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日本(NHK)と英国(BBC)のサッカー初放送

☆ 日本(NHK)

 日本最初のサッカー中継は1930(昭和5)年12月28日、南甲子園運動場における東西大学1位対抗戦、京大対東大戦であった。東西大学1位対抗戦は前年の1929年に始まり、この試合が第2回になる。当時のトップ・リーグは関東、関西の大学リーグ1部であったので、東西大学1位対抗戦が大学チャンピオンのみならず、日本最強チームを決定する国内最高格の試合であった。結果は2-1で東大が勝利している。当時の東大は関東大学リーグ1部を6連覇中の黄金時代で、同年に行われた 1930年第9回極東大会代表20名のうち12名(ハイライトの対中華民国戦の先発イレブン中8名)をしめた。

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1930(昭和5)年12月28日付大阪朝日新聞朝刊ラジオ欄

 放送したのは大阪のJOBKで全国中継ではなく、関西ローカルだった。当日実況を担当するはずだったJOBKの小沢猛アナウンサーが病休になってしまい、毎日新聞の斎藤才三が実況した。岩崎愛二「スポーツ実況初放送物語 ⑧」『スポーツ毎日』紙1952年3月15日号によると以下の経緯だった。

"<前略>・・・

 この時の思い出はなつかしいというのは、これまでしばしば出て来た通り、BKでは、アナウンサーによる実況放送は、当分出来そうもなかったのだが、小沢猛アナウンサーがサッカーをやった経験があり、是非やりたいと申し出てくれたので、BK当事者が喜んだのは大変なものであった。今度こそは嘱託放送でなく、自分の持駒が動かせるし、日本最初のサッカー放送がやれるという二重の興奮にわきたったのであった。

 それが好事魔多しのたとえにもれず、前日になって小沢君が局にやって来ない。それでおあかしいなと思っていると、筆者に使いをよこして「済まないがちょっと御来訪願いたい」という。取るものも取りあえず、甲東園の彼の自宅にかけつけてみると、彼は病床にいて発熱四十度を越している。「明日の放送に出られそうもない、誠に申訳けない」と涙を流している。彼の純真はよくわかるが、明日にせまった実況放送は、線路テストも終り、各局への中継手続きも完了しているしするので、これを飛ばしてしまうことは出来ない。

 この時ほど困ったことはない。お先真っ暗とはこのことである。そこで、考えに考えたのが、例の嘱託放送の手で、当時関西学院のサッカーの名手で、毎日新聞入りをしたばかりの斎藤才三君に白羽の矢を立てちゅうちょしゅんじゅんする斎藤君を拝むようにして、やってもらうことにした。

 当日の試合は、斎藤君の関係学校でなかったことも、与って力あって、大変にうまい放送をやってのけてくれた。今でもこの助け舟を嬉しく思っている。

 放送がすんだ翌日、斎藤君にBKまで来てもらって、放送礼金金二十円也(この金額は当時だと一夕の歓をつくすに十分なものであったし、大学教授でも誰でも講演料は二十円と決っていた)を渡して、ネクタイでも買って下さいと渡したが、大して嬉しい顔もせずにポケットにしまった。後で聞いてわかったのだが、彼は百万長者の当主で、倉には国宝がうなっているということで、二十円の謝金なんてなんのことでもなかったらしい。

・・・<後略>”

 斎藤才三は1930年第9回極東大会代表の正GKで、桃山中学で田辺治太郎の1年後輩、関学を経て毎日新聞記者になっている。1931年には渡英して、当時の新戦術であったWMシステムを日本に初めて紹介している。→「 戦前日本サッカーの情報収集力

 『読売新聞』ラジオ番組欄で調査した、戦前の東西大学1位対抗戦の放送は以下のとおり。JOAKの河西とは、ベルリン・オリンピックの水泳実況「前畑ガンバレ」で知られる河西三省アナウンサーである。

回数 開催年月日 場所 結果 放送
第1回 1929(昭和4)年12月25日 明治神宮外苑競技場 東大3-2関学 放送なし
第2回 1930(昭和5)年12月28日 南甲子園運動場 東大2-1京大 JOBK サッカー日本初中継
第3回 1931(昭和6)年12月13日 明治神宮外苑競技場 東大2-2関学 JOAK第二放送(河西)
第4回 1932(昭和7)年12月12日 南甲子園運動場 慶應2-1京大 放送なし
第5回 1933(昭和8)年12月10日 明治神宮外苑競技場 早稲田5-2京大 JOAK第二放送(河西)
第6回 1934(昭和9)年12月16日 南甲子園運動場 早稲田6-0京大 JOAK、JOBK第二放送(島浦)
第7回 1935(昭和10)年12月15日 明治神宮外苑競技場 早稲田12-2関学 JOAK第二放送(河西)
第8回 1936(昭和11)年12月13日 南甲子園運動場 早稲田3-2神商大 JOAK第二放送(島浦)
第9回 1937(昭和12)年12月12日 明治神宮外苑競技場 慶應3-0京大 JOAK第二放送(和田)
第10回 1938(昭和13)年12月4日 南甲子園運動場 関学3-2慶應 放送なし
第11回 1939(昭和14)年12月10日 明治神宮外苑競技場 慶應4-2関学 放送なし
第12回 1940(昭和15)年12月8日 南甲子園運動場 慶應4-2関学 放送なし
第13回 1942(昭和16)年7月4日 明治神宮外苑競技場 東大8-1関学 放送なし


 ちなみに、日本最初のスポーツ中継は、やはりJOBKが放送した1927(昭和2)年8月13日「第13回全国中等学校優勝野球大会」第1日第1試合、札幌一中対青森師範戦(午前9時5分放送開始)であった。サッカーの初放送は野球に遅れること3年であった。また、最初のサッカー放送のあった1930(昭和5)年12月28日の3週前12月7日には 初代桂春団治が、放送出演を禁じた吉本興業の命に反してJOBKに出演する事件が起きている。今日のお堅いNHKと異なり、新興メディアとして意気盛んだった草創期のNHKの雰囲気が伝わってくるできごとである。

☆ 英国(BBC)

 THE FIRST LIVE SOCCER BROADCAST - SAT. 22nd JANUARY 1927によれば、英国(BBC)最初のサッカー中継は1927(昭和2)年1月22日のアーセナル対シェフィールド・ユナイテッド戦(於ハイベリー)とのことである。 BBC最初のスポーツ中継だったわけでなく、最初のラグビー中継だったイングランド対ウェールズ戦の1週後とのこと。

 リスナーにボールの位置の視覚的イメージを与えるために、フィールドを8分割して1~8の番号を振り、新聞のラジオ欄に掲載して、中継中にその番号をコールしてボールの位置を示した。アナウンサーはH.B.T. WakelamとC.A. Lewisの2人で、Wakelamがプレーを、 Lewisがボールの位置をアナウンスした。リンク先に『Manchester Guardian』紙ラジオ欄に掲載されたフィールド図面がある。

 1927年のFAカップ決勝のアーセナル対カーディフ戦ではBBCアナのDerek McCullochと後にアーセナル監督になるGeorge Allisonのコンビで放送したそうで、現在の日本におけるサッカー(スポーツ)放送で一般的な「アナウンサー+解説者」というパターンが早くも成立している。

 BBCは1922(大正11)年、NHKは1925(大正14)年開局で3年差、サッカー初中継もBBC:1927(昭和2)年、NHK:1930(昭和5)年で3年差。英国のサッカー協会(Football Association)の設立が1863年、日本の大日本蹴球協会の設立が1921年で、58年の差があるが、それと比較すれば、サッカーが電波に乗った時間差はほとんどないといってもよいだろう。

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