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日本におけるサッカーの伝来に関する一考察(未完)

☆ はじめに

 日本蹴球協会編『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)は日本におけるサッカーの伝来について「ダグラス少佐」の項を設け、以下のように記述している。

“東京オリンピックの前までは、日本にはじめてフットボールが導入されたのは、1874(明治7)年に東京大学工学部の前身である工学寮へ来たイギリス人講師ライメル・ジョンズの教えたものといわれていたが、今では1873(明治6)年の秋、海軍兵学寮へ指導にきたイギリス軍艦の副艦長アーチフォールド・ルシアス・ダグラス少佐とその部下33名の軍人であったことが定説となっている。イギリスの軍人たちは、訓練の余暇に自分たちのレクリエーションとして、また、訓練兵の体力強化のためだといってフットボールをやったといわれている。

 ところが、ダグラス少佐などが約1年滞在ののち帰国してしまうと、この系統からのフットボールはそれっきり育たなかった。”(p.31)

 『日本サッカーのあゆみ』では、工学寮(工部大学校)についても海軍兵学寮(明治9年に海軍兵学校に改称)についても特に文献的根拠を示していない。そこで、両校におけるフットボールに関する文献を紹介し、何が記述されているかを示してみたい。

☆ 工部大学校

 工部大学校の基本史料に東京帝国大学五十周年記念として刊行された旧工部大学校史料編纂会編『旧工部大学校史料』(虎之門会,1931)があり、『旧工部大学校史料・同附録』(青史社,1978)として復刻もされてる。『旧工部大学校史料』中の「運動」という項目は、一、歩兵操練 二、フート・ボール 三、遊泳術 四、シンチー 五、テニス 六、クリッケット 七、ベースボール 八、ボートレース からなり、「二、フート・ボール」は以下のように記述されてる。

“フート・ボールハ明治七年大和屋敷ノ頃ヨリノ唯一ノ運動トシテライメル・ジョンス氏之ヲ指導シ虎ノ門ヘ移転後モ引続キバー氏ヤマーシャル氏ガ更ニ指導者トナリ。明治十五年頃ニ於テモ運動中最モ盛ナルモノナリシ、規程モ至極簡単ニテ二班ニ分レ蹴ルノヲ主トシテ行ハレタリ。”(p.184-185)

これがライメル・ジョーンズ氏-工部大学校-1874年起源説の“証拠文献”だと考えられる。

 復刻本の『旧工部大学校史料・同附録』の「附録」は工部大学校OBの回想で、曽根達蔵(国指定重要文化財・慶應義塾図書館旧館の設計者 工部大学校でジョサイア・コンドルに学ぶ)の「工部大学の思ひ出話」によれば、

“工部大学校の測量学の教師はライマー・ジョンスと云ふ英人であって特に工部大学校設立の為めに英国より聘せられたるにあらずして以前より工部省測量司の御雇測量士であった。従て他の教師と違ひ資格と学力も下位だったのである。”(p.77-78)

“ライマー・ジョンス”は測量技師だったことがわかります。また、工部大学校における技術教育を研究している北政巳氏の「工部大学都検ヘンリー・ダイヤー」『ザ・ヤトイ : お雇い外国人の総合的研究』(思文閣出版,1987)p.292-313によれば、

“当初、工部大学校の予科で数学を教え、のち本科の機械・測量学インストラクターに移籍したジョーンズ(R.O.R. Jones)はケルヴィン卿の知己の土木技師の息子であった。”(p.303)

ケルヴィン卿はグラスゴー大学教授。工部大学校の都検(principal)すなわち校長のHenry Dyer(1848-1918)もグラスゴー大学のOBで、工部大学校はグラスゴー大学を中心とするスコットランド人脈を中心に運営されており、Jonesもスコットランド人の一人だったようだ。Jonesの名は 『御雇外国人一覧』(中外堂,1872) 測量技術教官助役として、 『工部省沿革報告』(大蔵省,1889) に測量学兼小学教頭として記載されている。

北氏によれば、

“またダイアーは全人的教育を訴え、「本校ノ目的タルヤ徒ニ読書ヲスル学生ヲ養成スルニ在ズ」とし、スポーツを奨励した。彼自身が日本人に初めてフットボールを教えた先駆者であることも有名であるが、明治11年の学則には体操科目に競走・競漕・水泳など12種目、余暇科目にゴルフ、ラグビー、フットボールなど14種目をとり入れた。そのような全人的教育を通じて、ダイアーは工部大学生に「エンジニアは真の革命家であり、有益な市民となり、同胞の物質的・精神的福祉を向上させる人となる」ことを求めた。”(p.299)

ということで、工部大学校におけるフットボールはJonesが趣味や遊びで教えたのではなく、“体育”の一環として行われた。工部大学校の公式文献である 『工部大学校学課並諸規則』(明治18年4月改正) の第六章が「体操」で第三節に “「フートボール」「クリッケット」「ラオンドルス」「ベースボール」等ノ遊戯モ亦タ之ヲ為ス。”に と記されている。第六章体操の全文は以下の通り。

“第六章 体操

第一節

学校所属の遊歩地ヲ以テ体操運動ノ場所トス。場内体操術ニ要スル装置ヲ設ク。

第二節

第一年乃至第四年生徒ハ晴天ノ日ニ於テ午後四時ヨリ五時ニ至ルノ間此場内ニ出テ体操教員ノ指揮ニ従ヒ体操運動ヲ為スヲ要ス。

第三節

「フートボール」「クリッケット」「ラオンドルス」「ベースボール」等ノ遊戯モ亦タ之ヲ為ス。

第四節

体操ニ於テ優等ノモノハ賞典ヲ与フ。

第五節

体操運動ヲ怠リ出席三分ノ二ニ満タザルモノハ正課中ノ賞典ニ於テ失フ所アルベシ”

第五節により、「体操」が必修だったことがわかる。「ラオンドルス」とはRoundersのこと。

 「フートボール」の内容については、『旧工部大学校史料・同附録』の「附録」に以下の記述がある。古川阪次郎「工部大学に於ける運動其他」には、

“・・それから上の組の頭が玉木弁太郎君及田辺朔郎君であったと記憶して居るが、玉木君は丈が高い(後には肥ったが)ので、フットボールの時分には、いつでも玉木君がゲートキーパーであった。”(p.137)

とあり、門野重九郎「工部大学に於けるスポーツ」には、

“四、フートボール
 此のゲームは溜池運動場にて盛なりしが今日のアッソシエーションの前身とも云ふべく其のルールも至って簡単にして今日の如く前営、中堅、後営などと確然と定まった陣営も無く唯早く球をゴールに蹴込むに勉めたるものなり。”(p.142)

とあって、アソシエーション式すなわち「サッカー」であったことがわかる。

☆ 海軍兵学寮

(続く)

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