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戦前の日本サッカー関係者が参考にした洋書

-はじめに-

 他の近代スポーツと同様「舶来」の競技であるサッカーの文献では、明治時代から参考図書として洋書があげられている。昭和期になると大日本蹴球協会機関誌『蹴球』が創刊(昭和6=1931年)され、文献紹介記事なども掲載されている。幸いなことに、現在までに刊行された最も網羅的なサッカー関係文献の書誌、Peter J. Seddon編『A football compendium : an expert guide to the books, films & music of association football. 2nd ed.』(British Library, 1999)が手元にあるので、その解題と対照しながら、世界サッカー史と日本サッカー史のシンクロナイズを文献的に辿ってみたい。

☆明治時代

 日本最初のサッカー専門書は東京高等師範学校フットボール部編『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂,1903)だが、その3年前に刊行された三井末彦著『フートボールと自転車』(博文館,1900)では人員の配置はフート・ボール・アソシエーション書記ダブリュアルコック氏によるとある。Charles William Alcock(1842-1907)は1870年~1895年にわたってFAのSecretaryの地位にあった人物。名門パブリック・スクールのハロー校出身で『Sportsman』紙副編集長、サッカーとクリケットに関する著作が多数ある。サッカーではFAルールへの標準化、FAカップの創設を発案(1872年の第1回FAカップは彼自身がキャプテンだったワンダラーズが優勝)など、世界サッカー史上でも重要な役割を果たした人物である。Roger Macdonald 著『写真で見るサッカーの歴史』(ベースボール・マガジン社,1982)には彼の肖像写真付きで実績が紹介されている。彼はまた、1873年度から亡くなる年(1907/8年度)まで『Football annual』を編集し続けた世界最初のサッカー・ジャーナリストでもあった。三井が彼のどの本を参考にしたかは不明だが、在日外国人から資料を借りてサッカーとラグビーの解説書を書いたのかもしれない。

 日本最初のサッカー専門書、東京高等師範学校フットボール部編『アッソシエーションフットボール』(鐘美堂,1903)には参考書が明記されている。誤綴も含めてそのまま転記すると、

1) Charles G. B. Marriott and C. W. Slcoock. Foot ball.
2) C. W. Slcoock. Association foot ball.
3) John Goodall. Association foot ball.
4) Foot ball who's who.

 『A football compendium』をみると、1)は『Football : the rugby union game / C. J. B. Marriott; the association game / C. W. Alcock』( 1894)だと考えられる。出版社は記されていないが、シリーズ名は『The 'Oval' series of games 』とのこと。Marriottがラグビー、Alcockがサッカーの部分を執筆したようだ。さすがに本場イギリスといえども、19世紀中に刊行されたサッカー本は本書を含めて30点ほどしかないなので、サッカーとラグビーの両方を紹介しているところをみると、上記三井の著書も本書を参考にしたのではないかと考えられる。『東京教育大学サッカー部史』(恒文社,1974)の扉写真に本書の写真が掲載されている。Webcat Plusでも筑波大学所蔵を確認できるが、書名は『The rugby union game / by Charles J.B. Marriott . The association game / by C.W. Alcock.』になっている。2)は候補が2点ある。Charles W. Alcock著の『Football : our winter game』(Field, 1874)と『Footaball : the association game』 (George Bell, 1890)だが、出版年から考えると後者が本命だろう。3)のJohn Goodall著『Association football』(Blackwood, 1898) は解題つき。

Part instructuional, part historical coverage from one of the day's most prominent footballers. Goodall had been a member of the all-conquering Preston North End side in 1888-89, but was playing for Derby County when he penned this work. He was a pioneer of scientific football and the passing game and also played cricket for Derbyshire and Hertfordshire. such was his exemplary character he was known as Johnny Allgood! Certainly a valuable contribution to football literature and notable as one of the earliest examles of a work written by a leading plyayer of the day, described by comtemporaries as the first 'legend' of the professional game and more recently being rediscovered as such, as today's historians put football's history into shaper focus.

 著者は世界最初のプロ・リーグで優勝したプレストン・ノース・エンドの主力選手、クリケットでも活躍した万能選手、科学的サッカーとパッシング・ゲームのパイオニアと、非の打ち所のない経歴。本場でも本書の古書としての値打ちは高いようである。4)はH. R. Brown編『The football who's who, and guide to association clubs and players 』(C. Arthur Pearson, 1902/3-)のようだ。こんな観戦ガイドブックのようなものをを明治時代に読んでどうするのだ、という気もするが・・・

☆大正時代

 最初のサッカー専門書の5年後に東京高等師範学校蹴球部編で刊行された『フットボール』(大日本図書,1908)には参考文献の記載がない。日本でサッカーが本格的に普及するのは第一次世界大戦後、1920年代以降である。20世紀の最初20年は師範・高等師範学校中心の黎明期で、旧制高等学校、大学に普及し始めた1920年代から洋書によるサッカーの研究が盛んになる。20世紀初期に刊行され、1920年代以降までよく読まれたらしいのは、Bertram Saxellye EversとEdward Hughes Davies著『The complete association footballer』(Methuen, 1912)。竹腰重丸は本書を筆写したノートを持っていたとのこと。『A football compendium』の解題は、

This is the earliest truly comprehensive study of how to play the game - a weightly volume which may usefully be consulted by historians for an insight into the game in the early part of the century.

Goodallの著書同様、本書もサッカー史上の重要文献のようである。

 大正時代の代表的なサッカー本は佐々木等著『フットボール』(目黒書店,1922)、チョー・ディン著『フットボール』(平井武,1923)ということになろうが、両著とも洋書の参考文献をあげていない。

☆昭和戦前期

 昭和に入ると、日本サッカーの中心は大学になり、競技水準が向上するとともに戦術的な関心も高まる。また、1925年にオフサイド・ルール改正があって、ヨーロッパでも「戦術革命」がおこり、戦術的な研究・解説書が多く出版されたようである。1931年3月~1931年11月に『体育と競技』誌に連載された堀江耕造訳「ア式蹴球研究」は、Charles Buchan著『Association football』(Hutchinson, 1928)の翻訳。『A football compendium』の解題は、

The author started with Sunderland and Arsenal before contributing this work upon his retirement from the playing side of the game. Valued contribution from one whose experiences spanned both sides of First World War; Buchan went on to become a highly respected football journalist.

Charles BuchanはWMシステムを考案してアーセナル全盛時代を築いたHerbert Chapman監督の下でキャプテンを務めたインサイド・フォワード。WMシステムの特徴である、CHをバックラインに下げて敵CFのストッパーにするようChapman監督に進言したのは Buchanとのこと。但し、本書のシステムはWMではなく、ピラミッド・システム。解題にもあるように、『Charles Buchan's football monthly』の編者として、サッカー・ジャーナリストとしても大成功した。堀江耕造は浜松高等工業学校の英語教授で、ベルリン・オリンピック代表、早稲田大学ア式蹴球部監督堀江忠男の父。

 Buchanの著作は日本で人気があったようで、『Football aids』(Daily News, 1929)は2誌で翻訳連載されている。『体育と競技』誌1934年3月~1936年3月に堀江忠男訳、『蹴球』誌1934年10月~1937年9月に岩崎玄訳、いずれも数年にまたがる長期連載で、上記2誌の掲載時期も重なっており、「競訳」の形になっている。堀江忠男の自伝『わが青春のサッカー』(岩波書店,1980)によれば、堀江は中学(浜松一中)時代から本書を愛読していたとのこと。戦前にサッカーの翻訳書は刊行されていないが、Buchanの2著作は雑誌連載の形で翻訳されている。なお、本書のシステムもピラミッドであり、WMではない。『A football compendium』の解題は、

Buchan was a fine inside-foward who made a most effective contribution the so-called 'Lucky Arsenal' side created by Herbert Chapman in the late 1920s. This manual was written during his Highbury days.

Buchanが現役時代書き溜めたものを、引退後発表したようだ。

 Buchanと同様アーセナルの名選手だったDavid Jack 著『Soccer : experiences of the game with practical instruction on training and on play in each position』(Putnam, 1934)も日本のサッカー関係者に広く読まれたようである。「英国サッカーを語る」(『サッカー・マガジン』1971年7月増刊号)という田辺五兵衛のインタビュー(インタビューアーは賀川浩)で田辺は「ディビッド・ジャックだったかの書いた本を翻訳したことがある。中学を出てからだったと思う。そう高商(のちの大阪商大いまの大阪市大)へ入った年ですヨ。」と述べている。本書は賀川も昭和15年に神戸高商の先輩から借りて読んだとのこと。本書はWMシステムの解説書であり、特にその点が日本でも高く評価されていたようである。ベルリン・オリンピック代表コーチ竹腰重丸は、オリンピック後『蹴球』誌に掲載した「オリムピックの成果(一)」(『蹴球』1937年5月号所収)という報告中で「我々がDavid Jackの “Soccer”なる本で朧ろ気に概念的に掴むに過ぎず伯林到着後始めて実戦に使ったのに較ぶれば習熟の度合に於て雲泥の差と云はなければならなかった。」と述べているように、オリンピック直前にWM(3バック)システムに初めて遭遇する以前に、「書物による知識」としてWMシステムは、本書により既知のものであった。『蹴球』1935年4月号に矢島清次訳「ゴールキーパー論」として本書が部分的に紹介されている。『A football compendium』の解題は、

An extremely detailed study, well worth consultaion.

とそっけない。JackはBuchanと入れ替わりにアーセナルのインサイド・フォワードに入った。ボルトン時代すでに高評価を得ていた選手で、イングランド史上初の1万ポンドを越えるトレード・マネーでアーセナルに移籍した人物、イングランド代表主将。ホワイト・ホース・ファイナルとして知られる1923年のFAカップ決勝でキックオフ3分後に最初のゴールを記録した。この試合はウエンブレー最初の試合でもあったので、彼はウエンブレー初得点者としてもサッカー史に名を残している。Buchanと同様引退後サッカー・ジャーナリストに転進した。

 日本サッカーに圧倒的な影響を与えてきたのは母国イギリスであるが、昭和期になるとドイツ語圏の原著も読まれるようになる。慶應OBの島田晋著『アソシエーション・フットボール』(往来社,1931)の序文では「僕はこの本を殆ど独逸の国際代表ティームコーチ、オットウ・ネルツの著 “Fussball”に依って書いた。」と述べられている。 Otto Nerz 著『Fussball』(Weidmann, 1926)は、同じく慶應主将だった濱田諭吉が丸ビルの丸善で入手したものを部員が手分けして翻訳し、この本のノウハウによって慶應は戦前の全盛時代をきずいたとのこと。島田の著作は部に伝わったNerz著作のエッセンスをまとめたものであろう。原著は8分冊もある大著。Nerzはドイツ代表初代監督(専任化後)で、1923年~1936年代表監督を務めた。ちなみに彼の後任が1954年W杯を制したSepp Herbergerで在任期間は1936年~1964年、さらに3代目は1974年W杯を制したHelmut Schoenで在任期間は1964年~1978年である。戦後日本サッカーに多大な影響を与えたDettmar CramerはSchoenとともにHerbergerのアシスタント・コーチだった。

 同じく慶應の部員だった島田巽が『蹴球』創刊号(1931年10月号)に「蹴球に関する若干の文献」と題して部で所蔵していたサッカー関係の原書を紹介している。以下、島田があげている文献をリストする(Deutsche Bibliothekの蔵書目録データベースで出版年を補い、書誌事項を訂正したものがある)。まず解説書として、

1)Georg P. Blaschke著『Der Fussballsport』(Grethlein, 1920)
2)Georg P. Blaschke著『Wie erlerne und lehre ich das Fussballspiel』(Grethlein, ?)
3)Willi Knesebeck著『Wie wird Fussball gespielt?』(Franckh, 1923)
4)James Dimmock著『Association football』(Arthur Pearson, 1927)
5)Kelly & others著『How to play football』(Foulsham, ?)
6)Jerry Dawson & others著『Association football』(Link House, 1922)

4)と6)は『A football compendium』に解題あり。Dimmockの著作の解題は、

Includes a chapter on forming a football club. In the 1919/1920 Tottenham Hotspur scored 102 goals with only 32 in reply, losing just 4 out of 42 games to run away with the Second Division Championship. James Dimmock was a member of that side.

著者はトッテナムが1919/20年シーズンに2部優勝した当時の選手。Dawson他の著作の解題は、

Most interesting for the contributions by four stars of the day : Andrew Wilson, Scotland and Dunfermline centre foward ; Andy Ducat, Arsenal and Aston Villa player, famous as a cricketer-footballer double international, scoring over 23,000 runs for Surrey ; Jesse Pennington, legendary England and West Bromwich Albion full-back ; and Jerry Dawson, 522 League appearances as Burnley goalkeeper from 1906-1929.

4人の名選手の著作。

 次に研究書として、上記Nerzの著作とBuchanの『Association football』に加えて、

7)Willy Meisl & Carl Koppehel著『Das ABC des Fussballspiels』(Stalling, 1925)
8)Willi Kuesbeck著『Das Fussballspielers Trainingsbuch』(Hackebeil, ?)
Willy Meislは、戦前Herbert Chapmanと並ぶ名監督だったオーストリア代表監督Hugo Meislの弟。戦前の慶應はNerzやMeislのような中欧系サッカーの影響を強く受けていたようだ 。

 ルール・審判関係としては、イギリスの『Referees chapter』やドイツの『Neueste offizielle Fussballregeln』以外に、

9)Georg P. Blaschke著『Schiedsrichter Fibel』(Westermann, ?)

があげられている。 その他に参考書として、

10)W. Sanss著『Fussball ohne Aufrehmendes Balles』(Grethlein, ?)
11)F. Schmal & M. J. Leuthe著『Das moderne Fussballspiel』(Nikola, ?)
12)Richard Girulatis著『Fussball : Theorie, Technik, Taktik』(Reher, 1923)
13)Willy Meisl編『Fussball der Weltsport』(Fuessli, 1930)
14)Hayte Mayfield著『A book about football』(Epworth Press, 1926)

 興味深いのは、「蹴球小説」まで収集していることで、

15)Sydney Horler著『The ball of fortune』(Aldine, 1925)
16)Sydney Horler著『McPhee : prince of trainers』(Newnes, 1930)
17)Sydney Horler著『A pro's romance』(Newnes,1930)
18)Sydney Horler著『Goal!』(Odhams, 1920)
19)H. Lerch著『 Der Mitttelstuinner von Hollywood』(?, ?)
20)H. Lerch著『Der Fussballkonig』(?, ?)
21)H. Lerch著『Elf Fussball Jungens』(?, ?)

がリストされている。Sydney Horlerはスリラー作家として知られたようだが、1920年代にはサッカーを中心にスポーツ小説にも手を染めている。島田巽によれば慶應所蔵のものはすべてNewnes版になっているが、版や版元を変えていろいろ出ているようだ。16)と18)には『A football compendium』に解題あり。『McPhee』の解題は、

'When the Downside Football Club advertised for a trainer, the only applicant was an uncouth, angular being with woolen gloves, unbelievable hat and the general air of a non-conformist pastor. that man was Angus McPhee.' that is how readers are introduced to this character who was to become a popular regular in Horler's work and who was described by the publishers as 'the first real character in football fiction.'

『Goal!』の解題は、

This was the novel that made Horler famous. Furthermore, the publishers claimed for it the additional distinction of being the first novel written around professional association football. Horler become prolific in the field of popular fiction and went on to make football the central theme of many of his tales.

本書が「蹴球小説家」としてのHorlerの出世作のようだ。

☆むすびにかえて

 野球と違ってサッカーは留学生が普及させたという事実はなさそうだ。日本人が大勢ヨーロッパに留学したころには、すでにサッカーは「大衆のスポーツ」と化していたからであろう。1936年のベルリン・オリンピックで代表チームがヨーロッパ遠征するまで、本場ヨーロッパのチームとの対戦は在日外国人か日本に寄港する外国船のような一流とはほど遠いチームに限られていた。日本がFIFAに加盟(1929年)、極東大会で優勝(1930年)し、世界を目指したころ、「本場の真髄」に接するには丸善で原書を購入するしかなかったのである。

 また、日本のサッカーは、ルーツ校東京高師OBによって各地の師範学校、中学校に伝わったのだが、1920年代に入ってその中学生たちが進学して旧制高校や大学でサッカーが始まるとコーチの人材に事欠くようになる。そのとき、タイミングよくあらわれたのが、ビルマ人留学生チョー・ディンであった。ディンから早稲田の鈴木重義(ベルリン・オリンピック代表監督)や東大の竹腰重丸(同コーチ)に伝授されたショート・パス戦法が日本の基本的戦術になる。しかし、鈴木にせよ竹腰にせよ偶然ディンのコーチを受けることができただけで、日本で組織的なコーチ養成が始まるのは、戦後も約4半世紀たった1969年からである。従って、戦前高校以上のレベルでサッカーをしようとすれば「自学自習」が必須だった。

 もちろん、洋書を読むためには語学力が不可欠である。旧制高校のカリキュラムは語学中心に組まれていて、例えばドイツ語専攻だと週12時間ドイツ語、2時間英語、合計週14時間の授業があった。土曜日も含めて週6日、毎日2時間ドイツ語を学んでいたわけで、それだけ日常的に外国語に親しんでいたのである。

 日本が極東大会に初参加した1917年から僅か20年弱のベルリン・オリンピックで強敵スウェーデンを破るまでに、日本サッカーは急発展した。オリンピック直前のベルリンのクラブ・チームとの対戦で3バック・システムに初めて接したのは有名なエピソードだが、David Jackの著作を読んでいた竹腰コーチやCharles Buchanの著作の翻訳者であった右FB堀江忠男にとって、仰天するような新発見でもなかったであろう。それだけに、容易に新システムに適応できたはずである。戦前の日本サッカーの急成長の背景として、コーチや選手のインテリジェンスの高さがあったことが強調されてもよいと思う。

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