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2002年9月19日~2002年11月7日

(02/11/7)
人物情報 日奈子実三
『大分県百科事典』(大分放送,1980)では、

日奈子実三(1893-1936)
 臼杵町(現臼杵市)に生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻科卒、在学中より朝倉文夫に師事す。1919年(大正8)第1回帝展に「晩春」が初入選、第2回帝展に「廃墟」が入選、老人をモデルにした内面的追及と着実な技法が特に高く評価された。やがて現状に満足できなかった日奈子は斉藤素厳らと構造社を結成し、新しい作家活動に専念した。これが1926年(大正15)でその作風は反骨精神に満ちていた。後には師朝倉文夫とも対立することにもなったが、それは日奈子の作家的成長をうながすことにもなった。1927年(昭和2)にはパリ留学を果たし、建築と彫刻の調和をめざす新しい仕事は注目された。1935年(昭和10)帝展改組の時、第3部会を結成し、後国風彫塑会と改称された。常に在野で活躍したが43歳で没した。

『近代日本美術事典』(講談社,1989)では、

日奈子実三(一八九三-一九四五)
 明治二六年(一八九三)大分県臼杵に生まれる。大正七年東京美術学校彫塑科を卒業。朝倉文夫に師事。八年第1回帝展に「晩春」で初入選し、以後官展に出品を続ける。昭和三年斎藤素厳(そがん)らと構造社を創立。翌四年外遊。八年帝展無鑑査となる。帝展改組に際しては同志とともに第三部会を組織する。このころから展覧会芸術に疑問を持ち始め、裸体による象徴的作品よりも時局に適したモニュメントやメダルに力を注ぎ、「上海陸戦隊忠塔」「八紘之基柱」などの作品を制作して注目された。一五年第三部会が国風彫塑会と改称されるに伴い同会会員となる。人物を基本的モティーフとした塑像を得意とし、これに建築的構想を組み合わせ、時局がら陶磁を素材として多用した。昭和二〇年(一九四五)四月二五日、特攻隊遺族に贈る額の制作中、脳膜出血により急逝。

没年が全然違うが、記述が具体的なので後者の方が正しいようにも思えます。『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)では「図案界の雄」と紹介されていましたが、彫刻が本職だったようです。「上海陸戦隊忠塔」「八紘之基柱」が代表作だと後世に名を残すにはツライものがあります。JFAのシンボル・マークが最も著名な作品として残ったのは、本人としても心外だったのでは。


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(02/11/6)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
に解説、小見出しをつけ、脚注を増やし、完成しました。昔の面白い文献を「復刻」できればいいんですが、フットボ-ラーは長生きな人が多い、というより平均寿命が80歳近いので、著作権切れ(没後50年)という文献はほとんどないわけです。竹内氏も正確な没年はわからないのですが、戦没されたという文献があったので、それを信用することにしました。現在『体育と競技』誌のサッカー関係文献索引を準備中です。


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(02/10/28)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
に脚注をつけました。プロ・サッカーの観戦記なのに出てくる人名は日本人が多く、選手の人名が出たのはオリンピックで対戦したフロシーとルカテリーのみ。竹腰重丸のマジック・マジャール観戦記(02/4/25参照)もそうなんですが、ポジション名で表記されていて、プスカシュですら名前がでてきません。最近の人物本位すぎるサッカー記事にもうんざりしますが(戦前の記事のほうが清新に思えることもある)、プロ・サッカーの観戦記は人名を少しは出してほしかった。竹腰、田辺のイングランド、竹腰のドイツ-ポーランド戦の観戦記は探したましたが、見つかりませんでした。竹内が書いているように、当然『蹴球』あたりに掲載されてもよさそうなもんですが。


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(02/10/25)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介
のテキストを最後までアップしました。風邪をひいてしまい、家にいてもすることがないので。

イングランド対スコットランドのリーグ選抜対抗戦を観るために、わざわざリバプールまででかけています。スリーバック(WM)システムの特徴を的確に把握しています。イタリアがなぜイングランドに勝てないのか疑問を呈していますが、戦後(特に70年代)まで長生きされていれば、と思います。以前にも紹介したのですが、日朝サッカー比較論の部分が興味深いです。文中の金君とは戦後韓国代表監督も務めた金容植氏。朝鮮のサッカーというとスタミナ、スピード、当りの強さが特徴という印象がありますが、じっくりキープしてパスを廻しながら攻撃するという、ラテン的とでも表現すべきサッカーをしていたようでもあります。


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(02/10/24)
イングランド編の最初の試合
サザンプトン対トッテナムの部分をアップしました。現在はプレミアにいる両チームですが、当時は2部だったようです。場所は記されてませんが、わざわざサザンプトンまででかけるほどの試合でもないので、多分ロンドンでトッテナムのホームゲームを観たのでしょう。「滋味全然なし」「激しさと速さのみ(妙な速さ)」「ミス頗る多し(素人臭いミスなり)」などと酷評しています。スライディング・タックルは昔からイングランド名物だったんですね。そういえば、サザンプトン、トッテナム、そしてアーセナルは、私の記憶(←あてにならない)では皆戦後来日してますね。竹内氏が戦没されなければ、きっと感慨無量だったのでは。

竹腰、田辺(監督ではなく役員)、斉藤については本日誌02/5/4を参照されたい。濱田式ヘッドとは何を意味するのか不明ですが、慶応主将でCHだった濱田諭吉氏のプレーをさすものと思われます。


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(02/10/23)
昨日に続いてベルギー編
をアップしました。竹内はおそらくイタリア、チェコ、ベルギーの国内リーグ戦を観戦した最初の日本人でしょう。これで前半の大陸の部が終わり、次回からイギリス(イングランド)になります。現在はイタリア、ベルギー、イングランドには日本人選手がいるわけですから隔世の感がします。隔世といっても実際66年前の話なんですが。アップが終ったら、解説、脚注、そして小見出しもつけたいと考えています。


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(02/10/22)
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介(未完)
チェコ編をアップしました。プラハで国内リーグ戦2試合とチェコ対ドイツの国際試合を観戦しています。2年前のW杯1934年イタリア大会の優勝はイタリア、準優勝チェコ、3位ドイツ、4位オーストリアなので、イタリアからチェコに廻り、チェコ対ドイツを観るというのは理にかなった観戦ルートといえます。チェコはいわゆるダニューブ・スクールに属してショートパス戦法をとっており、日本のお手本になるべきチームだったはずですが、ドイツ戦では本領を発揮しなかったようです。

繰り返し述べられているヨーロッパのプロサッカーと日本サッカーの比較は観察眼鋭く、80年代半ばくらいまでならそのまま通用したような内容です。

 「特に目に着くのはプロのゴールシュートの巧さです。後方から相当のスピードのパスを貰い巧みにドリブルシュートする巧さ、其の間のレシーブとドリヴルの間が滑か且つ速く、本日の試合の得点の大部分は持込シュートでありました。敵の一寸した隙にボールを送らせダッシュしミートしシュートする巧さ。日本のフォワードはこの技術が最も練習さる可きでは無いかと思います。」

というのは現在でも通用しそうです。


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(02/10/21)
日奈子実三
は日本代表(JFA)の八咫烏のエンブレムをデザインしたグラフィック・デザイナーです(02/5/27参照)。竹腰家のことを調べてみようと戦前の臼杵の郷土史誌『臼杵史談』をめくっていたら、日奈子が臼杵史談会に寄付したという記事がありました。日奈子も臼杵の出身なのかもしれません。東京高師の内野台嶺が中心になって発案したものを日奈子が図案化した、と『日本サッカーのあゆみ』にありました。図案が採用されたのが1931年、1929年に竹腰重丸はJFA理事になっているので、同郷のよしみで日奈子に橋渡ししたのは竹腰かもしれません。

新田純興氏はベルリン・オリンピック当時のJFA財務担当理事です。資金作りのため日本最初の代表グッズ手ぬぐいと浴衣地を販売したことが『蹴球』と『日本サッカーのあゆみ』に出てましたので、先日新田家を訪問したとき、まだお持ちですかとうかがったところ、あったのだけれど戦災で焼失したとのこと。戦前の練成合宿記念に作成された皿ならあるということで、実物を拝見しました。


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(02/10/19)
『体育と競技』
『続五高サッカー史 龍蹴会物語』(1981)を追加しました。

『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』(1977)に堀江忠男が文理大の『体育と競技』にCharles Buchanの『Football aids』の翻訳を連載していた、とありました。調べてみると同誌1934年3月~1936年3月にわたってほぼ2年間連載しています。タイトルは最初は「フットボーラーのために(シー・ブッチャンの原著から)」「チャールスバカン蹴球指導」など号によって変っています。バカンの本は『蹴球』でも岩崎玄が同じ頃連載していたはずです。従って、チャールズ・バカンの名は戦前のサッカー界では相当親しまれたと想像できます。慶応によるオットー・ネルツの『Fussball』の翻訳もこれより少し前で、この時期には本場の指導書、戦術書を原書で研究する段階に達しています。バカンもネルツもピラミッド・システムなのですが、デビッド・ジャックの『Soccer』(1934)になるとWMシステムになります。

『体育と競技』は東京高師(後東京文理大)にあった大日本体育学会編、目黒書店発行、創刊は大正11(1922)年3月で、この誌名で昭和15(1940)年12月まで続きます。1980年代に第一書房から復刻されています。日本サッカーの総本家東京高師が関係していただけにサッカー関係記事は豊富です。


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(02/10/18)
追加しました
『フットボールと北陸』(1973)、『明星サッカー六十年史』(1973)を追加しました。


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(02/10/17)
竹腰重丸自伝
『昭和40年(1965年)東京教育大学サッカー部誌 阿部三亥先生追悼号』(1965)、『ボールと足と頭』(1969)を新規収録しました。後者は毎日新聞1967年4月2日~4月13日にかけて10回連載された「対談閑話」というインタビューを竹腰の藍綬褒章受章に際して関係者がパンフレット化したもの。毎日新聞縮刷版でも読めることは確認しました。自伝に準じた資料というべきでしょう。
彼は大分県臼杵出身で臼杵中学から大連一中に転校し、そこでサッカーを始めるのですが、その経緯については、

「偶然みたいなものですが、中学の二年のときでした。大正八年に母親が死んで、大分県で小学校長をやっていた父親が、ノイローゼのようになり、夏休みに父親の妹の嫁入り先の大連に、父親について遊びに行ったのです。そこに居つくことになり、大連一中の二年に編入されました。」

彼の母親は家老の娘だった人で、大変厳しい家庭教育を受けたようです。

「もうひとつは“負けずぎらい”でしょう。これは母親の影響です。母親は遠城寺という家老の娘で、きつい人でした。小学校のころ、けんかして泣いて帰ったりしたらたいへんでした。「そんなことでサムライの子か」と家へ入れてくれませんでした。だからけんかして泣かされても、川で顔を洗って帰るようになりました。そういうキツイ教育で“負けずぎらい”になったのでしょう。」

竹腰によれば、当時の臼杵は表札に「士族何某」と書いてあるような土地柄で、臼杵時代は剣道をやっていたそうです。 


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(02/10/16)
追加しました
『昭和52年度広島中学校広島第一中学校鯉城高等学校広島国泰寺高等学校サッカー部誌 創立百周年記念号』(1977)、『東蹴六十年史草稿』(1977)を新規収録、『北大サッカー部50年史 1923-1975』(1977)、『早稲田大学ア式蹴球部五十年史』(1977)の内容紹介を追加しました。1977年は古豪サッカー部が創立50周年を迎えたこともあって部史が多く刊行されています。

最初のものは01/7/2付けで記したように『高校サッカー60年史』(1983)の参考文献に『鯉城蹴球団創立百周年記念誌』としてあげられていた謎?の文献。上記書名で国泰寺高校サッカー部が所蔵していると教えてくださった方がいらっしゃいましたが、まさか現物を拝見できるとは。アマチュア時代を通して常に日本サッカー界の主流であった早稲田の部史も一度目を通しておきたい文献でした。

『東蹴六十年史草稿』によれば、山田午郎の父は二本松少年隊(会津白虎隊の二本松版)の生き残り。戊辰戦争で土佐藩参謀だった野村正二郎(養子ですが)の祖父とは仇敵だったことになります。山田は安達太郎というペンネームを使用していた時期があり、福島県中通り地域の出身だろうと推定してたのですが二本松出身、この人も士族の出なんですね。 02/9/6で記した「日本最初のサッカー・リーグ」に関しては特に記述はありませんでした。1917年当時「秋から冬にかけて、青師・豊師・東高師・英国大使館・埼玉師などと試合したが一つの黒星もなかった。」という記述ならありましたが。同書に新田純興氏も寄稿しているのですが、それによると『ア式フットボール』(東京刊行社,1925)の著者ウイリアム・フェーゲンは東京高師附属中の先輩にあたるそうです。 


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(02/10/15)
故・新田純興氏旧蔵書
を拝見する機会に恵まれました。ちょうど先週の『マガジン』のコラムで牛木素吉郎氏がW杯成功の「井戸を掘った人」としてあげた3人(他は野津謙、藤田静夫)のうちの一人。日本で最初にW杯を紹介した「本」を書いた人物。日本サッカー史の正史『日本サッカーのあゆみ』(講談社,1974)編纂の中心人物。その原稿や写真も保存されていました。JFA創立時から関係し、『蹴球』が創刊された1931年頃、実現はしなかったが、氏を中心に創立10周年史がそのころ企画されていたことが、当時の『蹴球』誌に記されています。

田辺文庫訪問以来の大収穫で、新発見がたくさんありすぎて一度に書ききれません。田辺文庫同様献呈本が多く、金にあかしてかき集めたのではなく、本の方が人を慕って集まってきた、という感じがします。

氏の長男純弘氏は日本最初のW杯ツアー参加者(’66イングランド大会)。決勝の席は西ドイツのゴールラインの真横で、「疑惑のゴール」を見ることができたそうです。


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(02/10/10)
久しぶりにメニュー追加
竹内悌三著「欧州の蹴球」全文紹介(未完)を追加しました。かなりの長文なので、少しずつアップしていきたいと考えています。著者はベルリン・オリンピック代表主将で、オリンピック後、サッカー・シーズン・イン直前に帰国した日本選手団と別れ、単独でヨーロッパ各地でサッカーを観戦しています。戦前ヨーロッパのプロ・サッカーの観戦記を残した人は他にもいますが、この観戦記がユニークなのは、
1)著者は現役選手。オリンピックで対戦したイタリア代表選手をセリエA開幕戦で観たりしています。試合内容の分析はかなり突っ込んだもので、日本チームの今後の指針となるべきものを意識しています。
2)著者は最後にイングランドに渡るのですが、そのことにより大陸系サッカーとイングランド系サッカーの特徴を比較することになります。サッカーにも国別の「流派」があり、そのことを具体的に観戦記として記述したのはこれが最初だと思います。

まず最初は日本最初のセリエA観戦記。Ambrosianaとは聞きなれないチームですが、実はインテル・ミラノのこと。その国際主義的な名称がムッソリーニのお気に召さず、ミラノの古名に改称させられたそうです。前座試合のハーフタイムにファシストの行進があったりして、時代の雰囲気を感じさせます。隙の無い試合運びや観衆の「人なだれ」は昔も変わりませんね。

私が知る限り、戦前にヨーロッパのプロ・サッカーを観た日本人は1931年イギリス留学した斎藤才三、1936年ベルリン・オリンピック後の竹腰重丸、田辺五兵衛そして竹内悌三、1938年W杯フランス大会前のFIFA総会にJFAから派遣された野村正二郎、島田孝一なのですが、1928年アムステルダム・オリンピックを後に第4代JFA会長になる野津謙が役員として観戦し、ついでにヘルタ・ベルリンの試合を観戦しているようです。アムステルダム・オリンピックのサッカーの決勝はウルグアイ対アルゼンチン(ウルグアイが優勝)なので、野津は南米サッカーを観た最初の人物という可能性もあります。


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(02/10/8)
師範学校の明暗
日本最大のサッカー専用競技場をもつサッカー王国埼玉にサッカーを伝えたのは、やはり東京高師OBの細木志朗で、明治41年埼玉師範に赴任。細木は日本で2番目に出たサッカー専門書『フットボール』(明治41年)の著者の一人。兵庫県出身(柏原中)なので、神戸一中や御影師範に来てもおかしくない人物だが、後に愛知県刈谷に転任し、そこで刈谷中学を東海の名門に育て上げる。刈谷中OB河本春男が神戸一中を全国制覇に導くことになるので、出身県のサッカー王国化に間接的ながら貢献したことになります。
戦前からサッカー王国といわれたところは、師範学校附属小学校を中心に学童サッカーが盛んで、当然指導者は師範学校蹴球部OBということになります。昭和12年埼玉師範は決勝で神戸一中を破り、関東(東日本)の学校として初めて全国制覇しますが、その前年の昭和11年戦前のサッカー王国兵庫県を支えた御影師範の蹴球部が廃部されます。埼玉県や静岡県(堀田哲爾氏は静岡大教育学部出身)が戦前の師範学校蹴球部の伝統を引き継ぐことができたのに対し、兵庫県ではすでに戦前に学童サッカー指導者の供給源が断たれてしまっています。1951年アジア大会代表17人のうち神戸一中OBが10人と、戦後も外見上はサッカー王国が続いているように見えますが、戦時中の空白が王国の寿命をながらえさせただけのこと。以後代表にしめる兵庫県出身者は減少の一途をたどります。
戦後の6・3・3制への学制改革は、学童サッカーと旧制中学の伝統を引き継ぐ高校サッカーを中学校で分断することになります。指導者の層が薄い地域は中学校に指導者を得なかったり、そもそもサッカー部がなかったりして、高校サッカーも弱体化します。埼玉、静岡、広島では比較的指導者層が厚く、浦和や藤枝のように学童→中学→高校と一貫指導できる地域があったことが、戦後のサッカー王国化に大きく貢献したはずです。堀田氏の清水のように旧師範・教育学部の人脈を生かして、進路指導など教育行政にサッカー関係者が影響力を行使できるようになった地域すらあります。
戦前のサッカー王国兵庫の没落と埼玉・静岡の興隆の差は、旧師範学校の伝統を継続しえたか否かに主たる原因があると思います。


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(02/10/7)
追加しました
『第12回全国中学校サッカー大会』(1981)、『サッカー親善訪問の旅』(1985)、『創立20周年記念誌』(1986)、『10年のあゆみ』(1989)を追加しました。


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(02/10/6)
追加しました
『輝く埼玉サッカー75年の歩み』(埼玉県サッカー協会,1983)を追加しました。1547pもある大部の著作で、サッカー王国の歴史は盛りだくさんです。
旧制浦和高校のところに、同校OBでベルリン・オリンピック代表主将竹内悌三氏は戦没された、とありました。刊行後ならびに同氏逝去後50年以上を経過し、著作権上問題はなさそうなので、02/2/26,02/4/15,02/4/19, 02/4/23で紹介した同氏による「欧州の蹴球」を本HP上で全文を紹介してみたいと思っています。


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(02/10/3)
御影師範のチョー・ディン
チョー・ディンはベルリン・オリンピックの監督鈴木重義やコーチ竹腰重丸を指導した、戦前の日本サッカー界に
大きな影響を与えた人物です。ビルマからの留学生で、関東大震災で学校が暇になったのを機会に、各地を巡回指導していたようです。御影師範に来たときの様子を豊島梢「怖い蹴球の柔術 チョー、ディンさんの蹴球談」(『運動界』4巻9号 1923.9 p.127-129)が伝えています。

 炎暑赫々として屋上の鬼瓦は火でも吐きそうな暑い七月中旬でした、御影師範学校へビルマ人チョーディン(Kyaw din)氏が蹴球のコーチに来られたと云ふので早速訪ねてみました、・・・小学校時代の思ひ出話から戦争中エジプト、メソポタミヤ等で英国の連合ティームを破った得意の話を随分長い間きかされました。

ディンは第一次大戦中英軍の一員として従軍していたのかもしれません。

「ビルマは其んなに強いのですか」
「私は強いと思ひます、ビルマの強いのはどうしたら強い英国ティームを破ることが出来るかと其ればかり研究して居るからで「蹴球の柔術」といったものは本当に進んで居ます、英人とビルマ人は身体に差があるから斯うしたものを考へたのです、過日支那ティームの対比軍の時に用ひた手(一人は病院に、四人はキックが出来ない様にされた)は一番やさしい怪我の少ない手です、柔術で永久にグランドに立てなくする手はたくさんにあるがビルマ人は知って居ても決して用ゐない、だからビルマ人は紳士だ、相手が非紳士的に来た場合はレフェリーにわからない様に用ゐます」

なかなかのマリーシアの持主だったようです。当時極東大会の中国-フィリピン戦は遺恨試合でラフプレーが続出していました。「御影師範はキックが上手ですか」の問いには、

「日本のフットボーラーの中には足とボールがぶつかればキックだと思って居る人が居ます、キックは
 Toe kick
Instep kick
The front side kick
The back side kick
の四つあって皆使ひ処がちがひます、キャプテン井上さんのキックは好いです本当に上手です」

と答えています。6日間のコーチングは、

「御影は一人一人は割合に上手です、然しフットボールは一人で出来るものではなくてコンビネーション (Combination)を必要とします、大切なこれが欠けて居た上にデフェンス(defence)のポジションもわからなかった其れ故に、
 第一日には キック四種とヘディング
 第二日には 一人一人に就いてタックリングとコンビネーション。
 第三日以後は以上のものをトレーニング(Training)して悪い処をなほした(Feeding, Passing)はどんな風に使ふかも理解してくれたので本当に嬉しく感じて居ます。
秋の大会迄練習を続けたたら
 I have every confidence that Mikage boys will do very well in this years townament(ママ), in fact I think although they are young boys, they will beat the strongest team in kansai.」

とニッコリ笑って答えたとのこと。目的別によるキックの使い分けやタックリング、コンビネーションの重要性は彼の著書『フットボール』(1923)でも強調されています。ライバル神戸一中がこのときディンを宝塚に観劇に誘って、待機していた部員を指導させたという秘話もあります。


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(02/9/26)
またURLが変わります
10月1日からURLがhttp://fukuju3.hp.infoseek.co.jp/に変更になります。


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(02/9/19)
水田稲作農業vs畑作農業
日本にヨーロッパのような個性的なストライカーが育たないのは、農耕民族と狩猟民族の差である、というような文章を散見しますが、アルタミラに洞窟壁画を描いていた時代ならともかく、ヨーロッパが日本の有史以前に畑作農業時代に入っていたのは間違いありません。
水田稲作農業と畑作農業の違いが共同体の意識構造に大きな差異をもたらしたことを見事に説明した本があります。
『米が金・銀を走らせる 江戸史講義』(朝日出版社,1985)は日本(江戸期)経済史の泰斗大石慎三郎と作家津本陽の対談、主として津本の質問に大石が答える形で進行しています。

(大)...歴史の上では、生活を支えるための生産が非常に大きな意味を持つ。そういうような観点から見ました場合には、西洋は畑作農業ですね。そして日本は水田稲作農業です。生活の基盤を畑作農業の上に置いたか、または水田農業の上に置いたかということが西洋と東洋を分ける上で決定的に大きな問題になってきます。

(津)畑作農業と水田農業とでどう違ってくるんでしょうか。

(大)畑作農業というのはわりあい簡単な農業でして、木などを焼き払うとか、切り倒すとかして、そこに畑をつくるわけですね。そういうような労働はわりあい単純にできるわけですね。しかし、稲作農業の場合はそう単純にできないわけです。どうしてもまず用水をつくらないといけない。

(津)ああ、なるほどね。

(大)用水というのは個人ではできないので、どうしても一定以上の人間が力を合わせなくてはいけない。生活の基盤を得るための農業生産の上で、畑作農業をやった場合には、わいあい個々人が自由にやれるというような側面があるのに対して、水田稲作農業というのは絶対に個人じゃダメなんです。そうしますと農民の集団の結合状態が決定的に違ってきます。畑作の場合ですと、せいぜい山の中から猪やら鹿が走り出てくるのを、みんなで垣根でもつくって防ぐとかいうようなことぐらいが大きな問題で、日常的には共同生活をする必要というのはあまりないんです。

(津)なるほど。

(大)水田稲作農業をやっておりますと、まず村全体をまかなうような大規模な用排水路をつくらなければならないので、みんなが力を合わせてやらないと農業というのはできないわけなんですね。

(津)共同作業が必要になるわけですね。

(大)そうしてきますと、いわゆる村を組織する場合の組み立て方ですね、これを普通、学問的には共同体と言うんですが、共同体の組み立て方が全然違ってくるわけですね。といいますか、結合のかたさが違ってくるわけです。水田稲作農業の場合、非常にかたい共同体の組み立て方をしなくてはいけないわけですね。一人や二人、それに反逆するようなやつが出ると、これを何とか封じ込めなくてはいけない、村八分だとかいうような個々人の生活を規制する外的な規制が出てくるわけですね。

(津)そうですか。

(大)ですからある百姓が一人、非常に先進的な農業を実験しようとしても、水田というのは、田んぼが百ありますと、百の田んぼに一から百までの番号を打ったようにしか水は通らないんですね。そうすると、七十五番の田んぼを持ってる人が、六十五番の田んぼを持ってる人よりも先に、たとえば自分は裏作をやりたいからと言って水を引っ張ってきて田植えをするということはできないわけですね。ですからどうしても、そこを構成する人間を全体として規制するという力が強くなります。畑作農業の場合にはそういうものがないですから、とにかく個々人の創意工夫だとかいうものが非常に生かされる。いわゆる近代化への方向というのが非常に強く出てくるわけなんです。

柳沢のような自己犠牲的ストライカー?がいたり、野球で送りバントが必要以上に尊ばれるのも、これみな水田稲作農業の産物なんでしょうか。そういえば、張芸謀監督の諸作品にでてくる中国の畑作農民のキャラクターは自己主張が激しいですね(例:『秋菊の物語』)。どうも「近代化」とは関係なさそうですが。

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