までは言及されていないように思われます。比較的短期間に急成長した戦前と長く低迷が続いた戦後の日本サッカーの「盛衰」は、中等教育5年、高等教育6年で一貫的育成が可能だった戦前の学制とそれが分断、短縮された戦後の学制の相違に起因した、というのが私見です。その代表例として東京高師附中と神戸一中をとりあげることにしました。両校ともサッカー・ジャーナリストを輩出しており、充実した部史を刊行しています。


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(03/2/12)
日本蹴球協会機関誌『サッカー』
総目次はやっと1963年までたどりつきました。東京オリンピックをひかえて同誌も軌道に乗ったらしく、ほぼ月刊で刊行されています。内容も毎号特集を組むなど充実しています。第23号(1962年9月号)は1962年W杯チリ大会特集号、わが国最初のW杯特集です。著者の顔触れをみると、1966年に『サッカー・マガジン』創刊まであと僅か、という感じです。引き続き、少しづつ入力していく予定です。


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(03/2/7)
長編コラム
ベルリン・オリンピック代表選考の舞台裏を完成しました。当日誌01/12/30~02/1/4に連載した『ベルリン・オリンピックの代表選考をめぐって』を大幅に加筆したものです。『日本サッカーのあゆみ』も後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』も触れていない、関東対関西の対立を記したものです。


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(03/1/24)
日本最初のサッカージャーナリスト、山田午郎
をアップしました。03/16付けの轡田三男著『サッカーの歴史』とは『サッカーマガジン』誌の連載でした。後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』の参考資料にもありました。


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(03/1/21)
フットボール博物館!
『蹴球(第2次)』のアップを開始しました。『蹴球』、『Soccer』に続くJFA機関誌3代目。ところで、本日発売の『サッカーマガジン』(2月5日号)p.35に新JFAビルにサッカー博物館が併置されるという記事がありました。JFA機関誌のバックナンバーを完全に揃えているところはJFAも含めて日本に一箇所もないそうなので、この博物館に期待するところ大です。現在神戸FCにある田辺文庫は神戸ウイング・スタジアムに、新田純興氏旧蔵書は埼玉スタジアムに、それぞれ設置される構想があるサッカー博物館に移すプランがあると聞きました。欠号分はコピーでもさせてもらって、最低機関誌のバックナンバーを完全に揃えてもらえれば、本HPも少しは役に立つのでは、と思います。


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(03/1/19)
『美の祭典』
はベルリン・オリンピック記録映画、有名な『民族の祭典』が第1部で、これが第2部。サッカーは決勝(イタリア2-1オーストリア)だけが収録されています。日本戦でハットトリックした竹内悌三の対面フロシーはこの試合でも2得点の大活躍しています。この頃の体操は屋外競技だったんですね。コラム 戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書のアップを終了しました。次は「戦前のサッカー・ジャーナリスト」あたりにしたいと考えています。


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(03/1/16)
『イレブン』掲載大谷四郎コラム索引
をアップしました。1978年10月号の「戦後サッカー復興のころ」と題するコラムに轡田三男著『サッカーの歴史』が参照されていました。謎の本がひとつ増えました。川本泰三も亡くなった後、同氏が経営者だった川惣工業から「わだち」という書名で本が出ているらしいです。川本本は大阪府立、市立両図書館の蔵書目録にはありませんでした。


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(03/1/10)
『イレブン』掲載「川本泰三インタビュー」索引
をアップしました。特に「日本サッカー50年一刀両断」は、ベルリン・オリンピック代表選考の裏話など、歯に衣着せない語りは絶品だと思います。『イレブン』掲載の大谷四郎氏のコラム「サッカー、きのう、きょう、あす」のタイトル索引の掲載も予定しています。このままだと表紙ページがゴタゴタになってしまうので、雑誌記事関係、全文紹介、コラム(編纂日誌でダラダラ書いた文章をテーマ別にまとめたい)に再編集しようと思っています。


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(03/1/6)
内野台嶺著『蹴球思ひ出話』全文紹介
のアップを終了しました。日本で2番目に古いサッカー専門書、明治41年刊『フットボール』成立事情も述べられています。同書の著者落合秀保、新帯国太郎、重藤省一、細木志朗の人物像も描かれています。最終部に次号に続きを掲載すると書いていますが、続編は掲載されなかったようです。


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(03/1/2)
内野台嶺著『蹴球思ひ出話』全文紹介(未完)
をアップしました。日本サッカー草創期の東京高等師範学校を回想したものです。


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(02/12/20)
小西文庫4
「蹴球小説」として以下をあげています。

Horler, S. The ball of fortune.
同上 McPhee : prince of trainers.
同上 A pro's romance.
同上 Goal!
Lerch, H. Der Mitttelstuinner von Hollywood.
同上 Der Fussballkonig.
同上 Elf Fussball Jungens.

Sydney Horlerの4作品はすべて『Football compendium』に収録されています。“teenage pulp”や “adult fiction”の項に分類されています。『The ball of fortune』は1926年に映画化されていて、 Billy Meredith が監督役を自演しているとのこと。これが広く上映された最初のサッカー映画とのことですが、フィルムが残っているかどうかは不明だそうです。『McPhee』(1923)のサブタイトルは「a footaball story」として収録されており、1930年に改訂されたとき上記のようになっています。1935年には『The great game』と書名を変えて刊行されている由。解題は、

'When the Downside Football Club advertised for a trainer, the only applicant was an uncouth, angular being with woolen gloves, unbelievable hat and the general air of a non-conformist pastor. that man was Angus McPhee.' that is how readers are introduced to this character who was to become a popular regular in Horler's work and who was described by the publishers as 'the first real character in football fiction.'

監督としてやってきた謎の人物がダメチームを蘇生させるというオハナシなんでしょうか? 『Goal!』の解題は、

This was the novel that made Horler famous. Furthermore, the publishers claimed for it the additional distinction of being the first novel written around professional association football. Horler become prolific in the field of popular fiction and went on to make football the central theme of many of his tales.

1920年刊行の本書がHorlerの出世作かつ最初のプロ・サッカー小説。本書は表紙の写真も掲載されており、いかにもパルプ・フィクションという感じです。1920年代にはサッカー小説専門の小説家が誕生するほど、イギリスではプロ・サッカーが浸透していたということなんでしょうか。島田巽は「Horlerは蹴球専門の小説家だと言ふことですが小説自身はつまらないものですが、之等を通じていくらかでも本場のプロ連中などの生活状態でも知れるならば読んでもよいと思ひます。」と述べています。「毒を食らわば皿まで」というか、好奇心旺盛というか。堀江忠男訳で『蹴球』1937年12月~1939年10月号に18回連載されている「最後の一分」もやはり“蹴球小説”です。


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(02/12/18)
小西文庫3
研究書ではないが、読み物として以下の2点をあげています。

Willy Meisl. Fussball der Weltsport.

は「小奇麗なそして近代的なトピックを拾ひ上げては一冊にまとめてゐる・・・。動きのある写真と、スマートな載り方と、独乙内地及びアムステルダムオリムピアードの写真などで埋ったこの小画帳は蹴球ファンの必携してよきものと思ひます。」

Maysfield, H. A. A book about football.

も「技術ではなしに蹴球の歴史的な話や競技余話を盛った本として興味を持って読める本でせう。」

残りはサッカー文学?です。


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(02/12/12)
Willy Meisl
Willy Meisl(1895-1968)はHugo Meisl(1881-1937)の弟でした。 ユダヤ人スポーツの殿堂 というものがあるんですね。慶応はOtto Nerzの『Fussball』を始めとして中欧のサッカーの影響を受けていたようです。Nerzはプロフェッサー、W. Meislはドクターの称号を持っています。十数ヶ国語に翻訳されたという『チャナディのサッカー』(べースボール・マガジン社, 1967)の著者Csanadi Arpadも“博士” だったはずで、エライ肩書きをもつ人がサッカー本を書くのは中欧の伝統なんでしょうか。デンマークのユダヤ人物理学者Neils Bohrの弟Harald Bohrはサッカーがオリンピック競技になった1908年ロンドン大会の銀メダリスト。Neilsもコペンハーゲン大学時代プレーしていたそうです。


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(02/12/11)
小西文庫2
小西文庫の「研究書」としてあげられているのは、

Nerz, Otto. Fussball.
Dr.Meisl & Koppehel, C. Das ABC des Fussballspiels.
Buchan, C. Association football.

トレーニング関係として、

Kuesbeck, W. Das Fussballspielers Trainingbuch.

Deutsche BibliothekのHPで「ABC」を検索すると著者はWilly Meisl & Carl Koppehel になっています。Willy Meislが“ダニューブ・スクール”の総師的存在だったオーストリア代表監督Hugo Meislとどんな関係にあったかはこれから調べてみたいと思っています。ルールの研究書として、

Referees chapter.
Neueste offizielle Fussballregeln.
Blaschke, G. Schiedsrichter Fibel.
Sauss, W. Fussball ohne Aufrehmendes Balles.
Schmal, F. & Lehuthe, M. J. Das moderne Fussballspiels.
Girulatis. Fussball.

があげられています。


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(02/12/9)
『財団法人日本サッカー協会75年史』の日本代表全記録
後藤健生氏の『日本サッカー史 代表篇』を読んでみて気になったことの一つに1930年極東大会代表が市橋時三になっていたことがあります。これはおそらく市橋時蔵が正しいはずです。多分ソースは『財団法人日本サッカー協会75年史』(日本サッカー協会,1996)p.72-118に掲載されている「日本代表全記録」だと思うのですが、p.72だけでも、

1930年極東大会代表 市橋時三(市橋時蔵) 竹内広三郎(竹内悌三)
1934年極東大会代表 松丸寅一(松丸貞一)

明らかなミスが3つもあります。後藤氏の「日本代表国際Aマッチ全記録」では1930年の市橋と竹内(広三郎は1917年極東大会代表)がそのままになっていますが、1934年の松丸は貞一になっています。JFAの「公式出版物」といっても結構いいかげんなところがあり、『蹴球』バックナンバーと照合したのか疑問です。


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(02/12/7)
アップしました
大日本蹴球協会機関誌『蹴球』総目次と 牛木素吉郎氏の『サッカー・マガジン』コラムで辿る日本サッカー史をアップしました。『蹴球』は創刊からベルリン・オリンピック当時まで、牛木氏は1980年代前半までアップしました。今後も継続する予定です。『サッカー・マガジン』の最新号の牛木氏のコラムによれば、後藤健生氏の『日本サッカー史』の校正刷の校閲を依頼されたとのことですが、牛木氏は『マガジン』創刊以前からJFA機関誌『サッカー』編纂に関っており、1962年の「日本のサッカー古代史」という座談会(日本が初参加した1917年の極東大会出場者佐々木等、ベルリンオリンピック代表監督鈴木重義、新田純興、野村正二郎などが出席)の司会を務めています。本来なら日本サッカー通史は牛木氏や賀川浩氏、中条一雄氏あたりが書いていてもおかしくないのですが。まあ、「力仕事」なので高齢者にはちょっとキツイかも(笑)。

牛木氏は上記のようにJFA機関誌編纂を手伝っていてある意味でJFAインサイダーでありながら、『マガジン』ではJFA首脳とのインタビュー記事を書いていたりしていて、「JFA批判」の先駆者でもあります。謎の団体JFAを理解するには『マガジン』の氏の記事(コラム以外にも重要な記事がありますが)を「歴史的」に追いかける必要があるのでは、と思います。


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(02/11/23)
書評:後藤健生著『日本サッカー史 代表篇』(双葉社, 2002)
「どこから来たかをわからない者はどこへ行くかもわからない」と言ったのはのは誰だったか?、ご存知の方はメールください(笑)。とにかくそんな至言を思い出させるのが本書。W杯前に後藤氏も著者の一人である『サッカー日本代表 世界への挑戦 1936-2002』(新紀元社,2002)が刊行されているが、それとの違いは、

1)単独著者の著作であり、記述が一貫している。本日誌でずっと前に述べたように「通史」というのは単独著者が書くべき、というのが私の意見(司馬遷やヘロドトスもそうであったように!)。
2)オリンピックやW杯、同予選やアジア大会のような代表Aマッチだけでなく、日本代表対クラブチームの試合も収録されている。
3)ベルリン・オリンピック以前の極東大会、そして「刊行が遅れた」ため2002年W杯まで収録されている。
4)本書は写真がほとんどなく、徹底してテキスト中心。
5)本書は「編年体」。いきなり「シドニーへの道のり」がでてきて映画のフラッシュ・バックみたいな新紀元社本と違い、構成が本格的な歴史書らしい。

また、『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)(『財団法人日本サッカー協会75年史』(日本サッカー協会,1996)もあるが、記録集としてならともかく「日本サッカー史」としては問題外、紙質は大変良いが)と比較しても、1)が同様、もちろん70年代以降の試合が、日本サッカー狂会員だった著者の真骨頂として北朝鮮や香港でのアウェー戦などが臨場感たっぷりに評されている。『日本サッカーのあゆみ』は、協会の「正史」なので1934年第10回極東大会で関東・関西からほぼ同数選抜されたチームがまとまらなかったこと、そのことがベルリン・オリンピック代表に影響して早稲田主体のチームになったことなど(日本(関東)協会と関西協会が対立した)はまったくオミットされている。本書はそのような裏事情までは言及していないが、本HPでも日本サッカー史の重要文献として全文紹介した『蹴球』誌掲載ベルリン・オリンピック選考経過 から引用して、卓越した単独チーム主体に代表チームを編成することが当初からの方針だったことを論証している。「正史」が戦前の東西対立の影響でオリンピック代表選考に関する記述を避けたため、韓国サッカー史、日韓サッカー交流史関係の諸書が皆「ベルリン・オリンピック代表選考=朝鮮人を不当に排除」説で右へ倣えしているのに、やっと一矢を報いる本がでたのはうれしい。一方著者は「(現在の韓国のサッカー界でもこの時のメンバー構成については、不満の気持が残っている)」という記述も忘れない。さらにベルリン・オリンピック関係では、戦術史的にはスリーバック(WM)システムとの出会いがあるのだが、世界サッカー史との関連がさすがというべき手際で処理されている。日本サッカーと世界の流れとの関連が随所に意識されているのも本書の魅力の一つであろう。
本書には「文献解題」や「日本代表国際Aマッチ全試合記録」も掲載されており、記録集としての価値もある。「あとがき」や「資料提供・資料収集協力者」をみると、故・池原謙一郎氏のクリッピング・ファイル、鈴木良韶氏の図書館を凌ぐサッカー関係雑誌コレクション(愛知県)、田辺文庫(神戸市)、さらに各国協会その他の資料を利用したことがわかる。当HPの運営者として日本国内だけでも大変なのに、という以上の言葉はない。とりあえず、今日はここまで。


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(02/11/19)
小西文庫
「欧州の蹴球」の解説を改訂しました。竹内悌三氏はシベリアで病死されたそうです。

さて、慶応ソッカー部にあった小西文庫としてあげられているものは、まず解説書として、

Blaschke, G. F. Der Fussballsport.
Blaschke, G. F. Wie erlerne und lehre ich das Fussballspiel.
Knesebeck, W. Wie wird Fussball gespielt? Schule des Fussballspiels.
Dimmock, J. Association football.
Kelly & others. How to play football.
Dawson & others. Association football.

です。Dimmockの著書は『Football compendium. 2nd ed.』では1927年刊行、解題は、

Includes a chapter on forming a football club. In the 1919/1920 Tottenham Hotspur scored 102 goals with only 32 in reply, losing just 4 out of 42 games to run away with the Second Division Championship. James Dimmock was a member of that side.

著者はトッテナムが2部優勝した当時の選手。Kelly & othersの著書は見あたらず、Dawson & othersの著書は1922年刊行、解題は、

Most interesting for the contributions by four stars of the day : Andrew Wilson, Scotland and Dunfermline centre foward ; Andy Ducat, Arsenal and Aston Villa player, famous as a cricketer-footballer double international, scoring over 23,000 runs for Surrey ; Jesse Pennington, legendary England and West Bromwich Albion full-back ; and Jerry Dawson, 522 League appearances as Burnley goalkeeper from 1906-1929.

こちらは4人のスター選手の共著作。後、研究書、トレーニング関係、小説と続きます。ドイツ語著作についてはドイツ国立図書館(Deutsche Bibliothek)のデータベースで正確な書誌事項を洗ってみたいと考えています。とりあえず今日はここまで。


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(02/11/18)
『体育と競技』収載サッカー関係記事索引
は終了。次はいよいよJFA機関誌の総目次にとりかかりたいと思っています。

『蹴球』創刊号(1931.10)に島田巽「蹴球に関する若干の文献」という記事があり、

 一九二八年の十月、出来上がって間もない、慶応ティームで隼の如く敏捷に働いて居た、小西圭一君がリーグ戦を気遣ひながら夭折した時、吾々は彼の厳父から、彼の生活の大部分を占めて居た蹴球のためにティームへ記念品を送りたいとの申出を頂いた。それを受けて吾々は先づ、では記念として小西文庫を造らうではないかといふことに一決して約二十冊の英独の諸書を蒐集したのでした。そしてこの小西文庫は故人が慶応ティームに尽して呉れた様に現在まで実によくティームに貢献して呉れたのです。

とあります。「小西文庫」の洋書のラインナップはこれから・・・


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(02/11/13)
『体育と競技』収載サッカー関係記事索引
を1935年までアップしました。1931年に連載されている堀江耕造「ア式蹴球研究」はCharles Buchanの『Association football』(Hutchinson, 1928)の翻訳。『Football compendium. 2nd ed.』の解題は、

The author started with Sunderland and Arsenal before contributing this work upon his retirement from the playing side of the game. Valued contribution from one whose experiences spanned both sides of First World War; Buchan went on to become a highly respected football journalist.

本の内容に踏み込まず、著者の略歴を紹介しているだけですね。堀江耕造は浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)教授で、1934年から同誌にCharles Buchanの『Foootball aids』(Daily News, 1929)の翻訳を連載することになる堀江忠男(浜松一中、早稲田OB、ベルリン・オリンピック代表、早稲田大学ア式蹴球部監督)の父。1921年にJFAが設立されてルールや用語の翻訳に苦心していた段階から僅か10年で本場の技術・戦術書が翻訳されるまでになります。


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(02/11/10)
教育拡大と自由主義教育-大正期のスポーツ
1920年代前半は、『運動界』、『アスレチックス』、『体育と競技』、『アサヒスポーツ』のようなスポーツ総合誌の創刊が相次ぎますが、こうしたスポーツ・ブームの背景には中・高等教育の拡大がありました。第一次世界大戦後成立した原敬の政友会内閣は中・高等教育の拡大を「国策」として推進します。『改訂近現代日本教育小史』(草土文化,1989)によれば、

             大学   高等学校  中学校
大正3(1914)年     4      8     319
大正15(1926)年  37     31     518

と、1920年代前半に学校数が急増し(大学の場合は早稲田や慶応のような私学が大学として認定されたことによるが、高校・中学は新設)、当然学生数も増加します。サッカーに限らず他のスポーツもこの時期に発展しているのは、こうした教育拡大を背景にしています。特に、地方に拡散した旧制高校は、各種スポーツの地方への普及を促進しました。

興味深いのは、サッカーの場合、明治以来の名門校(東京高師附中、神戸一中、広島一中など)も新設校も、イギリスのパブリック・スクール教育を範とする教育者が奨励していることです(当時のイギリスではサッカーはプロ化し、労働者階級のスポーツとなっていた)。こうした名門校では従来から生徒の自主性を重視する教育方針をとっていましたが、大正期はまた自由主義教育思潮の最盛期でした。海軍兵学校ですらダルトン・プランを導入したくらいです。新設校では新教育の理念に燃えた教育者が多かったようです。大分県臼杵中から大連一中2期生に転入した竹腰重丸は、転入試験に監督官がいなかったことや校則が各生徒の自主性に任されていたことに驚いたと回顧しています。新設校はもちろん伝統校でも新興蹴球部には、煩わしい先輩が存在せず、また技術・戦術を指導できる人材もいなかったので、生徒たちはノビノビとまた自主的に活動していたようです。ベルリン・オリンピック代表堀江忠男は浜松一中時代、特に指導する人もいなかったので、自身でCharles Buchanの原書『Football aids』を愛読し、主将としてチームを指導していたそうです。

新興日本サッカーが大正から昭和にかけて急速に水準向上するのは、競技の性格と生徒の自主性を尊重した教育方針とがマッチしていたからではないか、とは私の推論です。   


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(02/11/9)
WMシステムを最初に報告した人
は1931年『蹴球評論』に寄稿した斎藤才三であると、『日本サッカーのあゆみ』にもありましたが、『体育と競技』に興味深い文献があったので紹介します。工藤一三 「フランクフルトからアムステルダムへ」 v.7 no.7 1928.7 p.33-37 がその記事。工藤の本職は柔道(多分東京高師OB、東京高師の校長は嘉納治五郎だったので柔道とは縁が深い)。1928年のアムステルダム・オリンピックを観戦しています。

英国の職業ア式テーム、ウエストハム、ユーナイティッドとフランクフルトのアイントラハトがフランクフルトので試合したのはオリンピック準備練習会の第三回が五月七日から十二日まであった、最中の九日の日だった。(中略)
ウエストハムとアイントラハトの試合は結局二対一でウエストハムが勝った。遊んでゐて勝った僕は欧州のテームは全部見たが然し英国のテーム丈けはこれが最初だった。そしてその選手のポジションが大陸のそれと非常に違ってゐるのに、おどろいた。英国は流石にフットボールの国だ。
(a)フォワードの両インナーがハーフ線迄下って仕舞ふ、それ故フォワードは三人の形つまり、フォワードとハーフの中間に二人の線が出来た形だ。
(b)フルバックの一人が時々ハーフ線にはいる。
(c)防御の形を取る時はフルバック線にハーフ一人下って三人となり、形勢険悪の時は四人となる。
其処で一番問題になる点はフォワードが三名と云ふことだ。此のポジションの欠点と見えたのは、第一両インナーからフォワードにパスする球がインターセプトされ易いと云ふ事と第二にフォワードの例へばセンターに球が渡り相手のゴール前に殺到したにしろ独逸側は直ぐフルの二人にハーフの二人都合四名、又はハーフが全部下って五人となる結果何時も球を奪ひとられるといふことだった。此の点はロンドン市府ベルリン市の蹴球戦にも同様観察された。何故此の両インナーをフォワード線からこと更に後に下げて位置させるか、これは読者の研究問題として取り残してをかう。が然し、その後ウエストハムは伯林ヘルタア、恐らく一九二八年度の独逸選手権を得るだらうと思はれる最強テームを四対二で軽く、此のシステムで破った。
フォワードの三名は攻撃の場合には五名となって一直線に進んだ。

完全なWMとはいえないとしても、WMが完成するまでの過渡期的システムだったのかもしれません。工藤という人は槍投げなどでも槍の握り方などかなり専門的な報告をしており、門外漢とはいえ、かなりの見識の持主だったようです。

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2002年9月19日~2002年11月7日

(02/11/7)
人物情報 日奈子実三
『大分県百科事典』(大分放送,1980)では、

日奈子実三(1893-1936)
 臼杵町(現臼杵市)に生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒、在学中より朝倉文夫に師事す。1919年(大正8)第1回帝展に「晩春」が初入選、第2回帝展に「廃墟」が入選、老人をモデルにした内面的追及と着実な技法が特に高く評価された。やがて現状に満足できなかった日奈子は斉藤素厳らと構造社を結成し、新しい作家活動に専念した。これが1926年(大正15)でその作風は反骨精神に満ちていた。後には師朝倉文夫とも対立することにもなったが、それは日奈子の作家的成長をうながすことにもなった。1927年(昭和2)にはパリ留学を果たし、建築と彫刻の調和をめざす新しい仕事は注目された。1935年(昭和10)帝展改組の時、第3部会を結成し、後国風彫塑会と改称された。常に在野で活躍したが43歳で没した。

『近代日本美術事典』(講談社,1989)では、

日奈子実三(一八九三-一九四五)
 明治二六年(一八九三)大分県臼杵に生まれる。大正七年東京美術学校彫塑科を卒業。朝倉文夫に師事。八年第1回帝展に「晩春」で初入選し、以後官展に出品を続ける。昭和三年斎藤素厳(そがん)らと構造社を創立。翌四年外遊。八年帝展無鑑査となる。帝展改組に際しては同志とともに第三部会を組織する。このころから展覧会芸術に疑問を持ち始め、裸体による象徴的作品よりも時局に適したモニュメントやメダルに力を注ぎ、「上海陸戦隊忠塔」「八紘之基柱」などの作品を制作して注目された。一五年第三部会が国風彫塑会と改称されるに伴い同会会員となる。人物を基本的モティーフとした塑像を得意とし、これに建築的構想を組み合わせ、時局がら陶磁を素材として多用した。昭和二〇年(一九四五)四月二五日、特攻隊遺族に贈る額の制作中、脳膜出血により急逝。

没年が全然違うが、記述が具体的なので後者の方が正しいようにも思えます。『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)では「図案界の雄」と紹介されていましたが、彫刻が本職だったようです。「上海陸戦隊忠塔」「八紘之基柱」が代表作だと後世に名を残すにはツライものがあります。JFAのシンボル・マークが最も著名な作品として残ったのは、本人としても心外だったのでは。


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(02/11/6)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
に解説、小見出しをつけ、脚注を増やし、完成しました。昔の面白い文献を「復刻」できればいいんですが、フットボ-ラーは長生きな人が多い、というより平均寿命が80歳近いので、著作権切れ(没後50年)という文献はほとんどないわけです。竹内氏も正確な没年はわからないのですが、戦没されたという文献があったので、それを信用することにしました。現在『体育と競技』誌のサッカー関係文献索引を準備中です。


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(02/10/28)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
に脚注をつけました。プロ・サッカーの観戦記なのに出てくる人名は日本人が多く、選手の人名が出たのはオリンピックで対戦したフロシーとルカテリーのみ。竹腰重丸のマジック・マジャール観戦記(02/4/25参照)もそうなんですが、ポジション名で表記されていて、プスカシュですら名前がでてきません。最近の人物本位すぎるサッカー記事にもうんざりしますが(戦前の記事のほうが清新に思えることもある)、プロ・サッカーの観戦記は人名を少しは出してほしかった。竹腰、田辺のイングランド、竹腰のドイツ-ポーランド戦の観戦記は探したましたが、見つかりませんでした。竹内が書いているように、当然『蹴球』あたりに掲載されてもよさそうなもんですが。


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(02/10/25)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
のテキストを最後までアップしました。風邪をひいてしまい、家にいてもすることがないので。

イングランド対スコットランドのリーグ選抜対抗戦を観るために、わざわざリバプールまででかけています。スリーバック(WM)システムの特徴を的確に把握しています。イタリアがなぜイングランドに勝てないのか疑問を呈していますが、戦後(特に70年代)まで長生きされていれば、と思います。以前にも紹介したのですが、日朝サッカー比較論の部分が興味深いです。文中の金君とは戦後韓国代表監督も務めた金容植氏。朝鮮のサッカーというとスタミナ、スピード、当りの強さが特徴という印象がありますが、じっくりキープしてパスを廻しながら攻撃するという、ラテン的とでも表現すべきサッカーをしていたようでもあります。


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(02/10/24)
イングランド編の最初の試合
サザンプトン対トッテナムの部分をアップしました。現在はプレミアにいる両チームですが、当時は2部だったようです。場所は記されてませんが、わざわざサザンプトンまででかけるほどの試合でもないので、多分ロンドンでトッテナムのホームゲームを観たのでしょう。「滋味全然なし」「激しさと速さのみ(妙な速さ)」「ミス頗る多し(素人臭いミスなり)」などと酷評しています。スライディング・タックルは昔からイングランド名物だったんですね。そういえば、サザンプトン、トッテナム、そしてアーセナルは、私の記憶(←あてにならない)では皆戦後来日してますね。竹内氏が戦没されなければ、きっと感慨無量だったのでは。

竹腰、田辺(監督ではなく役員)、斉藤については本日誌02/5/4を参照されたい。濱田式ヘッドとは何を意味するのか不明ですが、慶応主将でCHだった濱田諭吉氏のプレーをさすものと思われます。


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(02/10/23)
昨日に続いてベルギー編
をアップしました。竹内はおそらくイタリア、チェコ、ベルギーの国内リーグ戦を観戦した最初の日本人でしょう。これで前半の大陸の部が終わり、次回からイギリス(イングランド)になります。現在はイタリア、ベルギー、イングランドには日本人選手がいるわけですから隔世の感がします。隔世といっても実際66年前の話なんですが。アップが終ったら、解説、脚注、そして小見出しもつけたいと考えています。


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(02/10/22)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介(未完)
チェコ編をアップしました。プラハで国内リーグ戦2試合とチェコ対ドイツの国際試合を観戦しています。2年前のW杯1934年イタリア大会の優勝はイタリア、準優勝チェコ、3位ドイツ、4位オーストリアなので、イタリアからチェコに廻り、チェコ対ドイツを観るというのは理にかなった観戦ルートといえます。チェコはいわゆるダニューブ・スクールに属してショートパス戦法をとっており、日本のお手本になるべきチームだったはずですが、ドイツ戦では本領を発揮しなかったようです。

繰り返し述べられているヨーロッパのプロサッカーと日本サッカーの比較は観察眼鋭く、80年代半ばくらいまでならそのまま通用したような内容です。

 「特に目に着くのはプロのゴールシュートの巧さです。後方から相当のスピードのパスを貰い巧みにドリブルシュートする巧さ、其の間のレシーブとドリヴルの間が滑か且つ速く、本日の試合の得点の大部分は持込シュートでありました。敵の一寸した隙にボールを送らせダッシュしミートしシュートする巧さ。日本のフォワードはこの技術が最も練習さる可きでは無いかと思います。」

というのは現在でも通用しそうです。


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(02/10/21)
日奈子実三
は日本代表(JFA)の八咫烏のエンブレムをデザインしたグラフィック・デザイナーです(02/5/27参照)。竹腰家のことを調べてみようと戦前の臼杵の郷土史誌『臼杵史談』をめくっていたら、日奈子が臼杵史談会に寄付したという記事がありました。日奈子も臼杵の出身なのかもしれません。東京高師の内野台嶺が中心になって発案したものを日奈子が図案化した、と『日本サッカーのあゆみ』にありました。図案が採用されたのが1931年、1929年に竹腰重丸はJFA理事になっているので、同郷のよしみで日奈子に橋渡ししたのは竹腰かもしれません。

新田純興氏はベルリン・オリンピック当時のJFA財務担当理事です。資金作りのため日本最初の代表グッズ手ぬぐいと浴衣地を販売したことが『蹴球』と『日本サッカーのあゆみ』に出てましたので、先日新田家を訪問したとき、まだお持ちですかとうかがったところ、あったのだけれど戦災で焼失したとのこと。戦前の練成合宿記念に作成された皿ならあるということで、実物を拝見しました。


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(02/10/19)
『体育と競技』
『続五高サッカー史 龍蹴会物語』(1981)を追加しました。

『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』(1977)に堀江忠男が文理大の『体育と競技』にCharles Buchanの『Football aids』の翻訳を連載していた、とありました。調べてみると同誌1934年3月~1936年3月にわたってほぼ2年間連載しています。タイトルは最初は「フットボーラーのために(シー・ブッチャンの原著から)」「チャールスバカン蹴球指導」など号によって変っています。バカンの本は『蹴球』でも岩崎玄が同じ頃連載していたはずです。従って、チャールズ・バカンの名は戦前のサッカー界では相当親しまれたと想像できます。慶応によるオットー・ネルツの『Fussball』の翻訳もこれより少し前で、この時期には本場の指導書、戦術書を原書で研究する段階に達しています。バカンもネルツもピラミッド・システムなのですが、デビッド・ジャックの『Soccer』(1934)になるとWMシステムになります。

『体育と競技』は東京高師(後東京文理大)にあった大日本体育学会編、目黒書店発行、創刊は大正11(1922)年3月で、この誌名で昭和15(1940)年12月まで続きます。1980年代に第一書房から復刻されています。日本サッカーの総本家東京高師が関係していただけにサッカー関係記事は豊富です。


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(02/10/18)
追加しました
『フットボールと北陸』(1973)、『明星サッカー六十年史』(1973)を追加しました。


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(02/10/17)
竹腰重丸自伝
『昭和40年(1965年)東京教育大学サッカー部誌 阿部三亥先生追悼号』(1965)、『ボールと足と頭』(1969)を新規収録しました。後者は毎日新聞1967年4月2日~4月13日にかけて10回連載された「対談閑話」というインタビューを竹腰の藍綬褒章受章に際して関係者がパンフレット化したもの。毎日新聞縮刷版でも読めることは確認しました。自伝に準じた資料というべきでしょう。
彼は大分県臼杵出身で臼杵中学から大連一中に転校し、そこでサッカーを始めるのですが、その経緯については、

「偶然みたいなものですが、中学の二年のときでした。大正八年に母親が死んで、大分県で小学校長をやっていた父親が、ノイローゼのようになり、夏休みに父親の妹の嫁入り先の大連に、父親について遊びに行ったのです。そこに居つくことになり、大連一中の二年に編入されました。」

彼の母親は家老の娘だった人で、大変厳しい家庭教育を受けたようです。

「もうひとつは“負けずぎらい”でしょう。これは母親の影響です。母親は遠城寺という家老の娘で、きつい人でした。小学校のころ、けんかして泣いて帰ったりしたらたいへんでした。「そんなことでサムライの子か」と家へ入れてくれませんでした。だからけんかして泣かされても、川で顔を洗って帰るようになりました。そういうキツイ教育で“負けずぎらい”になったのでしょう。」

竹腰によれば、当時の臼杵は表札に「士族何某」と書いてあるような土地柄で、臼杵時代は剣道をやっていたそうです。 


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(02/10/16)
追加しました
『昭和52年度広島中学校広島第一中学校鯉城高等学校広島国泰寺高等学校サッカー部誌 創立百周年記念号』(1977)、『東蹴六十年史草稿』(1977)を新規収録、『北大サッカー部50年史 1923-1975』(1977)、『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』(1977)の内容紹介を追加しました。1977年は古豪サッカー部が創立50周年を迎えたこともあって部史が多く刊行されています。

最初のものは01/7/2付けで記したように『高校サッカー60年史』(1983)の参考文献に『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』としてあげられていた謎?の文献。上記書名で国泰寺高校サッカー部が所蔵していると教えてくださった方がいらっしゃいましたが、まさか現物を拝見できるとは。アマチュア時代を通して常に日本サッカー界の主流であった早稲田の部史も一度目を通しておきたい文献でした。

『東蹴六十年史草稿』によれば、山田午郎の父は二本松少年隊(会津白虎隊の二本松版)の生き残り。戊辰戦争で土佐藩参謀だった野村正二郎(養子ですが)の祖父とは仇敵だったことになります。山田は安達太郎というペンネームを使用していた時期があり、福島県中通り地域の出身だろうと推定してたのですが二本松出身、この人も士族の出なんですね。 02/9/6で記した「日本最初のサッカー・リーグ」に関しては特に記述はありませんでした。1917年当時「秋から冬にかけて、青師・豊師・東高師・英国大使館・埼玉師などと試合したが一つの黒星もなかった。」という記述ならありましたが。同書に新田純興氏も寄稿しているのですが、それによると『ア式フットボール』(東京刊行社,1925)の著者ウイリアム・フェーゲンは東京高師附属中の先輩にあたるそうです。 


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(02/10/15)
故・新田純興氏旧蔵書
を拝見する機会に恵まれました。ちょうど先週の『マガジン』のコラムで牛木素吉郎氏がW杯成功の「井戸を掘った人」としてあげた3人(他は野津謙、藤田静夫)のうちの一人。日本で最初にW杯を紹介した「本」を書いた人物。日本サッカー史の正史『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心人物。その原稿や写真も保存されていました。JFA創立時から関係し、『蹴球』が創刊された1931年頃、実現はしなかったが、氏を中心に創立10周年史がそのころ企画されていたことが、当時の『蹴球』誌に記されています。

田辺文庫訪問以来の大収穫で、新発見がたくさんありすぎて一度に書ききれません。田辺文庫同様献呈本が多く、金にあかしてかき集めたのではなく、本の方が人を慕って集まってきた、という感じがします。

氏の長男純弘氏は日本最初のW杯ツアー参加者(’66イングランド大会)。決勝の席は西ドイツのゴールラインの真横で、「疑惑のゴール」を見ることができたそうです。


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(02/10/10)
久しぶりにメニュー追加
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介(未完)を追加しました。かなりの長文なので、少しずつアップしていきたいと考えています。著者はベルリン・オリンピック代表主将で、オリンピック後、サッカー・シーズン・イン直前に帰国した日本選手団と別れ、単独でヨーロッパ各地でサッカーを観戦しています。戦前ヨーロッパのプロ・サッカーの観戦記を残した人は他にもいますが、この観戦記がユニークなのは、
1)著者は現役選手。オリンピックで対戦したイタリア代表選手をセリエA開幕戦で観たりしています。試合内容の分析はかなり突っ込んだもので、日本チームの今後の指針となるべきものを意識しています。
2)著者は最後にイングランドに渡るのですが、そのことにより大陸系サッカーとイングランド系サッカーの特徴を比較することになります。サッカーにも国別の「流派」があり、そのことを具体的に観戦記として記述したのはこれが最初だと思います。

まず最初は日本最初のセリエA観戦記。Ambrosianaとは聞きなれないチームですが、実はインテル・ミラノのこと。その国際主義的な名称がムッソリーニのお気に召さず、ミラノの古名に改称させられたそうです。前座試合のハーフタイムにファシストの行進があったりして、時代の雰囲気を感じさせます。隙の無い試合運びや観衆の「人なだれ」は昔も変わりませんね。

私が知る限り、戦前にヨーロッパのプロ・サッカーを観た日本人は1931年イギリス留学した斎藤才三、1936年ベルリン・オリンピック後の竹腰重丸、田辺五兵衛そして竹内悌三、1938年W杯フランス大会前のFIFA総会にJFAから派遣された野村正二郎、島田孝一なのですが、1928年アムステルダム・オリンピックを後に第4代JFA会長になる野津謙が役員として観戦し、ついでにヘルタ・ベルリンの試合を観戦しているようです。アムステルダム・オリンピックのサッカーの決勝はウルグアイ対アルゼンチン(ウルグアイが優勝)なので、野津は南米サッカーを観た最初の人物という可能性もあります。


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(02/10/8)
師範学校の明暗
日本最大のサッカー専用競技場をもつサッカー王国埼玉にサッカーを伝えたのは、やはり東京高師OBの細木志朗で、明治41年埼玉師範に赴任。細木は日本で2番目に出たサッカー専門書『フットボール』(明治41年)の著者の一人。兵庫県出身(柏原中)なので、神戸一中や御影師範に来てもおかしくない人物だが、後に愛知県刈谷に転任し、そこで刈谷中学を東海の名門に育て上げる。刈谷中OB河本春男が神戸一中を全国制覇に導くことになるので、出身県のサッカー王国化に間接的ながら貢献したことになります。
戦前からサッカー王国といわれたところは、師範学校附属小学校を中心に学童サッカーが盛んで、当然指導者は師範学校蹴球部OBということになります。昭和12年埼玉師範は決勝で神戸一中を破り、関東(東日本)の学校として初めて全国制覇しますが、その前年の昭和11年戦前のサッカー王国兵庫県を支えた御影師範の蹴球部が廃部されます。埼玉県や静岡県(堀田哲爾氏は静岡大教育学部出身)が戦前の師範学校蹴球部の伝統を引き継ぐことができたのに対し、兵庫県ではすでに戦前に学童サッカー指導者の供給源が断たれてしまっています。1951年アジア大会代表17人のうち神戸一中OBが10人と、戦後も外見上はサッカー王国が続いているように見えますが、戦時中の空白が王国の寿命をながらえさせただけのこと。以後代表にしめる兵庫県出身者は減少の一途をたどります。
戦後の6・3・3制への学制改革は、学童サッカーと旧制中学の伝統を引き継ぐ高校サッカーを中学校で分断することになります。指導者の層が薄い地域は中学校に指導者を得なかったり、そもそもサッカー部がなかったりして、高校サッカーも弱体化します。埼玉、静岡、広島では比較的指導者層が厚く、浦和や藤枝のように学童→中学→高校と一貫指導できる地域があったことが、戦後のサッカー王国化に大きく貢献したはずです。堀田氏の清水のように旧師範・教育学部の人脈を生かして、進路指導など教育行政にサッカー関係者が影響力を行使できるようになった地域すらあります。
戦前のサッカー王国兵庫の没落と埼玉・静岡の興隆の差は、旧師範学校の伝統を継続しえたか否かに主たる原因があると思います。


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(02/10/7)
追加しました
『第12回全国中学校サッカー大会』(1981)、『サッカー親善訪問の旅』(1985)、『創立20周年記念誌』(1986)、『10年のあゆみ』(1989)を追加しました。


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(02/10/6)
追加しました
『輝く埼玉サッカー75年の歩み』(埼玉県サッカー協会,1983)を追加しました。1547pもある大部の著作で、サッカー王国の歴史は盛りだくさんです。
旧制浦和高校のところに、同校OBでベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三氏は戦没された、とありました。刊行後ならびに同氏逝去後50年以上を経過し、著作権上問題はなさそうなので、02/2/26,02/4/15,02/4/19, 02/4/23で紹介した同氏による「欧州の蹴球」を本HP上で全文を紹介してみたいと思っています。


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(02/10/3)
御影師範のチョー・ディン
チョー・ディンはベルリン・オリンピックの監督鈴木重義やコーチ竹腰重丸を指導した、戦前の日本サッカー界に
大きな影響を与えた人物です。ビルマからの留学生で、関東大震災で学校が暇になったのを機会に、各地を巡回指導していたようです。御影師範に来たときの様子を豊島梢「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」(『運動界』4巻9号 1923.9 p.127-129)が伝えています。

 炎暑赫々として屋上の鬼瓦は火でも吐きそうな暑い七月中旬でした、御影師範学校へビルマ人チョーディン(Kyaw din)氏が蹴球のコーチに来られたと云ふので早速訪ねてみました、・・・小学校時代の思ひ出話から戦争中エジプト、メソポタミヤ等で英国の連合ティームを破った得意の話を随分長い間きかされました。

ディンは第一次大戦中英軍の一員として従軍していたのかもしれません。

「ビルマは其んなに強いのですか」
「私は強いと思ひます、ビルマの強いのはどうしたら強い英国ティームを破ることが出来るかと其ればかり研究して居るからで「蹴球の柔術」といったものは本当に進んで居ます、英人とビルマ人は身体に差があるから斯うしたものを考へたのです、過日支那ティームの対比軍の時に用ひた手(一人は病院に、四人はキックが出来ない様にされた)は一番やさしい怪我の少ない手です、柔術で永久にグランドに立てなくする手はたくさんにあるがビルマ人は知って居ても決して用ゐない、だからビルマ人は紳士だ、相手が非紳士的に来た場合はレフェリーにわからない様に用ゐます」

なかなかのマリーシアの持主だったようです。当時極東大会の中国-フィリピン戦は遺恨試合でラフプレーが続出していました。「御影師範はキックが上手ですか」の問いには、

「日本のフットボーラーの中には足とボールがぶつかればキックだと思って居る人が居ます、キックは
 Toe kick
Instep kick
The front side kick
The back side kick
の四つあって皆使ひ処がちがひます、キャプテン井上さんのキックは好いです本当に上手です」

と答えています。6日間のコーチングは、

「御影は一人一人は割合に上手です、然しフットボールは一人で出来るものではなくてコンビネーション (Combination)を必要とします、大切なこれが欠けて居た上にデフェンス(defence)のポジションもわからなかった其れ故に、
 第一日には キック四種とヘディング
 第二日には 一人一人に就いてタックリングとコンビネーション。
 第三日以後は以上のものをトレーニング(Training)して悪い処をなほした(Feeding, Passing)はどんな風に使ふかも理解してくれたので本当に嬉しく感じて居ます。
秋の大会迄練習を続けたたら
 I have every confidence that Mikage boys will do very well in this years townament(ママ), in fact I think although they are young boys, they will beat the strongest team in kansai.」

とニッコリ笑って答えたとのこと。目的別によるキックの使い分けやタックリング、コンビネーションの重要性は彼の著書『フットボール』(1923)でも強調されています。ライバル神戸一中がこのときディンを宝塚に観劇に誘って、待機していた部員を指導させたという秘話もあります。


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(02/9/26)
またURLが変わります
10月1日からURLがhttp://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/に変更になります。


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(02/9/19)
水田稲作農業vs畑作農業
日本にヨーロッパのような個性的なストライカーが育たないのは、農耕民族と狩猟民族の差である、というような文章を散見しますが、アルタミラに洞窟壁画を描いていた時代ならともかく、ヨーロッパが日本の有史以前に畑作農業時代に入っていたのは間違いありません。
水田稲作農業と畑作農業の違いが共同体の意識構造に大きな差異をもたらしたことを見事に説明した本があります。
『米が金・銀を走らせる 江戸史講義』(朝日出版社,1985)は日本(江戸期)経済史の泰斗大石慎三郎と作家津本陽の対談、主として津本の質問に大石が答える形で進行しています。

(大)...歴史の上では、生活を支えるための生産が非常に大きな意味を持つ。そういうような観点から見ました場合には、西洋は畑作農業ですね。そして日本は水田稲作農業です。生活の基盤を畑作農業の上に置いたか、または水田農業の上に置いたかということが西洋と東洋を分ける上で決定的に大きな問題になってきます。

(津)畑作農業と水田農業とでどう違ってくるんでしょうか。

(大)畑作農業というのはわりあい簡単な農業でして、木などを焼き払うとか、切り倒すとかして、そこに畑をつくるわけですね。そういうような労働はわりあい単純にできるわけですね。しかし、稲作農業の場合はそう単純にできないわけです。どうしてもまず用水をつくらないといけない。

(津)ああ、なるほどね。

(大)用水というのは個人ではできないので、どうしても一定以上の人間が力を合わせなくてはいけない。生活の基盤を得るための農業生産の上で、畑作農業をやった場合には、わいあい個々人が自由にやれるというような側面があるのに対して、水田稲作農業というのは絶対に個人じゃダメなんです。そうしますと農民の集団の結合状態が決定的に違ってきます。畑作の場合ですと、せいぜい山の中から猪やら鹿が走り出てくるのを、みんなで垣根でもつくって防ぐとかいうようなことぐらいが大きな問題で、日常的には共同生活をする必要というのはあまりないんです。

(津)なるほど。

(大)水田稲作農業をやっておりますと、まず村全体をまかなうような大規模な用排水路をつくらなければならないので、みんなが力を合わせてやらないと農業というのはできないわけなんですね。

(津)共同作業が必要になるわけですね。

(大)そうしてきますと、いわゆる村を組織する場合の組み立て方ですね、これを普通、学問的には共同体と言うんですが、共同体の組み立て方が全然違ってくるわけですね。といいますか、結合のかたさが違ってくるわけです。水田稲作農業の場合、非常にかたい共同体の組み立て方をしなくてはいけないわけですね。一人や二人、それに反逆するようなやつが出ると、これを何とか封じ込めなくてはいけない、村八分だとかいうような個々人の生活を規制する外的な規制が出てくるわけですね。

(津)そうですか。

(大)ですからある百姓が一人、非常に先進的な農業を実験しようとしても、水田というのは、田んぼが百ありますと、百の田んぼに一から百までの番号を打ったようにしか水は通らないんですね。そうすると、七十五番の田んぼを持ってる人が、六十五番の田んぼを持ってる人よりも先に、たとえば自分は裏作をやりたいからと言って水を引っ張ってきて田植えをするということはできないわけですね。ですからどうしても、そこを構成する人間を全体として規制するという力が強くなります。畑作農業の場合にはそういうものがないですから、とにかく個々人の創意工夫だとかいうものが非常に生かされる。いわゆる近代化への方向というのが非常に強く出てくるわけなんです。

柳沢のような自己犠牲的ストライカー?がいたり、野球で送りバントが必要以上に尊ばれるのも、これみな水田稲作農業の産物なんでしょうか。そういえば、張芸謀監督の諸作品にでてくる中国の畑作農民のキャラクターは自己主張が激しいですね(例:『秋菊の物語』)。どうも「近代化」とは関係なさそうですが。

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2002年5月7日~2002年9月16日

(02/9/16)
キャプテン会長
川淵JFA会長の呼び名はキャプテンということになったそうですが、第4代会長野津謙もキャプテン会長と呼ばれていました(『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画,1979)参照)。その意味は、単なる名誉職ではなく実際にリーダーシップを発揮した会長ということで、野津の場合はJFA内部の反対を押しきってクラマー氏を招聘したことが最大の功績です。この結果が日本サッカー史に残る大成功だったことはいうまでもありません。川淵氏が世代から考えて野津がキャプテン会長と呼ばれていたことを知らないはずはなく、ジーコを独断?で招聘したのも、野津のひそみに倣ったんでしょうか。


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(02/9/11)
追加しました
『サッカー部創部20周年のあゆみ』(津山市役所サッカー部,1988)を追加しました。


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(02/9/9)
追加しました
『サッカー年鑑 1985』(山形県サッカー協会,1986)、『山形県サッカー年鑑 1986』(山形県サッカー協会,1987)を追加しました。


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(02/9/6)
日本最初のサッカー・リーグ
は成立年がはっきりしないのですが、原島好文「ソッカー十年の思ひ出」(『運動界』10巻4号1929年4月収載)によれば、 1917年の東京蹴球団創立直後、

 その頃英国大使館員だったヘーグさんが司会者となって、英大使トロフィー争奪のリーグ戦を始めた。加盟ティームは、東京 フットボールクラブ、東京蹴球団、高等師範、青山師範、豊島師範、中華留日学生団、朝鮮青年団の七つで、規約は今のカレッヂ リーグのそれと異なるところがない。

東京フットボールクラブはイギリス大使館のチームで芝浦にグランドがあり、試合後はビールを出してくれたとのこと。 英訳名が東京蹴球団と同じになってしまうので、それぞれ上に国名をつけることにし、東京蹴球団は大日本(東京)蹴球団と 自称するようになった。原島は「誰かが何時だったか、大日本蹴球団は芦原将軍が名付け親かと云ったが、その由来は如斯である。」 と述べています。東京コスモポリタン・リーグと名づけたくなるようなインターナショナルな顔ぶれですね。


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(02/8/29)
ベッカムの生涯を辿る旅
というのがオンライン版ガ-ディアン紙の旅行欄 に出ています。ベッカム人気ここに極まれりですね。もちろんブルックリンも...(笑)。


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(02/8/19)
宇都宮徹壱著『ディナモ・フットボール』(みすず書房,2002)
副書名は「国家権力とロシア・東欧のサッカー」。ディナモ・モスクワがKGB直系のクラブであったように、旧ソ連とその衛星国の首都のディナモと名のつくクラブは、共産圏崩壊以前、各国秘密警察の特別の庇護を受け、リーグ戦で連続優勝回数を誇っていた。著者によれば、共産圏崩壊以前においても、「ディナモ」に対抗する「民衆のクラブ」(例:スパルタク・モスクワ)があり、公然と反体制を標榜できない民衆はそれらのクラブを支持することによって、反権力を意思表示していた。本書は2000年から2001年にかけて、ベルリン、キエフ、モスクワ、トビリシ(グルジア)、ブカレスト、ザグレブのディナモとそのライヴァル・クラブの現状をルポしたもの。
日本人が書いたサッカー本としては出色だとは思うが、サイモン・クーパー著『サッカーの敵』(白水社,2001)(原書は1994年刊行)の第1章「東欧フットボール」がやはり「ディナモ」をテーマにしているのに、参考文献(掲げてあるだけマシか?)に『サッカーの敵』がないのは不可解。著者(1966年生まれ)がどうやって「ディナモ」の存在を知ったか、何も書かれていない。文章もこなれていて、写真も良い(著者の本業は写真家)のに残念。
『サッカーの敵』は完訳ではなく、以下の3章が省略されているとのこと。
"Gazza, Europe, and the Fall of Margaret Thatcher"(ガスコイン、ヨーロッパ、マーガレット・サッチャーの没落)
"A Day with Helenio Herrera"(エレニオ・エレラとの一日)
"Dutch and English : Why Bobby Robson Failed in Holland"(オランダ人とイギリス人:ボビー・ロブソンはなぜオランダで失敗したか)
いずれも面白そうですが、多分完訳すると分厚くなりすぎたんでしょうね。


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(02/8/2)
『穆清サッカースポーツ少年団15周年記念誌』(1989)
を追加しました。


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(02/8/1)
イングランドに勝った最初の大陸のナショナル・チーム
すなわち、英国諸島(スコットランドなどを含む)外で初めてイングランドに勝ったのはスペインで、1928年マドリッドのメトロポリタノ競技場。1931年ロンドンのハイベリーでリターンマッチが行われ、イングランドが7-1で大勝し、リヴェンジを果たしています。このロンドンの国際試合は斎藤才三(関学OB、毎日新聞記者)が観戦しており、『蹴球』no.7 1933.12に観戦記を書いています。これがヨーロッパの国際試合レポートの嚆矢でしょう。


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(02/7/31)
フィル・ボール著『バルサとレアル スペイン・サッカー物語』(日本放送出版協会,2002)
原題は『Morbo : the story of Spanish football』。著者によれば“morbo”がスペイン・サッカーのキーワードで、あえて訳せば“病気”だが、手ごろな英語の類義語はないとのこと。西和辞典を引いても“病気”、“疾病”になっています。一昔前流行った“ビョーキ” のニュアンスか? 著者はバスク在住の英語教師。
副題が示すようなスペイン・サッカー史ですが、章立ては、
1.モルボ
2.勇猛果敢-スペイン・サッカー発祥の地ウェルバ
3.石切り工-アスレティック・ビルバオとバスク地方の政治
4.光と影-バルセロナをめぐる曖昧な真実
5.ホワイトノイズ-マドリードとフランコの遺産
6.五台のタクシー-セビリアの健全なライバル関係
7.田舎者、キュウリ、マットレスメーカーズ-スペインのクラブカルチャー
8.ダークホース-代表チームの不可解な失態
9.失われた序列
と、アンダルシア、バスク、カタルーニャ、カスティリア各地方のサッカー史から成っています。国全体の通史を記述するというのは不可能なんでしょうね。
スペイン・サッカー発祥の地は、イングランドに近い最東北部のバスクではなく、最西南部のアンダルシアの鉱山、レアルの創立者はカタルーニャ人...など意外な事実が記されています。スペイン代表の成績がいまひとつなのは、1920年のアントワープ・オリンピックで銀メダルという意外な好成績を残したのがその後過大な期待につながり、尾を引いたとのこと。内乱に先立つこと十数年前のこのオリンピックでも、多数を占めるバスク出身者がイレブン全員をバスク人で固めるよう監督に要求しています。
カタルーニャにおけるクライフの位置を、以下の記述が雄弁に物語っています。

 ヨハン・クライフ自身、カタルーニャ語はおぼえなかったが、一九七四年に息子にジョルディという洗礼名を(イングランドではセント・ジョージと呼ばれる地元の守護聖人にちなんで)つけたと宣言した。カタルーニャ語の名前がまだ憲法で禁止されていたころのことである。クライフは以来、名前の響きが気に入ったまでだと言いつづけているが、末期フランコ政権のもとで、公式には依然として口を封じられていた地元住民から、この洗礼名は過激で感謝のこもった行為と受け取られた。さらに、当初は住民登録を拒んだ当局を(ジョルディはオランダで生まれた)、断固たる主張で屈服させたことで、クライフは彼らの目になおさら偉大な英雄として映るようになった。(p.111)


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(02/7/30)
賀川浩氏
の著作がFC JAPANというサイトで以前から読めましたが、最近『グラン』(未見だがグランパス関係の雑誌)に連載されているエッセイがこのサイトにも転載されています。 Kagawa soccer library - stories 竹腰重丸や田辺五兵衛の小伝など、日本サッカー史に関心のある人は必見。


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(02/7/29)
サッカーと宗教
レンジャーズ対セルティックのグラスゴー・ダービーは、プロテスタント対カトリックという宗教的対立を背景にしていて、世界で最も熱いダービー・マッチとして著名です。ファーガソン家は祖父と母と妻がカトリック、祖母と父と彼自身がプロテスタントと3代続けて異なる宗教同士で婚姻しています。彼自身がプロテスタントになったのは信仰心よりも将来の就職を慮ってのことだそうです。

当時、この地域では仕事の面接で「出身校はどこですか?」と訊かれるのがふつうだった。カトリック系の学校だと答えようものなら就職のチャンスは激減する、いや、往々にして消え去る。こうした偏見は特に造船業界にはびこり、クライドで工場が閉鎖される最後の20年間にようやく薄れた。(p.20-21)

グラスゴー生まれで子供の頃からレンジャーズ・ファンだったファーガソンはあこがれのレンジャーズに入団しますが、「妻のキャシーがカトリック」というだけでチーム内で嫌がらせを受けます。

レンジャーズの失敗はマスコミに格好のネタを与え、かなりの数の評論家が私に噛み付いた。しかし、それよりはるかに深刻だったのが、キャシーの信仰をめぐる悪意のこもった噂話がアイブロックスやサポーターたちの集まる場所で渦巻いていることだった。中傷を広めた主犯はウィリー・アリスンだとわかっていた。彼は宗教的な偏見に凝り固まった広報担当で、カトリック信者と結婚するような人間はレンジャーズでプレーするにふさわしくないと、明らかに思っていた。後に、私たちに長男が生まれると、アリスンはマークがカトリック教会で洗礼を受けたという話を広めた。(p。118-119)

監督としてアバディーンで大成功を収めたファーガソンはレンジャーズからオファーを受けますが、

私が選手時代にアイブロックスで直面した偏狭さに、再び家族をさらすことになるような招聘には応じる気になれない、というのが私の本心だった。スコット・サイモンの忠告がなくても、キャシーの信仰する宗教はそれ自体、レンジャーズに戻るのはよいことではないと考える要因として十分だった。(p.256)

と断り、マンチェスターに行くことになります。ナイトを叙勲され、サーの称号がつくようになった人物の自伝であれば、日本だときれいごとばかり(例:日経の『私の履歴書』)という例が多いのですが、本書は以上のような「思い出したくないこと」が実名入りでたくさんでてきます。もちろん、「監督」の自伝なので、ベンチや2軍でくすぶっていたのを抜擢してやっと一人前にしたら、他チームからオファーを受けてさっさと出て行った例(当然実名入り)も豊富。2日前に記したように、選手に禁酒を命じた本人が以前は酒場経営者だったことを正直に書いていたりもします。


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(02/7/27)
監督の副業
アレックス・ファーガソンの自伝『マネージング・マイ・ライフ』(日刊スポーツ出版社,1999)によれば、マンU監督に就任直後、飲酒癖のある選手対策にさんざん苦労したことが述べられています。ところが、彼自身スコットランドで現役引退後、監督として最初のキャリアを積み始める頃グラスゴーで副業として「ファーギーズ」というパブを経営していて、サーバーからビールを注いでいる彼の写真も掲載されています。店は波止場近くにあって客層はあまり良くなかったようで、

 カクテルグラスを大量に注文すればファーギーズを徐々に高級な店に変えられるだろうなどと、いささか陳腐な考えを私が抱いていた頃、痛い目にあうぞとよく言われたものだ。カクテルグラスを使いはじめて最初の土曜の夜が過ぎると、その80パーセントが消えていた。(p.156)

パブは自己資金が少なくてもビール会社の融資で開店できたようで、ファーギーズが好調でショーズという店を開店したときは、総額2万2千ポンドのうちファーガソンと共同経営者が2千ポンドづつ負担し、残りの1万8千ポンドはドライブルーというビール会社から借入しています。
本書はトヨタ・カップでマンUの来日に合わせて刊行された。


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(02/7/19)
サッカー研究所
クレイグ・マクギル著『サッカー株式会社』(文藝春秋, 2002)に「ノーマン・チェスター卿サッカー研究所による調査 」が引用されています(p.15他)。ライセスター大学社会学部の Sir Norman Chester Centre for Football Research が正式名称。3人の専任研究者がいます。プレミア・リーグ、選手会、などから研究助成を受けて、プロ・サッカー・リーグのファン調査、女性とサッカー、サッカーと人種問題、イギリス・サッカーの変容といった研究テーマでリサーチを行っています。Norman Daniel Chesterは『Who's who 1980』によれば、1907年マンチェスター生まれ、マンチェスター大学、オックスフォード大学大学院卒業、母校で教鞭をとった政治(行政)学者。フーズ・フーの簡略な記述ではどういう因縁でサッカーとかかわりあうことになったのかわかりませんが、1966~68年Comittee on Association Football、1975年~Football Grounds Improvement Trustのメンバーになっています。政府のサッカー行政に関係していた人物のようです。重要な政策決定は必ずリサーチに基づいてなされるお国柄なので、このときに彼がサッカーに関するリサーチの必要性を提言したのかもしれません。オックスフォード大学にやはり彼の名を冠する政治学関係の奨学金があります。


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(02/7/16)
フーリガニズムの起源
小林章夫著『ブックエンド イギリス史の散歩道』(研究社出版,1992)には「キャットコール」という一節があって、17、8世紀イギリス演劇のハチャメチャぶりが伝えられています。「キャットコール」とは一種の笛で、役者へのブーイングに使用されたとのこと。一時ホーンがサッカー観戦の必需品だった時代もありましたが、それと同様に使用されたんでしょうか。天井桟敷から舞台にオレンジ、りんご、ジャガイモが投げつけられ、平土間席に酒ビンが飛んできたこともあったらしい。

 一七五九年一〇月の『ロンドン・クロニクル』によると、ドルーリー・レイン劇場である喜劇が上演されている途中、天井桟敷から平土間へ花火が投げこまれて大混乱、女性のなかには失神するものまで出たという。(同書p.27)

そうな。また、昔のイギリスでは公開処刑は、当日は徒弟奉公人の仕事は休みになるような祝祭的イベントで大観衆を集めたとのこと。

一八〇七年二月二十三日におこなわれた処刑では、ニューゲイト前の空き地におよそ四万人の人間がつめかけたためパニック状態となり、処刑終了後に調べてみると死者三〇名、意識不明の重体が七〇人あまり、路上に横たわっていた。死因は「圧死」。大群衆におしつぶされたわけである。(同書p.104-105)

こういう文献を読むと、フーリガンは現代特有の現象ではなく、昔なら公開処刑に熱狂し、天井桟敷で乱暴狼藉してた連中がサッカー場に来ただけのことではないかと。


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(02/7/11)
チャールズ・バカン
Charles Buchanは日本では戦前サッカー参考図書の著者として有名でした。1910年代から20年代にかけて活躍したイングランド代表選手なのですが、どんな選手かまではわかりませんでした。最近読んだブライアン・グランヴィル著『決定版ワールドカップ全史』(草思社,1998)中に以下の記述を見つけました。

 その点、ホドルに関する問題は、イングランドのサッカー史において古典的な事例だった。才気にあふれ、凡庸を嫌う異端派 - つまりホドルはチャーリー・バカン、レン・シャックルトン、スタンリー・マシューズらと同じ系譜に連なるプレーヤーだった。(同書p.316)

グレン・ホドルのようなタイプの創造性あふれるプレーヤーだったようです。イギリスでは「異端」なんですね(笑)。
彼の著書『Football aids』(Daily News, 1929)は、堀江忠男が浜松一中時代座右の書としていたそうです。昭和10(1935)年ころの『蹴球』誌に翻訳(岩崎玄訳)が連載されています。Peter J. Seddon編『Football compendium. 2nd ed.』(British Library, 1999)の解題は、

Buchan was a fine inside-foward who made a most effective contribution to the so-called "Lucky Arsenal" side created by Herbert Chapman in the late 1920s. This manual was written during his Highbury days.

著者がアーセナルの現役時代に書かれた本とのこと。本日誌01/10/7に記したように、チャップマンにCHを相手CFのマン・マークにつける(ストッパーにする)というアイデアを進言したのはバカンだったとのこと。


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(02/7/10)
ベッケンバウアーをスパイにした男
ゼップ・マイヤーといえば、オリバー・カーンの幼いころのアイドルで、バイエルン・ミュンヘンとドイツ代表のGKの先輩です。『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』(講談社,1976)に興味深いエピソードが記されています。14歳でアリアンツ保険会社の見習い社員になったベッケンバウアーは、同時にバイエルンのユース・チームでもプレイしていました。ユース・チームのGKマイヤーは既婚で、ベッケンバウアーによれば、

 ゴールキーパーのマイヤーの夫人は、わたしと同じ保険会社で働いていたので、勤務ぶりやほかの男と浮気しているかどうかなど、くわしく彼に報告しなければならなかった。もっとも浮気をしている事実はなかったが・・・。(同書p.48)

「皇帝」を興信所がわりに使ったマイヤーっていう奴は...


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(02/7/9)
戦前の「朝鮮代表」評
1936年のベルリン・オリンピック代表選考をめぐって、関東対関西、朝鮮対内地でゴタゴタしたので、その反省から3地域の交流試合が活発化します。1937年から朝日招待(関東1位対関西2位、関西1位対関東2位のタスキガケ)が始まり、翌1938-9年には関東、関西、朝鮮の3地域対抗戦が開催されます。1938年12月23日南甲子園運動場(全朝鮮3-1全関西)、12月25日同所(全朝鮮3-0全関東)、1939年2月5日神宮(全関東3-2全関西)で、アウェーで中1日のインターヴァルにもかかわらず、全朝鮮の完勝に終わっています。以下に『アサヒスポーツ』1939年1月第2号p.17に掲載された奥野幸治「三地域対抗蹴球の印象 -全鮮軍の勝因は優秀な体力と走力」から朝鮮チームの評を紹介します。

 試合後静かにこのチームの持つ特質を考察した時、先づ第一に頭に浮んだことは朝鮮軍の持つ頑健な身体と優秀な走力とであった。戦前やかましく論ぜられた個人技の優秀といふことは、優秀選手の集まりである本大会においては大した差異の有るものではなく、技量は大体において平均を保つものと見て間違ひないものである。よし差異があるとしてもそれは僅少な差異で、決して技量の差が決定的に試合を圧迫し左右し終せるほどの差に開きの有るものではないものである。今次三地域蹴球大会において朝鮮チームが関西、関東を押へた勝因のほとんどは彼等の体格が両チームの選手より重量があったことと、全員が揃って快足の持主だったことに依るものである。参考のために両日出場した全朝鮮チームの体重と身長を挙げて見よう。
 彼等の体格は身長とともに幅を備へてゐた。入場式に並んだ三軍選手を後から見て関西、関東の選手には身長があっても幅のないキャシャな身体の所有者の多いのに比較して、隣に並んで居た黒と黄の立縞のユニホームに身を包んだ全朝鮮選手の体格は実に立派なものだった。
 彼等はこの体格をよく活用して、攻めては敵バックスを身体を利かせて球に近づかしめず、守っては敵ドリブラーに体当りを試み、完全に相手をアウトオブボールにして球を奪取、その長身を利してのヘッディングは殆んど自軍で制するといふ優秀さを示した。又走力の優秀點(ママ)で、守っては敵FWの進出に容易に追付き、十分な余裕を持って絶えず敵より速く球にくっつくといふ優勢さで、攻めては敵バックスを振り切って敵の追従を許さないといふ状態で、絶えず球を保持し得る最大の原因を作ってゐた。その上体力の旺盛さは九十分間をキックオフの時と同様のスピードを以て走り切るといふ - 実に羨しいくらゐに余裕あるエネルギーの所有者であった。
 かかる根本的な問題は別としてそのプレイ振りを検討して見るに関東、関西両軍が球を大体平面的に運んでゐたに対して、彼らは高低双方を巧みに按配して時宜に応じた処置を採り、蹴球ゲームとして少くとも相手方より多面的にプレイするといふ特質を持ってゐたことは、われわれが再考する価値のあるところだと考へられた。しかしながら朝鮮チームの攻撃法の根幹は一体如何なるものだったかと考へる時、われわれには何物も浮んで来ないことを奇妙に思ふ。彼らの攻法がそれほど変化のあるものだったかも知れないが、それにしてもあまりに印象のないことを残念に思ふものである。九十分間の大半を自軍の足許に球を保持しながら、その得点量の僅少だったことは勿論相手チームバックの守備堅固を物語るものにしても、何らか考へるべきところがあるのではないだろうかとも思はれた。

京城蹴球団のような単独チームが内地の単独チームと試合したことはありますが、朝鮮「代表」が内地の地域代表(全関東は実質的には「日本代表」)と対戦するのはこれが初めて。2年前のオリンピック代表は全関東+金容植(全朝鮮のLIで参加)だったことを考えれば、「朝鮮代表」は極東大会はもちろん、オリンピックでも好勝負できたレベルのチームだったようです。戦後の日韓戦と同様、当たりの強さ、スピード、スタミナに勝っているだけでなく、パスの出し方にも工夫があったようですが、戦術面には疑問が呈されています。「名将」が指揮していればさらに爆発的な力を発揮していたかも(笑)。 この評のかなりの部分は今回W杯の韓国チーム評と共通しているようです。現韓国代表のエンブレムは虎ですが、「黒と黄の立縞のユニホーム」もやはり虎をイメージしてたんでしょうか?


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(02/7/8)
ベルリン・オリンピック代表立原元夫
の父は、下記の堀江の回想によれば、花井卓蔵とのこと。花井は明治、大正、昭和にわたって活躍した刑事弁護士の第一人者。足尾鉱毒事件、大逆事件など約1万件の弁護を担当した。政治家でもあり、衆議院、貴族院議員も務めている。星新一著『明治の人物誌』(新潮社, 1978。1998に新潮文庫で再刊)に花井の伝記あり。星の父一もあやうく冤罪になるところを、花井の弁護で無罪になったとのこと。花井は明治元年三原藩士立原家の四男に生まれたが、当時の兵役では相続人を徴兵しなかったので花井家に入籍した。陪審制度の導入に尽力し、一時的ながら実施されたこともあったそうです。 


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(02/7/5)
ベルリン・オリンピック代表堀江忠男の回想
「都の西北 - わが早稲田の青春」が『知識』1988年1~12月号に掲載されているのを見つけました。『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)と内容的にはかなり重複しています。掲載時著者は早稲田大学名誉教授にしてア式蹴球部監督。大不況を目の当たりにした著者は兄正規(マルクス経済学者)とともに、左翼思想の影響を受けます。

 当時、兄正規と私は市谷に借家して自炊をしていた。この家はコップ(日本プロレタリア文化連盟)のアジトに使用され、蔵原惟人、宮本顕治、中条(のち宮本)百合子などが出入りしていた。そのうちコップの首脳部が一斉検挙され、アジトが危なくなったので、借家をたたんで、池袋に住んでいた伯父近藤圭(私に経済学をやれとすすめてくれた)の家に居候をしていた。間もなくそこまで検挙の手が伸びて、戸塚暑に拘留された。(『知識』1988年2月号p.282)

とのこと。もちろん無事釈放され、オリンピックに出場できたわけです。


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(02/7/1)
『The complete association footballer』(Methuen, 1912)
はBertram Saxellye EversとEdward Hughes Daviesの共著。竹腰重丸は本書を筆写したノートを持っていたそうです。原書は前付け10p、本文230p。大正期に最も重要視された洋書のようです。Peter J. Seddon編『Football compendium. 2nd ed.』(British Library, 1999) の解題では、

This is the earliest truly comprehensive study of how to play the game - a weightly volume which may usefully be consulted by historians for an insight into the game in the early part of the century.

となっています。イギリスでもサッカー史上重要な文献のようです。


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(02/6/26)
ドイツvsブラジル
ですか。32年前に観たかったなあ。


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(02/6/24)
Otto Nerz著『Fussball』(Weidmann, 1926)
は昭和3(1928)年頃慶応主将の濱田諭吉が入手し、部員が手分けして翻訳したそうです。ドイツ語を習い始めた予科生が翻訳したので、『蘭学事始』状態だったとのこと。ネルツはドイツ代表初代監督(専任化後)、ショート・パス戦法を主とするオーストリアの流れをくむ内容だったようです。島田晋著『アソシエーション・フットボール』(1931)は本書に依拠しているとのこと。1925年にオフサイド・ルールの改正があり、本場でもそれ以前のサッカー指導書が陳腐化してしまい、新しい指導書がもとめられていたのではないかと考えられます。

ドイツは代表監督の在任期間の長い国で、ネルツ(1923~36)、ヘルベルガー(36~64)、シェーン(64~78)、デアバル(78~84)、ベッケンバウアー(84~90)、フォクツ(90~98)、リベック(98~00)、フェラー(00~  )と80年間で8人、1人平均10年在任しています。フェラーも今回のW杯で地位を磐石にし、次のユーロがよほどの不成績でなければ、2006年までは在任しそうですね。

ユーロといえば今秋には予選ラウンドがはじまりますが、今回W杯で最悪の籤運だったイングランド(予選でドイツと同じ組、本大会は「死のF組」、準々決勝でブラジルとあたった)は、予選リーグでトルコと同じ組に入っています。ユーロ予選第7組の今回W杯8強の2国の他はマケドニア、リヒテンシュタイン、スロバキア。1位は本大会出場、2位は他の組の2位とプレイ・オフなので、イングランドvsトルコはガチンコ必至。ユーロ予選の組み分け段階でトルコがここまでやるとは誰も思っていなかったのでしょうが。


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(02/6/19)
イングランド代表のエンブレム「スリー・ライオンズ」
は王家の紋章で12世紀末リチャード一世(獅子心王)が採用。獅子はプランタジネット家の家紋だったらしく、リチャードの父ヘンリー二世(プランタジネット朝の開祖)が獅子の紋章を使用していましたが、その数は1匹ないし2匹でした。なぜ「3匹の獅子」になったかというと、リチャードの弟ジョン(後の欠地王、イギリス史上最低の王といわれ、王権を制限するマグナ・カルタを承認させられる)が2匹の獅子の紋章を使用していたので、それと混同されるのを避けるため3匹にしたとのこと。というわけで、「3」という数字に特別な意味はないようです。The Royal Arms of England参照

ヘンリー二世の家庭はイギリスのロイヤル・ファミリーらしく(?)、夫妻、父子、そして息子同士で反目しあっており、『冬のライオン』(1968)はそれを題材にした映画です。ヘンリー役はピーター・オトゥール。ヘンリーの后エリノア役はキャサリン・ヘプバーンが貫禄十分に演じてオスカー獲得。リチャード役は映画初出演のアンソニー・ホプキンス。ハンニバル・レクター博士の映画デビューはキャサリン・ヘプバーンの息子役でした。


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(02/6/17)
標高とサッカー
クリス・テイラー著『南米蹴球紀行』(勁文社,2001)によれば、FIFAは1995年標高3千メートル以上のサッカー試合を健康上の理由で禁止しようとしたとのこと。ボリヴィアの首都ラパスは標高3600メートル、エクアドルのキトは2800メートル、2回W杯を開催したメキシコ・シティーは2200メートル。1994年W杯南米予選でブラジルが史上初の敗戦を喫したのがアウェーでのボリヴィア戦(0-2)。ボリヴィアは本大会初出場するも3戦全敗で1次リーグ敗退。ボリヴィア人は、サッカー大国による政治的な「高地差別」だと受け止め、猛烈に反対し、この提案は結局却下されることに。今大会もエクアドルが高地の利を生かして初出場しましたが、クロアチアに勝ってW杯本大会初勝利を挙げていますね。
ところでアジアではネパールのカトマンズで1300メートルと案外高地国家がないのですが、チベットが独立すればラサは3650メートル、強敵になりそうです。


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(02/6/9)
日本サッカー史の転換点
でしたね、本日は。本サイトは日本サッカー史のサイトなので、日本サッカー史そのものが転換する時点に臨めて、これ以上の幸せはないです。本日の試合は1936年ベルリン、1968年メキシコの両オリンピック以上の価値があると。ここまできたら1次リーグ突破を!!


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(02/5/27)
日本代表のエンブレム八咫烏について
ご質問がありましたが、『日本サッカーの歩み』p.102に説明があります。 1931年6月3日正式採用。東京高師の内野台嶺を中心とする人たちの発案を 図案界の雄、日奈子実三がまとめたもの。 3本足の烏は日の神太陽を表わす。

 中国の古典、『淮南子』という本と『芸文類聚』という本との2箇所に、 太陽の中に3本足の烏がいるとみえていること、また日本の神話の中にも、 神武天皇が大和国へ入られるとき八咫烏が険阻な山路をご先導をした ということをあわせ、ここから光が輝いて四方八方を照らすことを意味して いる。ボールを押さえているのは、われらのボールゲーム、サッカーを 統制・指導し、正しく発達し、栄光を世界に輝かせることを意味している。  旗の色、黄色は公正・フェアを示し、青色は青春・若さを表し、全体と してはつらつとした若さ、青春の意気に包まれたわれら日本のフットボーラー の、フェアかつ偉大な心構えを表現しているのである。

とのことです。 和歌山県那智勝浦町のHP では同町出身で日本最初のサッカー本『アッソシエーションフットボール』(明治36年)の実質上の著者、中村覚之助がなんらかの影響を与えて内野に熊野のシンボル八咫烏を採用せしめたのではないか、という可能性を探っていますが、確証は得られなかったようです。 朝日新聞記事 では、JFA名誉会長長沼健氏が熊野由来であるとのお墨付きを与えたとのことですが...


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(02/5/20)
侍の孫の世代
以前『日本サッカーのあゆみ』編纂の中心だった新田純興氏の祖父が将軍家直参だったことを記しましたが、1938年W杯フランス大会を観戦して観戦記を残した野村正二郎氏の祖父維章氏は、土佐脱藩の海援隊士だったとのこと。維新史料編纂会編『華族譜要』(1976、昭和4年版の複製)によれば、正二郎氏(自身も杉村家からの養子)の父は伍代(友厚)家からの養子とのことですが、土佐藩士の養子がなぜ薩摩からというのは、海援隊人脈だったのですね。野村正二郎氏が大日本蹴球協会主事だったころの会長は深尾隆太郎氏ですが、深尾氏の祖父は土佐藩国家老。野村、深尾両氏とも同藩出身で男爵なのですが、こういうつながりが野村氏のFIFA派遣や主事就任とどう関係しているのか、戦前の華族同士の交際など想像もつきません。


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(02/5/7)
新刊サッカー本のサイト
新刊サッカー本を紹介するサイト From Backstandを発見。新刊書の洪水の中を、オンディマンド出版のものまで紹介しています。

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2002年3月19日~2002年5月5日

(02/5/5)
鈴木明著『「東京遂に勝てリ!!」1936年ベルリン至急電』(小学館,1994)
は、1940年幻の東京オリンピック招致の経緯を、日本とIOCや極東大会との関連から説明しています。1934年地元W杯優勝で気を良くしたムッソリーニは、1940年オリンピック(ローマも立候補していた)を日本に譲ったとのこと。中国(満州事変で対立していたのにもかかわらず、蒋介石の指示で東京開催に賛成票を投じた)、フィリピン(親日的な民族主義者が体育協会の代表、オリンピックに代わって開催された紀元2600年記念大会に選手団を派遣)の複雑な事情も描かれています。


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(02/5/4)
戦前にヨーロッパ・サッカーを観た人
で、観戦記を残している人は、『蹴球』、『蹴球評論』(共に1931年創刊)を見る限り、以下の人々です。
1931年:斎藤才三。桃山中学(田辺五兵衛の1年後輩、主将を引き継いだ)、関西学院OB,毎日新聞記者、1930年極東大会優勝メンバーのGK。渡英して、アーセナル対ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン、ウェスト・ハム対チェルシー、イングランド対スペインを観戦しています。当時の革命的戦術3B(WM)システムを最初に報告、1934年に逝去したチャップマン監督の現役時代にアーセナルを観戦した唯一の人物ではないかと思われます。
1936年:ベルリン・オリンピックで渡欧した竹腰重丸(コーチ)・田辺五兵衛(役員)、竹内悌三(主将)。竹腰・田辺はアーセナル対エヴァートン、当時FA事務局長だったスタンレー・ラウス氏(後FIFA会長)の世話で貴賓室で観戦したそうです。田辺はイングランドのみならず、スコットランドまで行ったとのこと。竹内については4/15参照。
1938年:野村正二郎、島田孝一がW杯第3回フランス大会を観戦。 第3回フランス大会(1938年)参照。野村は男爵、祖父は土佐藩士で戊辰役の功で爵位を得る。父は養子で父の実父は伍代友厚。島田は早稲田大学ア式蹴球部長、JFA顧問。W杯と同時に開催されるFIFA会議に、押しのきくバロンとプロフェッサーが派遣されたようです。
野村・島田以外は全員アーセナルの試合を観戦しています。1968年にアーセナルがイングランドのプロチームとして初来日したとき、『サッカー・マガジン』のコラムに、協会のお偉方は昔のネーム・バリューでアーセナルなんかよんでいる、マンU(当時G.ベスト、B.チャールトン、D.ローがいた)をよべ、と牛木素吉郎氏が書いていたように記憶しておりますが。


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(02/4/25)
竹腰重丸のマジック・マジャール観戦記
竹腰重丸はヘルシンキ・オリンピックにJOC役員として派遣され(日本サッカーは不出場)、優勝したハンガリーの試合を観戦しており、観戦記を「第15回ヘルシンキオリンピック大会報告書 3」『蹴球』v.10no.4/5 1953.4/5 p.4-11に寄稿しています。当時のハンガリーは1950年5月の敗戦から1954年W杯決勝まで不敗で、マジック・マジャール(和製英語、正しくはMagical Magyar)と呼ばれていた伝説上のチーム。世界サッカー史上の名プレーヤー、プスカシュ、コチシュ、ヒデグチ、などを擁していました。竹腰はユーゴとの決勝戦を観戦しており、予想として次のように述べています。

双方共速攻、遅攻いづれも可能で殆ど非の打ち処のない感のある攻撃力旺んなチームであった。球扱いも身体のこなしも日本の最上級FWよりもすぐれて居るハンガリーのバックスに対しても、ユーゴーFWは速攻とヘッディングの強さで二点程度は得点可能と思はれ、一方ユーゴーの守備陣は敏捷そのものであり大会随一かとも思はれる精力的な動きをするRHが小柄なほかは巨躯を持って居るが、回転やスタートダッシュの鋭さに難が見出されるのでハンガリーFWは四点程度得点することが予想せられた。

予想ではハンガリー優位。さて、前半戦は、

 前半戦は双方共実に慎重な試合振りに終始した。双方共激しく動き盛んに所謂チェンジポジションを行って攻めはするが球を確実に保持することを主眼とするかに見え所謂『きわどい』パスは殆ど全く見られなかった。加之、シュートと思う時期にも更に一歩のドリブル或はより有利な味方へのパスをするなど慎重に過ぎて得点機を失した。開始後二十分迄に放ったショットは共に一本宛に過ぎなかった。三十五分ハンガリーはPKに恵まれたがシュートの名手であるCFは強蹴乍らキーパーの右一米突半に蹴ってユーゴーのキーパーに完全に掴まれて了った。その様な凡蹴は考えられないことで優勝戦である為固くなったと見るほかはない。前半はハンガリー優勢で数回の好機があったがゴール前で慎重に過ぎてユーゴーの三バックスの巨躯に遮断されたりキーパーの確実な捕球に阻まれた。

ハンガリーは優勢に試合を進めるも、プスカシュがPKを失敗して前半戦は0-0。そしていよいよ後半戦。

 後半戦には双方共明瞭に作戦を変更して速攻にいで、戦況は活発さを増した。対等な戦況の中十一分にユーゴーはRW→CF→LWの速攻でLWはキーパーと一対一で得点と思はせたがそのシュートは僅かにゴールを外れた。二十五分に至りハンガリーは自陣で横に球を廻しLIからの十五米突位の縦パスを受けたCFは約五十米突を快足ドリブルで二人を外し突進するキーパーをも左に外して一点を挙げた。其後も双方速攻を繰返活発な戦況ではあったが前半同様ゴール前で慎重に過ぎて容易に得点とはならなかった。タイムアップ三分前ユーゴーRIは快速ドリブルでPエリア内に突込んだがハンガリーバックスの敏捷な動きでシュートの機を得ず、ゴールライン上ポストから五米突位の位置から低い球で強く中に入れCFが得点と思う一瞬前キーパーが挺身そのパスをインターセプトして好捕し一対零のまま終ると思はれた。然るに残り時間一分足らず前ユーゴー陣右深くに攻込んだ ハンガリーは混戦中からそのCFが中に入れた球をLIが受けてシュートして一点を加え二対零の記録で、ハンガリーの優勝するところとなった。ハンガリーとしては初めての優勝である。

1点目はプスカシュ、2点目はチボールのゴール。最後のまとめとして以下のように締めています。

 些か固くなった感があったが此の試合は優勝戦に相応しく技術的には最も纏りのある試合であったと云うべきであらう。簡単に全貌を写すことは出来ないが、球扱いが非常にすぐれ確実に球を廻し乍らスピードに富み全員激しく動き廻って戦う様は、バスケットボール試合のスケールを大きくして力強さを加えたものと表現して差支えない感があり蹴球の魅力を十分に感じさせる好試合であった。

それにしても、「ハンガリーは自陣で横に球を廻しLIからの十五米突位の縦パスを受けたCFは約五十米突を快足ドリブルで二人を外し突進するキーパーをも左に外して一点を挙げた。」というプスカシュのプレーは、オリンピックではなく、W杯の決勝なら後世のサッカー・ライターをして張り扇を叩かしめたでしょうに。


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(02/4/24)
範多龍平氏のこと
範多龍平氏は、神戸一中蹴球部、慶応ソッカー部の草創期に活躍した人物。『神戸一中蹴球誌』(1937)に「おしる粉と涙」というエッセイを寄稿しています。範多とは珍しい姓ですが、祖父はアイルランド生まれのE.H.ハンター氏、父は帰化して範多姓を名乗った範多龍太郎氏。ハンター氏は現在の日立造船の創業者。神戸市北野地区を住宅地として開発し、異人館群ができるきっかけを作った神戸の恩人。北野のハンター坂や北野から王子動物園に移築された国指定重要文化財ハンター邸にその名を残しています。西村珈琲店とフロインドリーブが並んでいる通りがハンター坂とのこと。坂の入り口までなら行ったことはあるんですが、フロインドリーブより先は登ったことがなく、坂の名前までは知りませんでした。龍平氏が神戸一中に通学していたころは、ハンター邸に実際に住んでいたのでしょうか。


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(02/4/23)
竹内悌三の日朝サッカー比較論
竹内悌三はイングランド・サッカーの特徴を6点あげた後、日朝のサッカーを比較して次のように述べています。

 今回のオリムピック遠征以前の日本のティーム殊に関東のティームのやり方をもっともっと激しく速くさせたのが英国のプロのやり方であらうと思ひます。この事に関係して、朝鮮の蹴球は変わった行き方をしてゐてその対照が甚だ面白く、且つ興味深く思はれます。今回のオリムピック遠征前伏見の合宿で、私は朝鮮から選ばれて練習に参加してゐた金君等と、現在内地でやってゐる蹴球と朝鮮の蹴球との、比較論やら色々と議論いたしました。その結論は金君の曰く「内地の蹴球は余裕が無い、キープが足りない、無茶苦茶に前進するのみだ。あいてゐないのにパスする。無理だ。朝鮮ではこう云ふやり方をあわてていると云ふ。自分達には調子が合わず全くやりにくい云々」而して朝鮮の余りにも廻し過ぎるテンポの遅いやり方に対して全般的に肯定はしなかったが、当時は自分の蹴球が可成り余裕が無く駈引に乏しく策の無いものであることに対して、或る種の不満と懐疑をもってゐたのでありますが、些かこの金君の言に共鳴いたしました。而して日本軍が愈独乙に渡り数度の戦を外人ティームと交へて、吾々が先づ感じた事は吾々はもっと気分的にも技術的にも余裕をもたなければならないと云ふ事でありました。あわててはいけない、ボールをキープして廻し相手を釣って崩さなければいけない。従来先輩から教へられてゐた「一球一球に全精力を傾倒してやれと云ふ精神」が誤解されて余裕の無い単なる精力の散発に陥ることを警戒しました。今回の遠征軍の御土産の一つ、技術の上達熟練の急務と同時に余裕をもってボールを廻すと云ふ事であったと思はれます。事実昨秋のリーグ戦にこの傾向が現れたと聞いてゐます。

文中の金君とは戦後韓国代表監督も務めた金容植氏。朝鮮のサッカーというと、日韓戦のイメージもあってフィジカル優位の当たりの強い試合運びという印象をもちがちですが、ラテン的でもあったようです。朝鮮といっても南北でスタイルが違ってたのかもしれませんが。
「あわててはいけない、ボールをキープして廻し相手を釣って崩さなければいけない。」というのは、その後現在に至るまで日本サッカーの課題ですね。
竹内はヨーロッパ・サッカー紀行の結論として次のように述べています。

 面し乍ら次の事は云へると思ひます。世界の蹴球の分野には巧緻の大陸派と速さと激さの英国派とある事、之を日本に於て見るならば、大陸派の長所を学び取ってゐるかに見ゆる朝鮮の蹴球と英国の流れを汲む関東の蹴球。又オリムピック遠征後の日本の蹴球が従来の英国流のやり方に大陸派の傾向をとり入れんとしつつある現在の情勢、又その傾向が一応ある段階に達したる時日本蹴球は次に如何なる方向に向って進歩の途を辿って行くであらうか、之らの問題は頗る興味深く且又最重要な根本的問題であらうと思はれます。そして其の時吾々が最も知り度いと思ふのは南米の蹴球であり、英国のプロティームが矛を交へずして退いたと云はれる南米ウルガイの蹴球であらうと思ひます。


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(02/4/19)
竹内悌三の観たイングランド・サッカー
大陸から期待をもってイギリスに渡った竹内ですが、

...而るに私に与へられたものは多大の教示と感激ではなくして、失望の二字でありました。欧州大陸においてさへあれ程の教示と昂奮を与へてくれた蹴球が、英国に於て反って或る種の物足り無さと失望を私に与へた事に付いては、今に尚些か疑問に思ってゐます。...

と述べています。イギリスの3戦を観ての感想は、

...先づ私が驚きました事は両軍の対峙が完全なスリーバックシステムの元に行はれてゐる事であります。両軍共CHは敵CFにピッタリとつき残余のものも夫々マークす可き相手方にピタっとついて、水も漏さぬと云った感じであります。その攻撃は極端なW型システムであり、又極端なロングパスシステムであります。この点は大陸の傾向とは可成り異る特色をなしてをり、私の観た英国の三試合六ティームが例外なしに完全な完全なこのやり方をとって攻守してゐました。この様な布陣の元に行はるる英国蹴球の特色は実に速攻と激しさであり、又速攻と云ふよりは拙速といふ感じがいたします。...

そして、イングランドのプロ・サッカーの特徴を以下の6点にまとめています。

一、完全なるスリーバックシステム
二、深いW型攻撃一騎打式の単身突撃的攻撃
三、速攻主義
四、可成り極端なキックアンドラッシュ
五、速さと激しさのフットボール
六、バスケットボール式のフットボール

WMシステムでは攻撃はM形、守備はM形で完全な1対1のマン・マークになり、ウイングがサイドに寄り、インナーが下がってCFにスペースを与えて、その個人技に依存するところが多くなります。狭い地域でのパス交換などよりもロビングでCFにボールを集中するパターンになりがちだったようです。竹内よりも少し前にアーセナル対エバートンを観た田辺五兵衛は、CF対そのマン・マークについたCHの1対1の対決が見所だったと語っています。ボールを奪取すると、いわゆるタメやテンポの変化なしにすぐ前線へロング・パスしてしまうような試合運びだったようです。


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(02/4/15)
サッカー紀行の先駆者、竹内悌三
サッカー紀行といえば賀川浩氏や後藤健生氏を思い浮かべますが、すでに戦前、ベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三がヨーロッパ・サッカー紀行を『蹴球』誌に報告しています。竹内は東京府立五中、浦和高校、東大卒、優勝した1930年の極東大会と1936年のベルリン・オリンピックを選手として経験した唯一の人物です。オリンピックに際してJFAは3万円を目途に寄付を募りますが、個人では田辺五兵衛の3千円と竹内の1千円が図抜けています。よほど裕福な生まれなのではないかと思われます。東京タワー、東京駅、明石海峡大橋などを手がけた照明デザイナーの第一人者石井幹子氏の父親。オリンピック終了後選手団はスイス、フランス、イギリスを巡った後、サッカー・シーズン・イン直前の8月28日にマルセイユから帰国しますが、竹内はさらにヨーロッパ諸国を旅してほぼ1週間毎にサッカーを観ています。日付、場所、試合は以下のとおり。

1936年9月13日 ミラノ アンブロシアーナ(現インテル)対トリエスティーナ セリエA
     9月20日 プラハ プルーゼン対ビクトリア スラビア対Rusj-Vghora チェコの国内リーグ
     9月27日 プラハ チェコスロバキア対ドイツ ナショナル・マッチ
    10月11日 アントワープ アントワープ対ユニオン ベルギーの国内リーグ
    10月17日 場所不明 サザンプトン対トッテナム・ホットスパー イングランド2部リーグ
    10月21日 リバプール イングランド対スコットランド リーグ選抜対抗戦
    10月24日 ロンドン グリムズビー・タウン対アーセナル イングランド1部リーグ

鋭い洞察力の持ち主で、イングランドのサッカーが大陸よりも緻密さに欠けることを指摘したり、とエリック・バッティも顔負けなことを書いているのですが、具体的な紹介は別の機会に。

ベルリン・オリンピックで地元サッカー記者に国際級選手と絶賛された加茂健氏が『私の人生』(1998)という自伝を書いておられるとのこと。 →参照


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(02/4/12)
“サッカー”という用語
日本で最初に“サッカー”という用語を使用したのは1918年創立の大阪サッカー倶楽部ですが、東京では1921年創立の豊島サッカークラブ、慶応義塾体育会ソッカ-部の例があります。豊島サッカークラブは、役員人事のもつれから東京蹴球団の豊島師範系OBが分派したもので、サッカークラブという名称に、漢字名にこだわった東京蹴球団への対抗意識が感じられます。
“サッカー”という用語もイギリス生まれで、Oxford English Dictionaryによれば、1890年代には“socca” とか“socker”と綴られていて、こちらの方が“soccer”より用例の年代が若干古くなっています。綴りから察せられるように、イギリスでも最初は「ソッカー」と発音していたはずで、慶応のソッカー部は決して出鱈目な表記ではありません。
Tony Brownによれば、David Pickering著『Soccer companion』(Cassel, 1994)では最初に“soccer”という用語を使ったのはオックスフォード大学生で、後にイングランド代表、FA副会長になったCharles Wreford Brownであると人名まで特定しているそうです。 (ASK the REF.com参照)
1921年には大日本蹴球協会が設立され、1931年には機関誌『蹴球』が創刊されます。こうしたこともあって、戦前は“サッカー”よりも“蹴球”の方が普及していました。戦後、大日本蹴球協会は日本蹴球協会に改名しますが、機関誌は『サッカー(Soccer)』という誌名で復刊します。占領期間中はこの誌名で、占領が終わると『蹴球』に改題するので、米軍への配慮からアメリカ式の“サッカー” という用語を使用したのではないかと考えられます。当時は用紙割り当てなどのような出版統制があり、米軍の意向は無視できなかったのではないでしょうか。占領期間中に出版された図書も“サッカー”という書名になっています。
『蹴球』に戻った機関誌は1959年にまた『サッカー』に改題します。その理由は“蹴”の字が当用漢字になかったためということが、改題初号(1959年1月号)に記されています。1960年にサッカーは義務教育課程化されますが、教科書や学習指導要領では“サッカー”に用語が統一化されたはずです。任意団体だった日本蹴球協会は1974年に財団法人化され、その際に日本サッカー協会に改名しますが、やはり監督官庁の文部省の意向が働いたのではないでしょうか。

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(02/4/9)
海軍兵学校のサッカー
『誕生十年』(1935)、『豊島サッカー史』(1960)の内容紹介を追加しました。前者は東京府立五中、後者は豊島師範のサッカー部史です。前者に海軍兵学校に進学した伊藤敦夫が「所感」と題するエッセイを寄稿しています。

 兵学校の蹴球は十一月から四月までがシーズンでその間は二週間に三回位の割合で体技(蹴球・籠球・ラグビー・排球)の訓練があります。靴もユニホームもあり、姿だけは立派なものですが、私なんかが単身ドリブル五十米許りシュートして一点取るなんてことが時々ある位だと言ったら何れ位の蹴球だか想像がつくでせう。でもシーズンの終りには試合が行はれます。分隊から一チームを出して試合するのですから内容は充実したものでドリブルとキックの競争の様なものですが、それでも仲々熱烈いや猛烈な肉弾戦を展開します。それは猛烈なもので五中の人が之位猛烈にやったらと時々思ひます。私が一学年の時に八中と広島附中の選手だった人と三人で九点入れて勝ったのが兵学校に於ける記録ださうです。
 時には学級で対抗試合をさせることがあります。此の方は人数が多くなるので上手な人も相当居りますからいくらか充実した試合振をやります。四月から五月にかけての土曜日曜にやりますが選手だった者が多い所が強い様です。平生も練習もしないでやるのですから仲々コンビネーションなんかよく出来ません。対抗試合など出来て学校で一チーム編成したら体力は秀れて居るし元気はあるし、練習次第では相当なチームも出来ると思ひますが何分島の中では何うにもなりません。
 現在ではゴールポストは二組立って居ます。全部芝生です。恐らくこんなに二つもグランドを持って居る様な学校はないでせう。こうした広い美しい所で球を追って走ることは全く気持がよいものです。

芝のグラウンドが2面ある学校は、現在でもそうはないでしょう。
原島好文の回想では、東京蹴球団は横須賀の砲術学校、海兵団、水雷学校、機関学校に遠征したそうです。そのおりは特別のランチで運んでくれたとのこと。
アメリカではアーミー対ネイヴィーの対抗戦(もちろんアメフト)が早慶戦のような伝統の一戦で、競技史でも重要な役割を果たしてきました。アメフトの特徴であるフォワード・パスが初めて使用されたのはアーミー(陸軍士官学校)対ノートルダム大戦。ジョン・フォード監督の『長い灰色の線』に出てきますが、映画ではこの試合当時士官学校アメフト部にアイゼンハワーがいたことになっています。彼はオール・アメリカン級のランニング・バックだったとのこと。昔エア・フォース(空軍士官学校)とどこかとの試合をTVでみたことがありますが、エア・フォースが徹底的にパス戦法(アメフトでは空中戦になる)に拘っていたのには笑いました。イギリスの空軍士官学校(あるのかどうか知らない)にサッカー・チームがあるとすれば、やはりロビングを使いまくってるんでしょうか。


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(02/4/7)
静岡高校
といえば、サッカーより野球の印象の強い学校ですが、『静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史』(静中・静高サッカー部OB会,2000)によれば、1920年創部、1930年極東大会優勝メンバー井出多米夫、ベルリン・オリンピック代表GKで大活躍した佐野理平など、古くから好選手を輩出しています。強豪揃いの静岡県で昭和30年代以降は全国大会出場は少ないですが、選手よりも指導者として成功した人物が多く出ています。浦和市立高の鈴木駿一郎、静岡学園の井田勝通、少年サッカーの指導者堀田哲爾、納谷宣雄が同校出身です。長池実は藤枝東の前に4年間同校監督を務めており、井田は教え子だそうです。


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(02/4/5)
『Kick-off』誌
井田勝通「静高時代のサッカー」(『静岡県立静岡中学・静岡高等学校サッカー部史』(静中・静高サッカー部OB会,2000)所収)中に「昭和32~34年という時代は世界ではペレが世界大会(ワールドカップ)でデビューした頃で、自分は泉山と2人でキックオフという雑誌でそれを知り世界と日本の差がどんなにかけ離れているかを知った。」という部分がありました。当サイト収載の『Kick-off』総目次 は第6号(1958年5月)までで、スウェーデン大会の記事は含まれません。どうやら第7号以降も発行されていたようです。同誌は大谷四郎、賀川浩、秋庭亮のような、後に『サッカー・マガジン』(1966年創刊)のコラムニストになる人物が寄稿しています。大谷や賀川のように新聞社で外電に接することができた人がいたので、海外情報も豊富です。静岡の高校生が読んでいるくらいなので、かなり普及していたはずですが、田辺文庫以外で発見できていません。


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(02/4/3)
東京蹴球団と少年サッカー
忠鉢信一著『進化する日本サッカー』(集英社,2001)には、現日本代表は過去30年にわたる育成プログラムの成果であることが具体的に記述されていますが、大正時代すでに少年サッカーの重要性に着目していたのが東京蹴球団の人々です。原島好文「サッカー十年の思ひ出」(『運動界』1929年4月号所収)によれば、

 私たちが大会屋と悪口をいはれてゐたのが其の頃で、大正十一年から小学生大会を始め少年蹴球の道を開いた。その為にルールを清水、山田両君が編み、山田君は単行本を世に出したが、何れも貰ひ手はあっても買手は少ない。

山田午郎の著書というのは『ア式フットボール』(杉田日進堂、1925)で、序文の冒頭は、

 極東に於て、各種運動競技の選手権大会が開かれることにすでに七回、中でもア式蹴球は中華民国が実に六回連勝の栄誉を担ってゐる。今回マニラの地に開かれた第七回極東競技大会に於ても、フィッリピンを五対一で破り、わがティームを二対零で破って堂々と勝利を占めてゐる。これは単に体格ばかりに依るといふことは出来ない。彼は幼児からボールに接する機会が多い。つまり長い間の好める運動として練習の機会が多い。著者が今回の大回(ママ)にア式蹴球の監督としてマニラに往復する途中親しく上海、香港に於ける彼等の愛好するフットボールについて見たのに、五六歳の小児から十七八歳の元気あふれる青年迄一所になって盛んに蹴って居る、...

山田は「日本代表」の最初のアウェー戦第5回極東大会(1921年上海)を選手として、文中にあるように第7回大会(1925年マニラ)を監督として経験するという当時として稀有の「国際経験」をもつ人物ですが、こうした国際的視野が少年サッカーの重要性に着目させたと明言していることは、注目すべきでしょう。また、小学生大会を開催したり、そのためのルールブックを作るというのは、小学生を実際に教えた経験のある師範学校OBの東京蹴球団ならではで、大学出の野津や竹腰のような人物にはできないことです。1/24付けで述べたように、FIFA加盟した1929年に大日本蹴球協会の主導権が師範OBから大学OBに移りますが、仮に師範系の人物が主導権を握って少年サッカーの振興をJFAの骨子としていたら...、と忠鉢氏の著作を読んで想像したりしてみましたが。随分遠回りしたんじゃないかという気もしますが、JFAが少年サッカーをバックアップし始めるのは野津会長、竹腰理事長の時代で、ある意味で皮肉です。
1936年ベルリン・オリンピックの対スウェーデン戦に勝利した背景には、少年サッカーの普及があったことは否定できません。イレブンのうちの浜松三人組(加茂兄弟、堀江)が浜松師範附属小学校からサッカーを始め、浜松中、早稲田と一貫してサッカーを続けることができた「システム」がすでに存在していました。神戸なら御影師範附属小→ 神戸一中です。戦前の学制の方が、中等、高等教育とも在学期間が長かったので、6・3・3制よりもサッカー選手育成には適していたようです。


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(02/3/29)
東京蹴球団とサッカー・ジャーナリズム
東京蹴球団は青山、豊島両師範と東京高師OBによって1917年創立。創立メンバーの一人原島好文(『蹴球行進曲』の作詞者)の回想「ソッカー十年の思ひ出」(『運動界』v.10 no.4 1929.4 p.36-45)によれば、1918年創設の関東(中学)蹴球大会を始めとして「大会屋」と悪口を言われるほど各種大会を開催し、それらの後援を通じて新聞社との繋がりができます。

 蹴球戦記を書き始めたのは東京朝日新聞であったらう。第一回の関東蹴球大会までは、蹴球戦記が記事となって新聞紙に掲げられたことはなかったのを、兎に角数行或は十数行をそのために当て呉れた。「一進一退」「敵前出の虚を衝いて奇襲を試み」などの文句がその頃は屡用ひられたやうだ。私などもその筆法を真似てやたらに戦記や妄評を書きなぐった。私が始めて(ママ)稿料を戴いたのも此の「両軍技量伯仲にして一進一退」を並べた拙文であった。抗議の多少によって判断すると、私の駄文を最も注意して読んで呉れたのは当時帝大に居た新田君であった。近頃では各ティームが意を用ひてをられるのでうっかりとは筆も執れぬ。

大学サッカーが始まるのは1920年代なので、1910年代から20年代にかけてサッカー用語や規則に精通して記事を書けるのは東京蹴球団員以外は僅か(新田純興氏など)で、新聞以外でも『運動界』(1920年創刊)、『アスレチックス』(1922年創刊)、『アサヒスポーツ』(1923年創刊)のようなスポーツ総合誌のサッカー記事も、多くは東京蹴球団員が書いています。創立メンバーで1921年第1回全日本選手権(天皇杯の前身)優勝時の主将山田午郎(極東大会にも選手、監督として出場)は朝日新聞に正式入社し、運動部長になっています。山田は、個人技や戦術の巧拙とともに試合経過を具体的に記述した近代的サッカー報道の祖というべき人物で、私は、飛田穂洲の野球評論のスタイルをサッカーに導入して、サッカー評論のスタイルを確立したのが山田だと考えています。
朝日は、すでに戦前に、東京に山田、大阪に関西大学サッカー部を創部して極東大会にも出場した三宅次郎と、東西それぞれにサッカー出身記者を配置しています。


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(02/3/26)
極東大会と日本
『大日本体育協会史』(1936)の第六章「極東選手権競技会」の冒頭は、

 極東体育協会並びに極東選手権競技会の発達史は又比律賓体育協会史(P・A・A・F)の延長であり発達史である。

とあり、フィリピン協会の成立から第1回極東大会までの沿革を述べた後、

 然しながら此の綜合団体の競技会は古い儀式であるカーニバルを中心とし一九〇九年二月の同祭より挙行された諸競技を新らたに管理したものであるが、アメリカ主義の首脳者たちは総督Forbesの文化政策と共にP・A・A・Fの競技会をして極東に於ける権威あるものたらしめ、延いては比島がその主権を獲得することを目論んだ。これには競技自体に対する優越性と共に基督教伝道の任務もあったことは否定できない。

とも述べています。当初日本(の体協)は極東大会に対して、フィリピンの優越性を誇示するアメリカの植民地政策およびキリスト教伝道の手段ではないかと疑義をもっており、また国内的な事情としては、すでにIOCに加盟している上、財政難ということで、参加には消極的で、第1回(1913年マニラ)、第2回(1915年上海)には正式参加せず、第3回(1917年東京)から参加します。
ところが、第4回(1919年マニラ)では開催時期(5月開催を学生が多いので8月にしてほしいと日本が要望したが、フィリピンと中国は拒否)をめぐって対立し、体協は極東体育協会を脱退してしまいます。大阪にあった体協西部支部は日本青年運動倶楽部を結成し、大阪財界(住友家、阪神、阪急など)や新聞社(大阪朝日、大阪毎日)の援助で、フィリピン、中国の承認を得て正式参加します。
この点に関して同書(p.40)は、

 ...当時体協自体の立場としては会長嘉納治五郎は国際オリムピック大会参加に主力を注ぐことを希望し、比支に依って創設された此大会に参加することに物足らなさを感じてをり又他方には実際問題として本会の財政状態が未だ整調せず、且つ大戦後の日本経済界の恐慌は此の年の極東大会と明年の第七回国際オリムピック大会とに二重に出資を求むるには成算が無かったのである。

と述べていますが、国際経験を求める選手の立場を全く無視したもので、世論の批判を受け、1921年嘉納は辞任して名誉会長に退き、岸清一が会長に就任します。日本青年運動倶楽部とは同年1月31日覚書を締結して和解し、第5回(1921年上海)には初めて国庫からの交付金を得て参加します。関西に借りのできた形の体協は第6回(1923年)大会を大阪で開催します。
以上のように1921年2月朝鮮が参加申請した当時日本の体協は極東体育協会を脱退したままになっており、その間隙をついたとしたら、朝鮮の関係者の手腕はたいしたものだといわざるをえません。


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(02/3/24)
極東大会と植民地朝鮮
『日本体育協会五十年史』(1963)に極東大会出場全選手のリストがありますが、朝鮮人の出場は種目によって差があり、ボクシングや陸上のような個人種目では出場が比較的多く、サッカーやバスケット(ベルリン・オリンピックで朝鮮人選手が出場した)は皆無です。
1920年に朝鮮体育会が結成されているので、1921年に極東大会参加申請したのは当然関連があるはずです。1919年に三・一独立運動があり、1921年当時植民地朝鮮は民族ナショナリズムの高揚期だったはずです。


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(02/3/19)
『極東オリンピックの政治学』(1998)
という資料を見つけました。著者は孫安石、富士ゼロックス小林節太郎記念基金発行。いわゆる極東大会(極東オリンピック、極東選手権、英語名は第1回はThe Far Eastern Olympics Games、第2回以降はThe Far Eastern Championship Games)を主として日中関係から考察したものです。当初開催のイニシアチブをとったのはフィリピン(当時はアメリカ領)で、第1回(1913年)はマニラ開催、。当初の参加国・地域はフィリピン、中国(中華民国)、日本で1930年以降にフランス領インドシナやオランダ領東インドも参加する。注目すべきは、1921年第5回上海大会に植民地朝鮮が参加を申請していることです。

 1921年の上海の極東オリンピックと政治との関連を象徴するもう一つの出来事は、植民地朝鮮が極東オリンピックへの参加を申請し、その可否をめぐって中国国内で活発な議論が行われたことであろう。そもそも、植民地朝鮮が極東オリンピックへの参加を表明したのは、1921年2月のことであるが、極東オリンピック事務局は「どこの国の人々であるかに関らず、大会に参加することができるが、植民地朝鮮の選手は日本国選手の名義を使うこと、別の「国名」を上げることはできない」という議決を通過させた。

結局「朝鮮代表」はオープン競技(万国競技)8種目参加。開催地中国でもフィリピンが参加できて、朝鮮が参加できないのはおかしい、という論調が地元紙『民国日報』に載ったとのこと。もちろん、それには日本の意向が働いたはずです。
極東大会サッカー日本代表に植民地朝鮮から選抜された実績がないのが不思議でしたが、本来ならフィリピン同様独立国でなくとも、朝鮮代表として出場できるはずなのに、何も「日の丸」つけてまで、と考えたのかもしれません。私は極東大会での実績がないことが、べルリン・オリンピックでの朝鮮人代表数に関係したと考えていたのですが、そもそも植民地朝鮮にとって極東大会とはどのような位置づけだったのか、というのがまるでわかっていません。
残念ながら日韓サッカー史を著した大島、庚両氏の著作でも、朝鮮と極東大会の関りについては言及されていません。朝鮮側は極東大会をどう位置づけていたか、また日本は「朝鮮独立」的な運動をどう封じ込めたのか、謎は増えるばかりです。


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2002年1月7日~2002年3月14日

(02/3/14)
D. Jackの『Soccer』(1934)
は当日誌01/10/7付けで紹介していますが、このWMシステムの解説書を竹腰はベルリン・オリンピック前に読んでおり、「我々がDavid Jackの“Soccer”なる本で朧ろ気に概念的に掴むに過ぎず伯林到着後始めて実戦に使ったのに較ぶれば習熟の度合に於て雲泥の差と云はなければならなかった。」(「オリムピックの成果(一)」『蹴球』1937年5月号所収)と述べています。
1935年の『蹴球』ではCharles Buchanの『Football aids』(1926)の翻訳と本書の紹介が同時に掲載されていますが、前者はピラミッド・システム、後者はWMシステムの解説書で、新旧両システムが並行輸入されていたことになります。両書の著者はいずれもアーセナルのLI(1928年に入れ替わった)なんですが、両書が出版された8年の間に“戦術革命” があったわけです。Jackはウエンブレー最初のゴール(ホワイト・ホース・ファイナルとして有名な1923年のFA杯決勝開始後3分にゴール)を記録した人物でイングランド代表主将、ボルトンからアーセナルに史上最初の1万ポンド以上の移籍金で移籍した人物です。


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(02/3/8)
市田左右一
はFIFA理事で、W杯スウェーデン大会(1958年)とチリ大会(1962年)を観戦しています。郵趣関係で著名な人物で著書も数冊あります。本業は製鉄技術者で日本特殊形鋼会長。スウェーデン大会と同年に『裸の国と闘牛』(池田書店、1958)という、アメリカ、メキシコの紀行文を著していますが、サッカーには触れていません。著者略歴は以下のとおり。

 若くして父幸四郎の切手蒐集を継いだが、大部分売り飛ばす。しかし、これを骨子として各国十九世紀切手蒐集に努力する。職業は製鉄技師、争議で尼鋼を馘になり、目下水素製鉄を研究中。木下商店顧問。日本蹴球協会常任理事。全日本郵趣連盟理事長。戦後、製鉄技術研究と趣味の涵養のため数回欧米に遊ぶ。ロイヤル・フィラテリック協会会員。工学博士。

手島志郎氏の広島高校の後輩で、『イレブン』1983年1月号収載の氏の追悼文で賀川浩氏は「第三回アジア大会から東京五輪のころ、FIFA委員だった国際人・市田左右一博士のおかげで日本サッカー界の視野は大いに広がったが、広高時代の後輩・ドクター市田をサッカー界に押し込んだのは手島さんだった。」と述べています。


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(02/3/7)
サムライ竹腰
竹腰重丸は尾張藩付家老竹腰氏と関係があるのかという質問をいただきましたが、明治後男爵家になったこの竹腰家の直系でないことは戦前の華族譜で確認できます。臼杵の出身とのことなので、臼杵藩(藩主稲葉氏は竹腰氏同様美濃の土豪出身)時代を臼杵市史で調べましたが、少なくとも重臣には竹腰姓の者はいませんでした。臼杵市の電話帳でも竹腰姓の人はいないので、臼杵で長く続いた家柄ではないようです。ですが、彼のサムライぶりは有名で、岡野俊一郎は「サッカーの英雄たち クラーマー・コーチの残心と竹腰さんの“短刀”について」(『文藝春秋』1966年11月号所収)で次のように述べています。

 当時は極東オリンピックが最大の国際試合であったが、ノコさんは早くから代表選手に選ばれ、少したつとコーチをも兼ねるようになった。極東オリンピックの選手合宿の時、ノコさんが常に白鞘の短刀を持っていたことは有名である。ノコさんに言わせれば、
「当時は選手選考等で複雑な問題があったし、自分も若くして責任のある役を引受けていたので、もし自分のやったことが間違っていたら腹を切るつもりで短刀をもっていただけで、それでだらしのない選手をおどろかそうなどという考えはもっていなかったよ。しかし、短刀をもっているということが、誰からとなく選手に知れた後、確かに選手の気持が引き締まって来たのも事実だ。要は、人間が或ることを必ずやり抜こうと決意すれば、その仲間を一緒に引張って行くことは可能だということだ」
ということだが、現在の若い選手には一寸理解しにくい、一種の神話になってしまっている。

文中の極東オリンピックは1934年第10回マニラ大会のはずで、竹腰は28歳で代表監督を務めています。


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(02/3/2)
「幻のプロサッカー秘話」
と題するエッセイを日立のサッカー選手だった松永碩が『イレブン』1979年11月号に寄稿しています。1949年10月に後楽園競輪場ができた直後、松永は正力松太郎に呼び出され、以下のように言われたとのこと。

 「実はね、サッカーのプロ・チームをきみにつくってもらおうと思って呼んだんだよ。日本の野球は読売巨人軍を中心にどんどん栄えていく。だが、野球は世界的なものではない。世界に輝くプロ・サッカーをそだてるのが、このわしの願いなんだ」
 正力さんは、一気にこういうと目を輝かせて私の返事を待った。
 正力さんの構想によると、氏の肝煎りでできた後楽園の競輪場の開催の合間を利用して、プロのサッカー試合を行なう。そして、そのサッカー試合にトトカルチョを導入しようというものだった。

松永はプロをやる気はないと断ったが、日本最強チームを作ることには合意し、その後の経緯を次のように述べています。

 チーム名を“東京クラブ”とし、メンバーには香港からきていたマクドナルド(GK)、大埜(日産化学)、鈴木(立教大出)、山口(明治大出)などが中心だったと思う。
 このメンバーで第一回都市対抗(読売新聞社主催)に臨んだ。もちろん、向うところ敵なしの優勝だった。だが、プロを前提とする秘密のチームだけにそれを感じていたサッカー関係者の牽制や中傷も多かったのも事実だった。それに“団結”の基盤も脆弱だった。
 数年後、正力さんの夢も空しく、最強“東京クラブ”はあえなく空中分解してしまった。

1969年創立の読売クラブ(現東京ヴェルディ1969)以前に、名称に「東京」のつくプロ指向のチームがあったわけです。ヨーロッパには「Racing」という名のクラブがあったはずですが、競輪場をホームにしてトトカルチョとは、車券売り場をトトカルチョ売り場に活用するというアイデアでしょうか。


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(02/2/27)
大連一中時代の竹腰重丸
自らを語ることの少なかった竹腰ですが、実は大連一中校友会会長でもあり、創立55周年記念誌『柳緑花紅』(大連一中校友会、1973)に「進于技 今井、高野両先生と私の座右銘」という回想文を寄稿しています。それによると、大正8(1919)年父親の転地療養に伴って大分県臼杵中学から2年編入し、2年半在学(4年修了で山口高校に進学)しています。温暖な臼杵から大連に転地療養とは不可解ですが、他にも理由があったのかもしれません。竹腰は同校2回生で、石川姓の従兄弟が1年上にいたそうです。サッカーに関しては、次のように述べています。

 転校後にはじめて知ったフットボールについては初めの一年間程度は競技規則を知らないことや技術拙劣を仲間に責められることに対抗して上達に心掛けていたが上達につれて面白さを増し体操の時間や課外運動での競技では満足できなくなって、独りでもボールをもてあそぶ様になり、四年の秋頃にはマニアと云うに近い程度に至っていた。下校中の校長服部先生に「早く帰宅しないと両親に心配をかけますよ」と注意されたのもその頃のことであった。その頃は一般的には校外試合は許されなかったが、フットボールについては例外として「大連外人」(欧州人)とのゲームが許され、上級生(一回生)に伍して試合をしたこともあって相当のマニアになりかけて居た。

また、教員山本芳松の回想「思い出の箇条書」には、

 大連港に欧米の外国船が入港してくる度にサッカーを申し込まれ、伏見台のグラウンドで度々国際試合一手引受校となった当時竹腰重丸君はF、Wで今日も日本の重鎮である。

と述べられています。


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(02/2/26)
日本最初のセリエA観戦記
をベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三が「欧州の蹴球」『蹴球』v.4 no.6 1936.12 p.26-40に書いています。オリンピック終了後、選手団はヨーロッパ各地を見学し、サッカー・シーズン開始直前の8月28日マルセイユから帰国しますが、その後もコーチの竹腰重丸と役員の田辺五兵衛はイングランド・リーグを、竹内はセリエAを観戦しています。観戦したカードは9月13日ミラノでのアンブロシアーナ(現インテル)対トリエスティーナ(現在はセリエC1)。前シーズンの順位は4位、6位。1936年のイタリアはW杯連覇(1934年、1938年)の中間年で、ベルリン・オリンピック優勝。フランコ・チェッレッティ著『アズーリの歴史』(勁文社,2000)によれば代表チームは当時W杯不参加のイングランドとは1934年(ロンドン)で2-3、1939年(ミラノ)で2-2とほぼ互角の成績を残しています。同書によれば、オリンピック代表はセリエBのアマチュア選抜だったとのこと。
竹内はまず、オリンピックで対戦したフロシー(RW)とルカテリー(LH)がアンブロシアーナの一員であることに不審を抱いています(イタリア代表にプロが混じっていたという文献を散見しますが、おそらくこの竹内の報告によるものだと思われます。オリンピック終了後にプロ入りしてれば問題はないわけですが)。体格が良いこと、プレーがキビキビして力強いことに驚き、「二重、三重のコンビネーション水も漏らさぬと言った感じです。キックは不用には高く上げず、ロングパスとショートパスを巧く交へ概してロングパスで攻めていました。」と書いていますが、現在のセリエAの感想としてもおかしくないですね。「両軍ともツーバックで、サイドハーフはピッタリと両ウイングをマークしてゐました。それ故に守備の布陣は両SHが開いて或る場合にはFBと共に四人一列に並び敵のセンタースリーはCHと後退せる両インサイドの三人及後に二人のFBが控へて守るといふ形が多く取られました。」とも述べていて、4バックに近い守備的な布陣も現在と共通する部分がありそうです。結果はアウェーのトリエスティーナが2-1で勝ちました。


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(02/2/22)
80年代創刊のサッカー雑誌を採録誌に加えました
『サッカー・ダイジェスト』、『サッカー・ジャーナル』、『Sports graphic number』をW杯関係邦文文献目録の採録誌に加えました。ただし、『サッカー・ダイジェスト』は欠号が多く、きちんと採録できていません。早稲田大学所沢図書館がバックナンバーを揃えているようですが。『Football』誌が日本サッカー狂会会員に対して行ったアンケート調査(1981年11月)によれば、鈴木良韶氏は「継続的購読のサッカー専門誌」の項で「1・サッカーマガジン(創刊直前号から) 2.イレブン(創刊号から) 3.サッカーダイジェスト(創刊号から) 4.(日本協会の)サッカー(二号=昭和三十四年から。なお、戦前の「蹴球」一号=昭和六年から十七冊所持)、と答えられています。


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(02/2/17)
『蹴球』誌昭和10(1935)年4月号の巻頭言
は以下のようになっています。

 三月七日、大日本蹴球協会理事会は、明年八月二日から二週間に亘って伯林に於て挙行される世界オリンピック大会に我代表軍を派遣すべき決議をした。...
 我々は昨年の極東大会に失敗してゐる。古来戦勝の要訣として、「天の時、地の利、人の和」と云ふ事が云はれてゐる。昨年の失敗は正しくこれらの要訣のいづれも缺いてゐたからに外ならぬ。
 来年こそは、主観的にも客観的にも昨年の如き愚を繰り返しへしはしないし又繰り返へされることもないだらう。...

と「人の和」を欠いた極東大会の失敗を二度と繰り返さない決意が述べられています。このことがベルリンの代表選考に影響し、早稲田主体のチーム編成になりました。
続けて4月から6月にかけて第1回全日本綜合選手権大会を開催することが記されており、

 この大会に優勝したテイームは今年七八月に行はれる対満州国々際定期戦に日本代表軍として派遣され、又明年の伯林大会への派遣テイームとしての最も有力な候補者となる。

と結ばれています。この最後の部分は完全なフライングで、この段階では正式参加も未決定で、もちろん代表候補選考委員会の設置およびそのメンバーも決まっていません。結局この選手権は京城蹴球団が優勝しますが、朝鮮側から見れば、天下の大日本蹴球協会機関誌の巻頭言が食言だったことになり、選考に民族差別があったという証拠の一つにあげることができるでしょう。なお、大島裕史著『日韓キックオフ伝説』(実業之日本社、1996)、康奉雄著『知られざる日韓サッカー激闘史』(廣済堂出版,1998)の両書ともこの巻頭言には言及していません。


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(02/2/11)
『蹴球』誌掲載ベルリン・オリンピック選考経過
をアップしました。日本サッカー史のみならず、韓国サッカー史においても重要文献だとおもわれます。解説も加えていきたいと考えています。


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(02/2/4)
ベルリン・オリンピック代表選考は民族差別?
年末年始のシリーズで述べたとおり、代表候補選手は関東関西から出た選考委員会で調整がつかず、関東側により3月10日(『日本蹴球外史』では4月15日だが、これは最終選考)に発表されます。候補選手25名の内訳は(カッコ内は最終的な代表数)、

早稲田12(10)、東大4(3)、慶応4(1)、文理1(1)、関大1(0)、神戸高商1(0)、普成専門1(1)、崇実専門1(0)

地域別だと、関東21(15)、関西2(0)、朝鮮2(1)になります。オリンピック前年の全国地域代表による選手権に京城蹴球団が2連勝し、オリピック同年1月の全関西対全関東戦で全関西が勝ったにもかかわらず、関西、朝鮮が軽視されており、実際に軋轢があったことは以前に述べたとおり。関西の2名と朝鮮の1名(金永根)は最終選考前に代表候補を辞退しています。
これは、一面からみれば、大島裕史氏が『日韓キックオフ伝説』中で「いずれにしても、当時の状況から推測すれば、大日本蹴球協会においてなのか、それよりも、もっと上のレベルにおいての話なのかははっきりしないが、この選考においても、朝鮮人に対する何らかの差別もしくは排除の意識が働いていたものと思われる。」と述べているのにも、うがちすぎではという疑問符がつくことに。一発勝負のトーナメント戦や対抗戦よりも当時十分発展していたリーグ戦の戦績を重視したのは当然で、2年前の極東大会で東西五分の混成チームを組んで惨敗した経験から、早稲田を軸に弱点を他から補強する、というのが当初からの選考方針であったと思われます。これを朝鮮差別というなら、関西(あるいは関東以外のすべての地域)も差別されたことになってしまうのでは。当時の流れから見て、早稲田以外からは日本のチームでも大勢代表入りすることはありえず、意図的に朝鮮人を排除した痕跡はありません。
大島氏の著作は朝鮮対内地の対立という観点からのみ考察されており、関西対関東の対立や極東大会の結果がベルリンの選考にどのような影響を与えたかが欠落しています。これは大島氏の責任というよりは、前にも述べたように『日本サッカーのあゆみ』(日本サッカーの「正史」なので大島氏も頻繁に参照している)がことさらこの部分に触れないように編纂されたためです。事実をキチンと記述しなかったために、「ベルリンの選考=朝鮮人差別」というのが「定説」になってしまうのも、いかがなものかと考えます。


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(02/1/31)
武士と商人
竹腰重丸が夜中に武家出身の母親の遺品の真剣を見て精神統一していたのは有名なエピソードですが、新田純興の祖父も将軍家直参で「殿様」と呼ばれる身分だったとのこと。竹腰や新田の世代だと祖父の代は本物の侍で、新田家では沢庵は二切れづつ取る(一切れは「人切れ」、三切れは「身切れ」に通ずる)というような武家の作法が日常の挙措に生きていたそうです。こうした武家文化的環境下で育った人物が、ベルリン・オリンピック代表選考のような昔のゴタゴタを「恥」と考え、「黙して語らず」という態度に終始したとしても不思議ではありません。
一方、田辺五兵衛(田辺家は江戸時代から続く道修町の薬種商)や川本泰三は大阪の商人文化的環境下で育った人物であり、頼まれれば本音で語るのは、サービス精神旺盛な大阪人として、これまた当然な態度であったともいえましょう。
ベルリン・オリンピック代表選考過程については、田辺や川本のような関西側から証言があり、東京側からない(私が知らないだけかもしれませんが)のは、1)関西側に恨みが残った、2)関西側がフリーな立場だったのに、東京側は協会の要職に就いていた人がいた、以外に、3)現在よりずっと大きかったはずの武士と商人という東西の文化的差異が影響したのかもしれない、と『埋み火はまた燃える』を読んで考えました。

『蹴球行進曲』(原島好文作詞、大塚楠男作曲、1939年)のメロディ・ラインを 日本代表ワールドカップ挑戦の記録というサイトのBGMで聞くことができます。歌詞と楽譜は『日本サッカーのあゆみ』p.103にあります。


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(02/1/29)
新田純興氏の伝記
新田純興氏(1897~1984)は大日本蹴球協会創立時から協会に関係し、『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心となった人物です。氏の長男新田純弘氏の著書『埋み火はまた燃える 新田一族銘々伝』(さきたま出版会,2000)のp.278-291が純興氏の伝記です。新田家は新田義貞の末裔だそうです。古河市のサッカーは戦後古河一高にサッカー部を創設した純興氏に始まるとのこと。なお、純弘氏はW杯イングランド大会(1966年)を観戦した数少ない日本人の一人で、『サッカー』誌に観戦記を書いています(W杯関係邦文文献目録参照)。


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(02/1/24)
JFAの“クーデター”(2)
昭和2(1927)年上海で開催された極東大会対フィリピン戦で国際試合に初勝利、昭和4(1929)年FIFA加盟、昭和5(1930)年東京で開催された極東大会には初優勝しますが、その原動力となったのは鈴木重義(早稲田)や竹腰重丸(東大)のような大学生(またはそのOB)です。たとえば、昭和5年の極東大会対中国戦のイレブンは東大8、早稲田1、関学2名であり、日本代表=大学選抜チームになっています。こうした事実を背景に、昭和4(1929)年の大日本蹴球協会の理事改選に際して、大学勢による意図的な協会支配が図られたことが、「日本のサッカー古代史(下)」(『サッカー』no.15 1962所収)という座談会で語られています。

新田(純興):「このあと協会の改造がありますね。日本サッカーは高等師範や青山、豊島の師範系の人がリードして来たんだが、大学の関係者が理事に多数送りこまれるようになっている。」
鈴木(重義):「昭和四年の改選だね。今や日本のサッカーが国際蹴球連盟(FIFA)に加盟して世界的に伸びるためには、ぜひとも大学の連中が出なければいかん。大学系の人たちが基幹となって全国的にまとめていこうといううんでやったんですよ。」
野村(正二郎):「僕らはそのころのことしか知らないんだ。今までの古代史はどうもネ(笑い)」
鈴木:「それで各大学の主だった人々が私の家に集まって、どうも協会はこのままではいかん。大改造をするか、つぶしてしまうかという動きが出ましてネ。私が遅く家に帰ると私の家は各大学の主だった人がもういっぱいに集まっていて今度の(昭和四年)改選期にはぜひ何とかしたいと協議中だった。そのころ大学出で協会の役員をしていたのは野津さん、岸本武夫さん、慶応の千野正人さんと僕。それが並び大名的存在だった地方代表の理事にも呼びかけて、従来のような白紙委任や、前回通りという投票ではなく、新らたに堂々と投票してもらいたいという運動をやったんだ。理事会の席上での野津さんとのチームワークも成功して、われわれの提案が採用された。その結果われわれの申し合わせた人達は最下点ではあったが、とにかく理事に就任した。その顔振れは、中島道雄、井染道夫、峯岸春雄、竹腰重丸の四人だった。その時の最高点は山田の午郎さん。」
新田:「しかも一年ばかりすると、その午郎さんを、運動部担当の新聞記者を理事にしておくのは具合が悪いといって辞めてもらったりしている。他の理事が辞めた時に例をみない記念品贈呈なんかをやってるところをみると、よっぽど苦心したんだネ。(笑い)」

中島、竹越は東大、井染は明大、峯岸は農大OB,山田は青山師範OBで朝日新聞記者。この座談会の司会は牛木素吉郎氏。歴代天皇杯(全日本選手権)優勝チームや国際試合の日本代表の構成をみれば、日本サッカーの主流は1)高等師範・師範(戦後すべて大学になった)→2)大学→3)社会人→4)プロ、と替わっていることがわかりますが、JFAの役員人事もそれを反映しているといえそうです。


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(02/1/23)
JFAの“クーデター”(1)
1/21付けの70年代の11大ニュースの中に「日本サッカー協会のクーデター」がありますが、その書き出しは、

 「一九七六年四月二日の日本サッカー協会評議員会で、日本サッカーの総元締めである日本サッカー協会に“政変”があった。
 野津謙会長、小野卓爾専務理事に代わって財界から平井富三郎会長が就任、日本代表チームの監督をやめた長沼健氏が専務理事になった。
 この役員交代は一種のクーデターであり、戦前派の旧勢力から、戦後派の若手が権力を奪った形だった。
 また、一九二一年の大日本蹴球協会誕生以来、半世紀以上も続いてきた大学リーグ中心の協会が、日本リーグを中心とする社会人チームの関係者の手に移ったものと、みることもできる。」

以下その説明が続きますが、牛木は、小野をクラマー氏の提言したサッカー界の近代化、民主化への「旧体制派」(最近の言葉でいうと“抵抗勢力”ですね)とみなしており、長沼、平木らコーチ出身者が「たまりかねて旧体制打破に立ち上がったのが、この政変だった」と書いています。
それはともかく、サッカー界の主流が大学から社会人に代わったことがこの人事に反映している、と指摘している点が興味深いですね。実は、大学の前に高等師範・師範が中心だった時代があり、昭和4(1929)年にもやはり “クーデター”があったという文献があるのですが、その紹介は次回に。

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(02/1/22)
幻の竹腰重丸伝
本日誌で何度もとりあげているように、竹腰重丸は日本サッカー史上のキー・パーソンで、伝記がないのが不思議なくらいの人物です。実際に伝記刊行の計画があったことを牛木素吉郎氏が『サッカー・マガジン』1980年12月10日号のコラム「ビバ!!サッカー!!」に書いています。

「...竹腰さんは、自分の持っていたサッカーの写真のほとんど全部を五年ほど前に、サッカー・マガジンの当時の編集長だった堀内征一氏(現ベースボール・マガジン社出版局長)に預けた。
 「自分に万一のことがあったとき日本のサッカー史にとって貴重なものになるかもしれない写真が散りぢりになってはいけない」という気持だったと思う。
 その話を聞いて、ぼくは堀内氏といっしょに、駒込の竹腰さんの自宅に、おうかがいして「日本のサッカーの歴史に残るように、竹腰さんにぜひとも本を一冊書いていただきたい」と、お願いしたことがある。その本の中で、貴重な写真も印刷して残しておきたい、というつもりだった。
 ベストセラーになるような性質の本ではないから、商業出版が無理だったら、東大OBやサッカー関係者の寄付を集めて、私費出版してもいいと考えていた。
 手はじめに「本郷の旅館の一室でも借りて、写真を部屋いっぱいに並べて分類しようや」と話していたのだが、ノコさんが病に倒れたので、回復したら、すぐ始めようと思いながら、そのままになってしまった。
 いまからでも、貴重な資料や写真を集めて、その業績を後世に残すようにしなければならないと思うが、生前にできなかったことが悔やまれてならない。」

これが実現していてくれてたら、日本サッカー史の必読文献になっていたはずですが。ひょっとしたら、写真はまだベースボール・マガジン社かどこかに残っているのかも。

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(02/1/21)
1970年代の11大ニュース
1/17付けで参照した牛木素吉郎による1970年代の11大ニュースとは、1)杉山、釜本が代表チームから退く、2)日本代表、4度の予選に勝てず、3)日本サッカー協会のクーデター、4)天皇杯の改革-オープン制に、5)日本リーグの行きづまり、6)奥寺康彦選手のプロ入り、7)読売クラブの登場、8)高校選手権大会のブーム、9)国際交流の拡大、10)ペレ・サヨナラ・ゲームの成功、11)ワールドカップのテレビ中継。
9)をJFAコーチング・スクールの開始にしてもよかったかも。3)のクーデターとは穏やかではありませんが、これについては後日また。10)はひとつの転機で、約8千万円といわれていたJFAの債務を解消し、大手広告代理店(このときは電通)との提携が始まり、商業化が一段と進みます。


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(02/1/20)
Dixie Deanの死
『サッカー・マガジン』1980年4月25日号に元エバートンの名CFデキシー・ディーンの死亡記事が載っています。彼は1925年のルール改正後のゴール・ゲッター黄金時代の象徴的存在で1927-8年度リーグ戦39試合(記事では29試合になってるがこれは誤り)で60ゴールという1シーズン最多得点の不滅の大記録保持者です。亡くなったのはなんとエバートンの本拠グッディソン・パークで試合観戦中、しかも相手は因縁のリヴァプール・ダービー(Mersey Derby)のライバル、リヴァプール。死因は心臓発作で享年73歳。ベルリン・オリンピック後に竹越重丸と田辺五兵衛がロンドンのアーセナル戦で彼のプレーをナマで見ています。
エバートン・ファンが作っているToffeeWeb に伝記と記録があります。それによると、本名はWilliam Ralph Dean、Dixieというあだ名は彼の髪が黒人のような縮れ毛だったことに由来するとのことで、本人は嫌っていたとのこと。リーグ戦12試合連続ゴールというこれまた不滅の記録も持っています。ちなみに、エバートンの戦後の最多得点はリネカーの30ゴールで、戦後では傑出しています。昨年度のチーム最多得点はキャンベルの9ゴールです。


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(02/1/17)
日本サッカーの70年代
W杯関係邦文文献目録も1970年代が終わるところまでこぎつけましたが、1980年からは『サッカー・ダイジェスト』が加わるのでさらにペースダウンしそうです。1970年代は、代表はW杯、オリンピックとも予選敗退続き(もちろん80年代も)なんですが、一応『サッカー・マガジン』、『イレブン』の商業誌2誌があり、『マガジン』は月刊誌から隔週刊誌に刊行頻度が増え、その上本誌とは別の巻号をもつ(すなわち別雑誌である)『別冊サッカー・マガジン』も刊行されています。日本リーグ(JSL)も人気下降し、入場者数が激減しているのに、商業サッカー専門誌はそれなりにがんばっています。もちろん、その理由はサッカー人口の底辺拡大によるもので、高校選手権参加校は ’70年1,500校(高校野球は2,547校)から’78年3,050校(同3,074校)と70年代の間に高校サッカーは高校野球と少なくとも参加校数では肩を並べるに至ります。反面、日本リーグの総入場者数は’70の301,800人から’78の191,900人(’77は159,650人)と激減し、サッカー人気の急下降ぶりを示しています。(以上、数値は牛木素吉郎「70年代の日本サッカー11大ニュースを追う」『サッカー・マガジン』(1979年12月10日号)による)


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(02/1/12)
WMシステム
といっても私がサッカーを見始めたころはすでにトップ・チームは4-2-4から4-3-3が主流になっており、過去のシステムでした。何度も述べているように、WMシステムは1925年のオフサイド・ルール改正を受けてアーセナルのチャップマン監督が1920年代後半に始めたシステムで、FWをW形、バックスをM形に配したものです。それまでは2FB、3HB、5FWのシステムで、5FWはほぼ直線に布陣し、3HBの真ん中のCHは相手CFのマークから今で言うトップ下までをカバーするという驚異的な運動量と技能を要求されるポジションでした。竹腰重丸はこの時代の代表的な名CHでした。WMシステムはCHをFBに下げて相手CFマーク専門(ストッパー)にし、FWのうちインナー2人(昔のポジションをあらわす背番号システムでは8番と10番)をトップ下の位置に下げたものです。10番がトップ下の代名詞になったのはこのためです。CFには長身でしかもインナーが下がって空いたスペースを活用できるような特に優れた技能の持ち主が起用されるようになりました。
ところで昨日引用した竹腰の文章中に「後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナー」とありますが、これを見ると、オランダ領東インドはインナーをトップ下に置いていたようです。1934年頃にはWMシステムはヨーロッパ中に普及し(この年神戸一中が対戦したイタリアの軍艦チームは3バック・システムだったと大谷四郎が述べています)、オランダ領東インドは宗主国の影響で一足早く新システムを採用していたのかもしれません。戦前の日本ではWMシステムを3バック・システムとしてとらえ、FWの戦術をあまり重要視していないようにも思えますが、空いたスペースを活用できるようなCFは人材不足で、攻撃はゴール前の混戦に殺到するいわゆる百姓一揆的な戦法がとられたことによるのでしょう。


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(02/1/11)
戦術の転換期だった昭和9(1934)年極東大会
昭和5(1930)年極東大会初優勝、昭和11(1936)年ベルリン・オリンピック対スウェーデン戦勝利にはさまれて、戦績も1勝(対フィリピン)2敗(対中華民国、オランダ領東インド)とふるわなかった昭和9年の極東大会は『日本サッカーのあゆみ』でもほとんど無視されています。オランダ領東インドには1-7で惨敗していますが、この試合の戦術史的意義を当時代表監督だった竹腰重丸はその著書『サッカー』(旺文社、1956)で以下のように述べています。

 「昭和九年(一九三四年)五月、マニラでの第十回極東選手権競技大会における蘭領インド(現在は地域としてはインドネシア)との試合で大量七点を失ったが、これらの失点は蘭印がその長身のセンター・フォワードに後方から長蹴を送り、ボールの飛ぶ間に後方から鋭くダッシュしてくるレフト・インナーにヘッディングで軽く落し、そのレフト・インナーの強蹴で得点という簡単な経過をたどったのが過半であったが、これはそのセンター・フォワードを緊密にマークしない体制がそのようにさせたのであった。」

つまり、2FBシステムでマークが甘かったCFのポスト・プレーにやられたということで、この時点で2FBシステムの限界を露呈していたわけですね。ちなみに、オランダ領東インドは戦前東アジアからW杯本大会に出場した唯一の国(地域)です。


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(02/1/7)
新刊の日本サッカー史関連書2点
1)田中孝一著『サッカーの物語 一個のボールにも熱いドラマがある』(KKベストセラーズ,2001)。
著者の『GoaL』誌連載をまとめたもの。目次をあげると、「国立競技場物語」、「クラマーのコーチング・スクール」、「サッカーボール伝説」、「天皇杯変遷史」、「オペルのスポンサー戦略」、「冬の風物詩「全国高校選手権」」、「三菱ダイヤモンドサッカーの功績」、「イエローカード、レッドカード変遷史」、「メキシコ五輪予選リーグ・炎の韓国戦」、「キャノン、スポーツカメラNo.1への挑戦」、「名門・古河電工物語」、「幻の強豪校「東京朝鮮高校」」、「ジュビロ磐田スタジアムの秘密」、「アシックスの足跡と未来」、「一流プレーヤーの原点「フットサル」」、「日本最古のクラブチーム「東京蹴球団」」、「もう一つの国立競技場-西が丘競技場」。以上からわかるように、サッカー選手、チームだけでなく、競技場、用具とそのメーカー、スポンサーシップ、メディアなどサッカー(産業)の周辺に目配せをきかせたユニークなサッカー史です。東京蹴球団は今も続いているんですね。アストラ倶楽部や鯉城蹴球団はどうなんでしょうか。

2)賀川浩ほか著『サッカー日本代表世界への挑戦 1936-2002』(新紀元社,2002)。
その名のとおり日本代表のオリンピック・W杯(予選を含む)戦史。執筆者には『サッカーマガジン』コラムニストが顔を並べています。写真豊富。年末年始にかけて連載したベルリン・オリンピック代表選考に関しては賀川が、

 「早大が主力となったのは、個人的にも有能であったのと、極東大会での昭和5年の成功と昭和7年の東西混成チームの失敗からといえる。」

と4行ほど触れています。「極東大会での昭和5年の成功と昭和7年の東西混成チームの失敗」を知りたくて、『日本サッカーのあゆみ』を読んでもあまり得るところはないはずです。そのあたりを埋める必要が。本日購入したばかりなののでまだ少ししか読んでません。読了したらもう少し詳しく紹介を。

本日代休休日で秩父宮記念スポーツ図書館に行ったら14日まで休館とのこと。高校サッカー準決勝を観戦しましたが、中盤省略の国見と攻撃は片桐頼みの岐阜工が決勝へ進出。


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2001年11月~2002年1月4日

(02/1/4)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(6)
ベルリン・オリンピックの代表選考でのゴタゴタをふまえて、オリンピック後大日本蹴球協会は国際大会ごとに代表を選抜するのではなく、代表候補を常にプールしておいて随時強化合宿を行う「常備軍」(この用語は戦後もたびたび使用されている)方式に転換します。残念ながら、新方式が定着し、効果をあげるまもなく太平洋戦争に突入してしまいます。
『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)を読み直すと、ベルリン・オリンピックの記述が意外に淡々といているのに驚きます。昭和9年の極東大会には本文中で言及していないだけでなく、同大会からベルリン・オリンピックにかけての代表選考経過とその結果に関してまったく触れていません。1970年代には当時の関係者の多くがまだ健在だったうえ、協会主事(実務上の責任者)でベルリン代表監督だった鈴木重義と関西蹴球協会会長だった田辺五兵衛という当事者中の当事者が2人とも編纂メンバーだったので、この件を「詳述」するのは差し障りがあったのでしょう。編集後記の「全日本的に公平な記述にまとめ上げる」というのが意味深長です。なお、本来ならこの件に関する著述があってもおかしくない関西出身・在住のサッカー・ジャーナリスト大谷四郎は大谷一二の実弟、賀川浩は大谷一二の神戸一中、神戸高商の後輩で、この件を直接執筆するには両氏とも一方の当事者との距離が近すぎる存在です。賀川は早稲田OBの川本泰三へのインタビューという間接的な方法でこの件の記録を残しています。


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(02/1/3)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(5)
関西側が東西対抗選抜選手権の結果にこだわったのは、オリンピックの2年前、昭和9(1934)年5月にマニラで開催された第10回極東大会はこの試合結果で代表を選考したからです。このときは昭和9年1月に2試合して、第1戦:全関東5-3全関西(南甲子園)、第2戦:全関西6-1全関東(神宮)と、東西がアウェーで勝って1勝1敗で、日本代表は東西ほぼ同数ということになりました(早大7、関学6、慶大2、京大1、神高商1)。ところが、この東西混成即製代表はまとまりがなく、本番でもオランダ領インドに1-7で大敗し、1勝2敗に終わります。川本はこのときも代表に選出されています。

川本:「関東は早大が主力、関西は学校にこだわらずOBもだいぶいたかナ。なかなかいいメンバーだった。1勝1敗だから、関西、関東同数で代表をつくろう、ということになって、マニラ行きのチームができた。関西はOBが多いし、関東は学生だし、年齢も違ってなんらつながりのないチームだった。国内の合宿でもキャプテンのゴットン(後藤靱雄氏)ら関西の連中は、門限に帰ってこず、竹腰監督が選手を集めて一説ぶち、泣き出すなどといった一幕もあった。おまけにこの大会には満州国の参加問題がからんで、右翼が日本選手団の参加を妨害したりした。」

一面で若い竹腰監督が関西のオッサンOB選手を御しきれなかったようでもありますが、他方で同じくこのときの代表選手だった松丸貞一(慶応)は「成城の人たち」『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)所収で次のように述べています。

 「監督は竹腰ノコさんである。ところが彼は当時かなりの国粋主義者で、満州国承認の運動に半分以上の精力を尽していた。だから、合宿にも参加できず、満州に出張し、選手強化に全力を集中できなかった。」

極東大会参加国・地域の中華民国、フィリピン(アメリカ領)、東インド(オランダ領)は満州国を承認するはずもなく、当然参加を認めません。右翼は極東大会ボイコットを主張し、参加を妨害しにかかっているのに、監督の竹腰(大連一中出身)が満州国承認運動のため合宿にろくに顔を出さないというのでは、仕事を放り出して関西からわざわざ合宿に参加している社会人OB選手が「アホらしゅうてやってられん」と思うのもまた無理からぬところかもしれません。
いずれにせよ、この極東大会の監督、コーチ:鈴木重義、竹腰重丸、工藤孝一はそのままベルリン・オリンピックの監督、コーチになり、このときの経験に懲りて、次はもっと統御しやすいチームを編成しようと考えたに違いありません。


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(02/1/2)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(4)
関東側から強引に代表候補が発表されたとはいうものの、関西を代表するFW(RW)の大谷一二(神戸一中→神戸高商)が選に漏れたのでまたひと騒動。

賀川:「関西からは何人か代表にはいったが、大谷(一二)さんがはいらなかったので、関西側がおこったという話でした。」
川本:「関大の上吉川(かみよしかわ)、神戸高商の小橋...といったメンバーもはいっていたのだが、大谷が行かないというので辞退した。竹腰、工藤(孝一)、浜田諭吉さんたちが選考委員だったと憶えている。大谷がいかん、という理由は昭和9年のマニラで、中国との試合で、みんなの前で、相手が足をけりに来たとき逃げた、というんだ。」
賀川:「大谷一二さんは、そのころ関西を代表する名選手でしたから...。<以下略>」
川本:「選考委員会では、Mさんが浜田さんに主張させたんだとか聞いたがネ。ボクは選手でそういう協会側のことは直接知らなかったが、チームという点からみてもおかしいんだ。選考されたメンバーはCFがボクと松永(文理大)、高橋(東大)と3人もいてウイングがいない。これでは試合にこまる。大谷をつれていってほしいとノコさん(註:竹越)にも、いったんだが...。スウェーデン戦は、その松永が右ウイングをやって1点を入れたがネ。大谷がおればまた違ったゲームができただろう。」

というわけで、関西側が辞退(ボイコット?)したこともあり、 ベルリン・オリンピック代表16名は、早稲田10名、東大3名、東京文理大1名、慶応1名、京城蹴球団(普成専門)1名、監督:鈴木重義(早稲田)、コーチ:竹腰重丸(東大)、工藤孝一(早稲田)と、早稲田-東大ラインで固められ、関西の大学からの選抜は皆無です(2年前の極東大会代表17名では関東9名、関西8名でほぼ同数)。このため上記で川本が述べているRWだけでなく、他のポジションも構成がイビツになってしまっています(辞退した関大の上吉川はGK)。

川本:「ボクも早稲田だが、一選手の立ち場で、やはりああゆう選考はおかしいと思った。だから結局、オリンピックでは、実際にゲームに全然出ないプレーヤーもつれていったんだ。ゴールキーパーも早稲田から二人もつれていったしね。」

この問題で東西対立は頂点に達し、関西協会は日本協会と袂を分かつべしという意見まで出たそうです。

賀川:「このとき関西協会は、日本協会から脱退しよう、という意見も出たようですネ。それを田辺さんがなんとか、まとめた...この話は田辺さんが亡くなる前にもよく話しておられたし、戦後の東西対抗などで西軍が集まると、後藤さんはじめ、大先輩たちから、その都度、聞かされたものですが...」

私の記憶では、田辺五兵衛はこのいきさつを「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』所収(神戸一中、神戸高校のサッカー部史、大谷一二は神戸一中OB、本書を神戸市立中央図書館で閲覧した)に書いているはずですが、残念ながらコピーをとってこなかったので、これ以上詳しいことはわかりません。


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(02/1/1)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(3)
この当時の代表チームは大学主体(社会人チームはなく、社会人は早稲田WMWや慶応BRBのような大学の現役・OB混成チームでプレーした)でした。昭和10年は早稲田が関東大学リーグで5勝0敗(早慶戦は8-2で圧勝)、東西優勝校争覇試合で関学に12-2で圧勝(1925年のルール改正後WMシステムが定着するまでイギリスでもこのようなハイスコア試合が多かった)と図抜けた存在であり、このままなら代表チームが早稲田中心で編成されても少なくとも内地のチームからは異議はでなかったでしょう。ところが最後の東西対抗選抜選手権で全関西が全関東(早稲田主体)に勝ったので、関西ではこの全関西チームを中心に代表が編成されると考えたようです。川本泰三によれば、

 「うん、こんなことがあった。試合に負けた東軍は解散し、ボクは大阪の家に帰っていた。夜中にゴットン(註:後藤靱雄、関学OB)から電話がかかってきた。“関西が勝ったから、オリンピックも関西が代表でいくんや。ただ、お前(川本)は関西にいれたる。いま、どこやらで飲んでいる。右近(徳太郎)も来ているから、お前も出てこい”というんだ。行きはしなかったがネ。」

後藤は昭和9(1934)年の第10回極東大会(マニラ)の代表主将。全関西が日本代表になるが、川本(市岡中→早稲田)や右近(神戸一中→慶応)のような関東に在籍していても関西出身者なら入れてやってもいいぞ、という気分だったようです。
『日本蹴球外史』によれば、昭和11年2月以降に関東、関西から選ばれた選考委員5名で協議したが意見一致せず、結局関東側委員3名によって候補選手を決定し、4月15日(註:候補選手発表は3月10日)に一方的に発表してしまいます。これに対して、関西蹴球協会は3月29日に協会の選手決定の不当を訴えた声明文を各報道機関に送付したとのこと。サッカーとは関係ありませんが、2月26日には二・二六事件が発生し、代表選考で揉めていたころは国内は騒然としていたはずです。


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(01/12/31)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(2)
代表選考の参考となったと考えられる重要な四つの大会・試合が昭和10~11(1935~36)年にかけて行われています。年月順に列記すると、

1.全日本綜合選手権大会 昭和10年6月(神宮) オリンピック強化対策としてこの年に創設された地区対抗トーナメント戦。決勝は朝鮮代表京城蹴球団が関東代表東京文理大(東京高師の後身)を6-1の大差で破って優勝。

2.明治神宮体育大会兼全国地方対抗選手権大会 昭和10年10月(神宮) 現在の天皇杯の前身でやはり地区対抗トーナメント戦。この大会も京城蹴球団が関東代表慶応BRBを2-0で破って優勝。

3.東西優勝校争覇試合 昭和10年12月(神宮) 関東大学リーグ優勝校早稲田と関西大学リーグ優勝校関学が対戦し、早稲田が12-2で圧勝。ちなみに、この年が第7回だが過去6回は関東の5勝1分、早稲田は第5回対京大5-2、第6回対京大6-0、いずれも完勝で3連覇。

4.東西対抗選抜選手権試合 昭和11年1月(南甲子園) 関東、関西大学大学リーグ選抜チームによる対抗戦。全関西が全関東(といっても東大の竹内を除いて全員早稲田)を3-2で破る。ちなみに、これ以前は関東の3勝2敗。

実質的な全日本選手権である1、2の両方に優勝したのは京城蹴球団であり、朝鮮サイドから見れば、代表チームが京城蹴球団を中心に編成されるべきだと考えられたのは無理からぬところでしょう(実際には京城蹴球団から代表入りしたのは金容植1人だけ)。この点に関しては、植民地時代の朝鮮サッカー史を詳しく紹介した本がいくつか出ていますので、ここではこれ以上触れません。問題は3、4で、東西が1勝1敗になり、関東、関西ともにこの結果を都合よく解釈したことに... 


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(01/12/30)
ベルリン・オリンピック代表の選考をめぐって(1)
古今東西を問わず代表選考というのはスンナリとはいかず、おそらく来年の最終選考も異論百出するでしょう。ところで、日本代表選考史上最も紛糾したのは、あまり知られていないことですが、昭和11(1936)年のベルリン・オリンピック ではないでしょうか。正月休みで図書館が閉まっており、文献目録が先に進まないので、冬休みスペシャルとして(笑)当時の選考過程を記してみたいと思います。まずは参考文献から。
1.日本蹴球協会 『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)
2.竹内至 『日本蹴球外史』(竹内至,1991)
3.川本泰三 「日本サッカーの歴史は関東、関西の対立で始まった」『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.168-169
これ以外に田辺五兵衛「神戸一中のサッカー」『ボールを蹴って50年』(神中サッカークラブ,1966)所収があるのですが、残念ながらコピーをとってこなかったので使えません。
1は協会による日本サッカー「正史」。2の著者は東京高師附中、旧制新潟高校、京大卒、新潟高校では府立五中から進学した池島信平(文藝春秋の名編集者で、後同社社長)とともに蹴球部を創設し、インターハイ出場。特に、戦前の代表選考法の変遷について詳しく記されています。3はインタビューでインタビューアーは賀川浩。川本は大阪の市岡中学から早稲田に進学、ベルリン・オリンピック代表のCF。ベルリン代表選考のかなりつっこんだ裏話が記されています。
話は変わりますが、『イレブン』は創刊当初から川本泰三の回顧談(インタビューアーは賀川浩、大谷四郎)をかなり長期にわたって連載しています。関西在住のサッカー・ジャーナリスト賀川、大谷は同じく関西在住のサッカー界OB川本や田辺の回顧談を『マガジン』や『イレブン』のような商業誌に掲載してくれています(多分雑誌編集部の企画ではなく、賀川や大谷の企画では)。これらを読むと、なぜ東京在住のサッカー・ジャーナリストは野津謙、竹腰重丸のような人物に回顧談をインタビューしなかったのか不思議に思います。野津(会長)、竹腰(理事長)と協会の要職にある人物はウッカリしたことはしゃべれなかったかもしれませんが。


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(01/12/13)
世界との接点ベルリン・オリンピック(1936)
前回『日本サッカーのあゆみ』の不満点をのべましたが、もうひとつふたつ。 ベルリン・オリンピック の対スウェーデン戦勝利は戦前日本サッカー史のハイライトですが、この大会で当時世界最先端の戦術だった3バック(WM)システムに接します。1925年にサッカー史上最も大きなルール改正であるオフサイドの緩和(3人未満→2人未満)があり、その対応としてアーセナルのチャップマン監督が生み出したWMシステムは、1958年ブラジルが4-2-4で世界制覇するまで約30年間世界標準の戦術となります。WMシステムがどのようにして生まれたか、そもそも1925年のルール改正はなぜ必要だったかという世界サッカー史の流れが説明されてなくて、日本サッカー史の流れからいきなり3バックの話になってもイマイチピンとこないわけなんですね。これを知るための好著がロジャー・マクドナルド著『写真で見るサッカーの歴史』(ベースボール・マガジン社、1982)です。私の目からウロコがポトリ。通史は単独著者が書くべきだという見本です。
ところで、3バック・システムがなぜルール改正直後に日本で生まれなかったのか、WMシステムが伝わったにしても大航海時代なみのスピードだったのかについては竹腰重丸が『サッカー』(旺文社,1956)に書いています。竹腰はベルリン・オリンピック代表コーチで、オリンピック後ロンドンに渡り、ハイベリーでWMシステムの本家アーセナル対エバートンという当時の黄金カードを観戦しています。ついでにいうと、竹腰は1952年のヘルシンキ・オリンピックでマジック・マジャールといわれた全盛時代のハンガリーも観ており、1930年代のアーセナルとマジック・マジャールいう伝説上のチームをナマで観ているという信じられない観戦歴の持ち主です。
また、ベルリンの代表選考は、植民地朝鮮対内地、関西対関東、でかなりゴタゴタし、特に後者についてはリオ対サンパウロで猛烈な綱引きがあるというセレソン顔負け(関西協会が日本協会と袂を分かつ寸前までいった)の裏話があるんですが(これは協会の「正史」には載るはずがない)、それはまた別の機会に。


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(01/12/9)
日本サッカー史のサイト
といえば現役最長老のサッカー・ジャーナリスト賀川浩氏の文章が“FC JAPAN”というサイトに載っていますが、福岡在住のNさんが10月から office2002というサイトで日本サッカー史を連載しているのを見つけました。連絡を差し上げたところ、向こうもこちらを見ているとのこと。私も日本サッカー史に関心がありますが、自分が書く能力も気力もないので、やる気のある人に協力したいと思っています。なにしろ、こちらは資料集めの環境には恵まれてますからね(本サイトに何らかの価値があるとすれば、私の能力ではなく100%環境によるものです)。
ところで、新規に日本サッカー通史を書くということは、つまるところ日本協会による正史『日本サッカーの歩み』(講談社,1974)をどう超えるか、ということにつきると思います。この本はすでに戦前から日本サッカー史に関心があった当時の日本サッカー界の長老新田純興を中心に、鈴木重義(早稲田サッカーの始祖、ベルリン五輪代表監督)、多和健雄(東京教育大教授、協会普及部長としてサッカーの義務教育課程化に貢献)、朝日新聞記者の中条一雄、大谷四郎、そして田辺五兵衛が編集実務をしたとのこと。編集後記に「全日本的公平を期し」とあるように、中条(旧制広島高校OB)が広島、田辺(関西協会長)と大谷(神戸一中OB)が関西をと、地域的バランスを重視した人選だったようです。反面、「船頭多くして...」という感じで、まとまりを欠いた仕上がりになっています。通史はやっぱり単独著者がマクロ的な視点から一貫的に記述したほうがよいのでは、と思います。
それと、この本は戦前の植民地朝鮮(現在の天皇杯や高校選手権に相当する大会に優勝チームを出している)の部分が弱いように思いますが、この点は、W杯の日韓共催もあって、最近植民地朝鮮時代のサッカー史に関する本がいくつか出ていて、それらの成果をとりこめば、もっと広い視野から見た「日本」サッカー史を書くことができるかもしれません。


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(01/12/3)
日本サッカー狂会
は日本代表サポーターの先駆で、その会報『Football』には毎年「日本サッカー狂会活動出席者一覧表」が掲載されています。横に会員氏名とその居住地が、縦に過去1年間の日本代表の試合日程(場所)が、一覧表になっていて出席者には○印がついています。自分が住んでいる近くで代表の試合があっても観戦にいかなければ一目瞭然で、「狂会員は、「フットボール」誌の単なる購読者であってはならない。気持はあっても、仕事や試験や病気、サッカーにおける立場(取材等)などの関係で応援に行けない場合はあるだろう。しかし、できるかぎり、悪条件を乗りこえて応援活動に参加することが“狂会員”であるはずである。」(池原謙一郎  「応援活動にもっと多くの参加を!」 『Football』 no.42 1977.8)と叱咤されることになります。


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(01/11/30)
メール・デコーダ
を遅まきながら設置しました。お便りをいただければさいわいです。
大会抽選会が明日に迫りましたが、大枠はすでに決まっているというウワサもあります。ジュール・リメ著『ワールドカップの回想』(ベースボール・マガジン社、1986)を読むと、FIFAは徹底した商売人で(この自伝にはワールドカップ各試合の収益まで記載されている)、アマチュアリズムを「錠前をばらして修理を楽しんだ哀れなルイ16世や、アルフォンス・ドーデの小説に出てくる詩を作る田舎の郡長のような人たちを、アマチュアと呼ぶわけである」と容赦なく裁断しています。この本を読むと、大会を盛り上げるためには、多少の作為があっても不思議ではないです。少なくともIOCとFIFAを同列に扱うのはナンセンスというものです。


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(01/11/24)
大宅壮一文庫
に行ってみました。大宅壮一文庫雑誌記事索引検索システム(OMIS)というオンライン・検索システムを検索してみると、
1.体系的に件名検索できた記事数は、サッカー一般(2,399件)、女子サッカー(99件)、高校サッカー(128件)、Jリーグ(2,564件)、ワールド・カップ・サッカー(568件)、フランス大会(1998)(1,409件)、日韓共同大会(2002)(548件)でした。
2.予想通り、人名件名しかついていない記事がかなりあるので、人名からも検索する必要があります。ちなみに、トルシエ,フィリップ(214件)、中田,英寿(921件)でした。
3.『サッカー・マガジン』は最近のもの(1998.1.14~)は採録されていて、記事総数は1,964件。これ以外の専門誌は採録されていないようです。『Number』は1980.8.05~採録になっていて、記事総数は17,809件。

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(01/11/21)
サッカー専門誌以外のW杯関係記事
大宅壮一文庫は週刊誌、女性誌、総合月刊誌などから硬軟さまざまの記事を索引しており、世相を写す鏡ともいうべき存在です。明治時代から1995年までの記事索引が『大宅壮一文庫雑誌記事索引総目録』として冊子で刊行されています。
W杯関係記事は、~1984年分(追録を含む)が10件、1985~87年分が21件。1988~95年分からは「ワールド・カップ・サッカー」という件名が新設されていて(それまでは「サッカー」の中からピックアップしなければならない)、510件。なお、人名編が別にあるので、「ペレ」や「マラドーナ」などで検索すれば、多分さらに多くのW杯関係雑誌記事を見つけることができるでしょう。
1988~2000年の記事索引はCD-ROMでも刊行されています。「ワールド・カップ・サッカー」がさらに「フランス大会(1998)」、「日韓共同大会(2002)」に細分されていて、W杯関係記事の激増ぶりを示しています。
私が大宅文庫索引中で見つけた最初のW杯関係記事は,1974年3月発行の『新評』(既に廃刊)に牛木素吉郎が書いた「ワールドサッカー誘致論 西ドイツのワールドサッカー中継権利金が170万ドル(5億1千万円)」です。


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(01/11/18)
山形vs仙台
のJ1昇格争いは仙台の勝利に終りましたが、東北地方で大正時代初期に中学校でサッカーをしていたのは鶴岡の庄内中学と仙台の仙台一中の2校のみでした。大正2年に庄内中学を卒業したドイツ文学者相良守峯(岩波文庫に収録されているゲーテの著作の翻訳者)がこの2校の対戦を「サッカーの旅」と題するエッセイ(『山形県サッカー協会四十年史』(山形県サッカー協会,1988))に書いています。
「当時はまだ田舎町であった鶴岡には汽車などというものは開通していないし、さりとて人力車を駆り立てるほどの勢いもなかったので、我々はひたすら徒歩でテクテク、先ずは最上川の畔からその河上に沿うて上流へ上流へと、14里の道をウンウン唸りながら、新庄のあたりへ徒歩の道を遡りゆき、ここで漸く汽車という文明の利器を捉えて仙台までひと走り。」したとのこと。仙台は運動靴を履いていたが、庄内はどんな足の裏をしていたのか裸足でプレー。試合は3対1で裸足の庄内が勝ちました。


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(01/11/16)
ええしのぼん
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌でJFA以外の刊行物は、総目次をアップした『蹴球評論』と『Kick-Off』の2誌ですが、前者の発行元蹴球同好会の住所は大阪道修町の田辺製薬内、後者の大阪クラブは同じく大阪の川惣電機内になっています。川惣電機の創業者は川本惣吉とのことなので、おそらく川本泰三も経営者だったのではないでしょうか。
以前にも述べたようにベルリン・オリンピック 代表は全員大学生(または大学に準ずる高等教育機関)とその卒業生です。『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)という自伝を残している堀江忠男の父親は現在の静岡大学工学部の教授。同じく代表で堀江と同様浜松中から早稲田大に進学した加茂兄弟は、小学生のころからピアノの連弾をしていたそうです。オリンピック遠征中に買ったショパンの楽譜を帰途の日本郵船の船中のグランド・ピアノで弾いたところ、「調律ができていない」という旨を堀江に言ったとのこと。


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(01/11/13)
追加しました
『サッカー』(浜松一中蹴球団,1934)と『蹴球指導法の一例』(関西蹴球協会,1936)を追加しました。


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(01/11/12)
『Kick-Off』総目次
もアップしました。


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(01/11/11)
『蹴球評論』総目次
をアップしました。昭和6(1931)年創刊の日本最初のサッカー専門誌です。『Kick・off』(1954年創刊)総目次もいずれアップしたいと考えています。


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(01/11/9)
戦前のサッカー・ジャーナリスト 3
6/26、8/30付けで戦前のサッカー・ジャーナリスト山田午郎、三宅次郎、斎藤才三について簡単に紹介しましたが、『サッカー』1959年1月号に轡田三男が書いた山田午郎の追悼記事中に「当時のサッカー記者は朝日の山田さん、東日(現毎日)の宇都宮さん(故人)、時事新報の広瀬さんなどであったが、」という部分がありました。『運動界』の索引から察すると広瀬というのは広瀬謙三のようですが、宇都宮という名前は出てきません。
斎藤才三(桃山中学で田辺五兵衛の次の主将)は1931年に渡英してアーセナルの試合を観戦しており、日本最初の3B(WM)システムの紹介記事を田辺が主宰した日本最初のサッカー専門誌『蹴球評論』no.2 1931.12に「英国だより」というタイトルで寄稿しています(これは『日本サッカーの歩み』(講談社、1974)にも引用されています)。フォーメーションの図入りという力作です。また、1931年12月9日にロンドン(ハイバリー)で行われたイングランド対スペインのナショナル・マッチを『蹴球』no.7 1933.12に「英国対スペイン国際戦」と題して寄稿しています。

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2001年9月~10月

(01/10/31)
1973年の物価
10/20付けで1973年2月に合宿した日本代表の1人あたり1日の予算は2,500円だったという記事を紹介しましたが、同年同月のJTB時刻表を見ると、宿舎だったホテル大谷は1泊2食2,000~3,500円、東海道新幹線東京-大阪が4,130円(現在「ひかり」で13,750円)、新幹線食堂車のビール大とカレーライスが220円、信越線横川駅の「峠の釜めし」が250円(同900円)となっています。1人1日釜めし10個分(現在なら9,000円)の予算で合宿して、’66イングランドW杯で北朝鮮(ベスト8)、 ’68メキシコ・オリンピックで日本(銅メダル)に先を越され、’70メキシコW杯、’72ミュンヘン・オリンピック、 ’74西ドイツW杯の予選をすべてホーム開催した韓国に勝て、という立場に立たされた日本代表選手に同情したくなります。韓国に当たる前に敗退という’73W杯アジア予選の結果は、当然とも思えます。


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(01/10/23)
田辺文庫
を再訪しました。『Kick-off』誌から1954年大会分を1件、『サッカー』誌秩父宮欠号分の1958年大会関係記事3件を採録。『Kick-off』と『蹴球評論』(『蹴球』より2カ月早く創刊された日本最初のサッカー専門誌)は、私の知る範囲内では田辺文庫でしか見られない資料です。目次をコピーさせていただいたので、いずれ総目次をアップしたいと思います。近日中に後藤健生氏が田辺文庫を見学されるそうです。


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(01/10/20)
’73日本代表合宿の食生活
5月にW杯予選をひかえた日本代表は2月7~20日鳴門市で合宿します。そのレポート「自分に勝つ者だけがソウルWカップ予選で闘える」(『イレブン』v.3 no.4 1973.4 p.112-115) によれば、1日の1人あたり予算はオール込みで2,500円、肉は3日に一度で「「四ッ足が食いたいよーッ」という悲鳴にも似た声が出るのは当然」で、「昼めしなどは、タマゴ焼きにザルソバだ。観光客の食事ではないのだ。」と記されています。翌年私は大学受験で都ホテル(こういう機会でもなければ一流都市ホテルに連泊するチャンスは一生来ないかもしれないと思って決めたが、その予感は当たった!)の受験パック(そのころから始まった)を利用しましたが、1泊2食付き(夕食はフレンチのコース)で5,000円だったと記憶してます。

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(01/10/15)
『イレブン』
の収録を開始しました(1971~72年分)。5/21付けで神戸一中がベルリン・オリンピック前に3Bシステムに接触してたことを記しましたが、「川本泰三放談 2FBから3FBへの移行」『イレブン』v.2 no.6 1972.6 p.150-151で、インタビューアー大谷四郎は「私が初めて実物に出会ったのは、昭和九年、ベルリンの二年前に、神戸に入港したイタリアの軍艦クワルトと試合をしたときで、その守りがあとで3FBとわかった。全く浅い型の3FBだが、こちらは中学生で脚で負けるしスルーパスで走り込めないので二宮洋一(神戸一中、慶大)などもCFをしていて前へ出られない。すぐオフサイドだ。キーパーの津田幸男(神戸一中、慶大)が文句いうてるが、FWは面食らって “おかしいなあ”というとるうちに、1点とっただけで5、6点とられた」と述べているのを発見しました。


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(01/10/11)
ファンジン
『Football』(日本サッカー狂会、1965年11月創刊)を W杯関係邦文文献目録の採録誌に加えました。謄写版(ガリ版)ですが中身は濃いです。秩父宮でも欠号が多いので完全には収録できません。また、『スポーツマガジン』サッカー特集号(ベースボール・マガジン社)も加えました。現在1966年イングランド大会まで追加収録を終了しました。


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(01/10/9)
JFA機関誌『蹴球』、『サッカー』
に掲載されたW杯予選と1970年以降の本大会関係記事を、W杯関係邦文文献目録に収載すべく秩父宮へ。1日で入力するのは無理なくらいの量がありました。1970年代になると『サッカー』は定期刊行がアヤシクなり、1974年に終刊してしまいます。編集長は轡田三男で牛木素吉郎が手伝っていたのですが、2人では手が廻らなくなってしまったようです。JFA理事会でも商業誌が2誌(『サッカー・マガジン』と『イレブン』)あるのに「読み物」は要らないという意見があり、編集に手間がかからず製作費も安くて済む公報誌に衣替えします。W杯予選で負け続けの当時の日本代表に「アマチュアリズムの限界」が指摘されていましたが、サッカー雑誌が一足先にプロ化します。最終号の編集後記で、持ち出しで編集を手伝い精根尽きたと書いている牛木(読売新聞記者、『サッカー・マガジン』に「牛木記者のフリー・キック」という辛口コラムを連載していた)は、W杯1970年大会の予選で敗退した日本代表について「アマの理想はまぼろし」(『サッカー』no.100 1969.12)という記事を書いています。


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(01/10/8)
John Goodall
日本最初のサッカー専門書、東京高師学生が書いた『アッソシエーションフットボール』(明治36年)にあげられた参考書4冊のうちの1冊にJohn Goodall著『Association foot ball』があります。『Football compendium』で探してみると『Association football』(Blackwood, 1898)が該当するようです。解題によれば、 Goodallはイングランド・リーグの初年度(1888-89年度)を制覇したプレストン・ノース・エンドの主力選手、最初のプロ・サッカー選手の1人で科学的フットボールとパス・ゲームのパイオニアとのこと。模範的な名選手でニックネームはJohnny Allgood、本書を書いた時はダービー・カウンティの現役選手、本書は現役一流選手が書いたサッカー本の最古の例でもあるそうです。
ところで、プレストン・ノース・エンドは翌1889-90年度も連覇するのですが、それ以後イングランド・トップ(1部・プレミア)リーグで1回も優勝していません。昨年度はディビジョン1で西沢が移籍したボルトンとプレミア昇格を争っています。110年優勝していない(前回優勝は19世紀、ビクトリア女王の御世)というのはスゴイ、阪神タイガースがオコチャマに見えます。


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(01/10/7)
Charles BuchanとDavid Jack
この2人はともにWMシステムを考案したHerbert Chapman監督時代のアーセナルの名選手(同ポジションで Buchanが引退してJackが入れ替わった)、戦前の日本人が参考にしたサッカー本の著者。戦前は現在のようなコーチがいなかったし、和書のサッカー本も数少なかったので、選手自ら洋書を読んでサッカー理論を勉強していたようです。
ベルリン・オリンピック代表の堀江忠男は自伝『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)で浜松の中学時代にBuchan著『Football aids』 (Daily News, 1929)を読んでいたと述べています。Bryon Butler著『The Football League, 1888-1988 : the official illustrated history』(Queen Anne Press, 1987)によれば、CHを下げて相手CFにつける(ストッパーにする)というアイデアはChapmanではなくBuchanが考え出したものとのこと。
「英国サッカーを語る」(『サッカー・マガジン』1971年7月増刊号)という田辺五兵衛のインタビュー(インタビューアーは賀川浩)で田辺は「ディビッド・ジャックだったかの書いた本を翻訳したことがある。中学を出てからだったと思う。そう高商(のちの大阪商大いまの大阪市大)へ入った年ですヨ。」と述べています。『Football compendium』中で該当しそうなのは、年代が少しずれているが『Soccer : experiences of the game with practical instruction on training and on play in each position』(Putnam, 1934)。この本は賀川も昭和15年に神戸高商の先輩から借りて読んだそうです。田辺の翻訳ノートは大水害(『細雪』に活写されている)で亡失したとのこと(田辺文庫は水害と震災で2回受難にあったことになる)。1936年のベルリン・オリンピック以降3Bシステム研究が活発化しますが、本来WMシステムについての著書をだすべきChapmanが1934年に急逝したので、Jackの著書が聖典的役割を担ったのかもしれません。
田辺とオリンピック代表コーチの竹腰重丸はベルリン・オリンピック終了後イギリスに渡り、WMシステムの本家アーセナル対エバートン(CFはWMシステムが普及する前の1927-8年度に60ゴールという大記録を作った Dixie Dean)を観戦しています。この試合の『八犬伝』の犬塚信乃対犬飼現八ばりの講釈は田辺の十八番だったとのこと。


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(01/10/6)
『サッカー・マガジン』に続く商業サッカー専門誌
『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)によれば、『サッカー・マガジン』(1966年6月創刊)に先だって『サッカー新聞』(サッカー新聞社)が1966年4月に創刊されてます。翌1967年2月には『サッカーロータリー』(立花書房)と『サッカーグラフ』(サッカーグラフ社)が創刊されていますが、これらはいずれも短命に終わったようです。『サッカー・マガジン』のライバル誌として長く続いたのは1971年5月創刊の『イレブン』(日本スポーツ出版社)で、表紙に『World soccer review』とあるように、『サッカー・マガジン』よりも海外情報に重点を置いた編集方針をとっています。創刊時は『ダイヤモンド・サッカー』が1970年W杯を放映中で、海外サッカー情報に関心が高まっていた時期です。

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(01/10/5)
トニー・ドーセット
って1994年にプロ・フットボールの殿堂 入りしてるんですね。

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(01/10/3)
西澤アナウンサー
私は当時兵庫県に住んでいたので、『ダイヤモンド・サッカー』はサンTV(日本最初のUHF局らしい)で観ていました。サンTVは全国ネットからはみ出ていたので、当時東京で同じ立場にあった12チャンネルの番組を多く放映していたように思います。独自制作しているスポーツ番組もあって、阪神タイガース完全中継(これがウリ、解説の後藤さんが口を滑らせてタイガースを“ウチ”といったのを記憶している)や『カレッジ・フットボール’○○』(○○は77のような年、アメリカの大学アメフト)が代表的なものでしょう。その両方に出ていたのが西澤アナウンサー。特に後者では東の金子-岡野コンビと好一対の西澤-武田(健、関学アメフト部監督)コンビが忘れられません。後にダラス・カウボーイズ入りするトニー・ドーセットがピッツバーグ大にいたころ(1970年代中頃?)です。
東京に移って20余年、西澤-武田コンビとご無沙汰しておりましたが、今年の2月意外なところで再会できました。場所は長野県のとある温泉、なぜか毎日放送系の関西スポーツ局GAORAが受信できて、このコンビによるスーパーボウル(もちろん録画)を観ることができました。金子-岡野コンビがW杯を放送したように、いつか西澤-武田コンビもスーパーボウルを放送してもらいたいと念願しておりましたが、まったく偶然にその機会に遭遇することができました。30年来になるこのコンビによる名調子は健在でした。

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(01/9/29)
ゴール後のパフォーマンス
で印象深いのは1970年W杯でジャイルジーニョがひざまづいて十字を切ったシーン(『ダイヤモンド・サッカー』でタイトル・バックに使用された)と1994年W杯のベベトのゆりかごダンスです。『Football compendium』にGraham Fitkin and the Royal Liverpool Orchestra『Bebeto;Classical selections』 (Argo Records, 1996)というCDがエントリーされています。Fitkinはモダン・クラシックの作曲者で自身のサッカー・チームを持っているそうです。ゆりかごダンスに触発されて作曲したとのこと。リバプールはサッカー音楽?の都でもあるんですかね。


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(01/9/26)
応援歌
1966年W杯イングランド大会の観戦記を読むと応援歌が印象深かったらしく、歌詞つきで紹介しています。『聖者の行進』の替え歌がイングランドの応援歌で、
Oh! when the Saints, Go marching in, Oh! when the England marching in, I want to be England number, When the England marching in.
Oh! when the reds go marching in, Oh! when the reds go marching in, I want to be England number, When the reds go marching in.(redsはイングランドのユニフォームが赤の場合)
これはジャズでイギリスの伝統歌曲ではないのですが、バッキンガムの衛兵もW杯期間中演奏していたそうです。
この大会の記録映画『ゴール』は日本でも公開され、現在でもビデオ(タイトルは『1966ワールドカップイングランド大会』)で観ることができますが、やはり『聖者の行進』がうたわれています。
Desmond Morris著『サッカー人間学』(小学館,1983)によれば、応援歌の斉唱は1960年代にリバプール・ファンが始めたとのことで、『聖者の行進』が応援歌になったのは、リバプールの花形選手イアン・“セント”・ジョーン(Ian “St.” John)の栄誉を称えたのが最初とのことです。「今日では多少の編曲が施されて全国で応援歌として採用されているが、歌っている人々のほとんどが起源については知らない」と述べています。イギリスでも応援歌が定着したのは1966年W杯以降だそうです。

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(01/9/24)
イギリス・サッカー選手個人伝記
『Football compendium』の個人伝記の部分でエントリーの多い順は、
1.Ian Botham 16点 クリケットとの二刀流選手。Scunthorpe Unitedで1979~1984プレー。重点はサッカーよりもクリケットにあったらしい。アメリカでもNFLとMLBを兼業するB.ジャクソンとかD.サンダースとかいましたが、そのイギリス版か?
2.Denis Compton 14点 1936年~1950年にアーセナルで活躍した往年の名選手。
3.Paul Gascoigne 13点 やっと知ってる名前が。
4.George Best 11点 5人目のビートルズといわれた人。据え膳食わぬということはしなかったことでも著名。
4.Kevin Keegan 11点 ガスコインやキーガンがイギリス人の好みなんですかね。なんとなくわからないことはないでも。
アメリカのメジャー・リーグを米国議会図書館データベースで検索すると、第1位はベーブ・ルースなんかではなくて、圧倒的に黒人最初のメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソン。野球選手というよりはリンカーンやキング牧師の系譜に属する偉人という扱いのようです。
ちなみに日本だと、昭和天皇没後、生存者で圧倒的1位はジャンルを問わずY売球団のN嶋氏なんですよ。ご存知でしたか?


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(01/9/23)
『トレインスポッティング』ってサッカー映画?
昨日入手した『Football compendium』によれば、イギリス最古のサッカー映画は1911年の『Harry the footballer』、11分の無声映画です。一番新しいのは1998年の『My name is Joe』ですが未見、みたことがあるので最新というのが『トレインスポッティング』(1996)、ドラッグ・ムービーという印象でしたが、映画中にでてくるサッカー・シーンは1978年W杯スコットランド対オランダのアーチー・ゲミル(Archie Gemmill)の“famous wonder goal”だそうです。原作者のウエルシュ(Irvine Welsh)は作家になる前はエジンバラのHibernian(Hibs)のファンジン『Hibs monthly』に “蛸(Octopus)”名で寄稿していたとのこと。『Football compendium』に収録されていないが、脚本も担当した『アシッドハウス』(3話からなるオムニバス)の第1話の主人公はヘボサッカー選手、第3話の主人公は熱烈サポーター。現代イギリスの人気作家ウエルシュやホーンビーの作品には「日常」としてサッカーがでてくるみたいです。


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(01/9/22)
『Football Compendium』
Amazon.co.ukに発注していたPeter J. Seddon編『A football compendium : an expert guide to the books, films & music of association football. 2nd ed.』(British Library, 1999)が到着していたので世田谷中央郵便局まで取りにいきました。815p、2.4kg、7千点以上のサッカー本、映画、CDなどを収録しています。1995年に刊行された初版はイギリス図書館協会の最優秀書誌賞を受賞しています。表紙だけならAmazon.co.ukで見ることができます。収録されている最古の本はSir Thomas Elyot著『The boke named governour』で出版年は1531年、日本は室町時代です。秋の夜長の暇つぶしに使えそうです。


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(01/9/16)
ベッケンバウアーの怒り
W杯1962年チリ大会を観戦したJFA会長野津謙は、日系ペルー人審判ヤマザキを激賞していて、FIFAのラウス会長に東京オリンピックにはぜひ彼を送ってほしいと頼んだそうです。観戦記にも「日系二世のレフリー」という小見出しがあるくらいです(「W杯関係邦文文献目録」参照)。
ところが、同一人物をベッケンバウアーが自伝『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』(講談社,1979)で酷評しています。試合はW杯1970年メキシコ大会準決勝イタリア対西ドイツ。この大会は『三菱ダイヤモンドサッカー』で録画とはいううものの初めてTV放映されたので、W杯がどんなものか初めて知った人も多いんじゃないでしょうか(私もその一人)。よくW杯は戦争にたとえられますが、この試合を観てナルホドと思ったくらいの歴史に残る名試合なんですが、ベッケンバウアーは「メキシコ市のアステカ・スタジアムで戦ったイタリアとの準決勝の主審には泣かされたし、いまだにいやな記憶として残っている。」と述べています。
主審の名はアルツーロ・ヤマサキ(サに濁点がないが同一人物)。「イタリアはわたしたちのスピードをファールの連続で食い止めようとした。二、三度、私はヤマサキ主審を見たが、彼は知らん顔だ。ヤマサキはいつものんびりとフィールドの中央にいて、プレーヤーが近くにやってくるとわきに身をさけた。イタリアの選手が西ドイツの選手にファールされると、彼は笛をすぐ口に持っていった。」。ハーフタイム中に誰かが「ヤマサキは、反則をとらないな。殺人があってもだまっているかもしれないぞ」。ゼーラーは「ヤマサキは少なくとも、西ドイツに二つのペナルティキックをくれてもよかったんだ」。ミュラーは「あの審判はペテン師だ...」。「新聞は、大げさに “今世紀最高のゲーム”と書きたてたが、わたしたちは“今世紀最大のペテン”と書き直したいとさえ思った」。
これにさらに後日談がついていて、バイエルンがペルー遠征したとき地元記者に「ペルーはとてもすばらしいところだが、一人だけ、ペルーに住んではならない人間がいる。アルツーロ・ヤマサキだ。彼はサッカーについて何も知らない。彼はメキシコ大会でわたしたちとイタリアの試合の笛を吹き、わたしたちを欺いた」と言ったところ、ペルーにそんな人はいないと言われた。「その後、ペルーのサッカー界にくわしい人が、「ヤマサキは日本人で、ペルーの国籍を持っているだけだ。現在がメキシコに住んでおり、メキシコやイタリア・サッカー協会の人たちと親しい」という説明をしてくれた。それを聞いてわたしははじめて納得した。過去にも多くのチームが汚いサッカーの犠牲になっていたが、イタリア戦でわたしたちもその犠牲者の仲間に入ったのだ、と」。


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(01/9/15)
2002年ドイツのキャンプ地
に鳴門を最優先に考慮すると連絡があったと、今朝のスポーツ新聞にでていました。もちろんドイツの試合が日本で開催される場合です。鳴門は9/11付けで紹介した広島県似島とともに第一次世界大戦のドイツ人捕虜収容所があったところです。似島同様地元チームと交流試合をしてたんでしょうか。なにはともあれ、ドイツが日本開催組になることを願いましょう。


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(01/9/13)
マジック・マジャールを観た人
1950年代前半のハンガリーはヘルシンキ・オリンピック優勝、W杯スイス大会準優勝、ウエンブレーで不敗だったイングランドに6対3で完勝するなど、世界最強国でマジック・マジャールと呼ばれていました。日本がW杯予選に初参加した当時の代表監督の竹腰重丸は、役員として参加したヘルシンキ大会(サッカーは日本不参加)でハンガリーを観ています。彼の代表著作『サッカー』(旺文社,1956)では当時最先端だったハンガリーの戦術を「ハンガリーなどの戦法」として以下のように紹介しています。

 センター・フォワードが、ウィングの前やインナーよりタッチ・ライン側に出ることやインナーより後退することなどは常習的に行われることであり、ハンガリーのライト・インナーがレフト・ウィングの前に出たり、ユーゴのライト・ハーフが攻撃に当っては味方レフト・ウィングの前に出たりしながら、守備に回った際はゴール・エリア内に帰って直接得点を防ぐなどのことが見受けられた。これらは動きの最も激しい例ではあるが、試合中しばしば見受けられたところであり、いかに激烈な活動に耐える体力を持っているかを想像させるにたるものであった。
 そのような動きはゲームの流れに従ってフォワードが一時ハーフ・バックの、またはハーフ・バックが一時フォワードの役目を果すというような位置の交代がなければ危険でできないことであるし、フォワード間の位置の交代は単に行きがかり上入れ替ったというのではなく、計画的な鋏状運動(第三編第七章参照)として行ってはじめて十分な効果を上げうるものであって、ヘルシンキ・オリンピック大会での一流諸チームはしきりにそれを行っていた。

ポジション・チェンジを多用して全員攻撃・守備するトータル・サッカーの先駆だったわけですね。ウエンブレーの対イングランドの6対3やW杯予選リーグの対西ドイツ8対3のように、爆発的な攻撃力がある反面失点も多いという観ていて面白いサッカーだったようです。三軒茶屋のTSUTAYAにFIFAW杯公式記録映画のビデオ(1954年スイス大会が一番古かった)があったので、借り出して観たのですが、フォーメーションまではよくわかりませんでした。ハンガリーが東南アジアのセパタクローのような練習をしていたのが目を引きました。
日本に勝ってW杯に初出場した韓国(予選参加は2国だけ、東京で2戦して日本の1対5、2対2)は、予選リーグでハンガリーと同じ組(優勝した西ドイツまでいた)になってしまい、メンバー落ちのハンガリーに0対9(大会得点差新記録)で敗れています。韓国ではマジック・マジャールはどのように語り継がれているのでしょうか。


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(01/9/11)
広島サッカーのルーツ2
『広島スポーツ100年』(中国新聞社,1979)によれば、広島高師がサッカーを課外運動にしたのは明治39年、明治44年にはオックスフォード出身のプリングル氏が赴任して正式なサッカーを伝えたようです。同じく明治44年に東京高師の主将でだった松本寛次が広島一中に赴任し、大正2年に蹴球部を設立します。松本が努力した結果、大正3年の入部者は120人、一中の校技になります。いずれにせよ、広島サッカーが始まったのは明治末だったようです。
第一次世界大戦のドイツ人捕虜が広島湾の似島に収容されていたのですが、捕虜チームと広島高師と県師が大正8年に交流試合を行っています。結果は日本側の大敗で、高師主将田中敬孝は軍の許可を得て似島に通い、その成果を広島はもとより、姫路師範、御影師範、神戸一中まで教えにいったそうです。ドイツ・サッカーが日本に伝わった最初かもしれません。


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(01/9/7)
W杯第3回フランス大会(1938年)
を観戦した野村正二郎と島田孝一について追加すべき事実が判明したので、「W杯関係邦文文献目録」に追加しました。『日本サッカーのあゆみ』(1974)によれば、野村は1936年6月~10月JFA主事代行、1938年4月~1945年8月JFA主事、男爵とあったので『華族名簿 昭和13年5月30日調』(華族会館,1938)を見ると男爵で航空研究所技手とあります。島田は当時早稲田大学ア式蹴球部長、野村の文中に島田顧問とあるのでJFAの顧問もしていたのかもしれません。2人とも早稲田OBなので早稲田大学ア式蹴球部の部史を読めばもっと詳しいことがわかるかもしれません。


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(01/9/4)
『アサヒスポーツ』のモダニズム
8/21付けで紹介した伊東明「日本における体育・スポーツ雑誌の歴史」『上智大学体育』no.2 1968には 不思議なことに『アサヒスポーツ』が含まれていません。しかし、大正12(1923)年3月創刊の この雑誌こそ戦前のスポーツ・ジャーナリズムの水準を示す好例でしょう。
最初に見て驚くのは横書きだということです。現在でも『Number』や横書き文章が多い『World Soccer Digest』ですら 原則縦書き(表紙から見て右側に背がある)です。興味深いのはほぼ同時に創刊された『アサヒグラフ』の表紙タイトルが 右読み(すなわち、「フラグヒサア」)なのに、『アサヒスポーツ』の表紙タイトルは左読みです。文部省が横書きを左読み に統一するのは確か戦時中のはずです。文章が横書きということは、美文調はもちろん、感情過多な文章やセンテンスの長い 文章は似合わず、客観的でセンテンスの短いテンポのよい文章が似合うことになったはずです。ただし、昭和11(1936)年1月 から突然縦書きに変わります。
2番目の特徴は写真のすばらしさです。スポーツ写真としては現在とまったく遜色ありません。グラフ誌サイズで見開きいっぱい を一つの写真に使うなど、大胆なレイアウトが見られます。グラビア印刷の導入を契機にに創刊されたので、カメラマンの意気が 写真を通して伝わってきます。写真には日本語に加えて英語のキャプションをつけていることもあります。読者層として 中等教育以上のレベルを想定していたようです。
3番目は対象が多様だということです。メジャーリーグのシーズン前予想やアメフトの特集号があったりします。海外情報も 豊富で、創刊当初は野球:べーブ・ルース、テニス:チルデン、ゴルフ:ボビー・ジョーンズ、ボクシング:デンプシーが同時代のスターとして 豊富な写真とともに紹介されています。種目としては野球記事が多い(朝日なので特に中等野球)ものの、スキー、スケートのような ウィンター・スポーツや登山、ヨットまで満遍なくとりあげられています。大相撲については、創刊号の巻頭に下村宏(海南)が 書いた「全日本民族のために」と題する文章中で「プロフェッショナルの八百長相撲」と表現しているくらいで、スポーツと みなしていなかったようです。スポーツ小説、エッセイ、漫画もあります。
編集者の名前はずっと登場しません(編集後記もない)が、縦書きに変わった昭和11(1936)年1月1日号(月2回刊)に 編集同人として飛田忠順(穂洲)、織田幹雄、芥田武夫、山田午郎、三宅次郎等の名があります。飛田穂洲は『運動界』の発起人 だったはずですが。この号から編集後記が始まります。当時プロスポーツがなかったこともあって、スター選手への阿諛追従などが まったくなく、現在のスポーツ・ジャーナリズムと同レベルないしはそれ以上といえるかもしれません。戦時中の昭和18(1943)年 6月で休刊、戦後1948年1月復刊、1956年1月まで刊行されました。
表紙写真に意表を突いたものが多いのですが、昭和4(1929)年11月15日号の表紙はサッカーのイングランド・リーグ、 カードはなんとアーセナル対ボルトン!!です。

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2001年7月~8月

(01/8/30)
戦前のサッカー・ジャーナリスト 続
8/16付けで当時毎日新聞記者だった岩谷俊夫があげていた毎日の斉藤才三は関西学院OBで日本が優勝した昭和5(1930)年の第9回極東大会のGK。朝日の三宅次郎は関西大学OBで大正14(1925)年の第7回極東大会のCF。この時の監督は山田午郎。従って、この3人の歳の順は山田>三宅>斉藤ということになりそうです。


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(01/8/29)
島田孝一
W杯関係邦文文献目録で記しているように、1938年フランス大会には野村正二郎と島田孝一の2人がFIFA総会に出席して、W杯も観戦しています。これが日本人最初のW杯観戦でしょう。野村は協会関係者のようですが、島田(1893年生、1987年没)は戦後早稲田大学第6代総長、流通経済大学初代学長になる交通経済学者です。東京高師附中卒で大正元(1922)年に早稲田に入学していますが、附中、早稲田とも当時(ア式)蹴球部は存在していないはずです。著書を探してみると、専攻分野の専門書以外に『甘泉亭雑記 新日本の学生に贈る』(一洋社,1948)というエッセイがありました。読んでみましたが、サッカーには言及していませんでした。サッカーとどんな接点があったんでしょうね。FIFA総会に出席し、晩餐会ではスピーチし、W杯を6試合観戦しています。少なくともサッカーの「サ」の字も知らない人物にはできないはずです。
父親は改進党の領袖で大正時代にはシーメンス事件糾弾や普選運動で活躍した島田三郎です。大隈重信には父親の代から縁があったわけで、上述のエッセイでは尊敬する人物として大隈をあげています。


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(01/8/27)
追加しました
『サッカースクール』(集英社,1974)と『Bigストライカー サッカーヒーローハンドブック』(小学館、1984)を追加しました。


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(01/8/23)
W杯関係邦文文献目録
のコーナーを新設しました。W杯を同時代的に紹介した雑誌記事、図書を第1回ウルグアイ大会(1930年)から辿ろうという企画です。ブック・ガイドの方は1989年(明治・大正・昭和を一応終了)で一段落させ、収録漏れ、未見本を拾っていこうと考えています。1992年までならこれまでのペースと変わらないのですが、Jリーグの始まった1993年からサッカー本の出版状況が激変するのでどうしようかと思案中です。


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(01/8/22)
越園生「フートボール術」
というサッカーを紹介した記事が『運動界』v.3 no.1 明治32年1月 p.8-10に掲載されています。昨日述べたように、これが『運動界』(第1次)唯一のサッカー記事です。2段落目に「方今運動の技たるその類甚だ多く、就中、ベースボール、ボート、ロンテニス、撃剣柔道は其尤も隆盛なるものにして、之に次ぐは、自転車、弓術、水泳、体操、遠足等ならん、ひとりフートボールに至りては、殆ど行はれず、僅に長野山口などの二三地方に於て行はるるものの如し、」とあります。「長野山口」というのは初耳。次いで、楕円形の球を用いるもの(ラグビーとは表現していない)と球状のボールを使用する「アッソシエーション、ゲーム」の2種があることを述べ、後者はさらに「定員試合」と「人員に限りなき試合」に分けられるが、「通例前者を多しとす」と述べています。「非定員」の方は次回にまわして「定員」の方を紹介します。
フィールド:長さ200ヤードから100ヤード、幅100ヤードから50ヤード、ゴールは8ヤード四方の方陣でゴールラインからインフィールドに出張っており、高さは8フィート。ゴールがゴールラインから8ヤード前にあることに注意。図もある。
ポジション:11人。陣守=GK 殿り=FB 後軍=HB 右翼=RW 左翼=LW 中堅=CF ボール:27,8インチ
競技:「双方いづれかが敵の門柱のくぐらしめて球を蹴込み陣内の地面に触れしめたるとき、勝利とす」、「陣地は三十分毎に交換し、一定の時間にて中止し、勝敗の度数を計算して全般の勝利を定む」。スローインは後ろ向き。キーパー以外手を使わないのは現在と同じ。なお、オフサイドに関する記述はありません。
筆者は参考文献については何も記していません。


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(01/8/21)
伊東明「日本における体育・スポーツ雑誌の歴史」
という論文が『上智大学体育』no.2 1968に掲載されています。それによれば、『運動界』は明治30年創刊(第1次)と大正9年創刊(第2次)以外に、大正2年に大阪で創刊されたものもあったそうですが、これは創刊号だけで終った模様とのこと。
明治30年創刊の『運動界』(第1次)は日本最初のスポーツ商業誌とのことです。この雑誌は1986年大空社が復刻しており、日本体育大学体育史研究室による詳細な解題と総索引が付されています。2巻4号(明治31年4月)に掲載されている美満津商店の広告にはサッカーボールもあります。これが本邦初のサッカー用品広告かもしれません。この雑誌には出版社春陽堂の広告もあり、当時新刊書で刊行中だった尾崎紅葉の『金色夜叉』の広告も載っています。明治30年7月創刊、同33年4月終刊と短命に終った雑誌で、競技別記事数は漕艇84、野球62、柔道20、剣道18、水泳18、自転車17、テニス11、和船11、銃猟10で、フートボール1です。このフートボールはサッカーですが、紹介は次回にしたいと思います。


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(01/8/19)
広島サッカーのルーツ
7/2付けで1983年以前に『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』(本サイト未収録)が刊行されていることを記しましたが、鯉城蹴球団の母体広島一中のサッカーの始まりについてOBの野津謙が述べている資料が見つかりましたので紹介します。「日本のサッカー古代史(下) 日本蹴球協会創立四十周年記念座談会」『サッカー』no.15 1962 p.32-37 中の野津の発言として「広島一中の蹴球のもとも東京高師から出ています。東京高師のキャプテンだった松本寛次先生というのが広島一中に赴任して来られて始められたのです。これが広島サッカーの先祖ですから...」とあります。松本寛次は明治43(1910)年度東京高師主将とのことなので、広島一中赴任は明治末ということになります。
野津は「広島サッカーの先祖」と述べていますが、広島には広島高師とその付属中学もあり、その歴史もかなり古いはずですが、そちらには言及していません。


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(01/8/17)
雑誌『運動界』とその索引について
『運動界』は明治30年創刊と大正9年創刊の2種類ありますが、ここでは後者をとりあげます。大正9(1920)年4月創刊、昭和6(1931)年7月終刊。ちなみに『蹴球』は昭和6年10月創刊。関東大震災時に1号休刊しただけで毎月刊行。当時の代表的なスポーツ総合誌。
戦後『運動界(第二次)記事索引目録』(文化書房,1963)が総索引として刊行されています。競技種目別の索引でサッカーは、サッカー一般、サッカー一般(技術)、サッカー-試合の3項目に分けて索引されています。記事の配列はタイトルの五十音順。著者、巻号、ページ、年月が付されています。記事数はサッカー一般16件、サッカー一般(技術)20件、サッカー-試合70件。東京で発行されていたので、関東の試合中心ですが、関西や中京地区の試合評も寄稿されています。野津謙を野「沢」謙とするようなミス(原誌と照合してみたが、索引者側のミス)もあります。しかし、この索引により、本誌は『アサヒスポーツ』などよりかなり利用しやすくなっていることは間違いありません。


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(01/8/16)
戦前のサッカー・ジャーナリスト
『サッカー』no.17 1962に岩谷俊夫(神戸一中、早稲田大卒、毎日新聞記者)の「「高校サッカー四十年史」を編集して」と題する随想が掲載されています。その中に「サッカーの現代のような評のハシリを作った人は誰か、ということになれば、少し時間をかけて調べてみなければ軽々しくいえないが、朝日新聞の山田午郎、三宅二郎の両氏は、自分でサッカーをやっておられただけに一頭地を抜いていたと記憶する。四十年史に出てくる毎日の斉藤才三氏は、ゲンミツにいって毎日のサッカー記者のハシリであり、現在の形を作った人である。」とあります。山田については、 6/26付けで日本最初のサッカー・ジャーナリストとして略歴を紹介してあります。三宅二郎なる人物については、これからしらべてみたいと思います。斉藤才三は戦前の『蹴球』誌にロンドンからイングランド対スペインのナショナル・マッチをレポートしています。別にメモもしなかったので正確な年月はわかりませんが、ベルリン五輪以前であったのは確かです。ヨーロッパのナショナル・マッチ・レポートの嚆矢でしょう。レポートの質が高かったのですが、著者の肩書きがなかったので、何者だろうと思っていたのですが、毎日のサッカー記者だったんですね。
昨日早稲田大学総長らしいと書いた島田孝一が総長になったのは1946年で、1938年当時は総長ではありませんでした。交通経済学の泰斗だったとのこと。


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(01/8/15)
過去のW杯を観戦した日本人
7/18付けで1938年フランス大会を野村正二郎、島田孝一(未確認だが早稲田大学総長らしい)の2人が観戦していることを記しましたが、戦後のW杯はどうかというと、1950年ブラジル(日本は占領統治下)、1954年スイス大会を観戦した人はいないようです。1958年スウェーデン大会には当時FIFA理事だった市田左右一が同時に開催されたFIFA総会に出席しており、多分観戦しているはずです。ちょうどこのあたりの部分が秩父宮記念スポーツ図書館で欠号になっていて確認できません。田辺文庫まで行けばわかるかも。トホホ...
新田純興「FIFA総会と日本」『サッカー』no.23 1962.9 p.48
に過去のFIFA総会に出席した日本人とその報告文がリストされています。ちなみにこの号は「世界選手権特集号」で、1962年チリ大会を特集した日本最初の雑誌W杯特集号です。この大会を野津謙と市田左右一が観戦していることは以前に記したとおり。
1966年イングランド大会はJFAが公募した観戦ツアーがあり、その観戦記が『サッカー』no.60 1966.7に掲載されています。参加者名簿も記載されていて、県協会役員のような関係者が多いが、ただのファンも含まれています。このグループはイングランド対アルゼンチン(準々決勝)、イングランド対ポルトガル(準決勝)、イングランド対西ドイツ(決勝)を観戦しています。この大会はヨーロッパ遠征中の日本代表も観戦しており、観戦記が『サッカー』 no.63 1966.10に掲載されています。このグループはイングランド対アルゼンチン(準々決勝)、ポルトガル対ソ連(三位決定戦)、イングランド対西ドイツ(決勝)を観戦しています。


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(01/8/12)
竹腰重丸の一面
竹腰重丸は昭和2年日本が国際大会初勝利した極東大会フィリピン戦で決勝ゴールをあげ、昭和5年極東大会優勝時は主将、昭和9年マニラ大会では監督を務めています。 ベルリン・オリンピックではコーチとして3Bシステム対策を案出してスウェーデン戦勝利の影の立役者となり、戦後は1953年長沼、岡野、平木ら日本学生代表を率いてヨーロッパ長期遠征、1956年のメルボルン・オリンピック代表監督(予選は彼の籤運で抽選勝ちした)と、クラマー氏来日までの日本代表の昭和史は彼を中心に動いていたといっても過言ではない人物です。山口高校時代は「月下のドリブル」のエピソードを残し、東大時代は、サッカーをやるために実験の多い薬学から農業経済に専攻替えしたそうです。
そんな彼の昭和9年の極東大会時のエピソード。「成城の人たち」と題して慶応OBの松丸貞一が『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)に寄稿した文章によれば、「監督は竹腰ノコさんである。ところが彼は当時かなりの国粋主義者で、満州国承認の運動に半分以上の精力を尽していた。だから、合宿にも参加できず、満州に出張し、選手強化に全力を集中できなかった。」とのこと。必ずしもサッカー一筋というわけでもなかったらしい。ちなみに竹腰は大連一中出身。こんなことは追悼文なんかにはでてこないと思われるので紹介したしだい。


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(01/8/11)
意外な人物2
5/4付けで映画監督今村昌平が東京高師附中で蹴球部のマネージャーだったことを記しましたが、俳優森雅之(『浮雲』(成瀬巳喜男監督)、『羅生門』(黒澤明監督)などに出演、本名有島行光、作家有島武郎の長男)は成城高校で戦前のインターハイに出場しています。ポジションはRW。
『文藝春秋』誌の名編集長で文藝春秋社の社長も務めた池島信平は、府立五中でサッカーを始め、進学した新潟高校では蹴球部を創設して戦前のインターハイに出場しています。彼の半自伝『雑誌記者』(中央公論社,1977)に「中学のグラウンドで呑気に蹴球などやっているうちに、関東の大震災である。」とほんの1行でてきます。彼が今日の『Number』誌を見たらどう思うでしょうか。


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(01/8/8)
二・二六事件
で暗殺された一人に高橋是清がいますが、ベルリン・オリンピック 代表高橋豊二は是清の孫で、愛称は「マゴ」だったそうです。成城出身、東大に進み、海軍航空予備学生となり、昭和15年館山航空隊で訓練中に事故死。『成城蹴球・サッカー60年史』(1988)に掲載された事件当時の蹴球部長内田昇三の回想によれば、「私は下町ッ子の野次馬で、何でも事があれば出かけるくせがあり、雪の中を赤坂の幸楽までみにいったのだが、途中高橋邸の前を通りかかり、だれも警備していないので、無断で玄関から奥の間へはいっていった。まだ是清翁はベッドで殺されたままで、和服姿の御婦人が3人ばかり泣きながら付きそっているだけ。...」とのこと。高橋邸跡は現在公園になっています。


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(01/8/3)
追加しました
『全国高校サッカー選手権大会静岡県大会 第59回(昭和55年)』(1980)、『サッカー六十年のあゆみ』(1982)、『静岡県立清水東高等学校サッカー部史』(1986)、『この道20年キックオフ人生』(1986)、『日本サッカーリーグ優勝記念誌』(1988)を追加しました。収録範囲年度内で収録漏れのサッカー本をご存知であれば、ご一報いただければさいわいです。


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(01/7/31)
1987年終了しました
やっと1987年が終りました。『江渡達男先生追憶の記』(1984)を追加しました。


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(01/7/30)
追加しました
『北大サッカー部50年史 1923-1975』(1977)、『球蹴りせんとや生まれけん』(1983)を追加しました。


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(01/7/28)
幸楽と秩父宮
7/19付けで『蹴球』に広告を載せている赤坂山王下の幸楽という料亭が二・ニ六事件で反乱軍側に占拠されたことを記しましたが、二・二六事件関係文献(資料集成を含めてたくさんあるので、すべて読めばさらに詳しいことがわかるはず)に幸楽に関する記述があったので紹介します。田々宮英太郎著『二・ニ六叛乱』(1983)によれば、幸楽に宿営したのは安藤輝三大尉率いる歩兵第三連隊第六中隊、この中隊の前々代中隊長は秩父宮、安藤は陸軍士官学校時代から秩父宮と私信をとりかわすほど懇意であった。2月26日未明鈴木貫太郎侍従長を襲撃(重傷を負わせたが、鈴木の妻が毅然たる態度で鈴木をかばったので、安藤はとどめをささず、部下に敬礼をを命じた)したあと、三宅坂で露営、27日に幸楽に宿営。「「尊王討奸」の旗を先頭に安藤大尉にひきいられた一個中隊が中華料理店「幸楽」にむかって行進したわけだが、沿道の市民が万歳々々と歓呼する」、さらに引用されている電通社員宇多武次の手記によれば「幸楽の中は大変だった。...前垂れがけの女中が大勢、牛肉の大皿を持って右往左往しているという風景であった。」とのこと。中華料理店と牛肉の大皿に整合性がない。いったいどんな料理屋だったんでしょうか。二・ニ六研究者にはどうでもいい部分でしょうが。
2月29日未明中隊は幸楽を出て山王ホテルへ、ここで安藤は自決をはかるが未遂、結局裁判後に処刑される。処刑に際して他の死刑囚は「天皇陛下万歳」を唱えたが、安藤のみが加えて「秩父宮殿下万歳」も唱えたとのこと。
幸楽は事件後も営業していたようで『蹴球』誌に広告を載せています。なぜこんなことを書いたかというと、『蹴球』のバックナンバーを読んだのが「秩父宮記念スポーツ図書館」だったもんで。


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(01/7/27)
1966W杯イングランド大会を観戦した人
に森孝慈がいます。「選手団も、見学団も、合わせて六〇人の熱心家」の中の「選手団」に入っていました。


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(01/7/23)
戦前のW杯報道
戦前の『蹴球』誌に載ったW杯関係記事は7/18付けに記したとおりですが、1930、1934、1938年の『アサヒスポーツ』誌(朝日新聞社が刊行していた月刊のスポーツ・グラフ誌)をざっと目を通してみたところ、かろうじて1934年イタリア大会がベタ記事で紹介されているのを見つけたのみでした。1930、1934年には 極東大会が開催されており、こちらは特別増刊号を出しているくらいリキをいれているのですが、日本が出場していないW杯はほとんど問題にされていないようです。新聞はまだ見ていないのですが、 7/18付けで紹介した、『蹴球』に掲載された1934年イタリア大会に関するベンスマンの記事のまえがき(島田と署名されている)に「昨年のこの大会は我国の新聞には殆ど掲載されなかったので、本誌は之を出来る丈詳細に報道すべき義務を感じていたのであるが、...」とあり、全然報道されていないか、されていたとしてもベタ記事扱いだったようです。


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(01/7/22)
河本春男の転職
戦前神戸一中の全盛時代を築いた河本春男は、東海のサッカー名門校刈谷中学出身で東京高師では主将。体育教師だった人物が、なぜか戦後ドイツ洋菓子店ユーハイムの経営者になっています。先月田辺文庫に行ったついでに寄った神戸市立中央図書館に、河本春男著『人間その気になれば ユーハイムの年輪』(玄同社,1981)があり、どういう経緯で転職したかを知ることができました。ちなみに、ユーハイムは日本で最初にバウムクーヘンを発売した洋菓子店で、「年輪」はそれをかけているわけです。創業者のユーハイム夫妻は第一次世界大戦中に捕虜として来日し、関東で創業したが関東大震災に被災して神戸に移ったとのこと。
河本は神戸一中の後、岡山県の女子師範教師や岐阜県(だったと思う)の体育主事になり、戦争中は家族を飛騨に疎開させていました。戦後官途を辞し、飛騨の物資を都会に運ぶ運び屋で生計をたてていたが、牛乳の副産物としてできるバターは飛騨では食べる人がいないので、神戸に持っていくと大評判になり、神戸中の洋菓子店に納入するようになったとのこと。納入業者として未亡人となっていたユーハイム夫人の経営上の相談相手になっているうちに、行きがかり上経営陣入りすることになったそうです。河本は戦後もサッカーに関係しており、神戸市サッカー協会長や神戸FC会長を務めています。


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(01/7/20)
日本最初のW杯「本」?
秩父宮で
『ジュールリメ杯 世界選手権大会通史』新田純興/著 出版地不明 出版者不明 出版年不明 28p 21cm
を見つけました。1930年ウルグアイ大会から1966年イングランド大会までの簡略な通史で、1970年メキシコ大会は日程が記載されているのみです。奥付もない小冊子で出版年不明、イングランド大会以降、メキシコ大会以前に刊行されたのは確実でしょう。この小冊子が日本最初のW杯本かもしれません。
ところで本書のイングランド大会の部分に「これまで実際に世界選手権大会を見ている人といえば、野津会長と市田常務理事と、たった二人だけだ。」という記述があります。野津謙と市田左右一は1962年チリ大会を観戦しており、市田はマッチ・コミッサリーも務めています。 7/18付けで紹介したように、1938年フランス大会の観戦記が『蹴球』誌に掲載されているのですが、新田純興氏(サッカー界の長老で、『日本サッカーの歩み』では編集後記を書いている)がこの事実を知らないとは考えられないので、前後の文脈から推察すると、「当時の現役協会関係者で」ということなのかもしれません。
1966年イングランド大会は、「そして、選手団も見学団も、合わせて六〇人の熱心家が、マザマザとその大会のふん囲気を見て、逐一その実情を伝えた。」とのことです。このあたりからW杯フィーバーがはじまったんですね。この大会の記録映画『ゴール』も公開されました。藤枝東、早稲田出身で日立で活躍した松永章もその著書『最後に勝つサッカー』(1987)でこの映画を見たと記しています。代表の検見川合宿では過去のW杯の記録映画を上映していたそうです。
上記松永本中に『藤枝東サッカー六十周年記念誌』発見。


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(01/7/19)
戦前の『蹴球』誌の広告
戦前の『蹴球』誌は協会員に頒布する機関誌だったので、あまり広告は載っていませんでしたが、美津濃やミクニなどのようなサッカー用品、南甲子園運動場の阪神電鉄、経営者が協会に関係していた田辺製薬などの広告がありました。その中で異色なのは「赤坂山王下 幸楽」という料亭の広告で、1頁全体を使っています。「幸楽」といえば、昭和11(1936)年の二・二六事件で反乱軍が篭城したことで歴史に残っています。赤坂見附から日比谷高校にいく途中の遅刻坂の脇にあったようです。サッカー関係者がよく利用していたのか、それとも田辺製薬のように経営者が協会に関係していたのでしょうか。
ベルリン・オリンピックは二・二六事件と同じ年だったんですね。もちろん『蹴球』誌はオリンピック一色です。


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(01/7/18)
W杯を最初に観戦した日本人
7/8付けで、野津謙が日本で最初のW杯観戦記の著者かもしれない(1962年)と書いたのですが、戦前の『蹴球』誌にすでにW杯観戦記を書いた人がいたので紹介します。
野村正二郎 巴里の報告 上 『蹴球』 v.6 no.3 1938.10 p.1-6
野村正二郎 巴里の報告  中 『蹴球』 v.6 no.5 1938.12 p.1-5
野村正二郎 巴里の報告 下 『蹴球』 v.7 no.2 1939.2 p.1-6
FIFA第24回総会に(幻となった)オリンピック東京大会の宣伝に島田(晋?)顧問とともに派遣され、 ついでに1938年W杯フランス大会(第3回)を観戦しています。野村はパリで行われた4試合とボルドー、マルセイユの各1試合の合計6試合、島田はパリで6試合観戦したそうです。イタリア対ハンガリーの決勝戦も観戦しています。上がFIFA関連、中が観戦記、下が審判技術に関するものです。
これ以前の『蹴球』のバックナンバーも見ましたが、1930年W杯ウルグアイ大会(第1回)については、
千野正人 ワールド・カップの話 『蹴球』 no.1 1931.10 p.19-25
1934年W杯イタリア大会(第2回)に関しては、
W.ベンスマン 昨年のワールドカップ争奪戦と其の諸選手に就て-FIFA公報- 『蹴球』 v.3 no.1 1935.2 p.2-6
がありました。以上いずれもコピーをとってきたので、中身についてはおいおい紹介していきたいと考えています。


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(01/7/15)
暑い!
ので、エアコン代を節約しようと歩いて5分の世田谷区立中央図書館に行って目録を検索したら、1986~88年の未収録本を5点見つけました。田辺文庫の追加分と1986年分をやっと終了しました。1986年までで232点収録したことになります。


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(01/7/13)
1988年分アップしました
昨日に続いて1988年分(解説文なし)をアップしました。やっと三浦知良や武田修宏のような現役選手のサッカー本の登場です。


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(01/7/12)
1987年分アップしました
1987年分(解説文なし)をアップしました。続けて1988年分もアップする予定です。


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(01/7/8)
『野津謙の世界』(1979)
上記図書を読みに横浜市立中央図書館に行ってきました。関心があったのはこれまでにでたサッカー伝記本で野津謙が最も古い世代(次がベルリン・オリンピック世代の堀江忠男)であり、しかも広島一中(鯉城蹴球団の母体)出身なので、明治時代の広島のサッカー事情になにか言及があるかもしれないと思ったからです。
次に彼はFIFA理事であり、『サッカー』誌に1962年W杯チリ大会の観戦記を書いているのですが、これが日本人のW杯観戦記の嚆矢かもしれないのです。1954年スイス大会には日本のサッカー関係者で観戦したものはいないと竹腰重丸が彼の著書で断言しています。竹腰は1952年のヘルシンキ・オリンピックは観戦しており、『蹴球』誌に観戦記を寄稿しています。次の1956年メルボリン・オリンピックには彼が日本代表監督として出場しています。1958年W杯スウェーデン大会については不明で、いずれ調べてみたいと思っていますが、この大会で誰も観戦記を書いていないとすれば、野津謙が最初という可能性が強くなるわけです。昔は渡航制限が厳しく、JOC関係とか学会(野津は医学者でもある)のような名目がないと海外に出ること自体が難しかったので、1950年代以前のW杯(オリンピックとは関係ない)を日本から観戦に行った人はまずいないのではないでしょうか。マスコミがW杯に特派員をだしたのは1970年メキシコ大会からです。1966年イングランド大会には多和健雄らが観戦に行っており、この年創刊された『サッカ-・マガジン』誌上で座談会にでています(『サッカ-・マガジン』誌はこの大会では特派員もだしておらず、別冊や増刊も刊行していないようです)。
結果としては『野津謙の世界』には広島のサッカー事情もW杯関係のことも載ってなく、ハズレでした。


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(01/7/5)
追加しました
昨日の規則書のうち、『蹴球規則』(昭和21年度)はNACSIS WEBCATで見つかったので追加しました。三重大学と日本体育大学がお持ちのようです。大正6年のものは早稲田大学がお持ちのようです。未収録のものも秩父宮か田辺文庫ならあるかもしれません。


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(01/7/4)
日本の先輩たちが拠り所とした規則書
と題するコラムが『サッカー』誌11号(1962年)p.64にありました。
1.『アッソシエーションフットボール』(明治36年) 本サイト収録済み
2.『Foot-ball』(明治41年) 同上
3.『アッソシエーション競(ママ)球規定』(極東体育協会,大正6年)武井郡嗣訳 同上
4.『アッソシエーションフットボール規定』(大日本体育協会制定,大正10年)新田純興改定 本サイト未収録
5.『ア式蹴球規則』(大日本蹴球協会,大正13年) 同上
6.『蹴球規則 附用語解説』(日本蹴球協会,昭和21年度) 本サイト収録済み
7.『蹴球規則』(日本蹴球協会,昭和23年度) 本サイト未収録
興味深いのは、「以上の七種は刊行する方でも、受けて読み、かつ、研究する方でも、真剣そのものだった。しかも現在協会として是非とも揃えて保存したいものなのであるから、お手持の方は相当価格をもって譲って頂きたい。どこでも、目にとまったら買い取って御通知を願いたい。」という文章が添えられていることです。1962年時点でJFAにもなかったということです。


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  (01/7/2)
気になる未収録本
『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』。『高校サッカー60年史』(1983)に参考文献としてあげられていたものです。ということは、鯉城蹴球団は遅くとも1883年以前に創立したことになります。東京高等師範学校が正式なサッカーを始めるのは20世紀になってからですから、場合によっては日本サッカーのルーツは広島ということになって、日本サッカー史が大きく書き換えられることになるかみしれません。旧石器時代みたいに(笑)。できればぜひ読んでみたいと思い、このあいだ神戸にいく前に広島県立図書館に電話で問い合わせたところ、所蔵していないとのこと(所蔵してれば広島まで行ってみるつもりでした)。
もう1冊は『華麗なる激突 サッカー世界一』(講談社,1982)。1982年スペイン大会W杯本。ありそうでない。コンフェデ杯を総括した号の『Number』誌にバッチリ引用されていました。


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(01/7/1)
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌 ー JFA以外
1.『蹴球評論』蹴球同好会。no.1(1931.8)ーno.5(1939.1) 田辺治太郎(五兵衛)が中心になっていたようです。
2.『Kick-off』大阪クラブ。no.1(1954.8)ーno.6(1958.3) 川本泰三が中心になっていたようです。『Osaka Club bulletin』という別誌名あり。
いずれも大阪で刊行、田辺文庫で見つけたものです。

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2001年3月~6月

(01/6/30)
追加しました
『神戸大学サッカー部史』(1967)、『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(1967)、『大阪体育大学サッカー部10年史』(1977)、『京都大学蹴球部五拾年史』(1977)、『岐阜のサッカー史』(1980)を追加しました。

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(01/6/27)
田辺文庫に行ってきました
先週田辺文庫に行ってきました。震災後整理しきれていない状況とかで、横積みになっている資料も多く、全部は見られませんでしたが、それでも未見本、『兵庫県御影師範学校蹴球部回顧録』(1967)を始めとする未収録本をかなり発見できました。雑誌も国会図書館、NACSIS WEBCAT (秩父宮も加入している)にないタイトル、秩父宮で欠号になっている部分がありました。日本中でここでしか見ることのできない資料をかなりお持ちのようです。未見本、未収録本についてはすでに追加したものもありますが、たくさんあるので暫時追加していきたいと考えています。
また、図書を1980年代(明治・大正・昭和ということで)でひと区切りして、特に『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌、サッカー関係誌(『アサヒスポーツ』、『運動界』のようなスポーツ総合誌)についても別にファイルを作って紹介したいと考えています。

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(01/6/26)
日本最初のサッカー・ジャーナリスト 山田午郎
日本最初のサッカー記事を書いた人は別にいるのかもしれませんが、サッカー・プロパーで記者となったのは山田午郎が最初だと思います。明治27年福島県出身、青山師範、日大高師卒業、師範在学中にサッカーを始める。教員をした後、大正15年朝日新聞嘱託、昭和3年正社員になり、昭和11年運動部次長、昭和14年同部長、昭和17年庶務部長を経て、昭和24年定年退職。日本蹴球協会理事、『蹴球』(第二次)誌編集長在任中の昭和33年逝去。『蹴球』の後継誌『サッカー』(第二次)の創刊号に追悼記事が掲載されています。
大正10(1921)年の第1回全日本選手権大会(現在の天皇杯)優勝チーム東京蹴球団主将、昭和2(1927)年上海で行われた第7回極東大会日本代表の監督。
サッカー本の著者としては、教員経験や中国のサッカー事情を見聞したことにより、ジュニア世代育成の重要性にいちはやく着眼していることが注目されます。

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(01/6/25)
『サッカー・マガジン』以前のサッカー専門誌 -JFA機関誌
本サイトは日本サッカー史研究をサポートするものですが、ブック・ガイドなので図書を中心としてきました。雑誌はというと、我が国初の商業サッカー専門誌『サッカー・マガジン』(1966年創刊)以前にどんな雑誌がでていたのか、現在のところ私が知っている範囲内で紹介してみましょう。まずはJFA機関誌から。
1.『蹴球』(第一次)。昭和6(1931)年10月~昭和17(1942)年。
2.『サッカー』(第一次)。表紙は『Soccer』。昭和23(1948)年8月~昭和26(1951)年8月。
3.『蹴球』(第二次)。昭和28(1953)年1月~昭和33(1958)年1月。
4.『サッカー』(第二次)。昭和34(1959)年1月~昭和49(1974)?。
『蹴球』→『サッカー』→『蹴球』→『サッカー』と2度同じパターンで変わっているので、複雑に見えます。1.→3.は2.を飛ばして巻次を継承しています。 NACSIS WEBCATには2.の所蔵館がありません。 上記4誌とも国会図書館にはありません。3.→4.になったのは、単に『蹴』の字が制限漢字にひっかかったためとのこと。

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(01/6/19)
追加しました
『サッカーのトレーニング方法』(1962)、『サッカー 見かた・プレーのしかた』(1970)、『図解サッカー編』(1975)、『愛知県体育スポーツ史年表 サッカー』(1979)を追加しました。

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(01/6/17)
戦前の学制
いままで特に説明もせず、(旧制)中学校、師範学校、旧制高等学校、高等師範学校などのような用語を使用してきましたが、このあたりで簡単な説明を。
戦前の中学校は5年制で、尋常小学校卒業後入学、だいたい現在の中学校・高校に相当します。
師範学校は小学校教員養成機関で5年制、尋常小学校の後高等小学校(2年)を経て入学、戦後大学の教育学部、学芸大学、教育大学のような高等教育レベルに昇格しましたが、戦前は中等教育レベルに置かれていたので、全国中等学校蹴球大会に中学校と一緒に出場していました。師範学校の方が年齢が2歳上なので、体力差を利用したキック・アンド・ラッシュ戦法をとるチームが多かったようです。漱石の『坊ちゃん』にあるように、同じ町に師範学校と中学校があるとあまり仲が良くなかったらしいです。
東京と広島にあった高等師範学校は高等教育レベルで、中学校や師範学校の教員を養成していました。現在は筑波大学、広島大学になっています。
旧制高等学校は3年制の高等教育機関で、大学に入学するには高等学校または高等学校に相当する大学予科課程を経なければなりませんでした。官立の高等学校・大学予科と官立大学の定員はほぼ同じだったので、大学への進学はさほど難しくありませんでした。進学、就職(ほぼ全員大学へ進学する)の心配なく、3年間サッカーに打ち込めたわけです。
大学は3年制の専門教育機関で現在のような一般教育はありませんでした。師範学校卒業生は卒業後地元の小学校教員になったのに対して、中学校卒業生で高校または大学(予科)に進学した人はより高いレベルで6年間サッカーができたわけです。ベルリン・オリンピック代表は全員高等教育レベルの卒業生か在学生です(普成専門学校は現在の高麗大学)。

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(01/6/13)
オフサイド
『オフサイドはなぜ反則か』によれば、本来のオフサイドの語義は集団から離れた位置にいることだそうで、私流に解釈すれば、棒倒しのような競技で集団から離れて攻撃にも防御にも参加しないような卑怯者を意味したのではないかと思います。
『神戸一中蹴球史』(1937)によれば、初期のころ、ラグビー同様フォワード・パスを禁じていたことがあったそうです。そういえば、『高校サッカー60年史』(1983)には、スローインをラグビーのラインアウト同様サイドラインに直角に入れていたことがあったという記述がありました。最初のうちはラグビーとサッカーの区別がついていなかったようです。
オフサイドといえば、FAの統一ルールができて以来最大のルール改正が、1925年のオフサイド・ルールの緩和で、それまで3人未満(実質的にはGKとFBの2人)を現在同様2人未満(実質的にはGK1人)に変更したものです。『写真で見るサッカーの歴史』(1982)によれば、FBを1人残してバックラインをどんどん上げてオフサイド・トラップ(当時このことばはなかったらしい)をかけられるので、笛がなりっぱなし状態になっていたそうです。この戦術を考案したイングランド2部のチームは「勝ち点が得点より多い」という試合内容で優勝し、1部でもニューキャッスルが採用など普及していったそうです。この背景にはプロ化したサッカーの勝利至上主義があったとのこと。

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(01/6/11)
1968年のアーセナル - 『ぼくのプレミア・ライフ』を読んで
去年の3月にでたニック・ホーンビー著『ぼくのプレミア・ライフ』を読みました。著者はアーセナルのファンで、1968年から1992年までの試合を自分史と重ねたエッセイです。類書のないユニークな作品ですが、私は寺山修司の競馬エッセイ(寿司屋の政が追い込み馬に自分の人生を重ねて直線一気を夢みて...といゆようなやつ)をなぜか思い浮かべました。
ところで、著者のハイベリー(アーセナルのホーム)・デビューは1968年9月なのですが、同年5月アーセナルは来日して同年10月メキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得することになる日本代表と3戦しています。来日メンバーには著者が酷評しているイアン・ユーアはけがのため含まれていませんが、後に監督としてお家再興するジョージ・グレアムらがいます。第1戦(国立)3-1、第2戦(平和台)1-0、第3戦(国立)4-0、とアーセナルの全勝でした(日本唯一のゴールは釜本)。イングランド(2年前のW杯優勝国、サッカーの母国にして当時最強国とみなされていた)から来日した最初のプロチームで大変な人気でした。アーセナルは私が覚えた最初のイングランドのクラブ名でもあります。第1戦は5万8千、第3戦はどうやって詰め込んだのか6万8千と、サッカー試合としては空前の観衆が入っています。訳者の「あとがき」やネット上の書評でこのことに言及していないことに(著作内容と関係ないアーセン・ベンゲルには言及してるのに)、肩透かしをくったような印象を受けました。

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(01/6/9)
サッカー古書の値段
野球本と違ってサッカー本の古書というのはあまり市場に出回っていないようです。スポーツ専門古書店の ビブリオを覗いてみると図書で一番古いのは『わたしにライバルはいない ベッケンバウアー自伝』の1976年で、大部分が1990年代の本です。古ければ高いというわけでもなく、部史のような非売品に結構いい値段がついています。一番高いのが関西学院の部史で22,000円です。
一方雑誌では、戦前の『蹴球』誌が1冊3,500円という値がついています。秩父宮記念スポーツ図書館の方がまとまって市場に出ないし、出てもバラで1冊3,000円くらいするのでなかなか手が出ないと嘆いておられましたが、なるほどそのとおりですね。

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(01/6/7)
追加しました
『蹴球規定 アツソシエーション』(大正6=1917)、『風呼んで翔ける荒鷲よ慶応義塾体育会ソッカー部五十年』(1978)、 『創立六十周年記念誌』(1985)を追加しました。早稲田の正式名称はア式蹴球部で慶応はソッカー部なんですね。

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(01/6/6)
インデックスはサーチ・エンジンで
当サイト内での書誌レコードの配列は出版年別(同一出版年内は書名の五十音順)なのですが、著者や書名から検索したい場合のインデックスがありません。それは、最初から作らないつもりで、そのような検索をする場合は全文検索できるサーチ・エンジンを利用すればよいと考えていたからです。
私が試した範囲内で現在最良のサーチ・エンジンはGoogleで、当サイトの全ファイルを全文検索できているようです。他のサーチ・エンジンでは目次ページ(index.htmlのファイル)しか検索できていないようです(当方のファイル構成の問題かもしれませんが)。
ただ問題は、例えば著者検索なら、山田午郎のような頻出しない人名は問題ないのですが、岡野俊一郎や釜本邦茂のような頻出する人名の場合、先に他サイトが表示されて当サイトにはなかなかたどり着けないし、当サイトの別ファイルがかなり離れて表示されてしまうこともあるようです。検索語に限定付加を加える(例:[岡野俊一郎 ブック])のも一つの手だと思いますが、それだとなぜか検索漏れを生じてしまうようです。
Googleの検索窓口を設置することはできますが、現在のところサイト内検索のオプションがないので、設置していません。サイト内検索のオプションがある検索窓口を設置できるようになったら目次ページに設置したいと考えています。

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(01/6/2)
『日本サッカーのあゆみ』の文献リスト
本サイトを始めるにあたっては、当然先行するサッカー関係の書誌や文献目録を探したのですが、野球などと違ってサッカーでは書誌はでていないようです。唯一、日本蹴球協会編の日本サッカー正史というべき『日本サッカーのあゆみ』(1974)には各時代にでたサッカー関係書がリストアップされており、参考にさせていただきました。本サイトに収録しているものは基本的には日本全国の図書館の蔵書目録で確認しているのですが、『日本サッカーのあゆみ』でリストされたもので未確認のものが数点あります。それらは本文中で「『日本サッカーのあゆみ』による」と明示してあります。それ以外のものはどこかの図書館に所蔵記録があるはずです(所蔵記録はあるのに資料がない場合もないわけでもないです)。
ところで、『日本サッカーのあゆみ』にリストされていて、どこの図書館を探しても見つからない本はいったいどのようにしてリストされたのか、これまで謎でした。以下は推測ですが、『日本サッカーのあゆみ』の編纂には田辺五兵衛氏が参加しており、氏個人の蔵書からリストアップもされたものがかなりあるのではないでしょうか。従って、田辺文庫にアクセスできれば、未見本がかなり埋まるのではないかと考えています。
それにしても、「自家用図書館」をお持ちとは、ルネッサンス時代のメディチ家のような...

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(01/5/30)
田辺文庫
『神戸少年サッカースクール二十年の歩み』を読んでいたら、「ホールの隣の部屋には、KSSの初代副校長・故田辺五兵衛氏から寄贈されたサッカーの専門書が約1500冊収納され、日本古来から伝わる蹴鞠(けまり)に関する本だけでも40数冊にのぼる。」という記述がありました。本サイトの収録もれや未見本の宝庫なんでしょうね。明治から1985年までで200点に到達していません。1500冊のすごさがわかろうというものです。多分日本唯一のサッカー本コレクションでしょう。
ところで、『ボールを蹴って50年』(1966 未見)は神戸市立中央図書館と田辺文庫で閲覧可能(貸し出し不可)というメイルを下さった方がいらっしゃいましたが、田辺文庫は部外者も利用可能なんでしょうか?ご存知の方はメイルをいただけませんせしょうか。 神戸フットボールクラブのHPはないようです。もっとも、私は東京在住なので簡単には行けませんが。
ちなみに、『ボールを蹴って50年』は『サッカー・マガジン』誌にベタ記事で紹介されており、岩谷俊夫(毎日)、大谷四郎(朝日)、賀川浩(産経)が編纂に参加しているので、装丁なども商業出版物なみとのこと。当時数少なかったサッカー・ジャーナリストを3人も輩出しているところがさすが神戸一中です。

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(01/5/25)
復刻したいサッカー本
坪井玄道の『戸外遊戯法』がベースボール・マガジン社から『明治期野球名著選集』の一冊として復刻されているのは本文に記したとおりです。現在のところサッカーでは復刻した名著選集のようなものはありません。野球と違って、明治期だけで名著選集をだせるほど本もでていません。そこで明治から第一次サッカー・ブームになる以前の昭和30年代までのサッカー本の名著を個人的にピックアップしてみると、以下のようになります。

1.『アッソシエーションフットボール』東京高等師範学校フットボ-ル部編(明治36年)
日本最初のサッカー専門書。それまでの「フートボール」を書名に含む本ではラグビーと並置されていました。
実質的な編纂者は中村覚之助。彼の事蹟についてはリンク先情報をご覧ください。

2.『フットボール』東京高等師範学校校友会蹴球部編(明治41年)
日本最初の実戦経験をふまえたサッカー専門書。

3.『サッカー』佐々木等著(大正11年)
昭和2年に6版が刊行。版元の目黒書店は当時教育関係の大手出版社だったので、かなり普及した本のようです。
NACSIS WEBCAT で検索すると11館が所蔵しており、同時期のほかのサッカー本より多いといえます。戦前の韮崎中学でサッカーの虎の巻として使用されていたそうです。ただし私は未見。

4.『フットボール』モン・チョー・ディン著(大正12年)
戦前のサッカー本ではこれははずせません。

5.『ア式フットボ-ル』山田午郎著(大正14年)
日本最初のジュニア世代育成の重要性に着目したサッカー本。

6.『ア式蹴球』野津謙、鈴木重義著(昭和3年)
野津は後日本蹴球協会会長、FIFA副会長、 鈴木は早稲田サッカーの始祖で、後ベルリン・オリンピック代表監督。
重要人物が書いたサッカー本ということで。

7.『サッカー 理論と技術』堀江忠男、加茂健著(昭和24年)
序文が格調高い。日本サッカー復興宣言。 著者はベルリン・オリンピック代表。

8.『サッカー』竹腰重丸著(昭和31年)
戦前から戦後クラマー氏が来日するまで選手、コーチとして日本サッカーのテクニカル面を支えた人物の代表著作。
当時全盛でマジック・マジャールといわれたハンガリーの戦術までフォローしているところ(著者は実見している!)がすごい。

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(01/5/21)
港町の学校
函館師範(現北海道教育大学函館分校)のサッカー部史『サッカー部六十年史』(1984)には大正時代に函館に寄港した外国の軍艦チームと交流試合をしたことがでていました。それで思い出したのですが、『神戸一中蹴球史』(昭和12=1937年)にも外国軍艦チームとの試合記録があり、座談会ではすでにベルリン・オリンピックの前に外国軍艦チームとの試合で3Bシステムに接していたとの発言がありました。3BシステムとはいわゆるWMシステムで、Mの底辺の3人が3Bというわけです。日本のサッカー「正史」では1936年ベルリン・オリンピックで初めて接したことになっています。ただ、このシステムの契機になったのは1925年のオフサイド・ルール改正で、1930年代前半にはWMシステムを発明したチャップマン監督の アーセナルが全盛時代を迎えており、ヨーロッパではすでに相当普及していたはずです。したがって、神戸一中以外にも新しいシステムに接していた港町のチームがあっても不思議ではありません。
そういえば、中田はアーセナルに行くとか。

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(01/5/18)
出版点数
3/21付けでの年代別出版点数は1970年代が27→57点、1980~84年が42→55点と大幅に増えてしまいました。おそらく80年代後半も当初見込みよりかなり増加するものと考えられます。最大の原因は当初見込みに児童書を含んでいなかったためです。

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(01/5/12)
秩父宮記念スポーツ図書館
念願だった秩父宮記念スポーツ図書館に行ってきました。なにしろ開館日が土・日・祝日以外というのでなかなか行けません。場所は国立競技場メイン・スタンド下という迷いようのないところにあります。
収穫だったのは日本蹴球協会の機関誌『蹴球』『サッカー』を所蔵しているのがわかったことです。この2誌(昭和30年代はじめころに書名が変わったらしいのですが、ちょうどそのあたりが欠号になっていました)は日本全国の図書館の所蔵記録を見てもなかなか見つからない貴重な資料です。『サッカーマガジン』が創刊(昭和41、1966年)されるまで唯一のサッカー専門誌でした。保存状態は良好でした。
蔵書目録(カード目録、データベース化されておらず、WEBアクセスは夢のまた夢か)を見ると、未収録本を大量発見(笑)。これまで未見だったものも見つかりましたので、暫時追加していきたいと考えています。

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(01/5/7)
またまた発見
堀江忠男著『わが青春のサッカー』(1980)中に『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』発見。

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(01/5/4)
意外な人物
『神戸一中蹴球史』(1937年)(現在の兵庫県立神戸高校のサッカー部史)をみると大正9年度主将は白洲次郎になっています。ポジションはCF。卒業後ケンブリッジに進学し、その語学力により占領時代には吉田茂の片腕としてGHQとの折衝に活躍した人物です。現在では夫人の白洲正子氏が古美術関係で著名ですが、その影響からか彼の伝記も刊行されています。平凡社のコロナブックスシリーズには野球部のユニフォーム姿の写真があります。『神戸一中蹴球史』の座談会によれば、当時野球部は全国的強豪で、レギュラーになると猛練習があり、進級、進学にさしつかえたので、現在でいう同好会的にサッカー部が 発足したとのことです。多分彼も野球部から流れた組の一人なのでしょう。実家は富裕で、中学時代から車を乗り回していたそうです。現在の高校選手権の前身にあたる日本フートボール大会(当時は実質近畿大会で予選もなかった)に3年連続出場しています。
『附属中学サッカーのあゆみ』(1983年)(東京高等師範学校附属中学、現在の筑波大学附属高校のサッカー部史)には昭和19年卒業に映画監督今村昌平の名があります。選手ではなく、マネージャーだったそうです。 今村昌平は助監督としても優秀で、『東京物語』(小津安二郎監督)、『幕末太陽伝』(川島雄三監督)のような日本映画史上に残る名作の助監督を務めています。きっとマネージャーとしても仕切りがうまかったんでしょうね。

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(01/5/2)
和田邦五郎のサッカー書
『高校サッカー60年史』に「東京高師の主将として、恐らく本邦最初の蹴球入門書を著された和田邦五郎先生」という記述があったことは、4/26付けで記したとおりです。気になったので『東京教育大学サッカー部史』(1974)を調べてみました。和田邦五郎は大正9年度の主将で、和田自身の回想によれば『アッソシエーション・フットボール』という冊子をミカド商会から刊行したとのことです。この本は本サイトでは東京高等師範学校校友会蹴球部編『フットボール』(大正9年)として収録しているものです。表紙、標題紙、奥付けなどで書名が異なっているのかもしれません。『高校サッカー60年史』で回想された方は明治36年の『アッソシエーション・フットボール』と書名が同じなので、「本邦最初の蹴球入門書」と勘違いしたのでしょうね。

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(01/4/30)
高校サッカーとメディア
現在高校選手権は大阪毎日新聞主催の日本フートボール大会ア式蹴球の部として大正7年にはじまりました。ア式蹴球の部という名称が示すように、ラグビーの部が同時に開催されており、現在も花園で開催されている高校ラグビーに継承されています。花園の高校ラグビーの方は現在も毎日新聞主催ですが、サッカーの選手権は昭和41年度から毎日が主催から降りています。昭和45年度から日本テレビ系が後援するようになり、昭和51年度から会場を関西から首都圏に移しました。昭和56年度(決勝は1982年)大会には初めて全都道府県から各1校(東京は2校)ずつ参加し、大会が大規模化し始めます。
このときの決勝は武南対韮崎で、韮崎の地元山梨放送の視聴率は甲府市・韮崎市平均で、88.5%(東京地区10.6%)だったそうです。
一方インターハイはNHKが絡んでいます。『高校サッカー60年史』中の元高体連サッカー部長松浦利夫による「高校総体参加の経緯」によれば、東京オリンピックを契機に従来バラバラに開催されていた高校の各種競技を一箇所にまとめた全国大会にして、NHKが放映権料名目で補助金を出すことになったということです。初年度(昭和38年、サッカーは昭和41年から参加)は運営費総額6,215万円のうち3,075万円をNHKが出し、残りを文部省、日本体育協会などが負担したとのことです。本来の趣旨からすれば、「選手権」をインターハイに統合すべきなのですが、「選手権」は毎日主催で別季節に開催されているので毎日の意向が問題になります。松浦によれば、「総体に入れるか入れないかという難しい時に、「選手権」を共催していた毎日新聞社が「総体に入ってもよい」といった見解を示した。日本協会は驚いて、竹腰理事長を調査のため、大阪毎日に派遣した。」とのことです。さらに「教育委員会たち総体関係者は、毎日新聞社が後援に入るものと考え、プログラムの表紙に毎日の名を刷り込んでおいた。7月になって毎日新聞社に連絡したら、「入れないで下さい」と丁重に断られた。」とも述べています。
結局、毎日は昭和41年度から選手権の主催を降り、同年からから始まったインターハイの後援もしないことになり、高校サッカーの全国大会とは無関係になります。

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(01/4/28)
日韓戦の祖型
戦後の日韓戦の戦績は韓国優位ですが、試合のパターンは韓国が当たりの強さ、スピード、勝利への意欲で勝り、それに日本が技巧で対抗するということが多いようです。このパターンは戦前からあったようで、昭和10年に全日本選手権大会 で優勝した京城蹴球団の決勝の戦評にも同様のことが書かれています。
戦前の中学サッカーでは全国大会化した2年目の昭和3年には朝鮮半島から出場した平壌祟実があっさりと優勝しています。『高校サッカー60年史』に記載された戦評では「体力に優れたうえ技量も又優秀で、キック、ランニング、パス三拍子揃った洗練されたチームではあるが、ただラフで余りにバックチャージが多かったのは遺憾であった。」とあります。翌昭和4年は平壌高普が準優勝したが、昭和5~12年は朝鮮半島からは不参加、復帰した昭和13年は祟仁商がベスト4、昭和14年は棄権。なお、昭和14年準優勝した聖峰中学は近畿代表だが、メンバーは在日朝鮮人。
圧巻は昭和15年に優勝した普成中学で、1回戦対湘南中8対1、2回戦対函館師範12対0、準決勝対明星商業5対2、決勝対神戸三中4対0、と文字どおり圧勝しています。戦評は「11人の持つ個人技、とくにキック力、体当たりの強さなど他チームより格段の強みを持っていた。また団結力のある点、チーム全体のキビキビした点、試合のカケヒキにおいても中等級離れのした堂々たるもので、大学チームと試合しても接戦を演じる実力のほどがうかがわれ、他の15チーム中、何校が挑戦しても歯が立たなかったであろう。」と絶賛しています。
結局、全国中等学校蹴球大会で朝鮮半島代表は、実質5回出場、うち優勝2回、準優勝1回、ベスト4が1回、1回戦で敗退したのは初出場の昭和2年だけ、ということになります。

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(01/4/27)
1982W杯本
杉山隆一著『男は勝負 ゼロからの出発』に『華麗なる激突 サッカー世界一』という1982年W杯スペイン大会の記録集が講談社から刊行されているとありました。そういえば1978年と1982年のW杯本を収録していないことに気づきました。
4/26付けの未収録本のうち『湘南...』と『茨城県...』は藤沢市立と茨城県立図書館で書誌事項を確定できました。『鯉城...』は広島市立、県立図書館が目録をWeb公開していないのでどうしようもありません。しかし100周年とはすごいですね。広島カープよりずっと古いわけですな。
成田十次郎著『サッカー』の参考文献に『最新・サッカー指導法教本』(サッカー指導法研究会編日本体育社)発見。

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(01/4/26)
『高校サッカー60年史』の参考文献
『高校サッカー60年史』の参考文献で収録していないものは、『全国高校サッカー40年史』、『神奈川県協会創立50周年記念誌』、『湘南サッカー半世紀を経て』、『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』、『茨城県協会30年史』があります。書誌事項がわかりしだい順次収載したいと思っています。また、本文中(p.87)に「東京高師の主将として、恐らく本邦最初の蹴球入門書を著された和田邦五郎先生」という記述があります。これは『アッソシエーション・フットボール』(明治36年)とは別の著作ということになるのでしょうか?

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(01/4/25)
六甲颪の不思議
戦前の中学サッカーの回顧談を読むと冬の南甲子園運動場は六甲颪が吹いて大変寒かったそうです。神戸一中や御影師範は六甲山麓にあって六甲颪の下で猛練習に励んだとのことです。ところで『六甲颪』とは阪神タイガースの応援歌(正しくは『阪神タイガースの歌』)なのですが、野球シーズンには甲子園には六甲颪(北風)は吹かず、これまた有名な「浜風」(南風)が吹いているはずです。「六甲颪に颯爽と~」という歌詞は「~無敵の我等ぞ阪神タイガース」と同じくらいリアリティを欠いているように思われます。

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(01/4/18)
C.W.Alcockと山田午郎
明治期のサッカー本の参考図書の著者としてよくでてくるCharles William Alcock(1842-1907)は名門パブリック・スクールのハロー出身、 『Sportsman』紙の副編集長(イギリス=世界最初のサッカー・ジャーナリスト)でした。彼は同時に1870~1895年の長期間FA事務局長(Secretary)を務め(無給)、FAルールによるサッカーの標準化、1871年のFAカップの創設に貢献しました。
一方、山田午郎は青山師範(現東京学芸大学)出身、日本最初のサッカー・ジャーナリスト(朝日新聞運動部長)です。Alcockと山田にはもうひとつ共通点があります。 Alcockは第1回FAカップ優勝チームであるワンダラーズの主将であり、同じく山田は第1回全日本選手権大会(現在の天皇杯)優勝チームの東京蹴球団の主将であったことです。

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(01/4/16)
『戸外遊戯法』が古書市場に
本サイトで日本最初のサッカー本として紹介した坪井玄道 編『戸外遊戯法』が天牛堺書店のホームページにでていました。価格は1万7千円です。本文でも紹介したようにベースボール・マガジン社から『明治期野球名著選集』の1点として復刻されている野球史上の重要文献でもあります。また、テニス、卓球のような他の球技史でも草分け的存在のようです。初版は和装本ですが、後に洋装で版を重ねているので、明治時代にはかなり読まれたスポーツ本のようです。全然関係ありませんが、天牛書店といえば、本店が織田作之助の『夫婦善哉』にでてきますね。

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(01/4/10)
漏れがかなりありました
下記にサッカー本の概数を示したのですが、よく調べてみると漏れがかなりありました。たとえば1970年代は27点から36点に増加しました。とりあえず書誌情報だけは記載しておきました。紹介文は暫時追加していく予定です。目次ページの解説文も変更しておきました。

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(01/3/21)
これまでにでたサッカー本はどれくらいあるの?
サッカー本をどう定義するかという問題は話が長くなるのでさておいて、明治から1999年までサッカー本がどれくらい出版されているかとりあえず概数をを示してみましょう。


出版年 点数
1899年以前 2
1900~09年 5
1910~19年 0
1920~29年 8
1930~39年 5
1940~49年 2
1950~59年 4
1960~69年 21
1970~79年 27
1980~89年 98
1990~99年 569

1989年までの総数が172点、1990年代が569点というわけで、総数741点のうち1989年までのものは23%にすぎないのです。

ちなみに1990年代の内訳を示すと下記のようになります。


出版年 点数
1990年 7
1991年 10
1992年 15
1993年 82
1994年 102
1995年 42
1996年 46
1997年 45
1998年 159
1999年 61

Jリーグ開始前後でサッカー本の出版点数が激変したのが一目瞭然ですね。ピークに達したのは1998年、いうまでもなく日本が初出場したW杯フランス大会の年です。159点ということは約2日に1点サッカー本がでてたということになります。さて2002年には...


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第13回メキシコ大会(1986年)

向笠直 「コロンビアの開催返上で中に浮いたワールドカップ’86」
『サッカー・マガジン』v.18 no.1 1983.1 p.164-167

米国の切り札はキッシンジャー アベランジェ対コウチーニョ ブラジル側は開催に「問題なし」 すべての結論は来年5月の会議で


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渡辺よしひろ 「1986年W杯はブラジルで行われる!?」
『イレブン』v.13 no.1 1983.1 p.68-71

コロンビア国民の77パーセントがW杯開催に反対 南米サッカー連盟の支持を取りつけたブラジル初のアメリカ開催の難点は人工芝グラウンド FIFA要求をすべて満たしているブラジル


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「’86年W杯開催国はどこか!?」
『イレブン』v.13 no.4 1983.4 p.110-111

ブラジル-国民の熱望も国の財政赤字とCBFの権力闘争が大きな障害だ アメリカ-大新聞のサッカー報道に表われた沈滞ムードとキッシンジャー元国務長官の熱意 カナダ-サッカーの発展途上国であるカナダが指名されるには多くの問題点がある メキシコ-「移動の便利なW杯」をスローガンに2度目の開催に意欲的だが・・・


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中村一夫、向笠直 「ブラジル涙の誘致断念で始まったワールドカップ’86開催地レース」
『サッカー・マガジン』v.18 no.6 1983.6 p.142-144

コウチーニョの敗北 突然のメキシコ有利評 アベランジェはメキシコ派?


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鈴木武士 「ワールドカップ’86メキシコが2度目の開催」
『サッカー・マガジン』v.18 no.8 1983.8 p.140-142

すでに決まっていたメキシコ開催 超大国米国を破った 待ちどおしい“フィエスタ”


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渡辺よしひろ 「’86年W杯へ不安なスタートを切ったパレイラ軍団」
『イレブン』v.13 no.8 1983.8 p.88-90

代表復帰で燃える大ベテラン、レオン 実践で急造チームの欠点が現われた満足なできではなかった、とパレイラ監督 次期W杯までの3年間で最強チームにする


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「’86ワールドカップ予選組み分け、日程」
『サッカー・マガジン』v.19 no.1 1984.1 p.150-151

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「’86W杯メキシコ大会予選組み分け決定」
『イレブン』v.14 no.2 1984.2 p.99

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「メキシコ大会予選組分け決まる!!」
『サッカー・ダイジェスト』v.5 no.3 1984.2 p.91

複雑になった予選システム 優勝候補筆頭はブラジル


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「86W杯予選組み分け決まる 日本、まずシンガポール、北朝鮮と」
『サッカー』 no.32 1984.2 p.24-25

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「1986年ワールドカップアジア地区予選日程表」
『サッカー・ジャーナル』no.9 1984.8 p.8

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ポール・ムーン 「オリンピック予選惨敗後のニュージーランドワールドカップ予選へ始動」
『サッカー・ジャーナル』no.9 1984.8 p.10-11

またも英国から選手を輸入 シンガポールでの敗因は? ワールドカップも強敵ぞろい ワールドカップへの見通しは?


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「1986年ワールドカップ予選組分け」
『サッカー・ジャーナル』 no.7 1984.3 p.13

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「13の座を賭けメキシコへの死闘が始まった 激戦の欧州予選を勝ち抜くのはどこか」
『イレブン』v.14 no.12 1984.12 p.72-75

Group2-ポルトガル、アウェーで勝ち幸先よいスタート Group4-ブルガリア、バルカン半島の宿敵と分ける Group5-逆転快勝、マジック・マジャール復活へ Group6-ノルウェーの夢打ち砕いたエルチェール Group6-スイス、ノルウェーを撃破!


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「1986年W杯・欧州地区予選日程」
『イレブン』v.14 no.12 1984.12 p.76

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「ワールドカップ予選 ソ連が敵地で2試合苦しいスタート」
『サッカー・ダイジェスト』v.5 no.13 1984.12 p.80-81

複雑になった予選システム 優勝候補筆頭はブラジル


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「日本代表、ワールドカップ予選へ始動」
『サッカー・マガジン』v.20 no.3 1985.3 p.56-59

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ウルフェルト・シュレーダー 「中盤の指揮官マーガット不在でリズムを欠いた西独イレブン」
『イレブン』v.15 no.3 1985.3 p.72-74

西独に相性悪い小国とのアウェー戦 苦戦を予言していたベッケンバウアー監督 中盤の指揮官不在が苦戦の原因だ 唯一の明るい材料は18歳の新人トーンの活躍


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「1986年W杯・欧州地区予選日程」
『イレブン』v.15 no.3 1985.3 p.75

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「アジアの壁を突き破れ! 初のワールドカップ出場に燃える17人」
『サッカー・マガジン』v.20 no.4 1985.4 p.36-41

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スレッシュ・ナイル 「ワールドカップ出場へ日本代表の夢広がる! シンガポール-北朝鮮レポート」
『サッカー・マガジン』v.20 no.4 1985.4 p.68-70

「張り子の虎」北朝鮮 徹底した守備策のシンガポール 前途の厳しい北朝鮮再建の道


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「初戦から勝利をめざす ワールドカップ予選直前森監督にインタビュー」
『サッカー・マガジン』v.20 no.4 1985.4 p.72-74

不気味な北朝鮮 いじきたなくても勝つ 準備ゲームが足りない


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ミシェル・ピコ 「欧州はもう佳境代表第1号は、5月にも誕生の予定!?」
『サッカー・マガジン』v.20 no.4 1985.4 p.140-143

不振のベルギー西ドイツもまだ燃えず ドーバーに波立たず オランダは死んだのか? デンマーク旋風はことしも吹き荒れるか? 二月二十七日に賭けるスコットランド


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ウルフェルト・シュレーダー 「西独サッカーの名誉回復に限りない情熱を燃やすベッケンバウアー監督の祖国愛」
『イレブン』v.15 no.4 1985.4 p.68-71

ポルトガル人記者の辛らつな質問 苦悩を示す皇帝監督の“衝撃発言” 祖国西独のための全力を尽くせ! 新監督が目指すのは“美しいサッカー”の復活 マスコミに打ちあけた“10”の希望


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パット・コリンズ 「われわれはメキシコのグラウンドに必ず立つ!」
『イレブン』v.15 no.4 1985.4 p.72-74

慎重居士B・ロブソン監督強気の発言 頭痛のタネはライトとウイリアムスの暴れん坊 やっと芽を出した“未完の大器”ホドル


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「1986年W杯・欧州地区予選日程」
『イレブン』v.15 no.4 1985.4 p.84

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「1986年W杯アジア・南アメリカ地区予選日程」
『イレブン』v.15 no.4 1985.4 p.85

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「日本代表のW杯予選突破作戦はこれだ! W杯予選直前の森監督に聞く」
『イレブン』v.15 no.4 1985.4 p.86-89

W杯予選第1戦はシンガポール ボルドーを完封した自信は大きい 奥寺、尾崎が復帰できなかった事情 ゲームメーカーは木村しかいない 全身全霊を打ち込める選手を


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森孝慈 「W杯第1戦 絶対に勝つんだ まとまりと気持ちの充実が勝因」
『サッカー』 no.39 1985.4 p.6-8

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岡村新太郎 「試合評」
『サッカー』 no.39 1985.4 p.8-9

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荒井義行 「W杯第2戦 原が決勝ゴール 雨中作戦が功を奏す」
『サッカー』 no.39 1985.4 p.10-11

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石井義信 「W杯第2戦 勝つためのプレーに徹底 特筆されるGK松井の好守」
『サッカー』 no.39 1985.4 p.12-14

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川本学 「全日本、メキシコへの第一歩飾る! 3つのセットプレー生かし快勝」
『サッカー・マガジン』v.20 no.5 1985.5 p.68-72

木村の魔術で待望の先制ゴール! 足が止まって生まれた“魔の時間” 3ゴールでの一勝にもまだ不満! 水沼復調!大宇との強化試合で実りあり


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「現在の南米の王様はウルグアイだ!! 1986年メキシコ・ワールドカップ南米予選展望」
『サッカー・マガジン』v.20 no.5 1985.5 p.152-153

攻撃力低いアルゼンチン ラプラタの主役はウルグアイ 新体制で巻き返すか王国ブラジル


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.5 1985.5 p.154-155

順風満帆のイングランド西ドイツも復活のきざし イランに突然の出場禁止処分決まる!アジア、南米の予選もいよいよスタート


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「ブラジルの新監督にエバリスト・マセードが就任!」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.82-83

テレー・サンタナを断念したCBF ブラジルにはブラジル流サッカーがある エバリストは歴代19番目の代表チーム監督


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ウルフェルト・シュレーダー 「3人の主力プレーヤーを欠きながら最大の敵ポルトガルを粉砕した西独の勝利はベッケンバウアー監督と11人の強固な“意志”だった」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.100-103

W杯予選通算3試合無敗の快記録を樹立 エース欠場のハンデを克服したゲルマン魂 皇帝監督の限りない情熱とイレブンの闘志 ベッケンバウアー監督に直撃インタビュー


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パット・コリンズ 「本大会出場当確を決めたゴールデンボーイ、マーク・ヘイトリー」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.104-107

勝負に賭けたロブソン監督の選手起用 GKジェニングスとシルトンの名プレーの競演 息詰まるヘイトリーvsGKジェニングスの攻防
予選リーグの後半戦を面白くしたスペインの新人ゲッター、クロス 国際舞台へのデビュー戦を飾った新鋭クロス


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「森監督が唱える“クールに燃えよ”を実践した日本代表イレブンに、アジア制圧の自信は芽生えたのか!?」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.112-115

意義のある初戦での勝利 多くの選手をストックし、常にベストのチームで戦う 日本、幸先よい会心のスタート-シンガポール1-3日本 後半、柱谷の追加点でリズムを回復


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「全日本イレブンへ期待と不安を込めたファンからの熱いメッセージ」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.116-118

中盤のつなぎと速いパスワークがカギ これが代表チームの必勝法だ! 守備と攻撃の一体化が得点につながる 気力、体力、精神力で代表権獲得だ


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真之剣太郎 「W杯予選の“助っ人”要員車範根」
『イレブン』v.15 no.5 1985.5 p.129

クラマー監督も好意的


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「強敵・北朝鮮に雨中の勝利」
『サッカー・マガジン』v.20 no.6 1985.6 p.68-72

いつもと違った国立-二つのポイント 前半20分、原が落ちついて完璧な先制点 雨でぬかるんだグラウンドは日本に味方 先制点で目覚め、つかんだ二つの決定機 北朝鮮の猛攻に耐え、勝利の道切り開く


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「2次予選(対中国?)に与那城、奥寺は必要ないか?」
『サッカー・マガジン』v.20 no.6 1985.6 p.74-76

効果あった再チェック 与那城投入は不安か 奥寺呼び戻しも検討中


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「モンテビデオの空はどこまでも青かった メキシコ・ワールドカップ予選南米第2組熱戦詳報」
『サッカー・マガジン』v.20 no.6 1985.6 p.168-170

スタートはチリ優勢 “セレステ”軍団の粘り 順調に伸びた若手たち


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.6 1985.6 p.172-173

欧州戦線は激戦のきざしウルグアイが突破第一号


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アティリオ・ガリード 「世界の桧舞台にスカイブルーの最強軍団が帰ってきた!」
『イレブン』v.15 no.6 1985.6 p.68-71

世界を駆け抜けた先頭の空色ジャージ 自国ファンの期待に燃えた最強軍団 暴徒の妨害でチリに無念の敗北 高地を克服した空色軍団の執念


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「’86W杯欧州地区予選 中間成績と日程」
『イレブン』v.15 no.6 1985.6 p.74

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「1986年W杯アジア・南アメリカ地区予選日程」
『イレブン』v.15 no.6 1985.6 p.75

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「日本勝った! 北朝鮮に歴史的初勝利2次進出へ王手」
『イレブン』v.15 no.6 1985.6 p.80-82

幸運を呼んだ日本の闘志 北朝鮮にキャリアのなさが出た GK松井、ファインセーブの連続! 死闘を乗り越え史上初の勝利


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真之剣太郎 「代表チームに黄信号! 金正男氏が監督に昇格」
『イレブン』v.15 no.6 1985.6 p.97

国民の期待集める金監督


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後藤健生 「どうした北朝鮮のサッカー アジアの雄、北朝鮮の低迷の原因と復活の可能性をさぐる」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.3-7

あまりに単調だった北朝鮮の攻め 単純な放り込みに終始 プレッシャーにつぶれた北朝鮮 国際経験の不足
体格、体力至上主義の北朝鮮サッカー 体もプレーも固い
北朝鮮は柔軟な選手を生み出せるか 暗記、模倣が中心の教育 選手育成のシステムの問題 スポーツでも政治優先
北朝鮮サッカー復活の可能性


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「「近くて遠い」ピョンヤン遠征から・・・」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.8

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「これが香港チームだ!!」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.9

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「1986年ワールドカップアジア地区第一次予選結果」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.10-11

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池原謙一郎 「冷たいファンと冷たいマスコミと」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.20-21

「冷たいサッカーファン」 マスコミも冷たい・・・? ゲームの質と観客の量 “こどもサッカー論”を


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佐山一郎 「われわれは北朝鮮の首都・平壌で引分けた W杯サッカー日本代表チーム・平壌随行記」
『Sports graphic number』 no.124 1985.6 p.112-118

歓迎の少女、と思ったら 平壌焼酎での一気ゴール 「百年たてば山河も変わる」


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財徳健治 「日本、北朝鮮にハードな守りで粘り分け!!」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.68-72

パレス(宮殿)かホース(馬)か イライラ連続の試合前 「勝つため」の北朝鮮の猛攻 「きょうは忙しくてかなわん」


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ルディ・グーデンドルフ 「日本代表チームについて」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.80-81

プロとして経験豊富な奥寺は二次予選にプラス 日本でもっとも優れたストライカー戸塚を代表へ


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牛木素吉郎 「ムードの良さで集中力が持続」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.94-95

森ファミリーの成功 W杯至上主義に警告 東アジアの大会を開け


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望月三起也 「北朝鮮にアウェー分ける もう一歩がんばれニッポン」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.124-125

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ミシェル・ピコ 「マジック・マジャールは強く、たくましく蘇った!」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.140-142

ファンをひきつけた第一戦 将来の星データ-リ 復活にかける一年組織づくりが狙い


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.7 1985.7 p.144-145

フランス、予選で初黒星ハンガリーは欧州第一号 アジアも一次予選大詰め


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財徳健治 「流れるような展開から意外性ある攻撃が必要」
『サッカー・マガジン』v.20 no.8 1985.8 p.68-70

不足していた「修正能力」 予測を修正し次の動きにはいるまでの遅さ シンガポール戦でみせた前後半の明暗の好対照 攻撃参加の意識の強化を


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リー・ミン・プイ 「香港は日本に勝てる!?」
『サッカー・マガジン』v.20 no.8 1985.8 p.72-74

心臓も止まる勝利 香港代表は攻撃的チーム “夢”から“希望”へ


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根本正人 「メキシコ’86へ着々と進行」
『サッカー・マガジン』v.20 no.8 1985.8 p.76-78

真珠の夜景とスモッグのメキシコシティ 改装工事の進むアステカ、オリンピコ68 調子の出ないイタリア 消化不良の開幕ゲーム


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.8 1985.8 p.72-74

ブラジル、アルゼンチン南米予選で好スタート!! アジアは一次予選終了、北中米カリブも二次終了


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「最終予選進出は紙一重気になるのは攻撃力の弱さだ!! 日本vs香港の第2次予選第1戦は8月11日神戸で」
『サッカー・マガジン』v.20 no.9 1985.9 p.68-70

日程取り決めで得をしたのは香港 奥寺は“ノー”、戸塚は代表復帰? 勝利のためにファンも参加しよう


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根本正人 「来年のワールドカップに向け世界はメキシコを軸に自転」
『サッカー・マガジン』v.20 no.9 1985.9 p.76-78

国民性とサッカー 世界のトップチームと六カ国のトレーニング サポーター気質


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.9 1985.9 p.148-149

南米からアルゼンチン、ブラジルも代表権を獲得 アフリカ、北中米カリブ海は三次予選へ突入 警告、退場などで出場停止者続出!!


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「日本3ゴールで香港に快勝 神戸の夜に日本高笑い」
『サッカー・マガジン』v.20 no.10 1985.10 p.68-71

試合を左右した先制ペナルティー 二点の連取で生まれ出た積極性 素早く、クールに生まれた3点目 「ホーム香港では四点以上取る」 正念場でカギを握るのは攻撃力


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望月三起也 「応援の波に乗って香港を沈める」
『サッカー・マガジン』v.20 no.10 1985.10 p.124-125

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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.10 1985.10 p.144-145

予選もいよいよ秋の本番十一月までに全代表決定


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「いよいよ韓国と決戦」
『サッカー』 no.42 1985.10 p.2-6

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杉山隆一 「日本-香港第1戦を見て」
『サッカー』 no.42 1985.10 p.6

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「3次予選の相手は日本 強気の香港!韓国代表監督金正男監督は日本対策検討」
『サッカー・マガジン』v.20 no.11 1985.11 p.74-76

日本を見下していた香港 日本の油断は大敵 韓国サイドは日本に標準 過信だけが心配


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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.11 1985.11 p.144

ポーランド四連続出場


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「最終予選は宿命の日韓対決 日本、アウェーでも香港を撃沈!」
『サッカー・マガジン』v.20 no.12 1985.12 p.68-72

明暗を分けた開始直後の奇襲作戦 戦意を喪失させた木村の先制ゴール 森下PK阻止!原がヘッドで決勝点 韓国第一戦、与那城、戸塚代用入り サポーターへ告ぐ!10・26国立集合


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「“敵は過信だけだ” 最強といわれる韓国代表を分析」
『サッカー・マガジン』v.20 no.12 1985.12 p.74-76

「日本と韓国は五分五分」控え目な金正男監督 攻撃力のある両サイドバック 多彩なMF、FW陣中心は長身の崔淳鎬


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市村保雄 「メキシコ’86予定通り開催へ!!」
『サッカー・マガジン』v.20 no.12 1985.12 p.78-79

マグニチュード8.1の大地震、メキシコを襲う スタジアム無傷、予定通りメキシコ86開催へ


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望月三起也 「敵地の応援はもうこんな感じなのです そりゃ怖ろしいもンです」
『サッカー・マガジン』v.20 no.12 1985.12 p.124-125

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「ワールドカップ・インフォメーション」
『サッカー・マガジン』v.20 no.12 1985.12 p.1142-144

カナダ初出場!!欧州からも西ドイツなど続々決定


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森孝慈 「成果あったが攻撃力が課題 W杯予選対香港第2戦」
『サッカー』 no.43 1985.12 p.8-10

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岡村新太郎 「試合評」
『サッカー』 no.43 1985.12 p.10

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「日本、初出場逸す 韓国がメキシコへ」
『サッカー』 no.43 1985.12 p.12-19

第1戦-残念ながら韓国に一日の長(石井義信) 第2戦-W杯予選を闘い終えて(森孝慈) 試合評(岡村新太郎)


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後藤健生 「日本代表1985モデルを1980モデルと比較すれば・・・」
『サッカー・ジャーナル』no.13 [1985.12] p.2-10

第一部-日本代表85モデルの完成と限界 幸運と勝利が一つのチームを作った 幸運で、一次リーグを辛くも突破 幸運だけではなくなってきた香港戦 選手たちが、楽しそうにプレーした FW、MFの守備で負けた韓国戦
第二部-遥かなり、五年の歳月・・・ 代表チームの寿命は短いものだ 五年前に面白い全日本が登場した 第一期(80.12~81.6) 第二期(82.1~82.11)-パス回しを早く!! 第三期(82.11~83.10)-一九八五モデルの原型完成 第四期(84.1~85.11)-厚く、巧みな守備が完成
終章-この健闘は未来につながるか 遅攻もあるチームは作れなかった? 代表強化に必要なバックアップ体制


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「日本サッカー狂会香港へ、韓国へ、遠征で大イソガシ」
『サッカー・ジャーナル』no.13 [1985.12] p.12

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佐山一郎 「W杯サッカー本大会初出場ならず 日本代表、夢のあと・・・」
『Sports graphic number』 no.136 1985.12 p.94-97

「メヒコに行きたいァ」


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森孝慈 「この悔し涙は忘れない」
『Sports graphic number』 no.136 1985.12 p.98-101

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「激戦のE組韓国は初戦アルゼンチン 86年メキシコ・ワールドカップ1次リーグ組み合わせ」
『サッカー』 no.44 1986.2 p.48-49

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「メキシコ・ワールドカップ担当審判員リスト」
『サッカー・ジャーナル』no.14 [1986.3] p.8-9

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「アルゼンチンV2 マラドーナが最優秀選手 得点王はリネカー」
『サッカー』 no.47 1986.8 p.32-35

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賀川浩 「偉大な敗者たちは、芳しき熟成のかをり」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.3-8

プラティニと四銃士-フランス プラティニは、1976年から 1982年、ジレスを加えて ヨーロッパ選手権で、フランス完熟 プラティニの、見果てぬ夢Wカップ
テレ・サンタナの黄金の4人-ブラジル 1981年に見た、テレ・サンタナの原型 1982年、黄金の四人の完成 メヒコ86、バランスはとれたのに
体力と闘争心が原点-西ドイツ ベッケンバウアーのエレガンスは“変種” ルンメニゲとシュスター
その他熟成チームと若いアルゼンチン 意外なベスト4進出、ベルギー イタリアもデンマークも熟成型 若いアルゼンチン、4年後の熟成へ期待


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後藤健生 「アジアは「世界」に追いつけるか? W杯、アジア大会を観戦して」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.12-16

「世界」に一歩近づいた韓国 大きく、速い、中盤の展開力 個性を活かすチーム作り
圧倒的に強かった中東勢 エキサイティングなアラブのサッカー 個性的なスターが多い中東勢
チーム作りに失敗した日本 チームになっていなかった もったいない、奥寺の使い方
アジアは世界に追いつけるか? アフリカには追いつける


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池原謙一郎 「マスコミにみるワールドカップ」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.18-19

相変わらず島国的・・・ W杯のなかの「日本」 なぜワールドカップなのか


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「得点者最終順位、ジャーナリストは何人来たか?、各国はいつメキシコに乗り込んだか?、ほか」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.20-21

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「全選手出場記録」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.22-27

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「審判員出場記録表」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.28

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「スタジアム別観客動員記録表」
『サッカー・ジャーナル』no.15/16 1986.10 p.29

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第12回スペイン大会(1982年)ー4

賀川浩 「マラドーナを見たあと町中はフォゲレスと呼ぶ祭りのピークだった」
『サッカー・マガジン』v.18 no.1 1983.1 p.104-105

アリカンテへの車窓から マラドーナを間近で見る “エル・シッド”再現はならず


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牛木素吉郎 「列強が世界に見せた技術と戦術 ブラジル」
『サッカー・マガジン』v.18 no.1 1983.1 p.120-121

魂を揺さぶるもの 黄金のカルテット 良さのすべてを出す


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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 3」
『サッカー・マガジン』v.18 no.1 1983.1 グラビア頁

ジブチ ガボン マリ リベリア


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岡野俊一郎 「“世界最強”ブラジルの敗因はインテリジェンスの欠如だった」
『イレブン』v.13 no.1 1983.1 p.94-97

イタリア見事な先制攻撃 同点後、なぜイジドロを投入したのか ブラジルの敗因はなにか?


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賀川浩 「列強が世界に見せた技術と戦術 西ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.18 no.2 1983.2 p.104-105

悲嘆、歓喜のPKドラマ チームの骨組みは一九八〇年に デアバル監督の賭け


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賀川浩 「ウインブルドンとサッカーがロンドンでのサッカー談義だった」
『サッカー・マガジン』v.18 no.2 1983.2 p.152-153

ウインブルドンとサッカー 無敵艦隊アルマダ 情緒豊かなカタルーニャ人


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後藤健生 「エスパーニャ82十の憂鬱と三つの感激(2)」
『Football』 no.65 1983.2 p.1-7

第二部 エスパーニャ82三つの感激 1.ワールドカップを救ったフランス!!イタリア!!西ドイツ? 2.第三世界は大躍進 3.二人のベテラン冷静と熱情


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奥沢浩 「スペイン大会を観戦して」
『Football』 no.65 1983.2 p.1-7

暑い街での闘い地元の力不足盛り上がりは欠ける 魅了されたフランス-西ドイツアフリカ勢の健闘も見事 “お祭り”に酔う九万人イタリアの快勝で閉幕


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牛木素吉郎 「列強が世界に見せた技術と戦術 スペイン」
『サッカー・マガジン』v.18 no.3 1983.3 p.100-101

血をわかせたゲーム 守備が始まり 点取り屋がいない


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賀川浩 「休みの日にさまざまなスーベニールを見て歩き “至福”を味わう・・・」
『サッカー・マガジン』v.18 no.3 1983.3 p.150-151

アイリッシュの記者と 超・大・プレスセンター 記念郵便切手とポストカード


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賀川浩 「列強が世界に見せた技術と戦術 イタリア」
『サッカー・マガジン』v.18 no.4 1983.4 p.104-105

十五人で戦った’82年 オリジナルは’78年 MF陣の成長と強化 整備とロッシの復帰


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賀川浩 「度重なる戦火を外国人として経験された林屋大使から丁重な御招待」
『サッカー・マガジン』v.18 no.4 1983.4 p.142-143

懐しかった大使の関西弁 文化大使として高い評価 地域の対抗意識が障害


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賀川浩 「インテリジェンスとセンスに満ちたフランスの華麗なプレーに酔う」
『サッカー・マガジン』v.18 no.5 1983.5 p.88-89

狂会、日の丸、日韓定期戦 激戦地マンサナーレス川 小さなジレス ロシュトーの50メートルドリブル アンギーユ、アングーラ、 イール、ウナギ


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牛木素吉郎 「列強が世界に見せた技術と戦術 ベルギーとソ連」
『サッカー・マガジン』v.18 no.5 1983.5 p.104-105

ベルギー-赤い悪魔の網の目 ソ連-目に見えない落とし穴


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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 4」
『サッカー・マガジン』v.18 no.5 1983.5 グラビア頁

キューバ


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賀川浩 「ブラジルの“黄金の四人”とイタリアの変幻自在なプレーを満喫」
『サッカー・マガジン』v.18 no.6 1983.6 p.94-95

マドリッドで味わった日本料理 不可解なトニーニョ・セレーゾのパスミス バルセロナに移ったイタリアの粘り


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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 5」
『サッカー・マガジン』v.18 no.6 1983.6 グラビア頁

モンゴル ハンガリー


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ポール・ムーン 「スペイン・ワールドカップへニュージーランド代表の戦い」
『サッカー・ジャーナル』 no.5 1983.6 p.39-44

ジョーンズ新監督の就任 国際試合で連戦連敗 リーグ発足でレベルアップ ワールドカップへの挑戦 奇跡!!サウジを5対0 ついにスペイン大会へ出場 本大会-三敗でも成果 スペイン後のメンバー交替


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賀川浩 「予想した利益の半分、スペインW杯収支」
『イレブン』v.13 no.6 1983.6 p.149

76億円の利益 優勝イタリアFAへ4億円 入場券はよく売れた?


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賀川浩 「桧舞台で実力を出し切れず虚しく去っていった不運のプレーヤー・・・」
『サッカー・マガジン』v.18 no.7 1983.7 p.92-93

人影の消える昼下がり スペインと引き分けに終わったイングランド 不運だったキーガン


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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 6」
『サッカー・マガジン』v.18 no.7 1983.7 グラビア頁

ハンガリー マリ ユーゴスラビア


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賀川浩 「高い技術と熱い興奮を肌で感じ、準決勝の二試合を心から堪能・・・」
『サッカー・マガジン』v.18 no.8 1983.8 p.88-89

照明の勉強に欧州行脚 ノウ・カンプで聞くオーレ アディダス・ラウンジのTV観戦 西ドイツの猛反撃


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賀川浩 「決勝を前に、改めてサッカーの世界もまんざらではないと思った・・・」
『サッカー・マガジン』v.18 no.9 1983.9 p.146-147

子供を餓えから救うため クラーマー氏の戦術論 ベルナベウ氏の記念碑 チャンピオンズ・カップとレアル・マドリッド 政治を超えたスポーツクラブ


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賀川浩 「決勝は欧州の中でのアルプスの南と北、ラテンとゲルマンの対戦・・・」
『サッカー・マガジン』v.18 no.10 1983.10 p.146-147

二カ月の夏休み 三位より、全員出場 悲壮、ルムメニゲ PK失敗をはねかえそう 過去と現在を結ぶサッカー


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賀川浩 「ムンディアル’82の四十日間の旅で味わった様様な出会いを振り返る」
『サッカー・マガジン』v.18 no.11 1983.11 p.80-82

選手を抱きしめたい-とイタリア大統領 レストラン「黒ダイ」 マヨール広場のドンファン劇 美しかったリバープレートスタジアム 不安もあったがやはり魅力があった


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後藤健生訳 「ワールドカップ・スペイン大会FIFA公式報告書(1)」
『サッカー・ジャーナル』no.9 1984.8 p.2-7

選手の育成 計画の周期および選手選抜の問題 一九七八年から八二年、選手の入替 各大陸選手権とワールドカップ 一九八〇年オリンピック出場チームとの関係 ワールドユース大会の影響
チーム作り 長期的な選手選考 中期的な選手選考 短期的強化計画


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後藤健生訳 「ワールドカップ・スペイン大会FIFA公式報告書(2)」
『サッカー・ジャーナル』no.10 1985 p.12-17

チーム作り(2) チームの強化計画 各チームの練習量 トレーニングの内容


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後藤健生訳 「ワールドカップ・スペイン大会FIFA公式報告書(3)」
『サッカー・ジャーナル』no.11/12 1985.6 p.30-33

結果に影響した諸要因 気候 大会期間中の移動 選手の平均年齢 外国チーム所属の選手数


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藤原章司 「ディフェンダーの攻撃参加 スペイン大会のDF攻撃」
『サッカー・マガジン』v.20 no.11 1985.11 p.99-103

攻撃参加の6つのパターン CK、FKでのディフェンダーの攻撃 逆襲速攻でのオーバーラップ これからのディフェンダー


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イストバン・ソモス 「レフェリーの回想ワールドカップの想い出」
『サッカー・ジャーナル』 no.11/12 1985.6 p.27-29

第十二回一九八二年スペイン大会-アルナウド・コエーリョ氏(ブラジル) 心臓が止まるかと思った 落ち着かない毎日 幸運のコイン ペナルティキック イタリア、先制 ブライトナーが意地の一点

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第12回スペイン大会(1982年)ー3

「スペイン・ワールドカップが始まった!」
『Sports graphic number』v.3 no.15 1982.7 p.134-135

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「スペイン・ワールドカップ速報」
『Sports graphic number』v.3 no.16 1982.7 p.122-123

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牛木素吉郎 「始まった29日間の世界のお祭り 波乱含みのスタートに感じた80年代の新しい才能の登場」
『サッカー・マガジン』v.17 no.9 1982.8 p.68-71

快適な幕開き、だが... 平和をテーマに アルゼンチンの敗因 挑戦者のベルギー 80年代の先がけ


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千野圭一 「バンデンベーグ開幕のジンクス破る」
『サッカー・マガジン』v.17 no.9 1982.8 p.72-74

耐えたベルギー 後半への序曲 バンデンベーグとマラドーナ


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賀川浩 「宿泊予約のイラだちと開会式予行の感動... 不思議な国スペインへ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.9 1982.8 p.76-77

なつかしい顔 フランクフルト、ロンドン 難航、ホテルのリザーブ 平和の白バト


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松浦由紀 「エスパーニャ’82華やかに開幕!」
『イレブン』v.12 no.8 1982.8 p.68-72

「ボールが結ぶ平和」の祭典が9万大観衆の見守る中でスタート バンデンベルグ値千金の決勝ゴール! 90分間の熱闘に終止符打ったエデルの豪快なボレー・シュート


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賀川浩 「ワールドクラスでのチームでも狭く攻めるより、広く攻める方が成功している。」
『イレブン』v.12 no.8 1982.8 p.73

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「Wカップ・ミニ情報」
『イレブン』v.12 no.8 1982.8 p.74-75

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「Wカップ開幕直前、小さな“ビッグ・スター”マラドーナが19億円でCFバルセロナに移籍した」
『イレブン』v.12 no.8 1982.8 p.77

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牛木素吉郎 「ワールドカップスペイン’82総評」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.29-33

べアルツオット監督の笑顔 “未知数”ロッシに賭けた 対アルゼンチン戦の“奥の手”  最高のゲーム、対ブラジル戦 “中盤なき戦い”の決意 新興チームが盛り上げた 研究の価値あるブラジル 西ドイツよりもフランス


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鈴木武士 「イタリア速攻見事! ロッシ、タルデリ、アルトベリで西ドイツ圧倒」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.34-37

カブリーニPKをはずす!! ロッシ、自信の先制ゴール ブライトナーがやっと一点 決勝戦の男、タルデリ


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「ポーランド気力ふりしぼって3位に」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.40-42

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「またもロッシ!2ゴールで決勝へ導く」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.44-47

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「ドラマチックなPK戦、西ドイツが決勝へ」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.48-51

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「“奇跡”のヒーロー 大会得点王、最優秀選手 パオロ・ロッシ」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.52-55

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「「敗者」マラドーナとジーコ」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.56-57

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賀川浩 「80年代のスターたち」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.67-71

ピエール・リトバルスキ-重要なゴールにからんだ小さなドリブルの天才 エデル-シュータータイプのOLクセのあるキックが魅力 アントニオ・カブリーニ-守備のイタリアのイメージ変えた攻撃的レフトバック ズビグニェフ・ボニェク-自信にあふれたスピードそして驚くべきシュート ファルカン-右でも左でも自由自在フォームの美しい選手 ドミニク・ロシュトー-フランスでの人気を実証ドリブルとシュート光る


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バウジ・コウチーニョ 「ブラジル’82その強さの秘密と敗因」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.72-75

バチスタを入れていれば・・・ 黄金の四人 リーダーがいなかった


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カール・ラドネッジ 「カメルーン、アルジェリア、クウェート・・・ 「第三世界」の健闘はスペイン’82の太陽だった」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.76-79

アベランジェは正しかった 欧州、南米は彼らを無視していた アフリカ最高のGKヌコノ より“組織”があったアルジェリア ブラジル仕込みのクウェート


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「二次リーグの戦いを振り返って」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.80-113

A組-ボニェクの弾丸3発がグループの運命決める B組-アディオス、ムンディアル西ドイツ、見事な勝負強さ C組-ドラマチックな試合連続候補南米勢次つぎ消える D組-フランス、芸術的中盤で“楽なグループ”を楽勝!! 


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「世界を沸かせたスターたち」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.115-128

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「ESPANA’821次リーグ全試合経過」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.131-190

第1組-元気なかったペルー。イタリアは辛うじて二次リーグへ 第2組-大健闘アルジェリア、欧州勢の不明試合で姿消す 第3組-マラドーナ全身全霊のプレーでアルゼンチン救う 第4組-イングランド先制パンチきく。フランスも実力出す 第5組-楽なはずが大違い、大苦戦だった地元スペイン 第6組-スーパークラスの中盤4人。ブラジル圧倒的強さ


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「スペイン’82フォト・トピックス」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.192-193

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「ムンディアル・スクラップ」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.195-197

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「出場全チーム一覧」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.198-209

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「レフェリー・リスト」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.3 1982.夏季 p.210

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「ワールドカップ・スペイン’82イタリア44年ぶりの勝利 ブラジルと並ぶ3度優勝を達成」
『サッカー』 no.23 1982.8 p.18-21

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「激突、そして陶酔」
『Sports graphic number』v.3 no.17 1982.8 p.120-122

されどブラジル・サッカー讃 歓迎、スコットランド応援団 美しきセニョリータたち


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「ワールドカップ激突、そして陶酔」
『Sports graphic number』v.3 no.18 1982.8 p.75-103

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中条一雄 「わたしの「ワールドカップ」愛」
『Sports graphic number』v.3 no.18 1982.8 p.82-87

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塩野七生 「“醒めた奇跡”だから熱狂する」
『Sports graphic number』v.3 no.18 1982.8 p.98-99

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千野圭一 「“勝負師”ベアルツォット監督に拍手」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.52-54

イタリアン・ショック お見事!プロの勝負師べアルツォット監督 好評!フランスの芸術サッカー! 世界は果てしなく広い


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山添敏央 「熱走!!スペイン八千キロ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.55

ブラジル人の涙


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牛木素吉郎 「ビバ!!エスパーニャ’82!!」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.56-59

W杯のベストゲーム ブラジルの良さは... ブラジル“黄金の中盤”  審判批判はむずかしい ムンディエスパーニャ 日本代表チームの失敗


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向笠直 「BRASIL’82アディオス、カンペオン!!」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.60-62

ドトールの涙 組織化された混乱 テレ・サンターナ リオ7月7日


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「ムンディアル’82人物アラカルト」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.64-68

サッカーは私の人生(アルディレス) 愛する祖国のために(ボニェク) 40歳。「今が最盛期」(ゾフ) 僕は大会ベストMF(ベルミ) 30分間のヒノキ舞台(キーガン) コロンビアにも行く(ジーコ) 審判への悲しい抗議(マラドーナ) 最年少は未来のスター(ホワイトサイド) 忠誠心はブラジルへ(ファルカン) 英語が得意なソ連人(ブロヒン) 南のクラブに移りたい(チェル二アチンスキ) シュートのための男(エデル) シャイなキーパー(ジェニングス) キーパーは点取り屋(パンテリッチ)


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賀川浩 「オペラ歌手の大会テーマソングと、ミロの大会公式ポスター...」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.70-72

マニャーナ、マニャーナ 困惑する美女たち エル・ムンディアール スポーツと音楽と美術


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「ワールドカップスペイン’82ビッグゲーム・ハイライト」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.75-80

1次リーグ ポーランド後半の猛攻-ペルー1-5ポーランド 今大会最大の番狂わせ-西ドイツ1-2アルジェリア マラドーナ・マジック-アルゼンチン4-1ハンガリー ロブソン大暴れ2ゴール-イングランド3-1フランス 地元の利で幸運な勝利-スペイン2-1ユーゴスラビア ブラジル猛攻の逆転劇-ブラジル2-1ソ連
2次リーグ ボニェク、ハットトリック-ポーランド3-0ベルギー 西ドイツ、猛牛かわす-西ドイツ2-1スペイン イタリア、タフな戦い-イタリア2-1アルゼンチン アルゼンチン完敗-ブラジル3-1アルゼンチン ロッシ3ゴール!-ブラジル2-3イタリア フランス、華麗な攻め-北アイルランド1-4フランス
決勝トーナメント ロッシまたも2点-ポーランド0-2イタリア ゲルマン魂の爆発-西ドイツ3-3(延長、PK5-4)フランス ポーランド3位に-ポーランド3-2フランス PK失敗が団結生む-イタリア3-1西ドイツ


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大谷四郎 「テレビで見るワールドカップ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.10 1982.9 p.162-165

開会式 アルゼンチンさえず 好ゲームのブラジル対ソ連 勝負強いイングランド 西ドイツはどうしたのか ペルーは意外に鈍かった 西ドイツ1-0オーストリアはなれ合い試合だ ブラジルは明らかにアルゼンチンより上だ


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へネス・バイスバイラー 「W杯を制するのは“運”ではなく“実力”であることをイタリアは証明した」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.68-71

南米二大強国の狭間でベアルゾット監督は無欲だった イタリアの攻撃意欲がアルゼンチンを圧倒した 監督の信頼に応えたロッシのハットトリック ブラジルの敗因は攻撃と守備のアンバランス “カテナチオ”はもはや“伝説”にすぎない W杯を制するのは“運”ではなく“実力”なのだ


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フランツ・ベッケンバウアー 「フランス戦の逆転勝利に不屈のゲルマン魂を見た」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.72-75

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ウルフェルト・シュレーダー 「西ドイツ-初戦でのつまづきが“わざわい”となった」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.76-77

イレブンはフランス戦での死闘で燃焼し尽くした “PKH殺し”の秘伝はH・ミュラーのささやき W杯の価値と権威はオリンピックを超えた


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パット・コリンズ 「イングランド-代表チーム時期監督にボビー・ロブソンの就任が内定」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.78-79

参加国の増えたことがレフェリーの質を低下させた ノーマン・ホワイトサイドへの期待 ポーランド・サポーターの亡命


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渡辺よしひろ 「ブラジル-イタリアのカウンター戦法に敗れた芸術的サッカー」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.80-81

なぜ引き分ける作戦をとらなかった なぜ守備の要バチスタをテレ監督は起用しなかった イレブンを感動させた欧州ファンの見送り 私の芸術サッカーの理論は間違っていない!


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アティリオ・ガリード 「アルゼンチン-負けるべくして負けたメノッティ軍団の悲劇」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.82-83

メノッティの反論と4年前との決定的な違い 富を得たイレブンにハングリー精神はなかった 次ぎ次ぎに母国を去るスタープレーヤーたち


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「イタリアはバックの早い寄せとカウンターアタックで勝った!! ESPANA’82現地座談会」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.84-88

出席者:杉山隆一、松本育夫、森孝慈、花岡英光
フランスは個々の特色を生かしていた ゴール前の一瞬の勝負がすべてを決める マラドーナとジッコの違いは経験の差


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「リレー対談-この目で見た日本代表選手のWカップ」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.89-91

ブラジルの敗退は残念だけどテクニックはずば抜けていた(金田喜捻、木村和司) 助けがなかったマラドーナ
攻守の切り替えの速さが勝負の大きなポイントだった(前田秀樹、西村昭宏) 簡単なプレーのジッコ
ブラジルとイタリアの試合はキーパーの差が勝負を決めた(田口光久、尾崎加寿夫) 一瞬のスキを突くうまさ


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賀川浩 「最強ブラジルを蹴落としてつかんだ世界の王座」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.92-93

ベアルゾットの新戦術 ロッシの位置どりのうまさ 難しいコンディション作り


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「Wカップ・ミニ・ニュース」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.94-96

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「エスパーニャ’82こぼればなし」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.97

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秋庭亮 「日本で見た’82スペインワールドカップ」
『イレブン』v.12 no.9 1982.9 p.153

テレビ観戦もよし 甲乙のないベスト4 素人でも面白いサッカー


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賀川浩 「イタリア優勝への道」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.4-9

イタリアの不安 マラドーナ対ジェンティーレ カウンターのイメージ完成 ロッシ回復のきざし イタリアの先制 マン・ツー・マンとゾーン併用の守り ブラジルのミスを致命傷にしたロッシ カテナチオの上に


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牛木素吉郎 「ワールドカップの裏側」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.10-15

その一-ナショナルチームのスタイルは“リーグ”が決めるということ スペインの試合ぶりと観衆 フランスはなぜ勝負弱いか ブラジルらしいミス
その二-スペイン大会の運営は“クラブ”が中心だったということ エルチェのスタジアム ムンディエスパーニャ 入場券の売り方
おわりに


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池原謙一郎 「ワールドスポーツと日本のスポーツ」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.16

サッカーの非情さ 日本スポーツとの対比


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「暑かったスペイン大会」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.17

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荒井義行 「スペイン82から占う世界と日本のサッカーの将来」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.18-23

決勝戦に見る数的優位の思想 ブラジルが試みたローテーション・サッカー フランス、アルゼンチンの敗退とダイレクトの重要性 “第三世界”の進歩と日本サッカーの方向は


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中条一雄 「イタリア・サッカー愛」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.24-28

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後藤健生 「イタリア人はどうしてカテナチオが好きか?」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.30-33

イタリアはつまらないか イタリアの攻めの魅力 失敗だって楽しい カルチョは中世のスポーツ シニカルなイタリア人


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奥沢浩 「レフェリーたちのワールドカップ」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.34-36

レフェリー雑感 トラブル続出 セビーリャの幸運 決勝は誰が? 日本の審判も観戦を


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「審判員出場記録表」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.37

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「全選手出場記録表」
『サッカー・ジャーナル』 no.2 1982.9 p.39-44

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大谷四郎 「続テレビで観るワールドカップ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.92-95

イタリアの優勝ほぼ決まる イタリアの術中に陥ったブラジル 中味が変わったイタリア・サッカー ボニェクを欠いて望みを失ったポーランド フランスのサッカーは好きだ 後半にどっと溢れ出たイタリア・サッカー このワールドカップから日本はなにを学ぶか


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岡野俊一郎 「イタリアの優勝から何を学ぶか」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.107-111

イタリアはなぜ勝ったか 「先取点を狙うイタリア」 立役者はコンティ アルゼンチンはチーム構成に無理 “ブラジル”を忘れたブラジル 西ドイツはチームでなかった アジア、アフリカの活躍 日本は何をなすべきか


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賀川浩 「列強が世界に見せた技術と戦術 フランス」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.112-113

魅力満点!中盤の“四銃士” 「技あり」絶妙のラストパス


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望月三起也 「ESPANA’82」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.139-143

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「フォト・トピックス」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.144-145

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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 1」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.144

スペイン コンゴ


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鈴木武士 「パオロ・ロッシ 悪夢からよみがえった“黄金の坊や”」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.160-163

悪夢からの復帰 体調は万全、しかし... べアルツォットの期待に応えた 笑顔は戻った


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賀川浩 「アンダルシアの太陽とバスクの“最古”サッカー・スタジアム」
『サッカー・マガジン』v.17 no.11 1982.10 p.164-165

“ラ・マルセイエーズ” セビリアでのブラジル 最古のスタジアムのファステスト・ゴール


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「世界中が熱狂したエスパーニャ’82に私たちも感動し陶酔した!」
『イレブン』v.12 no.10 1982.10 p.62-63

西ドイツと日本の少年の思うこと(林専一朗) 熱狂のW杯に身をおけた感激(西浦孝彦) 8年の夢が実現して最高!(鈴木葉子) 7月8日、おお、私のムンディアル(清原憲一) スペインvs西独戦で見せた地元民の表情(福田衆) 西独の敗戦に金網を叩き続けた私(木村豊子)


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パット・コリンズ 「なぜWカップスペイン大会はこうも不評だったのか!?」
『イレブン』v.12 no.10 1982.10 p.80-83

大会期間はもう少し短縮できる W杯はW杯でなければならない 今後のサッカーをリードするのはブラジルとフランスだ サッカーが大切か、コマーシャリズムが大切なのか?


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パット・コリンズ 「突然襲ったアクシデントに初のW杯の夢を断たれた悲運な男ケビン・キーガン」
『イレブン』v.12 no.10 1982.10 p.92-93

二次リーグ最終戦に初出場 不運なアクシデントは突然やってきた 私は結果を嘆き悲しまない


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賀川浩 「ブラジルは勝つ意欲と守備の弱さでイタリアに負けたんだ! デットマール・クラマー氏へ直撃インタビュー」
『イレブン』v.12 no.10 1982.10 p.138-140

ゾーンとマンツーマンを併用したイタリアの新戦術 西ドイツは2次リーグからがほんとうのW杯だった 3つのポイントから見たブラジルの敗因


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高橋英辰 「二段構えの速攻の起点となったイタリアの新しいカテナチオ」
『イレブン』v.12 no.10 1982.10 p.146-147

カテナチオの新しい使い方 左サイドを攻める速攻


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森孝慈 「W杯から何を学ぶのか」
『サッカー』 no.24 1982.10 p.2-5

トップフォームでゲームに臨むことが、持てる力を発揮するための不可欠の条件である 攻守の切り替えの速さが勝負を決める ゲームでの仕事は攻撃と守備の二つである ゲームの組み立てのスピードアップ マンツーマンとゾーン


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イストバン・ソモス 「数字で見る過去11回のW杯審判員」
『サッカー』 no.24 1982.10 p.16-18

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牛木素吉郎 「列強が世界に見せた技術と戦術 アルゼンチン」
『サッカー・マガジン』v.17 no.12 1982.11 p.104-105

高い戦闘能力 ルーケがいなかった 攻撃のスペクタクル マラドーナの悲劇


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鈴木武士 「生涯で最高の幸せをつかんだ男エンツォ・べアルツォット監督」
『サッカー・マガジン』v.17 no.12 1982.11 p.152-154

つまらぬ勝利よりすばらしい敗北 「イタリアは世界一のチームだ」 生涯でもっとも幸せな日


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賀川浩 「ビルバオで見つけた大会14都市のポスター。その描き出すものは」
『サッカー・マガジン』v.17 no.12 1982.11 p.156-157

エキスポ・バスク 十四会場のポスター


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久保田繁樹 「サッカーを支えるのは大衆の熱意だ ワールドカップ・スペイン大会を見て感じたこと」
『サッカー・ダイジェスト』v.3 no.13 1982.11 p.114-115

素晴らしさの基礎は 日本リーグをもっと盛んに


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岡野俊一郎 「天才児マラドーナの野望を打ち砕いた荒武者ジェンティーレ」
『イレブン』v.12 no.11 1982.11 p.76-79

炎天下のサリアスタジアムに人の波 タルデリ、見事な先制ゴール! アルゼンチンのゴールへの執念 カテナチオから脱皮したイタリア


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牛木素吉郎 「スペイン’82総評 メキシコからスペインまで」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.99-104

ワールドカップは裏切らない 六六年以前 メキシコ大会の教訓 トータルサッカーの登場 アンチテーゼ スペイン大会の戦術 何が変わったか


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鈴木武士 「スペインで輝いた新星」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.106-109

1.イタリアの新攻撃 2.整備されたイタリア代表 3.1970年に迫るブラジル 4.秘術を尽くした90分の攻防 5.80年代に希望が・・・


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金斗鉉 「ESPANA82」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.117-121

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「Individual Spain’82」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.122-128

ソクラテス-ぼくらはチャンピオンだ パサレラ-キャプテンは死ぬまで闘った アルディレス-英国人に憎しみはなかった ジェニングス-そのとき「ベスト」を思った キーガン-不運なチャレンジャー ゾフ-永遠の「青春」 ルムメンニゲ-「欧州の誇り」は走った


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「スペイン’82全記録」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.171-183

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「出場チーム選手一覧」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.190-201

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賀川浩 「2つの巨人から80年代のサッカーに前進を見る」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.4 1982.秋季 p.110-114

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賀川浩 「エル・モリノン・スタジアムでドイツ国歌を久しぶりに聞いたが...」
『サッカー・マガジン』v.17 no.13 1982.12 p.86-87

西ドイツ対チリ戦 ルムメニゲを見る


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牛木素吉郎 「列強が世界に見せた技術と戦術 イングランド」
『サッカー・マガジン』v.17 no.13 1982.12 p.104-105

問題は過密日程 「もっと頭を使え」 悩んだ選手起用 王国復活のきざし


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吉武利昭 「サッカーの切手 スペイン’82 2」
『サッカー・マガジン』v.17 no.13 1982.12 p.146

コモロ モーリタニア

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後藤健生 「エスパーニャ82十の憂鬱と三つの感激(1)」
『Football』 no.64 1982.12 p.1-12

第一部 エスパーニャ82十の憂鬱 1.静かな静かなワールドカップ 2.商業主義もほどほどに 3.諸悪の根源ムンディエスパーニャ 4.かけひきが横行したリーグ戦 5.十二人がかりで勝てないスペイン代表 6.暑い暑いバレンシアの夜 7.絶対本命ブラジルの敗退 8.あわれ!私の好きなアルゼンチン 9.何もできないリトバルスキー 10.日本代表チームのバカンス


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宮崎雄二 「西ドイツ・サッカーなんか嫌いだ」
『Football』 no.64 1982.12 p.12-15

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坂入浩一 「東京でみたワールドカップ」
『Football』 no.64 1982.12 p.15-18

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奥沢浩 「スペインワールドカップの審判」
『Football』 no.64 1982.12 p.18-25

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鈴木通韻 「マドリーの水は冷たくうまかった」
『Football』 no.64 1982.12 p.25-27

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後藤響子 「美しきイタリアを見た!」
『Football』 no.64 1982.12 p.27-28

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「ワールドカップスペイン大会雑感」
『Football』 no.64 1982.12 p.29-32

近江達 鎌田敏春 安藤正純 市村保雄 鈴木良韶


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鈴木良韶 「ワールドカップの切手」
『Football』 no.64 1982.12 p.49

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第12回スペイン大会(1982年)-2

「11代表決定!」 激しさを増す欧州グループ予選」
『イレブン』v.12 no.1 1982.1 p.80-81

第1組-西ドイツ無敗で出場決定 第2組-オランダに最後のチャンス 第3組-ソ連ほぼ決定 第4組-ハンガリー決定“奇跡”に救われたイングランド 第5組-ユーゴとイタリアの出場確定 第6組-スコットランド決定ポルトガル敗退 第7組-ポーランド決定


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「’82ワールド・カップ地区予選中間成績と日程」
『イレブン』v.12 no.1 1982.1 p.82-83

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パット・コリンズ 「イングランド20年ぶり予選を突破!」
『イレブン』v.12 no.2 1982.2 グラビア頁

勝利へ一丸となって燃えるイレブン 決勝ゴールを呼び込んだ新鋭マーチン 鮮血に顔面を染めてグラウンドを疾走するキーガン


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フベルト・ビーンズ 「オランダ無念の失格!イングランドは奇跡の復帰」
『イレブン』v.12 no.2 1982.2 p.94-95

第1組西ドイツ(1位)オーストリア(2位) 第2組ベルギー(1位)フランス(2位) 第3組ソ連(1位)チェコ(2位) 第4組ハンガリー(1位)イングランド(2位) 第5組ユーゴ(1位)イタリア(2位) 第6組スコットランド(1位)北アイルランド(2位) 第7組ポーランド


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「’82ワールド・カップ地区予選全成績」
『イレブン』v.12 no.2 1982.2 p.96-97

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「ワールドカップ・スペイン’82組み分け決定!」
『サッカー』 no.20 1982.2 p.28-31

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鈴木武士 「スペイン’82組み分け決定!!」
『サッカー・マガジン』v.17 no.3 1982.3 p.148-151

“第1シード”で大もめ 西ドイツはまたも楽な組 楽ではない連覇への道  準決勝は南米VS南米、欧州VS欧州?


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大和国男 「’82Wカップでは自分の最高のプレーを見せる」
『イレブン』v.12 no.3 1982.3 p.76-79

マラドーナを求め香港へ飛ぶ “心配するな”を連発するマネージャー 国民が我々に連覇を期待している 結婚はWカップが終わってからさ


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木内正直 「優勝は南米2vs欧州2の争いになる! ペレ、’82カップ・スペイン大会を語る」
『イレブン』v.12 no.3 1982.3 p.80-82

武蔵よ、“ペレ・ジャポネス”になれ! ベルギーがW杯台風の目になる マラドーナは疲れている!


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「’82ワールド・カップ地区予選全成績」
『イレブン』v.12 no.3 1982.3 p.140-141

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Z・トーマ 「攻撃的サッカーで名門復活をめざすチェコスロバキア」
『サッカー・マガジン』v.17 no.4 1982.4 p.131-134

チェコのスタイル生かしとにかく積極的な戦法を-ベングロシュ監督にインタビュー


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エリック・バッティ 「スペイン’82出場国24チーム紹介第1弾!」
『サッカー・マガジン』v.17 no.4 1982.4 p.148-153

スコットランド-2次リーグへ課題は得点力か 主軸はダルグリッシュ
北アイルランド-熟年パワーと巨漢DF陣
イングランド-グリーンウッドの革命なるか ハンガリー遠征の実験
ベルギー-華麗なるMFのスターたち!
チェコスロバキア-実力ストライカーに弱気の影 MFに急上昇のコザク
ソ連-自在サッカーへの転換に成功 ブロヒンも影がうすい


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「スペイン’82情報」
『サッカー・マガジン』v.17 no.4 1982.4 p.154-155

ケンペス、パサレラが出場できなくなる!? イングランド対フランス戦中止 アルゼンチンの準備試合は5戦 戒厳令下、初の出国 ニュージーランド、食料を特別空輸 ユニホーム・カラー マラドーナの予想


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後藤健生 「私のスペイン’82」
『サッカー・マガジン』v.17 no.4 1982.4 p.156

なんの理屈もつけずにゲームと勝負を楽しむ “勝負の綾”を読む


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「燃えるスコットランド魂 新主将として3度目のW杯に挑戦するエイサ・ハートフォード」
『イレブン』v.12 no.4 1982.4 グラビア頁

衰えを知らない31歳のベテラン 3年連続W杯出場で予選リーグ突破へ燃える


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「新世界チャンピオンに輝くのはどこか?!」
『イレブン』v.12 no.4 1982.4 p.72-79

第1組威力を発揮するか“錠前サッカー”イタリア イタリアにどう響くかベッテガの負傷 国難に暗く沈む国民の希望の灯になるか
第2組欧州で抜群の実力を誇るデアバル軍団の挑戦 “檄”を飛ばすオーストリアのセカニナ会長
第3組エキサイティングなサッカーで連覇狙うアルゼンチン ペレからマラドーナへの手紙
第4組ライオンの群の中に入った初出場クウェート カギ握るFKの名手プラチニー
第5組W杯初優勝を狙う開催国スペイン ’74W杯より上回っているユーゴのチーム力
第6組ブラジルvsソ連は今大会屈指の名勝負となるか 苦戦しそうな3回連続出場のスコットランド


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「史上最大の“エスパーニャ・’82”」
『イレブン』v.12 no.4 1982.4 p.80-81

’82W杯の試合方式 ブラジル株が最高 W杯代表は?


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木内正直 「私の義務は現在のチームをワールドカップの勝者に育てることだ! テレ・サンターナ監督特別インタビュー」
『イレブン』v.12 no.4 1982.4 p.82-84

私の考えているのは攻撃的なチームだ 選手選考には私は自信をもっている 一戦一戦を決勝と思って戦うつもりだ サッカーはボール扱いのうまい人間のためのゲームだ


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「ワールドカップ・スペイン’82出場チーム紹介(上)」
『サッカー』 no.21 1982.4 p.18-23

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エリック・バッティ 「スペイン’82出場国紹介2」
『サッカー・マガジン』v.17 no.5 1982.5 p.156

西ドイツ-欧州ナンバーワンの座揺るがず 若き才能シュスターと実力者ブライトナー ルムメニゲは右ウイングか
アルゼンチン-攻撃サッカー再現へ問題山積 ディフェンスは78年の選手が6人 昨年の第1次合宿を拒否したマラドーナ
ポーランド-74年のメンバー健在で期待大 新鮮な魅力スモラレク
オーストリア-前線、中盤に名手が揃うが... 名将ハッペルが復帰すれば...
ニュージーランド-でかくて強いファイター揃い
エルサルバドル-どこまで最小失点で守れるか


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中条一雄 「私のスペイン’82」
『サッカー・マガジン』v.17 no.5 1982.5 p.164

ワールドカップは人生のよろこび 心のよりどころに


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渡辺よしひろ 「テレ軍団の最大の敵は戦う前の優勝ムードだ」
『イレブン』v.12 no.5 1982.5 p.72-75

厳しいテレ監督の選手選考 実力は’70W杯より上だ 悩みのタネはセンターフォワード 「チャンピオンはまちがいなし」


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「Wカップ・ニュース」
『イレブン』v.12 no.5 1982.5 p.76-79

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賀川浩 「目前に迫ったワールドカップの見どころ-“Tクン”への手紙」
『サッカー・ジャーナル』 no.1 1982.5 p.4-9

24チーム52試合 栄光の歴史を負う欧州勢 統合スペインの象徴? 個性の組み合わせアルゼンチン 天才きらめく、ブラジル パワーと技術の西ドイツ 欧州か、南米か


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「ワールドカップ1982資料集」
『サッカー・ジャーナル』 no.1 1982.5 p.10-11

入場料金 出場国一覧表 ワールドカップ担当審判員


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向笠直 「ローマの鷹ファルカン」
『サッカー・マガジン』v.17 no.6 1982.6 p.5-8

「ぼくか、それともジーコか」 「どのポジションでもいい」


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「“自信つかんだブラジルと西ドイツ、アルゼンチンは?」
『サッカー・マガジン』v.17 no.6 1982.6 p.68-71

ブラジル発-ジュニオールが決勝点 西ドイツの厳しいマーク ヒーローはジュニオール 「結果は重要ではない」
アルゼンチン発-西ドイツ守備を固める リバープレートの5人 後半、アルゼンチンの猛攻 「次の対戦では勝てる」
西ドイツ発-自信のデアバル監督 問題点は中盤の構成 戦い抜いていける


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エリック・バッティ 「スペイン’82出場国紹介3」
『サッカー・マガジン』v.17 no.6 1982.6 p.73-78

ブラジル-決まっていないのはCFだけ 優勝への心配事は選手たちの油断だけ 豊富なMFと不安なFW
フランス-プラティニがすべてのカギだ 「準決勝へ進む力はある」 得点力もプラティニ頼み
ペルー-攻撃サッカー誇る台風の目!! 痛いチュンピタスの負傷 新世代の王様、ウリべ
チリ-新星ヤニェスの脚力が売り物 強力ディフェンスの担い手エリアス・フィゲロア
ユーゴスラビア-史上最強軍団の問題は気紛れ 二人の超大物が目玉だ
イタリア-得点力不足に悩む老巧化軍団 朗報ともいえぬ二大スターの復帰


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三島早苗 「私のスペイン82」
『サッカー・マガジン』v.17 no.6 1982.6 p.82

すばらしい試合を見たあとはなんとなく不思議な気分 なぜスペインへ?


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牛木素吉郎 「近づくワールドカップ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.6 1982.6 p.90

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「世界杯を彩った名ポスター 第12回スペイン」
『イレブン』v.12 no.6 1982.6 折込頁

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ウルフェルト・シュレーダー 「欧州No.1から世界チャンピオンになるための西独の条件」
『イレブン』v.12 no.6 1982.6 p.72-75

ルンメニゲ欠場で“核”を失った西独 20分間のアルゼンチンの先制攻撃 西独が世界チャンピオンになるための条件 気になるフィッシャーの負傷 素晴らしいジュニオールのプレー マテウス二完封されたジッコ わがイレブンはよく戦った!


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「攻撃サッカーでセンセーションを巻き起こすかソ連代表チーム」
『イレブン』v.12 no.6 1982.6 p.76-81

ソ連 2年間、国際ゲームに負け知らず 攻撃サッカーの信奉者べスコフ 世界の桧舞台に初登場のブローヒン 守備ラインの重鎮チバドゼ
ポーランド ’74西独大会再現に燃える若きイレブン カウンター・アタック戦法を支える堅固な守備
ユーゴスラビア 知将ミルヤニッチ率いる変則型チーム


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「Wカップ・ニュース」
『イレブン』v.12 no.6 1982.6 p.82-85

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「1次リーグは楽勝、激戦グループに色分け」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.46-49

本号はスペイン’82総合ガイド
第1組-三チームの争いはポーランドやや優勢。二位はイタリアか? 第2組-西ドイツはダントツ残る一つの座は欧州対南米の対決になる 第3組-アルゼンチンの勝ち抜きも不安。ベルギーは不気味な存在だ 第4組-三者一様の混戦グループ。カギを握るのはクウェートだ!! 第5組-上位2チームは決まり?北アイルランドが順位のカギ握る 第6組-優勝候補同士の激突。6月14日の第1戦は注目の価値あり!!


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「スペイン’82「スーパースターはオレだ」」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.50-58

「私はライバルたちに負けたくない」-ジーコ(リカルド・コール) “サイボーグ人間”ジーコ 「ジーコはナンバーワンだ」
悩める子羊に復活に日は来るのか?-ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(ビセンテ・L・パネッタ) “マラドーナはロボットだ”「もう疲れた、話したくない!」
スペインでは自分自身の成長を証明する!-カール・ハインツ・ルンメニゲ(ヨアヒム・シュヒト) ルンメニゲが最高だ 4つのタイトルに挑む 拒否された“保険”


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鈴木武士監修 「スペイン’82全スター名鑑」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.59-90

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「スペイン’82の列強を追う」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.91-111

アルゼンチン(ビセンテ・L・パネッタ) 開幕のベルギー戦へ向けて ソ連戦で大きな収穫と自信 アルディレスに絶大の信頼 攻撃的サッカーは変わらない
スペイン(アルフレード・ゴメス) まだ10人しか決まっていない レアル・ソシエダが中心 チームワークも技術もない 最後の合宿に賭ける
ブラジル(ピーター・ムエロ) CBFの三つのプラン “夢のチーム”はでき上がった 「体力的な問題は何もない」 “トカ”で最終調整そして照準は六月十四日
西ドイツ(ヨアヒム・シュヒト) タフな最終段階 メンバーは固まった CFはフィッシャー 大会前の負傷が心配
イングランド(ジェフリー・ミラー) たった二週間の準備期間 センターバックにあいた穴 ビルバオは最適なところ


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「ポスター’82 巨匠ミロが制作」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.112

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「ペット・マークあれこれ」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.113

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「“ムンディアル”アラカルト」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.114-115

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「密かに優勝を狙うダークホース軍団」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.116-119

ソ連-流れを変えたトロイカ方式攻撃サッカーがソ連の魅力 ベルギー-欧州選手権2位が自信破壊的攻撃力で旋風起こす ポーランド-恐れられる攻撃力を自慢とする、欧州の“芸術家集団”  フランス ユーゴスラビア


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「NHKで好カード18試合を放映予定!!」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.120-121

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鈴木武士 「スペインへの死闘、激闘スペイン’ 82予選全記録」
『別冊サッカー・マガジン』v.9 no.2 1982.初夏 p.123-133

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「ワールドカップ・スペイン’82出場チーム紹介(下)」
『サッカー』 no.22 1982.6 p.38-43

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「スペイン82をめざす2人の新星」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.19-25

ピエール・リトバルスキ フリオ・セサル・ウリべ


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赤木真二 「静かなチャンピオンたち」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.41-45

アディダス・スポーツセンター 速攻のパターン


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「ワールドカップひ・ろ・ば」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.26-28

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牛木素吉郎 「ワールドカップスペイン’82」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.52-54

どんな宝を選ぶか スーパースターは? 人間のドラマを追う 欧州対南米の歴史 ぼくは南米に賭ける


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「ESPANA82・日程表」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.55

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鈴木武士 「ウォームアップ・ゲームも大詰め!!各チームとも本大会前に入念な強化、調整だ」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.56-59

アルゼンチン久々の勝利 スペインは仕上がり上々 ペルーはツアーで大収穫 不気味なアルジェリア


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「大会を待つスペイン」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.60-61

5月17日から入場券獲得競争! 紛争中の英国から四千の熱狂ファン 中国でも本格的な放映 バスク・ゲリラは大丈夫か


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向笠直 「ブラジル ワールドカップで話題もちきり」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.62-63

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「スペイン’82情報」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.64-65

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エリック・バッティ 「スペイン’82出場国4」
『サッカー・マガジン』v.17 no.7 1982.7 p.67-71

スペイン-着々進むサンタマリアの構想 バルセロナ対マドリッドの地方問題 日増しに高まるサンタマリアへの期待
ハンガリー-本大会で“戦う集団”となるか MFに最盛期のニラシ スター選手たちは“戦い”を好まない
クウェート-高質のサッカーで世界に挑む 攻撃をリードするヤコブ・スルタン
カメルーン-持ち味は攻撃サッカーだが... ストライカーに俊敏、好技のミラ
アルジェリア-豊富な人材で一波乱の期待も 経験豊富なプロ揃い
ホンジュラス-力不足だが要所に“名手”揃う 激しいサッカーに弱点


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「準備完了!!これが臨戦態勢入った列強国の必勝作戦だ!」
『イレブン』v.12 no.7 1982.7 p.68-74

“エスパーニャ’82”の制覇めざす西独の戦略(ウルフェルト・シュレーダー) 因縁のオーストリアと同組 デアバル監督の必勝作戦
小さな大スター・マラドーナ不調で、アルゼンチンに黄信号 元気がないマラドーナ
久々“本舞台”登場の老舗イングランドの明と暗 今季30得点、好調のキーガン
奇跡を生むか、ベアゾットの丸秘構想 2次リーグ進出に全力
ジルセウ、ファルコンも復帰し、万全の体制

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パット・コリンズ 「エスパーニャ’82のダークホースはベルギーだ!」
『イレブン』v.12 no.7 1982.7 p.75-77

長丁場だけに番狂わせは必至なのだ


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「スペイン便り 開幕迫る“エスパーニャ’82”」
『イレブン』v.12 no.7 1982.7 p.78-79

“最大の難関はフォークランド紛争 入場券のバラ売りに人気集中


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「Wカップ・ニュース」
『イレブン』v.12 no.7 1982.7 p.80-83

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「’82ワールドカップサッカーの放映日程衛生中継・衛星中継録画(総合テレビ)”」
『イレブン』v.12 no.7 1982.7 p.84-85

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第12回スペイン大会(1982年)

「スペイン・ワールドカップへのいざない」
『サッカー・マガジン』v.14 no.3 1979.3 p.4-13

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鈴木武士 「スペイン’82地域予選組み分け決まる 日本、中国、とともにアジア第4組へ」
『サッカー・マガジン』v.14 no.22 1979.12 p.78-81

日本、今度は韓国と別の組に 予選は今月から 不気味な復帰・中国
切符は13、それでも激しい争い 五段階ランク付け オランダは難しい組に
ブラジルの12回連続は不安なし ウルグアイの復活なるか


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世古俊文・取材 鈴木武士・監修 「スペイン・ワールドカップへのいざない」
『Football』no.53 1980.4 p.33-34

東京の総会で決定 施設面では問題なし、24チームでもやれる-サポルタ組織委員長にインタビュー 24チーム案が有力、かつてない大規模の大会に “すぐにでも大会ができる”候補の16都市19スタジアム 若返りをはかるクバラ軍団-試練は80年の欧州選手権 さあ、今から貯金を始めよう


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「’82W杯スペイン大会の優勝候補筆頭は西ドイツだ! 2年後へ地歩固めるデアバル軍団とチーム再編成を迫られるイングランド・スペインの悩み」
『イレブン』v.10 no.9 1980.9 p.68-75

メノッティの不満 長所を失ったブラジル 欧州は南米を抜いたか
非難の矢面に立つグリーンウッド監督-2年後へ若手の育成がイングランド浮沈のカギだ! グリーンウッドの怒り 優柔不断だった采配 なぜ優秀なウイングを入れなかったか?
サンタマリア新監督でチーム再建-スペイン国民の夢実現へ新監督にかせられた使命 不可解な監督用兵 長かったクバラ時代の終焉 新監督にはサンタマリアが確定!


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鈴木武士 「ワールドカップスペイン’82予選佳境に 欧州、南米の激戦区、今後の動向を探る」
『サッカー・マガジン』v.15 no.19 1980.10 p.78-81

西ドイツは12月に登場 出足快調のイングランド ブラジル以外は当確なし


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渡辺よしひろ 「’82年W杯で名門ブラジルが復活するための3つの条件」
『イレブン』v.10 no.10 1980.10 p.76-78

ソ連代表に初の敗戦 スピード不足を露呈したイレブン 三つの条件の克服が課題 チームプレーを強調するテレー監督


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パット・コリンズ 「注目の新人リックス出現! 新生イングランド、バイキングを粉砕 ’82スペインW杯欧州予選第4組」
『イレブン』v.10 no.11 1980.11 p.68-71

主力の故障で若手起用 新風を吹き込んだリックス スコットランドも敵地快勝 強豪オランダを食った弱小エール


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「Vamos a Espana 日本サッカー狂会創立 二十周年記念・ワールドカップ旅行団」経過報告」
『Football』no.55 1980.11 p.46

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渡辺よしひろ 「90パーセントの支持をとりつけ、ムンディアリートから82W杯予選を目指すテレー監督 名門ブラジル復活へ各クラブ、ファン、マスコミが力強い協力体制」
『イレブン』v.10 no.12 1980.12 p.92-93

テレー軍団の目標は’82W杯 前例がない高支持率 我々が進んでいる道は正しい


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渡辺正 「ワールドカップ予選を前にして」
『サッカー』 no.13 1980.12 p.28-29

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パット・コリンズ 「英国勢好調の中で不覚を喫したイングランド」
『イレブン』v.11 no.1 1981.1 グラビア頁

痛恨のペナルティ 快調北アイルランド


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今井恭司 「才能を見せたヤング全日本に明るい未来 1982年スペイン・ワールドカップ予選アジア第4組」
『サッカー・マガジン』v.16 no.3 1981.2 p.28-30

日本は予選リーグA組に 中国に敗戦、日本チームの二つの見方 マカオに快勝、準決勝へ 楽しみな今後の全日本


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後藤健生 「うれしい驚き若い日本の健闘」
『サッカー・マガジン』v.16 no.3 1981.2 p.31

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パット・コリンズ 「好調を誇る英国勢の中でウェンブレーのファンを失望させたイングランド」
『イレブン』v.11 no.2 1981.2 p.72-74

復調ブルッキングへの期待 精彩を欠く中盤トリオ 北アイルランド、11戦目 ウェールズ本大会へ光明 エールもキプロスに大勝


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フベルト・ビーンズ 「予選2連敗オランダ3連続出場に赤信号」
『イレブン』v.11 no.2 1981.2 p.76-77

目に余る両軍のラフプレー フリーキックの笛、11回


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川渕三郎 「悔しい準決勝での敗退 若い選手たち、のびのびとよく戦ったが・・・」
『サッカー』 no.14 1981.2 p.23-27

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森孝慈 「第1戦から全力を挙げて」
『サッカー』 no.14 1981.2 p.27-30

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後藤健生 「世界盃外圍賽 日本球迷的観戦記 香港に日本サッカーの夜明けを見た」
『Football』no.56 1981.2 p.25-34

1.大きな期待、大きな不安、そして大きな発見 2.わが眼を疑う日本チームの変貌 3.もう一度やれば勝てない相手ではない 4.かわいそうな私の国の代表チーム


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鈴木良韶 「又、行きたくなった香港」
『Football』no.56 1981.2 p.35-40

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「ヤング全日本にロス五輪への光を見た」
『イレブン』v.11 no.3 1981.3 p.140-141

組み分け予備戦 自信をもったヤング全日本 強豪北朝鮮に互角の勝負


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宮崎雄二 「ワールドカップアジア予選をみて」
『Football』no.57 1981.4 p.1-4

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渡辺よしひろ 「これで大丈夫か?ブラジル・ナショナルチーム」
『イレブン』v.11 no.5 1981.5 p.74-77

脅威を感じない代表チーム ジッコのPKで辛勝 非難されるテレー監督 10対11の白熱の攻防


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福島広樹 「ブラジル・サッカーは’60’70よりも後退している」
『イレブン』v.11 no.5 1981.5 p.78

積極的な守備陣の攻撃参加 ウイング不在の攻撃陣


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向笠直 「テレ監督再契約で’82体制整う ブラジル代表の問題点は?」
『サッカー・マガジン』v.16 no.8 1981.6 p.148-151

「フィカ!テレ」 選手も望んだ、そして- リーダー・ソクラテスの誕生 ジーコもイタリアへ?


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「白熱する’82Wカップ代表権争奪戦」
『イレブン』v.11 no.6 1981.6 p.68-73

14万人を熱狂させた黄色いカナリア軍団-ボリビアを破り12回目の出場権を獲得したブラジル代表(渡辺よしひろ) 素晴らしい攻撃サッカーを見せたブラジル・イレブン CBFにサラリー・アップを要求するテレー監督
ベッケンバウアー復帰説も出た西独のお家事情-シュスターの2ゴールでアルバニアを破った欧州チャンピオンだが...(U・シュレーダー) 代表チームの中軸に成長したシュスター パウル・ブライトナーの復帰が真剣に討議されている
クライフ復帰辞退でニューリーダーさがしに頭を痛めるレイベルス新監督-対フランス戦での苦戦の原因は指揮官の不在だった(フベルト・ビーンズ) 圧倒された対フランス戦 新リーダーとしてクロルに期待


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パット・コリンズ 「代表メンバー新旧交代の決断を迫られるグリーンウッド監督」
『イレブン』v.11 no.6 1981.6 p.92-93

ケネディの反乱 往時の面影ないキーガン 完全復調のフランシス


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「W杯スペイン大会まであと1年 ブラジル予選勝ち抜き第1号」
『サッカー』 no.16 1981.6 p.2-13

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「W杯予選アジア第2組審判報告」
『サッカー』 no.16 1981.6 p.38-41

先輩の業績(西旬一) ためらわずにPK宣す(佐野敏一)


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「燃え上がる’82ワールド杯予選、中盤の激闘」
『イレブン』v.11 no.7 1981.7 p.72-79

’82W杯欧州第1組-西ドイツ強し!ブライトナー、フィッシャーの復帰でオーストリアを一蹴!(U・シュレーダー) 五年半ぶりに復帰した闘将ブライトナー ジークフリートを彷彿させるシュスター サッカーの真の醍醐味を見せたイレブン
’82W杯欧州第4組-6万2500人を失望させたウェンブレーの戦い!(パット・コリンズ) 注目されるグリーンウッド監督の去就 イレブンからアイデアが消えた フランシス痛恨のシュート失敗
’82W杯欧州第2組-キプロスに辛勝して、3勝2敗のオランダだが前途なお多難!(フベルト・ビーンズ) 反省ないオランダ代表チーム おそまつな中盤
’82W杯欧州第2組-フランスに初黒星のベルギー、だがグループ首位は動かず!(フベルト・ビーンズ) 一枚上だったフランス 20分間のフランスの逆襲
’82W杯欧州第2組-べテラン、ネホダ健在、チェコ希望をつなぐ勝利!
’82W杯欧州第6組-観衆の不祥事に怒るポルトガル勢! スコットランド首位に立つ!


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「’82W杯予選欧州地区中間成績と日程」
『イレブン』v.11 no.7 1981.7 p.80

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渡辺よしひろ 「ブラジル国民の期待に応えるのか!?王座奪還のカギ握る3人のプレーヤー」
『イレブン』v.11 no.7 1981.7 p.82-85

代表チームきってのインテリ、ボールのドクター、ソクラテス 190センチの長身CF 父親の願いは医者だった 医大とプロ選手の両立
“名人ベビー”の異名を取る小兵のストライカー、レイナルド 14歳の神童
テレー監督に認められ無名から国際級、ルイジーニョ 赤貧の少年時代


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向笠直 「ブラジルはよみがえった」
『サッカー・マガジン』v.16 no.10 1981.8 p.150-153

第1幕ロンドン-“イングランドのタブー”は終わった 第2幕パリ-ジーコの “500ゴール”が勝利に花 間奏曲シュタンハイム-ドイツはグラウンダーでくるから楽だ 第3幕シュツッツガルト-スペイン82のNo1


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U・シュレーダー 「欧州の強豪を粉砕した新生ブラジルの恐るべき実力!」
『イレブン』v.11 no.8 1981.8 p.72-75

南米サッカーの強さを見せつけられた欧州のファン すべてに上回ったブラジル・イレブン ブラジルは事実上の世界No.1だ 素晴らしい資質の再発見で甦った


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渡辺よしひろ 「ペレも激賞した強いブラジルの再現」
『イレブン』v.11 no.8 1981.8 p.76-77

欧州遠征の成功にも慎重なテレー監督 主砲レイナルドを欠き西独に勝つ


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アティリオ・ガリード 「南米サッカー最新情報」
『イレブン』v.11 no.8 1981.8 p.78-81

メノッティ軍団のアキレス腱はポイントゲッターだ!! 気になるケンペス、ルーケの不調 毎週一回の合同練習で欧州遠征に備える 欧州視察旅行でポイントゲッターの重要性再確認
Wカップ出場のカギ握るのは“高地対策”だ 予選通過に自信のマスポリ監督 モレイラ、ビクトリーノも参加


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エリック・バッティ 「ピンチに立つグリーンウッド軍団 ...それでもイングランドはスペインへ行く!!」
『サッカー・マガジン』v.16 no.11 1981.9 p.148-151

グリーンウッドへ絶対の信頼 “クラブのサッカー”では通じない 「いまや楽なゲームなどない」 ブダペストで理想のゴール すべての国際試合の前に10日間の合宿期間を


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「’82W杯予選」
『イレブン』v.11 no.9 1981.9 p.78-79

ブラジルに次いで南米3組からチリが名乗り 鉄壁のソ連、ウェールズを完封 ポルトガル、手痛い黒星


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パット・コリンズ 「R.グリーンウッド監督の勇気ある決断がイングランドの本大会出場を決める」
『イレブン』v.11 no.9 1981.9 p.94-97

1回の勝利から状況が逆転した なぜハンガリー戦で若手をはずしたのか ホドルの能力を生かす使い方を 辞意をもらしたグリーンウッド監督


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アティリオ・ガリード 「メノッティ軍団の命運を握っているのはマラドーナだ!」
『イレブン』v.11 no.10 1981.10 p.78-79

どうした!ケンペス、ルーケの主砲2人 ディフェンス陣はパサレジャ中心に強力 秘蔵っ子マラドーナに賭けるメノッティ監督 一問一答-パサレジャ主将に聞く


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「82W杯スペイン大会予選既に9カ国が決定 新たに西独ら5チームが勝ち名乗り」
『サッカー』 no.18 1981.10 p.2-3

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パット・コリンズ 「’82W杯への戦い」
『イレブン』v.11 no.11 1981.11 p.72-79

無残イングランド!オスロに死す 信じられないできごとが起こった イングランドのスタートは完璧だった スペイン行きを消した魔の5分間 功を奏さなかったグリーンウッドの作戦
アルゼンチン欧州遠征 絶妙なプレーを披露したアルゼンチンの星マラドーナ
不完全編成で東欧の雄を粉砕したデアバル軍団 不完全編成で快勝 シュスターとディーツの造反 圧倒的だった西独の攻撃 スクロボフスキの好プレー


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「’82ワールド・カップ地区予選中間成績と日程」
『イレブン』v.11 no.11 1981.11 p.80-81

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ウルフルト・シュレーダー 「ブライトナーの復帰が西独を一段と強化した」
『イレブン』v.12 no.12 1981.12 p.77-79

“バイエルン共和国勢”の大活躍 気になるマーガットの不振 来春、南米遠征で総仕上げ


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「大詰め迎え白熱する欧州グループ予選」
『イレブン』v.12 no.12 1981.12 p.80-81

欧州第2組-いぜん苦しい戦い続けるオランダ 第3組-チェコ、アイスランドと不覚の引き分け 第4組-ルーマニアが引き分け、イングランド僅かに希望


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「’82ワールド・カップ地区予選中間成績と日程」
『イレブン』v.11 no.12 1981.12 p.82-83

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「スペイン’82情報 ブラジル人ティム率いる攻撃軍団ペルー、ベテランを軸に南米最高ウイング、ヤニェスが走るチリ」
『サッカー・マガジン』v.16 no.14 1981.12 p.148-150

ペルー-24歳のウリべが“新しいクビヤスだ!! 救世主はブラジル人のティム
チリ-フィゲロアとカセリ、2人のベテランも大奮闘!! 新エース、ヤニェス

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第11回アルゼンチン大会(1978年)ー5

吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 12」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.1 1979.1 グラビア頁

ソマリア


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 5 準備の最終段階」
『サッカー・マガジン』v.14 no.1 1979.1 p.38-41

ガッティとカラスコサ ビジャマリスタで 準備のための試合


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賀川浩 「総額55億ペソのプローデ」
『サッカー・マガジン』v.14 no.1 1979.1 p.42

相手のコースへ 霧のはじまり プローデ アルゼンチンとイタリア


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賀川浩 「濃霧の6月14日」
『サッカー・マガジン』v.14 no.2 1979.1 p.44

霧・キャンセル 2人のベテランGK 大統領・ケンペス・・・


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 6 選抜のとき」
『サッカー・マガジン』v.14 no.2 1979.1 p.72-75

ピアッサの帰国 選考の基準 中心になる選手たち 二十二人まで残った


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 13」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.2 1979.1 グラビア頁

ポルトガル、エチオピア


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高橋英辰 「先輩記者W杯奮戦記」
『イレブン』 v.9 no.1 1979.1 p.164-165

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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 7 ハンガリーに勝つ(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.3 1979.2 p.38-41

開幕を前にして その前夜 ミーティング


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 14」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.3 1979.2 グラビア頁

ニカラグア


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 15」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.4 1979.3 グラビア頁

中央アフリカ、チャド


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 8 ハンガリーに勝つ(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.4 1979.3 p.40-43

精神的重圧 指示通りの決勝点 更衣室での逸話


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 9 ベスト8へ進出(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.5 1979.3 p.70-73

ハンガリー戦の分析 “ココ”バシレの情報 フランス戦を前に 高価だった代償


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 16」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.5 1979.3 グラビア頁

インドネシア、ジブチ、ザイール


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 17」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.6 1979.4 グラビア頁

朝鮮民主主義人民共和国


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賀川浩 「ブラジル勢を困惑させた小さなアルディレス」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.6 1979.4 p.74

20年前のユース サンマルチン文化センター 手のこんだ足ワザ ピポピポの固いパン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 10 ベスト8へ進出(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.6 1979.4 p.82-85

記者たちとの応答 首都に残りたい 自由行動の日


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 18」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.7 1979.4 グラビア頁

朝鮮民主主義人民共和国


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 11 ただ1つの敗戦(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.7 1979.4 p.78-81

不可欠だったルーケ 前半は最高だったが... 実りのない論争


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高橋英辰 「続先輩記者W杯奮戦記 見せつけられた大記者の条件」
『イレブン』 v.9 no.4 1979.4 p.160-161

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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 19」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.8 1979.5 グラビア頁

朝鮮民主主義人民共和国


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賀川浩 「ヨハン・ニースケンスの索引力」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.8 1979.5 p.44

ウィーンからの絵ハガキ イタリアHB団 オランダのロングシュート キープは有効な守り 夜の部はさらにエキサイティング


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 12 ただ1つの敗戦(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.8 1979.5 p.78-81

質問に答えよう 大衆は信じてくれる 一歩ずつ前へ...


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賀川浩 「南米勢のボールタッチとインパクトは?」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.9 1979.5 p.42

十三年目の釜本 ブラジルの速い変化球 ベルトーニのドリブル カメラ席の割り当て


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 13 ロサリオの熱狂(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.9 1979.5 p.78-81

冷静になることはできない 幻想の向こうに ポーランド戦の作戦


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 20」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.9 1979.5 グラビア頁

朝鮮民主主義人民共和国


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 14 ロサリオの熱狂(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.10 1979.6 p.78-81

不完全なフィエスタ 私は大声をあげた 笑いのよみがえった日


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 21」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.10 1979.6 グラビア頁

アルゼンチン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 22」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.11 1979.6 グラビア頁

アルゼンチン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 15 最も悲しい日(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.11 1979.6 p.46-49

ロサリオの決戦 話は前日に始まった ブラジルに対する評価 ルーケは必要だったか?


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賀川浩 「若いロッシと老練リベリーノ」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.11 1979.6 p.50

日本サッカー狂会の十六年半 フィエスタ・アルヘンチナ イタリア式チョップ・チョップ・シュー


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奥沢浩 「アルゼンチン’78審判割当表」
『Football』no.50 1979.6 p.49-50

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「サッカーはテクニックとインテリジェンスのゲームだ!! アルディレスに直撃インタビュー」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.12 1979.7 p.40-43

W杯はメノッティの勝利だった サッカーは体格の勝負じゃない アイ・ライク・イングランド


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 16 最も悲しい日(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.12 1979.7 p.52-55

それは最悪の試合だった あんたは、出て行ってくれ 選手たちと話し合う ブラジルはポーランドに勝つ


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賀川浩 「決勝の日、世界はひとつに」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.12 1979.7 p.56

サンロレンソのサポーター ダンディーの団長さんは八十六歳 ペインの間のとり方 ブラスバンドと電飾


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 23」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.12 1979.7 グラビア頁

アルゼンチン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 24」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.13 1979.7 グラビア頁

アルゼンチン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 17 奇跡の6ゴール」
『サッカー・マガジン』v.14 no.13 1979.7 p.38-41

得失点差の争い 4ゴール差が必要だ 称賛すべきすばらしさ ムードは一変した


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賀川浩 「世界を制した強烈な個性の組み合わせ」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.13 1979.7 p.42

8月にケンペスが見られる 遅れた決勝のキックオフ 噛み合った個性の歯車 芸術的な3点目 ビクトリーランは15番


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 25」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.14 1979.8 グラビア頁

アルゼンチン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 18 栄光の日(上)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.14 1979.8 p.44-47

大衆の勝利 二日前、6月23日、金曜日 前日、6月24日、土曜日


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賀川浩 「戦いは終わりフィエスタは続く」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.14 1979.8 p.72

新鋭マラドーナのドリブル プレスバスの中もゴォールー オベリスク前の大群衆 大統領はオランダ人? ワールドユースで会おう


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 26」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.15 1979.8 グラビア頁

アルゼンチン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 19 栄光の日(中)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.15 1979.8 p.78-81

前夜の作戦会議 当日、6月25日、日曜日 その時が来た


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 27」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.16 1979.9 グラビア頁

アルゼンチン


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 20 栄光の日(下)」
『サッカー・マガジン』v.14 no.16 1979.9 p.76-79

世界チャンピオン 私は約束を果たした 終わりに


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牛木素吉郎 「連載を終わって メノッティ4つの闘い」
『サッカー・マガジン』v.14 no.16 1979.9 p.80-81

のめり込んだメノッティの世界 一貫した“サッカー哲学”


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 28」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.17 1979.9 グラビア頁

アルゼンチン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 29」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.18 1979.10 グラビア頁

グレナダ


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 30」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.19 1979.10 グラビア頁

グレナダ・グレナデーン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 31」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.20 1979.11 グラビア頁

コモロ


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 32」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.21 1979.11 グラビア頁

ホンジュラス


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 33」
『サッカー・マガジン』 v.14 no.22 1979.12 グラビア頁

ドミニカ、朝鮮民主主義人民共和国


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 34」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.1 1980.1 グラビア頁

リベリア


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 35」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.2 1980.1 グラビア頁

ガボン ニジェール


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「ARGENTINA’78漫画特集」
『Football』no.52 1980.2 p.36-39

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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 36」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.3 1980.2 グラビア頁

コートジボアール


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 37」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.4 1980.3 グラビア頁

ウガンダ


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 38」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.5 1980.3 グラビア頁

コモロ


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 39」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.6 1980.4 グラビア頁

ルーマニア


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 40」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.7 1980.4 グラビア頁

ルーマニア


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「ARGENTINA’78漫画特集(2)」
『Football』no.53 1980.4 p.17-22

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後藤健生 「書評論文 牛木素吉郎著『サッカー世界のプレー 80年代の技術と戦術』」
『Football』no.53 1980.4 p.23-28

1.アルゼンチンの評価について 2.オランダの評価について 3.結論 4.日本サッカーの現状


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 41」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.8 1980.5 グラビア頁

ルーマニア


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 42」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.9 1980.5 グラビア頁

朝鮮民主主義人民共和国


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 43」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.10 1980.6 グラビア頁

アルゼンチン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 44」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.11 1980.6 グラビア頁

ニジェール


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「ARGENTINA’78漫画特集(3)」
『Football』no.58 1981.6 p.21-27

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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 45」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.12 1980.7 グラビア頁

グレナダ・グレナディーン


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 46」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.13 1980.7 グラビア頁

モーリタニア


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吉武利昭 「ワールドカップの切手 78ワールドカップ 47」
『サッカー・マガジン』 v.15 no.14 1980.8 グラビア頁

コンゴ


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「世界杯を彩った名ポスター 第11回アルゼンチン」
『イレブン』v.12 no.5 1982.5 折込頁

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賀川浩 「二千五百万アルゼンチン国民を一つに結びセレステの国旗と白い紙吹雪が美しく舞った」
『イレブン』v.13 no.5 1983.5 p.175

政情不安にボイコット説も 国をあげての大会開催


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イストバン・ソモス 「レフェリーの回想ワールドカップの想い出」
『サッカー・ジャーナル』 no.9 1984.8 p.8-10

第十一回一九七八年アルゼンチン-E・リネマイヤー氏(オーストリア) ゴネラ氏、批判に答えず レフェリングには満足できず
イストバン・ソモス氏が選ぶ世界のレフェリー・ベスト12


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藤原章司 「ディフェンダーの攻撃参加 アルゼンチン大会のDF」
『サッカー・マガジン』v.20 no.10 1985.10 p.99-103

ブラジル・ネリーニョの得点 ディフェンダーの攻撃能力 アルゼンチン大会のアシスト 判断の正確さ、スピード、技術 ブラジルの攻撃パターン

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第11回アルゼンチン大会(1978年)ー4

牛木素吉郎 「“若さ”と“可能性”のキックオフ アルゼンチン’78開幕レポート」
『サッカー・マガジン』v.13 no.12 1978.7 p.20-23

静かな中で若さが躍動 サッカーがなくなるくらいなら... “頂上”へのルートは...


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’78ワールドカップ 1」
『サッカー・マガジン』v.13 no.12 1978.7 グラビア

コンゴ


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牛木素吉郎 「可能性を示したイタリア、だが2次リーグは激戦だ 1次リーグを終って」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.28-31

ブラジル中心の一次リーグ 揺れるブラジル陣営 一次でがんばりすぎた若きアルゼンチン 苦戦している強豪チームだが二次リーグは混戦だ


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鈴木武士 「本大会で、やはりドラマが演じられた 1次リーグ全試合記録」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.32-37

好チームぞろいの激戦組はあっさりとした結着-第一組 チュニジア善戦不満な二つの強豪-第二組 以外に苦戦した貧困FWブラジル-第三組 スコットランドまたも一次で敗退-第四組


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高橋英辰 「南米気質、騒然ブエノスアイレスの夜」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.38-39

期待に反したフィッシャー あと味の悪い“好ゲーム” 無駄のない攻撃


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ファン・カルロ・メナ 「チュニジア“奇跡”の活躍 優勝賭け率1000対1のチームが演じたビックリ・ショーの内幕」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.74-75

はじまりは処女のごとく 後半、驚異の逆転なる 将来に光明を与えた“アフリカの1勝”


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「ワールドカップ1、000ゴール! レンセンブリンク(オランダ)PKで記録」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.76-77

左インフロントでゴール左隅へ! 999ゴール目はベラスケス(ペルー) スコットランドの焦りから... クライフの後継者?


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アンドリュー・ディットレ 「地殻変動起こした世界のサッカー界 1次リーグ総評」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 p.78-80

チュニジア-アフリカ大陸に光明 イタリア-攻撃面で目立つ充実ぶり アルゼンチン-ものをいった地元の利 ブラジル-テンポの狂ったサンバ スコットランド、ハンガリー-実力、不発のまま終わる フランス-栄光ある敗退 スウェーデン、スペイン-全く予想どおりの成績 イラン-りっぱだったアジア代表 平均化する世界の実力


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 2」
『サッカー・マガジン』v.13 no.13 1978.7 グラビア頁

オートボルタ


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牛木素吉郎 「実を結んだアルゼンチンのひたむきサッカー アルゼンチン・ワールドカップ総評」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.32-36

史上空前の激戦 大会最大のヤマ場 ゴールラッシュ オレンジ旋風の限界 八万人の大合唱


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鈴木武士 「ケンペス爆発!アルゼンチンが初優勝 核なしオランダは“組織”健闘」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.38-42

二次リーグ 力を出したオランダ非力な西ドイツ-A組 ブランツ一人で2ゴールオランダ二回連続決勝へ 「事実上の決勝戦」-B組 アルゼンチン大量6点ブラジルの夢をつぶす
ブラジルが三位に-三位決定戦 大決戦、ケンペスが2点-決勝


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賀川浩 「世界を制した若さのドリブル アルゼンチン’78技術レポート」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.44-47

攻めてこそ技術は光る 攻撃への意欲攻めることへのタフさ 守りへの過信が災い ネリーニョのスライス ドリブル、またドリブル


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高橋英辰 「激戦、接戦で盛りあがったムンディアル」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.48-49

チームとともにファンも進撃 引き分けを指示したコンピューター・サッカー まだ遠いアジアの力 駆け引きなし実力勝負の二次リーグ


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「サッカーは“麻薬”とりついたら離れない 現地座談会」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.50-53

出席者:池田圭一、上坂衛、大山節子、田中正朗、渡辺岳司
犠牲はあってもこの目でワールドカップをみたい サッカーを楽しむアルゼンチン “青と白”一色のブエノスアイレス “意外性の魅力”それがワールドカップ 将来は日本開催が夢しかし今の目標はスペイン行


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牛木素吉郎 「ワールドカップの報道サービス」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.82

大規模なプレスセンター ブラジルの記者会見


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アンドリュー・ディットレ 「お見事アルゼンチン、攻めのサッカー 総評」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.92-95

もっと楽しいサッカーを! イタリアはスタミナ不足 アジア、アフリカの台頭 南米流から脱したアルゼンチン オランダは決勝で作戦ミス 西ドイツは戦後最低の戦力 歯ごたえなかった欧州勢 スコットランドは自滅 ペルー大健闘、メキシコ無残、ブラジルは期待はずれ りっぱだった組織と運営


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ルベン・G・ポッシ 「アルゼンチンの優勝は国民に何を与えたか」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.96-98

低いところからスタート 出場しなかったスターたち ファンもヒーロー アルゼンチンは一つになった


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「アルゼンチン’78ブラジル代表チーム 上 何がブラジルを苦しめたのか...?」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.100-101

負傷者続出の大会前 “白いパウロ・セザール” 「ロバ!」 初めての勝利


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「戦いすんで... 決勝戦余話」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 p.102

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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 3」
『サッカー・マガジン』v.13 no.14 1978.8 グラビア頁

パラグアイ


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「ファンタスチックな紙吹雪“ウルトラ大衆”のアルゼンチン’78 徹底座談会アルゼンチン’78」
『サッカー・マガジン』v.13 no.15 1978.8 p.28-33

出席者:賀川浩、牛木素吉郎、鈴木武士、荒井義行、大住良之(司会)
楽しませたフランス、不可解なブラジル 気楽にやったフランス 評価のむずかしいブラジル
“サッカーの原点”を見せたアルゼンチン 無理を承知のアルディレス なぜオランダが残ったか
大衆がつくり出したサッカーのフィエスタ ビンが飛ぶより紙吹雪 女、子供も年寄りも...
レベルの違うワンタッチ・コントロール “ボールを止める素質” サッカー界の構造変革が必要


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牛木素吉郎 「ワールドカップの審判」
『サッカー・マガジン』v.13 no.15 1978.8 p.36

巧妙で汚い反則 対策はないのか


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高橋英辰 「リバープレーとの大歓声の中で」
『サッカー・マガジン』v.13 no.15 1978.8 p.40-41

白熱!オランダ対イタリア ブラジルかアルゼンチンか 意地のかかった三位決定戦


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「アルゼンチン’78ブラジル代表チーム 下 ブラジルはいかに立ち直ったか」
『サッカー・マガジン』v.13 no.15 1978.8 p.42-44

攻めて攻めて攻めまくれ コウチーニョの発見 自分のサッカーをするんだ 土曜が本当の決戦だ メノッティの批判 真のチャンピオン


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 4」
『サッカー・マガジン』v.13 no.15 1978.8 グラビア頁

ケニア


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鈴木武士 「史上3度目の延長戦ケンペスが大殊勲! 決勝戦アルゼンチン3-1オランダ」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.19-25

本号は「速報アルゼンチン’78」
遅れたキックオフ BKのベテランを欠くオランダ 前半アルゼンチンの猛攻 後半、オランダの反発 ついに同点ゴール 再びケンペス ベルトーニがついに3点目 “アルヘンチーナ・カンペオン” 全土をおおった興奮と感動


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エリック・ウェイル 「何がアルゼンチンを優勝っせたのか “クリーン&アタックサッカー”世界を制す」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.26-29

勝因はラテンの血に挑戦した男の執念-非難の嵐でメノッティが何をやったか やっぱり“攻撃は最大の武器”だった-弱体防御陣がオランダの猛攻を支えるまで なぜ中盤をオランダに支配されたのか-勝って不問にされたアロンソ欠場の怪 薄氷の攻撃陣の救世主ケンペス、ルーケ-実は頭痛の種だった金看板・攻撃陣の実体


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「世界チャンピオンの横顔」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.30-31

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「ネリーニョ驚異のドライブ・ショット 3位決定戦イタリア1-2ブラジル」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.32-33

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「ARGENTINA’78全試合結果 1次リーグ」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.59-113

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「激しく展開された“決戦への序曲” 1次リーグの戦いを振り返って」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.114-117

第一組 1位イタリア2位アルゼンチン “現実派”イタリアの勝利
第二組 1位ポーランド2位西ドイツ チュニジアの大健闘光る
第三組 1位オーストリア2位ブラジル ブラジル大苦戦、得点力なし
第四組 1位ペルー2位オランダ 華ばなしい点の取り合い


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「敗れたチームにも優勝の可能性はあった 1次リーグで姿を消した強豪たち」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.118-121

フランス-実力ではトップクラス若い、魅力あるチームだった ハンガリー-未知の力のまま姿を消した“マジック・マジャール” スペイン-初戦の選手起用が失敗無念の敗退となった次期開催国 スコットランド-“星”計算のできなかった豪傑集団スコットランド


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「ARGENTINA’78全試合結果 2次リーグ」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.139-168

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「決勝戦へ、欧州、南米グループの熱い闘い 2次リーグの戦いを振り返って」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.166-168

A組 1位オランダ2位イタリア チーム力充実、番外オランダが決勝へ
B組 1位アルゼンチン2位ブラジル 若さ爆発!アルゼンチン驚異の進撃


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「アルゼンチン’78スクラップ・ブック ムンディアル・ア・ラ・カルト」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.188-191

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「心に残った好ゲーム 日本人記者の目」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.192-195

国民性の違いが生み出すサッカーのおもしろさ イタリア-西ドイツ(中条一雄)
アルゼンチン国民を酔わせた一夜の激闘 アルゼンチン-フランス(足立諄)
第二の祖国イタリアと祖国アルゼンチンのホットな戦い アルゼンチン-イタリア(小山敏昭)


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賀川浩 「アルゼンチン美女と子供とサッカーと」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.夏季 p.196

ボールつきサーカス ケンペスはクールだから好き


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へネス・バイスバイラー 「欧州vs南米の対決必至! W杯の行方はイタリアか?アルゼンチンか?」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.80-86

第1組-伝統の守備に攻撃力を加えたイタリアサッカー 第3組-かげをひそめたブラジルの攻撃的サッカー 第4組-第一次リーグのハイライト、ペルーの攻撃 第2組-歯車を狂わせた西独の守備と攻撃のトラブル


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フランツ・ベッケンバウアー 「僚友マイヤーが西独の危機を救った!」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.88-91

若いH.ミュラーの活躍光る 失われた“プレーする喜び” スーパースター不在の大会


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ブランコ・ぺロバノビッチ 「史上最強のメノッティ軍団に熱狂する地元アルゼンチン」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.92-94

サッカー選手の輸出国 メノッティ監督の手腕


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渡辺よしひろ 「カイゼル大統領の叱咤激励で甦ったコウチンニョ軍団」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.96-99

ジッコ“幻の決勝ゴール” 最悪の出来に失望のファン カイゼル大統領の至上命令 オーストリアを破って薄氷の2次リーグ進出


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「苦戦続きで一次リーグを突破したオランダ」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.100

レップが貴重なゴール 痛いホーベンカンプの欠場


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ペレ 「厳寒のアルゼンチンで熱い戦いが始まった」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.102-105

見あたらないアメリカ人 指揮官不在のブラジルに不安 “次女誕生”のニュースに大喜び 自分に課した三つの禁止事項 ベストプレーヤーは二人のイタリア人


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賀川浩 「目を見張る地元アルゼンチンの迫力と精彩を欠く西独、ブラジル」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.106-108

見違えるアルゼンチン 目の色が変わったイタリア スーパースター不在の大会


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「W杯ミニ・ニュース」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.110-112

数字で見る’78W杯 W杯歴代初得点者 W杯の“十戒” ユニフォームを間違えたフランス・イレブン ドーピング・テスト “若き老雄”ヨングブルート 国王の禁煙命令 チュニジアの奮闘


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高橋英辰 「新米記者のWカップ奮戦記」
『イレブン』v.8 no.10 1978.8 p.114-116

全員集合 プレンサー 11対7万5411 新米と老練の差


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 5」
『サッカー・マガジン』v.13 no.16 1978.9 グラビア頁

ブラジル、マリ、ブルガリア


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ピエロ・バルセッチ 「イタリアの新“ゴールデン・ボーイ”パオロ・ロッシ 六百万ドルの価値ををもつ二十一歳の若者の未来は」
『サッカー・マガジン』v.13 no.16 1978.9 p.38-41

イタリアの得点王 “狂気のロッシ旋風” 「ビチェンツァが好きだ」 ワールドカップにはまだ二回のチャンス サッカーが楽しくてたまらない


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賀川浩 「ARGENTINA’78連続写真で見る世界のプレー」
『サッカー・マガジン』v.13 no.16 1978.9 p.52-57

ラトのスペースを作る動き-西ドイツ0-0ポーランド カブリーニの“守から攻”-フランス1-2イタリア プラティニの柔軟な壁パス-フランス1-2イタリア


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賀川浩 「タンゴの国の行進曲」
『サッカー・マガジン』v.13 no.17 1978.9 p.46

ありがとうNHK マルチャ・オフィシアル フスバル・イスト... 失望の西ドイツ意気あがるアルゼンチン


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賀川浩 「ARGENTINA’78連続写真で見る世界のプレー」
『サッカー・マガジン』v.13 no.17 1978.9 p.52-55

ヘルツェンバインのヘッド・シュート-オーストリア3-2西ドイツ フアニートのストッピング-スウェーデン0-1スペイン


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フアン・カルロス・メナ 「素顔のマリオ・ケンペス」
『サッカー・マガジン』v.13 no.17 1978.9 p.74-77

飾りけのない性格 エンリケ・シボリの言葉 “背の低い太っちょ” “お前が一人でやったんだ”


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賀川浩 「ケンペスとの再会」
『サッカー・マガジン』v.13 no.17 1978.9 p.76

クールなリーダー 静止とばく走


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 6」
『サッカー・マガジン』v.13 no.17 1978.9 グラビア頁

ハンガリー


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ジョルジオ・モッターナ 「カテナチオを脱皮したアズリー軍団の攻撃パワー」
『イレブン』v.8 no.12 1978.9 p.94-97

消えたカテナチオ 攻撃の軸は3人のウイング Aグループ入りで油断 イタリアは変わった


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ウルフェルト・シュレーダー 「W杯大会でレフェリーの判定に散った不運なフランス・チーム」
『イレブン』v.8 no.12 1978.9 p.98-100

驚異的な質の高さ 誘拐未遂事件の後遺症 実力を発揮できなかったプラチニー 痛恨のPK!


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パット・コリンズ 「ファンの期待を打ち砕いたマクラウド監督の裏切り」
『イレブン』v.8 no.12 1978.9 p.102-105

宿題を忘れたマクラウド ショッキングなドーピング事件 帰国の空港に人影なし 不思議なマクラウド留任


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高橋英辰 「記者の証明IDカード」
『イレブン』v.8 no.12 1978.9 p.122-123

IDカード 六十の手習い 日帰り旅行中止


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二宮寛 「世界のサッカーと日本代表4つの課題 W杯に学ぶもの」
『イレブン』v.8 no.12 1978.9 p.124-125

1.ボール扱いの正確さ 2.正しい状況判断と、自己をしっかり持ったプレー 3.個人の特徴をつける 4.すべての局面を得点に結びつけてプレーしよう

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賀川浩 「ARGENTINA’78連続写真で見る世界のプレー」
『サッカー・マガジン』v.13 no.18 1978.10 p.22-25

ケンペスの前を向く動き-オランダ1-3アルゼンチン(決勝) ケンペスのボレーキック-オランダ1-3アルゼンチン(決勝)


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 7」
『サッカー・マガジン』v.13 no.19 1978.10 グラビア頁

メキシコ、マルタ


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牛木素吉郎 「ワールドカップ’78」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.秋季 p.199-209

本号は「アルゼンチン’78」と題する写真集。
紙吹雪 ゴォォールゥゥー ドーピング 大統領 ブラジル オランダ アルゼンチン メノッティ いちばん集


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「アルゼンチン78全記録」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.秋季 p.212-219

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「出場16チーム全選手一覧」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.秋季 p.226-230

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渡辺よしひろ 「コウチンニョ監督に解放された代表選手の後遺症」
『イレブン』v.8 no.13 1978.10 p.92-95

ちぐはぐな代表選手の動き 謀略で失脚した前監督 ブラジル・サッカーの革命 代表監督に“有罪”の宣告


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高橋英辰 「陽気で温かいブラジル気質」
『イレブン』v.8 no.13 1978.10 p.140-141

後味の悪いアルゼンチン優勝 スーパースターの余裕がない 巌流島の対決! 親日家の会長


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 1 最初の仕事」
『サッカー・マガジン』v.13 no.20 1978.11 p.28-32

はじまり 監督になる条件 協力者たち 四つのチーム


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 8」
『サッカー・マガジン』v.13 no.20 1978.11 グラビア頁

リベリア


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 2 初のタイトル」
『サッカー・マガジン』v.13 no.21 1978.11 p.40-43

ツーロンの大会 一歩後退、二歩前進 最初の一年間の成果 リバーの違反


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賀川浩 「左利き2人の芸術家」
『サッカー・マガジン』v.13 no.21 1978.11 p.44

「ホロコースト」のラストシーン ワイン博物館で利き酒 ロブ・レンセンブリンク スコットランドに変化のきざし


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 9」
『サッカー・マガジン』v.13 no.21 1978.11 グラビア頁

モンゴル


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へネス・バイスバイラー 「’82スペインW杯で世界の脅威になるかイタリア・サッカー」
『イレブン』v.8 no.14 1978.11 p.100-102]

対照的なイタリアとブラジル イタリア好調の要因 オランダの戦術を評価


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「アルゼンチンW杯で生まれたオランダの新星エルニー・ブランツ」
『イレブン』v.8 no.14 1978.11 p.104-105

オランダに次代を担うスター べべレンの練習法に共感


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鈴木良韶 「フットボール・ビーノ・牛肉」
『Football』no.47 1978.11 p.1-12

日本から 太田家 試合 太田一二氏の墓参 ラプラタとチグレとボカ 帰国


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鈴木通韻 「Vamos Argentina!」
『Football』no.47 1978.11 p.13-16

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奥沢浩 「グラシャス! アルヘンティナ(1)」
『Football』no.47 1978.11 p.16-19

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後藤健生 「バーモス・アルヘンティナ(1)」
『Football』no.47 1978.11 p.19-27

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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 3 大衆の支持」
『サッカー・マガジン』v.13 no.22 1978.12 p.42-45

ヨーロッパ遠征 スター選手の流出 スペインでの失敗 国際シリーズ


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 10」
『サッカー・マガジン』v.13 no.22 1978.12 グラビア頁

セネガル


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吉武利昭 「サッカーの切手 78ワールドカップ 11」
『サッカー・マガジン』v.13 no.23 1978.12 グラビア頁

ガーナ、仏領ポリネシア、グアテマラ


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牛木素吉郎 「テレビのサッカー解説」
『サッカー・マガジン』v.13 no.23 1978.12 p.34

なつかしいゴール絶叫 個人名をいってほしい


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セサル・ルイス・メノッティ 「メノッティ1353日の闘い 4 一時的な停滞」
『サッカー・マガジン』v.13 no.23 1978.12 p.40-43

パラグアイに敗れる ケンペスは必要だ 組み合わせ抽選


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賀川浩 「丘の上のオランダ宿舎」
『サッカー・マガジン』v.13 no.23 1978.12 p.44

ワールドカップ・クイズとサッカーの絵 アコンカグァ南面 オランダ宿舎は千三百メートル


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後藤健生 「バーモス・アルヘンティナ(2)」
『Football』no.48 1978.12 p.1-10

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福島清治 「ワールドカップ・レポート」
『Football』no.48 1978.12 p.10-14

1.ショック!ハンガリー、フランスの一次リーグ敗退 2.ラフプレーで印象を悪くしたブラジル 3.汚いプレーの目立った大会 4.予想どおりの平凡なチーム、西ドイツ 5.その他印象に残ったチーム


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木下俊彦 「’78ワールド・カップ」
『Football』no.48 1978.12 p.15-16

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奥沢浩 「グラシャス! アルヘンテナ(2)」
『Football』no.48 1978.12 p.16-21

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鈴木良韶 「ブエノス・アラカルト」
『Football』no.48 1978.12 p.1-10

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第11回アルゼンチン大会(1978年)ー3

エリック・バッティ 「西ドイツ 最後のWMに挑む“幸運児”シェーン」
『サッカー・マガジン』v.13 no.1 1978.1 p.82-85

幸運児ヘルムート・シェーン 世界最高のブンデスリーガ 終ったボルシア=バイエルン時代 中盤にやや問題はあるが


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エリック・バッティ 「スコットランド “世界最強”のハーフとバック陣」
『サッカー・マガジン』v.13 no.2 1978.1 p.38-41

チェコの弱体化が幸い マクロード監督の国際経験不足が心配 ハーフとバックはいいが... 控えの層が薄い


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エリック・バッティ 「ポーランド グモッフのもとでふたたび“世界”へ」
『サッカー・マガジン』v.13 no.2 1978.1 p.42-44

グールスキの築いた七四年チーム “最悪の時期”に受け継いだグモッフ GKはトマシェフスキ “若さ”と“老巧”ボニェクとデイナ


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鈴木武士 「アルゼンチンへ!16チーム出そろう」
『サッカー・マガジン』v.13 no.2 1978.1 p.78-80

ブラジル-コウチーニョの攻撃軍団 西ドイツ-ブラジル並みの人材の豊庫 イタリア-守備陣の老化が気がかり ハンガリー-若手中心だが油断できず スウェーデン-今回も“出稼ぎ組”が中心 アルゼンチン-方針変えたメノッティ監督 フランス-点取り屋不足が悩み スペイン-新エース、ルベン・カノ オーストリア-“二十年ぶり”の古豪 ポーランド-西ドイツ大会のメンバー中心 オランダ-クライフが出るか出ないか メキシコ-“古豪”だが期待はできず スコットランド-英国四協会の代表 ペルー-“年寄り中心”で苦悩 イラン、チュニジア-初出場二カ国、健闘を期待


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パット・コリンズ 「W杯へ絶望のイングランドが見せた名門の意地と将来への布石」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.102-105

若手の成長に将来性を見た 守備一辺倒のイタリア 鉄壁の守りワトソン 見事なキーガンとブルッキングの連係プレー


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「激戦のワールドカップ欧州予選」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.106-111

ヨーロッパ第4組-豪華メンバーであげた出場決定の決勝点 負傷クライフ、黄金のパス
ヨーロッパ第3組-東独を蹴落とした闘志のオーストリア
ヨーロッパ第7組-見せるか、’78マジャールの奇跡
ヨーロッパ第5組-アイドル、ロシュトーW杯へ起死回生のシュート
ヨーロッパ第8組-ユーゴスラビア、絶望の淵から奇跡の大逆襲


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「’78ワールドカップ予選全成績」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.112

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ピーター・ビッツア 「W杯連覇へ西独、疾風怒濤の快進撃 ’78W杯へ西独テストマッチ 西独4-1スイス」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.114-116

新人・ブルグスミュラーさっそうと登場 フィッシャーの華麗なゴールでクライマックス ウィークポイントは守備陣


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「W杯不出場を宣言したオランダの救世主クライフ」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.120-123

本大会への切符が最後のプレゼント 幸運を生んだ退場事件 ミュンヘン大会のスパースター


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「’78W杯、イタリアの星ロベルト・ベッテガ」
『イレブン』v.8 no.1 1978.1 p.128-131

病魔を退けたサッカーへの情熱 ぼくに天賦の才能はなかった


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エリック・バッティ 「アルゼンチン ピアッサ、ケンペスが戻れば...」
『サッカー・マガジン』v.13 no.3 1978.2 p.48-51

優秀選手の流出が伝統的な悩み 監督のイスも不安定 “アルゼンチン流”のやり方では通用しない 中央のラインが問題 ピアッサ(サンテチエンヌ)を呼び戻すか...  CFはバレンシアからケンペス


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エリック・バッティ 「オランダ “クライフなし”でも優勝候補」
『サッカー・マガジン』v.13 no.3 1978.2 p.53-56

クライフの後継者はレンセンブリンク 監督はオーストリア人、エルンスト・ハッペル 控えの層が薄い 守備陣も手うす


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渡辺よしひろ 「南米二大サッカー王国首脳の間で練られた欧州打倒プラン」
『イレブン』v.8 no.2 1978.2 p.80-84

代表選考に慎重なメノッティ監督 ヨーロッパで力をつけたケンペス 欧州戦法を取り入れるコウチンニョ 彗星の如く出現したレイナルド


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パット・コリンズ編 「’78W杯アルゼンチンへ殴り込むヨーロッパのスター軍団(上)」
『イレブン』v.8 no.2 1978.2 p.86-92

優雅なポーランドの星カジミエル・ディナ W杯への救世主ミスター・イタリアロベルト・ベッテガ 野望を担う巨漢のストライカーヨハネス・クランクル 栄光のゴールを生む黄金の足ロブ・レンセンブリンク 個性豊かな才能を持つ暴れん坊ドミニク・バテナー


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エリック・バッティ 「フランス “ヤング・パワー”で波乱を起こすか」
『サッカー・マガジン』v.13 no.4 1978.3 p.48-51

史上最強は58年のチーム 成功を収めたイダルゴ監督 強力な守備陣と中盤 豊富なウイングの駒


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鈴木武士 「開幕戦は西ドイツvsポーランド オランダは第4組のシードを獲得」
『サッカー・マガジン』v.13 no.4 1978.3 p.78-81

華やかな抽選セレモニー “シード”をめぐる闘いオランダにがい歌 イタリアは大激戦グループに かけ率トップはやはり西ドイツ 楽勝ムードの西ドイツ強気のブラジル


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エリック・バッティ 「スウェーデン 固い守備から数少ないチャンスを狙う」
『サッカー・マガジン』v.13 no.5 1978.3 p.44-47

生活水準の高さが災い 栄光の58年チーム エドストレームはいるが... エースはショーベリ 頼みは固い守備陣


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ピーター・ビッツア 「皇帝のW杯不出場に西独協会の冷ややかな反応」
『イレブン』v.8 no.4 1978.3 p.82-85

1860から助っ人の誘い 筋の通ったコスモスの回答 皇帝復帰の唯一のチャンス 憂鬱な皇帝の周辺


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「’78W杯アルゼンチン大会組み分け決定! 6月1日西独vsポーランド戦で華やかに開幕」
『イレブン』v.8 no.4 1978.3 p.86-88

57ヶ国に衛星中継 開幕戦は西独対ポーランド 悲喜こもごも各国首脳部の反応


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パット・コリンズ編 「’78W杯アルゼンチンへ殴り込むヨーロッパのスター軍団(下)」
『イレブン』v.8 no.4 1978.3 p.90-94

世界No1のヘディングの名手ラルフ・エンドストレム(スウェーデン) 開花した大器晩成のミッドフィルダードン・マッソン(スコットランド) PKのスペシャリストピリ(スペイン) “魔術師”復活のカギ握る指揮官ティボール・ニラシ(ハンガリー)


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ピーター・ビッツア 「W杯2連覇を目指す西独の新型爆撃機K・フィッシャー」
『イレブン』v.8 no.4 1978.3 p.96-99

危険覚悟のスーパーゴール 苦しみ抜いた被告の座 私はシャルケを離れない 皇帝もぜひW杯出場を


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エリック・バッティ 「イタリア 1回おきの好成績今回は好チーム」
『サッカー・マガジン』v.13 no.6 1978.4 p.42-45

一回おきに好成績 ウェンブリーで見せた弱点 “カテナチオをやめなければならない”  中盤の将軍アントニョーニ 危険なトップの3人


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エリック・バッティ 「ハンガリー 技術最優先どこからでも点が取れる」
『サッカー・マガジン』v.13 no.7 1978.4 p.44-47

初めての4-2-4 私が見た最高のチーム サッカーは芸術だ チームの起点、ニラシ どこからでも点がとれる


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アラン・レブラン 「フランスはベスト4に進出する」
『サッカー・マガジン』v.13 no.7 1978.4 p.78-80

“復活”に二つの要因 なくなった劣等感 プラティニとトレゾール ベスト4に残る!


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フベルト・ビーンズ 「台風の眼、オランダの波状攻撃を演出するハッペル代表監督」
『イレブン』v.8 no.5 1978.4 p.84-87

クジ運に恵まれたオランダ 代表監督ハッペルの素顔 波状攻撃の主軸はバン・ハネヘム 注目されるクライフの去就


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ジョルジオ・モッターナ 「最大の激戦区入りでチーム編成に頭を悩ますベアルゾット監督」
『イレブン』v.8 no.5 1978.4 p.88-90

意味深長な対フランス戦 若手の投入はかるベアルゾット チーム構成に一抹の不安


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エリック・バッティ 「スペイン 万全の守備陣カマーチョの負傷が心配」
『サッカー・マガジン』v.13 no.8 1978.5 p.42-45

リベロのピリが中心 “輸入FW”が災い ディフェンスは固い ルベン・カノとファニート


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エリック・ウェイル 「突如好転しはじめたメノッティ構想」
『サッカー・マガジン』v.13 no.8 1978.5 p.82-85

ピアッサが合流、改善された守備ライン ペルー戦はすばらしい内容 70パーセントまできた できるだけゆっくり調子を上げる 強豪と対戦したかったが... ケンペスは待つウォルフは待てない


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エリック・バッティ 「オーストリア “ブンダーチーム”は昔話今は悩みだらけ」
『サッカー・マガジン』v.13 no.9 1978.5 p.40-43

英人コーチがまいた種 ファンタスチックな技術のさえ 現在は衰退頼みはチームワークだけ 守備陣は浮き球に弱点 FW陣も頼りにならず


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エリック・バッティ 「アルゼンチン’78の1次リーグを予想する 混戦の1組他の組は問題なし」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.47-61

本号は「アルゼンチン’78総合ガイド」
第1組 それぞれに強みと弱点しのぎをけずる4チーム 好チーム、ハンガリーは苦戦 結局はアルゼンチンとイタリア?
第2組 西ドイツとポーランドの1、2位は決定的 未知のチームを見るのは楽しみだが... フィッシャーが頼りの西ドイツ チュニジアとメキシコは問題外 ポーランドは戦力低下
第3組 ブラジルの1位は確実もうひとつはスペインか 優勝候補ナンバー1、ブラジル オーストリアの予選通過は東ドイツのおかげ スウェーデンも問題外 スペインはピリ中心の固い守備
第4組 1位はスコットランドオランダはいいチームだが... ペルーは年をとりすぎ 最近のオランダはレベル・ダウン スコットランドは自分を抑えることが課題


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鈴木武士監修 「世界のスターA~Z アルゼンチンで競う各国のエース111人名鑑」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.63-94

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「アルゼンチンに挑むビッグ4 第1シードの4チームはどんな布陣で臨むか」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.95-111

アルゼンチン(エリック・ウェイル) “頭痛のタネ”が続出 昨年のチームと大差なし 一次リーグは固定メンバーで “地元”のプレッシャーに打ち勝つか
西ドイツ(ハインツ・エングラー) 抜けたスターの穴は埋まった 四年前よりも順調 大会を最高のコンディションで 強みは多様性
ブラジル(エリック・ウェイル) マリーニョがはずれた!! 負けてはいないが... 雨と寒さのマルデルプラタ レギュラーは決まった?
オランダ(エディ・プールマン) 決勝大会への準備はゼロ ハッペル監督も苦慮 2トップか3トップか BKとGKは問題なし


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「16人のボスたち 出場16チーム監督の横顔をさぐる」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.112-113

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「スーパースターは失われた!! 不参加が決定的になったクライフとベッケンバウアー」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.114-117

「今は西ドイツの幸運を祈るだけ」フランツ・ベッケンバウアー テスト・マッチに出られなければ... 103回で止まり “西ドイツは優勝できない”
「ワールドカップは一度で十分」ヨハン・クライフ 投書の山も動かせず “私には野心がある”


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賀川浩 「アルゼンチン’78への期待」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.118

ちょっとやっかいな 自由なプレーはどこから? “ビッグ・スリー”は? アジアの代表、イランは?


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牛木素吉郎 「ワールドカップを楽しむ法」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.119

失望させられることはない お好みのチームは? 国をあげてのお祭


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賀川浩 「アルゼンチン’78への期待」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.120

ちょっとやっかいな 自由なプレーはどこから? “ビッグ・スリー”は? アジアの代表、イランは?


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「アルゼンチンから世界中へ テレビ中継の準備もOK,日本でも...」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.120-121

カラー放送準備も完了 NHKプラス12chでOK!!


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「アルゼンチン3行メモ」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.122-123

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「アルゼンチン5都市の6月の気温と天気」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.124

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「16チーム過去の対戦成績(ワールドカップ決勝大会に限る)」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.125

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鈴木武士 「アルゼンチンへの道 アルゼンチン’78予選全記録」
『別冊サッカー・マガジン』v.5 no.1 1978.春季 p.127-137

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ピーター・ビッツア 「統率者不在!西独の2連覇に暗いカゲ」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.112-115

美しいプレーから闘志へ転換 西独代表薄氷の勝利 “頭”のないシェーン監督の悩み 気力で握った二つの勝ち星


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渡辺よしひろ 「南米開催に意地に燃えるブラジルの臨戦態勢」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.116-118

消えたパウロ・セザールの名 ’74W杯の生き残りは4人 “とんぼ返りのロメウ”  選考された21人 残り27名のリスト


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フベルト・ビーンズ 「このままではオランダに勝ち目はない!」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.120-123

意外に重いニースケンスの故障 へールス、W杯出場を固辞 ゲームメーカー不在 ペータースはもう使わない


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パット・コリンズ 「スコットランドが担うグレート・ブリテンの栄光」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.124-126

ローを彷彿させるウォーレス 熾烈なポジション争い 困難な代表選手選考


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ジョルジオ・モッターナ 「イタリアの運命を左右するユベントス」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.128-130

痛いザッカレリの負傷 突如狂った後半戦 死んだ馬より生きているロバを


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ペレ 「W杯はクライフを必要としている」
『イレブン』v.8 no.6 1978.5 p.132-134

クライフにはクライフの進む道が... クライフを襲う数々のプレッシャー 忘れられない「残れ! 残れ!」の大合唱


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鈴木武士 「アルゼンチン’78出場チーム情報 “優勝候補ナンバー1”の明暗」
『サッカー・マガジン』v.13 no.10 1978.6 p.71-75

ブラジル-ルイス・ペレイラは外す 西ドイツ-新しい戦術を身につける アルゼンチン-ケンペスの帰国決まる! スペイン イラン ハンガリー スウェーデン メキシコ ペルー ポーランド


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「参加チーム1次登録選手名簿」
『サッカー・マガジン』v.13 no.10 1978.6 p.76-79

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エリック・バッティ 「アルゼンチンで戦う世界の強豪」
『サッカー・マガジン』v.13 no.10 1978.6 p.80-92

ブラジル-フォワード・ラインの弱さを克服するか サッカーは芸術だ 無視できない大衆の力 コウチーニョの抱えた問題 守備陣の問題はペレイラ 中盤の四人は文句なし FW陣が悩みのタネ
イラン-国王の力入れで波乱を起こす可能性 手軽に扱える存在ではない オイル・ダラーを背景に 大会前に欧州を転戦 ロウシャンが欠けたら...
メキシコ-有望な攻撃ラインも決定的に経験不足 狂気じみた地元の観衆 欧州ならマルタ、キプロスのクラス 新監督ロカの苦悩 経験の浅さが致命的
チュニジア-かなりの好チームだが完全に力不足 不利な状況で勝ち抜く 西ドイツ仕込みのチェタリ監督 スターはアトゥーガと右ウイングのテミメ ハイ・クロスに弱点


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エリック・ウェイル 「自信満々迎え撃つブラジルとアルゼンチン」
『サッカー・マガジン』v.13 no.10 1978.6 p.98-101

ブラジル ウェンブリーの絶叫 自信深めたコウチーニョ
アルゼンチン まだ攻守のバランスが...
大会運営 心配な海外からの客足


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鈴木武士 「アルゼンチン’78出場チーム情報 2 自信をとり戻した西ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.13 no.11 1978.6 p.36-38

ブラジル-FWラインは決まらず 西ドイツ-23人のメンバー決まる イタリア-ファケッティが辞退 スコットランド-準備ができない! オランダ-ハーンかレンセンブリンクか フランス-イランに大苦戦 ポーランド-ゴルゴン登場 ペルー-ソティルはずれる メキシコ-若い選手に自信 アルゼンチン-アロンソが初登場


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エリック・バッティ 「アルゼンチンが優勝候補だ!!」
『サッカー・マガジン』v.13 no.11 1978.6 p.40-43

優勝候補は... アルゼンチンに四つの光明 エンターテインメントがなくなった ブラジルはラフプレーが気がかり 西ドイツには重大な危機
ダークホースは... キー・プレーヤーが欠けた スウェーデン、オーストリアも良くなったが... フランスが上昇中

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エリック・バッティ 「ペルー」
『サッカー・マガジン』v.13 no.11 1978.6 p.44-47

軍事政権が財政援助 すばらしかった70年の代表チーム やはり問題は守備ライン クビジャスが使えるか 新エースはペルシー・ロハス


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ピーター・ビッツア 「ブラジル辛勝!依然続く指揮官不在の西独」
『イレブン』v.8 no.7 1978.6 p.84-87

予想裏切った両軍の白熱した真剣勝負 真の指揮官不在で転覆寸前の西独丸 栄光の西独イレブンは過去の残照か?


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ジョルジオ・モッターナ 「イタリアの輝く20億リラの『宝石』P.ロッシ」
『イレブン』v.8 no.7 1978.6 p.88-90

眼を見張る得点力 意表をつく俊敏なプレー 代表チームでの役割


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ピーター・ビッツア 「’78Wカップ展望」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.36-43

本号は「’78アルゼンチンWカップ総観戦ガイド」増刊号。
第1組-本命イタリアを追うアルゼンチン、フランスの死闘か 注目される南欧と南米の両雄対決 急上昇のフランス
第2組-連覇へ試練の西独イレブン2位争いへ浮上のメキシコ
第3組-四度目へ挑戦するブラジル、オーストリアにもチャンス 躍進の可能性秘めたスペイン
第4組-オランダは前回より戦力半減、脅威となるかイラン 意外性少ないスコットランド


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ウルリッヒ・プラーマン 「西ドイツ2連覇のカギを握るのは新旧4人のプレーヤーだ!」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.44-48

フィッシャーとアブラムチックの絶妙なコンビは天下一品だ 偉大な道化者・マイヤーと新キャプテン、フォクツ


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ペレ 「王様ペレがW杯を狙うビック3を徹底分析」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.50-54

西ドイツ-皇帝・ベッケンバウアーを欠いた西独にはやはり不安がある 私はシェーン監督の勇気ある決断を理解できる
アルゼンチン-ホスト国、アルゼンチンは西独の偉業を継ぐチームだ 南米で最も欧州化されたアルゼンチン・サッカー 私のカムバックは絶対あり得ないことだ!
ブラジル-ブラジルは’74年の失敗を決して繰り返してはならない

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ピーター・ビッツア 「われわれはW杯でベスト4に残る 直撃インタビュー西ドイツ監督・ヘルムート・シェーン」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.56-59

絶対不敗は神話にすぎない 過去の名手にこだわらない 天才が育つ時間がなくなった 優勝候補の筆頭はブラジルだ


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「復活するブラジルの芸術家集団」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.60-65

静かなるファイター、リベリーノ 神技のフリーキック
第二のペレ“ジッコ” W杯ではペレの代役を!
ブラジルの城壁、レオン ケンカばやく頑固なレオン

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「’78アルゼンチンW杯全試合日程表」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.69

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「W杯史に輝く不滅のストライカー」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.70-72

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「テレビガイド」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.75

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「アルゼンチンイラストマップ」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.76-77

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「ワールドカップの話題“あれこれ”」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.79

延べ三二〇億人がTV観戦 消えたジュール・リメ杯 本大会のレフェリーは32名 W杯にもフェアプレー賞

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「数字で見るWカップの記録」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.80-82

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「劇画で綴るWカップの歴史」
『イレブン』v.8 no.8 1978.6 p.86-130

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[H.]バイスバイラー 「名将バイスバイラー監督が語る’78Wカップに出場する16ヵ国チームの戦略」
『イレブン』v.8 no.9 1978.7 p.84-95

アルゼンチン-世界一級を誇るフォワード陣 フランス-チームの命運握るプラチニーのゴール イタリア-最強のツー・トップで守備一辺倒から脱皮 ポーランド-多くの経験者を擁する長所と短所 西ドイツ-最上の編成ではないがベスト4入りは確実 スペイン-独特の柔軟性を持つサッカーは脅威 ブラジル-優勝候補No1、完璧な芸術家集団 オランダ-選手層も厚く戦術は世界一だ スコットランド-欧州一流プレーヤーの成功のカギは規律 ハンガリー-テレチクとバラディに期待する得点力 チュニジア-浮沈のカギ握る指揮官タレク メキシコ-若手2人のゲッターとアラヤが中心 オーストリア-台風の目アルプスの小国チーム スウェーデン-興味深い独自の攻撃システム イラン-エスカンダリア中心の強力バック ペルー-不安な高齢化によるチーム力の低下


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「ワールドカップ・ミニ・ニュース」
『イレブン』v.8 no.9 1978.7 p.96-97

’78W杯のスーパースターは 初顔合わせ 開幕戦の観戦者数 アルゼンチンの気温 キーパーの年齢 ’82W杯には24チーム出場か...


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パット・コリンズ 「優勝戦線に殴り込むか史上最強のスコットランド」
『イレブン』v.8 no.9 1978.7 p.102-104

確実視される準決勝進出 マクレオド監督の攻撃構想 ダルグリッシュの破壊力に期待


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F.ビーンズ 「ヒザの故障を克服してWカップには全精力を注ぎたい! サッカー生命をかけたニースケンスはたった一人最後の調整に励んでいた」
『イレブン』v.8 no.9 1978.7 p.114-115

自己との戦いに勝利を求めて ただひたすら走る“第二のヨハン”

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第11回アルゼンチン大会(1978年)ー2

ピエトロ・バルセッチ 「イタリア快勝!アルゼンチンへ道開く  イングランドは極端な守備作戦で自滅」
『サッカー・マガジン』v.12 no.1 1977.1 p.106-109

沸きに沸くイタリア べテガのすばらしい得点 理解できない守備的戦法 ユーベントスから七人


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別所功 「W杯予選に全力!夏には新型の欧州遠征で強化 1977年二宮全日本の強化計画とその狙い」
『サッカー・マガジン』v.12 no.2 1977.1 p.60-63

終わりはやや悪かったが... イスラエル戦前に欧州“キャンプ”作戦 欧州遠征では3段階強化法 ベテラン、若手22~23人で遠征


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「ワールドカップへの挑戦 新春対談 賀川浩=釜本邦重茂」
『サッカー・マガジン』v.12 no.2 1977.1 p.66-69

不振ヤンマーのこと 個人技向上、古河、日立 ゴールキーパーのこと 奥寺はストライカーになれる シュートの設定がほしい碓井 若い韓国、けっして... サッカーは気力


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ズビグニェフ・コセック 「グモツフ監督の“新方式”でよみがえったポーランド・イレブン 早くも本大会へ強気の新監督」
『サッカー・マガジン』v.12 no.2 1977.1 p.84-85

グールスキの有能な助手 成功した“グモッフ方式” WM74よりいい成績を残す


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パット・コリンズ 「W杯へ再び赤信号が点滅したイングランド代表」
『イレブン』v.7 no.1 1977.1 p.102-105

キーガンの足に当った不運の失点 完封されたFW陣 敗けても強気のレビー監督 英国全土を襲った暗い一日


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ピーター・ビッツア 「新指揮官フローエ大活躍’78W杯へ大きく前進する西独」
『イレブン』v.7 no.1 1977.1 p.106-108

名指揮官フローエ 雪辱に燃えた西独 W杯以後の最上の試合


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「前哨戦の日・韓戦には全力で必勝を期す Wカップ予選へ二宮監督描く日本代表チーム強化への青写真」
『イレブン』v.7 no.1 1977.1 p.134-136

順風満帆の“二宮丸” 日-韓戦は全力で勝つ 東奔西走のオイソガ氏


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リアヌ・ミケルス 「ワールドカップへの準備(上)」
『サッカー・マガジン』v.12 no.3 1977.2 p.116-120

準備の第一段階-組織づくり 監督就任の背景 二人のコーチの“割り振り” 監督がチームの全権を掌握する 役員からチームを守る
準備の第二段階-プラン作り 合宿地の選定 緊張と倦怠を避けるために 十日間の休暇


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渡辺よしひろ 「怪情報を否定した’78W杯開催国アルゼンチンの現況」
『イレブン』v.7 no.2 1977.2 p.84-86

問題を解消して開催実現へ 8万人収容のメーンスタジアム 世界一を狙う代表チーム


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エリック・バッティ 「レビーがやめなければイングランドは強くならない」
『サッカー・マガジン』v.12 no.4 1977.3 p.82-85

またも予選落ちか レビーの用兵に疑問 チェリーをなぜ使うのか 認識されないシャノンの戦力低下 ブルッキングへの失望 レビーはサッカーを知らない


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リアヌ・ミケルス 「ワールドカップへの準備(中)」
『サッカー・マガジン』v.12 no.4 1977.3 p.104-107

準備の第三段階-チームづくり 代表選手22人の決定 体調づくりトレーニング チームのスタイル 練習試合


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庄司悟 「“78年型の構想は固まった! 西ドイツ・シェーン監督は何を考えているか」
『サッカー・マガジン』v.12 no.4 1977.3 p.108-111

“ウイングの強化を!” “フィッシャーを呼べ!” “60分は完成している!”  “二連覇のチャンスはある” “日曜日の電話”


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別所功 「二宮全日本、秘策と闘志のテルアビブ行き」
『サッカー・マガジン』v.12 no.5 1977.3 p.60-64

“アウェー作戦”にメド 精度が課題のはつらつFW陣 若手選手にチャンスと特訓 偵察OK!“秘策”を胸に...


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エリック・バッティ 「欧州チャンピオン・チェコを襲った危機」
『サッカー・マガジン』v.12 no.5 1977.3 p.84-87

すぐれたプレーヤーたち オンドルーシュの心構え 新しいムード、新たな自信 しかし、深刻な問題 さらに重大な問題


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リアヌ・ミケルス 「ワールドカップへの準備(下)」
『サッカー・マガジン』v.12 no.5 1977.3 p.102-105

準備の総まとめ-メンバーの編成 センターバック ゴールキーパー 開催地西ドイツへ 選ばれた22人の精鋭


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「’78W杯奪回に燃えるブラジルの新陣容」
『イレブン』v.7 no.3 1977.3 p.112-114

若返りのエース、セレーゾ 多士済々のバック陣 攻撃陣の主軸ジッコ


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「W杯予選へ突入!デュイスブルグで秘策を練った全日本」
『サッカー・マガジン』v.12 no.6 1977.4 p.62-65

ボルシア戦で大混乱の2トップ 2戦目快勝でムード盛り上がる イスラエル-韓国戦引き分けは予想できた


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「不振ブラジルブランダン監督が辞任!」
『サッカー・マガジン』v.12 no.6 1977.4 p.104-106

コロンビア戦は“失望”の一言 ブランダン突如辞任後任にコウチーニョ 予選は通過しても...


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「準備進むアルゼンチン78」
『サッカー・マガジン』v.12 no.6 1977.4 p.108-110

軍事政権をあげて支援へ 警備態勢もリハーサルOK 大会日程はすでに決定


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「W杯の夢消えたテルアビブの戦い」
『サッカー・マガジン』v.12 no.7 1977.4 p.60-63

嵐の出迎え 直前、釜本が故障 またも“空回り” 照準は韓国戦へ


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ポール・コーン 「絶好機をのがした第2戦の日本、そしてイスラエルも...」
『サッカー・マガジン』v.12 no.7 1977.4 p.64-66

イスラエル猛攻のスタート 日本、同点の好機のがす すばらしかった田口 マヒネスが再び先制点 永井、藤島...逸機つづく 釜本中心の反撃も実らず


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「強豪を迎え撃って“強化大作戦”メノッティ監督のアルゼンチン・イレブン」
『サッカー・マガジン』v.12 no.7 1977.4 p.60-63

主力選手が次つぎと流出 ハンガリーに快勝! 乗り込む強豪六チーム


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「W杯“4度目”の夢に賭けるブラジル軍団の臨戦態勢」
『イレブン』v.7 no.4 1977.4 p.98-100

問題残る78年のFW陣 守りのブルガリアに辛勝 練習試合でテスト飛行 若返りを狙うブランドン


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「この屈辱を“モスクワ”で晴らせ!! W杯予選の敗退と二宮全日本の前途」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.62-65

4試合とも1点も奪えず! 後半39分に不可解なPK! シュート数韓国23、日本3 ホームでせめて1点ほしかった 若い芽の伸びが“モスクワ”へのカギ


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戸苅晴彦 「タテパス出し方受け方の技術 日本vs韓国(W杯予選) 車、許へ数多く通った長いパス」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.66-67

車範根と長いタテパス パスと動きの質と量


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荒井義行 「またも予選落ちの日本サッカー」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.70

日韓第一戦は善戦しかし0-0が限界 若者よ、自分たちの新しい時代をつくれ


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「入場券売り出しは5月」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.78

二度延びた発売 抽選は来年1月14日


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小嶋明 「イングランド5得点!しかしまだ“決定力”に問題が... ワールドカップ予選イングランド5-0ルクセンブルグ」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.80-82

大量点を狙う意欲的布陣 空白の時間をつくったロビング攻撃 吉と出たマリナー投入 問題となるのは得点力の不足だ


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エディ・プールマン 「“快勝”のあとに残された3つの疑問符 ワールドカップ予選ベルギー0-2オランダ」
『サッカー・マガジン』v.12 no.8 1977.5 p.104-107

“ベルギー有利”の下馬評 しかしベルギーにも悩み “弱かった”ベルギー クライフの気持は変わるか? アルゼンチンへは行きたくない!


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エズアルド・ガラルド 「波乱のW杯南米予選期待はブラジルよりもペルー!?」
『サッカー・マガジン』v.12 no.9 1977.5 p.102-105

大揺れの王国ブラジル ベテランと若手の混合 驚異的なペルーの強さ しかし十年前と変わりない


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エリック・バッティ 「ブランダン辞任はブラジルの命取りだ!」
『サッカー・マガジン』v.12 no.9 1977.5 p.106-109

“ペレ”が出なかったから たったひとつの引き分けで 幸運なコウチーニョ 監督に幾多の足かせ 生き残る道は...


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渡辺よしひろ 「名将ブランドン監督の辞任で暴露されたブラジル代表チームの不統一」
『イレブン』v.7 no.5 1977.5 p.104-108

ブランドンへの“復讐戦” ブラジルのトリックは見抜かれた 変化に乏しかった苦肉の “四角作戦” すんなりと決まった新監督就任


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「敵地で消えた“日本の夢”、ナショナルチームは窮地から立ち上がれるのか??」
『イレブン』v.7 no.5 1977.5 p.138-141

初戦はエースの釜本欠場で完敗 第2戦は5分に渡り合ったが 奥寺、西野、田口ら若手の自覚 “真剣勝負”に打ち勝つには!?


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高橋英辰 「釜本欠場とホーム・ディシジョンが響いたイスラエルでの敗北」
『イレブン』v.7 no.5 1977.5 p.142-145

第1戦 魔の時間帯に2失点 第2戦 若手の活躍に光明をみた


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庄司悟 「“カイザー”はアルゼンチンへは行けない! 米国行きのベッケンバウアー」
『サッカー・マガジン』v.12 no.10 1977.6 p.78-80

事の起こり カイザーを売った男 カイザーは... シェーン監督は... 新しいリベロは... まだわからない


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パット・コリンズ 「英国はもっと点を取るべきだった」
『イレブン』v.7 no.6 1977.6 p.86-89

前半1-0に焦るファン はつらつ!P・マリナー レビー監督は手放しの喜び 故障者に泣く英代表チーム


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フベルト・ビーンズ 「クライフの本大会出場拒否宣言に揺れるオランダ・サッカー界」
『イレブン』v.7 no.6 1977.6 p.90-93

自由自在に動くクライフ 自由な時間が欲しい 衰えぬクライフのプレー 力の差認めたスイジス監督 ベルギーとオランダの通算成績


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パット・コリンズ 「栄光の欧州チャンピオンを破ったウェールズ代表のW杯への執念」
『イレブン』v.7 no.6 1977.6 p.94-95

英国全土を沸かした夜


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パット・コリンズ 「若獅子ブレイディーと名将ギルズの活躍で貴重な1勝」
『イレブン』v.7 no.6 1977.6 p.96

ブレイディ、決勝のゴール


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趙東彪 「<幸運のペナルティー>で第一関門を突破した韓国」
『イレブン』v.7 no.6 1977.6 p.120-121

ホームで必勝を期した韓国チーム “シュートの雨”防いだGK田口の好守 車範根を封じた清雲の徹底マーク


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田代文雄 「混戦を抜け出したハンガリーにもまだ問題が...」
『サッカー・マガジン』v.12 no.13 1977.7 p.72-73

異常な興奮でのスタート 異変を生じたハンガリー ハンガリーはさえなかったが... とにかく勝ったんだ モハーチの敗戦とエゲルの勝利


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大住良之 「各国に問題点、しかし欧州勢には光明が...」
『サッカー・マガジン』v.12 no.13 1977.7 p.78-81

各チームにそれぞれの事情 ポーランド-準備の悪さが敗戦の原因 アルゼンチン-欧州との経験のなさが命とり? イングランド-頼りになるのはGKとBKだけ ブラジル-中盤はいいが得点力がカギ 西ドイツ-シャルケ勢の台頭“核”になるのは? 六月のアルゼンチンは欧州勢が有利


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ピーター・ビッツア 「ベッケンバウアー不在でも西独は勝てる!!」
『イレブン』v.7 no.7 1977.7 p.102-105

“核”抜きの西独 怒とうの攻撃で5得点 悲報をはね返したイレブン シェーンの勇気ある指揮


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ジャイロ・アンシッケ 「ジーコの復帰がブラジルを“ブラジル”にした ブラジル、ペルーとボリビアを連覇してアルゼンチン大会へ進む」
『サッカー・マガジン』v.12 no.15 1977.8 p.78-80

二つのブラジル・チーム 独り舞台のサンバ 王座奪回は可能か


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福島清治 「ワールドカップ予選を見た」
『Football』no.42 1977.8 p.8-14

ハンガリー対ソ連の観戦記。


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ピーター・ビッツア 「中南米ファンを魅了した’78W杯の優勝候補に西独の底力」
『イレブン』v.7 no.9 1977.8 p.86-89

「時には負けたほうがよい」 光るフィッシャーの2得点 マラカナに17万の大観衆 西独のプレーに大歓声


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「秋の陣に賭ける欧州強豪チームの新戦力」
『イレブン』v.7 no.10 1977.9 p.80-91

ヨーロッパ第4組 ハッペル新監督で巻き返すオランダ軍団 クライフは必ず参加する
ヨーロッパ第2組 本大会出場を目前にしたアルゾト監督の構想 「輝く宝石」アントニオーニ 出場権獲得後は若手中心
ヨーロッパ第5組 若い力に復活を賭けるフランスの決戦体制
ヨーロッパ第6組 本大会出場へ、スウェーデン代表監督の悩み
ヨーロッパ第7組 当面の敵、チェコ粉砕を目指すスコットランド
ヨーロッパ第8組 スペイン、ルーマニアに挟撃されるユーゴ
ヨーロッパ第9組 ソ連の脱落で浮かびあがったハンガリー


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「欧州の列強国相手に苦戦したブラジル代表チームの深刻な問題点!!」
『イレブン』v.7 no.10 1977.9 p.92-95

中盤不在では勝てない 起死回生へ新人の抜擢 期待に反したミナス勢 ’74W杯以後進歩していない


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「開催国アルゼンチンの課題はラフプレーの返上」
『イレブン』v.7 no.10 1977.9 p.96-97

遅れるチーム編成 乱暴者を追放せよ


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パット・コリンズ 「イタリア決戦を前に逃げ出したD.レビー監督」
『イレブン』v.7 no.10 1977.9 p.98-101

これ以上仕事を続けられない 苦渋に満ちた50歳の誕生日 負傷者をかかえたレビーの不運 むずかしい後任監督問題


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「“核抜き”オランダ余裕の勝利 ワールドカップ予選欧州第4組オランダ4-1アイスランド」
『サッカー・マガジン』v.12 no.19 1977.10 p.99-103

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アンドリュー・ディットレ 「危機にさらされたオーストラリアの野望」
『サッカー・マガジン』v.12 no.19 1977.10 p.104-106

技術をもった選手がいないオーストラリア


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「スコットランド、アルゼンチン切符獲得へスパート」
『サッカー・マガジン』v.12 no.20 1977.11 p.93-98

勢いづくタータン・チェック スコットランドの光と影


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「ワールドカップ放映権、NHKが獲得」
『サッカー・マガジン』v.12 no.21 1977.11 p.42

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ピエロ・バルゼッチ 「アルゼンチンへ最後のスパートをかけるイタリア代表チーム!」
『サッカー・マガジン』v.12 no.21 1977.11 p.82-85

向上しつづけるイタリア 新しい“リーバ”べテガ 守備だけでなく攻撃も! 切り捨てられた英雄たち ユーベントス・プラス・トリノ


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「グリーンウッドは奇跡を起こせるか? 宿敵イタリア戦を前に新監督に大きな期待」
『イレブン』v.7 no.13 1977.11 p.88-91

遅すぎたグリーウッドの起用 勝つことより、いいゲームを グリーンウッドの冷静さに期待


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ジョルジオ・モッターナ 「フィンランドを叩け!燃えるイタリア軍団」
『イレブン』v.7 no.13 1977.11 p.92-95

ベアルゾット監督絶対の自信 移籍の噂もない有名選手 やはりユベントス、トリノの争い 老雄マッツオーラの忠誠心


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「契約途中で辞任したドン・レビーの周辺に漂う黒い霧」
『イレブン』v.7 no.13 1977.11 p.96-98

レビーは強く否定 代理監督グリーンウッド初戦を飾れず!


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エディ・プールマン 「オランダ、ベルギーを蹴落としてアルゼンチンへ しかしクライフはチームを去る」
『サッカー・マガジン』v.12 no.22 1977.12 p.78-80

ベルギーを三度退ける 人材豊富な中盤 クライフは今季で引退?


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エリック・バッティ 「鮮かによみがえったイングランド! しかし“アルゼンチン”はイタリアの手に」
『サッカー・マガジン』v.12 no.23 1977.12 p.78-80

復活した二人ウインガー 12分キーガンの先制ゴール コッペルそしてバーンズ 冷酷なイタリアのファウル 苦しみの中、見事な2点目 最高のゲームも空しく...


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ピーター・ビッツア 「2連覇へのレールを突っ走るシェーン軍団」
『イレブン』v.7 no.14 1977.12 p.84-87

グリーンウッド監督も絶賛 ルンメニゲ初ゴール 皇帝とブライトナーへの執着


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パット・コリンズ 「大詰めにきたW杯予選ヨーロッパ激戦地区の明と暗」
『イレブン』v.7 no.14 1977.12 p.88-93

わずか2得点で本大会出場絶望!? 第2組ルクセンブルグ0-2イングランド 喜ぶアルゾット監督
早くもアルゼンチンへの切符を手に入れたスコットランド 第7組ウェールズ0-2スコットランド 運命の“PK事件”
クライフ出場、W杯へ最短距離のオランダ 第4組北アイルランド0-2オランダ
エールが消え、フランスが有利に展開 第5組エール0-0ブルガリア
オーストリア、東独と分け本大会へチャンス 第3組東ドイツ1-1オーストリア

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エリック・ウェイル 「アルゼンチン代表チームの悩み それはラフプレーと有力選手の海外流出だ」
『別冊サッカー・マガジン』v.4 no.3 1977.冬季 p.47-54

ワールドカップ優勝という実力は現在のアルゼンチンにはないということ 攻めるときはいいが守備は頼りないBKと仲間を引っぱるリーダーのいないHBと ベルトーニが相手選手をなぐりハウスマンが試合直前に負傷して レベルの低い国内リーグからは国際試合で使える選手は出ない 外国にいる選手だけでやったほうが今より強いチームができることの責任は メノッティがクビになるときにはラフプレーが横行する心配が...


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エリック・バッティ 「優勝を争うのは西ドイツ、ブラジル、アルゼンチンの3国だ! アルゼンチン’78の出場国とスター選手を予想する」
『別冊サッカー・マガジン』v.4 no.3 1977.冬季 p.103-118

優勝候補の四か国 システム優先の現代サッカー アルゼンチン-ケンペスをどこで投入するか ペルー-主力選手の年齢が気がかり ブラジル-ジーコとルイス・ペレイラ 西ドイツ-二人のCFが呼吸を合わせるか “特殊な人物”があらわれるか
あなどれない欧州の強豪たち ハンガリー-新しい黄金チームができるか ポーランド-新監督グモッフの手腕は... イタリア-うまくいけば優勝も狙える イングランド-遅すぎたグリーンウッド? 東ドイツ-強いがレフェリーがよければ... オランダ-クライフ抜きのほうがいい フランス-魅力のある小さなチーム スコットランド-地元での力を南米で出せるか スウェーデン-西ドイツのときよりよくない ルーマニア-あまり期待はできず


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鈴木武士 「“熱い予選”中盤を迎える アルゼンチン’78予選中間状況」
『別冊サッカー・マガジン』v.4 no.3 1977.冬季 p.119-129

ヨーロッパ-ソ連早くも姿を消す 欧州の王者チェコもピンチ またも苦境のイングランド
南アメリカ-ブラジルゆうゆう勝ち抜く 強豪ウルグアイは不覚
アジア・オセアニア-政治がらみで複雑化 イランが有力か
北中米カリブ海-ここも狭き門 決定リーグはメキシコで
アフリカ-一つの座に28チーム! 実力伯仲で予想つかず


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大住良之 「“地球の裏側”で会った人びと」
『別冊サッカー・マガジン』v.4 no.3 1977.冬季 p.130-133

五月広場の語学の天才 EAM’78のアミーゴたち ロサリオの日本人一家 豊かな国アルゼンチン

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第11回アルゼンチン大会(1978年)

ホセ・マリア・オテーロ 「次のワールドカップを迎える南の国アルゼンチン」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.156-157

新競技場がぞくぞく サッカー組織


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フベルト・ビーンズ 「’78W杯にオランダ、ベルギー立候補」
『イレブン』v.5 no.5 1975.3 p.94-95

オランダ、ベルギーの意欲 鼻息荒いミューレマン会長


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「攻撃型サッカーをひっさげ王国再建に賭けるブランドン監督 1978年アルゼンチン大会へ早くも始動したブラジルサッカー界」
『イレブン』v.5 no.7 1975.5 p.94-96

攻撃型へ変身はかる “和”を強調するブランドン監督 選手発掘へスタート


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鈴木武士 「動き出したアルゼンチン’78」
『サッカー・マガジン』v.10 no.7 1975.7 p.78-84

根強かったアルゼンチンへの不信 テロとインフレ 代替地はありえない
結局16チームに落ち着く 過去は欧州中心大会 「アルゼンチンが決めた」
パンパスに散在する5都市、6会場 快適な6月のアルゼンチン


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フリッツ・ハック 「アルゼンチン代表の新監督セザール・メレッティ」
『サッカー・マガジン』v.10 no.10 1975.8 p.110-112

37歳の若さ 三年計画 三度ヨーロッパへ 「われわれには経験が必要なのだ」 チームはゼロから出発する-メレッティとの一問一答


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ピーター・ビッツア 「若手成長に賭けるクノーベル監督 次期W杯へ結ぶオランダの構想」
『イレブン』v.5 no.12 1975.9 p.88-89

若手中心のチーム育成 アルゼンチンへの布石


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鈴木武士 「アルゼンチン’78にふたたび赤信号」
『サッカー・マガジン』v.10 no.16 1975.11 p.84-85

政情は不安だが... 代替の名乗りが続々 11月下旬に結論


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ピーター・ビッツア 「鉄条網と銃に守られる暴力サッカー」
『イレブン』v.5 no.14 1975.11 p.110-112

W杯開催に関する疑問符 乱れ飛ぶ催涙弾 応援団は戦闘部隊


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鈴木武士 「アルゼンチン’78本格的に始動!」
『サッカー・マガジン』v.11 no.1 1976.1 p.104-107

開催問題-「FIFAはアルゼンチンを信じる!」 同行なしの視察団 FIFA“ゴー”のサイン
予選組み分け-日本、イスラエル、韓国、北朝鮮が同一組に 三つの問題点 日本はまたも問題の組へ ふたたびソ連-チリ対戦か


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A・ハワード 「’78W杯、アルゼンチン開催FIFA決定は変わらない FIFA会長に単独インタビュー」
『イレブン』v.6 no.1 1976.1 p.130-131

FIFAの権限はサッカーのみ ペレは永遠にブラジルのアイドル


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「’78ワールド・カップ組合せ 南米、アフリカに不満の声」
『イレブン』v.6 no.2 1976.2 p.101

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鈴木武士 「アルゼンチン78予選スタート エントリーは103カ国」
『サッカー・マガジン』v.11 no.10 1976.5 p.110-113

再確認された開催国アルゼンチン 参加国は103 再建に必死のイングランド


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「’78ワールドカップをめざす豪州チーム」
『サッカー・マガジン』v.11 no.13 1976.7 p.84

三代替わった監督 埋まらない74年代表の穴 予選自体にも難しい問題


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「“政府主導型”のワールドカップへ」
『サッカー・マガジン』v.11 no.15 1976.8 p.78

新政権も大会を最優先事業に 準備は間に合うのか? 予選はすでにスタート


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スチュワート・フレイザー 「フィンランドを一蹴したイングランドの恐るべき破壊力」
『イレブン』v.6 no.8 1976.8 p.80-83

最初のハードルを突破 イタリア偵察員のため息 4点をもぎとったレビーの賭け 対イタリア戦に大きな自信


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パット・コリンズ 「W杯を目指すイングランド米国遠征で突如変身」
『イレブン』v.6 no.8 1976.8 p.88-91

意気消沈のイングランド 強さを見抜いたブランドン 底力を発揮したブラジル戦 汚いイタリアに逆転勝ち


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マイク・ウォール 「イングランドを撃破したオーマンド軍団の狙いはWカップだ ホームインターナショナル・ゲームで優勝したスコットランドのチーム力は抜群に強化された」
『イレブン』v.6 no.8 1976.8 p.96-99

信頼できる三人の男 ウィーク・ポイントはGK 空中戦抜群のジョーダン


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M・デ・フォス 「’78W杯で世界制覇を目指すオランダの新鋭」
『イレブン』v.6 no.9 1976.9 p.86-88

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牛木素吉郎 「ワールドカップ予選の日程決まる!」
『サッカー・マガジン』v.11 no.19 1976.10 p.60-63

1.“二宮全日本”に最初のテスト-新しい個性を見せてほしい 二宮監督の選択
2.日程は日本に有利。だが...-三つのカードに政治の影 日本では一試合だけ?


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エディ・プールマン 「“最悪”オランダとベルギーに北アイルランドの不気味な影」
『サッカー・マガジン』v.11 no.20 1976.11 p.110-112

欧州へ乗り出す“孤島” ためされる二人の新監督 エースを二人欠いたベルギー オランダも最悪の出来 不気味な北アイルランド


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エディ・プールマン 「悪夢の一夜-76年10月13日 ホームで北アイルランドと引き分けたオランダに重大な危機」
『サッカー・マガジン』v.11 no.21 1976.11 p.80-82

“金のためにプレーするのじゃない” 四番目のキーパー オランダの集中力が消えたとき アルゼンチンへの道ははるかに遠い


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ゲーツ・べっくマン 「“2連覇”へ好スタートを切った西ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.11 no.21 1976.11 p.102-105

試合ぶりに「明」と「暗」 ルムメニゲとチンマーマン 心配はない守備陣 へーネスのCF起用は失敗 「西ドイツはまた勝つ」


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庄司悟 「西ドイツ代表の新メンバー 問題なのはやはりフォワード陣」
『サッカー・マガジン』v.11 no.21 1976.11 p.106-107

ミュンヘン カーディフ ベッケンバウアー フィッシャー


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フリッツ・ハック 「アルゼンチンはあきらめていない メルロ組織委員会会長は語る」
『サッカー・マガジン』v.11 no.21 1976.11 p.108-109

大切なのは関係者の一致協力 財政面は心配ない


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ピーター・ビッツア 「W杯2連覇が私の最後の挑戦だ!  ヘルムート・シェーン西ドイツ監督の’78アルゼンチン・ワールドカップ構想」
『イレブン』v.6 no.11 1976.11 p.92-95

D・ミュラー、フローエ活躍 まだやれるフォクツ 最後まで闘うドイツ魂 ’78もベッケンバウアー中心


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「ホーム&アウェー方式が打ち出されたアジアの激戦区、第二組の戦い」
『イレブン』v.6 no.11 1976.11 p.124-126

北朝鮮は席上に不参加 厳密なルールの取り決め 尾をひくイスラエル問題


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パット・コリンズ 「W杯へ疑問符、イングランドの無鉄砲アタック」
『イレブン』v.6 no.12 1976.12 p.82-85

問題になる伊とのゴール数 英国の防御がガラ空き にんまりイタリア偵察陣 スコットランドに魔の三分間 オランダ、引分けにショック


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エリック・バッティ 「イングランドかイタリアか結論は出なかった」
『サッカー・マガジン』v.11 no.22 1976.12 p.106-109

10月13日ロンドン イングランド2-1フィンランド 面目まるつぶれのイングランド 意味不明の4-2-4 フィンランド見事な逆襲
10月16日ルクセンブルグ ルクセンブルグ1-4イタリア イタリアも弱よわしい攻め 技巧的には申し分ないが シュートがあまりに不安定

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第10回西ドイツ大会(1974年)-5

おお、サッカー天国 裏側から見たワールドカップ 中条一雄/著
東京:日刊スポーツ出版社,1975
246p;19cm

1974年W杯西ドイツ大会のW杯本。優勝したのはベッケンバウアー主将の西ドイツだが、注目されたのは クライフを中心にトータル・フットボールで準優勝したオランダ。中条一雄は朝日新聞記者、1960年の日本代表 ヨーロッパ長期遠征にはマネージャーとして帯同もしている。巻頭エッセイ「ビバ サッカー!」は岡野俊一郎。
ビバ サッカー!
10億人が見た
計画性の勝利、西ドイツ
無冠の帝王、オランダ
殊勲賞はポーランド、東ドイツ
ブラジルの威信
戦法お国ぶり
大会スケッチ
日本の将来
付録 数字は語る 大会の記録
写真多数。


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サッカー世界のプレー ワールドカップ西ドイツ大会 牛木素吉郎/著
東京:講談社,1975
206p;21cm (講談社スポーツシリーズ)

メキシコ大会に続く同著者のW杯本。前回は分担執筆だったが、今回は単独執筆。「はじめに」に 「メキシコ大会のときの本は、写真を多く入れることで特色を出しましたが、今回はイラストを使って、 ワールドカップのプレーを分かりやすく示そうと試みました。」とあるように82の図が使用されている。
1.ワールドカップとは何か 最高の技術、最大の熱狂
2.ワールドカップの歴史 ほんとうの世界一のために 第2次大戦をはさんで ブラジルの黄金時代 システムの移り変わり
3.西ドイツ大会の教訓 波乱の1次リーグ 頂上への2つのルート 未来を示すもの
4.ワールドカップの個人プレー 異能プレーヤー 核になっているプレー ドリブルの重要性 世界の名プレーヤー
5.ワールドカップのチームプレー 西ドイツの4:3:3 オランダの渦巻き戦法 東欧の速攻と南米の守り 停止球からのプレー
6.ワールドカップと日本のサッカー どこが、どう違うのか 世界に追いつくために
7.ワールドカップの記録 西ドイツ大会の全記録 これまでの大会の記録 歴代の得点王 ワールドカップの概観 ワールドカップの本
第6章中に「ワールドカップを日本で」という節がある。


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 10」
『サッカー・マガジン』v.10 no.1 1975.1 グラビア頁

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.1 1975.1 p.108

東ドイツ1-0西ドイツ ウルグアイ1-0ブルガリア アルゼンチン1-1イタリア


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「世界に躍進するポーランド・サッカー 1 思い切った路線修正がワールドカップの成功をもたらした」
『サッカー・マガジン』v.10 no.1 1975.1 頁なし

各選手の向上がカギ 計画的なトレーニングが実った


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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(5) 西独のピンチを救ったウイング攻撃」
『イレブン』v.5 no.1 1975.1 p.118-120

西ドイツ・ファンのあせり 意表をつく先制点 世界に敵なし完璧な守備


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 11」
『サッカー・マガジン』v.10 no.2 1975.2 グラビア頁

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.2 1975.2 p.146

スコットランド1-1ユーゴ ザイール0-3ブラジル


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ウリ・へーネス 「特別手記 病魔を追放したゲルマンの闘志」
『イレブン』v.5 no.2 1975.2 p.96-98

突然の頭痛とめまい チーム・ドクターにウソをつく ぼくは反則する男じゃない


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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(6) サッカー史に残るリベリーノの神技」
『イレブン』v.5 no.2 1975.2 p.108-110

ザガロ監督の悩み 呆然と見送る東独GK 肩を落とす東独応援団


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.3 1975.3 p.106

ブルガリア1-4オランダ スウェーデン3-0ウルグアイ


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 12」
『サッカー・マガジン』v.10 no.3 1975.3 グラビア頁

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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(7) 大会初発失点が招いたスウェーデンの不運」
『イレブン』v.5 no.5 1975.3 p.106-108

好調なエドストレーム 前半終了2分前のゴール


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.4 1975.4 p.106

ポーランド2-1イタリア オランダ4-0アルゼンチン


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 13」
『サッカー・マガジン』v.10 no.4 1975.4 グラビア頁

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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(8) バルクスタジアムを席捲したオレンジ色の大合唱団」
『イレブン』v.5 no.6 1975.4 p.104-106

ニースケンスの弾丸シュート! 絶妙なクライフのリード


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 14」
『サッカー・マガジン』v.10 no.5 1975.5 グラビア頁

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.5 1975.5 p.106

西ドイツ2-0ユーゴ ブラジル1-0東ドイツ


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原俊三・訳 「世界に躍進するポーランド・サッカー オリンピック成功後の「義務」」
『サッカー・マガジン』v.10 no.5 1975.5 頁付けなし

新しい義務 新しい調整プラン 最初のセンセーション 最後の決戦へ 見事な戦い


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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 6万8千人を酔わせた4分間のファンタジー」
『イレブン』v.5 no.7 1975.5 p.106-108

エドストレームのボレーシュート オベラートの右足シュート決まる


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「座談会 ひとつのプレーに全員が反応するサッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.6 1975.6 p.80-85

出席者:下村幸男(藤和不動産)、川渕三郎(古河電工)、八重樫茂生(富士通)、荒井義行(毎日新聞)
一人の敵になんと六人がかり 勝負はボールを奪ってから BKの攻撃センスは不可欠 ペアの動きのもとは“読み”  今後の強化は二本立てで!


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長沼健 「よい攻撃をささえた積極的な守備」
『サッカー・マガジン』v.10 no.6 1975.6 p.86-87

世界サッカーの流れ 自由自在の“動き” グループによる守備 要求される創造力


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原俊三・訳 「世界に躍進するポーランド・サッカー グールスキの完全なプラン」
『サッカー・マガジン』v.10 no.6 1975.6 頁付けなし

2つのプラン 12の試合 22人の選手


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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.6 1975.6 p.128

スウェーデン-ポーランド


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 15」
『サッカー・マガジン』v.10 no.7 1975.6 グラビア頁

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原俊三・訳 「世界に躍進するポーランド・サッカー いよいよ決戦の場へ」
『サッカー・マガジン』v.10 no.7 1975.6 p.104-105

ゾンネ・ポスト・ホテル “隠すものは何もない” グラウンドがければ


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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.7 1975.6 p.126

西ドイツ-スウェーデン


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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 59回目の対決に火花散らした南米の強豪」
『イレブン』v.5 no.8 1975.6 p.92-94

名手リベリーノ先制ゴール! ブラジル初失点! オランダ戦に自信のザガロ


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 16」
『サッカー・マガジン』v.10 no.8 1975.7 p.104

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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.8 1975.7 p.130

東ドイツ-オランダ


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 17」
『サッカー・マガジン』v.10 no.9 1975.7 p.100

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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.9 1975.7 p.126

アルゼンチン-ブラジル ポーランド-ユーゴ


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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 攻撃的サッカーに終始した共産圏の覇権争い」
『イレブン』v.5 no.10 1975.7 p.102-104

不運!オブラク負傷 カラシの同点ゴール 主将デイナも退場


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 18」
『サッカー・マガジン』v.10 no.10 1975.8 p.104

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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.10 1975.8 p.130

オランダ-ブラジル


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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.11 1975.8 p.126

スウェーデン-ユーゴ

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岡野俊一郎 「図でみるこれがWM74の97ゴールだ!」
『別冊サッカー・マガジン』v.3 no.1 1975.8(夏) p.52-164

本号は「図でみるこれがWM74の97ゴールだ!」特集号。


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「[試合結果]」
『別冊サッカー・マガジン』v.3 no.1 1975.8(夏) p.166-178

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牛木素吉郎・抄訳 「WM74 FIFA公式レポート」
『別冊サッカー・マガジン』v.3 no.1 1975.8(夏) p.179-205

はじめに 研究グループ
審判上の諸問題 地域による違い 解釈の適用の統一 審判水準向上のために 審判会議の要録と決定事項
大会前のトレーニング トレーニングの内容 成功の条件
西ドイツ大会の技術と戦術 守備的傾向をなおすには 攻撃的プレーの成功 プレーのスタイルと戦法 ひらめきのあるリーダー 特殊な技術と戦法
試合の経過
これからのサッカー 社会環境の変化 ワールドカップの教訓 サッカーの発展のために

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「出場16チーム全選手一覧」
『別冊サッカー・マガジン』v.3 no.1 1975.8(夏) p.206-210

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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 苦戦をはね返したミュラー運命の決勝シュート!」
『イレブン』v.5 no.11 1975.8 p.102-104

へーネス、PK失敗! ミュラー千金のゴール!


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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.12 1975.9 p.130

アルゼンチン-東ドイツ ポーランド-西ドイツ


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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.13 1975.9 p.126

ポーランド-ブラジル


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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 オレンジは輝きサンバはリズムを失った」
『イレブン』v.5 no.12 1975.9 p.108-110

キッシンジャーも応援 クライフ絶妙のシュート


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 19」
『サッカー・マガジン』v.10 no.14 1975.10 p.104

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「ダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.10 no.14 1975.10 p.130

オランダ-西ドイツ


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 20」
『サッカー・マガジン』v.10 no.15 1975.10 p.100

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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 プロを粉砕したオリンピック・スピリット」
『イレブン』v.5 no.10 1975.10 p.100-102

アマとプロの対決 実を結んだ選手交代


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 20(ママ)」
『サッカー・マガジン』v.10 no.16 1975.11 p.104

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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 21」
『サッカー・マガジン』v.10 no.17 1975.11 p.100

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岡野俊一郎 「’74WM名勝負物語 祖国で栄光のW杯を勝ちとった!」
『イレブン』v.5 no.14 1975.11 p.110-112

20年後再び世界へ挑戦する西独 キック・オフ6秒後にPK ミュラー千金の決勝ゴール!


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 22」
『サッカー・マガジン』v.10 no.18 1975.12 p.104

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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 23」
『サッカー・マガジン』v.10 no.19 1975.12 p.100

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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 24」
『サッカー・マガジン』v.11 no.1 1976.1 p.102

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牛木素吉郎 「ワールドカップの映画」
『サッカー・マガジン』v.11 no.2 1976.1 p.68

クライフの表情 ミュラーの恐るべき才能


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「WM74の記録映画をNTVが放映!」
『サッカー・マガジン』v.11 no.2 1976.1 p.126

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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 25」
『サッカー・マガジン』v.11 no.3 1976.2 p.110

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クラウス・ミッテンツバイ 「“無名”から世界へ彗星の如く出現した奇跡のチーム」
『イレブン』v.7 no.7 1977.7 p.110-113

空飛ぶオランダ人クライフ ミヘルス監督の手腕 ’74W杯の破竹の快進撃


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フォン・ウルフェルト・シュレーダー 「世界チャンピオンチームへ変貌させたその夜の出来事」
『イレブン』v.7 no.9 1977.8 p.108-111

ネッツアへの失望 マレンテでの出来事 カツを入れたベッケンバウアー 勝利を支えたドイツ魂


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リヌス・ミケルス 「第7回WM74をいかに戦ったか 1」
『サッカー・マガジン』v.13 no.4 1978.3 p.38-41

大会直前の問題-不動のメンバー 選手との話し合い 未知数の相手
第一戦を乗り切る-実験の成功 守備ラインでの試み スタイルと戦術 ウルグアイに勝つ


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リヌス・ミケルス 「第7回WM74をいかに戦ったか 2」
『サッカー・マガジン』v.13 no.5 1978.3 p.38-43

強敵と引き分け-対スウェーデン トップクラスの試合 カイザーの起用
自由と規律-大会中の生活 グループのムード オランダ人気質
二次リーグへ-ブルガリアに快勝 ミーティングのこつ プロフェッショナルの試合


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リヌス・ミケルス 「第7回WM74をいかに戦ったか 3」
『サッカー・マガジン』v.13 no.8 1978.5 p.38-40

中盤の動き-二次リーグの戦い 最初の二試合に完勝 ブラジルとの死闘


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リヌス・ミケルス 「第7回WM74をいかに戦ったか 4」
『サッカー・マガジン』v.13 no.9 1978.5 p.44-46

決勝戦-私たちはなぜ敗れたか 予想はオランダ有利 戦術は正しかったか?


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金子勝彦 「ウェンブリーでの敗退 西ドイツ・ワールドカップ予選欧州第5組イングランド対ポーランド」
『サッカー・マガジン』v.14 no.23 1979.12 p.37

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賀川浩 「ヨハン・クライフをはじめて見た日」
『イレブン』v.11 no.1 1981.1 p.189

FBがコーナーまで トータル・フットボール 個性とオールラウンドと


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「世界杯を彩った名ポスター 第10回西ドイツ」
『イレブン』v.12 no.4 1982.4 折込頁

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賀川浩 「オランダのトータル・サッカー西独優勝に沸いた’74W杯」
『イレブン』v.13 no.4 1983.4 p.163

警察犬とヘリコプター トータル・フットボール


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イストバン・ソモス 「レフェリーの回想ワールドカップの想い出」
『サッカー・ジャーナル』 no.8 1984.8 p.38-43

第九回一九七〇年メキシコ大会-ルディ・グレックナー氏(東ドイツ) 暗い一九六〇年代のサッカー アステカ、一二〇分の死闘 フェアプレーの決勝 試合後のフィエスタ
 第十回一九七四年西ドイツ大会-ジョン・テイラー氏(イングランド) テイラー氏指名さる 言葉の障害を克服するために 自信をもって宣した最初のPK 再びPK!同点に ハーフタイム、クライフに警告

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第10回西ドイツ大会(1974年)-4

吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 6」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 グラビア頁

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鈴木武士 「全世界を熱狂に包んだワールドカップ1974年総決算の明と暗」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.98-100

クラーマー、米国監督に 西ドイツの興奮 優勝なみのオランダ 胸を張るポーランド 悲しみ怒るブラジル 絶望的なイタリア


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フリッツ・ハック 「世界の頂上に立つフランツ・ベッケンバウアー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.102-106

ボールの手品師からファイターへ ベッケンバウアーのプレーの秘密 億万長者ベッケンバウアー


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「ワールドカップ広場」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.108-109

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アンドリュー・ディットレ 「WM74のオーストラリア」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.110-111

東独、西独に善戦 持てる力をフルに発揮 今後の重要な問題


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賀川浩 「ワールドカップの旅から 1 ベルティ・フォクツはいい男」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.112-113

街角の回想 小さなファイター フォクツの真価 双眼鏡のシーン クライフをマーク


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エリック・バッティ、岡野俊一郎 「WM74現地対談 ワールドカップ’74を斬る」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.131-136

ポーランドがベスト・チームだ オランダの見せたサッカー カネ目当てでなく楽しいサッカーを! ワールドカップのベスト11


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荒井義行 「『超スピード時代』に突入したワールド・サッカー WM74のプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.138-141

攻撃のスピード ディフェンス テクニック 運動量 ゲーム・メーク フリー・キック 勝敗分けたスピード、運動量


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二宮寛 「西ドイツの救世主はボンホフだった」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.142-145

西独のエンジン部、若手トリオ 厳しいプロの自信と責任感 少なかった内容のある試合 ブラジル不調の原因


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エリック・バッティ 「エリック・バッティのワールドカップ1974年決勝レポート」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.146-149

期待はずれの決勝戦 汚ないプレーの連続 西ドイツの敢闘精神 ミュラーのリトルゴール オランダを振り切る 現代サッカーの悲劇


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岡野俊一郎 「私のサッカーコーチ ワールドカップから 個性とサッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.150-153

1.チームと選手の個性 2.選手の個性 日本の場合


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秋庭亮 「フットボール断想 ワールドカップ決勝のテレビから」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.160-161

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.162

ウルグアイ0-2オランダ ポーランド3-2アルゼンチン


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エリック・バッティ 「ワールドカップ’74各国チーム、選手を採点する!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.11 1974.9 p.186-190

予想できなかったイタリアの惨敗 よかったポーランド、アルゼンチン ブラジルよりもブラジルらしかったザイール はがゆいユーゴ ここ一番に光らないスターのクライフ 二年遅かったワールドカップ


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ピーター・ビッツア 「F・ベッケンバウアーvsJ・クライフ 果たしてどちらが世界No.1プレーヤーか?」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.78-82

記者投票ではクライフ一位 二人ともひ弱な少年だった 二人の天才その質の差は... 真の勝利者はどちらか?


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ピーター・ビッツア 「次期西独監督の座をめぐる噂の二人 シェーン現監督、 クラマー氏にその胸中を直撃」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.84-87

私は監督をやめない まだ契約が残っている ネッツアはまだやれる
ヘルタBSCの解消は個人的理由 協会に媚は売らない 体育教師でもやる


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ステーブ・リチャーズ構成 「ペレのワールドカップ日記(上) ブラジルは伝統のサッカーを忘れてしまったのか」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.92-95

芸術家クライフのプレー アルゼンチンの変身 さまざまなブラジルの戦法 すばらしい東独チーム


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岡野俊一郎 「ワールドカップ名勝負物語 スコットランド無念の“不敗の敗退”」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.96-98

危うしスコットランド 相ゆずらぬ前半戦 すでに遅い同点シュート


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「私たちは感動し、多くの教訓を得た!」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.99-101

手本になったオランダ(森孝慈) 素晴らしい個人プレー!(釜本邦茂) 西独ゲルマン魂の勝利(小城得達) トマシェフスキーに魅了(横山謙三) ミュラーのプレーに興奮(永井良和) 千変万化のサッカー(足利道夫) 感動的だった決勝戦!(川上信夫) これがサッカーだと痛感(藤島信雄) オレもやらねば...(高田一美) 立派なレフェリーの態度(丸山義行)


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ウオルフガング・ウェーバー 「オランダのPKで奮いたった西独イレブン」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.102-104

薬になった対東独の敗戦 荷が重すぎたクライフ ミュラーという男


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高橋英辰 「W杯の舞台に日の丸を掲げよう」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.136-140

前途多難なブラジルを見た アジア代表に失望 組立ての主役クライフ ひとつのシュートに泣いた西独 スピードに乗ったポーランド 闘志をむき出しにした好ゲーム ラトーの右からの一撃 西ドイツ、二重、三重の守備


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杉山隆一 「リュウさんのガッツサッカーへの道 4 フォクツに見たガッツなプレー」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.142-143

クールな西独応援団 センタリングはシュートだった


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福島広樹 「Wカップにモダンサッカーを見た!」
『イレブン』v.4 no.10 1974.9 p.144-145

ブラジルの敗退 英国とイタリア 三強のモダンサッカー モダンサッカーとは


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池原謙一郎 「二十一世紀への日本サッカーヴィジョンを!」
『Football』no.29 1974.9 p.1-6

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寺沢太郎 「ワールドカップを観戦して」
『Football』no.29 1974.9 p.6-8

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原田純子 「ワールドカップ要約」
『Football』no.29 1974.9 p.9-10

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平林幹司 「ドイツワールドカップ便り 或るクレイジードクターの偏見より」
『Football』no.29 1974.9 p.10-25

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奥沢浩 「ワールドカップ西ドイツ大会の審判を見て」
『Football』no.29 1974.9 p.26-29

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賀川浩 「ワールドカップの旅から オランダ-力強さと、早さと、やわらかさ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 p.104-105

デパートでの写真展 驚きと感嘆 守りを引き出す理想の攻撃 力強さとやわらかさ


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吉武利昭 「サッカーの切手 74ワールドカップ 7」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 グラビア頁

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二宮寛 「オールラウンド・プレーヤーはその前にスペシャリストだった」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 p.128-131

ポーランド、オランダの活躍 スーパースターの働きどころ なぜ優秀なタレントが現れないのか 必要な個性ある選手の育成


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松本暁司 「自分の責任をはたすため万全の準備をするキーパーたち」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 p.133-135

試合前の練習 キーパーの練習 メキシコ大会と西ドイツ大会を見て


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長池実 「世界のサッカーのためにはオランダに優勝してもらいたかった!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 p.136-138

大きかった期待 イメージ崩れたブラジル 観衆の厳しい態度 思い切りの悪かった主審 すばらしかったオランダ 今後のサッカーは...


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 p.154

西ドイツ2-1オランダ イタリア3-1ハイチ


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「ワールドカップ名場面集 1 WM74“このプレー”」
『サッカー・マガジン』v.9 no.12 1974.10 頁付けなし

ブラジルのゴール前のフリー・キック(中条一雄) マイヤーの連続ファインプレー(鈴木武士) オランダの初得点-オーバーラップと引きつけるドリブル(荒井義行) オランダのオフサイド・トラップとカバーリング(大住良之)


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牛木素吉郎 「ワールドカップ’74」
『別冊サッカー・マガジン』v.2 no.1 1974.10(秋) p.207-213

本号は’74西ドイツ・ワールドカップ特集号。前半は写真集。
関心 優勝 大衆 戦術 王様 統計


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「74年大会の16チームを振り返る」
『別冊サッカー・マガジン』v.2 no.1 1974.10(秋) p.214-238

西ドイツ(中条一雄) 涙で歌った国歌 西ドイツの精神的勝利
オランダ(荒井義行) 新しいサッカーの確立 分業を拒否した集団 現代最高のプレーヤー、クライフ
ポーランド(牛木素吉郎)
ブラジル(賀川浩) ブラジル本来のものを
東ドイツ(鈴木武士) 西ドイツを破る大金星 新興国の域を出ない
アルゼンチン(賀川浩) 守備面に問題があった ソフトなボールタッチ
スウェーデン(荒井義行) 若手“出稼ぎ組”とベテランで編成 三人のエース・プレーヤー
ユーゴスラビア(賀川浩) 不思議な魅力
チリ(鈴木武士) 伝統のショート・パス戦法
オーストラリア(鈴木武士) 予想外の好成績 アルゼンチンへは若返りが必要
スコットランド(荒井義行) 闘将ブレムナーが基点 英国サッカーの限界
ザイール(荒井義行) 目をみはる足腰の強さ 将来性十分の“黒豹軍団”
ブルガリア(鈴木武士) 1勝の悲願実らず
ウルグアイ(鈴木武士)
イタリア(賀川浩) カテナチオはどこへ行く
ハイチ(大住良之) 逆襲-サノンの一発
    


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ステーブ・リチャーズ構成 「ペレのワールドカップ日記(中) この目で見たヨーロッパの新しいサッカー」
『イレブン』v.4 no.11 1974.10 p.98-100

パウロ・セザールの悩み 敗れたラテン・サッカー選手生活最後の花道


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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(2) 優勝候補イタリア敗れるの日」
『イレブン』v.4 no.11 1974.10 p.102-104

電子頭脳リベラの不振 ご気嫌なゴルスキー監督 頭を抱えるバルカレッジ監督


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吉武利昭 「サッカーの切手 74ワールドカップ 8」
『サッカー・マガジン』v.9 no.13 1974.11 グラビア頁

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エリック・バッティ 「ポーランド 1974年ワールドカップの“ブラジル”」
『サッカー・マガジン』v.9 no.13 1974.11 p.124-128

東欧から初の優勝も可能だった! 最初から火を吹いたポーランドの攻撃 単純で効果的!しかも、たやすそうに 守備のスター、GKトマシェフスキー ラトーとガドーハ絶妙の両ウイング 「イン・アンド・アウト」 今大会で最も創造力に富んだチーム


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二宮寛 「新しいサッカーの母体は優秀なタレントだ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.13 1974.11 p.130-133

イングランド大会までのシステムの変遷 メキシコ大会でみられた戦術の特徴 新しいタイプのプレーをみせたボンホフ


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.13 1974.11 p.154

オーストラリア0-3西ドイツ スコットランド0-0ブラジル


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「ワールドカップ名場面集 2 WM74“このプレー”」
『サッカー・マガジン』v.9 no.13 1974.11 頁付けなし

マリーニョのスケールの大きな守備から攻撃への転換(高橋英辰) 西ドイツの世界制覇を決定づけたミュラーの貴重な決勝点(二宮寛)一対二の状況でのベッケンバウアーの冷静な誘導(賀川浩) 王者ブラジルを破ったオランダの二つのセット・プレー(牛木素吉郎)


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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(3) 東西両ドイツ、国威をかけた対決」
『イレブン』v.4 no.12 1974.11 p.94-96

厳しい“皇帝”の表情 点をとれない西ドイツの攻撃 無人の西独ゴールを襲った一発


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ステーブ・リチャーズ構成 「ペレのワールドカップ日記(下) 攻めないブラジルに世界制覇はない」
『イレブン』v.4 no.12 1974.11 p.98-100

国の名誉を賭けた戦い 押え切れない感情の爆発 西独の作戦勝ち


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デットマール・クラマー 「良いサッカーはきれいなものだ そして、必ず成功する」
『イレブン』v.4 no.12 1974.11 p.102-103

攻撃のために門を開け ミュンヘンの教訓


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吉武利昭 「サッカーの切手 74ワールドカップ 9」
『サッカー・マガジン』v.9 no.14 1974.12 グラビア頁

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.14 1974.12 p.106

チリ1-1東ドイツ オランダ0-0スウェーデン


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エリック・バッティ 「“ブラジル1974”-成功だったか、失敗だったか?」
『サッカー・マガジン』v.9 no.14 1974.12 p.132-136

ザガロはメダルを与えられるべきだ サルダーニャの批判は当たっているか? ラッキーだった第二次リーグ進出 ブラジル不振の罪はベテラン選手たちに ブラジルも、全欧と同じ網に入った! 新しいペレを待たねばならない


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岡野俊一郎 「’74ワールド・カップ名勝負物語(4) ドルトムントで吹き荒れたオレンジの旋風」
『イレブン』v.4 no.13 1974.12 p.98-100

準決勝リーグ進出をかけて 大応援団の見守る中で 孤軍奮闘したデネフ


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中村信美 「あ々ワールドカップ狂々想」
『Football』no.30 1974.12 p.31

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第10回西ドイツ大会(1974年)-3

吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 4」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 グラビア頁

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牛木素吉郎 「幕開いた世界の大衆のお祭りワールドカップ!! 一次リーグ総まくり」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.92-98

1.開会式-ワールドカップとは何か 2.西ドイツ-絶妙のオベラーツ 3.東西の対決-シェーン監督の悩み 4.東欧の台頭-速攻時代が来るのか? 5.二次リーグへ-地域的バランス


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鈴木武士 「“仮装行列”で始まった開会式 ペレ、ゼーラーも登場!新しいワールドカップの出発」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.100-101

四角ばった感じ 白黒ボールの花 ペレとゼーラー 新しい出発


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「第1次リーグ戦全経過」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.102-105

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「日本人記者の見たWM74のビッグ・ゲーム」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.106-113

互いに攻撃的白熱のゲームは引分け-ブラジル0-0スコットランド(荒井義行) 初の東・西ドイツの対決!西独の今後に禍根を残した敗戦!?-東ドイツ1-0西ドイツ(中条一雄) オランダ堂々の勝ち試合華麗にブルガリアを圧倒-オランダ4-1ブルガリア(鈴木武士) 負けないチーム、イタリア敗れるの日-ポーランド2-1イタリア(賀川浩)


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「第1次リーグを騒がせたスターとチーム」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.114-116

ヨハン・クライフは全知全能の神なのか?!(鈴木武士) 私は驚きのうちにベッケンバウアーのプレーに堪能した!!(賀川浩)


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鈴木武士 「WM74を色どったスター群像」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.117-119

ポーランドの英雄たち 期待はずれのブラジル ミュラー(西ドイツ) 粒ぞろいのアルゼンチン 好選手ぞろいのユーゴ 多かった優秀GK サノンの大金星 注目集めた豪州選手 “ネッツァーを出せ”


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エンリコ・ジャコミニ 「イタリア・サッカー界に大ショック!ワールドカップの惨敗!!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.120-123

敗因はスターの不出来か選手起用の誤りか? リベラとリーバは不調だったか? 変えられなかったチームのパターン イタリア・サッカー界全体の問題? 監督発言にリベラ、強烈に反発 今こそ、若手にきりかえの時?


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大和国男 「“無敗”スコットランドの誇り高き敗退!!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.124-125

グラスゴーに出迎えた数千ファン 暗かった大会前の展望 ジョーダンのヘディング、ロリマーの業シュート ザイール戦の得点をめぐって、運命は別れる


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賀川浩 「小さな大選手ビリー・ブレムナー(スコットランド) からだの劣る日本人へのヒント」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.126

すべての選手が嘆息のでるほどうまい 小男が大男に勝つためには...


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荒井義行 「現地に見たワールドカップ’74のプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.128-132

リーバも“へたくそ” テンポの早い踊り ワールド・クラスのサッカーとは? スコットランド、イタリア、ウルグアイの敗因 ワールド・クラスの勝負どころ 組織力の西ドイツとオランダ さて、日本はどうなる


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岡野俊一郎 「私のサッカーコーチ ワールドカップ-なにが違うのか?」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.134-139

目を奪われるな、基本はかわらない! 1.ボール・コントロール-ワンタッチですばやく! 2.パス-ボールのない者の動き、そして正確さ! 3.タックル-タックルのあとの応対の早さ 4.シュート-ダイレクトで速く! 報道に目を奪われるな!


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エリック・バッティ 「ユーゴスラビアに見る攻撃的サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.140-144

少なかったすぐれたプレー トラブルに陥った優勝候補チーム 名声を失ったスターたち 感銘深いポーランド 最高のフットボールユーゴスラビア! オブラックとアチモビッチ ユーゴスラビアの二つの攻撃プレー ダニューブ・フットボールの年?


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「ワールドカップ広場」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.146-149

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「WM74各国取材記者の目」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.152-154

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「WM74キロク」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.179-183

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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.9 1974.8 p.184

ユーゴ0-0ブラジル 西ドイツ1-0チリ ザイール0-2スコットランド


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牛木素吉郎 「大衆のたかまりのうちにみごとに成功をとげたワールドカップ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.106-111

本号は「’74西ドイツ・ワールドカップ速報号」増刊。グラビアに大会全体の写真あり。
1.二つのミュンヘン-オリンピックとの比較 オリンピックの遺産 ワールドカップの充実感
2.オレンジ旋風-二次リーグでのオランダ 専門家の注目の的 ペレに代わる最高スター
3.ドリブルの奇跡-薄氷の西ドイツ・チーム オランダか西ドイツか へーネスの交代策
4.決勝戦-栄冠は大衆とともに 西ドイツ国旗の波
5.いくつかの疑問-未来のサッカーを示すもの オランダの三つの疑問


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鈴木武士 「ワールドカップ1974決勝戦」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.112-115

クライフが倒れた 西ドイツの反撃 西ドイツ逆転 血みどろの攻防 栄光は西ドイツに “サヨナラ”ワールドカップ74


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岡野俊一郎 「図解戦評ワールドカップ1974年決勝」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.116-118

クライフの好判断が生んだPK ローテーション・サッカーが招いた西独のPK オランダは追加点をとるべきだった ボンホフのオーバーラップとミュラーのシュート力 西独、オランダをわけた歴史の差


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賀川浩 「新世界チャンピオン、西ドイツのプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.120-122

ミュラーの足もとにボールが集まる理由 最高の技術で初めてできる至芸 ドリブルの効果を見直した大会


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荒井義行 「驚異のチーム、オランダのプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.124-125

新鮮な感覚、異質のサッカー これまでの原則を打ち破ったサッカー 無数のパターンのマスター


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賀川浩 「3位躍進ポーランドのプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.126-127

すぐれたゴール・スコア 前線だけの速攻


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鈴木武士 「決勝戦のスポットライトに浮かびあがった4人のスーパー・スター」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.128-131

ワールドカップ史に書き残されるゴールゲッター-ゲルト・ミュラー 決勝戦の最高プレーヤー-フランツ・ベッケンバウアー クライフ以後のオランダの救世主か?!-ヨハン・ニースケンス WM74の文句なしの最高スター-ヨハン・クライフ


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エダイ・プールマン 「監督ミケルスがチームを作りクライフが先導役に立った!!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.132-135

オランダ台風 クライフの存在 ミケルス監督の就任 相次いだ障害 攻撃的チーム作り 粒ぞろいの名手たち 最大の功労者


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「WM74全試合経過」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.137-165

第1次リーグのあらまし(荒井義行)第2次リーグのあらまし(荒井義行) 各個別試合についての書名記事あり。


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「ワールドカップ74世界のベスト11決勝戦 現地記者座談会」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.166-170

出席者は牛木素吉郎(読売新聞)、鈴木武士(共同通信)、荒井義行(毎日新聞)、東田龍雄(サッカー・マガジン)、大和国男、富越正秀
広く静かにしんとうした祭典 ディフェンシブすぎたブラジル トータル・サッカーのオランダ 世界のベスト・イレブン ワールドカップと日本サッカー


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高橋英辰 「日本リーグ・チーム監督が見たワールドカップ 1974年の新しいサッカー」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.172-175

“ワールドカップ優勝”が4年間の流行を生む 各国チームにみるディフェンスの形  ベスト4チームにみる特色-攻撃的サッカー 見えている共通の方向


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セルジオ・レイトン 「期待はずれブラジルの敗因は何か?」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.176-179

敗因をさぐる 記者団お断わり 最初のエラー ムダだった強化試合 最大のエラー 欧州入りしたが... ペレは必要だった 高くついた教訓


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小山敏昭 「やってきた100万人のサッカー野郎」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.180-181

なだれこむオランダ応援団 兵隊の応援部隊 若いスコットランド 陽気な南米諸国 ユーゴ、ポーランド みじめなイタリア 西ドイツ 外国からおよそ百万人


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ホルヘ・バルデス・バイェボーナ 「スーパー・スターヨハン・クライフのすべて」
『サッカー・マガジン』v.9 no.10 1974.8 p.182-184

クライフの“システム”
グラウンドのクライフ すべてを持っている ゲームの流れを変える 彼の負けじ魂 悪意地は張らない
世界の頂点に立つ男 偉大な貢献 グラウンド外のクライフ いくら稼ぐか 世界サッカーの希望


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ピーター・ビッツア 「世界サッカー戦争に勝ち残れるチームはどこか?」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.80-83

イタリア-ハイチ戦で見た不吉なカゲ ブラジル-魔術師を操る指揮官不在 西ドイツ-待たれるネッツアの復調


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手塚宣武 「ユーゴに押しまくられたブラジルの安全運転」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.84-86

ペレを欠き、安全運転 ユーゴに三度の得点チャンス 1-0でユーゴが勝っていた?


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「危うし!ザガロ軍団」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.88-89

前半に賭けたブラジル 後期を逸すスコットランド ブラジル決勝進出への不安


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手塚宣武 「ウルグアイを粉砕した豪華な攻撃陣 急上昇するオランダに流れる優勝説」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.90-91

一糸乱れぬチーム・ワーク レップ2得点の大活躍 勝つ自信がついた


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「王様ペレのW杯日記」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.92

ブラジルは必ず復調する


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「World・Cup Mini・News」
『イレブン』v.4 no.8 1974.8 p.96

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ピーター・ビッツア 「オランダを粉砕した不屈のゲルマン魂」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.140-143

本号は’74ワールドカップ総集増刊号。
クライフを押えろ フォクツはやった! ミュラー決勝の1点! 全員で45分を死守! 西ドイツはやはり強かった!


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ピーター・ビッツア 「ベッケンバウアーは陰の西独監督だった」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.144-146

造反を救った皇帝の決断 調和した冷静さと闘争心 引退は考えていない


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ギュンター・ネッツア 「私にはチャンスが与えられなかった!」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.148-150

体調は万全だった 南米は優雅さを捨てた 私には闘う意思があった


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「ドイツ・チームの勝利は固い結束によって生まれた! デッドマール・クラマー氏(FIFAコーチ)に聞く」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.152-155

完璧だったフォクツ、ボンホフの両マーク 名手クライフの失敗!スピードに欠けた南米選手 イタリアの敗因は老化現象だ!


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「決勝戦で突如狂ったオランダの頭脳」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.156-159

精彩を欠いた中盤陣 主将と審判の会話は許可すべきだ(クライフ) クライフは想像以下だった(フォクツ) 実力を出しきれなかったオランダ(ミヘルス)


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フベルトビーンズ・ 「モダンサッカーを切り開いたクライフのW杯以後」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.160-162

全世界を震撼させたクライフ言動 ナショナルチームでプレーを 貫ぬくフォア・ザ・チームの鉄則


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ピーター・ビッツア 「納得いかないブラジルの安全サッカー 王様ペレの語るサッカー自序叙伝と祖国ブラジルの敗因」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.164-167

知らされた金の恐しさ 子供の教育はむずかしい 飛び入りでプレーしたい ブラジルの戦術は間違っていた!


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パット・コリンズ 「プロをなぎ倒したポーランド旋風」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.168-170

王者西独に初黒星 祖国の英雄デイナ ラムゼーも脱帽した


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岡野俊一郎 「私に選んだ世界のベスト11」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.172-175

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ジョルジォ・モッターナ 「イタリアの悲劇はこうして起った」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.176-179

なんと平均年齢28歳! バルカレッジに重大な誤り 真のイタリアではない


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パット・コリンズ 「ワールドカップが残したスコットランドの課題」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.180

善戦健闘、無敗で涙


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「世界のトップ記者が語った’74Wカップ秘話」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.182-186

出席者:B・ベロバノビッチ(ユーゴスラビア スポルト・ベオグラード) S・ジエルアルスキー(ポーランド ジッチェ・ワルシャワビー) M・ベルゴラ(イタリア スタディオ・ボロニア) デ・ボス(オランダ デ・タイド) P・ビッツアー(西ドイツ フリー) 手塚宣武(イレブン)
オランダの犯した重大なミス クライフは果たしてペレか ベッケンバウアーは陰の演出者だった ゴルスキー監督の大金星! イタリアサッカーに暗い影


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賀川浩 「W杯の楽しさは最高だよ! OさんへのW杯報告記」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.188-190

個性的なテクニック 1対1の面白さ 西独とオランダ


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岡野俊一郎 「西独に20年ぶりの栄冠をもたらした苦難の25日間 1974年ワールドカップ総評」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.192-195

祖国で2度目の優勝を! 刺激になった対東独戦 手に汗握る対ポーランド戦 祖国のために戦った西独


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「’74ワールドカップ全記録」
『イレブン』v.4 no.9 1974.8 p.196-202

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第10回西ドイツ大会(1974年)-2

「1974年-ワールドカップンの年 あと180日! 開幕を待つワールドカップ西独大会」
『サッカー・マガジン』v.9 no.1 1974.1 p.96-99

本大会組み分けは一月五日に... 入場券総数二百十三万枚 六〇ヵ国四千人の取材員


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「出場16チームほぼ出そろう! 予選状況」
『サッカー・マガジン』v.9 no.1 1974.1 p.100-101

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レズリー・バーノン 「予選に残された問題 しかし西ドイツでは...」
『サッカー・マガジン』v.9 no.1 1974.1 p.102-106

アムステルダムでの失望 予選に残された重大な問題 大きな比重を占める審判 「三強」の優勝争いか 得点力の落ちたブラジル 期待される選手たち


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 地元開催で優勝候補の筆頭西ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.1 1974.1 p.146-150

論理上の優勝候補 新しい芸術家たちの世代の登場 バイエルンとボルシアの結合 光沢が薄れた最近のチーム


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 英国サッカーの旗手となったスコットランド」
『サッカー・マガジン』v.9 no.1 1974.1 p.128-131

卓越した選手群...しかし、悲しい分裂! 監督のチーム選考を“助ける”委員会 自分のチームを選んだオーマンド監督 プレー内容はイングランド代表と類似 望まれるスコットランド協会の自重


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「激戦を勝ち抜いた強豪チームの現有戦力」
『イレブン』v.4 no.1 1974.1 p.102-109

1.イタリア-世界制覇に燃える純血チーム(ジョルジオ・モッターナ) 2.ポーランド-英国の野望を砕いた東欧の荒武者(パット・コリンズ) 3.オーストラリア-韓国を圧倒したゴール前の波状攻撃(趙東彪)


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 欧州大陸で勝つ試練に挑戦ブラジル」
『サッカー・マガジン』v.9 no.2 1974.2 p.140-144

非難にさらされるザガロ監督 三回優勝のかげにあったザガロの役割 欧州遠征は若手に経験を与えるため 新人成長、問題のない守備、中盤 ペレ、トストンに替わる者は...? 表面上は4-3-3システムだが


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鈴木武士 「ワールドカップ74の組み分け決定!! 参加各国の反響をさぐる」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.108-111

本号はワールドカップ展望号。グラビアに参加16ヶ国の紹介あり。
45分間の抽選セレモニー FIFA理事会の三つの決定... 「東西ドイツの対決」に湧くどよめき ブラジル...ユーゴがいいか、スペインか? 余裕みせる西ドイツ、とぼけるバルカレギ・イタリア監督 各国の声を総合してみると... 掛け率のトップは西ドイツ


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エリック・バッティ 「決勝戦は西ドイツ対イタリアか???」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.112-116

見通しは明るくない... 問題をかかえている各チーム FIFAのシード方法は問題 東西両ドイツが残る ブラジル以外は不確実だが... オランダは人が騒ぐほど強くない? 厳しいグループ ベスト4には...? 犯罪に報酬を支払うな!


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岡野俊一郎 「スピードと変化の多様性 ワールドカップ74の戦術的展望」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.117-119

一九六六年大会から七〇年代へ-戦術の発展 攻守における変化の多様性 スピードが必要だ! 読みの勝負の時代


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鈴木武士 「ショッキングなイングランドの敗退 史上最高の参加国 1974ワールドカップ予選総まくり」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.120-123

伝統の古豪チーム次々と脱落 フル・メンバーが出場の形 新顔ザイール、ハイチ、オーストラリア


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エリック・バッティ 「イングランドはなぜ敗れたか?!フットボールかファイトボールか」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.124-128

監督ラムゼーの犯した誤り ファンを誤った方向に導く 誤った選手の起用と作戦 FIFAのシードの誤り フットボールかファイトボールか 欧州の相手には通じない英国のサッカー 少年の指導からやり直すべきだ


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セルジオ・レイトン 「ワールドカップ74を目ざすブラジル優勝計画の全貌」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.130-133

けし飛んだ楽観論苦しい戦いを予想 六月まで四か月の集中強化に期待 二十二人を予想することがむつかしい国


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エンリコ・ジャコミニ 「戦後初の世界制覇に燃えるイタリアの自信」
『サッカー・マガジン』v.9 no.3 1974.2 p.120-123

メキシコ大会に出たチームより強い! 出場メンバーはもう固まっている 万全の本番対策 ほとんど不安のない陣容 国内リーグの混戦が心配


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「やっとつかんだミュンヘンに暗影」
『イレブン』v.4 no.2 1974.2 p.86-91

オランダ-主力2選手の出場に赤信号(フベルト・ビーンズ) ウルグアイ-幸運を呼ぶか水色のユニフォーム(渡辺よしひろ)


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ピーター・ビッツア「世界の強豪を迎え撃つシェーン監督と西独代表」
『イレブン』v.4 no.2 1974.2 p.93-96

ウェンブレーでの感激 偉大な指導者シェーン監督 オベラートかネッツアか


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牛木素吉郎 「本大会の組合せ決まる! 前景気盛りあがるワールドカップ!!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.4 1974.3 p.76-79

新しいカップと方式 組み合わせ抽選の裏側 優勝の最右翼西ドイツ ペレに代わるものは誰か カテナチオに賭けるイタリア ドラマの交錯する25日間


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 無敵の“カテナチオ”イタリア」
『サッカー・マガジン』v.9 no.4 1974.3 p.124-128

カテナチオ守備は変わらず! 雨散霧消したバルカレギ批判 群を抜く一九七三年度の成績 陣容と選手たち イタリアを破るのは難しい...


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち たくましい進歩をみせる東ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.4 1974.3 p.130-134

進歩をはばんできた戦後の体制 西ヨーロッパでの試合経験はわずか8試合 転換を生んだいくつかの決定 賢明なブッシュナーの代表編成


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「これが’74Wカップに出場する16ヵ国代表だ!」
『イレブン』v.4 no.3 1974.3 グラビア頁

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ピーター・ビッツア 「西ドイツはWカップを制覇できるか!」
『イレブン』v.4 no.3 1974.3 p.78-81

初の東西ドイツの激突! イングランドなきW・カップ 日没近いオランダ ブラジルは恐くない 西ドイツは優勝できるか?


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「スウェーデン幸運の本大会出場」
『イレブン』v.4 no.3 1974.3 p.82-83

不運に泣いたオーストリア 防戦一方のスウェーデン


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エリック・バッティ 「無失点を続けたイタリア 問題かかえ後退の西ドイツ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.5 1974.4 p.92-96

バルカレギ(イタリア)年間最優秀監督に! 割引かれるスウェーデン、ベルギー 進歩みせるポーランド、東ドイツ 点のとれないソ連 メンバー豊富な西ドイツだが... 悪くないブラジルの成績


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 1」
『サッカー・マガジン』v.9 no.5 1974.4 グラビア頁

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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 本領を出せる亜k?! オランダ」
『サッカー・マガジン』v.9 no.5 1974.4 p.124-128

おそかったプロ化 二大クラブの天下 解け合わぬアヤックスとフェイエノールト ゆらぐ監督の座 クライフとカイザーの反目 ミケルスが監督に!? 手直しが必要...


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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち ブラック・アフリカからの初出場ザイール」
『サッカー・マガジン』v.9 no.5 1974.4 p.130-134

登録プレーヤーは10万人以上... サッカー・タレントの宝庫? “黒のベッケンバウアー”  アフリカのトップの資格は十分 モロッコでも成功したビデニッチ監督


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「WM74ミニ情報」
『サッカー・マガジン』v.9 no.5 1974.4 p.182-186

西ドイツとイタリア戦う!! 大会レフェリー30人決まる! ブラジル代表のメンバー決まる! アルゼンチン代表もメンバー発表、ほか


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渡辺よしひろ 「怪情報乱れとぶブラジルのチーム編成」
『イレブン』v.4 no.4 1974.4 p.82-85

ほのめかす若手起用 注目される好調ペレの去就 奇怪なゲルソンの態度 チャンス到来?悲劇のヒーロー


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ジョルジオ・モッターナ 「オレの胸のうちは決まっている! イタリアのガンコ親爺バルカレッジの世界制覇プラン」
『イレブン』v.4 no.4 1974.4 p.87-89

エリート意識は捨てる 若手を使うつもりはない まだ代表決定はできない


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フベルト・ビーンズ 「台風の目、オランダが誇る世界的スター」
『イレブン』v.4 no.4 1974.4 p.90-93

ファイト秘めるオランダの“ミュラー”ヨハン・ニースケンス 乱闘も辞さないオランダの主砲ピ-ト・カイザー 攻撃力のある現代的プレーヤーリュート・クロル つねにレギュラーを堅持するウイム・シュルビール 勝利へ結びつけるチームの主軸ウイレム・ハネイム オランダが生んだ国際的なGKヤン・バン・べべレン オランダの誇る世界的な核弾頭ヨハン・クライフ


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パット・コリンズ 「暴れん坊スコットランドがねらう標的はブラジルだ」
『イレブン』v.4 no.4 1974.4 p.94-96

イングランドとの宿命の戦い オーマンド監督の自信 心強いリーズ所属の五人 老雄デニス・ローの存在


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吉武利昭 「サッカーの切手 ’74ワールドカップ 2」
『サッカー・マガジン』v.9 no.6 1974.5 グラビア頁

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エリック・バッティ 「ワールドカップ出場の強豪たち 出稼ぎプロが顔そろえるスウェーデン」
『サッカー・マガジン』v.9 no.6 1974.5 p.130-134

“グレ・ノ・リ”...栄光に満ちた過去 輝かしかった一九五八年のチーム 楽な予選グループに予想外の苦戦 全員好調で臨めばあるいは...


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長谷川昌久 「ワールドカップ連覇をめざすブラジル最新情報 フォーワードに新鋭・若手を多数起用」
『サッカー・マガジン』v.9 no.6 1974.5 p.132-136

代表の顔見せ興行は2-2の引分け ザガロ監督の悩みはフォワードの人選


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「ワールド・カップに燃える6人の核弾頭」
『イレブン』v.4 no.5 1974.5 p.82-91

欧州を震撼させる“黄金の足”-ゲルト・ミュラー(ピーター・ビッツア) イタリアサッカーの革命児-ピエトロ・アナスタシ(ジョルジオ・モッターナ) オランダの主柱を揺るがす移籍説-ヨハン・ニースケンス(フベルト・ビーンズ) 強烈なパワー “ダイナマイト”ロリマー-ピーター・ロリマー(パット・コリンズ) 戦線に復帰したポーランドの星-ウラジミール・ルバンスキー(パット・コリンズ) 吹き荒れるかブラジルの台風男-ジャイルジンニョ(渡辺よしひろ)


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渡辺よしひろ 「こうして22人の代表は決まった! ドキュメント2・18ブラジル代表決定の日」
『イレブン』v.4 no.5 1974.5 p.93-96

“当を得た選考”への反論 ミナス州に巻き起る非難の声 冷静だったアデミール・ダ・ギア ザガロとゲルソンの激論


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ピーター・ビッツア 「果たして豪州は英国の三流以下か」
『イレブン』v.4 no.5 1974.5 p.98-100

あわれな豪州サッカー 陽が当たらないサッカー 日本は豪州よりも強い


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鈴木武士 「ワールドカップ開幕まであと1ヵ月!! 南米・東欧勢の強化は白熱」
『サッカー・マガジン』v.9 no.7 1974.6 p.76-81

入場券の売りあげ百万枚を越す! ユーゴの代表候補登録40選手発表 ウルグアイ、ブルガリアもメンバー発表 出場各チーム準備試合の状況


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レズリー・バーノン 「ワールドカップ決勝大会の“スーパー・ヒーロー”は誰か」
『サッカー・マガジン』v.9 no.7 1974.6 p.82-87

“闘争と暴力” ラテン系の“手おの師”たち 血の気の多いテクニシャンたち ブラジルのやり方は... フランツ・ベッケンバウアー 八人のスーパー・ヒーローたち


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酒井理順 「ブラジル代表、最後の仕上げ段階へ!! すばらしいエズー、マリーニョの左ライン...」
『サッカー・マガジン』v.9 no.7 1974.6 p.88-91

真剣なトレーニング激しいレギュラー・ポジション争い 苦戦の第1戦、メキシコと引分け アルベルトの離脱にピアザらが号泣 マリーニョ、デビュー戦で決勝点 ジャイルジーニョ、貫禄の一発! 待望されるセザール(パルメイラス)の登場


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アンドリュー・デットレ 「大会を目前にしてオーストラリアは準備不足...!!」
『サッカー・マガジン』v.9 no.7 1974.6 p.92-95

最も弱く最も<準備不足... 目だつストライカー不在 ポイント握る守備陣 つきっぱなしのラジッチ監督だが... 東西両ドイツには歯が立たない? オーストラリアの敗北はアジアの敗北

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第10回西ドイツ大会(1974年)-1

「史上最高の98カ国の激戦! アジア、オセアニアは17カ国から1カ国が本大会に出場」
『イレブン』v.1 no.5 1971.9 p.140

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申相徳 「目標は73年ワールド・カップ予選 その後の韓国サッカー界」
『イレブン』v.1 no.9 1971.12 p.146-147

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「1974年ワールドカップを目ざすチェコスロバキア ラディスラ・ノバク新監督は語る」
『サッカー・マガジン』v.7 no.4 1972.3 p.152-156

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「Wカップ開催地をめぐる日韓の明暗 1973年5月15日、ソウル開催決定とその舞台裏」
『イレブン』v.2 no.7 1972.7 p.111-115

またもや失敗した“日本外交” 支持されなかったホーム・アンド・アウェー案(谷口博志) ショックふきとばした開催地決定 国家常備軍の再建に拍車(申相徳)


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ピーター・ビッツア 「ミュンヘンワールドカップは西独が優勝する 世界の脅威シェ-ン一家の恐るべき底力」
『イレブン』v.2 no.10 1972.9 p.84-87

シェーン一家のチームワーク ネッツア、ベッケンバウアーの活躍 ミューラーの強烈な破壊力 無敵西独の陣容


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鈴木武士 「開幕戦にブラジル登場 ワールドカップ’74日程決まる」
『サッカー・マガジン』v.8 no.1 1973.1 p.135-137

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エリック・バッティ 「オランダ代表の力西ドイツに及ばず 現地レポートベルギー対オランダ戦」
『サッカー・マガジン』v.8 no.1 1973.1 p.138-140

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フベルト・ビーンズ 「ワールド・カップでも優勝するぞ ハナ息荒いオランダ・サッカー界」
『イレブン』v.3 no.1 1973.1 p.112-113

ノルウェーに9-0 “優勝はオランダ” 代表チーム・メンバー


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「ソウル決戦にZ旗を掲げた全日本 日本サッカー界の遠大なる意識革命」
『イレブン』v.3 no.1 1973.1 p.170-171

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荒井義行 「9年ぶり東京オリンピック以来の全日本強化策 ’73ワールドカップ予選をめざす全日本」
『サッカー・マガジン』v.8 no.2 1973.2 p.64-69

画期的な強化日程 選手強化のポイント ナショナル・チームと日本リーグ 日本サッカー強化の技術的なポイント ワールドカップ予選をどう戦う


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日置卓也 「73年日本のサッカーはこう変わる 一シーズン制の英断とワールド・カップ予選への一大強化案」
『イレブン』v.3 no.2 1973.2 p.112-116

12月10日の歴史的な決定 “限界への挑戦と各チームの思惑 ソウル決戦へ!全日本の強化策決定 長沼監督の強い決意 全日本世は恥をしれ!の一言


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「’73さあ、Wカップ予選の年だ! 激戦地欧州の詳報と、知っておきたい過去9大会の歴史」
『イレブン』v.3 no.2 1973.2 p.85-92

激戦地欧州の現情 イングランド、ウェールズに辛勝 第9グループはソ連、エール、フランスの三つ巴
歴史と大会の足跡 予選決勝から戦争までエスカレート
日本とアジア 照準はオリンピックからWカップへ 統一すればこわい韓国と北朝鮮

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荒井義行 「長沼全日本監督に聞く 「刀折れ、矢つきるまで」 Wカップ予選を前に」
『サッカー』no.118 1973.4 p.6-8

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「全日本強化第2弾! “日本列島縦断武者修行」
『サッカー・マガジン』v.8 no.4 1973.4 p.52-53

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「全日本鳴門合宿」
『サッカー・マガジン』v.8 no.4 1973.4 p.54-56

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イアイン・パーソンズ 「欧州に大波乱?英伊に暗いカゲ」
『イレブン』v.3 no.4 1973.4 p.83-87

ウェールズの謀略にのった英 “愚かなバルカレッジ!” チェコ新監督の大誤算 新メンバーに悩むブラジル 悲運と闘う北アイルランド


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「自分に勝った者だけがソウルWカップ予選で闘える Wカップ予選めざして厳しく鍛えられる全日本」
『イレブン』v.3 no.4 1973.4 p.112-115

倒れるまで鍛える 四ツ足が食いたいよーッ 自分に勝たねば落とされる “ギャップ”は埋まった ソウルで戦える男を...


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「ワールドカップ・ソウル予選迫る」
『サッカー』no.119 1973.5 p.2-4

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「日本代表チームへの注文」
『サッカー』no.119 1973.5 p.5

僅差の壁を破るために(荒井義行) タイトル戦に勝つ要因(島田公博) 精神のタフネスを(中条一雄)


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荒井義行 「近づくソウル予選 全日本はだいじょうぶか!?」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.76-78

中東遠征をしていたら... どこへいった点差のハンディ スローテンポの攻撃 もっと攻撃的なパスを ベテランがすべて正しくはない


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「あと23日新しいテーマが続出! 全日本国内遠征」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.79-81

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黄敬[シュン=馬ヘン+春]「ソウル予選に闘志満々の韓国常備軍」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.82-85

新しいスターたちの登場 すでに-常備軍編成さる! ハード・トレーニングで強力な強化 戦力評価戦にみる常備軍 今後の問題点は何か? ホープの金在漢という選手


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ジョン・ブローダー 「作戦は極秘...! 必勝を期すイスラエル!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.86-89

著者はAPテルアビブ支局員。
ボルシアMGをも破る! チームの中心をなす六人の選手 新監督で、チーム一新 万全の準備をするシュミロビッツ監督 しかし、批判の声も...


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鈴木武士 「ワールドカップ’74入場券の売出し始まる!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.128-130

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岡野俊一郎 「ワールドカップ予選ウェールズ対ポーランド戦を観て」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.132-136

ポーランド役員と接触 ポーランドは慎重な守備的作戦でスタート ルバンスキーは不調 後半開始後、突然のゴール! 動きの量と激しさでポーランドを圧倒 自信のぞかせるイングランドのラムゼー監督


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エリック・バッティ 「ポルトガルのワールドカップ出場は疑問...?!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.5 1973.5 p.139-142

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広瀬仁一 「これが長沼構想のナウな全日本だ! 実戦特訓で鍛える長期練習プランの真意」
『イレブン』v.3 no.5 1973.5 p.95-97

“強い男”づくりの強行日程 目標はポーランド型


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趙東彪 「韓国のWカップ体制はすでに整った! 閔ヘッドコーチが編成した新ナショナルチームの全貌」
『イレブン』v.3 no.5 1973.5 p.98-99

ビルマに屈服 閔丙大コーチ新チームを結成 三段階の強化プラン


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大谷四郎 「釜本の一発に賭けるか?!若手でまとまったペースを出すか?!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.7 1973.6 p.80-83

厚いワールドカップの壁 日本縦断では感じられなかった、代表らしい“張り” 負傷者は完治できるか? 釜本、吉村をはずしてみたら...?


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「見ていてくれ!合宿でただ飯を食っちゃいない!! 全日本代表選手座談会」
『サッカー・マガジン』v.8 no.7 1973.6 p.84-87

出席者は平木隆三(コーチ)、小城得達(BK)、藤島信雄(HB)、藤口光紀(FW)
七分ぐらいの仕上がり ボールのとまらない余裕のなさが出た...? 人に頼りすぎた... 一部修正で、ソウルではかなりやれる...


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R・D・セルバ 「日本、韓国には勝てる...! 対イスラエル戦必勝を期すマレーシア」
『サッカー・マガジン』v.8 no.7 1973.6 p.88-89

著者はマレーシア・スター誌記者。
日本、韓国には勝てる CFシド・アーマドは、はずれる?! チャンドラン中心の守備は安定しているが 北朝鮮チーム戦で自信


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イアイン・パーソンズ 「緊迫する欧州戦線に異常あり! 浮上するイングランド、イタリアの強豪」
『イレブン』v.3 no.6 1973.6 p.93-95

漁夫の利得たイングランド ラムゼー、ゴルスキー両監督の舌戦 復帰する?G・ベスト イタリアがぐーんと浮上


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広瀬仁一 「ソウル決戦に出陣の健さんをげきれいする! 対談 長沼健 松平康隆」
『イレブン』v.3 no.6 1973.6 p.112-117

日本代表監督長沼健と前バレーボール全日本男子監督松平康隆との対談。広瀬仁一はオブザーバー。
ベテランと若手の差 真のファイトとは? 敵地で戦う難しさ もっと海外遠征を 選手選考の苦心談


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谷口博志 「これがソウル決戦を勝ち抜く戦力と作戦だ」
『イレブン』v.3 no.6 1973.6 p.118-121

敵を知り己を知る その布陣-釜本を軸にベテラン、若手の混成 その戦力-東京五輪より戦力アップしている その作戦-“PO式思考”による作戦へ期待


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趙東彪 「いまはドン底だが5月決戦には勝てる 韓国ナショナル・チーム閔丙大ヘッドコーチに聞く!」
『イレブン』v.3 no.6 1973.6 p.122-123

三ベテランが復帰 金の頭にボールをのせて勝負


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「不気味な強敵イスラエル」
『イレブン』v.3 no.6 1973.6 p.124-125

クラマー氏の弟子シュミロビッツ監督 油断禁物マレーシア


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北原哲彦 「ワールドカップ予選予想」
『Football』no.25 1973.6 p.35-36

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荒井義行 「思い切った発想の転換を 日本サッカー再建への道」
『サッカー』no.121 1973.7 p.2-4

深刻な現実 応援もさびしかった もうあとがない


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島田公博 「ホーム・アンド・アウェーでやろう あまりにひどい運営ぶり」
『サッカー』no.121 1973.7 p.5-7

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「ワールドカップ・ソウル予選記録」
『サッカー』no.121 1973.7 p.8-13

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岡田忠 「長沼監督にインタビュー ワールドカップ予選を終って」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.70-71

攻守にバランスのとれていた韓国 「おれたちにもやれるんだ」という兆し ワールドカップを現地に見て、ミュンヘン付近のチームと強化試合をしたい 個々の選手に課題を指示


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「特別座談会 機械的すぎなかったか日本チームの攻撃?!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.72-75

出席者は鈴木武士(共同通信)、尹景憲(中央日報)、Y・ポラード(イスラエルマーリブ紙)、J・マレー(ロイター東京支局)
ラグビー記者の集まり? 釜本は威力がなかったが ベスト・メンバーでないイスラエル 今大会の好プレーヤーは


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岡野俊一郎 「ワールドカップ・ソウル予選から」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.76-80

はじめに
1.対南ベトナム戦 みごとだった日本の一点目 日本のリズムはせいぜい20分間
2.対香港戦 まかり通った香港のラフプレー 香港、クォク・カ・ミンの一発
3.対イスラエル戦 当を得た日本の作戦 不運な日本の失点
4.韓国対イスラエル 韓国、決勝の1点
日本の今後の問題点 ボール扱いはいちばん下手 若手はまず釜本に挑戦しよう


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荒井義行 「ワールドカップソウル予選・戦評」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.82-86

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黄敬[シュン=馬ヘン+春] 「全韓国を沸かせた優勝」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.88-89

韓国の得点に、はやりすぎた軍楽隊長!? “三度目の正直”で勝利 異常だったその夜の韓国 観客動員数は史上最高!


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鈴木武士 「韓国・会心の勝利」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.90-91

ひたむきな努力がもたらした成功 人気者、金在漢ら若手が成長


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「ワールドカップ・サッカーソウルの日々」
『サッカー・マガジン』v.8 no.8 1973.7 p.95-98

審判リストは“買収防止”のための秘密? 「いい試合をしたぐらいで喜ぶな」(平木コーチ) 全日本に明るさ呼んだ美人ガイド、ミス・チャン ボスコビッチ主審の笛に怒り爆発 本場の焼肉でスタミナは十分...? イスラエル戦には自信をもってのぞんだが...


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「組み分け試合をめぐる韓国の微妙なカケ引き」
『イレブン』v.3 no.7 1973.7 p.113-118

ホスト・カントリーの利権 異様なムードの中で監督会議 ヤング日本善戦の波紋 どうでる組み分けの明暗


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「核抜き全日本、イスラエルに惜敗 ヤング全日本が将来に明るい灯をともして善戦」
『イレブン』v.3 no.7 1973.7 p.116-118

厳重警戒のもとで試合開始 平沢が同点シュート! 韓国らの偵察下で大ハッスル


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「イタリア当選確実“アナ馬”オランダ浮上  西独(開催国)、ブラジル(前回優勝)に続く14チームの最新情報」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.108-112

注目あびる“アナ馬”オランダ 安心できないイングランド ソ連は南米第3組と代表権争い


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日置卓也 「長沼監督が抱く日本が3年後に勝つための革命プラン」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.114-117

四年前のクラマー提言 実現をはばんだものは何か 不足だった海外遠征 これが勝つための長沼プランだ


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「新聞に報道されなかったソウル決戦の舞台裏 日本準決勝での敗退と韓国の優勝の背景を探る」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.119-122

厳重警戒に滅入ったイスラエル 思惑めぐらす日韓の首脳 故障者続出に狂った長沼構想


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趙東彪 「張徳鎮会長の苦悩と韓国の優勝 3度の挫折、苦しみに耐えた末の栄光」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.120-121

会長の命運かけたW・カップ予選


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「選手が綴った“ぼくらの日記帳” “欧州タイプ”には自信がつきました」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.124-125

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谷口博志 「アジアA地区予選は“本命のいない大会”だった 参加7ヵ国の試合総評とベスト・イレブン」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.129-134

韓国ら実力伯仲の4カ国 ベスト・プレーヤーはシュピーグラー あきれた審判員のレベルの低さ


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「Wカップ・アジア予選前記録」
『イレブン』v.3 no.8 1973.7 p.119-122

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長沼健 「ワールドカップ予選を終えて 日本代表は何を考え、何をしなくてはならないか」
『サッカー』no.122 1973.8 p.2-7

進歩の比較の困難さ やむを得ぬ伸び率低下 目標は先ず打倒韓国 若手の戦闘能力の向上 国内遠征への切り替え 痛い山口、松永の負傷 球あつかいの能力不足 海外遠征の重要性 許されぬ国内軽視 代表選手の感覚養成 各層への適切な指導 企業と地域の協調


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金徳俊 「韓国蹴球人の見た日本代表チーム ワールドカップ予選」
『サッカー・マガジン』v.8 no.9 1973.8 p.94-95

精神面に失望 あまりに教科書的... 日本蹴球と韓国のそれとの違い アマチュアリズムにこだわりすぎる 全日本の再起を祈る


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「クライマックス!激化するつぶし合い W杯最新情報」
『イレブン』v.3 no.9 1973.8 p.86-87

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パット・コリンズ 「イングランド衝撃の敗戦」
『イレブン』v.3 no.9 1973.8 p.88-91

敗戦の原因は何か? ラムゼー監督采配の疑問 痛いムーアのミス 新しい人材でチームの改造


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エリック・バッティ 「西ドイツに勝って...ワールドカップ優勝チャンスに確信!  ブラジル代表監督、マリオ・ザガロは語る!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.10 1973.9 p.124-128

遠征の結果は満足すべきものだった ヨーロッパのサッカーを知る狙い ワールドカップはトップ・コンディションで臨む 適応性あるサッカー 新しい戦術システムが必要


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オマール・プレゴ 「ワールドカップ一番乗りウルグアイ代表を悩ます代表選手の海外流出!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.10 1973.9 p.146-148

代表選手の半数は外国へ移籍交渉中 二軍選手まで札束攻勢 深刻な経済危機 “ウルグアイのグリップ”  あまりにも攻撃的で乱暴?! ワールドカップまでに難問は解決するか?


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大和国男 「イングランドに史上最大のピンチ」
『サッカー・マガジン』v.8 no.10 1973.9 p.152-153

第五グループは混戦 96パーセントがラムゼーの解任を求める! 創造性に欠ける攻撃


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パット・コリンズ 「苦境に立つラムゼー監督に提言する!」
『イレブン』v.3 no.10 1973.9 p.111-115

攻撃的な戦法を採用すべだ! 1966年の再現を期待する! トッド、ハドソンの復帰でどう変わる 安全策を捨て思い切った選手起用を イングランドの勝利を待つ西独


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レズリー・バーノン 「秘かに優勝をねらう東欧の3強ユーゴ・ソ連・チェコ」
『サッカー・マガジン』v.8 no.11 1973.10 p.128-131

重大、ゆえに有害! ハンガリーに見る東欧の「アマチュア」 東欧のホープユーゴスラビア 驚異のストライカーブルガリアのジェコフ もう一つの希望チェコスロバキア


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大和国男 「ポーランド戦にすべてをかけるイングランド」
『サッカー・マガジン』v.8 no.11 1973.10 p.140-141

予選を勝ち抜くには 充実するチーム力 敗北は許されない!


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大和国男 「イングランド、オーストリアに大勝 ワールドカップ出場へ自信!」
『サッカー・マガジン』v.8 no.12 1973.11 p.152-153

ウェールズ敗退の朗報 先発メンバーから外されたムーア 3Cトリオで5得点! ポーランドも万全の備え


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レズリー・バーノン 「ラムゼー・フットボールの死んだ日 イングランド歴史的なワールドカップからの敗退」
『サッカー・マガジン』v.8 no.13 1973.12 p.124-128

国民に与えた大きなショック 試合前対照的な両チーム監督 ピータース、絶好機をのがす! ポーランド先制ハンターのミスをひろう 残りは二十六分 ラムゼー・フットボールの死 パンとバター、そしてジャム


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金子勝彦 「サッカーの母国、敗るの日 イングランドvsポーランド戦を観て...」
『サッカー・マガジン』v.8 no.13 1973.12 p.130-133

その日、一九七三年十月十七日... ウェンブレー... ポーランド・ベンチの意図 華麗なカウンター・アタック イングランド・サッカー史の悲しい一頁


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エリック・バッティ 「オリンピックの覇者・イングランドの征服者ポーランド」
『サッカー・マガジン』v.8 no.13 1973.12 p.134-138

ミュンヘン五輪で活躍!金メダル・トリオ 闘志の弱さが出たウェールズ戦 ムーアを圧倒したルバンスキー ラトーら新スターの登場 けり合いにはけり合い! 1-1の“勝利” 西独では強豪の一角に?


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パット・コリンズ 「Wカップ決勝大会進出ならずイングランド痛恨の引き分け」
『イレブン』v.3 no.13 1973.12 p.82-85

無鉄砲なラムゼー采配 涙のハンターを慰める前主将ムーア クラークの同点PKも実らず! ムーアは貴重な存在ではなかったか

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第9回メキシコ大会(1970年)-2

長沼健 「ワールドカップ この目で見た名勝負」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.44-47

勝ち進む強豪 ベスト8決まる 激戦の準々決勝 西ドイツイングランドを破る 歴史的な独-伊の血戦 ブラジルに栄冠輝く 日本の将来を思う


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牛木素吉郎 「南米のサッカーを知ろう!」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.48-49

“イングランドはワールドカップを盗んだんだ!” 南米独特の“お祭り” 二つの“サッカーの世界”  南米のサッカーが勝った


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伊高浩昭 「黄金の女神像に狂喜するブラジル国民」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.50-51

大統領からペレに祝いの電話 始まったカーニバル 選手、リオに帰る 熱狂のブラジル ラテン・アメリカに永遠にほほえむ女神像 世界一の誇り


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「ワールドカップの審判を務めて 丸山義行氏に聞く」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.52-53

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宮本幸子 「メキシコ人気質」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.53

著者は世界選手権大会組織委員会エテカン(接待係)。


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「ワールドカップ全試合経過」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.55-64

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秋庭亮 「フットボール断想」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.66-67

美しかった夜の街 “これぞサッカー” 評判のよい西ドイツ 好きだが疲れたぁ


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「ワールドカップ大会点描」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.68-69

スーベニール(記念品)売り イルミネーション マスコット コレクター テレビ ホテル・マリア・イサベル


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「ワールドカップ全試合経過」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.55-64

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「ワールドカップ全試合出場選手」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.154-155

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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 9」
『サッカー・マガジン』v.5 no.8 1970.8 p.125

第九回大会(1) メキシコ ブルガリア
このシリーズはグラビアに写真あり。


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長沼健 「ますます進歩する世界のサッカー」
『サッカー』no.108 1970.8 p.6-17

1.はじめに 日本の報道人に感謝 テレビ中継がなく残念 統制のとれた大会 順当なブラジルの優勝
2.1次リーグ まずソ連を見る 得点王ミュラー 順当に勝進んだ強豪 メキシコがベスト8へ
3.準々決勝 ソ連の不運な敗退 歴史に残る英-独の激戦 健闘のメキシコ敗れる ワールド・カップと日本
4.準決勝 ドイツ-イタリア、がっぷり四つ ブラジル、後半に地力 三位決定戦
5.決勝戦 疲労のかげないブラジル ペレが先制のヘディング ブラジル、見事な優勝 すばらしい三人のFW 進歩した技術と戦術 現代のサッカーのすべて


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藤田静雄 「メキシコ雑感」
『サッカー』no.108 1970.8 p.18-21

メキシコの魅力 プロ・サッカーのきびしさ メキシコのスポーツ施設 オリンピック村の今日 活躍した5人の侍 アジア・オセアニアの代表 メキシコのサッカー学校


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丸山義行 「ワールドカップの審判をつとめて」
『サッカー』no.108 1970.8 p.22-25

ワールドカップと私 メキシコ市でのトレーニングと会議 私の見た審判 大会中の審判員のトレーニング 今後の日本の審判員 審判ほど素敵なものはない


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「ワールドカップ参加チームに通達された審判上の注意事項 大会審判会議の概要と決定事項」
『サッカー』no.108 1970.8 p.26-29

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「ワールドカップ見学団報告」
『サッカー』no.108 1970.8 p.34-37

本大会は40人(p.34-35に名簿あり)からなる見学団が準決勝の西ドイツ対イタリア、三位決定戦、決勝の3試合を観戦した。
壮絶な試合に酔う(武者小路知行) 人間を感じさせるサッカー(野中孝一)


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牛木素吉郎 「めひこ・せてんた」
『サッカー』no.108 1970.8 p.38-41

ワールドカップの代名詞 取材記者第1号 六千枚と撮りまくる 報道サービス 日本人のエテカン 新カップの名称 プロフェッショナリズム 消えた大ボール コーチか記者か バッティ先生の気炎 単独行の三人


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「第9回サッカー世界選手権最終競技会 記録」
『サッカー』no.108 1970.8 p.42-45

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デットマール・クラーマー 「“攻撃と防御” その模範としてのブラジル=世界選手権優勝チーム」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.85

本号はW杯別冊特集号。グラビア写真多数。
中盤のプレーの重要性 バランスの問題


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鈴木武士 「“王者”復活したブラジル」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.86-89

ボールの芸術家 幸先よいスタート イングランドを破る 決勝に会心のゲーム ブラジルの勝因 優勝の英雄たち


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大谷四郎 「技術・戦術の目」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.90-93

個人技 ゴールキーパー フルバック ミッドフィルダー ストライカー よみがえる攻撃 新興アフリカの将来


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牛木素吉朗 「ぼくの見た名勝負五番」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.94-100

ぼくの見た試合
イングランド-ブラジル もっとも美しかった試合 裏切られた予想 両チームの布陣 手がつけられぬ妙技 不運なイングランド
メキシコ-ベルギー 微妙なPKが決めた試合 この試合の意義 議論を呼んだPK ディフェンシブ
西ドイツ-イングランド ドラマチックな逆転試合 イングランド先制 ゼーラー大活躍 バスの中の論議
西ドイツ-イタリア もっとも壮烈だった試合 一発勝負の激しさ 西独を上回るイタリア 精魂尽きた西独
ブラジル-イタリア ファンタスティックな決勝試合 ブラジルの守備は? 攻めが守りを破る 閉会式の幻想


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「世界のトップ・スター印象記」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.101-103

ルイジ・“ギギ”・リバ 偉大な“神様”に会う 得点王ミュラー


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「出場メンバー一覧」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.104-105

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鈴木武士 「世界のベスト・イレブン」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.106-109

最優秀選手 優秀選手 敢闘選手 最優秀新人 ベスト・イレブン


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「ワールドカップを取材して 現地座談会」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.110-116

出席者は伊高浩昭(共同通信現地通信員)、牛木素吉郎(読売新聞)、大谷四郎(朝日新聞)、岸本健(フォトキシモト)、鈴木武士(共同通信)、谷口博志(日刊スポーツ)、宮本幸子(プレス・センター・エテカン)。
踊って騒いだメキシコ人気質 記者の目に映った各チームの印象 かん詰めの西ドイツ、惜しいソ連の敗退 日本の審判は気の毒だ ワールドカップと日本のサッカー


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「全試合熱戦のあと」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.119-133

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「ワールドカップ全試合記録」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.134-139

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「第9回’70ワールドカップ予選記録」
『サッカー・マガジン』v.5 no.9 1970.9 p.140-143

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「ワールドカップと日本の進路 16年後、ワールドカップ日本開催は可能か!? 座談会」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.36-40

メキシコの教訓 日本とは大きな差 ミュンヘン五輪につながるレベル 地道な努力から
ワールドカップ開催に立候補 サー・スタンレーが示唆 想像を超える十六年後 開催に必要な条件は何か 偏狭なアマチュアリズム


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「ワールドカップと日本の進路 16年後、ワールドカップ日本開催は可能か!? 座談会」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.36-40

出席者は竹腰重丸(日本蹴球協会理事長)、長沼健(同技術指導委員長)、牛木素吉郎(読売新聞運動部)。
メキシコの教訓 日本とは大きな差 ミュンヘン五輪につながるレベル 地道な努力から
ワールドカップ開催に立候補 サー・スタンレーが示唆 想像を超える十六年後 開催に必要な条件は何か 偏狭なアマチュアリズム


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牛木素吉郎 「ワールドカップ大作戦を展開しよう」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.54-55

ワールドカップ・レベルを目ざそう 旗じるしを立てて サッカーを世界のものに


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エリック・バッティ 「ラムゼーはまちがっていた!」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.106-108

著者は『World soccer』誌記者。
二つの見方 ラムゼーの発言について ウィングなしは正しかったか 打ち負かすのは難しい


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ロン・グリーンウッド 「選手にのびのびとしたプレーを! メキシコ・ワールドカップを見て」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.109

著者はウエスト・ハム・ユナイテッド監督


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 10」
『サッカー・マガジン』v.5 no.10 1970.9 p.116

第九回大会記念(2) メキシコ ダホメ モーリタニア アルバニア
このシリーズはグラビアに写真あり。


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 11」
『サッカー・マガジン』v.5 no.11 1970.10 p.146

第九回大会記念(3) ブラジル メキシコ トーゴ オートボルタ ソ連
このシリーズはグラビアに写真あり。


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「ファン待望!! ワールドカップ放映はじまる! 東京12チャンネルの三菱ダイヤモンドサッカー」
『サッカー・マガジン』v.5 no.12 1970.11 p.120

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エリック・バッティ 「1958年のブラジルと1970年のブラジル」
『サッカー・マガジン』v.5 no.12 1970.11 p.122-125

著者は『World soccer』誌記者。
比較は可能か? 守備力は不完全 格段すぐれていた五八年のバックス陣 リベリーノとザガロのちがい ゲルソンのパス 最前線の三人 答は「ノー!」


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「今月の三菱ダイヤモンド・サッカー 守備を統率する3人の主将」
『サッカー・マガジン』v.5 no.13 1970.12 p.138-139

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サッカー世界のプレー ワールドカップのスターたち 牛木素吉郎/構成 岸本健/写真
東京:講談社,1970
211p;21cm

わが国初のW杯本。牛木素吉郎は読売新聞社運動部。 「はしがき」に「この本は、1970年5月31日から6月21日まで、メキシコで開かれたサッカーの世界選手権、第9回ワールドカップの技術と戦術を、その素晴しい雰囲気とともに、 できるかぎり日本のプレーヤーとサッカーファンにお伝えしたいと思って編集したものです。」とある。
1.ワールドカップから学んだもの(長沼健) 1)最高の技術、最大の熱狂 2)MEXICO’70の教訓 3)日本はどうすればよいか
2.世界のプレーとその戦術(牛木素吉郎) 1)ワールドカップの個人技 2)ゴールキーパーのプレー 3)守備ラインのプレー 4)中盤のプレー 5)ストライカーのプレー 6)システムと戦術
3.ブラジル - 世界一の技術と戦法(大谷四郎) 1)ブラジルの“芸術的”な攻撃力 2)ペレ 3)優勝への歩み
4.世界のサッカー(大谷四郎,鈴木武士,谷口博志,長沼健)1)中南米のサッカー 2)西ヨーロッパのサッカー 3)東ヨーロッパのサッカー 4)アフリカのサッカー 5)アジアのサッカー 6)その他の国のサッカー 7)ワールドカップのスターたち 8)’70ワールドカップ・メキシコ大会出場選手一覧
大谷四郎は朝日新聞社運動部、鈴木武士は共同通信社運動部、谷口博志は日刊スポーツ運動部で牛木とともに新聞社の特派員としてW杯を取材した。
試合のドラマ性よりも技術面を強調した高級技術解説書のような趣がある。連続写真を含む写真多数。


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エリック・バッテイ 「ブラジルから学ぶものはないのか」
『サッカー・マガジン』v.6 no.1 1971.1 p.120-122

無価値ではないウイング ジャイルジーニョの役割 リベリーノの役割 実際の試合にあらわれた例


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「今月のダイヤモンド・サッカー ミュラー(西独)のハット・トリック」
『サッカー・マガジン』v.6 no.1 1971.1 p.126

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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 14」
『サッカー・マガジン』v.6 no.1 1971.1 p.160

第九回大会記念(6)
このシリーズはグラビアに写真あり。


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「今月のダイヤモンド・サッカー ものすごいリバ選手!」
『サッカー・マガジン』v.6 no.2 1971.2 p.128

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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 15」
『サッカー・マガジン』v.6 no.1 1971.1 p.160

第九回大会記念(7)


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.3 1971.3 p.78

シュピーゲルのすばらしいシュート! ペレ、2得点!


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 16」
『サッカー・マガジン』v.6 no.3 1971.3 p.159

第九回大会記念 ルワンダ チェコスロバキア カメルーン
このシリーズはグラビアに写真あり。


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.4 1971.4 p.128

ルーマニア、善戦 “ミュラーのゴール!”


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 17」
『サッカー・マガジン』v.6 no.4 1971.4 p.148

第九回大会記念(9)
このシリーズはグラビアに写真あり。


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.5 1971.5 p.82

ペルーの追撃、実らず 残り時間“0”の得点 オフサイド・ゴール?


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.6 1971.6 p.132

準々決勝戦に入る 残り時間“0”の得点 イングランド、辛勝


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.8 1971.7 p.90

ゴール・ラッシュの月 イタリアの攻撃、爆発! 攻撃対攻撃の争い


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.10 1971.8 p.130

いよいよ最高潮 西独みごとな逆転 終了直前の同点シュート


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.11 1971.9 p.92

壮烈な大試合 三度目の追撃に、西ドイツ力つきる! ウルグアイ、壮烈な玉砕!


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「今月のダイヤモンド・サッカー」
『サッカー・マガジン』v.6 no.12 1971.10 p.82

壮いよいよ決勝戦 ブラジル、完勝!


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 22」
『サッカー・マガジン』v.6 no.12 1971.10

第九回大会記念 カバー類。グラビアのみ。


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 22」
『サッカー・マガジン』v.6 no.13 1971.11

第九回大会記念カバーとペレ一〇〇〇ゴール記念カバー。グラビアのみ。


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「ワールドカップのプレーと戦術」
『サッカー・マガジン』v.6 no.15 1971.12

1970年W杯を特集した『サッカー・マガジン』2冊目の別冊増刊号。単行本の原著 Roger MacDonald, Eric Batty『Scientific soccer in the seventies'』(Pelham, 1971)を牛木素吉郎が翻訳し、さらに解説文など加えて再構成したもの。『三菱ダイヤモンド・サッカー』が前年から約1年間W杯を放映し、ブームの余熱が続いていたようだ。
カラーグラビア:美と興奮のワールドカップ
グラビア:写真で見るワールドカップのプレー(岡野俊一郎)
以下、ベスト8のブラジル、イングランド、西ドイツ、イタリア、メキシコ、ペルー、ソ連、ウルグアイの順に、各チーム別に、(国別)のプレーと戦術(原著の翻訳)、布陣と急所(岡野俊一郎)、(国別)のスターたち(鈴木武士)、私のワールドカップ(各国監督)。
さらに、テレビを通してみたワールドカップ決勝トーナメント(金子勝彦)、私の見たワールドカップ1(二宮寛)、私の見たワールドカップ2(松本暁司)、世界51番目、8億+3000万人目(金子勝彦)が付されている。


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吉武利昭 「サッカーの切手 ワールドカップ 24」
『サッカー・マガジン』v.7 no.1 1972.1

第九回大会記念。グラビアのみ。


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岡野俊一郎 「放送解説を終えて」
『サッカー・マガジン』v.7 no.1 1972.1 p.151-154

世界のベスト16が集まっていたか? 開催時期の問題 作戦的な問題 その他の問題


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岡野俊一郎 「面目かけた欧州対南米の大熱戦」
『イレブン』v.3 no.2 1973.2 p.152-156

ブラジル対イングランド


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岡野俊一郎 「ロンドン大会の雪辱はたしたゲルマン魂」
『イレブン』v.3 no.3 1973.3 p.112-116

西ドイツ対イングランド


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岡野俊一郎 「準決勝10万人の大観衆が酔った壮絶な