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内野台嶺著『蹴球思ひ出話』全文紹介

内野台嶺著『蹴球思ひ出話』は『体育と競技』誌11巻12号(1932年12月)p.128-131に掲載された、わが国サッカー史草創期の回想である。


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 近来蹴球の発達は頗る著しいものがあって誠に意を強うするに足るが、ひるがへってこの競技が我国に入って来た当時の事を省ると、実に幼稚極まるものであって、さながら隔世の感がある。そこでその当時の事から、思ひ出だすままに昔話を続けてみようと思ふのである。

 蹴球にとって何といっても忘れることの出来ない恩人は、もはや故人になった坪井玄道先生である。先生は長いこと東京高等師範学校に体操科の教授をして居られ、色々な体育や運動競技を我国に紹介されたのであって、いやしくも体育に従事される人で、先生の名を知らぬ者は恐らくあるまいと思ふのである。而して我がここに話さうとする蹴球も、実にこの坪井先生が我国に紹介されたものであった。

 自分が東京高等師範に入学したのは明治三十八年である。当時坪井先生は既に六十を越された御年配であったにかかはらず、何時も愉快さうにニコニコとして僕等の体操其の他の競技を指導して下されたのだった。頭髪は既にすっかり禿げてしまって居られたが如何にも童顔そのものの様な、ふくよかな顔つきで笑をふくみながらいかにも気軽に我々を指導して下された風貌は、二十何年後の今日に至るまで猶目の前の彷彿たるものがあり、なつかしく思はれるのである。

 我々国漢部の仲間は大体十九人であったが、その中でも体操の下手なのは僕だった。もっとも棍棒を振る段になると、そのまづい程度において、僕と匹敵するものに玉井君があって、二人は毎時間の様に先生からお小言を頂戴したのであったが、幸ひ二人とも蹴球部に属していた為に、特別寛大に取扱って下されたものと見へ、体操では落第点を取る様なこともなかった。そしてフットボールの競技については、特別の御指導にあづかってゐた。

 その当時、我東京高等師範学校にやうやく蹴球部が出来た。従って選手も出来、校内競技をやって居ったとはいふものの、大体において球を高く蹴るか、若くは遠く蹴るといふことをもって、最も得意として居った時代で、コンビネーションとか、ドリブルとかいった様な、所謂チームウワーク等はあまり問題にされてゐなかった。しかも当時一般の人は、勿論蹴球競技そのものを理解してゐるのではないから、これを見物するにしても、ただ高い球を蹴ったとか、遠い球を蹴ったとかいふことをもって、非常に之を喝采してゐたに過ぎなかった。そこで何とかしてこの競技を広く世間にひろめたいといふ所から、秋の運動会に、昼休みの一時間を利用して、運動場内の道具類をすっかり片づけて、大いそぎでラインをひき、競技をやってみせたのである。何しろあのせまい運動場のまはりに非常に沢山の見物人が居って、その中でやる位であるから、その競技の優長さは推して知るべしで、時たま見物人の中へ球がとびこめば、大喝采をされるといった滑稽なものであった。

 僕等が選手になるたる当時の蹴球部の先輩として、第一に思ひおこされるのは、これも故人となられた藤井重二氏である。この人は非常に大きな体格で、おまけに大分年配ではあり、堂々たる口髭をはやし、人より一倍大きい頭で、顔光は爛々として、見るから偉大な風格をそなへてゐた人であったがこの人はフルバックとして非常に遠い球を蹴るので、何時も球が藤井氏の所で蹴かへされると、満場やんやといふ賞賛が湧いたのであった。この人は卒業後母校の助教授かになられたと記憶してゐるが、不幸にして胸を病んで早く没せられてしまった。その他現在ではあちらこちらの校長になってゐられる人例へばこの間まで豊島師範校長であった桜井賢三氏や、福島県女子師範学校長の前田恒治氏や、兵庫県の淡路高等女学校の瀬口真喜郎氏や千葉県木更津中学校長の栗野信一氏や椙山女子専門学校の主事堀桑吉氏や、山梨県都留高等女学校長の渡邊英太郎氏や、その他これも亦すでに故人となられた石川文平氏などが選手中でも錚々たるものであったと記憶してゐる。

 かく運動会の種目の中に蹴球があって、これを世間に紹介することに努めたのみならず、坪井先生は体操の時間でも後半三十分をさいて、しばしばこの競技の練習を各クラスにさせる様につとめて下された。その結果、ともかくも相当世間に認められる様になったのであるが、当時日本人のチームとしては、我が東京高等師範以外には、関東では僅かに青山師範にあった位のもので、隋って対外競技といった所で、極めて微々たるもので、時々横浜等に出かけて外人相手にほんの練習仕合の様なものを行って居ったに過ぎない、もっとも東京の英国大使館あたりに一つのチームが出来て居って、それらとやったことも稀にあったし、その他ジョセフスカレッヂといふ外人の学校があって、その学生達と仕合をすることも多少はあった様に記憶してゐる。

 自分がこの様な先輩の間に選手として養成されたのは、入学して一学期程経て後であり、その後卒業する明治四十二年までは、ずっとずっと選手をつづけて来たのであるが、このあしかけ四年の選手時代に、我が高等師範の蹴球部といふものは著しい発展を遂げたものの如くである。僕等の選手時代、仲間としては次の様な人がいづれも現在は皆各方面に活躍して居られるので、その名前を列挙したならば、或は読者諸君に一般の興味があるかもしれない。

 一に名ゴールキーパーとして評判を博したものに、現在満鉄の調査所で活躍してゐられる新帯国太郎氏がある。新帯氏は博物科の人であったが、偉大なる体格の持主で、フォアワード乃至ハーフバック等ではあまり活躍されなかったが、ゴールキーパーとしては、当時横濱の外人でさへも舌を捲いた位なものであった。ランニング等は余り早い方でなかったが、ボールの動きに対して気を視る事が非常に早い人で、この人がゴールに居りさへすれば、球は大丈夫入りはしないといふ確信を、選手全体に抱かさせた程の名手であった。

 次にフォアワードとしえ最も傑出した人に、現に家政学院の教授をして居られる細木志朗氏がある。この人も博物科の人であったが、体はきはめてほっそりとして居って、一見いかにも弱々しく見えたにかかはらず、一度球を持たせると、その球さばきの巧妙なことは実に驚くばかりで、一度この人に球を奪はれると、何人居ってもぬかれてしまって、結局一人でゴールにはこびこむ様なうまさを持ってゐたのであった。又何処にそんな力があるのかと不思議に思はれる程キックの強い且つ正確な人であった。この人は大抵フォアワードのセンター若くはウイングとして活躍されたのであるが、この人も亦特に目についたものと見え、横濱の外人達も之を賞賛しておかなかった。

 その他フォアワードの名手としては現に釜山の高等女学校長をしてゐる落合秀保氏があり、又ハーフセンターの名手としては、現に香川県の大川高等女学校長をしてゐる重藤省一氏があり、何れも水ぎはだったプレーをしたものであった。その他理学博士となって間もなく死んでしまった小島鉄蔵氏又女子会館主事をして居られる柳川石次郎氏、奈良県郡山中学校長をして居られる唐工齋治氏等があって、いづれも夫々のポジションにおいて傑出した技能を有してゐたのであった。

 この間にあって自分はハーフのレフト、若くはフォワーのレフトウイングをつとめてゐたのであるが、僕の持論としては、レフトのものは是非とも左足で蹴ることに専念しなければならないといふのであって、その結果、自分の左足は右足よりも発達してしまって、靴をあつらへる場合、普通の人は大抵右足を少し大きくするさうであるが、自分のは左足を少し大きくせねばいけない様になってしまった。そして右足では思ふ様に正確に蹴れない球も、左足ならば正確に且つ力強く蹴れる様になってしまった。

 その頃になると、仕合に関する研究はやうやく盛んになって来て、前の様にただ高く蹴ればよいとか、遠く蹴ればよいとかいふ様なことは、殆ど価値がないといふことを自覚し、ドリブル若しくはコンビネーションに重きをおく様になって来た。そして当時は専ら有力なものをフォーワワードとフルバックとに置いて、ハーフバックは比較的弱いものをもって当てたのであったが、これについては自分はハーフを半ば専門にして居った関係上、その誤まれる陣法であることを悟って、非常な論議を重ねた後、ハーフ殊にそのセンターには、最も強い選手をおかなければならないといふ風に改めさせたのであった。このことは今日から考へれば、誠につまらない馬鹿げた問題の様であるけれども、当時のフットボールとしては、そんなことまで気づかずに居り、そのやり方を変化させる為には、かなりの論議を費やさねばならないやうな次第であった。

 然しながら、我々選手時代は所謂勃興の気運の最も盛んになった時であった為に、その練習の如きは、非常に真剣に且つ研究的にやったものであり、互に意見を交換して、改革進歩に努力奮闘したのであった。一例を挙げるなら、冬季の如きは大抵六時頃に、おき出して部員一同運動場に出て、まだ人かげもない薄暗い時分から練習をはじめ、朝食までビッショリ汗をかく程やって引上げて来たものである。又時々部会等を催して、各自の拾得した意見を発表し、討論をひらいたものである。しかしてその結果、明治四十一年には、遂に蹴球部からして「フットボール」という一書を公にするまでにこぎつけたのであった。

 その頃になると、大分あちこちにフットボール部を設ける学校が出来、従って仕合等もかなり広く行れる様になった。それらの事情はこの次の号にかかげる。

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