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竹内悌三著「欧州の蹴球」解説

はじめに

 「欧州の蹴球」は1936年ベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三が、オリンピック終了後ヨーロッパを周遊してプロ・サッカーを観戦し、その観戦記を大日本蹴球協会機関誌『蹴球』4巻6号1936年12月p.26-40と5巻1号1937年5月p.9-14に掲載したものである。

1.著者竹内悌三のプロフィール

 竹内悌三は1908(明治41)年、父悌三郎、母としの間に4男3女の次男として生まれる。父は安田銀行支配人と安田保全社理事を兼務した安田財閥の重鎮。東京府立五中、旧制浦和高校、東京大学経済学部を卒業して、オリンピック当時は東京火災勤務。オリンピックに際して大日本蹴球協会は3万円を目途に寄付を募るが、竹内は田辺治太郎(後14代五兵衛、田辺製薬会長)の3千円、新田純興(JFA財務担当理事)の2150円に次ぐ千円を寄付している。オリンピック後も一人で「ヨーロッパ・グランド・ツアー」を続けていることからもわかるように、相当な資産家だったようだ。

 東大では2歳年長の竹腰重丸からCH(ピラミッド・システム下では最も重要なポジション)を引き継ぎ、在学中に1930年第9回極東大会に出場(主将の竹腰がCHで、竹内はオリンピックと同様左FB)、極東大会唯一の優勝を体験している。戦前の日本サッカー界の2大栄冠だった極東大会優勝とオリンピックの対スウェーデン戦勝利を選手として両方体験した唯一の人物でもある。オリンピック代表選手中の最年長(28歳)で極東大会優勝のキャリアもあり、主将としてチームをまとめる役割を担うことになった。オリンピック選手団が出発前皇居を拝礼したとき、竹内は選手団全体を代表して旗手を務めた。

 竹腰重丸「蹴球人の横顔(第二回) 竹内悌三君を憶ふ」(『Soccer』復刊2号 刊行年月不明)では選手としての竹内を、

 優秀選手を放胆強引な型と細心で理詰めな型に大別し得るとすれば、竹内君は正しく後者であり、同時代の東大HB野沢君の強引な、隙も作るが恐ろしく圧力のあるプレー振りとは好対照をなして居た。竹内君のプレーは進むべきか退くべきかを細心に計算した様なプレーで、位置のとり方も控え目な位置をとって居て鋭いダッシュを利かせてインターセプトとし強い正確なキックで反撃の機会をつくる事を特色とし、そのタックルも一挙決定的に圧倒しようとするよりも執拗にがちがち脚を出すと云ふ式のプレーであった。然し又柔剛かと云へば剛の部に属し同時代の東大の名LB、故岸山君がツボを外したパスをさせたり一応抜かせて追詰める式の柔軟戦法の典型を行った(2FBでは重要な事であるが勘の良さがないと出来ない)のに対して竹内君のプレーは計算を基礎に正面から取組む式の理詰乍ら強い感じの戦法と云ふべきプレーであった。
 それ故竹内君は2FB制よりは3FB制のFBに向くとも云ふ得る型で、浦高のCH時代鈴木駿一郎君指導の下に昭和二年の高校大会で、同年圧倒的に強かった広島高校のCF手島君に対し3FB制CHの守備に似た位置のとり方で成功し予想外の接戦に持込んだ経験を持って居る。

と評している。理知的な粘り強いタイプのディフェンダーだったようだ。また、戦前の『蹴球』の編集に携わった岩崎玄は、「思い出すことども 復刊「サッカー」によせて」(『Soccer』 v.14 no.3 1951.7)において著者としての竹内を、

今雑誌を開いてみてもよくわかるが、蹴球そのものの批評を通じて、ほんとに建設的意見を構成しているのは、わずかに竹腰重丸、浜田諭吉、竹内悌三(ああそのうちの二人はもうこの世で声を聞くことすら出来ぬ。のろわしい戦争のギセイだ)等二、三の諸氏に止っている。そしてこの人たちもきわめて筆の重い人たちであった。

と述べている。竹腰によれば、竹内はシベリアで病没したとのこと。

2.歴史的背景

 1917年の極東大会で初めて国際試合を経験した日本は、1920年代にJFA結成、学童から大学まで各種大会やリーグ戦が始まり、日本代表が大学生中心になった1920年代後半から急速に水準が向上する。1927年第8回極東大会フィリピン戦で国際試合初勝利(2得点は早稲田サッカーの始祖鈴木重義と東大の竹腰重丸のベルリン監督・コーチコンビ)をあげ、次の1930年第9回極東大会では1勝1分で初優勝する(監督:鈴木、主将:竹腰、竹内もFBとして代表入り)。

 また、1929年にはFIFAに加盟し、世界大会のオリンピック参加を目指すが、1932年ロサンゼルス・オリンピックではサッカーは種目から除外される。従って、1936年のベルリン・オリンピックが、日本サッカーがヨーロッパ強豪国と対戦する初めての機会であり、スウェーデンを破ってのベスト8入りは思いもかけない快挙であった。本文中には出てこないが、次回1940年オリンピックは東京開催が予定されており、ベルリン以上の成績をあげるための日本サッカーの課題と強化が、筆者の真摯な問題意識として観戦記の随所に見受けられる。1940年東京オリンピックが開催されていたなら、竹内はコーチング・スタッフの一員として参加したに違いない。

 世界サッカーの戦術史の流れからみると、1925年のオフサイド規則の緩和以来約10年は戦術史の大転換期で、1920年代後半アーセナルの名将Herbert Chapman監督が、規則変更後のオフェンス優位に対応して考案したWMシステムが「戦術革命」をもたらすことになる。それまでの2FB、3HB、5FWがそれぞれ横並びするピラミッド・システムに変えて、FWをW型、バックスをM型に配置したものであった。ピラミッド・システム下ではCHが「司令塔」の役割と相手CFのマークという過重な負担を強いられていたのを、CHを相手CFのマーク専任(M型の底辺の3人の真中)にし、「司令塔」の役割を第2列に下げたインナー2人(Wの底辺)に担わせた。日本ではなぜかディフェンス面のみが強調されて「スリー・バック・システム」としてオリンピック後普及する。日本チームがこのシステムに初めて接するのはオリンピック直前のベルリンのクラブチームとの練習試合においてであるが、本番までに吸収することができた。このシステムの特徴はオフェンスとディフェンスが完全なマン・ツー・マンで対峙することで、竹内は「一騎打式蹴球」と形容している。

 日本もこうした流れから完全に孤立していたわけではない。 専門化したコーチが存在しないこともあり、高学歴化した選手たちは自学自習でヨーロッパの専門書を読みこむことになる。1920年代後半から30年代前半にかけて出版されたCharles Buchan(アーセナルの名選手)の『Football aids』、Otto Nerz(ドイツ代表初代監督)の『Fussball』、David Jack(同じくアーセナルの名選手)の『Soccer』などが特によく読まれたようだ。Buchanの著作はオリンピックとほぼ同時期に『蹴球』と『体育と競技』で「競訳」(後者はオリンピック代表で右サイドのFBだった堀江忠男訳)されたほどで、新システムに急速に適応できたのは、選手たちのインテリジェンスが高かったことも要因の一つであろう。1930年代に渡英した斎藤才三、竹腰重丸、田辺治太郎、そして竹内が皆アーセナル戦を観戦しているのは偶然ではない。1934年に出版されたJackの著作はWMシステムを解説したもので、竹腰は『蹴球』に掲載したオリンピックの報告中で、これを読んでいたのでスリー・バック・システムを知識としては既知のものであったと述べている。ベルリン・オリンピックの時点で、極東で独自の発展をとげていた日本サッカーは世界サッカーの潮流と合流することになったのである。

3.行程

 オリンピック代表は1936年8月4日対スウェーデン戦、同7日対イタリア戦を行い、その後ドイツ、スイス、フランス、イギリスを周遊し、8月28日マルセイユから海路帰国する。竹内はマルセイユで一行と別れ、以下の日程でヨーロッパのプロ・サッカーを観戦している。

 1936年9月13日 ミラノ アンブロシアーナ(現インテル)対トリエスティーナ セリエA
       9月20日 プラハ プルーゼン対ビクトリア スラビア対ルヂイボロ チェコの国内リーグ
       9月27日 プラハ チェコスロバキア対ドイツ ナショナル・マッチ
      10月11日 アントワープ アントワープ対ユニオン ベルギーの国内リーグ
      10月17日 場所不明(多分ロンドン) サザンプトン対トッテナム・ホットスパー イングランド2部リーグ
      10月21日 リバプール イングランド対スコットランド リーグ選抜対抗戦
      10月24日 ロンドン グリムズビー・タウン対アーセナル イングランド1部リーグ

 オリンピックの2年前1934年に開催された第2回W杯イタリア大会では、優勝イタリア、準優勝チェコ、3位ドイツ、4位オーストリア。イタリアからチェコに廻り、そこでチェコ対ドイツのナショナル・マッチを観戦し、さらにイングランドに渡ってイングランド対スコットランドの準ナショナル・マッチやアーセナル戦を観戦するというのは、当時の最強国を網羅した実に理にかなった観戦ルートといえる。竹内は本文中で、観戦はしなかったがウィーンにも滞在したこと、実現はしなかったがコペンハーゲンでデンマーク対ポーランドのナショナル・マッチ観戦を予定していたことを記している。

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